一碗 茶・チャ・ちゃ part1 陸羽『茶経』対話篇

緊圧茶(団茶) 茶葉を加工圧縮して成形したもの。形状によって餅(へい)茶、碑(せん)茶、沱(だ)茶、小沱茶などの種類がある。この写真の緊圧された茶葉の種類は全て普洱茶である。

緊圧茶(団茶)
茶葉を加工圧縮して成形したもの。形状によって餅(へい)茶、碑(せん)茶、沱(だ)茶、小沱茶などの種類がある。この写真の緊圧された茶葉の種類は全て普洱茶である。

日が高く昇るまでぐっすり寝ていた。すると、使いの兵がドンドンと門を叩いたので目が覚めた。親友の孟諌議(もうかんぎ)からの手紙を持ってきたと言う。その手紙は、白絹で包まれ、斜めに封じて、更に三つの印の押された丁重なものだった。封を開けると目の前にこの友人がいるような気がした。彼が自ら選んでくれた月団(げつだん/上等の団茶)三百個を手にした。‥‥暖かい風によって、茶の樹には人知れず真珠のような蕾が萌し、春に先駆けて、黄金色の新芽を吹きだす。鮮やかな葉を丁寧に摘み、香り立つように焙(あぶ)っては直ぐに包む、心惹かれるような立派な茶葉でありながら、自慢げな所がない。皇帝への献上の余りは王侯貴族に下賜されるのは慣例になっている。しかし、どう言う訳か、隠居の身であるこの山人に贈られてきたのだ。貧乏家の門を閉じる、これで俗客はもう来れない。頭巾で頭を包み、貰った茶葉を自ら煎じて喫する。お湯から湧き出る湯気は碧雲のようで、茶湯が風のように吹きあがってやまず、白い花のような茶の泡は光を浮かべて茶碗の表面に充ちる。

一碗喉吻うるおう( 一碗飲めば口やのどを潤し)
両碗孤悶を破す(二碗飲めば孤独の煩いを除く)
三碗枯腸をさぐる(三碗飲めば萎んだかのような肚わたからも詩情が見い出され)
唯だ有り文字五千卷(そこには五千巻の書物も在ろうか)
四碗軽汗を発す(四碗飲めば軽く汗が出て)
平生不平の事(平素の不平も)
盡く毛孔に向かって散る(ことごとく毛穴から去っていく)
五碗肌骨清し(五碗飲めば骨や肌まで清くなり)
六碗仙霊に通ず(六碗飲めば仙霊の世界に通ずる)
七碗吃するを得ざるなり(七碗はもはや飲めない)
唯だ覚ゆ両腋習習として清風の生ずるを(ただ両腋からそよそよと清い風が吹いてくるのを覚える)
蓬萊山いづくにかある(蓬莱山はいったい何処にあるのだろうか)
玉川子此の清風に乗じて帰り去らんと欲す(玉川子〔ぎょくせんし/盧仝の号〕はこの風に乗ってそこに帰りたいと思う)

‥‥‥

中唐の詩人盧仝(ろどう/?-835)が親友の贈り物である素晴らしいお茶に対してお礼として書きしるした詩。それがこの『筆を走らせ孟諫議(もうかんぎ)の新茶を寄せるに謝す』だ。ここには隠士としての境涯と仙界への憧れ、清貧と慎みが言祝がれている。唐の人々に茶の素晴らしさを浸透させた有名な詩で、日本でも煎茶中興の祖といわれた売茶翁 高遊外(ばいさおう こうゆうがい)が、唐代の茶歌の先駆であり、文人茶の祖でもあるこの盧仝の正流を自称した。彼のこの精神を受け継ぎたいと願ったのだ。

おや、誰かやって来た。見覚えがあるけど‥‥誰だったかなあ。

学匠: 先生、こんにちは。

師: 君のことはちゃんと覚てるけれど、え~と、名前が‥‥

学匠: あら、いやだ。また、お昼寝してらしたんですか。こんなところで寝てたら風邪ひきますよ。それより、今日は先生にお聞きしたいことがあって来たんですけど、ちょっとお時間いいですか。

師: うん、いいけど。君の名‥

陸羽(733‐804) 『茶経』

陸羽(733‐804)
『茶経』

学匠: 先生、最近お茶に凝ってらして、『茶経』の本ばかり読んでるって聞きましたよ。隅に置けませんね。

師: ええー  そんなに知られてるの、おかしいなー。 誰にも言ってないのに‥‥ それで、質問ってなんだい。

学匠: 私、今、良寛さんの草書のこと調べてるんですけど、懐素(かいそ)っていう唐のお坊さんが書いた『自叙帖』とかを一生懸命習ってたんですよね。それで、『懐素伝』を書いた陸羽(りくう)っていう人がいるんですけど、その人がなんでも『茶経』を書いたっていうんで‥‥そのことをお聞きしようかなと思ってきたんです。

