一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃ

『売茶翁偈語』 左 伊藤若冲筆 売茶翁像 右 金竜道人 題字

『売茶翁偈語』
左 伊藤若冲筆 売茶翁(1675-1763)像
右 金竜道人 題字

お茶売りの老人なのだが、ただ者ではなかった。隠元隆琦(いんげん りゅうき)の法統を受け継ぎ、絵師でもないのに若冲、大雅、応挙に大きな影響を与えた。ただ、京都でお茶をいれてひさいでいた。時に、食べることに困ったこともあるという。世間から全く隔絶しようとはしなかったが、俗塵からは脱していた。人はその老人を売茶翁(ばいさおう)と呼んで敬愛した。その人柄からは、お茶の香りのする清風が快く吹いてくるのだった。

この人は、久しく禅宗の僧であったが、茶を売る生活を京都で始めるようになり、やがて、売茶翁と呼ばれるようになった。以下、ただ翁と呼ぶ場合は売茶翁をさすとお考えいただきたい。Part1 陸羽『茶経』でご紹介したように売茶翁は、中唐の詩人盧仝(ろどう)の文人茶を理想として掲げていた。それを別の言葉で表せば「清風」である。その高い精神性については、Part2 宋と明のチャで述べたのでここでは繰り返さない。今回はこの翁の詩集『売茶翁偈語(ばいさおうげご)』(大槻幹郎さん訳注)を中心に、その中に書かれている詩句をご紹介しながらそれに因んだ事柄を補足していきたいと思っている。

南北朝時代に初めての連歌集『菟玖波(つくば)集』が撰集された。そのスポンサーは婆沙羅(バサラ)大名、佐々木道誉(ささき どうよ)であったという。その後、道誉の関心は派手な闘茶に向かった。とりわけ、政敵、斯波高経(しば たかつね)が将軍御所で催す花の遊宴にわざとぶつけた大原野の花会は、空前絶後の一大ページェントだった。会場の勝持寺本堂への道行は多くの装飾で飾られ、茶の湯の野点が行われた。本堂の庭には4本の桜の大木があり、それに高さ3メートルの真鍮製の花瓶を鋳掛けて立花とし、その間にこれまた大きな香炉を置いて名香一斤を焚きあげた。このむせ返る香りの中に幕が引かれ、法会の椅子が並び、百実の珍膳が置かれ、4種類の茶で10服飲み、その種類を飲み当てる「十服茶」を100服飲むという大闘茶会が行われた。懸物が山のように積み上げられていたという(『太平記』)。

これが、そのころの茶の世界の一つのあり方だった。かなり極端ではあったのだが。金に飽かせた遊芸としての茶である。遊芸と茶は結びついていたのであり、これに連歌が加わることも多かった。結びつきの茶である。この対極に禅と清風の茶があった。

佐々木道誉(1296-1373) 鎌倉末―南北朝時代の守護大名 バサラ大名として名高い

佐々木道誉(1296-1373)
鎌倉末―南北朝時代の守護大名 バサラ大名として名高い

この頃、つまり13世紀末から14世紀にかけて芸文と関わる阿弥を称する人たちが登場するようになる。同朋衆である。もともと時衆の徒がその遊行に際して、関所通行自由の特権を持っていたことから芸能に携わる人々が時衆に加わったのが起源であるが、阿弥と称するからといって必ずしも時衆の徒とはかぎらない。熊倉功夫さんがいうように半僧半俗の体をとることで聖と賎の間を自由に通行することが可能になった点に阿弥を称することの意味があった。しかし、時衆の衰退は、宗教が芸能者の創造意欲を鼓舞する力を失わせる要因となった。それに代わるものが禅であったというのである(『茶道学大系1 茶道文化論 茶道論の系譜』)。「茶禅一味」における禅は、この時代においては、文化的創造をインスパイア―する、もう一つの重要な極になるのだった。

興味深いことだが、五山禅僧のいわゆる五山文学にはこの頃、茶に関する記述が増えてくる。盧仝の詩や陸羽もしばしば登場するようになるのである。中厳円月、虎関師錬、天岸慧広(てんがん えこう)、絶海中津、義堂周信らの詩文には隠士の清風の如き世界が言祝がれている。例えば、天岸慧広の詩には「玉川子(盧仝)の家は共に風雅を語るに適い 時に当たって猛諫議が陽羨(ようせん)の茶を送った 私の所へは年頭に建渓茶が恵まれる それは武夷山の最も山深い産であった」とある。一方、俗世では先ほどご紹介した贅沢な賭物を競う闘茶が流行るというアンビヴァレントな様相を呈していた。佐々木道誉の「婆沙羅茶」がその頂点であった。

