ジル・ドゥルーズ 『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』 図像と器官なき身体

ジル・ドゥルーズ (1925-1995) 『感覚の論理 画家フランシス・ベーコン論』山縣 煕 訳

ジル・ドゥルーズ (1925-1995)
『感覚の論理 画家フランシス・ベーコン論』山縣 煕 訳

近くの女子学生が「ベーコンってグニャグニャ曲がったホタテみたいね」と言ったとする。ぼくは、その時、きっと、あの熱で油がジュージューいってるベーコンのことだと思ってしまうだろう。ベーコン=ホタテの等式が成り立つことに恐怖を覚えるかもしれない。しばらくして、それがフランシス・ベーコンの絵を形容した言葉だと分かって独りで顔を紅くしたりするだろうけれど、TACHEN版の『フランシス・ベーコン』の画集が出版されて(それは、とても嬉しかったのだが)そのことを思い出して顔が紅くなるのを人に悟られるのではないかと不安になったりする。それで、こっそりその画集をポルノグラフィーを覗くようにして見るのではないか‥‥ちょっと、こんな空想をしてしまうほどベーコンは僕にとって幻想的で不思議な絵を描く人なのだ。

そんな白昼夢など吹き飛ばしてしまうほどの強烈さが彼の作品にはあるのだが、僕は敢えて言うのだけれど、ロイ・フラーのオイリュトミーのような舞踏の映像とあのボッチョーニの彫刻にある力動する身体をベーコンの絵画に重ねてみたいと思っている。だけど、それだけでは洩れてしまう部分があるのだ。今回、僕の大好きなフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズが述べていることでそれを補完できるのではないかと思っている。これは、ドゥルーズ自身がよく引用する<器官なき身体>への検証とも受け取れるし、ある<芸術>への憧憬の所産とも考えられるのだが‥‥絵描きのくせに美術関係のブログが少ないのもいかがなものかと思うので、今回は、いささかハードルが高いのだけれど清水の舞台から飛び降りるつもりで書きます。

「」内は全てジル・ドゥルーズが本書で書いていることである。訳は宇野邦一さんのものを使用させていただいている。[]内は他の文献。0.引用=述べられていること

左 ロイ・フラー(1862-1928) 右 ウンベルト・ボッチョーニ(1882-1916) 『空間における連続性の唯一の形態』

左 ロイ・フラー(1862-1928)
右 ウンベルト・ボッチョーニ(1882-1916)
『空間における連続性の唯一の形態』

「肖像画家としてのべ―コンは頭部の画家であって、顔の画家ではない」とドゥルーズは言う。変な話だが、確かにそうかもしれない。身体とは<図像>の素材であるという。これも理解できるが、次はどうなのだろう。「身体とは<図像>である」。これは不思議だ。「図像の素材と、他の部分を占めて空間を構成する物質的構造とを混同してはならない」という。「身体は、図像であって、構造ではない。」反対に<図像>は身体であって、顔ではなく、それを持つこともないという。「<図像>は頭部に還元されることさえありうる」という。これは謎である。1.身体=図像

「頭部は身体に他ならない精神であり、身体的で生命的な息吹、動物精気、それも人間に属する動物精気である。豚精気、水牛精気、犬精気、こうもり精気など‥‥したがってベーコンが肖像画家として追求するのは実に特別な構想であって、それは顔の解体、顔の背後に頭部を発見し、出現させること」だとドゥルーズは言う。動物精気は動物<星気>と言い換えたほうがぴったりのような気もするけれど、顔の背後に頭部を出現させるというのは、なかなか妙なる言い方だ。2.頭部=精神・動物精気

エドガー・ドガ(1834-1917)  『盥(たらい)』 1885-6

エドガー・ドガ(1834-1917) 
『盥(たらい)』 1885-6

ドゥルーズは、「ベーコンの絵が構成するのは形態的一致ではなく、人間と動物の間の、ある識別不可能性・決定不可能性の帯域だ」という。要するに人間の動物性、あるいは種々の動物的特性と言えるような領域を指しているようだ。これは決してキメラのような形態の組み合わせではなく、人間=動物の共有する事実だというのである。「人間は彼自身の動物と絡み合っている」。それは骨と肉が相い対して、骨が身体の構造物となり肉が図像の身体的素材として互いに自立して存在するような時、例えば、ドガの描く『湯浴みの後』や頭を下にして体を捻じ曲げた『盥(たらい)』の図像を見ればよい。この肉は死せる肉体のものではなく、あらゆる苦痛を保存し、自らあらゆる生きた肉体の色彩をまとってきた、測り知れない痙攣の苦痛と脆弱さだとドゥルーズは形容する。ベーコンは、こう言う。「いつも屠場と肉に関するイメージに随分触発されてきた。私にとってこういうイメージは、磔刑図が意味するものとすべて密接に関係している」と。3.磔刑+肉体のアクロバット=痙攣の苦痛と脆弱さ

