芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂び

芳賀幸四郎  『東山文化』 中扉 絶版なのが惜しまれる。

芳賀幸四郎
 『東山文化』 中扉
絶版なのが惜しまれる。

足利義政の個性と保護によって生まれた文化、それが室町中期の東山文化である。この『東山文化』の著者である芳賀幸四郎(はが こうしろう)さんは意外にもこの文化の特質を感覚的に「はではでしく」「花やかな」美であり、また、ほのぼのとした余剰優艶の美であったとしている。これには不意をつかれた。「侘び」「寂び」ではないのだ。この一撃ですっかりこの本にはまったのだけれど、面白かったのは連歌の団欒性と「心付け」であり、能、連歌、茶の湯、庭園が冷え寂び・侘びへと傾斜していくシンクロナイズドスイミングのような連動性にあった。今回は芳賀さんのこの著作をプロットしながらこの二点にしぼってご紹介してみたいと思っている。

東山文化は、明との勘合貿易によってもたらされた舶載文化一辺倒で禅的世界観を抱く禅僧社会の文化、伝統的な王朝文化に憧れ浄土的世界観に傾斜した公家社会の文化、その両者の介在した武家社会の文化の複合したものである。しかも、その複合ないし融合の未熟な文化だった。これが芳賀幸四郎さんのこの著作におけるパースペクティブであった。

武家の棟梁は足利義政であったが、北宋最後の皇帝徽宗(きそう)と同じく文化的には洗練されていたが、政治的には全く無能と言ってよかった。だが、義政は武家を統率する征夷大将軍であり、従一位左大臣という公卿の一員であり、喜山道慶という禅僧でもあった。将軍のサロンは武家、公卿、禅僧たちの交流の場となり、文化の醸成される器となったのである。

足利義政(1436-1490) 土佐光信 筆  東京国立博物館

足利義政(1436-1490)
土佐光信 筆  東京国立博物館

将軍、摂関家、守護大名などの庇護を受けた五山・十刹・諸山などの禅僧の生活は室町初期から徐々に弛緩し始めていた。その生活は衣食住から趣味に至るまで意外なまでに華やかな贅沢なものであり、感覚的で官能的な趣きを帯びたものであったのである。彼等の作る詩は、もはや求道的なものを逸れて一般の詩となんら変わる所のないものになりはじめていた。将軍のサロンに出入りする禅僧の中には古歌を翻案して漢詩を作る者、和歌と漢詩を交互に詠ずる漢和連句に参加する者さえ現われ始めた。

一方公家社会には幕府の独占する政治に対する発言力はなく、わずかに任官叙位の権と形骸化した儀式を型どおり執行することがわずかな権能だったが、それも応仁の乱後にはすっかり衰退し見る影もなくなった。官位の昇進に血道をあげはするが、その官位に政治的経済的実質は何もなかった。荘園は守護大名の領国制の侵食によって崩壊寸前だった。そんな頃、東山時代の公家社会に『古今集』『源氏物語』『伊勢物語』などの文学や有職故実の研究が起こる。和学の興隆であり、良き時代への回顧であった。彼等の文化の理想形は王朝文化にあり、美の理念は情緒的、女性的、もののあはれ的な優雅艶麗の美へと逆流していったのである。それは一種の現実逃避ともいえた。

公卿の没落によって王朝文化への復古の傾向は逆に高まり、優艶の美への傾斜は、やがて武家のみならず一般庶民にさえ広がり始める。歌が普通の人々にも詠われる時代が来るのである。王朝文化の世俗化と言っていいかもしれない。一方、先ほど述べたように禅宗寺院でも世俗化と和様化が進みつつあったのである。