師: いきなりディ―プな質問するね。唐末の陸広微が書いた『呉地記』という書物に「陸鴻漸(りく こうぜん)書を善くす。かつて永定寺の額を書き、『懐素(かいそ)伝』を著す」と書かれている。陸鴻漸は陸羽(りくう)のことだ。それで、『中国書法大辞典』では陸羽を唐代の書家の一人としている。『陸羽 茶経の研究』という本に書かれているよ。

学匠: へーえ やっぱり、そうなんだ。だったらいいなあと思ってたんですよ。さすが、先生。もの知りですね。

師: おだてには乗らないけど、少しは陸羽の勉強したのかなあ。

学匠: 私、知ってますよ。中唐の人でお茶の本書いた人でしょ。茶聖とか茶仙とか茶神とか言われた人ですよね。なんでも、捨て子だったとか‥‥。 それくらいですかね、ハハ。

師: 困った人だなあ。じゃあ少し陸羽のことを話してみようか。

学匠: わ~すてき。是非、お願いします。

師: 唐の中期には、喫茶が大きな進展を見せた。雲南をはじめ、茶を産する中国南部では、既に茶がかなり飲まれていたけれど、8世紀に禅僧がそれを北部にもたらしたんだ。禅の僧堂における茶礼だね。茶と禅はその発展の歴史を共にしていた時代が長い。これに拍車をかけたのが茶文化史上不朽の名著とされる『茶経』三巻を著した陸羽だった。彼によって喫茶は文化の中に組み入れられたんだ。

学匠: お茶って中国なんかでは、古代からみんなじゃんじゃん飲んでたんじゃないんですね。日常茶飯事って言うけど。

師: 唐も半ばになって、一般の人々の間でも盛んに飲まれるようになったんだね。もともと茶は薬だった。その話の前に『茶経』の内容をざっとだが話しておこう。上巻が、一之源(茶樹について)、二之具(製茶の器具について)、三之造(製茶について)。中巻は、四之器(飲茶器具について)。下巻は、五之煮(茶の入れかた)、六之飲(茶の飲み方)、七之事(茶の史料)、八之出(茶の産地)、九之略(省略してよい器具)、十之図(茶経の本文を書写して茶席に掛ける勧め)の全部で10章からなっていて、その七之事(茶の史料)には茶の歴史に関わるような文献の内容が紹介されている。そこを読めば茶の歴史がだいたい分かるようになっているんだ。

『茶経祥解』 原文・校異・訳文・注解 布目潮渢 『茶経』を読まれるならこの本をお薦めしたい。注と図版が充実していて訳が読みやすい。

『茶経祥解』
原文・校異・訳文・注解
布目潮渢
『茶経』を読まれるならこの本をお薦めしたい。注と図版が充実していている。

学匠: それじゃあ、『茶経』ってどっちかと言うとお茶の百科全書っていう性格が強いんですね。

師: そうそう、実学的だね。茶をことさら褒め称える内容にはなっていない。茶経には「茶の飲たるや、神農氏に発し‥‥」とある。神農は医療と農耕の祖だろう。おそらく生の茶を薬として噛んだりしていたものが発展した。風水の経典である『葬経』を著したといわれる晋の郭璞(かくはく)が「‥‥煮て羮(あつもの/スープ)として飲む。早く採るものを茶といい、晩く採るものを茗(めい)という‥‥」と中国最古の類語・語釈辞典である『爾雅』の注に書いている。スープに用いられていた。

学匠: 晋の郭璞って、あの風水学の祖ですよね。茶経って道教的な色彩が強いんですか。

師: いや、儒・仏・道・易がとてもよくブレンドされていると思うね。茶を煮るための火を焚く大切な風炉の足に坎(かん)・巽(そん)・離(り)の三卦を刻んだ図を陸羽はわざわざ『茶経』に載せている。それぞれ水・風・火を表しているんだ。さっきの「事(茶の史料)」には、儒教的といわれる『晏子春秋(あんししゅんじゅう)』、それに神仙、道術、妖怪などの奇怪な話を記した『捜神記』、それから仏教関係では『続名僧伝』や『宋録』が引用されている。他に面白いのは『枕中方』という医書にある、できものを治す薬だ。苦い茶と百足をならべて焙り、同じ量搗いて篩い、甘草を煮て洗いその粉末をつけるというのがあるよ。

