夢の眼 『明恵上人夢記』

白洲正子 『明恵上人』 

白洲正子 1910-1998
『明恵上人』

1.能と明恵上人

書き出しは『春日龍神』という能の話からだった。栂ノ尾・高山寺の明恵上人(みょうえしょうにん)が入唐渡天を志し、春日明神に暇乞いをするのだが、一人の翁がしきりに上人を諌める。それは春日明神の社司の祖であった時風(ときふう)と秀行の化身だった。志し次第で春日の山も天竺の霊鷲山に見えるだろう。天台山を見たいなら比叡山へ、五台山なら吉野筑波を拝せばよいと言葉を尽す。後シテは龍神で霊鷲山での釈迦の説法などの奇瑞を見せて、明恵の渡航を思いとどまらせるというものだった。

明恵上人という極めてストレンジでピュアでストラッグルな夢綴り人のお坊さんのことを知ったのは白洲正子(しらす まさこ)さんの著作『明恵上人』を読んでからのことだった。その頃は西行法師や能のこと、熊野や修験道のことなど白洲さんのたおやかな文章から多くを学んでいたと記憶している。明恵上人の残した夢の日記である『夢記(ゆめのき)』のことを教えてもらったのもこの本である。白洲さんは、明恵上人の中には甲斐なき生ならば『生きて何かせん』という武士の血潮が流れていて、それが一途な思いを通そうとする生き様に反映したという。この人が信じたのは、仏教と言うより釈迦という一人の美しい人だった。そして、明恵が書き残したその夢は生きており、信仰を深めるための原動力であって、夢と日常の生活が、不思議な形で交じり合い、絡まり合っていくのは、あたかもアラベスクを見ているようだと書いている。明恵上人についての本を読まれるなら、まず、この白洲さんの本を是非お薦めしたい。とてもよくまとめられているし、愛がある。

明恵は、十九歳から六十歳までの約40年にわたって見た夢を『夢記』に書き残してきた人なのである。勿論夢を記した僧たちは他にもいた。例えば、『日本霊異記』の筆者、景戒などはその著書に自分の死ぬ夢を書いていて、自分が死んでその身を焼く時に、「魂神(たましい)」が上手く焼けるように小枝で死体を突き刺したり、裏返したりしたという、はなはだ凄まじい夢を残している。だが、それは断片でしかない。多門院英俊の残した『多門院日記』には五十年以上にわたって書かれた500にのぼる夢が記されているのだが、心理学者の河合隼雄(かわい はやお)さんは、それらを評して悪しき夢判断の犠牲としている。夢判断の誤りはその夢の効力さえ歪めてしまうらしい。伴大納言は「西大寺と東大寺とを跨(また)いで立つ」夢を見たのだが、その妻が「股が裂けるんじゃないですか」と言ったばかりに、大納言の位には昇ったものの罪を蒙って流されたと言われている。

2.夢のトリガー

この明恵の夢について、河合さんが『明恵 夢を生きる』の中でユング派の立場から興味深い文章を残している。河合さんの文章はとても上手だし、講演などを聞いても頗る話の面白いのには驚かされたものだった。印象的な著書は 『中空構造 日本の深層』だったろうか。

フロイトは、夢を「抑圧された願望の偽装された充足である」とした。フロイトの『夢判断』を読んで感激したユングは一時期研究を共にするが、やがて袂を分つことになる。人間の無意識は、自我によって抑圧された内容だけでなく、もっと広く深いものだと考えたからだ。夢は、その無意識からの働きかけであるのだ。ユングは夢そのものを大切にした。そして、なにより夢に関する二人の大きな相違点は、夢における象徴の問題である。フロイトは性象徴を重視したのだが、ユングは何か未知のものを表現しようとして生じた最良のもので、それ以上適切な表現が見つからないものが象徴であるという。だからといって分かり易いわけではない。