当時、すでに現在のような日本で言う、煎茶も行われていたとする説があるがはっきりしない。もっと前からだという説もある。煎茶はもともと釜などで煮(煎)る茶のことだった。日本でいう煎茶は前回Part2 宋と明のチャでご紹介したように中国でいうところの茶瓶や茶碗でいれる淹(えん)茶のことである。この後、足利義政を中心とした東山文化を経て、スポットライトが当たっていくのは「茶の湯」であるが、今回は触れない。煎茶の隆盛は江戸後期を待たなければならなかった。

趙州従諗(778-897) 『仏祖正宗道影』木版画

趙州従諗(778-897)
『仏祖正宗道影』木版画

売茶翁にとって重要な禅僧が二人いる。一人は、唐代の禅僧、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)である。修行者によく「喫茶去(きっさこ)」と言った。「茶でも飲んで頭を醒まして出直せ」ほどの意味である。それが趙州の手管であったのだが、後世、茶の世界で「お茶をどうぞ」の意味に用いられるようになる。それに、趙州といえば『無門関』第一則にある狗子仏性(くしぶっしょう)が有名だ。つまり、「犬に仏性はあるのか無いのか」の問いに対して「無」と答えたのである。生きとし生けるものは皆仏性を持つ(一切衆生悉有仏性)とお経にあるくらいだから大変なのだが、この有名な「無」についてはまたの機会に。『売茶翁偈語』にはこう書かれている。

頻(しき)りに喫茶とよんで 趙州にならう
千年の滞貨 人に求るなし
若し よく一口(いっこう)に喫過(きか)し去らば
万劫(まんごう)の渇心(かっしん) 直下(じきげ)に休せん

(売茶翁が)趙州にならって、しきりにお茶はいかがと呼んではみるが、千年の滞貨(たいか/うれのこり)を求めていく人はない。飲めば万劫の長い渇きはたちまちおさまるだろうに。このような意味である。さすがにもとは禅宗の、それも優れた僧である。趙州「喫茶去」は盧仝(ろどう)「清流」と並んで売茶翁のクレドを形成した大きな柱であった。

それから、もう一人は日本に煎茶をもたらしたと言われる隠元隆琦である。その詩に雪を煮てお茶をいれたことを詠った、こんな詩句がある。「無事閒(閑)かに烹(に)る 白雪の茶」。黄檗宗は、臨済宗の禅を基盤に持戒主義や浄土的な念仏兼修に特色を持つ。明末の動乱期に日本にやってきた隠元は宗教改革者として受容された。彼の宗風が清風としてとらえられたからであろう。ことに『隠元清規(いんげんしんぎ)』は修行者の護るべき規範を定めたもので、卍山道白(まんざん どうはく)らによる曹洞宗の宗門改革で重要な手本とされるなど、禅宗各派に大きな影響を与えたといわれる。また、隠元の法孫である鉄眼道光は隠元から授かった明版大蔵経をもとに、それまで日本になかった『一切経』の版をつくり、京都に印房を設けるなど、出版技術、経典の普及に大きく貢献した。これによって日本の仏教研究は大きく進展したといわれている。

隠元隆琦(1592-1673) 喜多元規 1671年 万福寺

隠元隆琦(1592-1673)
喜多元規 1671年 万福寺

売茶翁は、江戸の延宝三年(1675)肥前の国佐賀郡蓮池、現在の佐賀市に生まれている。蓮池鍋島藩の藩医であった柴山杢(もく)之進の三男として生まれた。9歳にして父と死別、蓮池にある宝寿山龍津寺の化霖道龍(けりん どうりゅう)禅師について出家した。化霖は最初、曹洞宗金剛寺で修行し黄檗宗の隠元隆琦に参禅、その後、遠江初山宝林寺の独湛性瑩(どくたん しょうけい)のもとで修行する。すでにここから運命的なのである。隠元は明の茶を日本にもたらしたと言われているし、独湛も同じ明の人で、二人とも生地は福建省で茶の名産地であった。その弟子筋の一人となったのである。道号を月海、諱(いみな)を元昭といった。

