クレア・キッソン 『話の話』の話 ユーリー・ノルシュテインと幸福な時代の思い出

はじめに30分弱のアニメーション『話の話』をご覧ください。何も知らないで見ていただくのがベストですが、不幸にして、作者のユーリー・ノルシュテインのことについて知ってしまった人は、できるだけ忘れてくださいませんか。それがこの映像をみていただくための条件です。何も知らないで‥‥

僕が、アニメーションの可能性に目覚めたのは、とてつもなく遅かったのです。2009年に広島市現代美術館でウィリアム・ケントリッジを見た時です。はっきりと目覚めました。それは、アニメーションという僕の既成概念を軽々と打ち破り、映写の終わった白い壁面の上で堂々と勝ち誇っていました。アニメは黒い輪郭線に囲まれた中を彩り豊かに塗るものだけではなかったのです。ウォルト・ディズニーのそれが典型ですね。宮崎アニメもその例外ではなく、その延長上にありました。宮崎駿さんのアニメも娘が小さい頃は、彼女にかこつけて見に行きました。それは素晴らしいものでしたが、興行映画という枠の中で捉えておりました。しかし、ケントリッジのアニメはいったいなんと言ったらいいでしょう。アパルトヘイトを扱ったアニメだったのです。

『ウィリアム・ケントリッジの謎』DVD

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作画は木炭とコンテでなされていました。ある種暴力的で、ある種素朴なそのデッサンが、ある時は、ぎごちなく、ある時は、流暢に南アフリカのかつての現実を描いておりました。これは何なのだろうかと。その時、アニメーションは芸術になり得ると感じたのです。噂ではニューヨーク近代美術館のキュレーターの方がわざわざ来日されて展示設定をされたとか。その展示は、確かに、かつて見たどの美術館の展示よりも美しいものでした。これは愛情の深さなのだと思いました。展示は愛情とセンスです。キュレイターの皆様。

今回ご紹介するは、僕にとっての衝撃の第二弾にあたるロシアのアニメーション作家であるユーリー・ノルシュテインに関する著作です。この人の仕事もアニメーションという既成概念を突破して地平線の果てまで到達しているかのようです。後でご紹介しますが、実写を含めたかなり複雑で意表をつく撮影方法がとられています。お楽しみに。それに最近、人形を1コマ毎に少しずつ動かしカメラで撮影し、あたかもそれ自身が連続して動いているかのように見せるアニメーション、いわゆるコマ撮りで知られるクエイ兄弟の作品が葉山の神奈川県立近代美術館で公開されていました(2016 7/22-10/10)。イギリス出身の双子の兄弟たちです。これもなかなか興味深い映像であるといえます。それは、あたかもプラハのルドルフ二世好みの機械仕掛けの人形たちのようではないですか。展覧会にあわせて『クエイ兄弟 ファントム ミュージアム』という本も出版されました。

『クエイ兄弟 ファントム ミュージアム』

『クエイ兄弟 ファントム ミュージアム』

ノルシュテインに戻りましょう。彼の作品の中でも謎に満ちた、そして最高傑作と誉の高い作品が『話の話』です。先ほどご覧いただいた動画ですね。彼の発想をもとに脚本を書いたリュドミーラ・ペトルシェフスカヤさえノルシュテインに対してこのように述べています。「あなたが、全てを撮り終えた時、あなたの意図が私には、くっきりと見えはじめたのです。私は、『話の話』を五十回以上見ました。それでも謎は残ります」と。アニメーション研究者で、[『話の話』の話]の著者であるクレア・キッソンは、このように書いています。「1980年のザグレブ国際アニメーション・フェスティバルでは、ある作品が際立っていた。誰もがその作品の噂をしていた。大賞は、かならずや、三十分もののロシア映画が受賞するに違いなかった。謎めいているにもかかわらず、この詩的で独特のユーモアに満ち哀愁を帯びた作品を誰もが、傑作だと感じていた。けれどもフェスティバルに居合わせたロシア人、あるいはロシアに精通する人々にとって‥‥むしろ、彼らにとって興味ある質問はこうだ。一体どんなロシア人が、この真に独創的な映画を、この時期に作ることを思いつけるのだろう? ‥‥作者は一体どうやって処罰を免れたのだろうか?」彼と彼の作品は謎だらけらしいのです。ノルシュテインは、それまでに、このザグレブフェスティバルを含めて、一度も海外での授賞式に主席していません。すべて渡航禁止だったのです。

