「習合」という名の結合術 

山本ひろ子 『異神』 挿絵は摩訶迦羅天(三面暴悪な大黒天である)

山本ひろ子
『異神』
挿絵は摩訶迦羅天(三面暴悪な大黒天である)

牛頭天王(ごずてんのう)は、須彌山の豊饒国のとうむ王とさいたん国のあるじ女との間に生まれた王子で、丈九尺二分、赤い七本の角を頭に生やし、左手に瑠璃壺を持ち右の手には「百しゅの三字(薬師の三界印?)」を持つ。父に龍宮の「ちさんが池」を見たいというと、たちまち「悪風」となって龍宮へと渡った。龍宮城でサーガラ王に一夜の宿を願うと、竜王はここは浄土で仏の棲みかゆえ薬師なら逗留させようという。それで天王は瑠璃壺を示して薬師であることを明かした。竜王の娘の「びばか女」に心を寄せた牛頭天王は七年間逗留するうちに七人の王子を得た。ある時、日本に渡ることにした天王は桑の舟に乗って出かけるが、毒蛇が舟めがけて泳いでくる。毒蛇に航海の目的を語ってやると自分はあなたの子供で一人捨て置かれたので後を追って来たという。疑心暗鬼となった后だが、毒蛇はこう語る。七人の王子を出産した「後の物」を龍宮の池に沈めた。その「根源」が毒蛇になったのだと。后は子供たちに両乳を含ませると七人の王子の口にも毒蛇の口にも甘露の味がして不老不死の薬となった。本地を現しなさいと后が言うと、毒蛇は一尺四寸の十一面観音となって現われた。八番目の子は八王子とも「宅相神王」とも呼ばれる。こうして牛頭天王は子供八人を連れて日本に渡った。「牛頭天王島渡り」祭文の要約である。

この間、を書いている時、山本ひろ子さんのこの本『異神』を久しぶりで読み直したのだが、これは面白い。といっても読み返すまで何が書かれてあったのかほとんど忘れていた。いや、勿体ないことをしていた。 この「翁」には、摩多羅神(またらじん)や双身歓喜天や毘那夜迦(びなやか)という鬼や秦河勝(はたのかわかつ)が化した荒神(こうじん)など異貌の神々が重なり合う。この百花繚乱は一体何なのだろうと思ったのである。それは「習合」というシステムに原因しているのではなかろうかと、ふと思った。神々と仏たちが集いあい、そこから新たな神格と呼ぶべきものが立ち上がってくる。「習合」とは面白いかもしれないと思い始めたのだ。それが今回の文章を書くトリガーとなった。

最澄が比叡山に延暦寺を創建する以前、そこには既に「ひえの神」が鎮座しており、「すみのえしゃ」が「住吉社」になったように後に「日吉社/ひよししゃ」と呼ばれるようになった。「山王」も日吉社の別名だけれど、これは神仏習合の時の名で、こういう時には「山王権現」と呼ばれるようである。「権現」とは権(かり)に現(あらわ)れた神という意味らしい。日本の神様は奈良時代あたりから仏教との習合を強くしはじめたと言われる。菩薩号を受け仏教の中に取り込まれていったのである。「八幡大菩薩」などは有名である。菩薩というからには、如来を目指す修行者の身であるとともにインドの神である仏像の「天部」と同じ護法の神でもあった。その「山王権現」の名前の由来は、中国の天台山国清寺で祀られていた地主神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」に由来する。これはまさに天台由来のネーミングなのである。『神仏います近江』展カタログにはとても分かり易い解説がついている。寺島典人さんの文章である。

『神仏います近江』展カタログ 神仏います近江展実行委員会編 Miho Museum 他               

『神仏います近江』展カタログ
神仏います近江展実行委員会編 Miho Museum
滋賀県立近代美術館 大津市歴史博物館

この続きはこのようになっている。例えば「日吉山王曼荼羅」は、比叡山にましますホトケとカミを混然一体として天台の論理で描いている。仏教との出会いによって最も変化したのは神のあらわし方であった。インドの仏様が変身して「ヒエノカミ」になったのだからホトケの姿で表すのが直接的である。本来の仏の姿であるので「本地仏(ほんじぶつ)」と呼ばれる。逆にホトケの姿を神像の姿に表す場合もあり、こういう時には「垂迹神(すいじゃくしん)」と呼ばれる。本来のホトケが我々衆生を救うために「迹(あと)を垂(た)れる」という意味である。

