能勢朝次 『幽玄論』 part1 僧肇から二条良基まで

能勢朝次著作集 第二巻  中世文学研究 『徒然草』『幽玄論』を収録

能勢朝次著作集 第二巻  1982年刊
中世文学研究
『徒然草』『幽玄論』を収録

確かに中高生の頃、かなり前の話で恐縮なのだけれど、幽玄という言葉は習った。でも、そこから世阿弥のいう「花」が萌え、咲きそめるとは知らなかった。芭蕉のいう「まことを責める」とは西行や俊成における歌の細き一筋の道をたどることであり、それは幽玄と直通であったとは露も知らなかった。何十年を経て今回ご紹介する人の著作によって目からうろこが落ちたのだった。それが中世から近世における日本文化のセンターコアだったのは何となく分かっていたのだけれど、こんなに明確に提示されると、うんなるほどと思ってしまう。確かに西洋にはこの幽玄にあたる言葉はなさそうだ。抒情というだけではこの語を捉えることはできない。この頃、日本文化の輸出とかを政府が少しは考えるようになったのか(結構疑問ではあるのだが)、そういう御時世なのかジャポニズムに関して色々言われるようになった。外国に対して戦略的にジャポニズムを標榜して勇ましく戦っているアーティストも少なくない。しかし、外への遠心力が強まれば強まるほど求心力が相応していかないとバラバラになって飛んで行ってしまいかねない。その求心力とは何であったか、少し考えてみたいというのがこの『幽玄論』をとりあげた理由である。

芳賀幸四郎さんの『東山文化』の中でみたことだけれど、「幽玄」は室町初期には、すでに美の最高理念とされていた。それはそうなのだけれど、こんな疑問が生まれた。じゃあ、幽玄とは何処で生まれて、どのような生い立ちで、どのように栄華に達したのか。それは意外にわからないのである。そこで、今回は国文学者で能楽研究家で知られる能勢朝次(のせ あさじ/1894-1955)さんの『幽玄論』を取り上げたい。1944年に出版された本である。part1として本書の前半にあたる中国における幽玄から日本の二条良基までを要約してみたいと思っている。part2では「世阿弥の幽玄」を、part3では「禅竹の幽玄」をご紹介する予定である。この『幽玄論』は能勢朝次著作集第二巻に収録されているものが現在では比較的手にしやすい。それから第一巻の『国文学概説』などからも適宜引用したいと思っている。能勢さんは、同じく能楽研究の権威である表章(おもて あきら/1927-2010)さんが、これを超える能楽史の本は、いまだにないと断言した『能楽源流考』を書きあげた人だ。1941年に出版されたこの凄い本は、いつかご紹介できればいいなと思っているけれど思うだけに終わるかもしれない。ちなみに能勢さんは佐々木信綱さんから難しい顔をした人だと評された。めったに笑わない人だったらしい。表さんの先生でもある。

1.中国における幽玄

形無き何物かがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなく、空洞で、一人で立ち、変わることなく、あらゆるところを巡り疲れることがない。それは天下の母といえるだろう。その真の名を私たちは知らない。それを仮に「道」と呼ぼう。真の名をしいてつければ「大」と言うべきだろう。「大」とは「逝ってしまう」こと、「遠ざかる」ことであり、それは「反ってくる」ことである。だから「道」が大であるように天も、地も、そして、王もまた大である(『道徳経』第二十五章)。「道」というものは恍惚として朧げで捉えがたい。しかし、その中には象(かたち)が潜む。朧げで捕えがたいが、その中に物(実体)がある。影のように薄暗いが、そこに精(力)がある(同 第二十一章)。老子の言葉である。小川環樹さんの『老子 荘子』によれば、暗黒の中を手探りで進み微光のような何かを求めたとしても色も形もなく、触ることもできない。だが、その目的とする「物」に行き着いた時、人はそれを何よりも大きく感じるのである。「道」はすべてのものをあらしめる原理、永久不変のものであり、それを知ることが英知の働きであったという。う~ん、神秘的でいい。ここの部分はいずれ「禅竹の幽玄」で似たような表現に出くわすことになるので、頭の片隅にしまっておいてください。幽玄という言葉は、中国から来ているのは皆さんご存じだろうと思う。「道(タオ)」を形容する言葉だった。