『話の話』が完成した時、ゴスキノ(国家映画委員会)は、この作品の承認を取消し、20分の作品として再提出し、タイトルを『灰色狼の仔がやってくる』から『私の子供時代の思い出』に変更するように要求しました。彼らは、この作品がまったく理解できなかったのです。楽観主義と明快さが基本の社会主義リアリズムにとって不可解さは国家に対する脅威として映るのでした。これをノルシュテインは拒否するのです。それは、月給わずか二百五十ルーブルの人間が制作費の三千ルーブルを借金として背負うということを意味していました。しかし、当局の手抜かりで道が開けます。その年の国家賞の受賞候補を審議していた委員会は、好ましからざる人物としてノルシュテインを把握しておらず、その賞を彼にあたえてしまったのです。それまでの海外での受賞歴を考えるとそれは当然のことではありました。しかし、タイトルは結局『話の話』へと変更されました。

クレア・キッソン 『話の話』の話

クレア・キッソン『話の話』の話 小原信利 訳

今回ご紹介する本の著者であるクレア・キッソンは、イギリスのアニメーション研究家です。1970年代にロサンゼルス郡立美術館のアニメーション・プログラムを主宰した後、78年にイギリスのナショナル・フィルム・シアターとロンドン・フィルム・フェスティバルの企画に携わります。89年から若者やマイノリティ、知識層などを相手にする番組編成で知られるイギリスの公共テレビ局であるチャンネル4に入社。あのBBCと同じイギリスの公共放送です。そこで、多くのアニメーション映画の委託制作を手掛け、93年に『ヴィレッジ』でヨーロピアンオスカーを受賞しています。退社後、サリー・インスティテュート・オブ・アート・アンド・デザイン大学の講師となり、本書の下地となるアニメーションの研究を行います。2008年にはその業績を評価されザグレブ・アニマフェスト賞を受賞しています。こう言っては失礼ながら、彼女は筋金入りのアニメーションオタクであられるようです。こういう人が僕の傍にも欲しいのですが‥‥

1.思い出の場所

ノルシュテインは、1941年疎開先のペンザ州アンドレ-フカ村に生まれています。ドイツがロシアに侵攻した年でした。疎開後、一家はモスクワ郊外のマリーナ・ローシャの古い二階建ての市営共同住宅に移り住みます。この木造住宅が『話の話』の舞台、制作の大きなモチベーションとなりました。それは終戦後の平和な時代の思い出だったのです。ごみごみしたアパートのその暖かさと暗さが幼な児の安心感を包んでいました。ノルシュテインはこう述べています。「暖かいベットでまどろみながら、その見知らぬ仔狼を想像するのは、心地よくもあり、こわくもあった。後には多くの実現しなかった子供時代の夢とともに、仔狼も忘れ去られるのだ。仔狼は私たちの記憶の引出の底に消え去り、突然、よみがえる。おそらくは、独特の香り、ドアが軋む音、月の光の中の白モスリンゆえに。そして、つかの間よみがえって、再び何年も、あるいはおそらくは永久に消え去ってしまう前に、実際に感じられる鋭い心の痛みをかたとき、もたらすのだ。」

2.芸術への憧れ

11、2歳頃、ノルシュテインは、学校の美術の先生から週2回、才能のある子供のための特別学校で学ぶようにいわれます。15、6歳の子供たちのクラスに混じって美術を勉強していたのですが、突然、もうこなくていいと言われます。彼が体験したユダヤ人差別の最初の一撃でした。ユダヤ問題については関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 に書いておきましたね。それはスターリン時代の終わり頃のことでした。木工の技術者だったノルシュテインの父は、ユダヤ人で、古代ヘブライ語を知っていましたし、タルムード(口伝律法)とトーラー(モーセ五書)が読めましたが、彼の時代では無神論が強要され、それらの学習は皆無だったのです。ただ、宗教美術には興味を持ちました。少年の彼は、ロシアのイコン画家アンドレイ・ルブリョフの作品に感動し、風俗画家パーヴェル・フェドートフの風刺画が気に入ったようです。文学ではジュール・ベルヌ、ジョナサン・スウィフト、H.G.ウェールズ、アレクサンドル・ベリャーエフらの空想小説、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーリキー、ゴーゴリらの小説を愛していました。特にゴーゴリのロマンティックな怪談が好きだったようです。後にゴーゴリの小説『外套』は彼の手によって素晴らしいアニメーションになります(完成したでしょうか)。

