カール・グスタフ・ユング 『アイオーン』 part1 キリストの影

カール・グスタフ・ユング (1875 - 1961)

カール・グスタフ・ユング
(1875 – 1961)

グリム童話にこんな話があるのをご存じだろうか?「小さな子供たちが、お父さんが豚を屠殺(つぶす)ところを見ていた。戯れに一人がもう一人に『おまえ、豚におなり。ぼくは、豚をつぶす人になる』といって抜身のナイフで弟の喉をぐさりと突く。赤ちゃんを湯船につけていたお母さんは、弟のけたたましい声を聴いて、階下に降りるやその子の喉からナイフを引き抜くと、もう一人の子の心臓に腹立ちまぎれにナイフを突き刺した。湯船の赤ちゃんはおぼれ死に、それを悔いた母親は首をくくって死に、夫はその出来事以来ふさぎこんで間もなく亡くなった」。『子供たちが屠殺ごっこをした話』という童話である。一家全滅の話、これは童話なのだろうか。最近のグリム童話集にはこんな話は削除されているのだろうけれど、まぎれもないグリム童話なのである。

今回紹介するの『アイオーン』という本は、「キリスト教の時代」とそのシンボルについて心理学的な観点から書かれている。スイスの心理学者、カール・グスタフ・ユング(1875- 1961)の代表的な著作の一つである。共著者であるフランツの「ぺルぺㇳゥアの殉教」については今回は触れないのご了承願いたい。心理学の浸透にともなって「人間の意識」は意識と無意識に分けられるということは常識となっている。無意識には、意識に侵入してくるものと、けっして意識にのぼらないものとがある。前者は個人的な内容を持ち、後者は非個人的=集合的な内容を持つ。前者と後者の関係は、ちょうど個人に顕在化する本能が普遍的な本能基盤の部分的な一現象を意味するにすぎないのと同じであるとユングはいう。自我は人格に関与してはいるが、人格全体ではありえない。自我にはその認識の及ばない領域が存在するからである。

『グリム童話集』 1

『グリム童話集』 1

ユング心理学では集合的無意識の内容は先験的、恒常的に存在し、元型と呼ばれる。それは心の奥底にある計り知れない広大な岩盤の中からマグマのように人類の普遍的な心像(イメージ)や観念を押し出す動因である。時代と文化を超えた神話・物語・文芸・儀礼に、あるいは、個々人の夢や幻覚・幻想のなかにそれらは刻印される。元型には、影、アニマ、アニムス、トリックスター、太母、老賢者、自己などがある。

自我に影響を及ぼす元型には影、アニマ、アニムスがあり、自我を妨げる性格を持つ。影は個人の人格の暗い面である。少なからず道徳的な判断力がなければ影を認めるのは長期間の困難な作業になるようである。分別と善意があれば、影はある程度まで意識的な個人に組み込まれるが、道徳的規制に頑なに抵抗し、いかなる干渉をも受け付けない諸特性が存在するという。このような抵抗は「投影」と結びついている。情緒とは個人の行う行動ではなく、その人にふりかかる出来事である。「投影」の場合、この情緒の原因が他者のほうにあるらしい。これを当の主体が認める望みはまずなく、もし、それが可能なら、けたはずれの道徳的偉業であるとユングは書いている。投影はその人の無意識が行う。人は投影をこしらえるのではなく、すでにある投影を見いだすのだと言う。投影はその人を外界から遮断し現実の関係ではなく錯覚にもとづいた関係しかこしらえない。その人は自体愛的で自閉的な実現不可能な世界に生きることになるのである。世間と自分とを覆い隠す錯覚を紡いでいるのは無意識の動因であり、意識はだんだんと遠ざかっていく不実な世界を嘆いたり呪ったりしているのである。

