能勢朝次 『幽玄論』 最終回 禅竹

翁面 江戸時代 東京国立博物館

翁面 江戸時代
東京国立博物館

荒唐無稽と晦渋さが背中合わせになった世界が禅竹の著作の魅力であり不思議さでもあるのだ。晦渋という点では、この後ご紹介する『六輪一露』など、ヤコブ・ベーメの『シグナトゥーラ・レールム』に匹敵するのではなかろうか。その深遠さは老子の『道徳経』に連なってもいる。もっと驚くべきは、禅竹の『明宿集』だ。これは、中華どんぶりをひっくり返したような中世の神仏習合の不可思議さと深くリンクする。そのことは「習合」という名の結合術でご紹介しておいた。例えば、「そもそも、翁の妙体の根源を訪ねるなら天地開闢の初めより出現しましまして‥‥本地を尋ね奉れば両部を超える大日、あるいは超世の悲願阿弥陀如来、または応身釈迦牟尼仏、法・報・応の三身、一得を三身に分かち給ふ所」と述べられている。この冒頭において、すでに翁は、産土神(うぶすながみ)や諸仏を超える宇宙的存在として言挙げされるのである。同じ『明宿集』には、秦の始皇帝の血脈であり、桃太郎のように初瀬川を流れて来た猿楽の祖である秦河勝(はたのかわかつ)のことが紹介されている。なんと、このおとぎ話のような出自を持つ河勝の生涯は、荒神という祟り神となって終わっている。天衣無縫の話だ。そして、「すなわち翁・式三番と現る。垂迹を知れば、歴々分明にまします」とある。第一は住吉大明神あるいは諏訪明神とも塩釜明神とも示現垂迹し給う翁は、歌道の家に生まれて在原業平として現われるのである。権化の示現だという。全ての神や仏が一体にまします「不増不滅、常住不滅の妙神」であるともいう。縄文の神に結びつけた人もいたが、どう整理していいか分からない。そもそも『翁』は猿楽におけるもっとも神聖な演目であったのだ。

金春禅竹氏信(こんぱるぜんちくうじのぶ/1405-1470)が生まれた応永十二年、世阿弥は43歳で円熟期を迎えていた。禅竹の祖父は金春権守(こんぱる ごんのかみ)、父は弥三郎といい二人とも名手であった。弥三郎は、金春家の棟梁であった毘沙王次郎に棟梁の座を譲り受けたが早逝したらしく、禅竹の父に関する記録はない。その後、禅竹が金春家の跡を継ぐことになる。応永二十九年(1422)頃、六十歳前後で世阿弥は出家し、観世太夫の地位を長男十郎元雅に譲った。引き続き舞台にも立ち、『花鏡』、『至花道』などの著作が生まれていた。だが、足利義教が将軍職に就くと世阿弥は冷遇され始める。将来を悲観して次男元能(もとよし)は出家した。禅竹は、世阿弥の娘を娶り、長男の七郎元氏が生まれた年、世阿弥の嫡男・元雅が伊勢で客死している。元雅は禅竹と仲がよく、禅竹に「一大事の秘伝の一巻」の一見を許した。それが、世阿弥の『花鏡』ではなかったかと言われている。禅竹と元雅は、義兄弟のような間柄だったようだ。世阿弥が佐渡に配流の後は、その妻の寿椿を養い助けた。一説には世阿弥を看取ったと言う。

能勢朝次著作集 第二巻  中世文学研究 『徒然草』『幽玄論』を収録

能勢朝次著作集 第二巻 
中世文学研究
『徒然草』『幽玄論』を収録

世阿弥没後、その甥である観世の音阿弥と娘婿の金春の禅竹が世評を二分していたが、音阿弥が幕府を中心とした京都の武家階級の人気を博していたのに対して、禅竹は大和方面で勢力を拡大していた。二人の差は、禅竹が謡曲作者として幾多の名編を作り、その芸術論においても独創的な秘伝書を残していることにある。音阿弥にはそれがない。禅竹の作品は世阿弥に比べて蕭条とした感じのするものが多いと能勢朝次(のせ あさじ)さんはいう。世阿弥の在世時は、正徹の妖艶幽玄な歌風が一世を風靡していたが、禅竹の時代は心敬の冷艶枯淡な歌風が台頭していた(『六輪一露評釈』)。時代は侘び寂びへと大きく舵をきりはじめていたのである。