童僧の頃、師・化霖禅師に連れられて長崎の唐三箇寺の中国人僧を訪ねた。そこは、中国様式の建築、中国語を話す僧、見知らぬ中国の文物であふれていた。福建省北部で生産される青茶である武夷茶を初めて口にすることとなった(『梅山種茶譜略』)。武夷は、あの蘇軾(そしょく)や黄庭堅(こう ていけん)や朱熹(しゅき)を虜にした茶の産地である。少年の心は、煎茶という異国の風情に満たされて軽やかに羽ばたいたのだ。

13歳の時には、師の化霖にしたがって本山である宇治の萬福寺に参じて独湛から特別に偈を賜っている。将来を嘱望されたのである。元禄九年(1696/22歳)、病気から一念発起して遊行の旅に出た。奥州仙台で臨済宗の禅、近江で戒律を、九州に戻り筑前の雷山で修行、黄檗山で六年の修行後、33歳の時、肥前蓮池に戻り師である化霖のいるの龍津寺で彼に随侍している。化霖没後、弟弟子である大潮が京都から呼び寄せられ、龍津寺の住持を引き継ぐこととなった。龍津寺の住持にはなりたくなかったようだ。

それを見とどけると月海(売茶翁)は京都に向かうのである。飄々としてさまようように京に向かったという。50歳、1725年のことである。その後、60歳前後から京都の路傍で茶を売るようになり「茶銭は、黄金百鎰(きん/金の重さの単位)より半銭文まではくれ次第、ただ飲みも勝手、ただよりは負けもうさず」と看板を出して人々の注目を集めるようになった。東山にささやかな通仙亭を開き、東山大仏(方向寺)、東福寺通天橋の紅葉谷、下鴨神社の糾(ただす)の森、嵐山の渡月橋など、時節に応じて茶の舗をだした。『売茶翁伝』によると鍋島藩の国法では遊行に出た僧も10年経てば帰国後、改めて出国の許可が必要だった。この後、京と佐賀との往復に自信がもてなかったのだろう。それで、70歳を前にして国元に帰り、環俗して高遊外(こう ゆうがい)を名のる。大阪藩邸詰の名目で10年ごとの帰還を逃れたいと思ったようである。その経緯はよく分からないが、人柄が信頼されてか、許されて上方に滞在できるようになった。高遊外の名は、『荘子』大宗師篇の「彼は方(俗)の外に遊ぶ者なり」からとられたという説がある。

田能村竹田(1777-1835) 『自画像』江戸後期

田能村竹田(1777-1835)
『自画像』 江戸後期

長谷川潚々居(はせがわ しょうしょうきょ)さんの『煎茶志』によると、煎茶の発展は三期に分かれる。煎茶をもたらしたといわれる隠元の来日が1654年であるが、第一期の流行期は江戸時代の明暦から天明にいたる17世紀半ばから18世紀終盤までで、売茶翁のほか主だった人々に、文人趣味の大枝流芳、売茶翁から二世代くらい歳のはなれた木村巽斎(蒹葭堂/けんかどう)、上田秋成、秋成の向かいに住んでいた漢学者の村瀬栲亭(むらせ こうてい)らがいた。第二期は、玉露の創製と普及に伴うもので江戸寛政から幕末までをいう。田能村竹田、その友人であった頼山陽、九谷焼の青木木米(あおき もくべい)、翁を慕って煎茶の流派を打ち立てた田中鶴翁(花月菴流煎茶)、公家と繋がりの強かった小川可進(小川流煎茶)らがいた。それから、明治から大正までの第三期となる。

明治の文豪、夏目漱石の『草枕』にある描写、「茶碗を下に置かないで、そのまま口につけた。濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落として味わって見るのは閑人適意の韻事である」。これは、文人煎茶の味わいそのものであった。この小説は、和漢洋の境を際立たせながらも、俗を遁れて自由に生きたいという漱石の文人としての意識に貫かれていて出色だった。この小説が発表された1906年は、奇しくも岡倉天心が「The Book of Tea」を西洋に向けて放った年である。

夏目漱石(1867-1916)

夏目漱石(1867-1916)

己れ自らが善を行おうとするものであるなら、徳のあることを強く誇り高ぶり、人に布施を煩わせるようなことはしまい。これは、京都に出てから斎会の供養や施物を受けてきた僧としての自分に対する戒めでもあっただろう。売茶翁が客とのやり取りを書き残した『対客言志』にそのような内容の言葉がある。彼は自己の利益のためにへつらうことも政治的な取引やはかりごとを行うことをよしとはしなかった。智に働けば角が立つ。互いに助けあうのは好ましいことだが、恩着せがましくするのは愛がない。すべてが取引ならこれまた不毛で虚しい。売茶翁はこの名誉と利欲に溺れる俗世間を脱するのである。方の外に遊ぶのだ。これは高士としての文人の矜持でもあった。