周文(生没年不明) 『四季山水図屏風』 右双  室町時代

周文(生没年不明)
『四季山水図屏風』  右双  室町時代

室町初期においても和歌、連歌、能楽などにおいて、「幽玄」が美の最高理念であった。平安末から鎌倉時代にかけて藤原俊成『古来風体抄』、その子の定家『詠歌大概』などの歌論書が成立、南北朝時代に入っても『三五記』、『愚秘抄(ぐひしょう)』などの定家に仮託した論が登場するようになった。その歌論の頂点は俊成や鴨長明らの強調した「幽玄」であり、定家の「有心」もこれに含まれるという。そして、二条良基の『連理秘抄』、世阿弥の『花鏡』、清厳正徹の『正徹物語』は、いずれもその著書に「幽玄」を標榜している。そして、ここで芳賀さんは周文、雪舟、宗湛の作品、及び河原者善阿弥や将軍義政の庭に、この「幽玄」をみている。やがて連歌の心敬(しんけい)に、あるいは能楽では金春禅竹(こんぱる ぜんちく)において、この「幽玄」は異質なものとなっていくのである。

雪舟(1420-1506) 『四季花鳥図』  左双 室町時代

雪舟(1420-1506)
『四季花鳥図』  左双 室町時代

その「幽玄」であるが、俊成の『日吉社歌合判詞(はんし)』の「詞姿のほかに景気の添ひたる」が、まず例にあげられる。景気はもともと風水から来ている言葉だ。気配の景色である。それから、鴨長明の「言葉にあらわれぬ余情、姿に見えぬけしき(『無名抄』)」、次いで雲の絶え間より見る秋の山の「見ゆる所はほのかなれども奥ゆかしく、定かに見んよりも優れたる」趣きなどを例に引いて、芳賀さんはこう結論づけている。「中世歌論における幽玄とはこのようにして、余情豊かな表現様式の別名にほかならなかった。詞すなわち表現されたものが、心すなわち表現されるべきものより小さく、その表現に盛りきれなかった心・詩情が表現の周辺に空焚きの香のようにただよい、表現を背後から支持し奥行を与えている様式、心>詞 という不等式構造を持つ余情の様式のことであった」という。幽玄とは「余情」である。この幽玄が何処から始まり、どのように成長していったのかという歴史的な経緯については、国文学者で能楽研究で知られる能勢朝次(のせ あさじ)さんの『幽玄論』に詳しいので上手くまとめられれば、そのうちご紹介するつもりである。

芳賀幸四郎(はが こうしろう)  1908-1996 東山文化研究の第一人者、禅の造詣も深かった。

芳賀幸四郎(はが こうしろう)  1908-1996
東山文化研究の第一人者、禅の造詣も深かった。

定家を崇拝し『新古今集』の歌を徹底的に研究した正徹も、「幽玄と云ふ物は、心にありて詞にいはれぬもの也。月に薄雲のおほひたるや山の紅葉に秋の霧のかゝれる風情を幽玄の姿とするなり。是はいづこか幽玄ぞと問ふにもいづくといひがたき也(『正徹物語』)」と言い、余情としての幽玄は現実に薄いヴェールをかけようとする緩和の美となっていくのであった。義政が慈照寺の持仏堂である東求堂にしつらえた額面の文字に「隔簾」を選んだことにも窺えるという。白梅を見るにも簾を隔てて垣間見る美である。

だが、道重くして執心にすぎる和歌は質的には、衰退の途上にあった。それに代わって室町時代前期にスポットライトが当たるようになったのは、連歌である。連歌は世俗的な滑稽味が面白がられる場合もあったのだが、二条良基らによって和歌の幽玄に匹敵する世界が創造され始めた。能勢朝次さんの『幽玄論』によれば、連歌の最初は若やいだ幽玄だったのである。正徹に学んだ宗砌(そうぜい)や心敬へと幽玄は引き継がれ、彼等に学んだ宗祇(そうぎ)によって連歌の全盛時代を迎えるのである。

本書で最も感激したのは、この連歌がいかに全体の調和に捧げられた芸術であるかが面白く書かれていることだ。団欒性と象徴性は東山文化の顕著な性格であるという。芳賀さんは連歌の文芸の本質を語ることは自分のよくすることではないと断りながらも、実は良くなさっているので、それをまとめてみたい。