カール・グスタフ・ユング マリー=ルイズ・フォン・フランツ 『アイオーン』

カール・グスタフ・ユング
マリー=ルイズ・フォン・フランツ
『アイオーン』

この投影は、影のように本人自身のマイナスの側面に属しているのではなく、その源泉として顔を出すのは異性である。それが、女性ではアニムス、男性ではアニマである。影は神話にはお馴染みのモティーフであり、個人的な無意識をあらわしている。ある程度の自己批判力があれば、人は影を見抜けるが、元型として現われるアニマ・アニムスのような場合極めて深刻な困難にぶつかるという。それは自分の本性の絶対的悪を直視するという衝撃的な体験であるというのである。

息子にとって投影を形づくる最初の担い手は母親である。息子のエロスは自分が保護され養われる母親の勢力圏を求めている。この母親イマーゴは心配事の何一つない乳児の世界を錯覚させ、外界の方が本人のところに足を運んでくれ、幸福を押し付けてさえくれるのである。本人にとって外界が消えてしまっても何の不思議もない。母親イマーゴは男性の一部であり、そろいもそろって幻滅に終わる冒険、努力、犠牲に対する補償であり、人生のあらゆる辛苦に対する慰め手である。それは幻影の人生へといざなう誘惑者であり、娘や姉妹や恋人、女神として年齢を超越したイメージとして存在するのである。ファム・ファタール‥‥

アニマが男性的なエロスに照応するようにアニムスは女性的なロゴスに対応する。娘にとって最初の投影を形成する動因は父親である。女性のロゴスは家族や友達の中で誤解をひきおこしたり、はた迷惑を生む原因となる。女性のロゴスは熟慮考察から成り立っているのではなく、個人的意見の寄せ集めだとユングは言う。この個人的意見とは絶対に自分が正しいという先験的思い込みである。それは他人をいらいらさせる。昔からの個人的な意見の総和としての「父親」が、女性の議論については大きな役割を演じる。女性がアニムスにのりうつられたが最後、女性自身はいかなる地上の議論をもってしてもびくともしない。そういう時、相手をする男性は、自分が戦場を立ち退いて、あとを別の女性なり、妻なりに託せばあっさりと方がついてしまうことを知らないと言う。ふーん、そうだったのか‥‥

しかし、アニマもアニムスも肯定的な側面を持っている。いずれも霊魂案内役になりうるのであり、意識と無意識の仲介役となる。『ファウスト』におけるメフィストフェレスだろうか。いかつそうな悪魔だったが‥‥ アニマはそれによって男性の意識に人との関係の折り合いや円滑さを与え、アニムスは女性の意識に思考性、熟慮、認識を与えるようである。アニマ・アニムスは時に自発的に夢などに登場する時がある。決してありえないというような思考や感情や情動がわれわれの中に生きているのを知ることになるのである。‥‥シュルレアリスムの世界。しかし、たいていそのような心理的体験を持つには神経症という形での前払いが必要だという。

ウジェーヌ・ドラクロワ(1789-1863) 『空飛ぶメフィストフェレス』 ファウストより

ウジェーヌ・ドラクロワ(1789-1863)
『空飛ぶメフィストフェレス』
「ファウスト」より

アニマ・アニムスの両元型は、時に悲劇的な結果を招来する宿命をもたらす。一切の収拾のつかない運命のもつれを生み出すところの、文字通り父であり母であるという。昔から知れ渡っている対立的一対(シジギー)の神々であり、男性的神は「ロゴス」的性質を持ち、霊気(プーネマ)と理性(ヌース)が特色で、いわば変幻極まりないヘルメスのごとき存在であり、女性的神はその「エロス」的性質のおかげで、アフロディーテ、ヘレネ、ペルセフォネ、ヘカテらの特徴を持っている。両者とも無意識的力であり、まさに神々なのである。ユングはそれらが神々と呼ばれることによって、両元型が心理学的序列の中央の位置へ押し出されたことになり、意識がその価値を認めるか認めないかに関わらず、君臨してきたと書いている。