学匠: 百足ですか。いやだー

師: 前漢には「茶を買う」などの記述が現われようになる。茶葉の新芽を湯で煮出し、服用するようになったんだ。湯薬は煎じて作るから煎茶の呼び名もここから来ている。現在の健康茶のように色々の生薬を茶と一緒に煮て飲んだりもしたのだろう。だから茶経には葱・生姜・なつめ・蜜柑の皮・薄荷などを茶と一緒に煮る習慣を罵っている。純粋にお茶自体を味わうことを勧めているんだね。

学匠: じゃあ、先生、陸羽の時代のお茶ってどんなものだったんですか。

師: 唐代の茶の製品には多くの種類があったけれど、そのうち茶名があるものが百五十種ばかりあって、その多くが蒸して作られた緑茶だった。炒ってつくる茶は少なかった。茶経では「觕(そ/粗)茶、散茶、末茶、餅(へい)茶」に分けられている。觕茶は枝を切り取り、そまま焙って葉を湯の中にいれ沸騰させて飲む粗製の茶だった。地方ではこんな飲み方もされてたんだろうね。

『陸羽 茶経の研究』 熊倉功夫・程啓坤 編

『陸羽 茶経の研究』
熊倉功夫・程啓坤 編

学匠: 中国って広いから地方地方で色々のお茶があったんですね。

師: そうだね。散茶というのは葉や芽を摘み取り蒸したあと火で焙(あぶ)るか炒って乾燥させただけの茶だ。今の日本の緑茶や焙(ほうじ)茶をイメ―ジしてもらえばいい。茶葉が一塊になってなくて、それぞれバラバラになった状態の茶を指している。末茶は蒸して搗(つ)いたあと砕かれたものを焙って干した粉末の茶で、臼でひいた抹茶ほど繊細なものではないね。色も茶褐色だった。それから、この時代一番重要な茶が餅茶で、蒸してから搗いた茶葉を固めて成型したものなんだ。宮廷への献上茶とされた茶は餅茶が大きなシェアを占めていた。それは、加工圧縮して作られる緊圧茶(団茶)で、その形から餅(へい)茶と呼ばれていた。同時代の盧仝の詩には月団(げつだん)三百個を手にしたと書かれているから大きさはそう大きなものではないようだね。

学匠: お茶って蒸して乾燥させた緑茶と炒ってつくった焙茶だけかと思ってました。他にもあるんですね。

師: 茶の形状による種類ではなく、茶自体の種類でいうと他にもあるよ。烏龍茶や普洱茶はよく知られているけれど、四川や貴州には虫茶といって特殊な蛾の幼虫に茶葉を食べさせてつくる茶もある。紅茶のような色とほんのり蜂蜜のような甘みがあるそうだよ。

学匠: はあ、そうなんだ。でも、それって‥

師: それはともかく、旧歴の2月から4月にかけて、芽が筍のような形をした太く肥えたものか、いまだ葉が広がりきっていない紫がかった若葉を摘み取って竹の敷物の上に広げて半日あまり寝かせる。それを蒸籠(せいろ)で蒸すんだ。酵素を殺して自然発酵を止めて酸化を防ぐ。完全に発酵すると紅茶になるよね。『陸羽 茶経の研究』の中で程啓坤さんが当時の茶を試作したデータには蒸し時間は2分とある。日本の煎茶での深蒸しが40秒~60秒といわれているから、かなりの深蒸しだ。蒸す時間が長くなると味がこくなる。

学匠: お茶って発酵の度合いで、緑茶、ウーロン茶、紅茶と種類が異なるらしいですね。私は緑茶ファンです。絶対に。その蒸したお茶をどう加工するんですか。そういうの日本にはないですよね。

師: 若い人は紅茶かと思ってたけど古風なんだね。蒸した茶を熱いうちに臼あるいは大きな甕の擂鉢の中で力を入れて繰り返し搗(つ)いて芽と葉を砕く。その搗いた茶葉を円形の型にいっぱいに入れ、圧縮するんだ。現在の餅茶の作り方を動画で見ていると餅型の凹部を持つ二つの石の間に挟んで圧縮していた。おそらく当時もそうしてたんじゃないかな。

焙(ほいろ)棚を含む

焙(ほいろ) 棚を含む 『茶経祥解』より

まだ湿った餅茶を、竹で編んだ篩(ふるい)の中に並べて置き、表面が少し乾くまで両面を15分程度焙(あぶ)る。ここで色は浅緑色から深緑に変るんだ。固められた茶に錐刀(きり)で穴を開け、竹製の貫(くし)にさし、焙(ほいろ)の上に二段の棚を組み、そこで二回目の乾燥をさせる。この二回目の乾燥は低温でしっかり乾燥させるんだ。充分乾燥させて保存に耐えるものにしている。これも茶を普及させた一因のようだね。程啓坤さんは延べ30時間くらいと考えているようだ。色は、深鶯色から緑褐色になり、それを冷まして袋に入れて保存する。