この日吉神社は、『古事記』に「大山咋神(おおやまくいのかみ)、またの名を山末之大主神、近淡海国(ちかつあうみのくに)の日枝(ひえ)の山に坐し」とある。全国山王信仰のメッカで広大な神域には多くの神祠があるが、大きく二つに分けることができる。大山咋神・地主神を中心とする西本宮系と近江京遷都の際、鎮護のため大神(おおみわ)神社の神が勧請された三輪明神・大己貴神の東本宮系との二つである。

先ほどの「牛頭天王」に戻ろう。後産の胎盤である「胞衣(えな)」と経血である「月水」とから第八王子は生まれた。実際に祇園大明神(八坂神社)には、西の間には稲田姫の垂迹である波利女、中の間は祇園牛頭天王、東の間は沙竭羅龍王の娘である毒蛇気神となっている。この胞衣の女神である毒蛇気神は、牛頭天王を凌駕するほど恐ろしい霊格だったと山本さんは書いている。そして、八王子は各々一つずつの疫病を箱に入れて黄色い八匹の牛にひかせ、伊勢にいる牛頭天王と后に会うために出かけたというからたまらない。まさに疫病神である。天王は「時の引出物」を与えて一々本地へ送り返すのである。病人の側からすれば疫病からの解放=本復である。身体=共同体からの払いであろう。牛頭天王は早くから本地は薬師仏とみなされ「病即消滅之薬王」とされた。衆生の悪心を知り、病苦を与えて折伏の慈悲を施すという。疫病の夢を覚まして本地へ還すのが役割なのである。おろそかにすれば祟りのある恐るべき障礙の神であると同時に病から人々を救う、頼り甲斐のある神なのである。

祇園社、今日の八坂神社は、社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。渡来の民が祀った神であった。創建については諸説あるが、山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとされる。牛頭天王の名は新羅の牛頭山に由来するのだという。延暦寺の支配を受けていたことから、神社であると同時に寺とみなされていたらしい。神仏習合の色あいが濃く、平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けたとある。

津島の牛頭天王縁起には、天王は北天竺に続いて祇園精舎に現われ、彼の地の鎮守と示現した。続いて中国に渡り神農皇帝として現われ人々に耕作を教え毒と薬を見分けて医薬を作ったが、何よりも牛頭であった。つまり角が生えていたのである。欽明天皇元年に本朝へと(対馬から木曽川沿いの津島に)渡ってきたとされる。他所からやって来る今来(いまき)の神であった。ところが他の縁起には、いにしえ、天照太神が「天の浮橋」の上から「天の逆鉾」で大海原を探ると、老翁が一人「葦の葉」に乗って浮びあがって来た。「私はこの国の地主で、本地は薬師であるとつげる。」伊弉諾・伊弉冊神話が書き換えられているのである。天照太神はここでは今来の神であり、牛頭天王は古くからの地主神という設定さえ付け加えているのである。ちなみに津島天王祭は「御葦流し」のお祭りである。束ねられた葦の数は「属神」の数と同じで八万六千、人間の毛孔の数だけあるとされた。しかし、八万六千の疫病神が毛穴から侵入するイメージは生理的な嫌悪感をいだかせずにはおかない。これは怖い!

宇賀弁財天 室町時代 宝厳寺 (長浜) 頭部の鳥居の中の顔に注目していただきたい。

宇賀弁財天
室町時代
宝厳寺 (長浜)
頭部の鳥居の中の顔に注目していただきたい。

ここで、ハタと思ったのであるが、この『異神』という本に登場する四座の異貌の神々には、ある共通する要素が影のように付き纏っている。第一章の新羅明神は唐からの帰朝の船上で智証大師に老翁の姿で現れた神として、第二章摩多羅神では、摩多羅神=翁=荒神=秦河勝として登場する。第三章の宇賀神では宇賀弁財天の頭部の宝冠・鳥居の中に住まう老翁相の白蛇神として、第四章では葦の舟に乗る牛頭天王の化身としての地主神=老翁として登場するのである。

それらは、翁の化身であること。もう一つは異国の神としての出自を臭わせていることである。新羅明神は新羅の神であり、摩多羅神はやはり帰朝中の僧に示現する神で、一体とされた荒神は後で述べるけれど朝鮮半島からの渡来人か、その子孫に関わるらしい。宇賀神は僕には最も魅力的なのだが、宇賀神=十禅師=胞衣荒神=弁財天とされていて荒神と関わっている。牛頭天王は中国の神農と同体で、蛇神の子供までいる。おまけに八王子は荒神と習合されているのだ。なんというネットワークであろうか。

ここでちょっと寄り道したい。寄り道は楽しい。子供心があればだが、それだから不良老人になりきれないのだ。何処へ行くかというと秦氏が日本に来た頃にである。この中世の頃より、かなり昔のはなしである。上田正昭さんの『渡来の古代史』からプロットしてみたい。