もともと連歌は一首の歌を二人でつくることから始まった。五七五に七七で一首だが、つぎにまた五七五、次に七七という具合に複数の人が継ぎ足していって三十六韻か百韻を一セットとするようになったのである。その連歌の代表的作品である『水無瀬三吟百韻』が例に挙げられている。宗祇(そうぎ)、肖柏(しょうはく)、宗長(そうちょう)の三人によって、後鳥羽院の二百五十年忌にあたる長享二年(1488)に水無瀬廟に奉納するために詠じられた。その表の八句である。

賦何人連歌
雪ながら山本かすむ夕べかな     宗祇(発句)
行く水遠く梅にほう里        肖柏(脇句)
川風に一むら柳春見えて       宗長(第三)
船さす音もしるきあけがた      宗祇(第四)
月やなほ霧わたる夜に残るらん    肖柏(第五)
霜おく野原秋はくれけり       宗長(第六)
鳴く蟲の心ともなく草かれて     宗祇(第七)
垣根をとへばあらはなるみち     肖柏(第八)

飯尾宗祇(1421-1502) 古今伝授書 室町時代 源氏物語の研究でも知られている。 東京国立博物館

飯尾宗祇(1421-1502)
古今伝授書 室町時代
宗祇は源氏物語の研究でも知られている。
東京国立博物館

旧暦正月の下旬、早春の水無瀬の里で宗祇は後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋と何思ひけむ」という歌を心に思い浮かべながらその場所と季節を詠み込んだ。それが発句の「雪ながら山本かすむ夕べかな」である。この場合、読み込むべき言葉である賦物(ふしもの)は人で、何々の所に山が入り山人になるような仕掛けがされている。この頃、賦物は発句のみに読み込めばよかったけれど、言葉遊びとして次々に読み込むというようなこともあったようである。

脇句の肖柏はこの宗祇の発句を味わいながら詩的イメージを「行く水遠く梅にほう里」と七七句としてまとめた。「梅」で季節は早春で共通し、発句の詩境の形象が一段と鮮明に具体的になったと芳賀さんはいう。これだけで立派な一つの完結した詩であるのだが、宗長は、その発句と脇句に自分を融合させ、肖柏の脇句から転じて「川風に一むら柳春見えて」と第三句を詠む。梅の色に対して柳の新芽の色を対比させ、これまでの閑寂な世界に微かな動きが点ぜられたという。

牡丹花肖柏(1443-1527) 室町時代 禅を正宗龍統に、和歌を飛鳥井宗雅、連歌を宗祇に学んだ。 東京国立博物館

牡丹花肖柏(1443-1527)
室町時代
禅を正宗龍統に、和歌を飛鳥井宗雅、連歌を宗祇に学んだ。
東京国立博物館

ここで宗祇が第四句を付けるのだが既に春の句が三句続いたのでこれを打ち切り、同じ川辺の風景でありながら「船さす音もしるきあけがた」と季節のない句を付けた。堂々巡りを避けるために同じ季の句は三句か、せいぜい五句までというのが定めなのだという。この第四句で発句の夕方は明け方に変わり、川船の棹さす音も加わって詩境はこの句で変化を兆しはじめる。

この句を受けて肖柏の脳裏には霧深い秋の黎明のイメージが浮かび上がる。「月やなほ霧わたる夜に残るらん」である。水に縁のある句が三句続いたので肖柏は定めの通り水から離れたのである。そして、宗長は肖柏の第五句の場所を「霜おく野原秋はくれけり」として視野を限定して野原をクローズアップする。晩秋の枯野の世界になったのである。

このような手続きで鎖の連環のように次々と句が加えられ、しかも互いが不即不離で承前起後の働きを演じており、調和と変化の妙を発揮しつつ百句にいたってこの『水無瀬三吟百韻』が完結するという。複数の人間が制作と鑑賞とを交互に繰り返しながら、互いに前句の詩境を展開していく過程を楽しむ独自の文芸であるのだが、けっしてあるまとまった主題や一貫した詩情を表現してはいないというのである。