それで、売茶によって身をたてる決心をする。ここが売茶翁の突出したユニークさであり、ラディカルな部分、また、その誠心誠意なのだ。売茶翁は、かつての同朋衆のように、その精神において僧、その生業において俗であった。当時、路傍で茶を売るのは賎しいと思われてもしかたなかっただろう。だが、それで貧しいからといって支配階層や豪商と結びつこうとはしなかった。遊芸としての茶に交わることなど論外だった。それこそが清風なのであるが、聖と賎の間を自由に通行することが可能な不可思議だが新たな立場を形にしたといっていいのかもしれない。

伊藤若冲(1716-1800) 『売茶翁図』部分 総髪に野服と端正な茶具

伊藤若冲(1716-1800)
『売茶翁図』部分 総髪に野服と端正な茶具

比叡山で学んで江戸の浅草寺に住んでいたこともある金竜道人は、変人奇人として世に知られた。住居の門に対句を書いた聯(れん)と呼ばれる細長い札を懸け、「貧乏なり、乞食物もらい入るべからず」「文盲也、詩人墨客来るべからず」と書いていたという。こういう人は興味深い。彼は売茶翁に憧れていたのだが、ようやく会えた売茶翁の風貌をこのように伝えている。「その志高く、人の栄枯は眼中になく、習俗に超然としていて都塵から離れ、温然自適して、茶を煮、売って生活している。興に乗れば詩を吟じて章をなし、身分ある人もこれを聞いて喜ぶ。‥‥その人となりは、白髪で髯をたくわえ、眼光人を射り、立ち居振る舞いは極めて沈静である。簡素な野服に身を包み、さっぱりして拘りがなく、風趣掬(すく)うべく、一見してその人格の察せられる人であった」という。『売茶翁偈語(ばいさおうげご)』は翁の法弟である大潮の弟子・梅山とこの金竜道人が出版したもので、彼はその題字も書いている。

売茶翁の肖像画は、多々残っている。伊藤若冲、池大雅、彭城百川(さかき ひゃくせん)、浦上玉堂、田能村竹田、渡辺崋山ら第一級の画家たちがその風貌を残しているのだが、そのうち、若冲、大雅、百川は、実際に翁と交流があった。翁本人を知らない画家は、偈語の扉絵となっている若冲が描いた肖像を基にして描いた作品が多いといわれている(長谷川潚々居『煎茶志』)。

ところで、陸羽の『茶経』の研究で名を馳せた禅僧である大典顕常(だいてん けんじょう)も翁とは、親しかった人だ。「煎茶を嗜む人は少ないので、あなたと一緒に飲もうと携えて来た」と詩に詠っている。『売茶翁伝』を書いた相国寺(しょうこくじ)の住持であった人である。書もいい。この寺は、かつて五山文学の中心地であったし、周文や雪舟を輩出したことでも知られている。

粛然たり茶鼎竹林の傍ら
朝夕風烟草堂にあがる
これ人間の相賞するもの少なになりて
携え来りて今日君と共に嗜(たしな)まん

大典顕常(1719-1801)墨跡 蕉中は号の一つ。

大典顕常(1719-1801)墨跡
蕉中は号の一つ。

大典は若冲の支援者としても知られ、小川後楽さんの『煎茶への招待』によれば、若冲と売茶翁を結びつけたのはこの大典だと言う。若冲の『動植採絵』を見た売茶翁は、「丹青活手妙通神」と八十歳半ばの筆でその神技を称えた。また、書家であり、絵もよくした亀田窮楽(かめだ きゅうらく)は売茶翁と一つ小路に住まいする風流人だった。時に窮乏する翁を助けたと言われるが彼自身も清貧の人だった。茶よりも酒を愛したというが酒を飲まない翁とは仲が良かったという。

翁は、こういった画家や文人墨客たちに慕われた。理由はそう難しくない。「‥‥山林面白き所、水石の清き所にて茶を点じ、人にのませつつ、貴き賤きをわかたず、料のありなきを問わず、世の中の物語なんどのどやかにしければ、皆人翁になれむつびぬ」あるいは、「あまた人に知られて年を経ぬれど、いかなる事有りても怒りの色を顕せしことなかりければ、世に有り難きことにいひけり」と松井成教(まつい しげのり)の随筆『落栗物語』に書かれている。