河合隼雄 『明恵 夢を生きる』

河合隼雄 1928-2007
『明恵 夢を生きる』

夢のトリガーには様々な要因がある。まず、病気や食べ過ぎなどの不快な体の状態による身体的な原因。音、光、寒さ、暖かさなどの周囲の物理的出来事による刺激の場合もある。このような経験をされたことはおありではないだろうか。夢の中で物音がして目覚めるのだが、同時に現実にも大きなもの音が生じていたという場合である。他に周囲の人の特定の出来事や心的経過が、無意識によって知覚される場合がある。例えば、三、四歳の子が、天使がやって来て地面から何かを拾い上げて空へ飛んでいく夢を見る。――同じ夜、この子の飼っていた愛犬が死ぬなどというパラレルな現象を伴うような夢である。それから、過去の出来事や完全に忘却の彼方にあった人物、場面、建物、家具、人の顔が再現される場合である。潜在記憶が現われるのだ。そして、最後に現在では認識できない未来の出来事が要因になって夢に見られることがある。夢み手の未来の行為または状況を指し示す夢である。そういう夢が印象深ければ、生涯消えることなく記憶に留まるという。

このように夢の要因を挙げることができるのであるが、夢は決して一義的ではない。その解釈には様々な可能性があるのだが、それを解くのには四つの公式があるというのでご紹介しておこう。

1.夢は特定の意識的状況に対する無意識の反応である。明らかに日中の印象が現われ、その内容の補完または補償として夢があらわれる。こういう夢は、前日の特定の印象がなければ生じない。
2.夢は意識と無意識の葛藤から生じた有様を示す。この場合、特定の夢を誘発した意識状況は存在しておらず無意識の自発性が関係している。無意識がある意識状況に別の状況を付け加えるのだが、その程度に応じて、両者の間に生じる葛藤も異なってくる。
3.夢は、意識態度の変容をめざす無意識の働きを表している。この場合、無意識の立場は、意識の立場より強い。夢は、無意識から意識へと傾斜する。非常に意義深い夢がそれなのである。それらは特定の態度を持つ人をすっかり変容させることがある。
4.夢は、意識状況との関係の見えてこない無意識の過程を示す。この種の夢は大変奇妙で、その独特の特質のためにしばしば非常に解釈しにくい。その時、夢み手は、何故そんな夢を見るのかひどく不思議がる。なぜなら、状況のつながり具合がさっぱり分からないからである。それは無意識の自発的産物で、その際全一な活動性と深い意味を担う。これらの夢は、圧倒的な性格を持っていて、かつては「大きな夢」と呼ばれた。いわゆる「神から送られた夢」であり、啓示である。(カール・グスタフ・ユング 『子どもの夢』)。

ユングはこう述べている。ある夢の意味を仮定し、そこからその意味づけが他の夢をも同様に説明するかどうか、つまり、より一般的な意味を持っているかどうかを確かめることができる。また、夢系列では統制を試みることが可能である。夢系列ではそれぞれの夢がお互いに意味深く結びついている。それらは中心的内容を繰り返し異なった側面から表現しようとしているかのように見える。この意義深い核心に触れる時、個々の夢を解明する鍵が見出される。勿論夢系列をどこで切るかは、必ずしもつねに容易ではない。意識の覆いの下で生じているのは、一種の独り言である。それは、夢の中である程度聞かれるが、覚めている時には言わば沈み込むのである。しかし、その対話はけっしてとだえることことがない。おそらく、われわれはいつも夢を見ている。しかし、意識があまりに騒ぎ立てるので、覚醒時にはもう聞こえないのである。〔無意識の経過を〕脱落なしに記録することができれば、全体がはっきりした線を描いているのを見ることができるだろう。しかし、徹底的にそれを行うのは、非常に困難な作業であるという。

明恵上人集 歌集、夢記、上人伝、遺訓が収められている。

『明恵上人集』
歌集、夢記、上人伝、遺訓が収められている。

3.今は十三に成りぬ 既に年老いたり

明恵が幼い頃、父が戯れに美しい顔形だから御所に仕えさせようと言ったのを聞いて、彼は僧侶になるのだからと言って、縁側からわざと落ちて顔を傷つけようとしたが、人が見ていて抱き取ったという。顔を火箸で焼こうとしたこともあるのだが、恐ろしくなって肘の下のところに押し付けてみたがあまりの熱さに泣いてとどまることになる。

明恵が9歳の時、(平清盛が没する)高雄に入山した日、死んだ乳母の体がバラバラに刻まれて散らかっている様子を夢に見た。その苦しみたるやまことに見るに堪えない。平生罪の深い女であったから、思えば殊に悲しくなり、良い僧になって後生の助けになってやりたいと思った。この時、明恵は自分が僧侶になるということを真に受け入れたのだろう。こうして修行が始まるのだが‥‥

