一碗 茶・チャ・ちゃ part2 宋と明のチャ

岡倉 天心(1863-1913)

岡倉 天心(1863-1913)

「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたが、満州の戦場で大々的に殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで命を捨てさせる死の術――については盛んに論じられているが、茶道には、ほとんど注意がはらわれていない。この道は、わが生の術を多く説いているものであるのにもかかわらずである。もし、われわれが文明国たるために血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするなら、むしろいつまでも野蛮国であることに甘んじよう。われわれは、わが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待つだろう。」

岡倉天心が「The Book of Tea」を英語で書きあげて、東洋の美学を西洋に向けてジャーナリスティックに喧伝したのは明治39年(1906)である。一躍アメリカで有名になって各国の言葉に翻訳された。残念ながら日本は天心の思うところとは逆の方向に暴走しはじめた。

この「The Book of Tea」には前回ご紹介した、陸羽(りくう)のことが述べられている。「茶がその粗野な段階を脱して理想の域に達するためには、実に唐朝の時代精神を必要とした。八世紀の中頃、陸羽によって茶の世界が開かれたのである。‥‥詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配しているものと同一の調和と秩序を認めた。彼はその有名な著作『茶経』において、茶道を組織立てたのである。爾来(じらい)彼は、支那の茶をひさぐ者の守護神としてあがめられている」と書いている。熊倉功夫さんの指摘にあるように餅茶(へいちゃ)の形状についての誤解は見られるものの陸羽を含めた唐、宋の茶を論じた日本人の著作としては出色のものであった。

唐が倒れて五代へと時代は移り、宋に入って喫茶の流行は益々盛んになった。お茶は色々な変遷をたどるようになる。研膏(けんこう)茶のような特殊なお茶が登場する。このお茶の製法は五代(907‐959)に起こった。。 趙汝礪(そう じょれい)が書いた『北苑別録』によれば、お茶の芽を精選して、せいろに入れて蒸して水をかけて冷まし、搾り機にかけて水分を取り去る。さらに大きな搾り機にかけて膏(ねばり)を出し、これを繰り返して水分を完全にとる。次にこれを擂鉢に水を加えながらかなりな力ですり潰す。水気のなくなったものを指で揉み、銀や銅の型に入れ、湯につける、火で焙るなどの複雑な手順を繰り返して乾燥させて固形茶が出来上がる。それに含まれる茶の粒子は極めて細かいという(布目潮渢・中村喬 編訳『中国の茶書』)。これらの団茶の外見はしばしば碧玉に譬えられた。今回はこの『中国の茶書』を中心に他の文献も交えて宋と明の茶をご紹介したいと考えている。

『中国の茶書』 布目潮渢・中村喬編訳

『中国の茶書』
布目潮渢・中村喬編訳

研膏茶の苦み渋みを減らし、龍脳のような香料を入れて改良したものが蝋面茶である。このうち特に精製して、宮廷に進奉される龍や鳳の紋を金色で押したものは龍鳳茶と呼ばれた。それは宋の北苑の龍鳳茶に引き継がれ、次々に手の込んだ茶が登場するようになる。このあたりの中国の人たちのマニエリスムに対する熱狂には唖然とするものがある。

宋の第二代皇帝太宗の時、太平興国二年(977)に五代の頃からすでに茶の生産が盛んであった福建の建安にある北苑に官営の茶園が開かれた。龍焙(りゅうばい)である。天子に供し、宮中で使われるための茶が作られる茶園ができたのである。そこで作られる龍鳳茶、あるいは、龍団茶は極めて貴重なものだった。「宮中の人たちでも容易(たやす)く下賜されるようなことはない。南郊大礼致斎の夕、枢密院各四人に共に一餅を賜うのみである。宮人は金箔を翦(き)って作った龍鳳や草花の形をその上に貼り、両府八家で分けて帰り、敢えて喫することなく家蔵として宝とし、佳客が有った時に取り出して伝玩するのみである(『龍茶録後序』)」とある。いかに貴重であったかが分かる。