そして、本人の自警偈に「夢幻の生涯、夢幻の居、幻化を了知すれば、親疎を絶す‥‥」とある。この境涯が全て夢、幻と知れば親しい疎いもないというのである。僧でもなく道家でもなく儒者でもなく自ら蝙蝠と自嘲したが、物理的にも精神的にも解放系だったのだ。そして、その時々に縁に応じて集まる人々も次第に翁に感化されていっただろう。そこからある種のネットワークも生じたであろうが、その都度が一期一会の出会いであって、その出会いによってそれぞれの「智」は創発したのである。

売茶翁は「通仙亭」開いて12年後、1748年(寛延元年)『梅山種茶譜略』を人の求めに応じて書いた。74歳の頃である。この中で、お茶が日本に伝わった経緯を述べ、我が国に栄西や明恵上人がいたのは大唐に陸羽、盧仝(ろどう)がいたようなものだと書いている。また、一山一寧の弟子であった禅僧の雪村友梅(1290-1346)が、明恵上人の遺徳を偲んで栂尾(とがのお)に隠棲したことなども併せて書いたのである。栂ノ尾の禅風とお茶を称えていた。栂尾は梅尾(ばいび)あるいは梅山とも呼ばれたという(『煎茶文化考』大槻幹郎)。

そして、81歳の秋、年老いて体力的な限界だったのだろう。売茶を廃業して、書礼の揮毫で生計をたてることとなった。この後、三十三間堂の南にあった幻々庵で亡くなっている。89歳であった。この廃業の時、自ら大切にしていた茶道具をいくつかは友人に与え、残りは全て焼却してしまうのである。『売茶翁偈語』にはこのように述べられている。

木村蒹葭堂の復元した売茶翁都籃

木村蒹葭堂の復元した売茶翁都籃

「自分はひとり貧しく、住む土地とてない。お前たちは長年私を助けてくれた。春の山、秋の水辺、松の木陰や竹の中で茶をひさいできた。それによって飯代に欠くことなく、八十余りの齢を過ごせてこれた。今はもう耄碌しておまえたちを使える力がない。北斗に身を隠して寿命を終えようとしている。こののち、俗人の手によって辱しめられたならお前たちも恨みに思うだろう。このため、お前たちを賞め、燃えさかる焔三昧によって心のやすらぎを得させよう。直ちに焔の中で身を転ぜよ、身を転じた一句はさあ、どうだ。しばらく沈黙して云う。

劫火 洞然 豪末尽く
青山 旧に依る 白雲の中

そこで火に付す」。

翁の用いた12の茶具は十二先生と呼ばれていたのだが、その茶道具を模したものの図が残っている。この売茶翁茶器図譜は、大阪の商人で文人、コレクターでもあった木村蒹葭堂(けんかどう)が翁の焼却した仙窠(せんか/茶道具を入れる籃のこと)、その他を模造復元したもの、それに翁が生前人に与えた茶器の類を集めて13点、それに諸家に伝わる20点を蒹葭堂の子である孔陽が自分で模写したものをあわせ33点の茶道具を図譜(早稲田大学蔵書売茶翁茶器図へ)にして刊行したものである。翁没後60年の文政六年のことであった。

大典顕常(1719-1801) 木村蒹葭堂宛て書簡 部分 江戸時代

大典顕常
木村蒹葭堂宛て書簡 部分 江戸時代

それによると炉をおさめる厨子である炉龕(ろがん)、泉石良友と銘の入った都籃(竹製のかご)、鼎に似た銅製の炉である銅爐、素焼きの風炉である小爐、中国製の泥瓶=急焼(きゅうしょう/急須のこと)が一組、盧仝を記念した清風・通仙亭と書かれた茶旗、かの有名な銭筒などがあった。ついでに言うと売茶翁の急須は後に京焼の清水六兵衛がその手本にしている。

蒹葭堂の『売茶翁茶器図譜』にある茶道具の他に清初に来日した黄檗宗の僧であった独立性易(どくりつ しょうえき 1596-1672)が招来し、翁が所有していた「洪武涼炉」という白泥三峯の涼炉があった。佃一輝さんによれば、翁の茶碗は清朝初期景徳鎮窯の青花磁器で古染付(石洞美術館へ)ではない。翁と親しかった大典顕常が、「瓶は好悪を論ぜず、潔を要す」と『煎茶訣』に書いているように翁自身も「古物を好まず」、「清韵(せいいん)」を喜んだという。無装飾で端正であったその茶具は、決して秋成の言うような鈍漢なものではない。値の張る古物ではなく新しい清韵なものが選ばれているという。(『茶道学大系1 茶道文化論 「去俗」と「清」』)

