『天台本覚思想と一心三観』 

となうれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏   一遍

この歌をこの間から思い出そうとして四苦八苦していたのだが、今朝耳の穴を綿棒で掃除していたら思い出した。罰当りなことだが機縁とはこういうものかしら。この歌には心地覚心というお坊さんの謂れがくっついている。一遍上人がこの僧のもとで修行していた時、自らの心境を一首に託した。「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして 」。これを聞いた国師は「未だ徹せざる」と批評した。まだだねと言われたのである。そこで、上人は上記のような歌に改めた。すると、「国師、手巾・薬籠を附属して、印可の信を表したまふとなん」と一遍語録にある。合格したのだ。

この国師とは法燈国師と贈り名された心地覚心という臨済宗の僧である。真言密教を学んだ後、当時山城深草の極楽寺にいた道元から菩薩戒を受けたと法燈円明国師行実年譜にある。入宋し、臨済宗の無門慧開(むもんえかい)を訪ね、その法を嗣ぐ。尺八を愛したとされ普化宗の祖にまつりあげられた人である。

弥陀の名にかすまぬ空の花ちりて こころまどはぬ身とぞなりぬる  一遍

一遍には素敵な歌が多い。僕はこうした歌にとても惹かれる。それは美しいだけでなく道歌としての性格も併せ持っている。そこもいい。徹しているからである。一遍上人語録にも素晴らしい文言が多い。

おや、学生がやってきた。

円伊  『一遍上人絵伝』部分 鎌倉時代  国立東京博物館 念仏聖の祖である空也の遺跡・京都の市屋道場での踊念仏の場面。小屋の中央で鉦をたたいているのが一遍。

円伊  『一遍上人絵伝』部分  鎌倉時代  国立東京博物館
念仏聖の祖である空也の遺跡・京都の市屋道場での踊念仏の場面。小屋の中央で鉦をたたいているのが一遍。

「南無は始覚の機、阿弥陀は本覚の法なり。然れば始本不二の南無阿弥陀仏なり。」  一遍上人語録

師:南無はもとサンスクリット語のnamasu あるいはパーリ語のnamoから来ていて「帰依します」を意味するんだ。阿弥陀仏は無量の寿命の大仏を指す。帰依することから始まる、それが始覚だというんだね。阿弥陀仏は本覚であるとのお示しだ。

学匠:本覚というと先生、あの明治に島地大等というお坊さんが中古天台の思想をその内容で語るなら本覚思想となるとしたあれですよね。

師:そうそう、大等は駒沢大学や東京大学などで教えたけれど天台本覚思想の重要性を説いて回った人だ。宮澤賢治なども大等編訳の「妙法蓮華経」を読んでいるね。江戸元禄期に安楽院派の批判によって中古天台は終わりを告げることになるんだが、大等はそれ以後を近古天台としている。

学匠:宮澤賢治、すてきですよね。でも先生、ホンガクとかシガクとかってどういう意味なんですか。

師:無明によって迷わされていて目覚めていない心の状態を不覚というだろ。不覚を徐々に打ち破って心の本源を悟るのを始覚と呼んでいる。発心修行して、迷いから目覚め、初めて悟りを開くことだ。本覚には経緯が色々あるけれど、心は煩悩によって穢れ、迷っていても本来は清らかな悟りそのものであるというこという。『大乗起信論』の中などに書かれているね。

学匠:一遍上人は念仏宗ですよね。念仏って法然さんとか親鸞さんとかのあれですよね。どうして天台宗とかと関係してるんですか。

師:栄西、法然、親鸞、日蓮、道元という人たちが最初に学んだところは何処だったかな。

学匠:そういえば比叡山、天台宗の総本山だったですよね。

大乗起信論

大乗起信論

師:一遍は直接比叡山では学んでいないけれど、法然の孫弟子について長らく学んだ人だ。だから天台の教学にも詳しいと思うね。これについては、栗田勇さんの指摘がある。もともと叡山には、常行三昧と言われる念仏修行があった。阿弥陀仏を念じて90日間、仏像の周囲を歩き続ける行なんだ。それによって諸仏が堂内に立ち現われるのを見るというんだね。鎌倉時代の民衆のための新仏教は比叡山延暦寺を揺籃としている。それのみならず、日本の中世において比叡山は修験道・神道・さらに歌道・猿楽など文芸・芸能にまで影響を及ぼしている。この広がりは侮れないね。