この能勢朝次さんの『幽玄論』に関するシリーズでは、part1で中国での幽玄の発祥と日本における和歌の幽玄から連歌との関係を見て来た。part2は世阿弥によって多様に展開された幽玄がテーマであったのだが、今回はこの『幽玄論』の最後を飾っている禅竹をご紹介したい。前回の世阿弥同様に『能勢朝次著作集』第五巻「能楽研究」の内容なども付け加える予定である。能勢さん没後の昭和30年頃、世阿弥の『拾玉得花』が発見され、正長元年(1428)、禅竹24歳頃に相伝されたことが明らかになった。世阿弥は、もとより禅竹の研究においても大きな変更を迫られる事件だったようだ。したがって禅竹の『六輪一露』などには、この新しく発見された世阿弥の著作の影響があるということになるのだが、能勢さんのこの『幽玄論』には『拾玉得花』の内容が盛り込まれていないことを予めお伝えしておきたい。尚、世阿弥の『拾玉得花』発見や禅竹集伝書翻刻の際の底本が判明した後の禅竹研究書には小西甚一さんの『能楽論研究』や伊藤正義さんの『金春禅竹の研究』がある。また、最近では高橋悠介さんの『禅竹能楽論の世界』があり、禅竹の思想が仏教、神道、歌道など多方面にわたって精査されている。世阿弥はこのような歌を添えてそれを禅竹に贈り、禅竹はこのように返歌したのであった。

もしほ草かき置く露の玉を見ば 磨くこと葉の花は尽きせじ  世阿弥

もしほ草の花も玉藻もかき集め 見れば鏡の裏も曇らず    禅竹

「歌」と「手の舞い、足の蹈む所」

詩は、志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言(言葉)に発するを詩と為す。情、中(心中)に動きて言(言葉)に形(あら)はる。之を言ひて足らず。故に之を嗟嘆(さたん/嘆く)す。 之を嗟嘆して足らず、故に之を永歌す。 之を永歌して足らず、手之を舞ひ、足之を蹈むを知らず。情を声に発して、声、文(あや)を成し、之を音といふ‥‥天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きは莫(な)し。先王、是を以て夫婦を経し、孝敬を成し、人倫を厚くし、教化を美し、風俗を移す。‥‥『詩経 大序(毛詩序)』

禅竹は『歌舞髄脳記』において、古歌に心を染めよと言い、そうすれば、詠曲して舞い謡う事は無上幽情の感があるだろうと言う。音曲(能の音楽)の習道が和歌をもってその源とし、古歌の苦吟、曲味を含んて謡うのを音曲というとある。これは全て心より起った曲味であるから、其の心を「ふくみうたう」のが音曲だと心得よと書いていて、心なくして謡ったのでは、ただの音であり曲とは言えないと断言しているのだ。また、「この神楽(猿楽のこと)の家風においては、歌道を以って道とする。歌また舞の心は一つである。形なき舞は歌、詞なき歌は舞なり」と述べ、「歌舞一心の曲味」であるという。