精神分析の第一段階は、影の統合であり、個人的無意識を意識化することである。ついで、アニマ・ア二ムスとの投影が認められると男性の場合は、主体の男性、相手の女性、超越的なアニマという三者一組が成立する。女性の場合は、この逆となる。この三者一組が全体性となるためには第四の要素が必要であるという。男性の場合が老賢者、女性の場合は冥府の母である。これらがそろった時、ユングが名づけた結婚の四一性という元型があらわれる。そして一なるものの童児神が生まれ出るという。

精神病理学は、無意識が意識に対してどんなことをするか充分承知の上で無意識に対して素人には不可解に思われるほど注意を払うそうである。昼間は小さなものが夜には巨大なものになるし、逆の場合も当然ありうる。そういうことが分かっているということが、どんな統合の場合にでも不可欠であるという。ある一つの内容が統合されうるのは、その内容の持つ二重の側面が意識化された場合に限られる。知性と感情のような対立物の結合は「全体性」にとって不可欠の前提条件である。この「全体性」は心の中に自発的ないし自律的な諸象徴という形で先取りされるという。それがマンダラなどの諸象徴である。無意識は、ある状況下においては自発的に全体性という一つの元型的シンボルを生み出すというのである。シンボルの両義性については、で触れておいた。心理学でいう自己(セルブスト)とは、あらゆる究極の表象群の形相であり、全にして一なるものである。

自己という元型はキリストというシンボルを持つ。西欧においてはこのシンボルを無視することは不可能である。自己の元型が優勢であると、心理的葛藤状態に陥る。それは、十字架上の磔刑であり、救済解放のない切迫した状態である。「人間には自分というものがいかに堪えがたいか」、それを知るものは完全者に限られるとユングはいう。全体性や完全性の認知、すなわち「個性化」は生来われわれに課せられている義務であるといえるのではないか。それが意識的、意図的になされるなら、人は個性化が抑圧された結果現われる一切の現象を回避できるという。深い立坑へ降りてゆくなら後ろ向きに不意に落ちるより、用心しながら降りていく方が賢明である。ユングが錬金術やグノーシスなどの古い諸象徴=イメージにこだわるのはこうした理由からである。それらを読み解くことは深みに降りていくための装備なのである。

カール・グスタフ・ユング 『赤の書』

カール・グスタフ・ユング
『赤の書』

ユングの著作である「赤の書」が、2010年に刊行された。1914年から1930年にかけての16年余りの期間にわたって、私的な日記として手書きで緻密に書き綴り、彩色したものである。半世紀以上スイスの銀行に眠っていた。第一の書、第二の書、そして試練という三部構成になっている。読んでみたが、これには、かなり興奮した。日記というより危機的な内面世界の体験を物語風に綴った中世の聖書写本のような体裁のドキュメントと考えたほうがいい。

第一の書は、超意味からはじまる。1913年10月の「大波が黄色く泡立ち、瓦礫と無数の死体」から始まる一連のヴィジョンによって、自分が今まで真の魂を失っていたことにユングは気付かされる。それから始まるイメージの流れは、ユングを狂気の淵にまで追い込むほど危険なものだった。‥‥立坑に不意に落ちたらしい‥‥ 内面でのヴィジョンは引き続き、彼はその時代の要求するものすべてを顕現する望ましい精神、つまり美しい英雄を内的に暗殺することによって隠されていた「深みの精神」を発見する。それによって、魂の扉は開かれ、秩序と意味にカオスの暗い流れがもたらされる。秩序づけられたものとカオスとが結婚し、神のような子、意味とナンセンスの彼岸にある超意味が生み出されるのである。

ユングは、カオスについて次のような非常に美しい文章を残している。『カオスの渦の淵に、永遠の奇跡は住まっている。あなたの世界は、奇跡的になりはじめる。人間は、秩序だった世界にしか属していないのではなく。自分の奇跡の世界に属している。それゆえあなたたちは自分たちの秩序だった世界に恐怖を呼び覚まして、あまりにも外の世界にありすぎることが不快になるようにせねばならないのである。(『赤の書』/森の中の城)

