『王書(シャー・ナーメ)』と『イスラームの写本絵画』

二人の愛は刻々高まり
叡知は遠のき、熱情は近づき
こうして彼は夜が白むまでいた
幄舎から太鼓の音が響くと
ザールは月の美女に別れを告げ
縦糸と横糸がからむようにしっかと抱き
ともに目に涙をためながら
昇る朝日をののしって
「おお、世の栄光よ、もう一瞬
そんなに早く昇るには及ばない」

フィルドゥスィー 『王書(シャー・ナーメ)』ザールの巻より

 

フィルドゥスィー 『王書(シャー・ナーメ)』

フィルドゥスィー
『王書(シャー・ナーメ)』

7世紀の中葉、イラン地域においてサーサーン朝がアラブ軍のために崩壊して以来、二世紀にわたって政治的独立は失われた。ペルシア帝国の落日であった。アラブの支配下のもと9世紀前半、東北イランにターヒル朝、ついで東南地域にサッファール朝というイラン系地方王朝が起きて、次第に自主性をとりもどし、やがて中央アジアのブハーラーを都に定めたサーマーン朝(874-999)が樹立されるに及んで多年にわたるアラブ支配からの抑圧が取り除かれたのである。

イラン人の民族感情は一気に高揚して、イラン固有の神話・伝説・歴史を編集し誇示する気運が高まっていったのである。ペルシア文学が花開くことになる。政治・文化両面におけるルネサンスが起こったのである。このような状況の中で一地方の地主であったフィルドゥスィー(雅号/本名は不詳)は、30年の歳月を費やしてこの『王書』を完成したといわれている。シャーは王でありナーメは文書を意味する。しかし、この詩集が完成にさしかかった10世紀の後半には栄華を誇ったサーマーン朝もトルコ系のカラハン朝やガズナ朝に蚕食され、ついには崩壊の憂き目をみている。

『王書(シャー・ナーメ)』の翻訳者である黒柳恒男さんによれば、イラン民族固有の神話・伝説・歴史の編集はサーサーン朝時代からすでに行われていたが、現在ではほとんどが散逸し失われたという。そのうち有名なものはサーマーン朝の太守を勤めたアブ―・マンスール・アブドッ・ラッザーク(961年没)の命で編纂された「アブー・マンスールのシャー・ナーメ」と呼ばれる散文作品である。ペルシアの最初の王からサーサーン朝の最後の王ヤズダギルド三世に及ぶ資料の蒐集と編纂にあたらせている。957年に完成し「シャー・ナーメ」と名づけられた。フィルドゥスィーは自らの『王書(シャー・ナーメ)』の序文の中で名指しこそしないものの、それと分かるようにこう書いている。「‥‥彼は古き時代の探究者、過ぎし話をすべて探し求めた。諸国からその書(ナーメ)を記憶に止めていた老いた司祭たちを招き、彼らにかつての支配者、名高く輝かしい勇士たちについて尋ね‥‥」。アブー・マンスールは、イランの太安万侶だった。

神話時代、英雄時代、歴史時代から構成される叙事詩『王書(シャー・ナーメ)』は、「戦闘と饗宴の一大絵巻」、「年代順に配列された逸話の連鎖」といわれるが、その特徴はゾロアスター教的な善悪二元論とイスラーム的思想の混じった運命論にあると言われている。それは、巡る天輪、時、大空、運、星、定命という言葉で呼ばれる。フィルドゥスィー自身はムスリムだったといわれている。しかし、その最も輝しい価値はイランに伝わる神話と伝説を集大成したこと、それと大詩人ダキーキーから影響を受けたといわれる詩のスタイルにある。ペルシア文学に与えた影響は測りしれないといわれている。

桝屋友子 『イスラームの写本絵画』

桝屋友子 『イスラームの写本絵画』

僕がイスラーム文化に触れたのは、プラハの旧市庁舎の時計台を向かいのカフェーから見ながら、ちょっと粉っぽいトルココーヒーをすすったくらいのことだったが、ウィーンにしばらく住んでいたので建物に残っているイスラーム風な装飾に少しは、その名残を感じたりすることはできたかなと思っている。最近図書館でイスラーム写本の素晴らしい本を見つけた。桝屋友子(ますや ともこ)さんの『イスラームの写本絵画』である。桝屋さんは東大で学んで、メトロポリタン美術館のイスラーム美術部やニューヨーク大学などで研究した人のようだ。

この本のどこに惹かれたかというと図版の豊富さと美しさにつきる。これはいい。それで今回、その内容をご紹介しながら僕の勝手な注文をつけ加えておきたいと思った次第である。僕の意見は話半分に聞いていただければいい。

