ルドルフ・シュタイナーの美学 part2 人智学から見た芸術

ルドルフ・シュタイナー 『シュタイナー芸術と美学』

ルドルフ・シュタイナー
『シュタイナー芸術と美学』

「自然自体が芸術家であるなら、論理的な把握によって自然に近づくことはできません。事実、自然は芸術家なのです。‥‥観念の中に生きることを中止するために、形象によって思考し始めねばなりません(『人智学と芸術』)」。

「認識が芸術創造の上に溢れるのはまったく自然なことです。‥‥真に芸術的な感受性を有していたゲーテは、『芸術は隠れた自然法則の表示である。芸術なくしては隠れた自然法則は開示されなかったであろう』と述べています。‥‥世界を認識し、把握するまでに至った人には、もはや観念を形成するのではなく、芸術的、彫塑的、絵画的、音楽的、詩的に形成しようとする要求が現われます(同上)」。

これらの言葉をそのまま受け取るなら、自然は芸術家であるという初期ロマン派的な世界心情とゲーテ的な世界認識の方法とがシュタイナーの美学を形成していたことが分かる。しかし、この背後には極めてシステマティックな霊的な世界があるのだ。それは壮大で緻密でミステリアスな精神世界である。そこから現れ出るシュタイナーの過激・刺激・感激は何処にあるのか?前回の では『新しい美学の父としてのゲーテ』をテキストに用いて美学的な観点からゲーテやベンヤミンとからめて述べてみた。今回は同書から『芸術的ファンタジーの源泉と超感覚的認識の源泉』及び『人類の芸術発展のための変容衝動』をとりあげる。この part2 では、いよいよ人智学に踏み込みます。

人智学用語にまず慣れていただかなければならない。ここではエーテル体、アストラル体、霊我、生命霊など見慣れない用語が頻出するのだが、僕自身が理解した範囲でしかご紹介できないし、場合によっては素通りしなければならない場合もあると思う。それらは、精神的・霊的実質であり物理的な存在ではないとされている。まずは、そう大きく逸れてはいないと思われる範囲でご紹介するつもりである。時に、エーテル体やアストラル体という言葉を棒切れのように振り回す人に出くわすのだが、僕は、そういう人からは全力で逃げ出そうとしてきた。それほど容易に語れるような代物ではないと感じている。

少し理解の手立てになるかもしれないのでの著作『子どもの夢』から適宜抜粋したものを時々掲載しておくので併せて考えていただければと思う。シュタイナーの思想を日本に紹介した(たかはし いわお)さんは、ユングとシュタイナーは近親憎悪の関係にあると言っておられた。心理学と霊学という根本的な差異はあるのだが、語っている内容は極めて接近していることが多いのである。

1.二つの原理

C.G.ユング 『子どもの夢』

C.G.ユング
『子どもの夢』

シュタイナーによれば、薬物や精神的な病いからの幻覚や幻視に比較して芸術的ファンタジーと超感覚的な認識あるいは霊視的意識、霊視力によって得られるヴィジョンは、はるかに興味深いものだという。詩人や芸術家は、しばしば創作行為のなかで、自分の体験と霊視との密接な関係を感じた。だが、圧倒的で人間の意志がもはや何の力も揮えないほどの強制的なヴィジョンに囚われない限り芸術的直観と霊視との間には境界が存在する。芸術の創造・観照には外界の知覚とそれを表象として捉える感覚的な把握が基盤にある。知覚と表象、思い出や記憶として芸術家の中に生きるものを自由に支配し、処理する力の中には霊的なものが存在するという。

カール・グスタフ・ユングは、私たちは常に二様の現実の中に生きているといった。二つの異なった原理があるのだ。一方は眼で見、手で触れることのできる世界であり、もう一方は感覚では経験し得ない世界である。例えば前者は、アリストテレスのように現実の父親や母親との経験とそこから生じる観念の中に生きる。後者はプラトンの言うように天上に保存された原像、つまり諸々の現象の原イメージがあって、そこから全ての形態が生じたのであり、母親と父親が初めて生まれたのもそこからである。そのイメージと共に生きてもいるのである。我々は常に我々の心理的経験の中に閉じ込められている。と同時にイメージの世界の中にも生きているのである。霊的なことについては、何と言おうと常にあの原像、つまり元型から語っているに過ぎないとユングはいうのだ。