時は、5世紀初頭かその前後の頃のこと、朝鮮半島の南部からかなり大量の渡来者が日本の地にやって来た。『古事記』には応神天皇の条に秦氏の祖と、漢直(あやのあたい)の祖らが「参渡り来つ」と簡潔に書かれている。『日本書紀』には同じく応神天皇十四年の条に秦氏の祖とする「弓月君(ゆみづきのきみ)百済より来帰」とある。また、平安時代の古代氏族名鑑である『新撰姓氏録』には「太秦公宿禰(うずまさのきみのすくね)の系譜には融通王(弓月君)が応神天皇十四年に百二十七県を率いて帰化」と記載されている。山城国諸藩の秦忌寸(はたのいみき)の系譜に「太秦公宿禰と同祖、秦始皇帝の後なり、効智王、弓月王、誉田(応神)天皇十四年に来朝‥‥帰化」と書かれ、右京諸藩の秦忌寸の系譜には「太秦公宿禰と同祖、効満王三世の孫秦公酒(はたのきみさけ)の後なり」とある。そして、再び『日本書紀』では、推古天皇十一年の記事に、秦造として秦河勝(はたのかわかつ)の名がみえる。造(みやつこ)は、地方を治める官職の位である。それは、七世紀の初頭の頃のことであった。こうしてみると猿楽の祖・秦河勝が秦始皇帝の末裔と称したのも故ないわけではないのである。しかし、この人が荒神であるといったらを読んでいない人はびっくりするだろう。

上田正昭 『渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か』

上田正昭
『渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か』

話はそれで終わらない。この秦氏は伊奈利社の創建に関わっているらしい。伊奈利は稲荷の古名である。秦公伊侶巨(具)(はたのきみいろこ)が稲梁(穀物)で富み栄え、餅を的にしたところ白鳥となって飛び、山の頂にとどまって稲が生えた。そこを社の名、伊奈利とした。『山城国風土記』にみえるこの一説は、すでに伏見の伊奈利(稲荷山)信仰があったことを窺わせる。八世紀よりも前であることは確かなようだ。享保・天文年間(1528‐1555)には秦氏の末裔であると思われる稲荷の祀官・秦長種(はたのながたね)が「稲荷山旧跡図」を描いている。ちなみにこの神社のすぐ近くに荒神峰という場所がある。

六世紀後半には、伏見深草の秦氏が現在の嵯峨野・嵐山あたりの葛野(かどの)に進出しており、そのゆかりの寺社が秦都理(はたのとり)の創建した松尾大社と秦河勝ゆかりの広隆寺(蜂岡寺)である。この河勝は聖徳太子の有力なブレーンの一人で法隆寺(斑鳩寺)の創建にも関わっている。この斑鳩の里は、西に河内に通ずる竜田越えがあり大和川に通じる交通の要所だった。大和川の河口は難波津であり、その北に住吉大社、さらに北に太子ゆかりの四天王寺がある。ついでに言うと伝承では、秦河勝が大和川の上流である初瀬川を流れていて、たどり着いたのは三輪山の麓であった。

それから、松尾の神にも『古事記』に注目すべき記載があるようだ。「大山咋神(おおやまくいのかみ)、亦の名は山末之大神、この神は近淡海(近江)の国の日枝の山に坐(ま)し、また葛野の松尾に坐して鳴鏑を用(も)つ神ぞ」とある。先に見た日吉大社と同じ神を祀っている。もう一座あり、海神の宗像三女神のなかの市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る。また、このお社は酒造りとも縁が深い。まだある、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)は「任那」へ派遣された帰り壱岐島で月読神の宣託が降った。それはなんと、我が祖(おや)高皇産霊尊(たかひむすひのみこと)は天地(あめつち)を鎔(ひ)いたせし功をおもちであるから我が月神に民をもって祀らせよ言うのである。松尾神社の境外摂社には月読神社がある。これなど天台僧円仁が唐からの帰りに摩多羅神のお告げを聞いたのとパラレルな関係を持っていると言えないだろうか。