変った趣向もお目見えしはじめる。宋初の文人である陶穀(903‐970)は、当時の逸話をまとめた『清異録』の中の一篇に茶のエピソードを書いている。例えば、福全という僧侶は茶をいれながら物の形を、湯の表面に幻のようにつくり出したという。「茶百戯」と呼ばれた。百戯はサーカスのことだ。すでにラテアートは存在したらしい。現在の抹茶のような質のお茶で行ったのだろうか。あるいは、細かく切った紙を盞(さん/茶碗のこと)の内側に貼り末茶を振りかけてからその紙を取ると花弁のような形が残る。それにライチの果肉や松の実などを葉や芯として飾り付け、それに湯を注いでかき混ぜて飲む。「漏影春」と呼ばれた(『茶道学大系7 初期の点茶 唐末・五代』)。ちょっとオシャレな抹茶カフェとかで今でも流行しそうだ。茶の良しあし、泡立ちの良しあしを競うための闘茶も盛んになって来る。時代が下ると茶碗に菓子などをいれて、お茶を注ぎ匙で菓子を食べながら、そのお茶を飲むことも一時流行したようだ。茶の楽しみ方も多様になってくるのだけれど、これは陸羽の思いに逆行するものだった。

『絹本著色桃鳩図』 徽宗(1082-1135)

『絹本著色桃鳩図』
徽宗(1082-1135)

書家としても有名だった文人の蔡襄(さい じょう 1012‐1067)が書いた『茶録』には、団茶の色には青、黄、紫、黒があると書かれている。乾燥させる過程で茶の色は黄色から黒にまで変化する。それに対して粉末にした茶は白が貴ばれた。青白や黄白などの微妙な差があり湯を入れた後には鮮白、不鮮明、重濁などの差があったようだ。湯に溶けて白く、当然長く沈殿しないものが良いとされた。茶盞(ちゃさん/茶碗のこと)も茶の白が目立つように暗い色が貴ばれ、温度が早く下がると湯と茶の粉が分離しやすいので厚手になった。

絵画においても書においても名手といわれた北宋最後の皇帝である徽宗(きそう)は『大観茶論』を残している。1108年頃のことだ。その中では、すでに茶をかき混ぜる道具が金属製の匙(さじ)から茶筅(ちゃせん)にかわっている。粉にした茶を少量の湯で錬ったものを茶碗に入れ、最初は縁を巡るように湯を入れ茶筅でかき混ぜ、二度目は茶面に直接注ぎ茶筅でこんどは強くかき混ぜて点(た)てる。

南宋になると茶道具の中に石転運(石製の茶磨)や竺副帥(じくふくそつ/竹製の茶筅)などが文献に現われはじめる。いわゆる日本でいう抹茶の形式に近いものが普及してきたことの表れであろう。ちなみに栄西が日本に茶種をもたらしたのは、建久二年(1191)であるが、その茶はにも分けられ、上人のいた栂ノ尾の茶は、当時、日本で最高の茶とされた。そこで栽培された茶は宇治などにもたらされて、その後の喫茶の発展に寄与することとなったのである。

「春宵一刻値千金」と詩に詠んだ宋の詩人蘇軾(そしょく 1037-1101)、第一級の文人である。詩も書もすばらしいし、禅にも極めて造詣の深い人だった。酒を詠った詩も多いけれど、茶を詠った詩もある。酒の「酔」をよくし、茶の「醒」もよくしたのである。この『試院煎茶』などは茶の具体的な様子が表現されている。

蟹眼すでに過ぎて魚眼生じ
颼々(しゅうしゅう)松風の鳴を作さんと欲す
蒙茸(もうじょう)として磨(うす)より出て細珠落ち
眩転す甌(ほとぎ)を遶(めぐ)って飛雪の軽きに

蟹眼と魚眼は、湯が沸く時に出る泡の大きさであり、松風はその沸く音である。蒙茸(もうじょう)として磨(うす)より出るのなら粉末の末茶であり、甌はここでは茶碗のことである。茶湯の表面は飛ぶ雪のような軽やかさだった。

銀瓶の湯を注いで第二を誇り
未だ識らず古人水煎ずるの意
君見ずや、昔時李生の客を好んで手自ら煎じ
活火に従い新泉を発するを貴ぶを

魚眼や、松風、煎じるという表現があることから陸羽の茶経が言祝がれているのは確かだ。だが、茶は臼で挽いた肌理の細かいものだった。茶経にあるように、粉に砕いた茶を湯の中に入れて煎(に)る入れ方と宋で流行っているような、直に茶碗に入れ湯を注いで点(た)てるお茶を対比させているようでもある。また、蘇軾の故郷であった四川省西部の西蜀の伝統的な茶の点て方である散茶を直接臼で挽いて茶碗に入れ湯を注いでかき混ぜる茶の点て方を詠っているのではないかという説もある(長谷川瀟々居『煎茶志』)のだが微妙だ。西蜀は昔からの茶の産地だった。