イスラーム美術という名称からして物議を醸すものらしいが、偶像崇拝禁止が徹底されてきた中で、キリスト教美術や仏教美術と肩を並べてムスリム美術とかイスラーム美術と呼ぶのはある種の困難さを伴うらしい。しかし、預言者ムハンマドを含むイスラームの預言者たちや天使たちが歴史書や聖者伝の写本において絵画化されてきたのも事実である。イスラームを取り囲んでいたビザンティン帝国やギリシアやローマ、サーサーン朝ペルシアなどは建築物を絵画で飾る伝統を有していた。壁画やモザイクが発展していたのである。それらの影響は小さくない。紙に描かれた絵画は、ほとんどが写本絵画であった。

アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー 『恒星論』の1009年の写本より 「アンドロメダ座」

アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー
『恒星論』の1009年の写本より
「アンドロメダ座」

写本絵画は質、量ともに豊かであった。写本は各王朝の科学研究所や天文台や宗教施設の図書館、宮廷直属の書画院で制作された。当然、手描きである。クルアーン(コーラン)の章句を荘厳する、絵というよりデザインとしての装飾を施すクルアーン写本と挿絵が重視される科学書や文学書の写本に大別される。

とりわけイラン、アフガニスタン、ウズベキスタンや、13世紀以降のイラクなどのペルシア語文化圏では韻文詩の挿絵入り写本がその大きなシェアーを占めていた。アラビア語圏とは少し様相が異なるのである。一般的にペルシア語圏の写本の方が内容、形式ともより自由であると言ってよい。この地域の現存最古の挿絵入り写本は、スーフィーの著『恒星論』の紙に描かれた写本で、これなどはギリシアの天文・地理学者プトレマイオスの書『アルマゲスト』を参考に書かれている。ギリシアの科学書が影響しているのである。それに挿絵は必須だった。

13世紀になると写本の世界にも大きな波が押し寄せるようになる。イラクにイル・ハーン王朝(1258‐1353)が成立すると、この王朝が中央アジア出身のモンゴル人の王朝であり、大都(北京)に都をおく元朝が宗主国であったことにより東アジアや中央アジアの絵画様式が流入してきたのである。画面は大きくなり、筆致、人物の表現、空間表現に変化が現われる。絵画は、より緻密になっていった。14世紀のイラン・イラクでは絵画が1貢のテキストの大部分を占めるようになり、時には枠からはみ出すようになった。

ビフザード 「クワルナク城の構築」 (ニザーミー『ハムセ』写本 大英博物館

ビフザード
「クワルナク城の構築」 15世紀
ニザーミー『ハムセ』写本より
大英博物館

やがて15~16世紀になるとティムール朝(1370‐1507)、サファヴィー朝(1501‐1763)の時代になり、先ほどのペルシア語圏では、写本絵画芸術の最盛期を迎える。愛書家のパトロンたちは熱心に挿絵入り写本の制作を行わせ、ビフザードなどの才能ある画家も登場するようになる。しかし、サファヴィー朝の第二代タフマースブ一世は突如写本絵画への関心を失い、主要な画家は宮廷書画院を去り、地方都市に散っていった。絵画形式も一般の人が購入しやすい1枚ものの制作が盛んになっていくのである。

『王書(シャー・ナーメ)』の挿絵入り写本について言えば14世紀イル・ハーン朝時代の「大モンゴル『シャー・ナーメ』」写本と16世紀のサファヴィー朝時代に制作された「タフマースブのための『シャー・ナーメ』」写本が有名だ。その他に『シャー・ナーメ』に次いで愛されたニザーミー・ガンシャヴィー(1141‐1209)作のペルシア語詩『ハムセ』がある。アレクサンドロス大王(ペルシア語ではイスカンダル)を扱った『アレクサンドロスの書』、シリア王子と中国の王女の恋物語『フマーイとユマーン』、予言者ユースフ(旧約聖書のヨセフ)と彼を誘惑する人妻ズライハーの物語『ユースフとズライハー』などが有名な挿絵入り写本であった。

また、アラビア半島、メソポタミア、地中海東岸からエジプト、北アフリカ、スペインに連なるアラビア語文化圏で著名な文学書には、インドの『パンチャタントラ』を8世紀のイブン・ムカッファーが訳した『カリーラとディナム』、ハリーリーが12世紀に書いたアブ―・ザイドの遍歴物語『マカーマート』などがあり、それらの挿絵入り写本も盛んに制作されたようだ。だが、ペルシア語圏に比較して写本数はぐっと減るらしい。