12歳の時、(木曾義仲敗死、一の谷の合戦で平氏が破れる) 明恵が真正の知識を求めて、高雄の神護寺を出ようとしていた時の夢である。三日坂まで下ったところで道に大きな蛇が横たわって頭をもたげている。八幡大菩薩の使いとして大きな蜂が飛び来って、「汝この山を去るべからず。もし押して去らば、さきに難に遇うべし。いまだその次節到来せざる故に、道行(どうぎょう)また成すべからず」と言ったところで眼が覚めた。

明恵13歳の時、自殺を企てる。(この年の二月に壇ノ浦の戦で平氏が滅亡)『上人伝』によると化野の三昧原(さんまいばら)の墓地に行って夜の間、そこに横たわって狼にでも食われて死のうと思ったようである。当時は風葬で死体は九相図にあるような不気味な有様だった。九相図についてはそのうちご紹介したい。「夜深けて犬ども多く来りて、傍なる死人なんどを食う音してからめけども、我をば能々(よくよく)嗅ぎてみて、食いもせずして、犬ども帰りぬ。恐ろしさは限りなし」と書かれている。また「今は十三に成りぬ。既に年老いたり」ともある。唐の詩人李賀は、「長安に男児有り 二十にして心已に朽ちたり」(『陳商に贈る』)と詩に書いたが、明恵はもっと早熟だったことになる。もっとも、河合さんは子供が12、13歳くらいのときには心はある種の完成に至り、性衝動による未知なる混乱の深さに対して、その完成度を保たんがために自殺する場合があるというのだが。

文治四年(1188)、(源義経が奥州に逃れる) この年、16歳で落髪し、東大寺の戒壇院で具足戒を受ける。出家後の名は成弁、後に高弁と改名した。仁和寺で真言密教を、東大寺で華厳宗・俱舎宗を、禅を栄西に学んでいる。特に栄西には自分の宗を受け継いでほしいと望まれたという(『上人伝』)。今でいえば自傷行為と自殺未遂、家出未遂を繰り返す若者ということになるのだろうが、そこには僧侶への願望や理想が輝いていたのである。明恵のストレンジやストラッグルにはピュアな光が投げかけられていたのだ。

4.夢の眼

明恵13歳 (文治元年 1185)の時の夢が『上人伝』に書かれている。弘法大師のお供として納涼房に参った夢である。納涼房の長押を枕にして弘法大師が寝ておられる。その二つの眼の水精の玉のようなものが枕元にあった。それを給わって袖に包みもち、宝物をいただいたと思ったら目が覚めた。河合さんは、空海の眼を貰って宝物と思うのは大師のものの見方を自分のものとして引き継ぐというように解せられるとしている。この眼は密教の修行に大いに役立ったのだろう。

明恵念持 仏眼仏母像 夢記の中で明恵は、しばしば自分の念持仏=仏眼仏母を「母御前(ははごぜん)」と呼んでいる。画面の背景の文字は、この明恵みずから書き込んだもので、その中に「母御前々々々」と何度も呼びかけている句がある。

明恵念持 仏眼仏母像
夢記の中で明恵は、しばしば自分の念持仏=仏眼仏母を「母御前(ははごぜん)」と呼んでいる。画面の背景の文字は、明恵みずからが書き込んだものである。

19歳の時、(建久二年 1911) 密教における金剛界を伝受され、毎日仏眼法を修していると、数々の奇瑞があらわれる。天童が明恵を宝の輿に乗せ、仏眼如来、仏眼如来と呼び歩くので、自分がすでに仏眼なったように思う。あるいは、荒れはてた家にいて、その下に無数の蛇や蝎などの毒蟲がいたが仏眼如来に抱かれてその恐ろしさから免れることができた。そんな夢を見るのである。仏眼の懐に抱かれて常に養育していただく夢などもあった。同じ年の夢に、精を出して仏眼法を修していると、その夜の夢に、行堂して念誦するとき下方を見下ろすと、群猪六七匹、西から東へ走って行く。不思議な珍獣であり、七星が下ったものかと思われたという。それから、ついに 仏眼尊が眼の前に顕現する。そして、仏眼如来から表書に「明恵房仏眼」と書いた消息を給わり、開いてみると殊勝不思議の真字で書いてあったという。明恵の名はここに由来する。