この前句の詩情を受けて新たに句を付けることを付け句といい、その展開によって調和しつつ変化し、変化しつつ調和する詩の流れと会衆の心が響きあい匂いあうことは、高雅なサロンにおける洗練された会話にも譬えられる。各句がその独自性を損なうことなく、かえって、その独自性を発揮することによって、全体を活かし調和させる。それが真の和であり、連句はその和の文芸であるという。なにかスポーツマンシップを彷彿とさせるものがあるのだが、それは和合団欒の芸術であると芳賀さんは強調している。

付け句は連歌の命である。前句をどうとらえて自分の句を付けるかによって月並みな句も玄妙になり、秀逸な句もつまらないものになると心敬は『ささめごと』や『老いのくりごと』で強調している。付け句には親句(おやく)と疎句(そく)の違いがあり、親句は前句の連想から生まれる言葉付けであり、秋に紅葉をつけ鹿を付けるような平凡な連想である。疎句は「前句の姿・言葉を捨てて、ただひとへに心を付ける」こと、すなわち心付けである。そこには調和を壊すことなく自らの主体性を発揮させる必要がある。「おおかた疎句とて、上下あらぬ様に継ぎたる歌に、秀逸は多く侍るとなり。親句とて上下したしく言いはてたるには秀逸稀なるよし、定家卿くはしく注し給へり(『老いのくりごと』)」と心敬は述べている。「心付けならぬ句あるべからず」のテーゼはここからきている。

飯尾宗祇(1421-1502) 相国寺で修行、連歌を宗砌・心敬・専順に、飛鳥井雅親らに和歌・古典を、卜部兼倶に神道を学んでいる。

飯尾宗祇(1421-1502)
相国寺で修行、連歌を宗砌・心敬・専順に、飛鳥井雅親らに和歌・古典を、卜部兼倶に神道を学んでいる。

当然この和合団欒の文芸には会衆の守るべきルールがあった。「前の句の心や内容はもとより、てにをはなど細部の表現に至るまで、一字も疎かにせず深く味わい、また打越(一句を隔てて句と句が照応すること)や遠輪廻(数首あるいは数十首隔てて同様の趣向が出ること)などに陥らぬように配慮し、さらに自分より後に付ける人がどう付けるかにまで、深く遠く気をくばって句を付けるのが名人というものだ」という心敬の言葉から察することができるだろう。自分の句も活かし全体をも活かす読みが必要とされた。

「かねてからの稽古工風によって、当座の仕業は、はやばやとせよ」という宗砌(そうぜい)の言葉は会の進行を遅らせることを戒めている。それから宗祇の『吾妻問答』では「厚かましくも、興ある所を、人に口をも開かせまいとするような行為は残念だ」という言葉。それに、興あるチャンスには自分の句には付けず貴人に譲るのがよく、付けにくい難儀な所や付けてもさして面白くもない所に秀句を付けるのが名人であるとしている。時には自分の功名などを考えることなく、平凡な句をつけて一座の円滑な進行をはかり、後に付ける人が付けやすいように配慮も怠らない。これが連歌の醍醐味なのである。

芳賀幸四郎さんはこの章の最後をこう結んでいる。この連句の一座に心ない相互理解に欠けた人が加われば、一座の雰囲気は壊れ、味気ないものになってしまう。「同じ心」の知己同士のささやかな団欒の場であるなら閉鎖的で排他的になるのがその趨勢であった。共通の体験と相互の善意と信頼とで結ばれたささやかな共同社会、そのような性格の連歌の座が東山時代に都鄙貴賤・公武僧俗を問わず広く流行し、その黄金時代を形づくったことは看過できない。これが茶の湯の「和敬清寂」に連なっていくことは想像に難くないだろう。時は、応仁の乱後の下剋上の時代に突入していこうとしていた。現実は互いに互いを信じることのできない世相になっていくのである。