学匠:それって、批判的継承ということだったんですか。本覚思想という素晴らしい思想があるなら別に新しい宗教を模索する必要はないでしょう。

師:うっ、う~ん、そうね。そういわれると説明するのはちょっと困るんだが、一つは国家や支配階級のための宗教ではなく民衆のための宗教が求められていたということだろうね。もう一つは本覚思想自体が12世紀あたりまで厳格な口伝やちょっとしたメモのようなヒントだけが書かれた切紙相承(きりがみそうじょう)でしか伝えられていなかったということなんだ。体系化されるのは13世紀頃からで鎌倉中期になってようやく整うという塩梅だった。

学匠:ああ、それって山本ひろ子さんの『異神』 で読んだ世界ですね。神仏習合の結構ディ―プな世界でしたよね。あれは面白かったなあ。本覚思想って結構、秘教的性格を持ってたんですね。

師:そ、そうなんだ。‥‥それからだね、一遍上人語録にはこんな文章もあるよ。なかなかいいと思うんだが。

「法照禅師の云く、名号とは、名字無き故に、阿弥陀と号すと云云。竜樹は、衆のため法を説いて名字なしと云へり。無名字というは是名号なり。名号は寿の名なり、故に阿弥陀の三字を無量寿と云なり。すなわち一切衆生の寿命なり。故に弥陀を法界身と云なり。天台は三観を阿弥陀の三字にあて、「煩悩即菩提」と釈す。いわゆる他力の不思議をあらわす。菩提というは弥陀なり。」

学匠: えぇ~ 難しすぎます。竜樹ってあの「空観」の竜樹ですよね。天台の三観ってなんのことですか。煩悩即菩提っていうのはよく聞きますよね。阿弥陀さんが無量寿で無量寿仏といわれてるのも知ってますけど。

師:そ、そう、よく勉強したね。う~ん‥‥まず、「空」についてはどうしても話さなくちゃならないんだが、これを理解するのはむずかしい。でもこの言葉が大乗仏教の核心部だといってもいいんだ。天台本覚思想はまず絶対的一元論だということを頭においておかなくちゃならない。煩悩即菩提とか凡聖一如などを相即不二論というんだ。西暦前後に大乗仏教運動が起こるのは知っているだろう。

学匠:ゼッタイテキイチゲンロン‥‥ソウソクフジロン???  ええ、なんとなく‥‥

師:この世界には固定した実体と呼べるような存在はないという考え方だね。それが「空観」だ。僕たちの体一つとっても水分も空気も取り入れられては体中を巡って排出されているだろう。体中のあらゆるものがどんどん入れ替わったりする。知識にしてもある時は感覚を通して認識され、ある時は情報として取り入れられる。感覚はすぐに失われるし、知識も時にはすっかり忘れたりもする。普遍的にあるものなんてないよということなんだ。

学匠:それって分かります。縁によって集まっているだけってことですよね。

師:おおー、凄い。その通りだ。それなら死も生も、煩悩も菩提も、凡夫も仏もともに空であり、その意味で同じものだということになるだろう。それが相即不二ということなんだ。

学匠:でも、それってなんとなく悪平等って感じしません?なんでも同じみたいな。

師:そうだね。空は、無や虚無と誤解されやすかった。大して意味のあるものなんかないというふうにね。そこで大乗仏教では、その誤解を正そうと空をもっと徹底解明しようとか積極的な表現に改めようという機運が起こった。『天台本覚論 続・日本仏教の思想 2 』というとてもいい本があるから、そこから田村芳朗さんの説明を紹介してみようね。空とは自己(人)と対象(法)についての執着を打ち破ったものとして考えられるようになる。これを人空・法空というんだ。人空とは自己の主観的な色めがねをはずして事物を事物に即してありのままに見ることをいう。客観的ということだね。一方、法空の方は対象に対するとらわれを棄て自己をとりもどすことだ。これを主体的ということもできる。だから、空とは客観的にして主体的ということで、ここに空の積極的な意味があるとしている。

『天台本覚論 続日本仏教の思想 2』

『天台本覚論 続・日本仏教の思想 2 』 中扉

学匠:色眼鏡を捨ててみた客観的対象と対象へのとらわれを捨てた主体的私ってことですか?分かりますけど、なんだかモヤモヤした感じですね。

師:うーん、そうだね。‥‥煎じ詰めれば主観(体)=客観(体)ということになるんだろうね。これが絶対的一元論の意味なんだろうけど、これを言葉で表現するのは不可能といっていい。一遍のこの歌はそんな消息を伝えているんだよ。「となうれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」これは南無阿弥陀仏の名号を唱えているとき、私は名号であり、阿弥陀の名号は私であるという意味なんだ。そこは主体も客体も無い相即の世界であるということなんだ。