3.いかにして美術の正道からはみ出しか。

ユーリ・ノルシュテイン原案 フランチェスカ・ヤ-ルブソワ 絵  『アオサギとツル』 引かれあいながらもすれ違うアオサギとツルの話です。

ユーリ・ノルシュテイン原案
フランチェスカ・ヤ-ルブソワ 絵 
『アオサギとツル』
引かれあいながらもすれ違うアオサギとツルの話。

15歳になると通常の授業と並行して美術学校に週2回通えるようになりました。そこで出会ったのが有名なロシアのアニメーターであるエドゥアルド・ナザーロフでした。高校を卒業すると絵画の道を目指して美術学校を受験しましたが全て落ちてしまいます。これは痛手でした。クラスノプレスニェンスキー美術教室の夜学に通いながら家具工場で働くことになります。梱包箱に巨大な釘を打ちこむ仕事を続けるかサユーズリトフィルム・アニメーション・スタジオの養成コースに入るしか選択肢はありませんでした。時はフルシチョフの時代に入り、いわゆる「雪解け」が始まっていました。この頃、ソルジェニーツィンの小説の表現の美しさに圧倒され、映画監督のエイゼンシュタインの回想録と理論書に傾倒していきます。そして、チャップリンやフェリーニの映画にひかれるようになりました。特にフェリーニの『アマルコルド』は刺激になったようです。後には、有名な映画監督アンドレイ・タルコフスキーにも影響を受けます。サユーズリトフィルム・アニメーション・スタジオの養成コースに入り、そこを終えると手描きのアニメーションスタジオで一年、人形部門、切り絵部門と三つのテクニックを修得して申し分ないアニメ職人となっていました。イワノフ・ワノーとの共同監督作品『ゲルジェネッツの戦い』でノルシュテインは技術部門の全てを任され、妻のフランチェスカ・ヤールブソワもデザイン部門でともに制作します。夫婦にとってのはじめての共同作業でもありました。フランチェスカは、この後もずっとノルシュテインの片腕となってアニメーション制作に携わります。彼はこの作品で共鳴、形の音楽性、動きの音楽性についての感覚を得ることになります。この映画は、ザグレブ・アニメーション・フェスティバルでグランプリを獲得しました。この頃から絵画に対する未練も薄まっていったようです。

4.アニメーターとしてのキャリア

『きりのなかのはりねずみ』 はりねずみが友人のこぐまを訪ねる途中で霧の中で白馬に出会ったり、川に落ちて魚にたすけられたりする物語です。

『きりのなかのはりねずみ』
はりねずみが友人のこぐまを訪ねる途中で霧の中で白馬に出会ったり、川に落ちて魚に助けられたりする物語です。

次の作品『きつねとうさぎ』、『アオサギとツル』と革新的な作品を次々と生み出していきました。これまでの彼の作品は切り絵アニメーションでした。それはインドネシアのワヤン・クリの影絵に見られるような紙人形のようなものです。しかし、『アオサギとツル』では手描きのアニメーションを試します。セルの端を黒い絵の具で塗り、光を透過させないで表面に様々なテクスチャー(質感)を加えます。登場人物や背景にテクスチャーを加えた複数層のセルを用いたのです。「我々の方法では、背景の厚みさえ意味を持っています。平らな表面上に同じものを描いても、同じような光学的な効果は生まれません。複雑な背景を作り、‥‥その一層上にまた層を載せると、空気感が、空間の感覚が生まれます。私はそれが大好きで、フランチェスカはそれを完璧にこなすのです」と彼は述べています。通常の撮影台は二次元のアニメに奥行を与えるためにターンテーブル上に三次元セットが組まれ、カメラはその横に置かれます。あるいは、カメラの下方に設置された個別に動かせる何枚かのガラス板の上にセルを置きズームにしながら左右にスパンできるというようなシステムがありました。早逝したカメラマンのジュコフスキーと一緒にノルシュタインは独自のマルチプレーン(撮影台)を考案します。それにカメラを三脚に取り付け撮影台の一番上に置いて垂直にも水平にも移動でき、アングルも変えられるようにしています。