この記述を現実世界と霊的世界という二つの現実というふうに置き直して考えることができる。もともとプラトンの思想は穏秘(オカルト)学的性格を持つのである。ユングは続けてこう述べている。このような元型的観念に捕えられると、人は、ある「観念」を思いつき、それを自分のものと考えるが、それは逆だとユングはいう。それは「観念」に憑りつかれたのだ。我々はこの「観念」の生命によって生きる。それが「脳の花」であり、「知恵の石」である。それは我々を通して、我々から生じ、まさに開かんとする植物であり、完璧な秩序であるというのである。この「観念」はシュタイナーのいう思考力のある霊的存在と考えてよいのではないだろうか。

2.建築と肉体

ブリストル大聖堂側廊

ブリストル大聖堂側廊

情動的な感情と意志の衝動が静められる時、思考力のある霊的存在が、つまりユングのいう「開かんとする植物」が立ち現れる。霊視においては通常の表象と知覚は停止する。そして感情と意志から流出する通常の思考とは全く異なった一種の「思考」が現われる。表象は思考の一部なのだが形態においては空間の中に力の分散の形態やマッスとして直接立ち現れる。このことは大腿骨の内部の極めて緻密な構成や鳥の骨格内部の多孔質の形態などを思い浮かべていただければよいと思う。シュタイナーはこのような形態の中に現われるような「思考」を「対象的思惟」と呼んでいる。ゲーテ科学を踏まえたものだ。それは、膨張し、曲がり、屈折する形態の中に移行して運動する空間形態であり、世界の中を流れる意志を表現する。

古代の建築は、外界に存在している形態と尺度を自らの中に取り入れたものであり、ゴシック建築はその尺度の異なるヴァージョンだった。どちらも大宇宙との固有の均衡関係よりなる感情に発している。そこでは、人はいかに人体の構造が大宇宙の模造であるかを認識する。それゆえ、体は魂の神殿と名づけられた。古代のエジプトやギリシアにおける神殿建築が、いかに人体のプロポーションと関係していたかを見るがいい。ところで、エジプト学を独特の象徴主義的解釈を行って注目されたシュヴァレ・ド・ルービッチの『人間の神殿』の翻訳を誰かしてくれないものだろうか。

3.彫刻とエーテル体

肉体は三次元的な組織と呼ぶことができる。しかし、そこにはエーテル体が陥入し、肉体を超えて大宇宙と結合している。エーテル体の中では、すべてがリズムであり、周期運動であり、活動である。それは、物質や肉体に浸透している時にのみ空間的な性格を持つ。ここは重要だ。人間はすべての表象を空間に結びつける習慣があるためにエーテル体の本質を表象するのは難しいとシュタイナーはいう。ジョージ・アダムスはエーテルを射影幾何学で表象しようとしたユニークな数学者だ。通常の物理学的空間では、平面は全ての方向に無限に伸びていく全体性として捉えることができる。エーテル空間では物理的空間とは相補的なイメージが提供される。そこでは全ての側の無限遠を通って反対側の無限から戻ってくる循環的な存在なのである。それは、すべてがリズムであり、周期運動であるからだ(ジョージ・アダムス『物理空間とエーテル空間』)。

パルテンの神殿の彫像 大英博物館

パルテン神殿の彫像
大英博物館

エーテルは古来より様々な言葉で呼ばれてきた。古代ギリシアではアイテールとか第五元素、中世ヨーロッパの錬金術におけるメルクリウス、インドではプラーナ、中国では、古代エジプトではカー(フランセス・イエイツ『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』)、ドルイドの第五の元素ヌウィヴル(ヘルムート・トリブッチ『蜃気楼文明』)、チベットの風の馬(ロルフ・スタン『チベットの文化』)などがある。それぞれにニュアンスが異なるのも確かであるが、一般的に水や空気の流れとしてのイメージで表象されてきたのは間違いないと思っている。それは宇宙空間の「永遠の水」であった。