学匠:先生、 カッコいいです。

師: えっ、そうかなあ。ハハ‥‥

学匠:いや~、一遍さんてかっこいい。

師:あっ、あ~そうね。一遍さんね‥‥ 竜樹は『中論(観四諦品)』のなかで「空性が成立するところ一切が成立する。空性の成立しないところに、一切は成立しない」として一切皆空、すなわち一切皆成を主張するようになるんだ。初期の大乗経典の般若経では、空の原理的解明に力が注がれた。それに続く経典では、さっきの客観的と主体的という二つの方向性にそって空の積極的表現が試みられるようになる。例えば法華経は前者で、「諸法実相」が強調され、「是法住法位・世間相常住」などが説かれるようになるし、華厳経は後者で、「三界虚妄・但是一心作」などの一心が強調されるようになるんだ。

学匠:揺れがあるってことですよね。

師:す、するどい。その通りだね。こんな空の表現の多様化は相即論にも波及するようになって、空的相即論は内容的に事的相即論と心的相即論の二方向へと展開されはじめる。如来蔵思想って知ってる?仏性がわれわれ一人一人の中にひそんでいるという考え方だね。永遠の真理はポテンシャルなものとして人間の中にあると考えることだ。つまり「主体=心」の中に「真理=仏」をみるというふうにね。これが書かれているのが涅槃経だね。心的相即論の背景になった考え方だ。

学匠:ニョライゾウですか‥‥聞いたことあります。

師:そこから人間を含めたこの現実の世界は永遠の真理あるいは仏の顕現したものと考えるようになる、万象の根源は永遠の真理ないし仏であるということになるんだ。

学匠:でも、それってどっちかというと世界生成論に関わってくるんじゃないのかな。仏性からの流出みたいな‥‥相即論と関係があるんですか。

師:そう、この考え方は華厳経の考え方だね。万象の根源=永遠の真理・仏という考え方には働きかけるものとその働きを受けるものというふうに隙間がある。天台本覚では、「万象の根源」の根源を取り払ってしまって「万象=永遠の真理・仏」としてしまったんだ。それが一念三千という言葉の意味なんだ。三千は万象で一念は真理=仏だね。一部しか紹介できてないけれど田村芳朗さんの解説はおおよそこんな感じかな。本覚の境地に留まっているからこそ、そこから見える全ては即菩提となる。事象の全肯定だね。これが島地大等のいう「仏教哲学における思想的クライマックス」ということなんだ。

学匠:へえ~ でも、それって机上の空論っていったら怒られそうですね。ハハ、でもなんとなく‥‥

師:いやいや、そう思うのも無理はないよ。煩悩=菩提ならわざわざ苦労して修行もないんじゃない‥‥いや、失礼‥‥ないだろうという疑問が出てくる。それが現実に道元に起こったことなんだ。

学匠:ああ、それで道元さんは叡山を去って栄西さんのところに弟子入りするんですね。それから中国に渡ってしまう。

師:後年、天台内部で玄旨帰命壇( 参照)などが実際に批判を受けるようになるのはこの煩悩=菩提を軽く考えすぎたためだったんだ。始覚にさえ参じ得ない者が本覚をあれこれ言えるはずがないからね。

学匠:でもそういうふうにクライマックスに達したとして、本覚思想が修験道とか神道とか、歌道・連歌・猿楽とかっていう文芸・芸能にまで影響を及ぼしたというのは何故なんですか?わかんないな。

師:いい~質問だね。その原動力が一心三観なんだと僕は思うね。

学匠:今度は「即」じゃなくて「三」なんだ‥‥

『一遍語録』

『一遍上人語録』

師:先ほどの『天台本覚論 続・日本仏教の思想 2 』に 一心三観に関わる注(従仮入空観・従空入仮観・中道観)があるからそこを基に説明してみるよ。世の中の全ての物つまり万有だね。それを仮りのものとして空に至るのを従仮入空観という。万有(俗諦=世俗的真理)を観じて畢竟空(真諦=絶対普遍の真理)と達観する観法のことだ。仮→空だね。これは今までみてきた空観と同じといっていい。これとは逆に空→仮の従空入仮観というのもある。前の逆コースをたどるようだがそうではない。入空し終わって仮を振り返れば、仮を照見してそれをも活用できるようになった境地をいうんだ。前の仮を捨てた不平等さに対して仮を用いる今を平等観と呼ぶ。仮を用いる理由は主として菩薩の出仮(しゅつけ)即ち衆生教化のためであるとされている。