道の道(い)うべきは、常の道に非(あら)ず
名の名づくべきは、常の名に非ず
名無きは天地の始めにして、名有るは万物の母なり
故(まこと)に「常に欲無きもの、もってその妙を観(み)、
常に欲有るもの、もってその徼(きょう/現象)を観る」
この両者は、同じきより出でたるも而(しか)も名は異(こと)にす。
同じきものはこれを玄と謂う 玄のまた玄は、衆妙の門なり
(『道徳経』上篇 小川環樹訳)

老子 『三才図絵』 1609

老子
『三才図絵』 1609

能勢朝次(のせ あさじ)さんによれば、この「玄」の註釈には、幽遠、黒色、天地色、幽穏、幽深知り難しなどがあるが、「幽玄」とする場合には、黒色、天地色とかいう意味はなく、幽遠、幽深にして知り難いという意味に限定されるようである。人智をもって容易に窺い知ることができないという意味に焦点が当たるのだという。

仏教が中国にもたらされたのは紀元前後の漢の時代に遡るといわれるが、経典の翻訳が本格的になったのは3世紀ころからで、サンスクリットから漢訳された経典を研究の中心においた、いわゆる格義仏教がスタートする。五胡十六国時代(304-439)になって翻訳は、いよいよ盛んになり、その僧たちの中のスーパースターが鳩摩羅什(くまらじゅう/344-413)であった。漢訳した経典は35部294巻に達したという。老荘思想の方も六朝(220-589)、隋、唐の時代に儒教を凌ぐ隆盛を見せている。それは不思議にも仏教の興隆期と重なっているのである。仏教と老荘思想とは相補的な関係にあったのだ。

能勢さんによれば、仏教思想における幽玄の初見はこの五胡十六国時代の後秦(384 – 417)に遡る。鳩摩羅什の四哲といわれた高弟の一人であった僧肇(そうじょう/374-414)の『宝蔵論』に見える。「自分は離微論を成して、幽玄なる真理を顕す」という意味の言葉があるようだ。離微を別な言い方で言うと「虚沖寂寞」のことであり、寂寞(せきばく)は、ひっそり寂しい様で、ここにすでに寂びとの関連が認められそうだ。また、『肇論』には「玄は幽玄を謂う」とあり、玄の性格を明らかにしている。

師の鳩摩羅什は、『大品般若経』『妙法蓮華経』『大智度論(大品般若経の注釈書)』『中論』『阿弥陀経』などの経典を翻訳しているが、とくに龍樹の中観思想を漢訳して中国に根付かせて功績のあった僧であり、隋の吉蔵(嘉祥大師/549-623)の三論宗に大きな影響を与えたといわれている。当然、僧肇(そうじょう)も無我・有我への執着を否定する空観思想の立場にあった。吉蔵の『三論玄義』には、鳩摩羅什や僧肇が極めて老荘思想に造詣が深かったことが記されているそうである。六朝から隋にかけて老荘思想と仏教とは、とりわけ親密な関係にあったようだ。僧肇の『宝蔵論』には『道徳経』にみられるような語句が使われているのである。いかに老荘思想をもって中観思想を説明しようとしていたか、その腐心の様子が窺える。

空の空すべきは真空に非ず
色の色すべきは真色に非ず
真色は形無く
真空は名無し
無名は名の父
無色は色の母
万物の根源と為し
天地の大租と作し
上は玄象に施し
下は冥庭に列す   僧肇『宝蔵論』