上 セルゲイ・エイゼンシュタイン(1898-1948)  『戦艦ポチョムキン』 下 エドヴァルド・ムンク(1863-1944) 『叫び』1893 部分

上 セルゲイ・エイゼンシュタイン(1898-1948) 
『戦艦ポチョムキン』
下 エドヴァルド・ムンク(1863-1944)
『叫び』1893 部分

「叫ぶ口をとおして、身体はまるごと脱出しようとする。法王や乳母の丸い口を通じて、身体は、まるで動脈を通り抜けるようにして脱出する」とドゥルーズは書いている。ムンクの描く『叫び』に見られる排水口のような口。[ニーチェにおいて<蛭>と高<人>の間に親密な関係があるように(『差異と反復』財津 理 訳))]それは、咬むことであると同時に認識すること。口であると同時に脳であるものなのだ。だが、ベーコンの方は、叫びの彼方には微笑があるのだと述べ、そこには辿り着けなかったと言う。断じて恐怖を描こうとしたのではないというのだ。「身体を酸で焼きつくすようにズレ落ちていくような叫び」は、ルイス・キャロルのチャシャ猫のような淫靡な微笑に呑み込まれるのである。4.叫ぶ口=不穏な微笑

1978年の作品『絵』においては、そこにあらゆる機能を見ることができ、あらゆる形態をとろうとしているのが分かるという。それぞれの水準で反響する拡張と伸縮のリズムに、すべてが配分される。収縮は身体をしめつけ、構造から図像にいたり、拡張は身体を広げ、散逸させ、図像から構造に至るという。相反する収縮と拡張のリズム。そして、たとえ身体が散逸しても、身体はやはり身体をつかまえて周辺に戻そうとする諸力によって、収縮したままなのだというのだ。そこでは、身体を超える身体の存在が前提にある。そして、絵におけるリズムとは、あらゆる運動の共存のことであるという。「楕円形や様々な描線が重ねられ、目は大きく開き、鼻孔は広がり、口は引き延ばされ、皮膚はずれて、あらゆる器官が同時に加工されている」ようなイメージがベーコンの作品にはある。それは、画家が、いわば、「諸感覚の根源的な統一性」を見えるようにしているのだとドゥルーズは言うのだ。多感覚的な図像を視覚的に出現させること。このような操作が可能になるのは、視覚のような一定領域の感覚があらゆる領域を逸脱し横断する生命の力能に直に結ばれる時だという。美しい言葉だ。この力能とはリズムであり、それは視覚、聴覚などなどより根本的であるという。 5.リズム=収縮と拡散による運動の共存=生命の力能

ルイス・キャロル(1832-1898) 『鏡の国のアリス』よりチャシャ猫 ジョン・テニエルによる挿絵

ルイス・キャロル(1832-1898)
『鏡の国のアリス』よりチャシャ猫
ジョン・テニエルによる挿絵

印象主義を越えたセザンヌの教訓とは、<感覚>が、光と色の自由で肉体を超越したもろもろの印象としての戯れの中にではなく、反対にそれがリンゴの身体であっても、身体の中にあるということだとドゥルーズは言う。色彩は身体の中にあり、感覚は身体の中にあって、大気中にあるのではないというのだ。普通、色彩は見る人の身体の中にあるといわれ、科学的に確認されていることだ。これは特別ではないのだが‥‥色彩は身体の中にしかない。しかし、色がリンゴの身体の中にあると解釈すると意味を取るのはかなり難しい。続けてこう述べている。「絵の中に描かれるものとは身体であるが、この身体は対象として表象されるものではない」。‥‥そうして、ベーコンは、肯定的な意味で、感覚とはひとつの[秩序]から別の[秩序]へ、ひとつの[水準]から別の[水準]へ、ひとつの[領域]から別の[領域]へ移行するものだ、と言い続ける。だからこそ「感覚は歪形をつかさどるもの、身体の歪形の動因なのである」という。絵画に描かれるものとは単なる表象ではないのだ。6.感覚=身体の歪形の動因