学匠:仮観で明らかとなる仮の真理は、先の空観で破壊の対象となった虚妄顛倒の仮とは異なるということですよね。

師:そ、そうだけど。急にどうしちゃったの。‥‥すごいなあ‥‥先に見た空・仮二観を二諦ともいう。諦は真理という意味だ。次に中道観というのがあって、仮空二観を修した結果、得られたところの真如法性に対する認識をいう。「第三観に入ることを得れば即ち仏性を見るなり」とね。そういう認識は止観によって得られるんだ。天台宗の実質的な祖である智顗(ちぎ)が『摩訶止観』を書いているのは知っているよね。6世紀の中国の人だ。止観とはなんだったかな。

学匠:えっ、え~なんとなく。止観って瞑想みたいなものだったかな。

師:まあ、そうだね。止観によって空も真理であり仮も真理であるということに目覚める。重要なのは、そこに中道を自覚していくことにあるんだ。これを智顗の三諦思想という。常に現実の人間の生きていく処に、仏教の真理をたずねようとする姿勢だよ。

学匠:それって、やっぱり宮澤賢治ですよね。はあ~そうなんだ。

師:うぅん?まあ、そうかな。でも一心三観というからには、これらは一体でなくてはおかしいよね。

学匠:それはそうですね。

師:今まで見てきたように三観をバラバラに説明するのを次第三観と呼ぶんだけど、一心三観を説明する時の方便であっただけでなく、これを実践的に用いようとしたところが重要だったんだね。これは、さきほどの悪取空への批判になっていると同時に、菩薩の利他行の姿に重ねられるようになっているんだ。ここが素晴らしいね。空・仮・中のシステムはなかなかのものだと思う。一遍さんもこう言っている。「南無阿弥陀仏は本より往生なり、往生というは無生なり。この法にあへる所をしばらく一念とはいうなり」とね。阿は空、弥は仮、陀は中であり、往生、無生、一念に対応している。

学匠:はあ、それで先生、文学・芸能との繋がりは‥‥

師:例えば、最澄が書いたとされる『修禅寺決』には、こんな言葉があるんだ。「花の名とは、花に三徳あり。一には色微妙(いろみみょう)、二には妙香具足、三にはついに磨滅に帰す。この三徳はすなわち三諦なり。色の微妙なるは仮諦、妙香具足せるは中、ついに磨滅に帰すとは空諦なり」とね。こういう考え方はある種の結合術と言えると僕は思うね。対極的なものの間に紐帯となるべきものを設定するんだ。それによって認識と行為が即座に止揚される世界が創り出されるといったらいいかな。

学匠:そ、それで‥‥

師:藤原俊成は、『古来風体抄(こらいふうていしょう)』の中で空・仮・中の三諦に触れている。彼は、歌の要素を「詞」・「心」・「姿」と考えた。猿楽では、金春禅竹の円満井座の三宝( 参照)を例にとろう。それは、衆生の煩悩を象徴する「鬼面」と「仏舎利」、それに「春日明神の御影(翁)」の三つで、それぞれ空・仮・中に当たると思う。翁が煩悩に迷う衆生と仏との間を繋ぐ存在となっている。そして、修験道や神道では、山本ひろ子さんが『異神』の中で叡山天台、特に戒家では天部や異貌の神が重視されていたと書いていただろう( 参照)。神を中とし衆生を空とし仏を仮とすると思うんだ。

中世歌道論 久松潜一 編 藤原俊成『古来風体抄』、定家『詠歌一体』、二条良基『近来風体抄』、正徹『正徹物語』、心敬『ささめごと』、他  昭和9年刊 昔はこんな立派な本が安く出版されていたことに驚く。

『中世歌論集』
久松潜一編
藤原俊成『古来風体抄』、定家『毎月抄』『詠歌大概』、二条良基『近来風体抄』、正徹『正徹物語』、心敬『ささめごと』、他 
昭和9年刊 昔はこんな立派な本が安価に出版されていたことに驚く。

学匠:ああ!なるほどですね。 平安末から室町にかけての文化の底流には本覚思想とその一心三観の結合術があったということですね。俊成、定家親子や東福寺の僧であった正徹(しょうてつ)は本覚思想の強い影響下にあった。