その水を棒で引っ掻けば渦ができるように生命体に浸透したエーテル体は渦を巻く。それは気やプラーナのように生命やそれに形態を与える力に関係している。そこで空間的な相を得るわけだ。今日の科学で言う「場」の働きに比較できそうな部分もある。渦には色々な種類があるように種々のエーテルの法則は彫刻に注ぎ込まれることになる。建築的な要素である線と力の組織は彫刻の中にも存在し、空間形態の中で生きる思考という要素もやはり存在する。だが、彫刻の場合は、伸び、曲がる空間の形の中で自らの「生命」を通して思考する知性が表現されるのである。ギリシア彫刻における最盛期に彫刻家は自分の中にある形体形成力であるエーテルを感じていた。その助けを借りてある姿勢における筋肉の在り方、腕や指の伸張力を内的に感じ、その体験を外的な素材に託した。彫刻とは、生命が形成する創造的に空間に現われ出ようとする力を眼に見えるものにしようとする芸術なのである。

4.絵画とアストラル体

エーテル体は力の発露であり、力の自己表現である。人間が立ち上がる時、生命体に浸透した高みに延びるエーテル体にアストラル体が働きかける。アストラル体は人智学では感覚的な意識や感情の座である。アストラル体をなくせば、動物は植物の状態に降下してしまう。こうしてアストラル体に刺激されたエーテル体は肉体に働きかけることができるのである。そう人智学では考えられてきた。エーテル体の無意識的衝動はアストラル体によって意識化される。しかし、アストラル体における世界をエーテル体にもたらせば空間的なものを持ちこむことができない。何故ならエーテル体の本質はリズムと循環であるからだ。アストラル体の世界をエーテル体にまで押し下げると、つまり情動的な世界をリズミカルで循環的な世界に映しだすことによって絵画芸術が生まれる。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』 1838年、ナショナル・ギャラリー蔵

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』
1838年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵

霊視者と画家は近い。画家は世界のどこかから線と色の世界を持ってくるし、霊視者は霊界で体験するものにそれらをイメ―ジとして重ねるのである。霊視者は、霊界における没形態的な体験を形態的な濃密な世界に置き換える必要がある。そうしなければ表象できないからである。霊界で経験したものを内的な観照、イマジネーションへと転換して魂のなかで体験されるような形に変えて形態世界に移し替える。それは、内的に絵画の元型を創造することなのだ。一方、画家は外界を眼で見ることによって生じる内的な形成力を頼りにファンタジーを生みだす。画家は空間内の生命あるものを線、形態、色彩の中で作用するように配列するのだ。このことを画家は平面の上で為すのである。

黄色や赤などの色彩を魂に作用させる時、人は感情を持つ。ゲーテの色彩論を読んでほしい。私の中に何かが生きている。そう感じるのだ。肉眼で世界の色彩と形態を見、芸術的に変容させることによって自分の中にかつて魂の深みに立っていた何かを体験する。それが意識に昇って芸術になったのだ。これがシュタイナーの絵画論である。

5.音楽と自我

ここでユングのいう意識の島を覗いてみよう。人はそのつど、別々の意識の島に住んでいる。どの島にも特別な島の悪霊がいて人々はそれに憑りつかれる。心理学的に言えば、人はそこで情動とすっかり同一化するので、それに憑りつかれるのである。情動の中では、自分の感じるものから自分を分けられないからである。だからこそ情動は魅力的なのだ。そのつど、おのれの情動を大切にする人が沢山いるが、子供っぽいとユングは言う。情動に縛りつけられていればいるほど、意識化への抵抗は大きい。ここでは感情と自我の問題がクローズアップされている。古来から穏秘学では、意識の島は7つに大別されるといわれているのだが、その話はまたの機会に。

