三上賀代 『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』 犬に打ち負かされる裸体

この宇宙に咆哮するミシャグチ神のような人々の戯れとも祈りとも自然を再創造する儀式ともつかないパフォーマンスをご覧いただきたい。その時、僕は広島から倉敷行の胸躍る電車に乗りながら、白塗りってなんで塗るのだろうかとか、舞台はやはり粉が舞うのだろうかとか、宙吊りってどれくらいの高さからなのだろうとあれこれ想像を巡らせて落ち着かない座席から窓の外を眺めていた。それは、憧れだけが人に与えることのできる淡い幸福なひと時だった。そして、そういった憧れのもたらす果報も代償もまだその頃は知らないでいた。

日本の舞踏集団である山海塾のオフィシャル映像、2011年の DVD “KAGEMI”の一場面である。僕が舞踏なるものを初めて見たのは、倉敷で行われた山海塾の1985年の日本ツアーで、その時の演目は、『金柑少年』と『縄文頌』だった。確か中西夏之(なかにし なつゆき)さんが作った巨大な金属の輪が舞台にあった。その頃に比べるとメンバーも随分変わったし、舞台芸術としてかなりソフィスティケートされたのではないかと思っている。このグループもまた、日本の舞踏を世界の「BUTOH」にした立役者たちであるのだ。麿赤兒(まろ あかじ)の大駱駝艦、大須賀勇の白虎社、友惠しづねと白桃房、そして今回ご紹介するとりふね舞踏舎の三上賀代(みかみ かよ)らがいた。「舞踏」を創始した人々は、それを生産性社会にとって最も憎むべき敵、あるいはそのタブーとして作り上げたという。「悪の体験のもとに血をふき上げる」ようなサクリファイスがあらゆる作業のみなもとであり、それ故「ダンサーはその特質を体験するために放たれた落とし児」として生まれると考えられたのだ。それは、全共闘時代の反体制的な若者文化にシンクロしていた。それを築き上げた人たちが、以前ご紹介した大野一雄(おおの かずお/1906-2010)さん、そして、今回ご紹介する土方巽(ひじかた たつみ/1928-1986)さんのお二人であった。

山海塾日本縦断ツアーパンフレット 1985

山海塾日本縦断ツアーパンフレット 1985

僕が土方巽と言う人にずっと憧れを持っていたのは確かなことだし、若い頃、その著作『美貌の青空』を読んで頭を抱えたのもそれ以上に確かなことだった。その後、『病める舞姫』のほうがもっと「ワカラナイ」ということを発見した。おおよそ「意味を解く」ということとは縁遠い金輪奈落に住んでいたのである。秋田で生まれ育った生い立ちの記録である『病める舞姫』では、こんな言葉が延々と続くのだが‥‥

「私はたかだか影一匁(もんめ)なのだ。そう、決めてしまうと、空を鉋(かんな)で削るような気持ちにもなり力も形も鉋屑のように翻って気持ちも乾いてくるのだった。木槌で叩かれたように踝(くるぶし)が急に軽くなって、表へ出ていっては飛ぶ影の練習をするのだった。いろいろなだぶった表情をぶら下げて、それを切断するように[飛ぶ影]などと言った呪文をとなえて、刃物の影に似せて飛んでいた。そこには、風の影も発熱して集合していた。揺れているもの、震えているものが一つになっていたはずだが、その寸法は見えてこなかった。私の五厘刈の頭髪の中にひそんでいたからだ。こういう状態にくたびれると、そのくたびれを愛人のようにして道端に立って顎を落としてもいた。顎を落とした場所も、その顎ももう見つからないだろう。私の白こぼの頭からは、白い薄い乾燥した瘡蓋(かさぶた)がはらはらと落ちてもいた。そのような道路を、いろいろな時間を喰いつぶした虱だらけの耄碌婆(もうろくばあ)が、鬼婆めいて空鍋になったようにゆたらゆたらとあっちから近づいて来るのであった。私の眼につく花はこんなものだった。この老婆には、誰でも道をあけて考えごとを考えさせないような顔になったり、粉のように解(ほど)け挨拶したりするのだった。 白っぽく汚れた闇に爛れたような昼間の眼玉がのめり込んで見えた‥‥」