学匠:  結構手間暇かかってるんですね。宮廷への献上品になるようなお茶なら値段もかなりしたんでしょう。ところで先生、陸羽のことについてお伺いしたいんですけど、捨て子だったって本当なんですか。なんでも龍蓋寺(りょうがいじ)というお寺の智積(ちしゃく)大師というお坊さんに育てられたとか。

師: そうだね。湖北の竟陵(きょうりょう)というところで生まれた。風光明媚な西湖の近くなんだけど、その湖のほとりで拾われたらしい。智積大師は、後に代宗皇帝から皇宮に招かれたほどの高名な禅僧だ。当時は、三歳以下の捨て子でなければ異姓の養子として認められなかったから不幸中の幸いだったとも言える。ちなみに智積大師の俗姓が陸だった。名前の羽とあざなの鴻漸(こうぜん)は、易経の「漸」の卦、「鴻(おおとり)の陸に漸(すす)む。その羽、もって儀とすべし」からとられているといわれている。拾われたものの、あまり幼いので暫くは近くに住む李儒公(り じゅこう)夫妻に育てられたという説もあるね。

学匠: そう‥‥ なんです‥か。

師: 急に悲しそうな顔になっちやったね。智積は、陸羽に学問と茶を教えた。風采は上がらず強情な気性で吃音があったが、弁舌は巧みで決断力に優れ、風来坊のようだが信義には厚かったという。茶の腕前は驚くべきもので大師は陸羽のいれたお茶でなければ飲まないまでになった。十年近い寺での生活で、すでに一級の茶人としての技量を獲得していたんだ。

巨然 『蕭翼賺 蘭亭図』(しょうよくたんらんていず/賺は騙す) 部分 10世紀 唐の太宗の使い・蕭翼が山深い庵に住む僧・辯才を訪ねて、王羲之の蘭亭序を騙し取るという故事による。 唐の煮茶が絵にされた最も早い例。

巨然
『蕭翼賺 蘭亭図』(しょうよくたんらんていず/賺は騙す)
部分 10世紀
唐の太宗の使い・蕭翼が山深い庵に住む僧・辯才を訪ねて、王羲之の蘭亭序を騙し取るという故事による。
唐の煮茶が絵にされた最も早い例。

学匠: でも、10代の頃寺を出て行ってしまうんでしょ。お寺の生活はきっと退屈だったんだ。

師: 他にしたい勉強があったんだよ。智積大師の愛の鞭もあったけど基本的には可愛がられていた。寺の生活では、仏典以外の学問や文学を充分学べないことを悟った陸羽は12、3歳の頃、寺を抜け出して喜劇役者の仲間に加わった。儒教の孝養が仏道とは相いれないことを智積にぶつけたことが諍(いさか)いの直接の原因になったようだね。ここから彼の漂泊者としての人生が始まるんだ。

学匠: そうなんですよね‥‥

師: えっ?  ‥‥俳優としての演技は出色だった。頭の回転が良かったためか、すぐに座長・演出家として活躍するようになるんだ。才気煥発な少年だったんだね。天宝五年(746/14歳)ころ陸羽の手がけた芝居を見た竟陵太守・李斉物(り さいぶつ)に見込まれた。火門山の鄒坤(すうこん)に紹介されて書や儒教などの学問をやり直したんだ。 その後、竟陵司馬(軍事を司る官)で、詩人でもある崔国輔(さい こくほ)と交友することになる。陸羽は、彼から都の生活、官僚の行う政治のこと、とりわけ詩について学んだ。陸羽は崔国輔に茶を教えたみたいだ。年齢差を越えて培われた友情だったっていうよ。そして、天宝十三年(754/22歳)から広範囲の土地を巡って茶と水の探究へと入った。漂泊者としての本格的な歩みが始まったんだ。

学匠: ふーぅ あっ、あのー、それで餅茶のお茶のいれ方ってどんなふうだったんでしょう。

師: そうそう。どういうふうに茶をいれたかは、文人茶の消息に深く関わる部分だからね。茶を煮る時には、先ほどの餅茶を風のない所で均一に炙(あぶ)って香りが逃げないように紙袋にいれ、冷えたのを見計らって茶碾(ちゃてん)で穀物の細かい粒ほどの大きさにする。それを竹の丸い枠に絹の沙をはった目の細かい篩(ふるい)にかけ、茶入れにたくわえる。碾は漢方薬で用いる薬研(やげん)とよく似た道具だ。