サンドロ・ボッテチェッリ 『ヴィーナス誕生』 1485年

サンドロ・ボッティチェッリ
『ヴィーナス誕生』
1485年

自我の法則をアストラル体へと沈み込ませ、その中で活動させることによって音楽が生まれる。自我はアストラル体の表象の下へと潜りこみその法則性の中を漂い、波打つ。意識世界を情動の世界に映しだすのである。この芸術は、言語や通常の表象では表すことはできない。

アストラル体は区分したり境界をつくる性質と関係している。天空の虹の色彩を7つに分けることができるようにアストラル体を7つに分けることができる。霊的認識からすると、人間は無意識にそのアストラル体の中の肉体に相応する部分の活動やアストラル体のエーテル体に相応する部分の活動などを感じている。その七つの場所は、一度、二度、三度、四度‥‥七度の音程のような相互作用を持っていると考えられる。この人間組織から与えられるメロディーに沈潜するとそれらの音はその各々の場所で内的に体験されるのだとシュタイナーはいうのだ。音楽作品の体験はアストラル体の内的な音楽的な作用に基づいており、自我をもって聞くとしてもこの体験はすぐにアストラル体の意識下の領域に沈み込んでいくという。

私たちをアストラル的な存在と見るなら、つまり黄道12宮とその星座や太陽、月と惑星の霊的な影響下で生まれた存在だと言う意味である。アストラルという言葉は astro= 星からきている。私たちは音楽的法則によって、星々を通して宇宙からアストラル的存在として創造されたことになる。ピタゴラスやケプラーが思い出されるが、このあたりが壮大な宇宙論と関わってくるところだ。物質的な音を聞くことは必ずしも必要ではない。自分のアストラル組織の中で宇宙から創造された活動を聞くことが、すなわち宇宙の音楽、天球の音楽の響を聞くことであるからだ。「宇宙は私たちのアストラル体の助けを借りて、私たちの固有の存在を演奏している」とシュタイナーはいう。私達は一個の楽器なのだ。地上の音楽は全て、人類創造とともに響き始めたこの天界の音楽を模倣したものだというのである。

霊視状態においては個々の音、メロディーと一体になるように感じ、波打ち響く生命の魂をもって生きるという体験をする。魂は音と完全に結合し、魂は波打つ音の中に溢れでていくようだ。いかに人間の魂が音楽的なものの要素の中に生き、音楽的なものの要素から上昇して来るかを正確に視覚化すれば、海の泡から現れてくるアフロディーテ(ヴィーナス)のイメージになるとシュタイナーは言う。そして、海面へと上昇したアフロディーテのまわりを空気の被造物が飛び回り、空間の中の生き生きとしたものの存在を告げようとする時、音楽的なものに詩的な要素が加わる。

6.シュタイナーの霊的宇宙論

ルドルフ・シュタイナー 『神秘学概論』

ルドルフ・シュタイナー
『神秘学概論』

ここからは、霊我や生命霊という言葉が登場するので簡単にシュタイナーの霊的宇宙論を見ていきたい。シュタイナーにとって地球は物質的存在であると同時に霊的な存在でもあるという二重の原理を持っている。その二重の存在としての地球は、長い断続的な進化の歴史を持っているのである。それは霊的に認識しうる事柄であり、勿論、僕には証明できない。ただ、それはシュタイナーのシステム宇宙論と人間の構成体、それにを総合的に見た時にその是非を判断していただくほかはないと思っている。進化は土星紀、太陽紀、月紀を経て現在の地球紀にいたる。これは連続的な進化ではなく休眠期を挟んで断続的に進行する。詳しくは『神秘学概論』を見ていただきたいのだが、ここでは、はなはだ簡単にしか説明できない。

土星紀を例にとってみよう。現在の土星のことではない。その時、土星と呼ばれる星は主要な部分において「熱」のみだった。高次の霊的な存在の他には、熱という物質法則に支配された物質的な身体だけが存在していた。冷暖の内的体験に近いものはあるという。ここでは時間が出現する。そして、人体の最高形体である霊人(アートマ)の萌芽が形成される。それは、遙か後の進化の段階で現われることになる。