秦氏は馬の文化と縁が深く交通・軍事に関わっている。例えば、秦河勝は廃仏派の物部・中臣氏と戦っていて、『聖徳太子伝私記』では大将軍とされている。ただそればかりでなく、農耕や交易にも新しい技術をもって富を集めていたようである。仏教興隆に関係するとともに「葛野大堰」の造営など灌漑治水にも貢献した。彼らの中にはテクノクラートも少なくなかったのだろう。日本の地において、秦氏は他の渡来の民である漢氏や高麗(こま)氏のように点的分布ではなく、面的に九州からから東北まで分布していて、特に九州では多いとされる。例えば豊前の国(大分県)には秦氏のグループが集団で居住していたことが『豊前風土記』に見えている。「鹿春郷(かはるのさと)」の条に「昔者、新羅の国の神、自ら至りて、此の河原に住みき。便即ち鹿春の神と曰ふ」と記載されている。

山本ひろ子 『変成譜 中世神仏習合の世界』

山本ひろ子
『変成譜 中世神仏習合の世界』

上田さんの『渡来の古代史』には、私たちがあまり知らいない渡来の民たちの活躍が描かれている。知らないことの中には貴重な観点が埋もれていると言えないだろうか。

ここで、豊前の鹿春神社に注目してみたい。祭神は『延喜式』神名帖にみえる「辛国息長大姫大目命(からくに おきなが おおひめ おおめのみこと)・忍骨命(おしほねのみこと)・豊比咩命(とよひめのみこと)」であり、香春岳三岳にそれぞれ鎮座していたが、和銅2年(709)、合祀されたという。辛国息長大姫大目命は神功皇后との関係が深いと言われる。ここで指摘したいのは鹿春神社のある鹿春岳(現在の香春岳)は銅の産地であったことである。銅は古代中国の青銅時代にあって国の覇権を決定するほど重要なマテリアルだった()。日本においても鏡や仏像をつくるには欠かせなかったはずだ。鹿春岳から東南にかなり離れるが今度は、宇佐八幡宮の話になる。『太政官符(814)』には厩峰と菱形池の間に、鍛冶翁が金色の鷹となって現われ五人行けば三人を殺し、十人行けば五人を殺したという。それで辛島乙目(からしまおとめ)が祈祷のうえ宮柱を立てて祀って鎮めた。この宇佐八幡のご祭神は八幡大神(誉田別尊 ほんだわけのみこと/応神天皇)、比売大神、神功皇后(息長帯姫命 おきながたらしひめのみこと)である。神功皇后もその子の応神天皇も朝鮮半島には関わりが深い。この宇佐八幡宮の神は、聖武天皇が東大寺の大仏を建立する際、銅の湯を水となして必ず成し奉らんと託宣を下したことで知られ、大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年には、宇佐宮の神とその女禰宜(めねぎ)である大神杜女(おおがのもりめ)が天皇の使用するような紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐったそうである。これが「神輿(みこし)」の始まりとされる。

猿楽の祖と言われる秦河勝(はたのかわかつ)は仏教の推進者であると同時に武人であり、散楽や猿楽を伝えた渡来系の人である。先に見たように秦氏は交通・軍事ばかりでなく、農耕や交易にも新しい技術をもたらしたようである。鉱山師、鍛冶、いわゆる工人たちと渡来系の人々とは浅からぬ関係にありそうだ。菅田正昭さんの『隠れたる日本霊性史』が思い出される。寄り道が過ぎただろうか。

秦河勝 『前賢故実』 江戸時代末-明治時代

秦河勝
『前賢故実』
江戸時代末-明治時代

翁の化身である中世の異貌の神々とは、渡来した人々が信仰した神々の復権を果した姿であったのだろうか。例えば明治期の教派神道(民間神道)では、それまで隠退していた神々が復権を果している。大本教では国常立尊(くにとこたちのみこと)が艮(うしとら)の金神として立ち現れた。だが、私の言いたいのはその方向のことではない。一言でいえば、習合というシステムがどのように起動していったのかということなのである。それを知るには、この『異神』たちは絶好のプロトタイプになるのではないかと思っている。

松尾大社は日吉大社と同じ大山咋神(おおやまくいのかみ)の神を祀っている。日吉大社のある比叡山は、もともと山岳信仰のメッカであった。山伏たちが思い出される。そこに最澄が延暦寺を開創したのである。その時、大地が震動して下方の空中から一人の翁が湧き起った。その姿は堅牢地神のようであったという(「山門相承の大黒」)。密教の地神(堅牢地神)は大黒天である。だから三輪明神とともに遷座された大己貴神、つまり大国主尊は叡山には最も重要な存在だったのである。最澄の父は百済系の三津首百枝(みつのおびとももえ)であり渡来系の人だった。最澄は東大寺で具足戒を受けた後、叡山で12年の修行を積み、遣唐留学僧として入唐している。叡山は、言うまでもなく天台宗の総本山である。この天台宗は仏教の総合大学化を目指していた。最澄は、法華経を根本経典とする顕教(釈迦が一般にわかりやすく説いた教え)とともに、密教(中期密教)・禅(北方禅)・念仏(浄土教)を日本に持ち帰った。中世叡山には密教・顕教・戒律・記録の四部があり、例えば戒家といえば戒律を学ぶことになる。最澄の高弟であった慈覚大師・円仁は顕密一致を説いた。そこから「中道とは天部なり」というテーゼが生まれるのである。