あるいは、『あなたが、あらゆる壁のこの上なく日常的なものを突破するならば、圧倒するような流れとなってカオスが流れ込んでくる。カオスは、単純なものではなく、無限に多面的なものである。カオスには、形態がないのではない。仮にそうであったら簡単であろうが、そうではなく、充溢しているだけに混乱を招く上に、抗し難い様々な像に満ちている。これらの像は、死者たちであるが、単にあなたの死者、つまりあなたの進んでいく生の背後に残したあなたの過去の姿のありとあらゆるイメージだけでなく、人類の歴史における死者たちの集団であり、過去の霊たちの行列であって、その群れはあなた自身の寿命がひと滴であるのに比べれば、大海のようである。(『赤の書』/第二夜)

『ポリフィオの夢』 扉絵 混沌に始まり不死鳥の誕生に終わる過程の象徴的図像 ドゥ・ヴェルヴィル編 1600年

『ポリフィオの夢』
扉絵
混沌に始まり不死鳥の誕生に終わる過程の象徴的図像
ドゥ・ヴェルヴィル編 1600年

カオスは、当然ながら秩序の世界の対極にあり、津波のような圧倒的な充溢、限りないもの、神的狂気であること、それらは、個々人の死ではなく一般的な死と結びついていること、イメージに満ち満ちており、過去のそれのいわば乱流のような様相を呈している。‥‥はるか遠い人類の過去と結ばれるのだろう‥‥このカオスと心の秩序との葛藤の中から思いもかけない神の子が生まれる。ユングを母として、その胎内から漏れ出てしまったのである。神の子は、醜く―美しい、悪しき―善きもの、ばかばかしく―真剣なもの、病気であり―健康なもの、非人間的―人間的なもの、非精神的―精神的なもの、非神的―神的なもの、そのような両義的な存在なのである。これが、一なるものの童児神であろう。しかし、その後産から立ち現われたのは恐ろしく異様な姿をした、地獄における神の兄弟だった。そして、密儀という門を通ってユングのいう個性化が始まるのである。

ユングはどうやら対立物の結合に成功したのかもしれない。この『赤の書』は、そのドキュメントであったらしいのである。光には影という対立物が必要なのである。この影がないと明るい形姿は体を失い、それとともに人間であることも失ってしまうとユングは書いている。光と影は自己において逆説的な一体性をなしている。これに対してキリスト教では統一することのできない二つの部分に絶望的に分裂してしまっているというのである。

キリストこそは西欧文化のまだ生きた神話にほかならないとユングは強調する。キリスト教的マンダラの中心を占めるのはキリストであり、我々はキリストの中にあり、キリストは我々の中にある。‥‥このあたりは日本人で、おまけにキリスト教徒でない者には分かりにくい感情であるのだが‥‥アウグスティヌスは、神の像は人間の理性的魂の内に在ると言った。人間の中にある神の像は堕罪によって破壊されたわけではなく損傷を蒙って堕落せしめられただけである。キリストによる救済は心理学的には集合的無意識の統合に等しいという。キリストの花嫁は人間の魂であり、人間の魂は「内面に隠された霊的な秘儀の中でロゴスに結びついており、魂とロゴスの二つは一つの肉の中にとどまるのである」。この聖なる結婚が教会の教義と典礼のなかに存続していることを別にすれば、聖なる結婚のシンボルは、中世の間に発展して錬金術における対立物の結合、つまり化学の結婚になったのである。ユングの強調するところである。それは、パラケルススやアンドレーエの世界である。種村季弘(たねむら すえひろ)さん亡き後、こんな世界をちゃんと翻訳してくださる方は現れるのだろうか‥‥

ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエ 『化学の結婚』

ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエ
『化学の結婚』

自発的に生じる自己(ゼルプスト)のシンボルは神の像と実際区別がつけがたいようである。マンダラのような全体性の元型は常に存在している。回心によって照明を受けた意識が、キリストの中にその全体性の元型を再び発見するのである。この心と体の合体する以前の心が見た真実の想起、つまり「生前時想起」が、様々な衝動が勝手気ままな方向に向かおうとするために起こる人格分裂を架橋統合してくれるという。このキリストに具現化された神の似姿は一切を包括する「全体性」を意味しており、この全体性の中には畜獣としての動物的側面さえ含まれているとユングは指摘する。ここに悪の問題が登場するのである。

正統派の教父たちは、悪という存在を単なる善の低下とみており、悪の実体はその中から取り除かれてしまっているとユングは抗議している。善と悪はその本源を同じくするもであるのに教会はそれらを完全に分離してしまった。紀元2世紀から3世紀頃、アレキサンドリアなどを中心とした地中海地方で発展した秘教的知識を「グノーシス」と呼ぶ。自己の本質と真の神についての認識に到達しようとする思想である。新プラトン主義やヘルメス学にも関係するこの思想は、善悪二元論の立場をとり、現在の宇宙は悪であるとする。ついでに言うと、グノーシスの神話では、原初の世界は、光の至高神の完全性を表す充溢(プレロマ)であったが、高次の神性(アイオーン)のひとつであるソフィア(知恵)は、二重の四要素=八なるものの世界を生み、デミウルゴス(造物主)と呼ばれる虚栄心の強い、無知で無能な神を生んだ。我々の生きているこの世界はデミウルゴスの作った狂った世界であるとされている。

ソフィアや悪の問題はヤコブ・ベーメが取り組んだ問題なのだが、ベーメについてはで少し触れておいたのでお読みくださればと思う。西暦150年頃書かれたグノーシス=キリスト教文書の選集である『クレメンス説教集』には、善と悪を神の左右の両手と解して、天地創造そのものも様々な対立的一対から成り立っているとしている。「神は二つの王国を定めたまい、二つの世界を築きたもうた。神は現在の宇宙の方を悪に委ねことに決意したもうた。この宇宙は小さく、間もなく過ぎ去ってしまうからである。善に対しては、神は未来の世界をとっておくことを約束された。未来の世界のほうは大きく、永遠だからである」。神は左手で殺し、右手で救うというわけである。ローマのクレメンスはエビオン派などの思想の流れをくむユダヤ的キリスト教の原始教会と密接な関係があったと言われている。その思想においては神には二人の息子がいた。兄がサタン、弟がキリストとされていたようである。

ウィリアム・ブレイク 『アダムとイヴの愛撫を見るサタン』 1808

ウィリアム・ブレイク (1757-1827)
『アダムとエヴァの愛撫を見るサタン』 1808

さきほどの『赤の書』に登場する地獄における神の兄弟とは、そのような息子を指しているのだろう。キリストという伝統的な形姿に照応する心理的あらわれが自己である。自己(ゼルプスト)とは、あらゆる究極の表象群の形相であり、全にして一なるものであった。対立物の結合は「全体性」にとって不可欠である。だとすれば、神に悪の息子があるように、自己の影は反キリストに相当するであろう。グノーシス派はキリストの影を認めるのである。これはキリスト教の教義への批判ではなく心理学的法則であることをユングは強調する。

世界は二元性の開示である。光が開示されれば、そこに影や闇が存在する。生があれば死があり。善があれば悪がある。ごろつき聖者と呼ばれたグルジェフ(1877-1949)は、『ベルゼバブの孫への話』の中で、いみじくも「どんな棒にもかならず二つの端がある」と言った。ついでこう書いている。「すべての棒は二つの両端を持っていて、一端は善、一端は悪と考えられています、‥‥もし私が特権を行使して棒の良い方の端を握れば、悪い方は必ずや<読者の頭の上に>落ちることになるのです」。また、イギリスの画家・詩人であったウィリアム・ブレイクもその著書『天国と地獄の結婚』の中で対立物の一致の必要性をプロパガンダした。一元性は底なしの深みを手探りするようなものである。この底なしの深みに達するには二元性の統合が不可欠なのである。その統合のプロセスをユングは、グノーシスや錬金術の記述の中に発見したのであった。そこでは、象徴そのものが自己分裂や相互融合をくりかえしている。次回part2では、キリストの象徴である魚と蛇をテーマにこの錬金術の世界に迫ってみたい。‥‥が、かなり心もとない‥‥挫折したら御免なさい。