ルイジ・フィカッチ 『フランシス・ベーコン』 タッシェン版のベーコン画集

ルイジ・フィカッチ
『フランシス・ベーコン』
タッシェン版のベーコン画集

「凝固した」感覚。第一にそれは、表象された対象や描かれたものではない。図像は具象とは対立する。第二に同じ瞬間における愛情と敵意というような両義的性格を描こうとしたのではない。ベーコンは感情を描こうとしていない。描いているのは情動、「感覚」、本能である。第三に描かれているのは運動のスナップショットではない。運動の連続性、速度、そして暴力と共に再構成されたものである。ここがフラーの舞踏やボッチョーニの彫刻に連なる部分なのだ。ベーコンの描く運動は身体に対する不可視の力の作用なのである。運動は感覚の可塑性によって、その弾力性によって説明されるとドゥルーズは言う。運動の彼方の不動性。ベケットとカフカの法則。ベーコンの絵画は、強度の暴力的な運動を表現しているが、彼の興味は、その場限りの運動、つまり痙攣であるとドゥルーズは言うのだ。真のアクロバットは、円の中の不動のアクロバットである。7.運動の表現=身体への不可視の力の作用

描く行為とは、ベーコンによれば、偶然の痕跡(線-軌跡)を残すこと、場所や帯域を一掃し、拭うこと(染み-色彩)、いろいろの角度、速度で絵具を投げつけること。口は引き延ばされ、頭部の端から端まで占める。頭の一部は、筆や刷毛やスポンジや布地で洗浄される。これがベーコンの言う図表(ダイアグラム)である。この図表(ダイアグラム)に関してドゥルーズは、こう解説している。無意味で非表象的な線や帯域、軌跡や染みなどの操作の総体のことであって、図像を「暗示する」使命を帯びていると言う。この操作によって絵画はある段階でカオス化、カタストロフィー化されるのだが、同時に新しい秩序、リズムがもたらされる端緒ともなるのである。つまり、そこは制作上の変曲点になるのだ。感覚は歪形(変形といってもよい)をつかさどるのだが、その現場となっているのは、この図表(ダイアグラム)に於いてなのである。ドゥルーズのこの図表に関するセザンヌの記述は、僕が今まで読んだものの中で最高だったが、またの機会に触れたい。8.造形的要素の変遷の総体=図表(ダイアグラム)

アントナン・アルトー(1896-1948) アベル・ガンス監督映画『ナポレオン』(1926年)に出演したアルトー

アントナン・アルトー(1896-1948)
アベル・ガンス監督映画『ナポレオン』(1926年)に出演したアルトー

フランスの俳優・詩人・演劇家であったアントナン・アルトー(1896-1948)は、その『残酷劇についての手紙』において残酷の意味をこのように述べている。[私は残酷という語を生の欲望、宇宙の過酷、仮借ない必然という意味で、闇を貪る生の渦巻きというグノーシス教的な意味で、また、苦悩という避けがたい必然性の外では生が営みえないあの苦悩の意味で使っています(『演劇とその分身』安堂信也訳)]。それについて、ドゥルーズが『差異と反復』の中で述べていることは、[アルトーが残酷劇を語っていたとき、彼はこれを有る<決定論>だけによって定義していた。‥‥ただし、その決定は、自然の<理想/イデア>、あるいは精神の<理想/イデア>を、<揺れ動く空間>として、また、有機体に直接触れることのできる回転し傷つける重力運動として、そして、作者なき、俳優なき、そして、主体なき純然たる上演として具現するかぎりの規定である(財津 理 訳)]ということだった。そして、ドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』においては、[アントナン・アルトーは、自分がいかなる形態(手にふれられるような形や体)をとることもなく、またいかなる形象(眼に見えるような姿や形)をなすこともなしに存在していたその時に、この器官なき身体を発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である(市倉宏祐 訳)]という。それは、自らは動かずして欲望を動かす<不動の動者>なのである。このために欲望は、死をも欲するのだと言う。こうして、アルトーの<器官なき身体>が立ち上がる。9.<器官なき身体>=不動の動者