世阿弥の幽玄は、俊成ら中世歌論の延長線上にあるという。支配階級の好みを意識して物まねの迫真性に余情という制限を加えた。せりふを歌謡化し、所作を舞踏化し、表現をリズミカルでロマンチックで非限定的なものにした。幽思微情のただよう能楽独自の美の世界を創出した。先ほどの能勢朝次さんのお弟子さんが能の研究で有名な表章(おもて  あきら)さんなのだが、表さんがよく言われるのは、世阿弥の時代の能は今日の能より、もっと生きいきいとしていたのであって、今日のようなへんな形になったのはいったい何故だという疑問が自らの能の研究の端緒であったらしい。僕が言ったわけではないのですが、能楽師の皆様御免なさい。つまり、今日の能は世阿弥らの時代の能とはかなり異質なものであるというのである。

金春禅竹 『六輪一露之記』 本書より 右上から 1.寿輪、2.竪輪、3.住輪 左上から 4.像輪、5.破輪、6.空輪

金春禅竹
『六輪一露之記』 本書より
右上から 1.寿輪、2.竪輪、3.住輪
左上から 4.像輪、5.破輪、6.空輪

この世阿弥の芸境を発展させていったのは、娘婿であった禅竹である。その幽玄には、三種類あると芳賀さんは言う。一つは「花におもしろきかゝり、耳目を驚かす曲声、景中に心あり」から窺える感覚的で多彩な美。二つ目は「幽玄のうちの余情(よせい)なほ勝りて、薄雲の月に帯たるよそほひ、飛雪の風に漂ふ心地して、心・詞の外に、影の浮かび添へらん」という優艶華麗に薄い紗をかける有心体の美である。第三は「花・紅葉の色めかしき風色にはあらず。心細く、かすかに、興に乗じて来り、興尽きて帰る」美である。気配の美と言ってもよいかもしれないけれど、これを最高の幽玄とした。これは、実は世阿弥がすでに『花鏡』に「さびさびとした」「冷えたる曲」「無心の能・無文の能」という言葉で表現したものにあたるという。一般受けすることのない究極の芸境であった。

禅竹は高位の芸境として闌曲(らんきょく)、閑曲を挙げている。『六輪一露之記』の破論、空論の中にもあるけれど今回は触れない。『至道要抄』では、闌曲は「たけたる(円熟した)位」、「非を是になし、をかしき事も闌(た)けて面白く」することであり、格に入り格を出た破格・越格の芸位である。世阿弥の言う「上手の風力を以って、非を是に化かす見体(『至花道』)」であるのだが、禅竹の場合、山風、塩風にもまれた松・杉の年経たる姿だった。だが、闌曲にはまだ荒さがあった。最高の芸位は閑曲である。それは「雅び閑に闌けたる位也。是れぞまことに麗しき所ならん」と規定し「たとへば吉野・大原・小塩の名木の年経て少なき枝の苔に、花の所々に咲きたるに、雨のそぼ降りたるを見る如くなるべし」としている。「さびたる美」「冷えたる美」が登場するのである。世阿弥の「冷えたる曲」は、幽玄からの離脱の兆しであった。

一休宗純 『偈頌』 室町時代(1476) 東京国立博物館

一休宗純
『偈頌』 室町時代(1476)
東京国立博物館

ここで心敬が登場するのは当然であろうか。心敬は古人の「水精の物に琉璃をもりたるような寒く清い」歌、「五尺のあやめに水をかけたような、ぬれぬれとさしのびた」歌、「内裏大極殿の高座に独座して圧倒されぬような、たくましく強力な」歌など様々の姿の歌に習熟すべきだと説いているが、別の所で「心(多く)、言葉すくなく、寒くやせたる句のうちに、秀逸はあるべし(『心敬僧都庭訓』)」と述べている。「からびる」「冷え」「やせ」「寒し」「清し」というような老境枯淡の美を志向していったのである。

芳賀さんは次の心敬の心得も併せて書いておられる。これはさすがだ。そういう美は「年も老い、こうも入りて後」自ずから到達するもので「初心の時は正しく美しく心にかけ、‥‥中程になりては奇特玄妙神変のかたへ心をやる」べきで「余情、面影、ひえやせたることは、上手の位にいたり、おのずから知らるべき物也」としている。「氷ばかり艶なるはなし(『比登理言』)」と言われる境地はそう簡単に到達できる世界ではないのである。