次の太陽紀において光と空間と生命が誕生する。太陽紀の身体は高次の霊的存在である「叡知霊」の働きによってエーテル体が組み込まれ、規則的な運動を行う空気の流れを内に取り込んだ熱の構成体と呼べるような存在となった。エーテル体(生命体)は最初の段階に、身体は第二の完成度に至ることになる。ここに生命霊(ブッディ)の萌芽が形成される。

次の月紀においては、「運動霊」がアストラル体を人間存在に組み込む。当時、身体は一種の水のような流動体で、これに空気の流れが浸透し、全てを貫いて熱が作用している。それは動物的人間と呼ぶべきものだった。こうして身体は第三の完成段階に至る。この月には現在の地球に見られる鉱物は存在せず、いわば木質や角質の植物的な鉱物が存在し、それにねばねばした海のような一種の植物的動物からなる領域が存在した。この時期、アストラル体に人間の感覚的意識の座である感覚魂、エーテル体に分析的な意識の座である悟性魂の萌芽が形成される。これらは次の地球紀で発現することになるのだが、遠い未来において統一されて霊我(マナス)になるのである。

地球紀において、やっと今日のような有様になる。鉱物が出現するのである。いわば火風水地が出揃うことになるのだ。アストラル体は地球紀になると感覚魂、悟性魂、意識魂に分化する。そして、地球生活の中で意識魂に自我の火花が点火される。それに霊我、生命霊、霊人という未来における高度な精神的座の萌芽も同時に併せ持つ存在になるのである。こうして人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我からなる極めて複雑な織物となる。やがては、地球紀の後に木星紀、金星紀、ヴァルカン星紀がやって来る。

参考までにユングがグノーシス派に関して書いていることをご紹介しておこう。グノーシス派では、地上的人間は物質的なものである。より高度に発達すると魂的なものと水と空気が同時に生じる。「プシュケー(魂)」という言葉は「ピュセイン(ギリシア語で息を吐く)」と関係している。プシューコスはプシュークロス(ギリシア語で冷たい、湿った)に当たる。魂は空気と水の間で、様々な色に輝く。「神の霊が水に覆いかぶさる」と表現された。火の胚芽は魂、すなわち生命として人間の中に入りこみ、人間を暖める。それは霊の物質への一種の降下を意味する。秘儀では、この火の胚芽を再び解き放つことが肝要である。全ての通過儀礼では死を超えて生きる人間を作り出すのが目的だった。このように順序は前後しているものの、シュタイナーの宇宙論とのある種の関連性が見られるのである。伝統的に地水火風の四大は魂と肉体とに深く関わっており、秘儀との関係も語られている。秘儀とは霊的世界を体験することである。

7.詩と霊我

クリスティアン・モルゲンシュテルン 『絞首台の歌』

クリスティアン・モルゲンシュテルン(1871‐1914)
『絞首台の歌』

現在私たちは霊我を内的な構成要素としたばかりだとシュタイナーは言う。泳ぐ人が水に潜るように今日では、ただ予感することができるだけの霊我をもって自我の中に沈潜すると詩が生まれる。詩のような言語芸術は他の緒芸術より一層普遍的である。何故なら様々な形式を持つ他の緒芸術を自分の中に取り入れることができるからである。本来言語はそれが彫塑的・絵画的に形成されているか音楽的に形成されている場合のみ詩的=芸術であると言えるという。

神経の波が感覚知覚ではなく、感覚そのものを打つと、そこに詩が無意識の内に息づき、知覚は凌駕されるという。感覚と神経組織の間に、人間が無意識のうちに詩作する領域があるのだ。神経の波は感覚の中に流れ込む、その無意識の生命活動を取り出すことによって詩作がうまれるのだというのである。人間は内的に詩を作りながら生きている。