人は嘆く時、永く声を引いて歌うも足らず、知らず知らず、歌に合わせて手が舞い、足が踏む。心情が声を生み出し、その声は或いは高く、低く変化し、これを音という。詠嘆から生まれるものが詩歌であり舞である。ここに歌舞同源のテーゼが成立する。その二つを包含するものが志の之く所、つまり詩歌の道ということなのだろう。禅竹の和歌能芸一元論は、先の『詩経』の大序と深く関わっている。能勢さんは、世阿弥の歌道に対する言及が幽玄を舞台上に実現するためのはなはだ実利的な目的でなされているのに対して、禅竹のそれは、和歌と能の二者を貫通するものを求めた末に、「歌道」に至ったという。ちなみに、世阿弥が二条良基らを通して連歌や和歌の世界に通じていたように、禅竹も安位寺殿(あんいじどの)と呼ばれた興福寺大乗院の門跡経覚(きょうがく/1395-1473)の連歌の座に加わり、一条兼良、正徹、東大寺戒壇院の普一国師志玉、五山僧であった南江宗沅(なんこうそうげん)ら当代一流の人々と交流していたのである(『日本思想大系 世阿弥 禅竹 解説』)。

光悦謡本 『芭蕉』 江戸時代 17世紀

光悦謡本 『芭蕉』(禅竹作)
江戸時代 17世紀 東京国立博物館

岩に咲く花

世阿弥のいう「見は皮、聞は肉、心は骨なるべし(『至歌道』)」では、素質が開花した姿が骨、歌舞の修練の成果があらわれるのが肉、この品々が長じて安定した美しさ極まる姿が皮であった。禅竹56歳の著作である『五音三曲集』になると「この道を知る心は骨力である。それをやわらげる満風は肉身であり、それを尚深めて、美しく見せるのが上皮であり、これが幽玄である。幽(かす)かに深きは骨肉の二つを知れる心を蔵しているからである。表皮だけでは、浅く近く、幽玄ではありえない」という。世阿弥の優美雅麗の幽玄から幽(かす)かに深き幽玄へと移行していく。ここで禅竹は、世阿弥の幽玄からは、いささか離れ始めているのだ。

この『五音三曲集』は、もっぱら音曲(能の音楽)の味わいについて、定家に仮託された歌論書である『三五記』からの和歌を引用して、曲との関連を述べている。世阿弥の従来よりの五つの曲味の中をより細かく分けて、祝言(5)・幽曲(5)・恋慕(2)・哀傷(2)・闌曲(らんきょく2)の16とした。それらに、『三五記』の歌体の名目と例歌を添えている。能勢さんは、その中で闌曲の拉鬼(らっき)体と若声体の二つのうち、拉鬼体を例にとっている。この「鬼をひしぐ」という拉鬼体の説明は『五音三曲集』に以下のように書かれている。

能勢朝次著作集 第5巻 能楽研究(二)

能勢朝次著作集 第5巻
能楽研究(二)

「或和歌秘書(三五記のこと)に、この体は無上なり。全てなり難き姿なり。はじめにこれを学べば愛遠(あいとお)になる。はなはだ俗に入らぬ体。ただ心に掛けながら、為さずして稽古入りぬれば、心もすくよかにつのり、言葉も物づよくなりて、自然にそのものになる。骨を存して余情を忘れたるなり。一切のわざは強きをもてよろしとす。拉鬼の体、歌の中道なり。心をとどめてわきまへ知るべしといへり」。

歌道における『三五記』の拉鬼体の文とほぼ同じ内容であるが、従来、歌道では拉鬼体を骨あって余情忘れたる豪壮雄健な歌のスタイルとしていた。禅竹は、拉鬼とは鬼をひしぐことであり、鬼の力以上の力とは、すなわち幽玄至極の心であるとしている。『古今集』の真名序に和歌とは「天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人倫を化し、夫婦を和すること‥‥」とあり、これは、『詩経』の大序に由来する。幽玄なる和歌の力とは鬼神の心をもひしぐものであった。それは、「岩(いわお)に花の開(さかん)が如き」世界であったのである。