仏眼仏母は、如来の眼を象徴化した仏様で、一切仏眼大金剛吉祥一切仏母という長い名前を持つ。吉祥天と関係を持っているようだ。また、毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)の異名ともいわれ、仏眼尊、虚空仏眼仏母ともいう。頭上に戴いているのは、智恵の王者を象徴する獅子冠である。明恵が若い頃から守り本尊として信仰し、また瞑想の対象としてきた仏眼仏母像が高山寺に現存している。その絵には明恵の讃が書かれている。

もろともに あわれとおぼせ み仏よ きみよりほかに しるひともなし 無耳法師之母御前也

とある。どうして、耳無し芳一ならぬ耳無し法師なのかは次に述べる。釈迦が明恵の父であるなら、仏眼仏母が彼の母であった。明恵の母は、彼が8歳の正月を迎えた時、病死する。紀州一帯に勢力を持っていた武士の湯浅宗重の娘であった。父は高倉院の武者所に仕え、平七武者といわれた平重国であったが、源頼朝挙兵後、上総で敗死した。同じく明恵8歳の9月ことであった。

5.耳無し法師と文殊菩薩

明恵上人像 恵日房成忍 高山寺蔵 13世紀

明恵上人(1173-1232)像
恵日房成忍
高山寺蔵 13世紀

建久六年(1195)、23歳の時、頼朝が上洛し、東大寺再現供養を行う。明恵は東大寺への出仕を取り止めて神護寺を出て故郷に近い紀州の白上の峰に籠った。その翌年のことである。右耳を仏壇に縛りつけ剃刀をもって切り取ってしまうのである。「血ハシリテ本尊ナラビニ仏具ナドニカカレリ。其血今ニ失セズ」と『行状記』にあり、凄惨な有様だった。父の重国が法輪寺で息子を授かるように祈ったところ、夢に法輪寺の内陣から人が出てきて、汝の所望を叶えようと言って右の耳に針を刺したという話が伝っている(『上人伝』)。この話に符合するのだ。その夜の明恵の夢には、一人の梵僧が現われ、明恵が如来の供養のために命を捨てようと耳を切ったことを記し留めると告げた。そして大きい一冊の書に書きこんだという。

白上の峰でゴッホのように耳を切った翌日、明恵は華厳経を読みながら涙に咽ぶ。そうしていると眼の上が忽ち輝いて、虚空に金色の獅子に乗った光り輝く文殊菩薩が眼前に現われるのを見る。身の丈三尺あまり、やや久しくして消えたという。まぎれもない文殊菩薩の影向だったのである。

その後、次のような二つの夢を見た。一つの塔があり、昇ってみようと思った。一重を昇り、二重に手を懸け、どんどん昇り、これは月や太陽の住処も過ぎるぞと思っていたら、最上に至って九輪があり、また昇ると流宝流星(塔頂にある九輪の上にある宝珠と龍車のこと)の際に至り、手を懸けようと思ったら目が覚めた。この夢には続きがある。先日昇り終わらなかったのが心残りだったが、二十日余りして夢にその塔が現われた。今度は登りきろうと思い、塔を昇ると流星流宝の上に至りその上に立って見ると、十方世界がすべて眼前に見え、日月星宿も眼下に見えた。色究竟天より高く昇った気がした。仏教においては、世界は欲界、色界、無色界に分けられる。色界は淫欲と食欲を離れた生き物の住む世界で十七天あり、色究竟天はその最高天である。これは驚くべき上昇の夢なのだ。

ユングは、眼は母の子宮であり、瞳孔はその中から生まれる子供であると述べている。仏眼如来によって明恵は母の胎内におけるような一体感を得ていたにちがいないのだが、この現実の世界へと再生を果たさなければならなかった。そのためには、犬に身を投げ出して死を願うとか、耳を切るなどという自傷行為が必要だったのではないかと河合さんは見ている。それは、やがて高昇して宇宙的な意識へと繋がっていったのである。老婆心ながら申し添えたいのだけれど、インドのグル(導師)であったバグワン・シュリ・ラージニーシは、自分が電信柱に頭をぶつけて覚醒したとしても、それを弟子に勧めたりしないといっていた。