本来言語には三つの領域がある。コミュニケーションと学問のための道具としての言語。一つの民族として生きるための民族精神の表現手段としての言語。それに霊界で体験された言語である。霊界を体験した者は、その体験をすでに形成された言語に注ぎ込まなければならない。霊視者は言語の形成力へと侵入することによって言語の中で創造的に活動するものを再生させる。そのことによって言語に仕えるのである。それには、特別な技術が必要だ。ここでは何を語るかよりもいかに語るかが問題となる。

クリスティアン・モルゲンシュテルンのような繊細な人のみが通常の言語の使われかたを堕落として見たのだとシュタイナーは言う。個人的な親しい付き合いがあったようだ。事実に反する贅言と創造力からほとばしり出ることもない言葉で作り上げられた詩は霊視者には歪んだ絵のように見える。人間はモルゲンシュテルンがいうように霊的文盲状態から抜け出て、芸術と霊視との間に橋を架けることが必要であり、それは可能であるというのだ。このことを通して芸術に新しい光が投げかけられ、また、芸術を通して霊視に新たな熱が与えられる。正しい努力の果実として霊視の光と芸術の熱を通して人類の未来の進化の中に意味深い衝動が作用するのだと言うのである。

種村季弘さんによればモルゲンシュテルンはショーペンハウアー、ニーチェ、トルストイ、イプセンなどに影響を受けるけれど、特にニーチェの影響が強い。ニーチェの「あらゆる価値の転倒」という命題を「あらゆる言葉の転倒」に置き換えたという。合成語やルイス・キャロルなどが盛んに試みていた「鞄語」など、言語の関節をはずしてバラバラにし意想外の組み合わせにして再結合した。まあ、結合術()を楽しんでいたのだろう。そのような表現が色濃く出ている作品が1905年に刊行された『絞首台の歌』だった。若い時の「絞首台の山」への物見遊山が契機となったもので、発行以前にキャバレ文化・演劇を介して広く知られていた。それはフーゴ・バルなどのダダイストに大きな影響を与えることになる。はモルゲンシュテルンのたわごと(ナンセンス言語)は神智学(人智学)への遁走の裏返しだと評した(『左翼メランコリー――エーリッヒ・ケストナーの新しい詩集によせて』)。その後シュタイナーの思想に大きな影響を受けるようになるのである。シュタイナーは、言語の中に生き、私たちの意識下で開示されることに対する感覚を持っているものは、新語を作ることが詩=芸術と共通する内容を有していることを知っているという。霊的な体験を言語化する時、新たな言語の必要性を感じるように。それでは、ハインツ・ホリガーが作曲した『クリスティアン・モルゲンシュテルンの6つの歌』で取り上げられた詩『日の出前』をご紹介しよう。訳はモルゲンシュテルンの研究者宮内伸子さんである。

 

日の出前

鴉たちがアルプスの森のどこかで裁きを下す‥‥

天空に朝の光の中をひっそりと
慈母のような球体が浮かんでいく。

鴉たちが静まりかえった宇宙の中で鳴き声を上げる‥‥

Vor Sonnenaufgang

Raben halten wo im Alpenwald Gericht‥‥

Durch den Raum hin schwebt im Morgenlicht
geisterleis der mütterliche Ball.

Raben screi’n im geisterstummen All‥‥

 

8.オイリュトミーと生命霊

高橋弘子 『オイリュトミーの世界』

高橋弘子 編
『オイリュトミーの世界』

この先に進むなら、はるか遠い未来に成就される生命霊の霊我への沈潜について語らなければならない。それは今の時点では不可能である。そのいつか成就しうる芸術への試みがオイリュトミーである。それはシュタイナーによって生み出された新しい芸術であり、見える言葉・運動化された歌唱である。だが、既に一世紀の歴史を持っている。シュタイナーの講演録『オイリュトミー芸術』からプロットしてみよう。