能勢さんの論を続けよう。僧肇の後に幽玄に言及した文献としては、隋代における天台宗の智顗(ちぎ/538-597)の著作である『金剛般若経疎』に「般若幽玄」という語がある。先ほどの吉蔵の『三論玄義』に「難を曰く、夫れ神道幽玄なれば惑う人多く‥‥」とあり、この神道は精神のことを指している。当然、日本の神道のことではない。それは幽遠なるものであって仏教のみがその真理を究め得るとしていて、この「幽玄」も捕えがたいという意味で使われている。

鳩摩羅什訳 仏説阿弥陀経

鳩摩羅什訳 仏説阿弥陀経

唐の時代になっても使われ方としては同じで、華厳宗の第三祖法蔵の『華厳探玄記』に「幽玄無極」を「甚深」といい、禅宗の『臨在録』に「仏法幽玄」とある。一様に情識を滅して真正を得ることは難しいが、仏法のみがそれを成し得るのであって、その仏法の深淵微妙な様を幽玄と呼んでいる。「妙」とか「言語道断」とか「心行所滅」などといわれるような境を示す語であった。仏教以外の文献においても「捕えがたいもの」という使われ方は同様であるという。中国の周代から南北朝までの千年わたる文芸を集めた詩文集に『文選』があるが、李善(630?‐689)が著した『文選註』に見える幽玄は老荘的な文脈のものだそうだ。仏典以外の「幽玄」の使われ方は概ね老荘の「虚玄」の意味だという。

僕が興味を覚えるのは、鳩摩羅什が翻訳した仏典である、『大品般若経』『妙法蓮華経』『大智度論』『中論』『阿弥陀経』が日本において広がった経路と幽玄という言葉の広がりの経路とには繋がりがないのだろうかということなのである。玄奘三蔵の新訳もあるので特定するのは難しいかもしれないが、興味深い問題だと思う。

2.日本における仏教の幽玄

日本の仏典に幽玄が現われるのは、最澄の『一心金剛戒体決』を嚆矢とし、その中に「諸法幽玄の妙を得 金剛不壊の戒を証す」とある。本覚思想をはじめとして天台宗が中世の芸術に大きな影響を与えたことを考えると、これは見逃せない。それから『本朝無題詩』の中にある平安後期の詩人・藤原敦宗(ふじわらのあつむね)の言葉の中にも幽玄の語があり、鎌倉時代に入ると明恵上人の『華厳修善観照入解脱門義』に「日探幽玄 天人之給膳」の語がある。いずれも仏法の深遠なる境地を形容する言葉であった。浄土宗の第三祖である良忠の『観経疏伝通記』には玄は幽遠・神妙二義を指すという言葉があって、幽遠と深奥の二つの意味を持たせていると能勢さんは指摘している。他にもあるのだがこれくらいにしておく。

天台宗は法華経が根本経典であり、明恵上人は華厳とともに密教にも禅にも造詣が深かった。禅や密教と般若心経とは縁が深い。それに浄土宗の阿弥陀経である。点在としか言いようのない幽玄の出所なのだが、わずかな跡をとどめるものではあっても日本の中世における芸術との関連おいて考えてみるべき内容ではないだろうか。

3.芸術美としての幽玄の誕生

本阿弥光悦(1558-1637) 古今集巻 部分 桃山時代  東京国立博物館

本阿弥光悦(1558-1637)
古今集巻 部分 桃山時代  東京国立博物館

古今和歌集は言うまでもなく平安前期に醍醐天皇の命により成立した初めての勅撰和歌集であり、紀友則 (きのとものり)、紀貫之 (きのつらゆき)、凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね)、壬生忠岑 (みぶのただみね) が撰集にあたった。その古今集の真名序に紀淑望(きのよしもち/? – 919)が書いた幽玄という言葉が芸術の分野で使われた最初といわれる。この古今集の時代にすでに幽玄が登場するのは興味深いことだ。だが、この幽玄は、難波津の歌や富緒(とみのお)川の歌が神異に関わるような神秘的な事柄だという意味で、芸術美を表現する言葉には未だなっていない。