「幽玄」無上第一

『至道要抄』は禅竹の最晩年の著作であるが、書かれた年は、はっきりしていない。『五音三曲集』で16に分けた曲味を、ここでは祝言を祝言音と祝言曲に分け、遊曲を加え、幽曲、恋慕、哀傷、闌曲に加えて閑曲を独立させて計八曲に編成し直している。この中で禅竹は、幽玄音を無上第一とし、仏教の「一切万物悉有仏性」のごとく「一切万物悉有幽玄」を考えていると能勢さんはいうのである。以下のように禅竹は述べている。「幽玄音は無上第一であるが、多くの人たちが幽玄と考えているような偽り飾り言葉巧みに悩みて弱きものではない。幽玄とは仏法・王法(王として守り行うべき道)・神道であり私(わたくし)があるべきではない。大切なのは強いという意味が至って深く遠く、和らぎながら物に負けない透徹さであるということである。金性も、明鏡も、剣勢も、岩石も、鬼神も幽玄である。‥‥そもそも幽玄の数々、天地未分は幽玄の根本である。そうであるなら、天地・日月・星宿・山海・草木も幽玄である。太きは弱く、細きは強い。細きは和らぎという意味の幽玄である。太きは荒く弱い。太くてしかも細き心あるものは幽玄を添えるゆえである。太いも細いも心のままであるからだ。是はただ幽玄の大きく太い所より出ているからである」という。中観思想や禅を思わせるような二律背反的な表現に傾斜している部分もあるのだが、驚くべきは、「森羅万象は幽玄である」というテーゼにまで至っていることだ。参考までに付け加えておくと、世阿弥は新たに発見された『拾玉得花』の中で、「万象・森羅‥‥ことごとく序破急をそなえたり」と書いている。世阿弥にもそういうニュアンスの思想があった。だが、禅竹において「幽玄」は、もはや、優雅や柔和とかいった抒情を突き破って、「天地の誠」や「仏法の真如」や「阿字」という万有の根底にあってそれを成立させるがごとき存在だということが闡明にされるのである。

長谷寺 本堂 近くには猿楽の祖・秦河勝と縁の深い初瀬川がある。

長谷寺 本堂
近くには猿楽の祖・秦河勝と縁の深い初瀬川がある。

巡るエーテル「六輪一露」

金春禅竹 『六輪一露之記』  右上から 1.寿輪、2.竪輪、3.住輪 左上から 4.像輪、5.破輪、6.空輪 下 一露

金春禅竹
『六輪一露之記』 
右上から 1.寿輪、2.竪輪、3.住輪
左上から 4.像輪、5.破輪、6.空輪
下 一露

『六輪一露』は禅竹が世阿弥の心を伝えるのみならず、彼自身が長谷観音に参篭して悟り得た内容がその骨子となっている。「それ、申楽(猿楽)家業の道は、体、美を尽くし、声、文(あや)をなす。是を以って、手の舞い、足の踏む所を知らざるなり。然れば則(すなわ)ち、豈(あに)本来無主・無物の妙用に非ずや。故に、仮に六輪一露の形を得たり(『六輪一露の記』)」と書いている。無主無物の妙用は我々の認識を越えた真如や密教でいう阿字なるものによると言う。能勢さんによれば、この『六輪一露』を芸能の習道と結合して『習道七段』が作られ、この解説として『六輪一露の記註(本書では『七段秘註』と呼ばれている)があり、六輪一露の解説としては、この記註が最も見るに足るものだとしている。というわけで、この記註を見ていきたい。無主無物が如何なる妙用を以って芸能を成立させるに到るか、その経過を能勢さんは幽玄の立場から示すのである。

1.寿輪は歌舞幽玄の根源である。それは未だ歌にも舞にも発現しない、音曲でいえば声の基である息、舞であれば舞い出さない初めの形、いわば「舞の息」であるという。深い言葉だ。この未顕現の幽玄は、実際に歌となり舞となっても、その顕われたところの幽玄を内からたわめて結ぶのである。