『ユーリー・ノルシュテインの仕事』

『ユーリー・ノルシュテインの仕事』 ふゅーじよんぷろだくと

ここでキッソンの[『話の話』の話]から少し離れます。 ふゅーじよんぷろだくと発行の『ユーリー・ノルシュテインの仕事』 には制作の様子が詳しく書かれていて、とても興味深いものがあります。きっとアニメ―ションファンにはたまらないでしょう。絵コンテを描く時にはイメージが優先されます。技術について可能性があるかどうかなどいっさい考えないようです。シナリオを書くには登場人物のキャラクターの特徴を捕まえなければならないそうです。ハリネズミのように霧の中に入っていく人物は好奇心が強いでしょう。好奇心のある人間は世界中を絶えず眺めています。彼にとって蝶も面白く、星も面白い、水たまりも見るというわけです。そして、ハリネズミがセルで作られるのですが、セルに顔、ハリ、目、口、胴体などの部分を別々に描いて、それらの部品を寄せ集めて切り絵のキャラクターを作り、それを動かしています。その部品のヴァリエーションは膨大な数にのぼります。ミミズクが水たまりを足でかき回す場面では、ミミズクの足を作り、それを使って実際の器の中で、水をかき回して波紋を作り、それを実写しました。物語の大切な要素である霧はセルにエアブラシで白い塗料を吹きかけ、それを撮影台に置いて必要な方向に動かしています。そのセルは間隔をあけて何段にも重ねられていてキャラクターを順次上の段に置き換えていくと霧の中かから現れてくる様子を撮影することができるというわけです。

5.東洋の影響

芭蕉連句アニメーション『冬の日』

芭蕉連句アニメーション『冬の日』

キッソンの著作に戻りましょう。ノルシュテインが15歳ころから興味を持ち始めたものの中に日本の短歌と俳句がありました。それによって東洋の哲学や芸術に関心がむけられていきます。彼と日本の詩歌との出会いは、「魂の融合」というべきものであったようです。彼は、そのいわく言い難い特質の虜になりました。アニメーションを始めた頃、既に空間、物体、自然、死に対する日本の哲学的、宗教的原理のほうが自分が育った文化よりずっと自分の作品にピッタリだと感じはじめていたようです。いつか日本の詩人・歌人についての短編アニメーションを作りたいという希望は、35名のアニメ作家合作による芭蕉の連句アニメーション『冬の日』に結実することになりました。芭蕉が『野ざらし紀行』のための旅の途中、名古屋の門人たちと詠んだ連句です。彼は芭蕉の発句「狂句木枯らしの身は竹斎に似たる哉」を担当しました。

そして、ノルシュテインは別のインタヴューでこのように述べています。「私は『外套』(ゴーゴリ原作のアニメーション)を作りながら、『のっぺらぼう』という日本の幽霊の絵を見ていました。表情とは何か。芥川龍之介の短編小説にあるように、全然リアルでないもののなかに、ほんとうにリアルなものを感じるのです。なにか爆発しそうなものを、じっと抑え込んでいる表情を(小野耕世『世界のアニメーション作家たち』)」。『外套』も素晴らしい作品です。描画は一見ラフに見えますが、あの手の動きや表情の襞、毛布の中の体の動きは奇蹟と言っていいと思います。

6.話の話へ

ユーリー・ノルシュテイン 『フラーニャと私』 児島宏子 訳 フラーニャはノルシュテインの奥さんフランチェスカの愛称です。この本には、ノルシュテインの自分の各作品に対する思いが書かれています。

ユーリー・ノルシュテイン
『フラーニャと私』 児島宏子 訳
フラーニャはノルシュテインの奥さんフランチェスカの愛称です。この本には、ノルシュテインの自らの作品に対する思いが書かれています。