6.夢と結合

明恵の周囲には沢山の女性がいた。後鳥羽上皇が鎌倉幕府へ反旗を翻した承久の変の後には朝廷側の武士や公家の未亡人たちを多く匿ったし、彼を尊崇する女性も跡を絶たなかった。生涯不犯の明恵であったが、性的な夢を隠さない。河合さんによれば性行為の夢は誰でも見るけれど、それほど頻度の高いものではなく、性欲が強ければそういう夢を多く見るということもないらしい。それより重要なことは「結合」とか「関係」というある種、畏怖の感情を伴うことが多いということなのである。女性にはある種の「侵入」として、男性には「溶解」としての意味をもつらしい。

父母仏における金剛薩埵 ネパールのタンカ The British Museum

父母仏の金剛薩埵
ネパールのタンカ
The British Museum

建永元年(1206)十一月四日、明恵36歳の時の夢である。高雄から京に出た。その夜摩利支天像を礼拝した。夢は次のようなものであった。ある堂に参詣した。中に木像の天女像がある。成弁に微笑を見せて顔を向けておられる。 成弁はこの天女像を腕で抱き申し上げて、口を吸い申し上げる。互いに愛撫を交わすと、天女はいとおしそうに想っていらっしゃる。また、多くの天女の形像がある。七、八人ほどであった。夢はそれで終わるのであるが、摩利支天とは陽炎の神格化を言う。天女の姿あるいは三面六臂または八臂で猪の上の三日月に乗った姿で表される。

建歴元年(1211)39歳 十二月廿四日の夜の夢は次のようであった。一つの大きな堂があった。その中に一人の高貴な女性がいた。顔かたちがふっくらとしていて、思いの外太っている。青い重ね衣を着ていらっしゃった。後戸のような所で対面したのだが、心の中でこの人の目鼻立ちや容姿は、香象大師(法蔵)の注釈と符合していると思った。その女陰などもまた符合している。すべてが法門である。この対面の作法もまた法門である。この人と寝所を共にして男女の交わりをする人は、皆、菩提の因縁となるにちがいない、云々。それでお互いを抱き合って馴れ親しみ、深く哀れみ慈しんだ<この作法もまた香象大師の注釈に符合する気持ちがした>。

鎌倉中期の仏教説話集である沙石集には「仏舎利を感得したる人」の話があり、浄土堂の後戸で「変化の人」である歩き巫女(全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行う巫女)から仏舎利を授けられた際の奇瑞が記され、後戸が奇瑞の起こる聖所であることが窺える。それから香象大師(法蔵)の注釈とは『六十華厳経』の注釈『華厳経探玄記』のことで、その女性の姿形が婆須密多女の容姿と符合しているといっているのだ。華厳経「入法界品」には、財善童子が二十五番目の善知識、婆須密多女を訪れた際の説話に「私を抱擁すれば、貧欲を離れ、私に口づけすれば貧欲を離れ、浄土往生の願いが果たされる」という記述があるようだ(『明恵上人夢記訳注』)。

大乗仏教における観音の女性化や方便としての性の問題はで述べたことだが、その遠因はインドのタントラにあり、それが密教に流れ込んで理趣経などの性的歓喜を肯定するような内容を伝えることになる。ここに煩悩即菩提という言葉も生まれるのだが、この男女合体のイメージは、対極的な価値の合一という極めて重要な心理学的な内容を持っている。密教ではいわゆる父母仏という合体尊がよく見うけられるし、西欧の錬金術では王と王妃の結婚というテーマとして有名だ。

7.夢の魚

嘉禄二年(1226)明恵53歳  六月一日より、もっぱら三時に五秘密法を修した。その間に光明真言法を兼修した。その夜の夢は次のようだった。吉王女が摩竭魚(まかつぎょ/伝説上の魚、鯨のイメージに近い)を紙に包んで持って来てこれを見せた。長さは八寸ばかりであった。朽ち乾いた様子で生きている。その魚は次第に口を大きく開き、また足があって、わたしと並んで歩いて行く。一つの大殿があり、人のいない方に着いて、私を待っている。(それは)私にそうした心があるからだ。しかし、夜なのに日を見る所に出た。だから行かなかった<その夜は激しい雨で、洪水であった>。考えてみると、それは五秘密・光明真言の二法の三眛耶(徴あるいは持ち物)を見たのだ。これを思うべきである。