碾(てん) 茶を粉末にするための薬研のような道具 『茶経祥解』より 

碾(てん)
茶を粉末にするための薬研のような道具
『茶経祥解』より

それから炭か堅い薪でお湯を沸す。水は山中の泉や岩間の小さな池から緩やかに流れ出るものが最も良いと書かれている。中国のような大陸では日本のように良水は簡単には得られないんだ。その沸きかげんは、浮かんでくる泡の形が魚の目くらいの大きさで、微かな声がするのを一沸とする。縁辺に泉が湧き珠が連なるように泡が上がるのを二沸とし、湧き上り波をうつのを三沸とする。 これ以上強く沸したお湯で茶を入れてはいけない。湯加減も大切でね。

学匠: お茶は直接釜で煮てた。そうですよね。

師: うん、茶瓶が一般的になるのはもっと後の時代だ。初沸に、水の量に合せて、塩で味を調える。長谷川瀟々居(しょうしょうきょ)の『煎茶志』によると茶の甘みを引き立たせるとか、苦みを抑えるためだと言う。第二沸に、瓢(ひさご)で湯を一杯くみ出して分けておき、竹筴(ちくきょう)と呼ばれる竹箸で湯の中心をくるくるかきまわし、茶の粉末を量って中心におとすんだ。煮出すので茶の量は比較的少ない。しばらくして、湯が大きく波立ち波が飛沫をそそぐようになると、くみ出しておいた湯をもどしてこれを止め、「茶の華」と呼ばれる茶の泡を育てるという流れだね。

学匠: 盧仝の詩にも「白花浮光 碗面に凝る」と詠われてますよね。茶の華を育てるのは茶を入れる際のクライマックスです。西晋の文人、杜育(といく)が書いた茶賛歌の『荈賦(せんのふ)』には「輝く様は積む雪のごとく、光る様は春のはなぶさのごとし」とあります。とっても美しい表現ですよね。

師: おー、盧仝(ろどう)の詩や『荈賦』も知ってるんだね。よく勉強してるじゃないか。茶の華には厚いものや薄いもの、細やかで軽いものがある。その姿は花や浮草がまるい池の上にふわふわと漂うようであり、また、からりとした晴天に浮雲が鱗のように連なっているようでもある。あるいは、菊の花房が酒器や膳の中へ落ちたようだとも形容された。厚いものは、沸騰すると、華が重なり白々と雪の積るようになるんだ。茶の華は、時々詩の中にでてくるね。

学匠: ちょっと気になってたんですけど、日本でのお茶の足跡はどうだったんですか。

師: 陸羽が亡くなってしばらくして、日本でも茶がいれられたという記録が残っているらしいよ。確か、弘仁六年(815)だったかに近江の梵釈寺の大僧都永忠が嵯峨天皇に茶を煎じた記録だ。永忠が渡唐したのは、最澄や空海らより早いらしくて、陸羽が活躍していた時代にあたるそうだから、きっと振る舞った茶も『茶経』にあるようなものだったんだろうね。

学匠: 結構リアルタイムで日本にはいってきてたんですね。すごーい。

師: うん。 空海は、『性霊集』の中でこう詠っている。

「‥‥茶湯一埦(わん)逍遥に也(また)足りぬ
冾(ああ)許由山薮(そう)に啄(は)み恵遠林泉に飲む‥‥」

この詩は、「自然の中を逍遥した後は一碗の茶で満足する。ああ、あの清廉な高士として名高い隠者の許由(きょゆ)は山中に暮らし、浄土教の祖である恵遠(えおん)は林泉で過ごした」という内容だね。隠士への憧憬ともとれる内容が見られるんだ。だが、やがて遣唐使の廃止とともに喫茶の風は失われていった。

学匠: 詩といえば、陸羽も詩人たちとのつきあいが深くて、自分も詩を書いていたって本当なんですか。

師: 本当だよ。陸羽自身も詩を書く人だった。安史の乱の際の民の行き場のない様子を『天の未明の賦』やこの『四悲詩』に詠った。その時代の人たちも陸羽の詩に感涙したというんだ。こんな詩だった。

悲しまんと欲す 天綱を失い 胡塵調蒼蔽上するを
悲しまんと欲す 地常を失い 狼煙虎狼を縦 (はな)つを
悲しまんと欲す 民所を失い 駆らるること犬羊の若くなるを
悲しみは五湖に盈(み)ち山は色を失い 夢魂涙と和して西江に繞(めぐ)る

玄宗皇帝が蜀の国へと落ちのびるという事態にまで発展したのが安史の乱だね。陸羽は天宝十三年(754/22歳)からすでに広範囲の土地を巡って茶と水の探究へと入っていた。天宝十五年(756/24歳)安史の乱を避けて江南に行き、上元元年(760/28歳)、現在の湖州市と太湖の間にある呉興(ごこう)の苕渓(しょうけい)に隠棲した。