錬金術や宗教的なものを含む伝統的な知識のおかげで、無意識の一内容たる自己(ゼルプスト)は意識化され、意識の中に定着される。それらを統覚する諸概念が欠如しているために、意識の舞台に取り上げられないある種の内容が無意識の中に置き去りにされることによって、多くの神経障害が引き起こされる原因になっていると考えられる。民話や神話、宗教概念は、役に立つシンボル群であり、それらのおかげで無意識内容が意識の世界にもたらされ、そこで解釈されたり統合されたりするからである。幼児にそれらを聞かせることは、無意識的諸事象に再び生命を与えることになり、その命を蘇らせる。‥‥小さな子には民話や昔話を読んであげることだ、ゲーテの母親のように‥‥あるいは成人に宗教的な諸概念を伝えることはこの上なく重要であるとユングは言う。そうすることによって意識と無意識は再び結合されるのである。この手続きを踏まなければ、無意識的内容の相当のエネルギーがほとんど感情の色合いを帯びていない意識内容へと流出し、意識内容の持つエネルギーを病的な度合いにまで高めてしまい、結果として一見理由の分からない恐怖症や強迫観念、異常感受性、もろもろの知的倒錯行為などの元凶になるという。ユングを神話や民話、宗教的素材や錬金術の研究に向かわせたのにはこのような理由があったのである。

さて、最初にご紹介したグリム童話であるが、同じタイトルで別のヴァリエ―ションがあるので、それをご紹介してこのpart1を終りたい。「‥‥やがて、子供たちは役割を決めて、一人の男の子に、おまえは牛や豚をつぶす人だよと言い、もう一人の男の子には、おまえはお料理番だよと言い、またもう一人の男の子には、お前は豚だよと言いました。それから、女の子にも役をこしらえて、一人は女のお料理番になり、もう一人はお料理番の下働きの女になることにしました。この下働きの女は、腸詰をこしらえる用意として豚の血を小さい容器に受ける役目なのです。役割がすっかり決まると、豚をつぶす人は、豚になるはずの男の子につかみかかって、ねじたおし、小刀でその子の喉を切りひらき、それから、お料理番の下働きの女は、じぶんの小さないれもので、その血を受けました。そこへ、市(まち)の議員がはからずとおりかかって、このむごたらしい様子が目にはいったので、すぐさまその豚をつぶす人をひったてて市長さんの家へつれて行きました。‥‥さて、男の子をどう処置したものか見当がつきません。これが、ほんのこどもごころでやったことは、わかりきっていたからです。‥‥議員さんの中に賢い老人が一人あって、片手にみごとな赤いリンゴを、片手に一グルデン銀貨をつかんで同時に子供のほうへ突出してみせるがよい。子供がリンゴを取れば無罪にしてやるし、銀貨をとったら死刑にするがよいと、うまい知恵を出しました。そのとおりにすることになりました。すると子供は、笑いながらリンゴをつかみました。それで、子どもは、なんの罰もうけないですみました。」

ロバート・フラッド ”Pulsus Seu Nova Et Arcanna Pulsuum Historia,Frankfurt,1680 「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よこれらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」 エゼキエル書第37章9節

ロバート・フラッド
”Pulsus Seu Nova Et Arcanna Pulsuum Historia,Frankfurt,1680
「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よこれらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」
エゼキエル書第37章9節