又見ずや、今時潞公茶を煎じて西蜀を学び
定州の花瓷紅玉を琢するを

我今貧病にして長く飢えを苦しめば
玉盌(わん)蛾眉の捧ぐ無きを分とす
且(しばら)く公家を学んで茗(めい)飲を作し
磚(せん)石銚行くに相い随う
腸に撑(あ)き腹を拄(ささ)うるも文字五千巻を用いず
但(ただ)願う一甌(じょう)常に眠り足り日高きの時に及ばんことを

花瓷(かじ/国立故宮博物院へとは、北宋の官窯であった定窯で作られた白磁のことで、白い素地に精緻な文様を彫り、あるいは型を押して透明の釉薬をかけて焼くと文様の部分に釉薬が溜まり、図案がくっきりと浮かび上がって清楚な中に華やかさがあったという。後に、淹茶(えんちゃ/日本で言う煎茶)の茶甌や茶碗には最高とされた。だが、重要なのは最後の二句である。盧仝(ろどう)の以下の詩句を引いているのである。

唯だ有り文字五千卷(そこには五千巻の書物も在ろうか)
日高丈五睡正濃  (日高きこと丈五睡正に濃やかなり)

この清風に乗って蓬萊山へ帰りたいと詠った盧仝への共感こそがこの詩のテーマなのである。俗を脱した文人生活の粋をそこに見たからだった。

蘇軾(1037-1101)  『寒食帖』部分 1082 国立故宮博物院

蘇軾(1037-1101) 
『寒食帖』 部分 1082  国立故宮博物院

陸游(りくゆう1125-1209)は、俗説に陸羽の九代目の子孫といわれている詩人である。生活態度が放埓だからというので自ら放翁と号した。儀に厚い人だったようで、自分の一存によって官有米を使い民の救済に充てて、その責任を追及されて免職となったりしている。無理に引き裂かれた元の妻との偶然の再会を詠った『釵(さい/かんざしのこと)頭鳳』は素晴らしい詩だが、またの機会に御紹介しよう。茶聖陸羽の別号である桑苧(そうじょ)という言葉も詩の中にしばしば使ったといわれている。陸羽を敬愛し、茶を愛した。とりわけその晩年には茶が大きな関心事となっていたようだ。陸游は、『效蜀人煎茶戲作長句』という詩を書いている。詩の意味はこうである。

午睡の床から離れて
紅い糸を柄に巻いた小さい石臼が茶葉をひき砕く
山石で造った竜頭の模様の鼎
それを使って専心に試みる蟹眼の湯
眠り疲れた眼も已にはっきりして
春雷の枯腸を駆け巡るのを許さない
こうして無為徒食な日を送ることも良かろう
誰が賞味するであろうか銘茶に名高い蒙山紫筍の香りを

午枕初めて回る夢蝶の牀(しょう/ゆか)
紅糸の小磑(がい/うす)旗槍(茶葉のこと)を破る
正に須(もち)ゆ山石竜頭の鼎
一に試む風罏(ふうろ)蟹眼の湯
巌電已に能く倦眼を開き
春雷許さず枯腸に殷(さかん)たるを
飲嚢酒甕(はんのうしゅおう)紛紛として是なり
誰か賞せん蒙山紫筍の香

後世、「詩は陸羽の茶経に添いて読み、茶は放翁の詩集に入りて知る」と室町時代の禅僧であった万里集九に詠われている。放翁とは陸游のことである。上田秋成は、「放翁自在の茶」を理想としたという(『茶道学大系7 日本の煎茶道と中国歴代の茶』)。ここに陸羽、盧仝(ろどう)、陸游と文人生活の『理想』がひきつがれていくことになるのである。茶を閑暇な士大夫や文人の手慰みとのみ考えるのは誤っていると思う 。少なくとも茶に結びつけられた精神性を尊ぶ人々の間では、そうではなかった。何故なら、盧仝は宦官を非難した詩を書いたゆえに冤罪のために刑死、陸羽を支援した顔真卿は、忠臣であることをやめなかったがゆえに殺され、蘇軾は、度重なる流刑、復権、左遷の中で客死し、陸游は56歳の老身には百の憂いがあると詩に詠った。その清風は、自らの信じるところと死との間を吹き過ぎていったのである。『茶経』以降、茶は支配階級の中で発展し、皇室などの間でもてはやされるようになった。支配者の茶である。茶は二面性を持っていた。