コンラート・フォン・ゾースト (1370-1422) 『ニーダーヴィルドゥンゲンの祭壇画』 1403 部分 ゴシック期の中部ドイツの画家

コンラート・フォン・ゾースト
(1370-1422)
『ニーダーヴィルドゥンゲンの祭壇画』 1403 部分
ゴシック期の中部ドイツの画家

勿論、この身体は、通常考える肉体を意味しない。先の『アンチ・オイディプス』には、有機体を形成する<欲望する諸機械>に対抗する存在としての<器官なき身体>が言挙げされている。その身体はすべすべした不透明な引き締まった表面を持ち、未定形で未分化な流体の流れがあり、いくつかの息吹や叫びを持っていると言う。そして、この<身体>についての記述は本書において、より詳細になってゆくのだ。それは、強度の内包的身体であり、ひとつの波動に貫かれ、この波動は身体の中にその振幅の変化にしたがって、もろもろの水準や閾(しきい)を刻みこむ。これに対して形態は偶発的または付随的なものでしかない。ちょうど、それは波動と、身体に働きかける<諸力>との出会いのようなものである。「情動的体操」であり、叫び=息である。ちょうどヴォリンガーのいうゴシック絵画の線(『ゴシック美術形式論』)にある、絶えず方向を変える線、折れ、破れ、曲げられ、折り返され、巻き込まれ、あるいは自身の本来の極限を越えて引き伸ばされ、「無秩序な痙攣」とともに死滅しそうな線である。この幾何学、この装飾を有機性の外に導き、元素的な諸力を追求するのは、精神的な意志であるという。ただ、この精神性は身体の精神性であるというのだ。精神とは身体そのもの、器官なき身体であるという。この<器官なき身体>について色々の仮説を立てることはできる。だが、禅的な<心身一如>も、神秘主義の<何とか体>も、宇宙磁気とも関連する<魔術>も今回は、すべて避けたい。10.<内包的身体>=精神そのもの

ディエゴ・ベラスケス(1599-1660) 『教皇インノケンティウス10世』1650

ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)
『教皇インノケンティウス10世』1650

そして、ドゥルーズは、こう自問する。この身体の生ける現実を「ヒステリー」と呼ぶことが出来るのだろうかと。ヒステリー患者とは、自己の現存を強要する人であるという。この人は、過剰な現前をあらゆるものに与え、あらゆる存在に伝染させるという。いったいどんなヒステリーが問題になっているのか。ベーコン自身のか、画家自身のか、あるいは絵画のヒステリーなのか。ドゥルーズは絵画とは表象の背後に、表象を越えて、もろもろの現前を取り出すことを、直截に自らの課題とするというのである。それが、絵画のヒステリーであるのだ。ヴァ―ルブルクの場合、ヒステリーはとりわけ「身振り」に関係していた。そして、ベーコンはベラスケスを師として、はたして、何をしようとしたのかとドゥルーズは問う。彼はベラスケスのすべての要素をヒステリー化したのだというのだ。「インノケンティウス10世(本書ではイノセント10世になっている)」を叫ぶ法王に変えた。ヒステリー化は芸術にとって必然的なものだと言う。このヒステリーとは錯乱に宿る眩くも暗い真実ではなく、何物にも冒されない生の強度のことである。音楽は身体を脱肉化する。それは、プルーストが言うように非物質的な脱肉化した身体の格闘であって、そこには惰性の物質としての残滓などないという。音楽は、絵画が終わる所から始まる。絵画の方が源流であって、そこから身体は脱出するとしても、脱走しながら身体は自らを組成する物質性を発見するというのだ。絵画こそが目という器官とともに身体の物質的現実を発見するのである。ゴーギャンのいう「われわれの飽くことなく発情する目」。目だけが物質的現実を、物質的現前を引き受けることができる。11.身体の生ける現実=ヒステリー

マーティン・ハマー 『フランシス・ベーコン』 青幻舎版の画集 表紙は、ベラスケスの『インノケンティウス10世』を基に描かれていることで有名な作品。

マーティン・ハマー
『フランシス・ベーコン』 青幻舎版の画集 表紙は、ベラスケスの『インノケンティウス10世』を基に描かれていることで有名な作品。

インノケンティウス10世は叫ぶ、もはや誰にも見られないものとして、あるいは見ない者として、もはや見るべき何ものも持たないものとして、もはや見えないものの諸力を見えるようにするという役割しかもたない誰かとして叫ぶのだとドゥルーズは言う。それは、クレーの[芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある(『造形思考』土方定一 他訳)]という言葉に通じる。死等々に対して叫ぶのである。「諸力のこの結合、叫びの感覚可能な力と人を叫ばせるものの感覚不可能な力とを暗示しようとしているのだ」と言う。これには並外れた力が関わっている。見えないものの力能である。インノケンティウス10世の肖像の模作を前にして、ベーコンは疑心と不満をあらわにする。ドゥルーズは、彼がベラスケスのあらゆる要素をヒステリー化したのだと言うのである。ベラスケスの場合、肘かけ椅子は既に平行六面体の牢獄をなしているが、重々しい緞帳、肉塊のようなケープなどは奇妙に抑制されて、べ―コンの描くようなカーテン、ソファ、叫ぶ口の避けがたく抑えがたい現前はないと言う。ベーコンは、問う。これらの現前を爆発させるところまでいかなければならなかったのか。ベラスケスの方がすぐれているのではないか。具象的な道も、抽象的な道も拒んで、絵画とヒステリーとの関係を白日の下にさらす必要があったのだろうかと。12.絵画の役割=見えないものの諸力を見えるようにすること