五秘密曼荼羅 中央に大きく金剛鈴と五鈷杵を持つ金剛薩埵を描き、 矢を持つ欲金剛、  背後から金剛薩埵を抱く触金剛を、摩竭魚幢というのぼりを持つ愛金剛を、両手を握って(二手金剛拳)座っている慢金剛を描く。 図録 別尊曼荼羅

五秘密曼荼羅
中央に大きく金剛鈴と五鈷杵を持つ金剛薩埵を描き、 矢を持つ欲金剛、背後から金剛薩埵を抱く触金剛、摩竭魚幢というのぼりを持つ愛金剛、両手を握って(二手金剛拳)座っている慢金剛を描く。
『図録 別尊曼荼羅』

五秘密法とは、密教における金剛薩埵(こんごうさった)とその別徳を表す欲金剛・触(そく)金剛・愛金剛・慢金剛との五金剛菩薩の曼荼羅を本尊として、滅罪生善のためにする修法のこである。金剛薩埵は荒神や摩多羅神と関係している()。その中の愛金剛は摩竭魚幢(まかつぎょどう)というのぼりを持つ姿で描かれる。それから光明真言法であるが、これも密教の金剛界五仏である大日・阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・阿弥陀・不空成就の五如来に対して光明を放つように真言を唱えて罪障、宿業などを除くように祈願する法である。

明恵の教学は華厳を基礎とするが、華厳と真言密教を融合した厳密(ごんみつ)と呼ばれる独自の宗教観を打ち立てたといわれている(『明恵上人夢記 訳注』)。禅もさることながら密教の実践的な修行も重んじ、中でも仏光観と光明真言とが重視されている。しかし法然や栄西のように新たな宗教を興した訳ではなく弟子も積極的には取ろうとしなかった人である。

某年某月十九日 <この日の初夜から釈迦法と文殊法を劫行した>の夢は次のようなものであった<その夜、彼の寺の合事を祈った>。一つの石を得た。長さは一寸ほど、横幅は七、八分、厚さは二、三分ほであった。其の石の真ん中に眼があった。それは長さ五分ほど、幅二、三分ほどであった。その石は白色であった。しかし、純白ではなっかた。少し鼠色がかっていた。この眼があることによって大いに大霊験があった。すなわちぴちぴちと動くことは、生き物のようであった高弁(明恵)は、右手の中にこれを取り上げ、上師(上覚)にお向かい申し上げ、これをお見せした。手から放して、これを置いた。ぴちぴちと動くことは、魚が陸に揚げられた時のようであった。上師はこれを見て喜んだ。高弁が申し上げて言うには、「これは石眼という名です<これはこの石の名前である>」‥‥

この後には釣り懸けられた干物のような魚や、皮のような生き物の話も出てくるのだが、師である上覚については後で述べる。魚はとても複雑な象徴である。摩竭魚は愛金剛の持つエンブレムだが、眼のある石の魚はとても興味深い。大霊験があっても不思議ではないのである。ユングによれば魚は、呑み込もうとする貧欲さの考えられうる千姿万態であるようだ。野心的で、好色で、飽くことをしらず、物欲しげであるという。だが、一方で魂のシンボルとして祀られていたという()。魂の導者としての性格と貧欲さを併せ持つ両義的な存在なのだ。その魚に足があって歩くのだ。もう一つの夢に出てくる石にいたっては、まるで魚であるのがいい。

折口信夫(おりぐち しのぶ)さんは、漂著石――石移動の信仰として、たま(魂)が、石に入る、あるいは入ってやって来る信仰譚を挙げる。一夜のうちに、常世の波にうち寄せられて忽然と石が現れ、見る見るうちに大きくなるのだ。そして、石そのものがあちこち移動し、歩くという話がそこから発生したという。神の入れ物としての石である。あるいは、石こづみという石の中に人をつみ込む風習が古く日本にあったことを指摘して、男子が若者になるために先達とともに山に登り、ある期間、山籠りをする、そのような際にそれが行われたり、山伏しの復活の儀式として行われた時代があったに相違ないというのだ(『霊魂の話』)。こうしてみるとこの二番目の夢の石の不思議さは際立ってくる。体の半分ほどもある眼がついていてぴちぴち動くのだ。これはすごい夢である。