さあ、『話の話』にいよいよ到着しました。この作品はノルシュテインの極めて個人的な幼年時代の記憶に基づいています。その制作動機はタルコフスキ―の『鏡』と似ていて、ストーリーが錯綜しているのもよく似ています。『話の話』の中で冬の日に少年がリンゴを食べている場面が、私には、その『鏡』の中で、射撃の練習場で頭に小鳥を載せる少年の姿とどうしても重なってしまうのです。

ノルシュテインはこう書いています。「これは記憶についての映画になるはずです。子供時代には一日がどんなに長かったか、覚えておられるでしょうか? 毎日がひとりでにはじまり、続き、終わりました。今日という日は今日だけ成立し、明日の幸せは、明日という日に持ち越されます(『フラーニャと私』)」。

そして、彼には狼の仔が何故現われたのかよく分かりません。子供時代からやって来たのは確かです。「このキャラクター、ヒーローは私の子供時代に確かに生きていた。私が去った家に、彼はとどまって暮らしていたような気がする。‥‥どんな家にもダマヴォイ(家の精霊/ザシキワラシ)は、必ずいるだろうから(同上)」。溺れさせられようとした子猫の写真が仔狼の目のモデルになります。それは「邪悪に満ちた悪魔のような火の色で燃え、もう一方はどこか、あらぬ所にいるように火が消えている‥‥まったく死んでいる(同上)。」そんな目をしているのです。とても印象的な目です。

「‥‥旅人が行く。食卓に招かれ、ネコは海を眺め、海ではサカナが泳いでいる‥‥特別なことは何も起こらない。だが、実際にとって、この、事件のなさが、ずっと強烈で壮大であることがあきらかになった。聴覚や視覚をいたずらに刺激するが、心はあまり響かずに絶え間無く変化する事件よりも(『フラーニャと私』)。」永遠と名づけられたエピソードです。そこには、世界との完全な調和があります。それは、広場でタンゴを踊る人たちが、射的場の的のように撃ち倒され、戦争に連れて行かれるシーンと対になっているのです。ノルシュテインはこう書いています。「戦争が終わってから50年以上も経っているにもかかわらず、私たちは平和に暮らすのがどういうことなのか、本当には分かっていない。そのためには、戦争や強制された死についてではなく、生命、暮らし、人生があり、人々がそれにどのような意味を込めるかについて考えながら、数世代の人々が平和の中で暮らさなければならない。自分の人生をいかなる意味、目的、価値、思想、知性で満たせばいいか考えながら、生きていきたいものだ。私たちの精神、心の空間が広がり発展するのか、反対に狭く低くなるのかは、そのような考え方を願望するか、しないかに深くかかわるだろう(同上)。」これは、大変重要な指摘だと思います。

キッソンは、その著書[『話の話』の話]の中で重要な秘密を洩らします。もし、『話の話』の謎を解く鍵をお知りになりたいのなら以下の子守歌とエピグラフ(題辞)を読みください。ノルシュテイン自身が書いたエピグラフです。でも、謎は謎のままにしておく方が幸せな場合もありますね。警告しておきますが読まない方がよいのかもしれませんよ。そう言われれば、読みたくなるのが人情ですが‥‥

ねんねんころり
端っこには寝ないでね
灰色の仔狼がやってくるから
オオカミは わき腹をひっつかむ
オオカミは わき腹をひっつかむ
そして、森へひきずって行く
ヤナギの茂みの下に

「戦争の終わりに、叔母が前線から帰ってきました。赤ん坊を亡くしたばかりで、まだ出るお乳を、私に飲むように、といってくれたのでした。眠る前に母親が「灰色の仔狼がやってくる」という子守歌を歌ってくれました。廊下の端には、通りに出るドアがありました。そのドアの向こうには永遠の幸せ、明かり、話ができる猫、砂糖をまぶしたパンが待っているかのようでした。当時は思い出だけが永遠だとは知りませんでした。人生をまるごと記憶することになるのだとは。戦争から帰還できなかった兵士、窓の下の木、母親が歌った灰色の仔狼の子守歌、廊下のドアの向こうの明かり。(ノルシュテイン『話の話』のエピグラフ)」