はるか昔にさかのぼれば、歌のような原言語に至る。それには脚や腕の動きが生き生きと言葉につき従っていたであろう。そのため太古の言語が宗教的な礼拝形式を伴った何かを表現しようとする時、一種の舞踏が付け加わった。その頃、喉から発する言葉に人間の身ぶりが伴うのは自然な事だった。言葉は空気の身振りである。この空気の身ぶりを身体全体で模倣する時、オイリュトミーの所作が生まれる。

i は伸ばされた身体の伸長と突入の感情を、e は吐き出されて交差した息の流れの運動として表現された。このようにして、母音と子音にそれぞれの姿=身ぶりが与えられたのである。

エーテル体はいつも四肢で語る。口では語らない。言語器官は腕と手、そして両足の中で、自分をそもそも外へ表そうとする内なる動き、つまりエーテル体の動きを映しているのである。それは朗読や朗唱が一つの秘せられたオイリュトミーであることを示している。言語的な要素と目に見える言葉として表現される形姿とがオーケストラのように響きあえる時、あの魂の横溢が表出されるのである。この魂の表現のために運動は作り出されるのである。その魂の感情によって言葉にも特有の音色や調子が現われるように運動にもそれらの感情が対応しなければならない。ヴェールを伴った動きは、この感情に対応した運きを際立たせる働きをする。オイリュトミイストの着けるヴェールは照明によりまるで音色のように多彩に変化する。

9.ほんとうの世界

高橋巌さんは、本当の世界の姿とは何なのだろう、私たちが肉体を担って今ここに生きている本当のありかたというのは何なのだろうか、シュタイナーはそう問いかけてきたと強調する。真・善・美のうち真理と道徳はそれなりに重視されてきた、美とはどうでもよい存在なのだろうか。ほんとうの姿を問題にする時、真の現実を理解しようとする時、最も重要な問題になってくるのが芸術ではないかと考えてきたのである。そもそも人生を思考でもって解き明かそうとすることは幻想ではないだろうか。思考によって近づきえないものに近づくには芸術が必要なのである。神秘学と芸術は現実に対してある共通した態度を持つ。ほんとうの意味での神秘学は必ずある時点まで来ると、芸術に対する抑えがたい憧れを感ずる。芸術行為もある時点まで来ると必ず現実の背後に第二の現実を探らざるを得なくなるというのである。

ルドルフ・シュタイナー 1861-1925

ルドルフ・シュタイナー
1861-1925

今、私たちの生きている時代は、人間がますます意識的になり自由にならなければならない時代であるとシュタイナーは述べた。私たちが生きている今日という時代を理解する者は、無意識的なものを把握して意識的なものに変換し、自由へと導く。そのためにも芸術家自身によって芸術に光が注がれ、芸術と霊視の間に橋が架けられなければならない。この時代的要求を満たせないと人類の文化は行き詰まるというのである。芸術はいつでも、人間の心が何らかの衝動を霊界から受け取ることができ、この衝動を色々な外的素材によって具現する必要を感じた時に生まれた。自然の模倣や知的意図によるものではないというのがシュタイナーの芸術に関する立場であり信条である。

ユングのいう二様の現実にもう一度戻ることになるのだけれど、私たちの生きるこの時代は意識と無意識の間に亀裂が生じ、その亀裂はしだいに広がって世界観の定位喪失という危機に直面しているとユングは警鐘を鳴らし続けていた()。そのために全体性のシンボルを作りあげようとする動きがみられる。それは無意識の側からの働きかけであると言う。それなら無意識の側からの補償として神秘主義を考える事も出来るだろう。それは常にカウンタームーブメントとしての性格を持ってきた。人間が「現実」、つまりこの二重の現実という、いわば乗り物として二匹の龍の背に足を乗せているということに気づいた時、その片方が履きつぶされようとしていたのである。初期ロマン派から20世紀に至る芸術運動の中にその失われたものの回復・奪還運動としての流れを見ることも可能だろう。こうした背景の中でシュタイナーの人智学運動やその深い影響下にあったボイスの社会彫刻が真に理解できるのである。シュタイナーの医学、薬学、教育、芸術、農業などにおけるその拡がりは、まさにこのカウンタームーブメントとしての社会変革構想に貫かれていたのである。