野口三千三(1914-1998) 『原初生命体としての人間-野口体操の理論』

野口三千三(1914-1998)
『原初生命体としての人間-野口体操の理論』

やがて、この独特の文体から意味をとり出そうとするのは賢明ではないと思うようになった。それは宮澤賢治を読むように、その情景の中に「のりかかる世界」を追体験することに腐心する必要があるのだ。木槌で叩かれたように踝(くるぶし)が急に軽くなったことのある者、呪文をとなえて刃物の影に似せて飛んだことのある者のみが、その体験を想起でき、その世界に自身を添わせることができる。体験し得たことがくっきりと体験し得なかったことがぼんやりと斑に映し出される幻燈会。読む者にとっては、そのような文章なのである。でも、今回は文学論ではなく舞踏に関する事柄を見て行くつもりである。その方が誠実であろう。

今回は、三上賀代(みかみ かよ)さんの著作『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』を取り上げる。それに加えて土方さんご本人の著作である『美貌の青空』、そして、土方夫人である元藤燁子(もとふじ あきこ)さんの『土方巽とともに』などを併せてご紹介する予定である。三上さんは土方巽の弟子だった人だ。お茶の水女子大学の大学院博士課程(学術博士、舞踊学)を修了された。土方巽の稽古の現場から採取した「稽古ノート」を基に土方舞踏のコード解読を試み、今日の舞踏研究のパイオニアとされる人である。自身、舞踏家であり、とりふね舞踏舎を主宰なさっている。京都精華大学でも教鞭を執っておられるようだ。この人は、野口体操の創始者である野口三千三(のぐち みちぞう)さんにも師事された。これはユニークかもしれない。野口体操とはからだの動きを通して人間を見直す「身体哲学」としても、幅広い層の人々に支持されているという。生きること、それ自体が創造だと捉えれば、創造する前に自分自身のからだをニュートラルにしておくことが重要だと考える。まず、最初の方法として生きもの本来の在り方である柔らかさを探るというのである。

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986) 『土方巽全集Ⅰ』

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986)
『土方巽全集Ⅰ』

三上さんによれば、海外で、「BUTOH」は、しばしばこのような評価のされ方をしてきた。例えば、1980年代のニューヨーク・アジアンソサエティーのボニー・スー・スタインの言葉、「ショッキングで、挑発的で、肉体的で、精神的で、エロティックで、グロテスクで、暴力的で、宇宙的で、虚無的で、浄化性があって神秘的である。とりわけ、初期の「暗黒舞踏」と呼ばれていた頃は、ショッキング、挑発的、エロティック、グロテスクといった部分に力点が置かれていたのは確かだと思う。あるいは、あまりにしなやかに移行するので突然の変異があったとは到底思えないような、絶えず変容し続ける、永続する変態のプロセス‥‥とか、日本の舞踏は「静止したマイムダンスの形」であり、実際にはいつも変化しているのだが‥‥その変身の進行が余りに完璧に加工してあるので、もう何世紀もそこに存在していたように見える‥‥などなど。では、そのBUTOHの原点である「暗黒舞踏」とは、どのようなものであったのだろうか。

土方自信はこう述べている。「自分の踊りは決して古典舞踏に対するアンチではない。むしろ、人間概念の拡張であり、動物も植物も生命のない物体をも含めた、あらゆるものに人間の肉体のメタモルフォーズする可能性を発見するということに、自分の舞踏の根本理念を置いている(『アスベスト館通信第5号』)」という。人間の肉体の変容によって人間概念は拡張されるというのである。人間概念の拡張は、よくヨーゼフ・ボイスが言っていたことだったが、土方のこの拡張は外側へばかりにではなかったのだ。

そして、こんなことも書いている。「‥‥わたくしが生きている中でなかなか確認できないことの意味に、わたくしは何度も憧れてきましたが、わたくしの才能の中でそれは生々としていません。わたくしが老人の枯れ木のような肉体や濡れた動物を大切にするのは、もしかしたら、そのような憧れに近付けると思うからなのです。わたくしの体には、バラバラにされて何処か寒い所に身を隠したいという願望があります。そこがやはりわたくしの帰る所であると思うのですが、そこで、カチカチに凍って、今にも転倒しそうにまでなって、この目で見て来たものは、やはり、死ということを死に続けるものたちの親近感に尽きることだ、と納得しているわけです。死体を飼育してみたいと思うことがあります‥‥(『美貌の青空』犬の静脈に嫉妬することから)」。既に舞踏の在所には死体が臨座していたのである。「‥‥死に死に死に死んで死の終りに冥し(『秘蔵宝鑰/ひぞうほうやく』序)」 という空海にも連なる死生観。