長谷川瀟々居 『煎茶志』

長谷川瀟々居
『煎茶志』 中扉

上海と香港を直線で結んでその真ん中あたりに景勝地の武夷(ぶい)山がある。断崖絶壁と九曲渓が美しい山水の世界だ。ここは今でも高級ウーロン茶の生産で有名である。欧陽修、梅堯臣、陸游、蘇軾、黄庭堅らに称えられた茶の味はすでに有名になっていた。そして、宋朝が南都し、政治・経済・文化が南に移ると武夷山は理学(朱子学)の名山となった。茶や塩の専売を監督する役職である提挙両浙東路常平茶塩公事に任命された朱熹(しゅき)がやってきたのである。宋では塩・酒・茶は専売制だった。彼は五曲に武夷精舎を建て理学を教え、友人を招いた。文化人が集まり闘茶し、それを味わい、詩に詠い、道を論じた。こうして武夷山は、「道南の理窟」となったのである。

岡倉天心は、この後の、つまり元以降を指すのだが、支那人たちの葉茶は花のごとき芳香を放ってしばしば驚嘆すべきものがあるが、唐・宋時代の茶の湯のロマンスは彼らの茶碗には見ることができないと切って捨てたのである。これは、日本の茶の湯の精神性をアピールするためだったが、一方で中国では特権階級の茶にすでに光が当てられなくなっていることを示していた。

元の時代、政府は製茶業に対する統制を強化し、茶に重税をかけた。茶業の発展を阻害する結果となったが、一方で、蒸青散茶の製造を提唱した(茶葉の形状による種類については Part1 陸羽『茶経』対話篇 を参照してください)。この茶葉は広く受け入れられ、いずれの茶の産地でもその製造が盛んになり散茶を飲む風が広がっていった。北苑の龍団茶は費用と手間がかかりすぎた。一斤の団茶をつくるのに600人の茶工を要したという。唐の一斤は600グラムだったから宋でもそれほど多い量ではなかったろう。平民の出身であった明の太祖は茶を生産する農民の負担を軽減するために、ついに建茶の貢納を廃止し、聖政と讃えられた。これによって散茶にお湯を注いで飲む飲み方が主流になり、茶が庶民のものとなっていくのである。

蒸してつくった茶(日本で言う煎茶)や茶葉を炒ったほうじ茶が主流になり、茶碗に茶葉を入れ湯を注ぐ「冲(ちゅう)茶」、急須などの瓶中に入れて湯を注ぐ「泡(ほう)茶」と呼ばれる茶の入れ方となる。また、茶瓶を盆の上において茶を瓶に入れ、湯を注いでから蓋をして、瓶の外からお湯を注ぐ工夫茶などがある。これらは急須や茶碗などの中で茶葉をふやかす、いわゆる淹(えん)茶である。各時代には各地方での色々の茶の飲み方があったのも事実だが、元の時代は、宋の末茶から明の散茶へと主流が変化していく過渡期となっていたのである。

唐寅 (1470-1524) 『琴士図』部分 明

唐寅 (1470-1524)
『琴士図』 部分 明

明の時代、福州の知事であった喩政(ゆせい)が唐寅(とういん)の描いた烹(ほう)茶図を手にした時、茶書の刊行を思いついたという。1612年刊行された『茶書全集』である。茶書のみを集成したシリーズものだ。だが、明の茶書は、依然として『茶経』に依存したものが多く、現実に即した画期的な著書は少ないといわれている。見るべきは、許次紓(きょ じじょ)の『茶疏』であると布目潮渢さんは書いている(『中国の茶書』)。1602年、明も終わりの頃のことである。