師:先ほどの『天台本覚論 続・日本仏教の思想 2 』には色々な例が挙げられている。室町中期の歌僧であった正徹は、俊成の息子である定家を崇拝したけれど、こんな歌を残している。「おくりおく本(もと)の覚(さとり)の都まで千々(ちぢ)の仏やてをさづくらむ」。その正徹の弟子だった心敬(しんけい)は天台僧だった。心敬に学んだ宗祇(そうぎ)は『吾妻問答』の中で「なほなほ、歌の道は只慈悲を心にかけて、飛花落葉を見ても生死の理を観ずれば、心中の鬼神もやはらぎ、本覚真如の理に帰すべく候」と歌の道を本覚思想に結び付けている。この流れは後の芭蕉に及ぶようだね。芭蕉は、俊成・西行の「その細き一筋をたどり失ふことなかれ」と書いている。

学匠:でも、先生、ただ空・仮・中にあたる三つを取りあわせるだけでは弁証法のようなダイナミズムは起きないんじゃないんですか。

師:能楽においては序・破・急、いけばなでは真・行・草、茶道では守・破・離という三つ組のカテゴリーが打ち立てられた。田村芳朗さんはそれを日本的弁証法ともいうべき芸道理論が展開されたといっている。型というシステムの確立とそこからの逸脱と型からの自由、そして、あらたな型の創出というサイクルを考えればいいじゃないのかな。それはそれとして、僕は、ここで折口信夫さんがいう日本の民俗芸能における「もどき」の重要性を考え併せてみたいと思ってるんだ。

学匠:「もどき」って、たとえば能の「翁」のもどきは「三番叟」で、そのもどきは高砂などの「神能」というような繋がりだったですよね。

師:そうだね。ある種の本源を「もどく=説明しよう」とする衝動といったらいいかな。そのような繋がりを芸能を通じて説明しようとする日本人の中にある種の心性のようなものだね。それは神楽や猿楽に限らないんじゃないだろうかと思っている。歌道でいえば本歌取だね。天台本覚は一心三観という枠組をその心性に与えたんじゃないかってね。一心三観はその三つの構造を維持したまま今を見る。そうでありながら、その前後や上下の階層を繋げることのできる手法だね。(ヨーロッパの結合術についてはをご覧ください)

学匠:「もどき」の心性に一心三観が構造を与えたということなんですか?

師:まあ、僕の仮説にすぎないけれどね。

学匠:本覚思想では、現実世界が全肯定される。それは、理論的に突き詰められた結果だった。そうであるなら、現実世界のさらなる解剖よりも『「もどく」という行為』が重要になるわけですね。もはや哲学より実践の世界になるんだ。三千は一念より生じるなら全ては繋がっているはずですよね。それを「もどく」手段が一心三観だと先生は考えている。そして、逆に一念は三千に包摂される。

師:おお!我が弟子よ。そのとおりだ。俊成は、ある時期、歌道に対して疑念を抱いていたことがあるんだ。歌など、かりそめに言ひ散らされた戯(ざ)れ事に過ぎないのではないかとね。 しかし、立ち直ることができた。多分、ここには先ほどの従空入仮観が影響を与えたのではないかと僕は思っている。菩薩行に重ねあわされる見方だね。万象が平等なら自分の歌道もまた拙い戯言ではないかもしれない。その道に励めばこれもまた菩薩の道であるかもしれないのだから。本覚では「三世の念は、ただ一念なり」とする、つまりこの一刻一刻が永遠であるという考え方だね。この一刻を永遠なものにするための行と考える。多分、何々道という世界にはこの考え方が背景のひとつにあるはずだと思うよ。

学匠:おー、おー、よきかな、よきかな。

師:え、えっ、どうしちゃったの、なんだか顔が変ったみたいだけど‥‥

学匠:汝の学道修養、はなはだ殊勝のことかな。我は満足なり。

師:あっ、あ~~、頭に蛇が、うわっ、翁の顔してる  ‥‥すっ、するとこれは宇賀弁財天  どぉひゃ~~ なんで普通の弁天様じゃなくてよりによってこんなオッカナイのなんだ‥‥    おっ、 お、 おっ  助け~~~

 

おやっ、目が覚めた。なんか濃い夢だったような気がしたけれど。そういえば一遍さんを読んでいたんだっけ。 「‥‥南無阿弥陀仏と一度(ひとたび)正直に帰命(身を捧げる)しつる一念の後は、我、われにあらず、心も南無阿弥陀仏の御心、身の振舞も南無阿弥陀仏の御振舞、言葉も南無阿弥陀仏の御言葉なれば、生きたる命も阿弥陀仏の御命なり。」