利休の高弟であった山上宗二(1540-1590)が書いた茶の湯の秘伝書と言われる『山上宗二記』には、「心敬法師連歌の語に曰く、連歌は枯かじけて寒かれという。茶の湯の果てもその如く成りたきと、紹鷗(じょうおう)常にいうと、辻玄哉(つじ げんさい)云われしと也」とある。村田珠光(1423-1502)が、一休に参禅し、茶礼を学んで侘び茶を創始し、茶の湯の基本様式を確立したのはよく知られている。ちなみに禅竹も一休に参じたといわれている。この本来の禅の精神が彼らに表現の縮小と象徴性を与えた。珠光の茶は、後に武野紹鷗(たけの じょうおう/1502-1555)や珠光の養子である宗珠(そうしゅ)へと受け継がれた。能阿弥らの豪華な書院台子の茶に代わって簡素自然な草庵の茶が勃興したのである。

応仁の乱前後から常緑樹と石を主にした庭園が興り、それに石と砂と苔だけの枯山水様式が出現した。妙心寺派の鉄船宗熈(てっせんそうき)は文明十九年自ら仮山水即ち庭園を造ったという。妙心寺五世で龍安寺の開祖である義天玄承(詔)に参じた僧である。その著書『仮山水譜』に「三万里程を尺寸に縮む」と書いている。一説には龍安寺の石庭にも関わっているといわれるが、はっきりしない。それから、南北朝時代に作庭された夢窓疎石(1275-1351)の枯山水で有名な西芳寺の庭園を模して、義政が造らせた東山山荘・慈照寺の庭園については詳しく述べる必要はないだろう。

この頃、禅宗様庭園と寝殿造り風の庭園が融合しはじめる。江村奇観を思わせる細川持賢(もちかた)父子の細川下屋敷の庭園や牡丹花肖柏の草庵などが例に挙げられている。名石を愛玩し、信楽・備前などの「冷えかれた」陶器を珍重する風の起こってきていることも同じ心情の表れと見るべきだろうと芳賀さんはいう。新しい波が起こりつつあった。

慈照寺 開基 足利義政  1490年創建

慈照寺
開基 足利義政  1490年創建

北山時代以来の豪奢で享楽的な風潮は東山時代に入るとさらに一般化して退廃的で破戒無慚な世相は年ごとに深刻になり、下剋上の風は日増しに強くなり大乱前後の緊張と不安はいや増していた。禅竹は音阿弥に押され、心敬は宗砌(そうぜい)や智蘊(ちうん)・行助(ぎょうじょ)らの陰に隠れていた。時代の主流ではなくアウトサイダーだったという。それだけに彼らは、この風潮に対して批判的であったし、優艶華麗な美にあきたらない心情を抱いていた。応仁の乱が起ると禅竹は山城・大和の地を漂浪し、心敬は坂東に流寓した。都の辺は草葉一つも枯れ果てて露一つとどめるよすがもないと嘆いている。この頃、「侘び」「寂び」は極めて重要だが、まだ蕾でしかない存在だったのである。

ほのぼのとした余情の様式からきびしい寡黙の様式へと、優雅艶麗の美から簡素枯淡の美へというのが、能や連歌をはじめ東山文化一般に通じる美の理念の展開であったことは筆者の芳賀さんも認める所なのであるが、それは頂点のごく一部なのであって、その基底には伝統的な王朝文化の残照が抒情的美への志向となってなお輝いていたのである。それとの関連を考慮することなくては、それに先立つ王朝文化を受け、そして桃山文化を生み出していった東山文化の歴史的地位も、また鴨長明や吉田兼好と千利休や松尾芭蕉との間に位置する雪舟、禅竹、心敬、宗祇らを正しく理解されることはないだろうとしている。ここは是非本書をお読みいただいて造詣を深められたい。

次回は、中国において生け花を思想的にまとめあげ、その嚆矢とされている袁宏道(えんこうどう) の『瓶史』を「文人と花の心」と題してお送りする予定です。名文として知られる明の時代の小品です。お楽しみに。