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986)  『美貌の青空』

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986)
 『美貌の青空』

土方巽、本名米山九日生(よねやま くにお)は1928年秋田に生まれた。生家は半農の蕎麦屋で、11人兄弟の10人目であったという。父は村長の息子で、生家は比較的豊かだったようだ。『病める舞姫』には、蕎麦をゆでていたのだろうか釜の底から湯気の立つ様子が、かなり克明に描写されている。そして、その頃、子供であった土方は、おそらく他の子供と同じように、藁でできた、おひつの保温容器である飯詰(いづめ)の中に入れられて出られないように紐で結わえられて田んぼの畔にほったらかされていた。その描写も『美貌の青空』に詳しい。それは、暗黒舞踏発祥の伝説にさえなっているようだ。

泣いても叫んでも通じない大空に夕暮が迫る頃、飯詰から抜かれると立てない。完全に足が折れて、感覚が無くなっている。糞尿にまみれた足が体からスーッと逃げて行く。それは、滑稽で厳粛でせっぱつまっていたという。そこには立とうとして立てない足、「立つ」という意志に反する体があった。ここに「崩れる」一瞬前の必死で突っ立とうとする「立ち」方という他に類をみない基本型が成立するのである。立つことについて、このような土方のコメントがある。「東京に出て来た頃は、死刑囚の歩行を原点にしたりしてね、立っているんじゃなくて崩れているんだと。そういう灰柱の歩行を舞踏の原点にしないと大変なことになる‥‥(『極端な豪奢』W-Notation No.2インタヴュー)。」

ここから三上賀代『器としての身體』から舞踏の身体技法について具体的に見て行きたい。ここは、とても興味深い所だ。

三上賀代  『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』

三上賀代
 『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』 春風社

「死刑台に向かって歩かされる死刑囚」の生と死の抗争、生きたいという「想い」と歩行を強いられる「身体」の背反は、歩きたい「想い」と歩けない「身体」に重なる。舞踏における「立つ」とは「崩れる」に接近するという。歩行は「灰柱の歩行」を原点にしていると三上さんは書いている。「柱」は神を数える時に添える言葉であり、「人柱」のように犠牲者にも用いるという。僕は、土方が『病める舞姫』でよく使う「蚊柱」にも通ずるのでないかとも思うけれど、それは、やはり灰という死のイメ―ジに漂泊されているのだ。風の一吹きに崩れながらも「灰」となっても形を保ち、「灰柱」となって漂う。立てないものが立とうとする拮抗状態が、一瞬崩れて生む動き。その灰柱は水母やタンポポの浮遊、触覚だけによる人体の把握などへと拡張される。それは無数の死に介在された状態だというのである。

重要な身体技法の一つは歩行である。その歩行は「寸法の歩行」によって規定されるという。あまりにも無数の感情が内包されているために寸法になってしまったらしい(『稽古ノート』)。その規定を三上さんが纏めているものをご紹介しよう。土方巽の高弟であった芦川羊子(あしかわ ようこ)さんが1989年のワークショップで発表した歩行の要件(イ~ヲ)を、4つの項目に分けて再構成したものだ。

1.軸をとる
天と地の間を寸法すなわち長軸となって摺足で移動する。
(イ)寸法となって歩行する。
(ロ)天界と地界の間を歩くのではなく、移行する
(へ)頭上の水盤

2.視線を消す
額に一つ目をイメージすることで神経は額に集中し、それによって背後(後頭部)からの視線が生まれるという。眼は見るという意志や認識を持たないガラス玉となって風景を映す。
(ハ)ガラスの目玉、額に一つ目をつける
(ニ)見る速度より映る速度の方が迅い

3.足を消す(膝が緩む)
カミソリの刃に体重をかけまいとして浮遊感が生じ、膝はゆるむ。そのためには腰がゆるまなければならない。腰がゆるむことによって足の裏が機能し、様々な動きへの対応、調整が可能になる。筋肉や内臓を消し去って空洞になった体を糸で吊るとイメージする。そうして、操り人形のような自由さ軽さ薄さを手に入れる。
(ホ)足裏にカミソリの刃
(ト)蜘蛛の糸で関節が吊(つ)られている
(ヌ)奥歯の森、体の中の空洞に糸