8.明恵とエステティーク

絹本著色釈迦如来像 12世紀 神護寺

絹本著色釈迦如来像
12世紀 神護寺

明恵は承安三年(1173)に生まれ、寛喜四年(1232)60歳で没した。8歳で父母を失ったことはすでに述べた。高雄山神護寺の文覚について出家する。文覚のもとには叔父の上覚がおり、その上覚を頼って神護寺に入ったのである。神護寺はこの上覚が文覚の後を継いだ。この叔父は都会的な教養人であり、『和歌色葉集』を著すほど歌にも造詣が深かった。明恵は、学問、詩歌を、そして、出家、受戒などの僧としての式をこの叔父に授かっている。18歳までは詩歌の道にも励んだ。そして、建永元年(1206)34歳の時に後鳥羽院より神護寺の近くの栂尾の地を賜り、高山寺を開くことになったのである。現在の高山寺には、明恵在世当時「経蔵」と呼ばれた建物が「石水院」として現存している。南縁からの眺めは空中楼閣にいるようで美しい。

「心の数寄(すき)たる人の中に、目出度き仏法者は、昔も今も出来(いできた)るなり。詩頌を作り、歌連歌にたづさはることは、あながち仏法にてはなけれども、かやうの事にも心数寄たる人が、やがて仏法にもすきて、智恵もあり、やさしき心使ひもけだかきなり」(『明恵上人遺訓』)。仏の道にも数奇たる心は大切だというのである。明恵は単なる修行一途のこちこちの僧侶ではなかった。エステティシャンだったのである。15、6歳の美女の夢をみてもそれを抑圧し、振り払うような様子はないが、頭を綺麗に剃ってみせるとか、きらびやかな衣装を纏うということを彼は嫌った。だが、美しいものは愛したのである。

西行は明恵が若者の頃、しばしば神護寺を訪れていた。そして明恵にこのように語ったといわれている。花を詠んでも実の花とは思わない、月を詠んでも同じである。ただ、縁に随って読み置くだけだ。虹がたなびけば虚空が彩られ、太陽が輝けば虚空が明るくなるのと同様である。しかし、虚空そのものの姿が、明るくなったわけでも彩られたわけでもない。この虚空のような私の心が風情に種々彩られるとしても、その跡形も心には残らない。こような歌は如来の真の形ではないだろうか。一首詠んでは一体の仏像を造る思いをし、一句を思い続けて秘密の真言を唱えるのに同じである。自分はこの歌の道によって仏法を得ることがあった。若し、ここに至らないなら妄りにこの道を学んでも邪道に入るだけだろう。このように明恵の弟子の喜海は『上人伝』に書き残している。

西行が亡くなったのは明恵が18歳の時で、自分は18までは詩歌にも没頭していたという彼の言葉に符合するものがある。明恵の歌を一首挙げておく。

あはれ知れと我をすすむる夜はなれや松の嵐も虫の鳴く音(ね)も(玉葉615)

この歌などは明恵の以下のような心境を表しているようで興味深い。「凡そ仏道修行には何の具足もいらぬなり。松風に眠りをさまし、朗月を友とし究め来り究め去る寄り外の事なし」 (『遺訓』)。明恵の心は透明で滞りがなくなっていった。

そして、もう一つ付け加えておきたいのは明恵の周辺には隆信、信実、勝賀、成忍などの一流の画家がひしめき、運慶一派とも交流があって、当時のいわば芸術センターをつくっていたことである(白洲正子『明恵上人』)。芸術家との付き合いが深かったのだ。それは華厳縁起絵巻という絵巻物に結実していくのである。華厳宗の義湘と元暁という二人の祖師の物語である。彼はこの絵巻のアートディレクターであったのだ。僕は明恵の幼年期を過ごした神護寺の芸術的な環境を指摘しておきたい。神護寺には絹本著色釈迦如来像や岡本太郎を瞠目させた紫綾金銀泥両界曼荼羅図があった。通称高雄曼荼羅と呼ばれるこの両界曼荼羅は、紫地に金銀泥で描かれた空海在世時の作で、空海が唐から請来した曼荼羅原本の唐様式を最もよく示すものといわれ、寺外に流出した時期もあったが明恵12歳の時に神護寺に返還されている。明恵の美学はこのような環境で育まれたのである。ちなみに弘法大師の水晶のような夢の眼を見たのは、この翌年のことであった。