古琴(七絃琴) 3000年の歴史を持つ。ユネスコ無形文化遺産

古琴(七絃琴)
3000年の歴史を持つ。ユネスコ無形文化遺産

そこでは、龍団茶などの献上茶が茶芽を水にひたして作るためにすでに真味を失っているし、名香を混ぜるからその気(かおり)は失われている。それで、どうして良い茶になるのか理解に苦しむとしている。最高の茶といわれた龍団もボロボロである。それに続いて炒って作る茶や蒸して作る茶の工程が書かれている。面白いのはわざわざ『童子(ボーイ)』という章がもうけられていることだ。「茶を煎(い)れたり香をたいたりするのは、みな清流のことである」とわざわざ断った上で、つまり清風や清流はまだ生きていると云うことだが、自分でその労をとってもよいが客と談笑しながら自分でできないこともある。だから二人ばがり童子に教えておいてさせるといいと書いている。準備が出来たら主人に報告させ、何杯か飲んだらしばらく休む。合間に果菓を出すときは、濃いめの茶を薦める。果菓と茶とは相俟(ま)つものだとしている。日本の煎茶道でも菓子は必ずついてくるのである。

唐寅(とういん)という人は奇行で知られ、「花前一笑」などの戯曲のネタにもされていて、とっても面白いのだが、それはともかく、確かに彼の描いた『琴士図』では、童子たちがせっせと働いている。画面右側では、あきらかに茶の用意をしている。彼の山水には風水図を思わせるものがあって()、回顧趣味的な部分もあるかもしれないけれど、許次紓(きょ じじょ)の『茶疏』を読むと確かに明の時代の様子であることが窺える。「清風は死なず」ということであろうか。

明末、ことに万暦から天啓年間(1573-1627)にかけて当時の士大夫や文人たちの間では文房(書斎)を中心とした一種の美的な生活を理想とする風潮が高まった(『茶道学大系1 茶道文化論 「去俗」と「清」』)。宋の時代の『山家清事』などの著作で知られる「文房清玩」の世界である。中田勇次郎さんの同名の著作でも知られている。「明窓浄几のもと、法帖名画、古鼎宋硯など文房具を連ね、香を焚き、茶をすすり、琴を弾じ、花竹を愛で、佳客と清談する」。それは、時代が降っても引き継がれていった、いわば、「趣向の美学」というべきものの再燃である。その一つとして茶があった。琴は、いわゆる古琴である。この琴については、京都の伏見无家(ふしみ むか)さんにフェイスブック上で色々教えてもらっている。

茶は文人の生活に欠くべからざるものの一つだったのである。書画をよくし、画論を書いて「芸林百世の師」といわれた董其昌(とう きしょう)やその友であり、宮廷から招聘されたが生涯仕官することなく、文筆をもって生計を立てた陳継儒(ちん けいじゅ 1558-1639)などがその「趣向の美学」を代表する人たちだった。それは、詩や書画の具体的表現や茶具や文房具の鑑賞・収集の基になる美的な意識が、等しくその中で醸し出されていくような生活態度の実践であった。俗を脱し、清を言祝ぐ生活でなければならなかったのである。茶に関していえば、この源流は、当然、陸羽や盧仝に端を発している。それは、明末にまで至り、やがて隠元の禅に伴って日本に印象的な形で流入し、その清風に感化された江戸後期の文人たちを酔わせた。煎茶文化となって花開いたのである。

董其昌(1555-1633) 行草書羅漢賛等書巻(部分) 1603 東京国立博物館

董其昌(1555-1633)
行草書羅漢賛等書巻(部分)
1603 東京国立博物館

日本の茶の湯では、野点(のだて)はあるものの茶を飲むトポスはだいたい茶室に限定される。しかし、淹(えん)茶、つまり日本でいう煎茶では、何処でもいいというわけではないけれど、場所をそんなに限定しない。そこでは飲む場所以上に飲む時が大切にされるのかもしれない。どんな時に茶が飲みたいのか、どんな時に茶は美味いのか。僕は夕食を終えてコンピューターに向かいながらこんなブログを書いている時かな。あんまり高級なお茶じゃないし入れ方も大雑把だけど、こんな時のお茶は美味いと思う。酒は飲めないし、紅茶は飲まないが、珈琲はよく飲む。さっきの『茶疏』を書いた許次紓(きょ じじょ)も茶を飲むに良い時を挙げているので、それを私の好みで抜粋してみよう。皆さんはどうお思いだろうか。次回は日本における煎茶中興の祖である売茶翁(ばいさおう)をとりあげる予定である。

心身ともにゆったりしたとき
薄ぐもりで小雨降るとき
読書詩作に疲れたとき
琴を弾き画を見るとき
夜深く共に語るとき
明るい窓辺浄(きよ)い机に向かうとき
酒宴が果て人が散じたとき
清幽な寺観を訪ねたとき
晴れて風の和やかなとき