2.竪輪(しゅりん)では幽玄が顕現しはじめた段階である。音曲幽玄としては、息が声となって現れ、澄み上り冷え秀でた感を生じ、舞いはじめて生きた曲体を成しはじめる境地である。音曲・舞の順において幽玄の端緒はこの竪輪から発するのである。『六輪一露の記』の私詞には「竪輪は、天地かく立上り顕われ、精神と成りて、横竪顕われ、清曲生ず」とある。

3.住輪は竪輪で発現した幽玄が、十分に発現を遂げて歌舞の万曲を生ずる所である。歌舞幽玄の精神がここに安住し、体となって隠れ住みつつも、諸々の態(わざ)の間を繋ぎ統べる所、世阿弥の「万能綰(わん)一心/全ての能を一心にわがねる」に相当するという。幽玄の精神は外に発動し、諸曲の上に移り出て、態(わざ)となって、丸い輪である円相の左右の形を生ぜせしめる。舞歌は生ける曲となって人々に深い感動をもたらすのである。

4.像輪は物真似の品々が発現してくる段階であり、音曲で老声若声の区別を与え、それぞれの役柄に成りおおせる境である。歌舞と物真似が成就し、三体(女・老・軍)などの物真似とその用風が美しい花を咲かせる世界である。像は万象を意味し「天衆地類、森羅万象、此の輪に治まる(『私詞』)」という。寿・竪・像の上三輪は幽玄を母体として、その中から発現するものであるから万曲即幽玄精神と言えるという。

5.破輪は世阿弥のいうところの「闌位(らんい)/円熟の段階」と同一のものであって如何なる異相逆風をなしても幽玄なる芸術としての感銘を生み、是風ばかりの正当な芸では到達しえないような舞台効果を上げることが出来るような境地である。心の欲するままに演じても少しの破綻もない、絶対自由の芸境であった。幽玄という円相を突き破って外に出る八つの線は、円相の中心から発し、中心において繋がる。これは心のままに演じても幽玄の根底にしっかりと繋がっていることを表している。

6.空輪は老境美の位であり、閑位の芸境を示している。「至り至りて、歌舞枯れ尽きて、老木に花の残れる、体少なく無風になりて、元の寿輪に帰る」とある。冷え寂びた枯淡そのものといったような境地となるのである。功なり名を遂げた位としての閑位というものを「みやび閑(しずか)にたけたる性位」と定義した(『至道要抄』)。それは誠に麗しい境地であったのだ。例えば「吉野・大原・小塩などの名木が年を経て苔むした少なき枝に花の所々咲いて、それに雨のそぼふるような」風情だとしている。「静かにうるわしくて、寂び闌(た)けたる位、もっとも無上至極の位なり」と述べている。ここに冷え寂びたる境地が最上のものとして言祝がれるのである。

7.一露は「ことごとくも天地の主、万物を生み出す精魂である。体は見えざれども、万曲をまもる精霊、万障をはらう心剣である」という。変じて大円鏡智となり六輪をつなぐ精神であるとしている。一露は六輪を生じ、これらを存続、発展させ、統合する霊妙な働きである。無相空寂の寿輪から生住異滅(事物が出現し滅んでいく4つの段階を示す)、成住懐空(生命の誕生から始まる4相を示す)の道程を辿り、竪・住・像・破と流転移行して最後の空輪からさらに最初の寿輪に戻って一息の間断なく循環する。それは、この一剣の働きによって運行するのだというのである。

談山神社 神廟拝所 明治の神仏分離以前は多武峰(とうのみね)寺と呼ばれ、金春をはじめ大和猿楽と極めて縁の濃い寺であった。正月には六十六番の猿楽が行われていた。

談山神社 神廟拝所
明治の神仏分離以前は多武峰(とうのみね)寺と呼ばれ、金春をはじめ大和猿楽と極めて縁の濃い寺であった。正月には六十六番の猿楽が行われた。

一露と「阿字」

この『六輪一露』の図を見て禅の十牛図の影響を察する人も多いだろうが、勿論それだけではない。禅竹は『五音三曲集』の中で、先ほど見た「皮・肉・骨の三曲、皮は肉よりおこり、肉は骨よりおこる」に加えて、「骨は五臓よりおこる。五臓の不浄は一水より起り、一水の出所は一念のア字であり、ア字は何より起これる。ナニとは何ぞ。不可得不可得」と述べている。幽玄の真の根本はア字にあるという。