4.命がかたちに追いすがる
「歩く」という意志によって体が動くのではなく、願いが「かたち」を追いかけるようにして動きが生み出されていく。「かたち」は願いという魂、つまり、「いのち」の現われだという。
(チ)歩きたいという願いが先行して、かたちがあとから追いすがる
(ル)既に眼は見ることを止め、足は歩むことを止めるだろう そこに在ることが歩む眼、歩む足となるだろう
(ヲ)歩みが途切れ途切れの不連続を要請し空間の拡がりを促す。

フランシス・ゴヤ(1746-1828) 『魔女の集会』部分1820-23

フランシス・ゴヤ(1746-1828) 『魔女の集会』 部分 1820-23

この歩き方を基本にして、その数が200を超えるといわれる舞踏の型が生まれる。そして、舞踏のメタモルフォーゼとは、この型が刻々と変化することを指している。「観察に観察をして、そのものを存在せしめているもの」、つまり「必然性の現出」としての型を模索したという。それは本人言うところの「写実主義」であるが、「本質直観」が「スパーク」するような独特の認識方法に基づく写実主義であったという。『病める舞姫』にたっぷり登場するあの「写実主義」なのだ。ここらあたりは、能の「物まね」と比較して興味深い所だが、その対象となったのは鶏、犬、猫、馬、蛇といった動物、それに幽霊、妖怪、邪鬼、仏像、狂人などがあり、また、美術家の名前を冠した「型」も多いらしく、イメージの源泉に絵画を置いていた例が多くあるという。ほとんどが負のイメージを背負っている。例えば、ゴヤ、ムンク、ルドン、ボッシュ、ベーコン、ターナー、ブレダン、ビアズレー、ミショー、ベルメールなどである。ここでは、ゴヤに簡単に触れたい。

「ゴヤ ウミの法王」と呼ばれる型の成立条件には、①ウミ、よだれ、耳だれ、肉ずれ、闇。②脳みそが口まで垂れ下がっている。③ウミの法衣を肘でたぐっている。④肉ずれ―あっちズレ、こっちズレ。⑤闇に没していくウミの法王。⑥ズレをずらす時間の管理―分散とある。だが、実際にどのような型なのかは、その姿を写した写真がなければ想像していただくほかはないのだが、しかし、このウミの法王は体液だらけでかなり汚い。当然、ゴヤが宮廷画家として華やかなりし日々を過ごしていた当時のマハをモデルにしていたような絵画ではなく、晩年、狂気を兆し耳の聞こえなくなった時代の「黒い絵」を指している。

1.言語→イメージ→知覚→動きという神経回路を作りあげることが舞踏の訓練である。

2.完全な受動性
この「型」は、イメージへの「かかわり」という俯瞰的身体意識によって創り出される。例えば、「虫の歩行」では顎や首に這う虫が増えて、毛穴、毛穴から内臓、身体周囲の空間を移動する。この時点でイメージ化されるヴァーチャルな感覚への意識は分散されて多焦点となる。体の各部分へ意識を分散するのは、グルジェフワークの特徴だったのだが‥‥そして、それは空間や肉体を食う虫となり、その虫によって食われた体はヌケガラとなって突っ立った物体と化してしまい、ついに「ご臨終」となるのである。八万六千の疫病神が毛穴から侵入する津島天王祭の「御葦流し」を思い起こさせる。それはともかく、虫に食われるイメージというヴァーチャルな刺激は、「踊る」ように体を押し出す。それによって、身体は「完全な受動性」「無境界の自在性」となるのである。そして、ついに、必死で突っ立っている死体となって「停止のままの持続」となるというのである。

オーブリー・ビアズレー(1872-1898)  オスカー・ワイルド『サロメ』挿絵 1894  神経のような吊り糸のようなビアズレーの線

オーブリー・ビアズレー(1872-1898) 
オスカー・ワイルド『サロメ』挿絵 1894
神経のような吊り糸のようなビアズレーの線

3.自在性のための吊り糸
土方は、稽古の最初に舞踏の自在性を求めた。それは「自滅することを選びとる」切実な思いを起点に、「一本の糸」を信じることで、自らが動くと言う意志から解放されることによって成立する。ビアズレーの絵のように糸が「神経」になるのだ。「一本の糸で鳩尾から吊りあげられる身体」は、さらに「額、奥歯、両耳‥‥無数の糸」に吊られ「誘われる」ままに移行するという。