夫(そ)れ和歌は、其の根を心地に託し、其の花を詞林に発(ひら)く者なり。
人の世に在(あ)るや、無為なること能(あた)はず。
思慮遷(うつ)り易(やす)く、哀楽相変ず。
‥‥天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人倫を化し、夫婦を和すること、和歌より宜(よろ)しきは莫(な)し‥‥難波津の什(じゅう/詩篇)を天皇に献り、富緒(とみのお)川の篇(詩歌)を太子に報へしが如きに至りては、或いは事神異に関り、或いは興幽玄に入る。‥‥『古今集真名序』

壬生忠岑(生没年不詳) 鎌倉時代 東京国立博物館

壬生忠岑(みぶのただみね/生没年不詳)
紙本著色三十六歌仙切(忠峯)  鎌倉時代
東京国立博物館

「太子に報へし歌」というのは片岡のほとりで、聖徳太子の歌に対して飢人が、「いかるがの富の緒川の絶えばこそ わが大君の御名を忘れめ」と返歌した故事を指していて、その飢人が文殊菩薩の化身であるとか達磨大師の化身であるという伝説を踏まえている。神秘不測の例として挙げられている。

その芸術美を表す言葉として使われた最初は、壬生忠岑(みぶのただみね)が945年著したとされる『和歌体十種』であった。和歌のスタイルを中国の詩体の分類に倣って、古歌体、神妙体、直体、余情体、写思体、高情体、器量体、華麗体、両方体の十種に分類しており、その中でも高情体を詞に特別な扱いはなく平明な表現だが、その義(心)は幽玄なる境に立ち入っているというものである。つまり、「義入幽玄」を言挙げしているのである。作者の心情が高潔でかつ深遠な境に至っていることを示していて、後世の「風雅」の根元をなすものだと能勢さんは強調している。忠岑の歌を一首挙げておこう。

冬ながら空より花の散り来るは 雲のあなたは春にやあるらむ 壬生忠岑

これに次ぐのは藤原宗忠(1062-1141)の漢詩作成の手引き書である『作文大体』にある「余情幽玄体」であった。それから、和歌の判詞、つまり歌会で歌の優劣を述べた言葉の上で初めて幽玄の語を用い、和歌と幽玄との関係をさらに推し進めたのは、藤原俊成の歌の師であった藤原基俊(1060-1142)の歌合判詞(うたあわせはんし)にある「言凡流を隔てて、幽玄にいれり」という記述のようだ。その歌がこれである。

君が代は天の岩戸を出づる日の 幾めぐりてふ数もしられず     三郎君

「幾めぐりてふ数もしられず」という表現の余韻として、幽遠な気分、限りない彼方に思いを馳せる際の細く遠い感興があり、この幽遠なる情趣美を幽玄としている。このように10世紀あたりから歌の世界に幽玄が登場するようになる。しかし、次に紹介する俊成をもって幽玄は華やかなスポットライトを浴びるようになるのである。

4.俊成と歌学歌論における幽玄の深化

狩野探幽(1602-1674) 『三十六歌仙図』より藤原俊成 江戸時代 17世紀 東京国立博物館

狩野探幽(1602-1674)筆
『三十六歌仙図』より藤原俊成
江戸時代 17世紀   東京国立博物館

能勢さんによれば、「幽(かす)かにして玄(おくふか)し」という語の本来の意味が美的なものを示せば、自然に藤原俊成(ふじわらのとしなり、しゅんぜい/1114-1204)の考えたような余情美を指すに至る。それは、艶と哀れと寂びのポリフォニーだったが、寂びはまだ重要な要素になっていなかった(『国文学概説』)。