木村蒹葭堂 遺墨 売茶翁茶器図の急須とほとんど同じ形態である。鉄砲口と呼ばれる直線的な注ぎ口とふっくらした胴張りとの対比が好ましい。

木村蒹葭堂 遺墨
売茶翁茶器図の急須とほとんど同じ形態である。鉄砲口と呼ばれる直線的な注ぎ口とふっくらした胴張りとの対比が好ましい。

売茶翁の売茶の場所は「随所、縁に任せて 立処(りっしょ)に真なり」と自ら詠んでいるように機縁によって定まった。それは、四方ゆくところが我が家なのだという言葉とセットに考える必要がある。ちなみに売茶翁の遺骨は遺言によって粉にされ散骨された(長谷川潚々居『煎茶志』)。墓はないのである。「錫を移して 今朝 市鄽(してん)に入り 紅塵堆裏 塵縁を絶す」。住まいを移して都に入る。世俗の塵がうず高く積る中ではあるが、世俗の煩わしさからは縁を切るという。

煎茶の席についてはこのような言葉がある。

「炉内の笑談 主賓忘る」、「座客 悠然 主と賓とを忘る 一盌 頓に醒める 長夜の睡 覚来 知んぬ 是れ旧時の人」。一碗、飲んだら長い眠りから覚める、醒めてみれば実は昔なじみの自分自身だと知るのである。主賓を忘る、つまり自分も相手も区別を失う。これは禅の世界だ。

「醒覚(せいかく)す 人間(じんかん) 仙路の通ずることを 盧仝(ろどう)の真の妙旨を知らんと要せば 嚢(ふくろ)を傾けて 先ず箇の銭筒に入れよ」盧仝が伝えた、仙界へも通じるという茶の優れたこころもちを知りたいなら、まず財布を傾けてこの銭筒に入れられよというのである。ここに文人茶、ひいては文人文化の正当を言祝いでいる。

そして、この言葉、「君に薦(すす)む 一椀家伝の茗(めい/茶のこと) 道(い)うこと莫れ 趙州無味の禅」。この一杯の家伝の茶を貴方の霊前に捧げる。どうか趙州無味の禅などと難しいことは言わないで茶を味わってほしいという。ここに売茶翁の気概も志も言い尽くされているだろう。趙州無味の禅も茶は、超えようとするのである。これは「煎茶道」という言葉にふさわしくはないだろうか。

『売茶翁偈(げ)語』の冒頭に掲載された次の詩をご紹介して終わろう。これは、売茶翁自らの賛で、それを画家の池大雅(別号/无(む)名)が隷書で書いたものの訳である。

「世を渡るのに、世の中が分かっていない。禅を学んだが、禅を悟っているわけでもない。只単に、一揃いの茶具を担いで、行く先ざきで茶を煎(に)て売る。到る処で茶を煎るけれど、買う人とて無く、空しく提籃(さげかご)を抱きかかえて、渓(たに)の辺(ほとり)に坐っている。笑いものではないか。何者か物好きな人が、その姿を描き出した。世の中にすべてを任せる人は清らかだ。唐代茶歌の先駆け、文人茶の祖である盧仝(ろどう)を受け継ぎ、兼ねて禅の本流としての達磨宗四十五代。高遊外自らが題した。」

大槻幹郎 『賣茶翁偈語』訳注 この書籍は、全日本煎茶道連盟で購入することができる。

大槻幹郎
『売茶翁偈語』訳注
『対客言志』、『売茶翁伝』も収録されています。

世を処するに 世を知らず
禅を学んで 禅を会(え)せず
但(た)だ将に 一つの具を担ぎ
茶茗(さめい)を 到る処に煎(に)る
到る処に煎るも 人の買うこと無く
空しく提籃(ていらん)を擁して 渓辺に坐す
咦(い/わらうべし)
何物かの好事 謾(みだ)りに描き出す
天下に一任する人 燦然(さんぜん)たり
盧仝(ろどう)正流兼ねて達磨宗四十五伝
高遊外自ら題す

无(む)名録す

 

次回はギリシア神話を新たな観点から洗い直して生新なロベルト・カラッソの著作『カドモスとハルモニアの結婚』を取り上げます。ニーチェとヴァ―ルブルクを通して読み解くカラッソ論をご紹介したいと思っています。お楽しみに。