この桝屋さんの『イスラームの写本絵画』では第一部が「イスラーム絵画の基礎知識」、第二部が「イスラーム写本絵画鑑賞」となっており、その第二部では画面の構成や場所に関すると空間表現と時間の表現などに関するより専門的な内容が述べられている。それで、この第二部からイスラーム写本の絵画空間について拾い読みし、私の余計な考えも織り込みつつ述べてみたい。

ワーシティー 左右『マカマート』写本 13世紀 フランス国立図書館

ワーシティー
左右『マカマート』写本より 13世紀 フランス国立図書館

空間を二次元化したものを大雑把に分けると真上からみた平面図、真横からみた立面図、斜め上からみた見取り図、作図を要する透視図に分けられる。ただ、これは、はなはだ西洋的な観点からの分類だということは知っておいてほしい。ワーシティーが描いた『マカーマート』の挿絵をご覧いただきたい。左の作品は典型的な立面図的画面になっており、茶色の大地がその立脚線になっている。ところが同じワーシティーの右側の作品では、草の生えた大地は左右の端から上昇しアーチを作って池を取り囲み建物を支えている。不思議で魅力的な画面になっている。これを稚拙と言ってはいけない。理由は後で述べる。

『バイスングルシャーナーメ』 15世紀 基準枠から樹木がはみだして表現されている。

『バーイスングル シャー・ナーメ』写本より
15世紀
基準枠から樹木がはみだして表現されている。

本書には井戸や地下牢などが基準の枠からはみ出して表現されているようなケースも紹介されている。日本の漫画に見られるようなコマ割りからの意識的なはみだしのような効果が見られるのである。時間の推移も背景地の空の色などによる変化から表現しようとし始めるようである。14世紀の後半のイランでは、見取り図のような俯瞰図画面が確立する。この『バーイスングルのシャー・ナーメ』写本の空間を見ていただければよいと思う。

やがて15世紀になると建物を介した空間に独特な表現が見られるようになる。たとえばビフザードのこの作品『ズライハーに誘惑されるユースフ』である。これを透視図的な空間表現の欠如ととるか、独特な運動とリズムをもつ空間と取るかは立場の違いによって異なるだろうけれど、僕は運動の魅力のほうに肩入れしている。このような空間の魅力を世に問うたのはである。16世紀に入ると細部表現は緻密になっていくが、突如宮廷書画院が休業になってしまったのは先に述べた通りである。

ついでに言っておくと写本絵画一般にたいして細密画=ミニチュアールという語を当てるのは間違いらしい。枡屋さんによれば赤い鉛丹の絵の具をラテン語でミニウムといい、その絵の具を頻繁に使うことからミニチュアールという言葉はきているそうである。トルコ文学の第一人者オルハン・パムクの著作『わたしの名は紅』が思い出される。16世紀末のイスタンブールの写本画の絵師が主人公だった。

クレーの作品、『窓のある建物』の図版を掲載しておく。1914年の北アフリカ旅行はクレーにイスラーム美術との決定的な出会いをもたらすことになった。このことについては、いつかクレーの日記や伝記を追いながら迫ってみたいテーマである。クレーは、彼のバウハウスでの授業草稿であり、後に『造形思考』として出版された著書の中で、「主体の高度のメカニック」「左右の広がりのメカニック」として横の線群と縦の線群からの運動とそれを微妙にずらすことによって生じる揺れから空間の運動性を得ることができるとしている。

先ほどのワーシティーの空間もトポロジックに変形していてとても魅力的だ。このように必ずしも透視図的空間が芸術的であるとも進化しているとも限らないのである。日本の『源氏物語絵巻』の空間があんなすけすけの吹き抜け屋台になっているのは、紫式部だけに限らず、その時代の文体に多少とも関係してるのだろうかと時々考えたりもする。もはやそのようなヨーロッパやアメリカを中心とした価値観にとらわれなくイスラーム的な空間を追求していただきたいと思っているのである。日本人はイスラーム音痴だと言われる。恥ずかしながら、かく言う私もその一人だ。そのような日本にあって、このような研究に踏ん張っている人たちに心からエールをおくりたい。

左 ビフザード 『ズライハーに誘惑されるユースフ』 1488年 エジプト国立図書館 右 パウル・クレー 『窓のある建物』1919年

左 ビフザード
『ズライハーに誘惑されるユースフ』写本より
1488年 エジプト国立図書館
右 パウル・クレー
『窓のある建物』 1919年

 

 

パウル・クレー 「主体の高度のメカニック」「左右のメカニック」挿絵

パウル・クレー
「主体の高度のメカニック」「左右のメカニック」挿絵