こういう考え方は中世に相当行われたという。声明(しょうみょう)音楽や悉曇学(しったんがく)の中にみられるのである。声明は仏教の儀式に行われる仏典に節をつけたヴォーカリゼ―ションの音楽であった。悉曇とは梵語、つまりサンスクリット語のことで、悉曇学はサンスクリット語文字の書法・発音に関する学問である。大乗仏教経典と密教儀軌が日本に輸入された時、梵字とそれを漢字で表記した場合の音韻の関連が問題となった。この悉曇学は、一説には日本の五十音図にも関連していると言う。

能勢さんの指摘では、『悉曇聞書』の中に「万有は金剛と胎蔵との和合として生起するものであるが、その和合は一水によって可能であり、和合の根本は本不生の阿字に帰する。五韻もそれに洩れるものではなく、あらゆる音声は、すべて阿字に摂取せられる」とある。これに関して、禅竹の『五音三曲集』の中に「無味智水の事。舞歌についての大事也。人には五味の好味あり。この五味というもの、本来一水より起れり。‥‥この一水より、皮肉骨の三曲も起これば、山河大地是非草木万物、皆この水体なり。ここに六輪一露と伝修道の一巻を作る。是また水輪の形なり。一露はすなわち一水の初め、利剣勢骨也」とある。これは直接に六輪一露の考案の根幹に触れたもので、その円相が密教における各仏を象徴で表す三麻耶形の水輪に依ったものであることが分かるという。一水は音の最も根源的な働きをなすものであり、この一水を表示する意図のもとに、水輪の円相が用いられたと能勢さんは鮮やかな謎解きをしている。

宗教的本源への遡上

習道七段 図

習道七段 図

一露によって六輪が生じ、これらを存続、発展させ、寿輪から竪・住・像・破と流転移行して最後の空輪からさらに最初の寿輪に戻って一息の間断なく循環する。ちょっと『幽玄論』から離れるけれど、ここで先にご紹介したヤコブ・ベーメの『シグナトゥーラ・レールム』に触れたい。それは「永遠の自然」である創造の母体(マトリックス)の第一原理にみられる「欲の運動の七つの展開」を思い起こさせる。第一は「渋さ」、第二は「苦さ」、第三はエセンチアが生まれ無のソフィアの鏡の上に像が溢れる「不安の輪」、第四は「稲妻・閃光」、第五は「愛の欲」、第六は火を前にしてくるくると回る輪から生じる「響・言葉」、そして最後の第七は六つの性質を包む霊的な「からだ」である。だが、禅竹ではベーメのように抑圧する「渋さ」と自由を求める「苦さ」の闘争という二元論的な展開はない。ちなみにベーメは、万物の物質的素材なるカオスを「一粒の透明な珠のような知恵の球形の眼」と呼んでいる。そして、part1僧肇から二条良基まででご紹介した「道タオ」を思い出してほしい。「形無き何物かがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなく、空洞で、一人で立ち、変わることなく、あらゆるところを駆け巡り疲れることがない。それは天下の母といえるだろう。その真の名を私たちは知らない。それは恍惚として朧げで捉えがたい。しかし、その中には象(かたち)が潜む。朧げで捕えがたいその中に物(実体)がある。影のように薄暗いが、そこに精(力)があるそれを仮に「道」と呼ぼう」とあった。話を禅竹に戻そう。