平安末から鎌倉初期にかけて、新風を求める派と保守派の和歌のスタイルを統合して新古今風への発展へと大きく寄与したのは藤原俊成であった。新しさを求める手段として素材や用語の拡張をめざし、横への広がりを求めようとした新派の歌人たちの努力を、余情の深みを求める縦の世界へとその志向を転換させた。保守派が尊んだのは『古今集』である。それを中心とした伝統的な系列の歌の中に余情の深度を探ったのだ。そして、藤原公任(ふじわらのきんとう/966-1041)の歌論にもみえる余情という言葉に窮(きわま)りない深さと縹渺(ひょうびょう)性とを求めたのが俊成であったと能勢さんはいうのである。また、俊成が「幽玄」と評した歌には、寂びた歌もあれば、艶なるものもあり、また華やかなものもあった。情趣の色合いとして特定なものは要求していないと指摘している。

俊成が、この幽玄の語を自分の歌風の理想として言挙げしたわけでもないし、歌合の評の中で頻る多用したわけでもないのだが、鴨長明がこの語をもって俊成が望み、指導した歌の新風を表わすシンボルとしたことは、当時の人々が俊成の歌体を幽玄風という言葉として考えていたことを物語ると能勢さんは言うのだ。俊成が幽玄と判じた歌は結構あるのだが、僕の好みで二首だけ紹介しておこう。

心なき身にもあはれは知られけり 鴫(しぎ)立つ澤の秋の夕暮  西行
(俊成評)鴫立つ澤のといへる、こころ幽玄に姿および難し。

冬がれの梢にあたる山風の 又吹くたびは雲のあまぎる  慈鎮
(俊成評)心詞幽玄の風体なり。

5.鴨長明の幽玄

京都の河合神社にある鴨長明の方丈(復元)

京都の河合神社にある鴨長明の方丈(復元)

鴨長明(1115-1216)は賀茂御祖(かもみおや)神社の禰宜であった鴨長継の次男として生まれる。禰宜としての道は閉ざされた。出家したが、尚、俗名で知られた人であった。『方丈記』は日本三大随筆の一つとして知られる。彼の歌論である『無名抄』には、おおよそこんな言葉がある。「歌の姿は心得がたいものである。古い口伝などに難しい言葉を手をとって教えるように注釈しているけれど、その姿は、いっこうに見えてこない。いわんや幽玄などという言葉は名を聞くだけで戸惑ってしまう。自分でもよく分からないことだがら定かには申し上げにくいけれど、その境に入られた方々の言われた趣きは、要するに、ただ言葉に現われない余情、姿に見えない景色であろう。心にもその理(ことわり)深く、言葉にも艶極まったならば、その徳は自ずから備わるものだという」。それを分かり易く言うのに、このような例えを引いている。「‥‥秋の夕暮の空のけしきは、色もなく声もなし。いづくに如何なる故あるべしとも覚えねど、すずろに涙のこぼるるごとし。また、よき女の、恨めしきことあれども、言葉にあらはさず、深く忍びたるけしきを、さよなどほのぼの見つけたる、詞をつくして恨み、袖をしぼりて見せんよりも心苦しう、あはれも深かるべきが如し‥‥」。

「一言葉に多くの理りをとめ、あらはさずして深き志を尽くす」努力と修練とがその極地にまで至って、「言葉にあらはされぬ余情」が現われ、幽玄体という徳が備わるのであって、「風情すくなく心の浅からん人の悟り難きことを知るべし」と述べている。これを例えてみるなら長明の師であった俊恵(しゅんえ/1113‐1191頃)法師の「世の常のよき歌は、たとへば竪紋の織物の如し。よく艶にすぐれぬる歌は、浮き紋の織物を見るが如く、そらに景気の浮かべるなり」というような歌だといえよう。長明の師もまた幽玄の境を知る人であったのだ。そして、晩年、長明の幽玄は、あたかも大空に立ちのぼる陽炎を見る如きものとなった。「有るにもあらず無きにもあらず」という朦朧体と紙一重と言うところにまで行き着くのである。横山大観や菱田春草ら明治の日本美術院の画家たちが空気や光を描こうとして暈(ぼか)しを多用したため明瞭な輪郭を失ったと批判され、そのような画風の絵画が朦朧体と呼ばれたことはよく知られているけれど、ほぼ似た批判と考えていただいてよい。言葉を省略しすぎて何が言いたいのかよく分からない歌体を言っている。