学匠: 翌年、陸羽は自伝を書いているそうですね。29歳で自伝を書くってどうなんでしょうね。

師: この頃『茶経』の初稿ができて書写されはじめるんだ。多分そのことと関係しているんじゃないかと思うよ。「しばしば、独り野中を行き、お経を誦(くちず)さみ、古詩を吟じ、杖で林木を打ち、手に流水をもてあそび、平らな所ならば徘徊し、曙より暮れ方になり、日が落ちて興が尽きれば、泣きながら帰る」と自伝に書いている。朝から晩まで野生のよい茶を求めて山中を歩いていた。

学匠: そんな時、13歳年上の詩僧で、謝礼雲の十世の孫である釈皎然(しゃく きょうねん)と親交をもつようになりますね。そんな生活が皎然によって詩に詠われた。

師: 「楚人の茶経、虚しく名を得る」と皎然に詠まれ、『茶経』の名のみえる最初の文献になっている。

学匠: それから、46歳で進士には合格したけれど不遇のうちにあった猛郊には「亭を開き、泉をうがち、竹に嘯(うそぶ)き、区中の情を擺落(はいらく)する」とその詩に詠まれたそうですね。「区中の情を擺落する」というのは世俗の塵埃を脱したということらしいです。皇甫冉(こう ほぜん)、その弟の甫曾(ほそう)、張志和、耿湋(こうい)など何人もの詩人に言祝がれています。

師: なかなか詳しいね。立派なものだ。大切な詩人が欠けてるよ。顔真卿(がん しんけい)と女流詩人の‥

学匠: あっ、あのー 顔真卿との出会いは陸羽にとってとっても大きかったそうですね。

顔真卿  『千福寺多宝塔碑』(拓本) 東京国立博物館

顔真卿 (709-785)
『千福寺多宝塔碑』(拓本)
東京国立博物館

師: いいー質問だね。陸羽が41歳の時、顔真卿が湖州刺史(しし/州長官)として赴任した。11年に及ぶ左遷はこの地で終わることになるんだ。65歳頃のことだね。安史の乱では、顔 杲卿(がん こうけい)と共に唐のために戦った忠烈の士であったし、それと同時に、当代一流の文人であり、剛毅木訥(ごうきぼくとつ)と評された書の名手、詩人としても知られた人だった。空海も顔真卿の書を学んでいる。しかし、その廉直な性格が中央の政治の世界では疎まれたんだ。

学匠: なるほどね。よくある話ですよね。顔真卿は陸羽のことがすぐに気に入ったから、彼のために杼(ちょ)山の皎然の住持であった妙喜寺に「三癸(き)亭」を建ていますよね。真卿や釈皎然、陸羽を中心とした文人が集うトポスになったんです。お茶が飲まれ、多くの連句が作られたそうですよ。楽しそうですよねー。いいな~

師: 顔真卿は陸羽からもらった桂花によせて「群子は杼山に遊び、山は寒くして桂花白し」と詩に詠った。日本の室町時代における茶会と連歌の結びつきの元型は、すでにここにあると思うね。創建されたこの年、大暦八年(773)は癸丑(きちゅう)、その月、十月は癸卯(きぼう)朔、その日、二十一日は癸亥(きがい)だった。三つの癸(みずのと)が重なったので三癸亭なんだ。そういえば、その名にちなんだ煎茶の流派が広島にあるよ。

学匠: 顔真卿の編集していた辞書である『韻海鏡源(いんかいきょうげん)』の編集者の一員として、陸羽は釈皎然とともに編纂事業に参加しますよね。これは、真卿の私費で行われたといわれています。文人を助けるためもあったでしょうね。陸羽にとっては、編集とは何かを学ぶ絶好の機会となったし、それに、茶史などの研究にも大いに役立つことになったんです。

師: ブラボー! 君の言うとおりだ。 建中元年(780/48歳)、皎然(きょうねん)の助けを得ながら『茶経』の原稿が改訂され、補足を付して、三巻として完成された。広く伝写されはじめる。経は、儒家の経書などのような経典の意味もあるけど、広くは図書を示す経籍の意味だよ。残念ながら『韻海鏡源』の方は今に残っていない。

学匠: 顔真卿が70歳になって都に戻ると陸羽の消息はとぎれとぎれになってしまう。あーあ、淋しいです。

師: 陸羽が49歳の時に皇太子に経書を講義する官職である太子文学や宗廟・礼儀を管轄する太祝に任命されたが、その役職には実際には就いていないようだね。顔真卿との交友を深めたことは、陸羽にとっては学問の上においても文人ネットワークの拡大においても非常に大きかったといわれている。彼は皇帝への献茶に適した新しい茶の推薦に一役かっていたりはするけれど、どうも意識的に支配者の茶に接近しようとしなかったようだ。ここらあたりは、陸羽の生涯の中でもとても興味深いところだね。僕は漂泊者としての性格が陸羽を支配階層から遠ざけたのではないかと勝手に思っている。それでこそ陸羽なんだ。