4.「なる」身体
「顔の劇場」は、<半眼微笑>の他、6つの型で示される。それは、「光、背後の闇、音、沈丁花の匂い、頭蓋の中への意識、熱、痛み」などのイメージに「かかわる」ことによって質感を持った表情になるという。それも、瞬時にして「次から次へと変貌する」ことが要求される。言語イメージを瞬時に体現するための、イメージを信じる力、あるいはイメージへの投企が求められるというのだ。それは「なす」身体ではなく、「なる」身体であった。それも、忽ちやけどのあとが出来るようにいきなり「なる」のである。

5.身体の霧化
皮膚は体の内側と外側の境界線である。灰柱になるためにはその境界を消す必要がある。それによって身体は稀薄化され、「霧化」されるのである。型の成立条件には、温度、湿度、音、光、匂いなど気配に関わる言葉が多い。そして身体内部では知覚しにくい内臓、脳みそ、毛細血管にいたるまでイメージ言語の対象とされる。いわば、この外触覚と内触覚との境が融けて混ざり霧と化するというのである。

土方巽は言う。「自分のからだの中に、自分の腕が自分の腕でないように感じ取る、ここに重要な秘密が隠されている(『風だるま』現代詩手帳1985年5月)」。彼の最後のワークショップのテーマは「メカニズムにかかわる己の消滅へ」であったという。それは、『美貌の青空』にあるように「スペクタクルの究極点は、官能の欲求や、私達が肉体と呼んでいるものと遠くかけ離れた、或いは何の関係もない脆さに向かっている‥‥」という記述や、「舞踏する器は、舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよ、その器は絶えずからっぽの状態を保持していなければならない。過度の充足、突然の闖入(ちんにゅう)物の小爆発によって抜け出た物の後に、続いて移体する。このような状態で励まされる空虚が、舞踏の律動なのである。舞踏は、からっぽの絶えざる入れ替えである。自・他がトランス状態において保持されている。‥‥抜け出ていった自分は、当然いまある自分に変容されている。(『美貌の青空』 遊びのレトリック)」

以上、三上賀代さんの『器としての身體』からプロットしてみた。

元藤燁子(もとふじ あきこ) 『土方巽とともに』 土方巽夫人による感動的な土方伝

元藤燁子(もとふじ あきこ)
『土方巽とともに』
土方巽夫人による感動的な土方伝

土方巽夫人であり、舞踏家であった元藤燁子(もとふじ あきこ)さんが、彼との思い出を綴った『土方巽とともに』は極めて感動的な文章である。一度読んでみられることをお薦めしたい。舞踏家の奥さんは皆さん素晴らしいのかもしれない。それは、ともかく、ここからいくつかご紹介しよう。

阿佐ヶ谷の三畳間の下宿を出て、日比谷公園で数か月野宿したこともあるという。それは、二人にとって「最高の生活」だった。そして、大野一雄宅に近い横浜の赤門町の六畳間に移った。当時、二人はクラブやテレビのコマーシャルなどで踊っていた。みな苦しみの中で新しい芸術を作り、自分たちもまた手さぐりだったという。1960年頃のことだ。マジシャンや落語家など多様な芸人たちとも交わった。そんな頃、モンパリという小さなクラブに仕事に出た時のことなのだが、そのすぐ近くに刑務所があり、土方は、この中でどんな暮らしがなされているのだろうか、死刑の宣告を受けた人はどんな歩行をするのだろうかと問い、その分厚いコンククリートの壁のそばで真剣にその歩行に取り組んでいた姿を夫人は見たという。その時の思いは「刑務所へ」という文章になって残された。