菱田春草(1874-1911)  『落葉』 部分 1909年 明治当時では、朦朧体として非難された時期もあったが、現在では勿論、正当に評価されている。

菱田春草(1874-1911) 
『落葉』 部分 1909年
明治当時では、朦朧体として非難された時期もあったが、現在では勿論、正当に評価されている。

6.藤原定家の幽玄

定家は俊成の次男であり、歌聖と呼ばれ、神聖視されたかと思えば、後鳥羽院に傍若無人、人の詞などてんで聞く気がないと謗られたりしている。俊成の子であるから父の「幽玄」をそのまま受け継ぎはするのだが、定家には有心(うしん)体という理想の姿があった。

藤原定家(1162-1241) 『書状』 部分 鎌倉時代 13世紀 東京国立博物館

藤原定家(1162-1241)
『書状』 部分 鎌倉時代 13世紀
東京国立博物館

『毎月抄』には和歌を習うのに基本となるべき歌の姿を10に分類し、その中でも幽玄様、事然る可き様、麗様、有心体の四つを習道の基本とした。それらは、古体ながらも見苦しからぬ姿であって、それらの歌のスタイルに共通するのは「ただすなおにやさしき姿」であるとし、これらをまず自在に駆使できるようになったら、後の長高様、見様、面白様、一節有る様、濃様などの体は簡単だとし、鬼拉(きらつ)体は難しいがそれも詠み得るようになるだろうとしている。詞そのものに良い悪いはなく、その繋がり方で歌詞の優劣は決まるのであるというのが定家の信条であったから、その続け柄に素直に優しき姿を反映させたかったのだろう。その極みが有心体だった。よくよく心を澄まして、「その一境に入りふしてこそ、稀によまれる(『毎月抄』)」ような歌であることは付け足しておかなければならない。観相の歌である。

「詞幽玄」を初めて使ったのは定家のようである。俊成は「心詞幽玄」という使い方をしているが、「詞幽玄」の例はないという。詞重視の姿勢が窺える。ついでに言うと定家の『詠歌大概』には、歌の風体(ふうてい)は、堪能の先達の秀歌に習え、時代の古今・遠近によって和歌を論ぜず、よい歌を見て、その体(てい)に習うのがよいとあり、常に、古歌の景気を思い、柿本人麿、紀貫之、壬生忠岑(みぶのただみね)、伊勢、小野小町らの歌の類(たぐい)を心に染むるようにすべきであると述べられている。こうなると壬生忠岑の高情体が思い出されるところだ。定家の幽玄に関する言説は、ほとんどなく、『近代秀歌』の中に源俊頼(1055-1129)の名作を挙げた後、「これは幽玄に、おもかげかすかに、さびしきさまなり」とある。この俊頼という人は「やまと御言葉」は「たわぶれあそびなれば」と『俊頼髄脳』に書いた空前絶後のさるがう歌人であったらしい(松岡新平『能の見方』)。その俊頼の歌と定家の有心体の歌を一首づつ挙げておく。

ふるさとは散るもみぢ葉にうづもれて 軒のしのぶに秋風ぞふく    源俊頼

春をへてみゆきになるる花の陰 ふり行く身をもあはれとや思ふ    藤原定家

7.定家以降の幽玄

定家以後の幽玄論に関わる記述には、順徳天皇(1197-1242)の歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』の余情、優しさがあり、定家亡きあと歌壇の重鎮となった定家の子である藤原為家(1198-1275)の歌に現われる「優」と「艶」の幽玄があった。為家以降の歌壇は保守的な二条派、新風革新の京極派、定家の歌風を静かに守る冷泉派の三流に分れる。およそ、二条派の幽玄は、「さびしい余情」、京極派の幽玄は、「花やかに優しき風体」というべきもので、冷泉派の幽玄は、俊成のそれに似通った「古歌の面影の立ち添う余情深くさびさびとした感じ」であるとは、能勢さんの意見である。