懐素(かいそ/725‐785)  『自叙帖』 唐代の書家、僧。

懐素(かいそ/725‐785) 
『自叙帖』 部分
唐代の書家、僧。

学匠: そうなんです。しょうのない人‥ あっ、いえ、それで懐素(かいそ)とのことなんですけど、教えていただけますか。

師: ‥‥うっ、うーん。『懐素伝』のことはさっき話したよね。懐素は僧でもあった。玄奘三蔵の弟子だったんだ。駒田信二さんの『中国書人伝』に書かれているけれど、陸羽の『懐素伝』によれば、懐素は従兄弟の鄔彤(おとう)から王羲之の三帖と張旭(ちょう きょく)の折釵股(せっさこ)を授けられたとされている。折釵股は、かんざしの又のような力強い曲線の書法のことだ。張旭は、「何杯もの酒を飲んで筆をとり、王侯の前でも冠も着けず頭を丸出しにする非礼を平気で行うが、字を書くと雲や煙が湧き起って来るかと思うほど素晴らしい」と杜甫に称賛された人物だった。その草書は狂草と呼ばれた。

学匠: 張旭、知ってますよ。良寛さんも張旭の書を学んでいます。それに高閑や懐素の影響を受けた後の黄庭堅(こう ていけん)の草書です。

良寛 (1758-1831) 文政八年揮毫の七言律詩 部分 江戸時代

良寛 (1758-1831)
文政八年揮毫の七言律詩 部分 江戸時代

師: なるほど。張旭という書家は重要な人なんだ。懐素は、その張旭と交友のあった顔真卿に面会し、自分のために作られた詩『懐素上人草書歌』を示して顔真卿に序を書いてくれるように頼んだ、真卿はその序を書き、それに加えて自身の書法である屋漏痕(おくろうこん)の法を教えたという。屋漏痕とは起筆の先の尖りを画中に隠すことを指し、蔵鋒ともいう。顔真卿が湖州に来る前のことだ。その後、真卿が陸羽のいた湖州から都の洛陽に刑部尚書(刑部長官)として戻ったのは布目潮渢さんの『茶経祥解』によれば大暦十三年(778)70歳のことになる。ちなみに懐素の『自叙帖』の完成はその前年のことだ。

学匠: 陸羽が懐素伝を書いたのが事実なら、顔真卿を介して陸羽と懐素とは繋がっていた可能性があるということになるんですね。

師: 仮説にすぎないけどね。懐素の書体もまた狂草と呼ばれ、独特なものだった。夏の雲の奇峰の多い様が手本とされた。雲は、風によって変化し、その動きは一定でなく、壁拆(へきたく/壁のひび割れ)の線に出会うようで一つ一つが自然だという。懐素の書体が張旭の狂草に触れてどのように変化したのかを調べてみるのは頗る興味深いけれど僕の手にはあまる問題だろうね。詩人・銭起は従甥(いとこおい)である懐素の書を「‥‥狂い来たりて世界を軽んじ、酔裏に真如を得たり」と『自叙帖』にその跡を留めている。懐素は、酒を愛した。茶はどうかわからない。陸羽はその書に影響を受けたことになる。文字も漂泊する書体が気にいったのだろう。

学匠: そっ、それで、その後の陸羽の消息はどんな様子なんですか、どんな。

師: それが、詳しいことはほとんどわかっていない。太湖北岸の無錫、江西の上饒、かつての洪州にあたる南昌、蘇州などの広い範囲を巡って茶・水・磁器を求め、井戸を掘り、茶の栽培技術を研究したらしい。62歳の時に蘇州の虎丘山に後世「陸羽楼」と呼ばれた庵を結び、そこから出る泉を 天下第五泉としたことは分かっている。虎丘山には、顔真卿の四字が刻まれた自然石のある有名な剣池がある。そして、親友の皎然(きょうねん)が亡くなった数年後、思い出の三癸亭のあった苕渓(しょうけい)に戻り、かつて住んでいた草堂である青塘別業(せいとうべつぎょう)で貞元二十年(804)、72歳で亡くなっている。皎然の墓のすぐ近くに葬られた。漂泊者としての生活は友の墓の近くで終りを告げたんだ。