中世の天台的文献では翁は地主神となっている。汎用的イメージになっているのである。このイメージは恐らく天に対抗する道教的な地の象徴でもあったかもしれないが、出自のすでに不明となった渡来の神たちを復権させるためには絶好な象徴になったのではなかったか。山本ひろ子さんによれば、天台本覚思想では、神は蛇体形で垂迹するとされていた。蛇はユングのいう集合的無意識の持つ叡知の象徴であり、天と地を結ぶものであった()。オットーのいうヌミノースな古(いにしえ)の神々の超人的知恵なのである。ヌミノースが実体的存在として感得されれば日本で言う「もの」になる。憑きものの「もの」である。戒家の本尊は大黒天であり、宇賀弁財天の担い手は戒家であった。宇賀弁財天の宝冠の中の翁相の蛇とは、ずばり大黒天だったと山本さんは言う。ここから大黒天と弁財天の共通性が指摘される。翁は本質的には、ここに関わっているのではないだろうか。

歌川国芳 『七福神図』 江戸時代 より 弁財天と大黒天

歌川国芳
『七福神図』 江戸時代 より
弁財天と大黒天

天部はインドの古代の神々だった。彼らはヌミノースな性格を持っている。大黒天も例外ではない。闘争と脱精鬼としての性格を持っているのである。ディープでダークでデーンジャラスな神なのだ。他方で仏教では護法神となり、福神としても知られる。弁財天は、古代インドの河神で、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神などの性格をもつ。『大日経』では、妙音天、美音天と呼ばれた。日本では、宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視されることもある。だが、宇賀弁財天の怖さは半端ではない。この護法神としての性格と闘争・脱精鬼としての両義的な性格を持っていることは、新羅明神や摩多羅神や牛頭天王とておなじである。ここで思い出されるのは中世ヨーロッパの錬金術師たちのことである。彼らはキリスト教以前の古(いにしえ)の神々という、いわば古い酒をキリスト教という新しい革袋に注ぎ入れようと腐心した人々だった()。叡山の僧たちも同じような努力をしていたのではないか。それは中世的な「習合という結合術」に結晶化したのではなかろうか。

勿論、習合は奈良時代からある。何が天台的なのだろうか。「異神」の神々からの託宣や夢告、あるいは影向(ようごう)は契機としてあっただろう。ただ、それらを既存の枠に組み入れ、明文化するためにはある観点が必要だっただろうということなのである。それは神霊と僧侶との間のある種の結合術と言ってよいかもしれない。住吉の翁や塩釜の翁の「何々の」をとって、ただの「翁」とした。いわば、「何々の」翁の総代としての「翁」を設定したのではないか。それは天地(あめつち)を鎔(ひ)いたせし神に通じるような神格にまでになった。そうすれば、ミシャグチ神のような遠い昔のいわれがすでに失われた神々も土地神や産土神として、あるいは単に「翁」として分類出来るからだ。もう一つある。山本さんによれば天台の僧たちが「弁財天修儀」などにおいて「権者」と「実者」というふうに神を分類をしていたことだ。末世の衆生を救うために、仏菩薩が神として現われたのが「権者」であり、「実者」は本地仏を持たない垂迹形のみの存在で、しばしば龍蛇として表現される。仏菩薩の権者よりも弁財天・大黒天などの実者の神は低劣・劣等であるにもかかわらず、この実者こそ中世神祇信仰のダイナミズムを担っていたと山本さんは強調する。実者であるからこそ、それに似つかわしい民間呪術的作法で修されたからである。すみやかな効験、確かな利生は朝廷においても民間においても希求されていた。それは玄旨帰命壇の摩多羅神においても同じであったと山本さんは指摘する(参照)。先にみたように「中道とは天部なり」というテーゼが存在していたのである。天部が重視されていた。これは意外であった。そのテーゼを技術的に可能にしたのが一心三観ではないかと私は思っている。中道の仏果の法門とするのは一心三観(空・仮・中)の中道観による。三千世界一度に開く梅の花。このことは金春禅竹について書く時にでもご紹介しよう。でも、そろそろ絵を描かなくちゃ‥‥寄り道は楽しい‥‥ただ、帰る道はどこ‥‥だったか‥‥な