9..夢と死

春日明神権現記絵巻 託宣する湯浅宗光の妻と感涙する明恵上人 kansuke  

春日明神権現記絵巻
託宣する湯浅宗光の妻と感涙する明恵上人

能の『春日龍神』では明恵を諌める老人は春日明神の社司の祖という設定になっていた。心理学者のユングは夢の構成をおよそこのように分けている。1.場所 (場所・時間・登場人物) 2.導入部 3.転回点 4.大詰め 以上である(『子どもの夢』)。 能の橋掛かりと舞台、そして序破急の構成を思わせるのは面白い。それはともかく、春日明神は藤原氏の氏神であり、明恵の母方である湯浅氏は藤原鎌足の後裔を自称していることから、明恵にとっても氏神にあたる。明恵の天竺渡航の企ては三度に亘って挫折するのだが、31歳(1202)の時には春日明神が明恵の叔父である湯浅宗光の妻に乗り移って託宣するという事件が二度も起こった。その時の彼女の様子は、顔は奇異で世に類がなく、色白く水晶のように透明で声も哀雅で聞くものは全て涙に咽んだと言う。糸野の御前と呼ばれたこの女性は、明恵と同世代で、彼が祈請によってその病を救って無事に子供を出産させるなど深い関わりのある女性だった。

十代の時、神護寺を去ろうとして、押し止めたのは八幡大菩薩の使いである蜂と蛇の夢であった。もし、山を出ていれば源平争乱の巷で平氏の血を引く明恵はどうなっていたか分からない。河合さんによれば、三度目の天竺渡航を断念したその年、1203年はインドで仏教が滅亡した年であり、もし、明恵がインドに渡っていたならイスラム化したインドで生き続けることは、できなかったろうと書いている。

晩年の明恵は、高山寺での著述や講義で多忙であり、高僧としての評判や講義に対する人気はいや増していくのだが、内的な修行も怠らず、時に裏山に籠って禅定に勤(いそ)しんだという。しかし、無常迅速の波は明恵をも逃さない。そんな時、十二縁起に関する夢を見た。苦が生じ、繰り返されるプロセスを無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死という一二の因果関係から説いたもので、その十二縁起を越えようとしたが老死という死人がいて、怖くて越えられなかった、今度こそ越えようと思ってその上を踊り越えたという(『行状記』)。老いと死はここでは死人としてイメージされている。明恵といえど死は乗り越えがたいものであった。しかし、しだいに内的な準備はなされていったのである。

寛喜三年(1231)明恵59歳、食事がとれなくなり病状はかなり悪化していた。そんな時の夢である。大海のほとりに大きな磐座(いわくら)があって先が高く聳えたっている。草木が繁茂し花が咲き乱れ実がたわわになっていることの他美しい光景だった。大神通力をもって山海もろ共に十町ばかりを引き抜いて自分の居所のかたわらにさし接いだ。この夢は死の夢だろう。来世の果報を現世に接いだのであると書かれている(『行状記』)。

手を洗い袈裟を着て数珠を取り、弟子たちに各々陀羅尼を誦して宝号を唱えるように指示して観に入った。観から出ると、その時が来たと言って釈迦のように右脇臥に臥した。最後の言葉は、「我、戒を護る中より来る」であったという。まことに見事な往生であった。弟子たちが書き残したことによれば多くの人が明恵の死を夢で予見しており、例えば大福寺執行貞俊阿闍梨は、雲にまで達している宝塔を明恵が上がって行き、塔の下には門弟をはじめ道俗が群集している夢を見て、夢の中で明恵入滅を悟ったという。正に戒を護り、夢に導かれた一生であった。

明恵上人夢記 高山寺から流出した山外夢記が網羅されている。

明恵上人夢記
高山寺から流出した山外夢記が網羅されている。

尚、末尾となって恐縮ですが、春日明神権現絵巻の図像はkansuke氏の許可を得て掲載させていただきました。この場をお借りしてお礼申し上げます。