『幽玄三論(本書では三輪九品とされている)』において禅竹は「自分が稽古の道を案ずるに、天地・陰陽、日月・星宿、神祇・仏法、人王の道、一切の人のしわざに至るまで、仏性そなわざる事なければ、これまた幽玄の境域である」として『至道要抄』の内容を繰り返した上で、各宗派との関連を述べている。「天台は、色心、妙法蓮華経と開けて、一念三千の功徳、十界依法万々たり。阿鼻の依正極聖の自身に所し、毘盧の身土は凡下の一念を越えずと言えり。真言は、三密[瑜伽]の観念、即身成仏し、浄土は乗彼願力、定得往生にて、即便往生、安心決定す。かくのごとく、入眼・肝要・根本に帰するをもって、証所とせり」とある。仏教用語の解説は省くけれど、天台の一念三千も真言の即身成仏も浄土の即便往生も何れもその本源的なるものを認識し、これに帰すべきものであることの例であって、能楽においてはその本源が幽玄であることを説いているのだろう。

日本思想大系 世阿弥 禅竹 表章 加藤周一

日本思想大系 世阿弥 禅竹
表章 加藤周一

「幽玄」向却来す

禅竹の思想は康正(こうしょう)初年(1455)頃から大きく展開しはじめている。それらは、『五音三曲集』などにおいても見られることだけれど、特に『六輪一露』では、仏教を中心とした宗教的な思想を以って能楽論を打ち立てようとした。それは歌道の導入に比較して遙かに成功していると能勢さんはいう。ただ、『至道要抄』においてはやや混乱した有様になっているというのである。能勢さんの弟子であり、能楽研究で知られる表章(おもて あきら)さんは、『六輪一露』は決して固定的なものではなく、禅竹自身によって練り直され、変化し続けているといい、悪く言えば論理的整合性に欠けるようにも見えると書いている(『能勢朝次著作集 第5巻 解説』)。ともあれ、能勢さんは、この書において世阿弥の考えていた晩年の幽玄観は巧みに取り入れられていると述べ、世阿弥において幽玄美を支える種々の事柄を幽玄一元論で統一し、その幽玄を仏性的なものに重ねあわせている観点もすこぶる興味深いと言い、かくのごとく幽玄と云う美的理念は、禅竹において最高度に評価され、神秘化されたのであり、その意味では僧肇(そうじょう/374-414)などが考えていた幽玄の原義へと向却来(こうきゃくらい)したのだというのであった。

最後に、能勢さんの『幽玄論』の「概説」にこの「幽玄」が、どのように書かれているかをご紹介して終わりたいと思う。能勢朝次さんの著書は明確な骨格があっていい。

幽玄の語には美の性質や色彩に関わるよりも美の深度や高度を示す所にその特色があった。無限に縹緲(ひょうびょう)と広がっていく余情美、無限に深く深まっていく沈潜美、そうした性格のものであり、その内容は「虚」というべきものであったから、「あはれ」の極まれるもの、「優」のすぐれたるもの、「艶」の極まれるもの、「寂び」の深きもの、あるいはそれらの情調の微妙な複合状態にあるものをその内容として持ち得た。この「幽玄」という語の美的生命を長く保たせ、その名声を高からしめたのは、そのような大きな器であったことが理由であり、この語が仏教にも老荘にも用いられているということにも相通ずるのだという。そして、こう述べている。中世の精神性を指導した仏教は無常を教えた。無常なるものの中にまことの美があることを教え、その無常さのゆえに一層、その美を愛すべきを教えた。こうして幽玄という形而を越えた美が求められた。作品に対するこの幽玄への要求は、同時に作者の心の深さ・高さへの欲求とうらはらだった。そのような境地にあってはじめて、その作品は聖なるものの象徴たり得、幽玄なものたり得るからであった。このようにして中世の芸道というものが生まれたというのである。ひとつ疑問がある。もはや、これは日本人のセンターコアとして、その役割を終えたゴミ屑なのだろうか。そうであるなら幽玄にかわる何かを今、われわれは持ち合わせているのだろうか。胸に手を当ててよく考えてみたい。