学匠: そうなんですか‥‥

師: どうしちゃったの 随分悲しそうだね。‥‥陸羽は、巨人だった。文人・学者として厚みも幅も深みもあった。29歳の時に『君臣契』『源解』『南北人物志』『呉興歴官記』などの著作を完成させたといわれているし、その後も茶事に関する著作である『顧渚山記』などを書いている。彼は、文学家、史学家、地理学者、植物学者、書家でもあったんだ。彼の業績は、広い範囲に及ぶのだが、そのような功績も全て『茶経』の巨大な輝きの中で色褪せてしまったと言われている。

学匠: おっしゃるとおりです。

師: 彼は士大夫や官僚たちと親しく付き合ったが、一方で、同じ目線で茶農や民衆を見ていた。この目線はあの茶詩で有名な盧仝(ろどう)と同じものであったろうと思う。盧仝の詩『筆を走らせ孟諫議(もうかんぎ)の新茶を寄せるに謝す』の最後はこう結ばれている。

山上の群仙 下士を司どる
地位清高にして風雨を隔つ
いずくんぞ知るを得ん百万億蒼生の命
顚崖(てんがい)に墮在して辛苦を受くるを
すなわち諫議について蒼生を問う
到頭蘇息を得べしや否や

「山上に住む群仙(民衆の上に立つ皇帝やその役人)は、下土(人間の住む場所)を司っている。地位は清高にあって、風雨をも隔てることができるという。だが、百万億の蒼生(民衆、百性)の命が、茶を採るために、今にも崩れそうな崖淵にあることを知っているのだろうか。便りをだして孟諌議(もう かんぎ)に聞いてみたい。蒼生は一体いつになったら平穏な暮らしが出来るのかと」と言う意味だね。

学匠: 茶農や工人たちは、いわば、陸羽にとって同僚だったでしょう。彼らの助けなしにはお茶の研究も進まなかったからです。白居易は道士や王侯になることよりも香りのよいお茶を味わう閑的生活こそが追求に値すると言っていました。酒飲みなのにお茶も好きな人です。唐の詩にはこのようにお茶を詠った詩は少なくありません。盧仝の詩はその代表的なものでした。

師: この盧仝の眼差しが、陸羽のものと同じであることは先ほどの『四悲詩』で容易に想像できるだろう。黄金の罍(らい/酒器)や白玉の杯もを羨まない。仕官や栄達も羨まない。かつていた故郷、竟陵の城下に向かって流れていた西江の水だけが自分を羨望の渦に巻き込むのだと晩年の『六羨歌』に彼は詠った。『茶経』の下に流れているのは倹約と慎みの美徳、自然への科学的ともいえる眼差しとそれに優るとも劣らない愛情、同じ人間として働く者への共感ではなかったろうか。多くの士大夫・文人たちがその官職に縛られながらも、白居易の言う閑的な生活に憧れた。それを陸羽は全うしえたのではなかろうか。その意味で彼はまことに稀有な真の自由人であったと言えないだろうか。彼等には奇蹟のような生涯に思われただろう。安史の乱直後の大暦年間、詩壇の中心的な詩人たちである大暦十才子の一人、耿湋(こうい)は陸羽をこう詠っている。「一生墨客となり、幾世か茶仙となる‥‥」と

学匠: うっ うぅ~ ‥‥ うぅ うぅっ う~~ あの人、そういう人だったんです。若いのによく気のつく人、優しくて、病気の私を親切に見舞ってくれた。一緒に湖州で詩をつくったりしていた頃は楽しかったのに‥‥

師: えっ、すっ、すると 君の名は唐の女流詩人の李季蘭なのか あの女道士の‥‥

学匠: あの日だって、お茶を探しに行くっていって‥‥また来るからと言って‥‥それっきり消息が絶えて‥

師: おー  どっかで見たと思った‥‥ わっ わっ  わぁぁー  なんか背中が重い‥‥ なっなんか壁が背中に落ちて‥‥ 割れ目にはさまってる‥‥わぁぁ 助けて  あっあっーー

妻: あなた。あなたったら。何、寝言いってるんです。こんな所で寝ないでって言ってるでしょ。そこらの本、邪魔だから背中に乗せたわよ。掃除するから早く他の部屋に行ってちょうだい。なにやってんの。

師: おおっ 夢より怖い。

陸羽(733-804) 陸羽煮茶図 模本 江戸時代 東京国立博物館 唐の女流詩人李季蘭と陸羽、釈皎然とは親しかったことで知られている。図中の女性は、あるいは李季蘭であるかもしれない。

陸羽煮茶図 模本
江戸時代 東京国立博物館
唐の女流詩人李季蘭と陸羽、釈皎然とは親しかったことで知られている。図中の女性は、あるいは李季蘭であるかもしれない。