「文明化された道徳の全勢力は、資本主義的経済体制や政治体制と手を結んで、肉体を単に享楽の目的や手段、あるいは道具として使うことに強い反対を唱えている。いわんや、ぼくが舞踏と名づける無目的な肉体の使用は、生産性社会にとっての最も憎むべき敵であり、タブーでなければなるまい。ぼくの舞踏が犯罪や、男色や、祭典や、儀式と基盤を共通にしていると言い得るのも、それが生産性社会に対して、あからさまに無目的を誇示する行為だからである。この意味で素朴な自然との闘い、犯罪や男色をもふくめた人間の自己活動に基礎を置いたぼくの舞踏は、資本主義社会の[労働の疎外]に対する、ひとつの抗議でもあり得るはずだとぼくは考える(『美貌の青空』刑務所へ)。」それは、こんな著書とも響きあっている。フランスの哲学者ドゥルーズと精神科医ガタリの共著『アンチ・オイディプス』では、人間の欲望とは諸機械であり、生産の生産という特質を持つ。それは、社会的生産とパラレルであって、ちょうど「貨幣が貨幣を生む生産的形態」と等しいという。資本主義社会における欲望の生産は、物質の連続的な流れの中における<欲望する諸機械>と同じ構造であるらしい。そして、欲望する諸機械の転身した姿がパラノイア機械なのだ。この土方の文章は、同じ資本主義によって歪められ、疎外される人間の有様をプロテストしている。

翌年、大田区の洗足池の近くに引っ越す。三か月に一度のペースで大きな公演を行い、その合間は地方を含めたクラブを転々としていたという。「立ち止まると死んでしまう。日常がもろに舞台につながっている。生活と切断された舞台は飾り物にすぎない。だから絶えず危機感を培養する側に回るのだ」と語っていた。舞台装置を移動するように引っ越したらしい。実に二年に一回のペースで住まいを変えていた。稽古は、厳しいものだったようだが、舞踏の外での土方は、家族などへの情愛の細やかな人であったという。しかし、はしゃぎ始めると結構行き過ぎる性格であったらしいのだ。磯崎新(いそざき あらた)の自宅のパーティーで篠原有司男(しのはら うしお)と一緒に全裸で屋根の上を飛び回りパトカーが出動したとか、稽古場のアスベスト館に蒲団を敷き詰めて澁澤龍彦(しぶさわ たつひこ)や美術家の連中と二階から飛び降りて騒いだと言う。

『土方巽の舞踏-肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』岡本太郎美術館 左が土方巽

『土方巽の舞踏-肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』岡本太郎美術館 左が土方巽

舞踏の技術とは方法的に錯乱することであり、型の一つ一つの条件に本気で関わることによって、これ以上受容できないという極限状態にまで至った時に、それに直面し、自己を投げ出してはじめて「なる」ことが可能になるという。それは「衰弱体の採集」と呼ばれた。「衰弱体」とは、一種の「覚醒した体」、「透明な身体」なのである。ここで思い出されるのは、ドゥルーズが『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』の中で書いていたことだ。そこでは、先ほどの有機体を形成する<欲望する諸機械>に対抗する存在として<器官なき身体>が考えられていた。それは「身体の精神性」、「死の本能」であるという。「舞踏」は自己を消滅させることによって自在性を得るという極めて東洋的・日本的な方法論によって成立する。いわば身体によって解く公案なのである。こうなると土方自身が述べたように「舞踏」から新しい哲学が生まれるのかもしれない。

「犬に打ち負かされる人間の裸体を、私は見ることができます。これは、やはり、舞踏の必須科目で、舞踏家は一体何の先祖なのかということにつながってゆきます。わたしはあばらの骨が大好きですが、それも犬のほうが、わたくしのそれよりも勝っているように思われます。‥‥雨の降る日など、犬のあばらを見て敗北感を味わってしまうことがあります。それにわたくしの舞踏には、もともと邪魔な脂肪と曲線の過剰は必要ではないのです。骨と皮、それにぎりぎりの必要量の筋肉が理想です。もし、犬に静脈が浮いているのなら、おなごの体など金輪際要らなくなると思います‥‥(『美貌の青空』犬の静脈に嫉妬することから)。」土方とその夫人との苦しい生活は続いていた。だが、やがて、運命の時がやってくる。畢生の舞台となった「土方巽と日本人―肉体の叛乱」の準備が進んでいた。この公演の二ヶ月前から土方は食事を一切取らず毎朝かなりの距離を走り、合間にクラシックバレエのレッスンを繰り返したと言う。牛乳を飲むだけだった。体は完全に研ぎ澄まされ、磨き抜かれたという。それによってあばら骨は完璧な美しさになったのだ。1968年の秋のこと、その公演は昭和における一つの「事件」とまで言われた。

 

土方巽の踊る姿が残された映像は少ないのですが、ソロ舞踏である『少女』を添えておきます。