まとめよう。

12.ドゥルーズにとって<絵画芸術とは、見えないものの諸力を見えるようにすること>である。

11.ヒステリーとは、生の強度である。<ヒステリーと呼ぶべきものが身体の生ける現実>となる。

10.それは、波動と身体に働きかける<諸力>とが出会う強度の内包的身体である。<器官なき身体は、精神そのものである>

9.自らは動かずして欲望を動かす<不動の動者としての器官なき身体>。

8.手仕事における操作の諸段階、つまり図表(ダイアグラム)は、感覚によって変形される。<図表(ダイアグラム)とは造形的要素の変遷の総体>である。

7.フラーの舞踏に見られる流れるような諸形態、ボッチョーニの彫刻に見られるような力動する形態‥‥ベーコンの表現する身体は、<不可視の力の作用する運動の表現>となっている。

6.感覚とはひとつの[秩序]から別の[秩序]へと移行するものだとベーコンは言う。<感覚は歪形をつかさどるもの、身体の歪形の動因>なのである。

5.絵におけるあらゆる運動の共存とは、リズムのことである。多感覚的な図像を視覚的に出現させる時、あらゆる領域を逸脱し横断する生命の力能に直に結ばれる。<収縮と拡散による運動の共存であるリズムとは生命の力能である>

4.身体の特徴的な表現の一つは、叫ぶ口である。叫びの彼方の微笑には辿り着けなかったベーコンにとって<叫ぶ口とは不穏な微笑>である。

3.人間が自身の動物と絡み合っている身体。測り知れない痙攣の苦痛と脆弱さの身体とは生の強烈な現前である。<肉体のアクロバットのような形態は痙攣の苦痛と脆弱さと磔刑の意味するもの>である。

2.ベーコンの描く身体の特徴的な表現の一つは頭部である。顔の解体であり、顔の背後の頭部である。それは<身体に他ならない精神としての頭部>なのであった。同時にそれは、視覚的に出現させた多感覚的な図像である。

1.だから<器官なき身体とは図像>なのである。

0.<引用の回文>

ジル・ドゥルーズ(1925-1995) 『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』 宇野邦一 訳

ジル・ドゥルーズ(1925-1995)
『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』
宇野邦一 訳

今回は、僕の大好きなジル・ドゥルーズがベーコンについて書いた著書『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』をとりあげた。2004年に画集と呼んでいいような体裁の山縣煕(やまがた ひろし)さん訳の『感覚の論理 画家フランシス・ベーコン論』が最初に出版されていたのだが高価すぎて手が出なかった。その後、2016年にその廉価版として本書が出版されている。しかし、この廉価版の方は図像が大幅に削られていてとても残念だ。モノクロの小さい図版でも良いので掲載してもらえると嬉しかったのだが。でも、おかげで手に入り易くはなった。

フランシス・ベーコンは、1909年にアイルランドのダブリンにイギリス人の両親のもとに生まれた。父は競走馬の訓練士だったようだ。この父方は、あの哲学者のフランシス・ベーコンの傍系に連なる家系であるらしい。名門なのかもしれない。個性的な作家がいつもそうであるように美術の専門教育は受けていない。そうであったら、あんな作品は生まれなかっただろう。これは、王道であったが、僕はその道から中途半端に外れていた。16歳頃、二年間ベルリンやパリで過ごした。1929年からロンドンで室内装飾の仕事や家具のデザインをしながら生計を立てようと決意するが、やがて絵描きに転向する。生活はかなり荒れたものであったらしい。初期の作品の多くは作家自らによって廃棄されているが、後期キュビズムから出発している。ピカソが出発点なのだ。これは重要かもしれない。第二次大戦後にはシュルレアリスムのような作風から大胆にデフォルメされた人物の表現へと傾斜していった。マイブリッジの人や動物の連続写真や様々な映像写真のイメージを用いたり、ベラスケスやゴッホなど他の作家の作品を引用することでも知られている。1950年前後から評価されはじめた。日本においても土方巽(ひじかた たつみ)の舞踏譜に「ベーコンの顔」などの言及があってとても懐かしい。1992年呼吸器疾患が悪化し、亡くなっている。

英語版で恐縮なのですが、ベーコンの作品と写真映像との関連を追った、なかなか立派なドキュメンタリーがあったので器官限定で、いや失礼、期間限定で掲載しておきます。