おそらく南北朝初期に作られた、定家の偽書として知られる『愚秘抄』『三五記』に少し触れたい。『愚秘抄』の幽玄体には行雲・廻雪という姿があり、『三五記』では「優しく類なき女の姿を見るようならん歌」の姿を行雲・廻雪としている。戦国時代、楚の宗玉が書いた『高唐賦』にある、仙女との夢の中での交情という神秘に関わっている。余情妖艶とも言うべき幽玄が言祝がれていると言えるだろう。優艶な王朝美に近い。『三五記』にある「幽玄体」の歌の例を一つ挙げておこう。

したもえに思ひ消えなん煙だに 跡なき雲のはてぞかなしき
藤原俊成女(ふじわらとしなりのめすめ/実際には孫にあたるが俊成の養女となった)

狩野探幽(1602-1674) 『三十六歌仙図』より藤原俊成女 江戸時代 17世紀 東京国立博物館

狩野探幽(1602-1674)筆
『三十六歌仙図』より藤原俊成女
江戸時代 17世紀  東京国立博物館

室町前期である南北朝時代に入って、二条為世(にじょう ためよ/1250-1338)の後を受けて二条派の重鎮となったのは、歌人で時宗の僧であった頓阿(とんあ/1289-1372)であったが、幽玄に関する記述は、ほとんど無いようだ。だが、彼に学んだ二条良基(にじょう よしもと/1320-1388)には和歌においても連歌においても幽玄に関して見るべきものが多々ある。この頃、和学の復興と王朝美への志向が高まっていた。「俊成卿の源氏を見ざらん歌よみは口惜き事と申されき」などの良基の記述も残されているから、その様子を窺い知ることができるだろう。この人は、北朝の光明天皇のもとで関白になり長くその職にあった人だが、この激動の時代、権謀術数の渦巻く中でよく和歌や連歌を修練したものだと思う。良基の歌を一首ご紹介しておく。

降りかかる梢の雪の朝あけに くれなゐうすき梅のはつ花  良基

8.二条良基の幽玄

二条良基は和歌において二条派を代表する歌人であったが、自他ともに認めていたのは連歌であった。ここで連歌論に関わる良基の幽玄について触れておきたい。三十歳の頃には、すでに『避連秘抄』『連理秘抄』などの学書を出しているし、1356年には連歌の師であった救済(きゅうせい、ぐさい/1282―1376)とともに初めての準勅撰連歌集である『菟玖波集(つくばしゅう)』を撰集した。和歌には多くの秘事口伝があり道重くして執心にすぎることがあるが、連歌は当座の一興であってさしたる執心もないこと。古歌の風体を心に染むるともなく、連歌はその当時の人々の喜ぶ風体を詠めばよいこと。和歌に比べて詞の制約が少なく新しい言葉や俗な言葉でも交えることができること。それらの長所を一言でいえば自由があったのである。とはいえ、俗語を用いる連歌は民衆文芸的な俳諧として成立するようになる。連歌においても俳諧においてもその巻頭を飾る五七五の第一句を発句として独立に創作、鑑賞することがこの南北朝時代から始まるようだ。今日の俳句は、この時代の発句にまで遡ると言う(『国文学概説』)。そして、平安時代に発生した連歌が、ただの言葉遊びとして終わるのではなく、和歌に匹敵するほどの芸術性を持つことを良基は望んでいた。すでに行き詰まりつつあった和歌においてよりも、連歌の新しい世界において清新な芸術性を開拓しようと意図していたのである。

二条良基(1320-1388)

二条良基(1320-1388)

良基においてもその芸術の基盤はやはり、幽玄にあったのだが、連歌が新しい分野の芸術であったために、和歌のような平淡老寂といった気分は漂わず、若々しく可憐美があり、「上品で美しい」幽玄であったと能勢さんは言う。そして、心・詞の幽玄は、意地の幽玄、かかりの幽玄、面影の幽玄、聞きの幽玄、詠み口の幽玄、句がら風情の幽玄など一気に広がりをみせた。幽玄は良基というプリズムを通して幾筋にも分光したのである。

意地は和歌でいう心にあたる。「心を第一とすべし。こつある人は、意地によりて句がら面白きなり(『連理秘抄』)」。「かかり」の語は、『八雲御抄』にすでに見られるが、南北朝頃から次第に使われ始めた言葉で風趣あるいは風姿と評すべき言葉である。良基の弟子の梵灯庵(ぼんとうあん/1349-1417)が、詠吟の調べの中に「かかり」をみていて、ヴォーカリゼ―ションの幽玄と解する場合もあるらしい。その他にも詞の続け柄の中に匂い立つ風趣と言うようなものも「かかり」と考えられていたようだ。心の幽玄・詞の幽玄・かかりの幽玄が揃ってはじめて連歌の幽玄は成立するという。それから、素材の取り方として、幽玄の景物という言葉などもあった。自然の風物をも幽玄と形容したのは彼が最初であったようだ。

良基の時代には、幽玄は歌道だけに限らず、すでに説明を要しない一般に使用される語になりつつあったようだが、良基によって、為家以降、あまり目立つことのなかった幽玄が新しい連歌という芸術において幾種類ものヴァリエーションをもって使われ始めたことは、極めて画期的だった。能勢さんによれば、この展開は猿楽における世阿弥に匹敵すると言う。その先駆として評価しているのである。伝統的な美の理想を新たな芸術に移植して、美しい花を咲かせた点で世阿弥と良基には共通する若さがあると言うのである。

本書には書かれていないが、世阿弥(1363-1443)は、13歳頃この二条良基に藤若の名をもらい(申楽談義)、古今集などの古典や連歌を学んで高い教養を身につけたと言われる。3年後には良基の連歌の会に出て評価されていたようだ。このことは世阿弥の能、とりわけ謡曲を考えるうえで重要な要素になってくるのであるが、それは part2「世阿弥の幽玄」でご紹介する予定である。

9.さて、その後は

芭蕉(1644-1694) 森川許六(1656-1715) 『奥の細道行脚之図』 部分 

芭蕉(1644-1694)
森川許六(1656-1715)筆
『奥の細道行脚之図』 部分

この後、定家を崇拝してやまなかった正徹(しょうてつ/1381-1459)の影響によって新古今集の歌風が連歌の中に導入され、歌道と連歌道がその理想を等しくするものとの信念が生じていく。これによって、連歌の幽玄は良基が思っていた幽玄観よりも狭められた。その新古今の幽玄美に天台本覚思想などが介在する仏教的観相の深みと枯淡への志向から心敬(しんけい/1406-1475)の「冷え寂び」が生まれた。心敬は天台僧であった。そして、宗祇(そうぎ)によって連歌全盛の時代が訪れることになるのだ。本書の後半は世阿弥(1363‐1443)と禅竹(1405-1470頃)の幽玄を精査していて出色だけれども長くなるので、とりあえずここまでとしたい。

ついでに言っておくと、和歌や連歌が貴族的な文芸であったのに対して、俳諧は江戸時代に入って真に一般庶民のものとなる。松永貞徳らの上品な滑稽があり、西山宗因の談林風が滑稽にいっそうの拍車をかけることになる。それは、連歌の狂言であると能勢さんは言う。芭蕉は貞徳の俳諧のルールに則りながら、通俗的な言葉でもって「まことありてかなしびをそふる」作品を生み出す「細き一筋の道」を求めた。「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めた」。風雅である。それは西行の和歌において宗祇の連歌において雪舟の画において利休の茶において一筋に貫き通る道であったのだ。「伝統の再生」である(『国文学概説』)。

次回 part2では「世阿弥の幽玄」をお届けする予定です。世阿弥は幽玄を猿楽習道の根幹に据え、音曲、謡、舞、物真似の全てを幽玄で貫きました。お楽しみに。