小泉八雲『日本瞥見記』part2 幻想と真実の間

「‥‥力強い山頂が、いま明けなんとする日の光の赤らみの中で、まるで不思議な夢幻の蓮の花の蕾のように、紅に染まっているのが見えた。その光景を見た時、皆は心打たれてひとしくおし黙った。たちまち永遠の雪は黄色から黄金へとすばやく色を変じ、太陽の光線がその山頂に達するやさらに白色に変じた。日の光は地球の曲線の上を横切り、影深い山脈の上を横切り、また星々の上も横切って来たかのようであった。というのも巨大な富士の裾野はいぜんとして見えないままであったからである。(ラフカディオ・ハーン『心』平川祐弘 訳))」

1890年39歳の時、ハーンは日本にやって来た。少なくとも三つの要因があったといわれている。一つは、日本政府も出品していた1884年のニューオーリンズで開催された万国博覧会にハーンは取材に出かけ、その時派遣されていた服部一三と懇意になったこと。第二は、ハーンを日本に送ろうと考えたハーパーズ誌の記者ウィリアム・パットンからチェンバレンが英訳した『古事記』を借りて読んだこと。チェンバレンとは、この頃から手紙の遣り取りが始まっている。最後は、ジュール・ベルヌにちなんで『80日間世界一周』を競った二人の女性記者の一人エリザベス・ビスランドから魔法のような日本の国のことを教えられたことである。ニューオーリンズにハーンを尋ねて来た女性はニューヨークで立派な記者になっていた。彼女に対しては好意以上の感情が湧き起っていたようだ。ただ、ハーンは自分のような容姿の男は白人女性とは結婚できないと頑なに思っていたらしい。

古事記については、来日以前、既にかなりの知識をもっていたようで、日本の印象を描いた第一作『知られぬ日本の面影(日本瞥見記)』には、このような記述が散見されるのである。「この大庭のあたりには、セキレイがたくさんいる。この小鳥は、伊弉諾、伊弉冊の神鳥で、この二柱の神は、この鳥からはじめて愛の術を学ばれたのだと、伝説に述べてある。だから、このへんでは、どんな強欲な百性でも、この鳥だけは害を加えたり、おどしたりしない。鳥の方でも、大庭の人たちのことは少しもこわがらないし、畑にある案山子のことまで恐れない。この案山子の神は、少彦名神である。(『日本瞥見記』「八重垣神社」平井呈一 訳)」

小泉八雲『日本瞥見記』下

横浜に着いてチェンバレン宛に中学教師就職の依頼の手紙を出している。その中に自分の知っていた服部一三の名を出しておいたのだが、服部は文部省の学務局長になっていて、この二人の力で松江の尋常中学校での英語教師の職が決まった。それまでは、生活費を稼ぐために在留英国人の子弟の家庭教師などをしていた。前回ご紹介したエドワード・ラロク・ティンカー著『ラフカディオ・ハーンのアメリカ時代』によると、彼はハーパーズ誌とその編集長オールデン宛に筋の通らない手紙を出して、日本に関する記事を送る話を破談にしてしまったらしい。

「朝霧が晴れると、湖上三マイルほどのところにある美しい小島が、くっきりと姿をあらわしてくる。低い、帯のように細い島だが、そこの大きな松の木かげに、神道の社がある。‥‥その言い伝えによると、一夜、この島が、みめうるわしい、信心深い、そして、非常にふしあわせな身の上の、ひとりの美しい女の水死体をのせて、夢のように浮かび上がったのだという。土地の人たちは、これを神慮のしからしむるところと畏れ慎んで、この島を弁天に寄進し、一宇の祠を島に建てて、そのほとりに樹木を植え、祠の前には鳥居を立て、祠のまわりには奇石珍石で玉垣をめぐらして、そこにその水死の女を葬ったのである。(『日本瞥見記』「神々の国の首都」平井呈一 訳)」宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島の光景を描写した文である。

この神々の集う土地、出雲で、ハーンは一人の女性に出会う。それが小泉節子であった。縁組後、しばらくして夫は出奔してしまい、いわば出戻りの身であった。橋から身を投げてしまいたいと思いつめたときもあるという。貧窮した士族の娘が17歳年上の高給取りの外人教師の妻になったには色々の事情があっただろうことは想像に難くない。機で織った織物のサンプルが小泉八雲記念館の残されているという。この一冊は小泉節子の勤勉労苦の形見であり、ひそかに誇りとした思い出でもあると平川さんは書いている(『小泉八雲とカミガミの世界』)。今回も平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さんの著作から色々ご紹介したいと思っている。それは紺色の織物の布(きれ)の数々だった。ハーンは友人の西田千太郎に頼んで節子の実家で必死に機を織って働く彼女の姿を垣間見せてもらい、とても心打たれたという。西田はハーンが勤めた中学校の若き教頭だった人だ。

その節子がハーンに愛情を覚えたのは子供たちに宍道湖で水に沈めては引き上げられていた子猫を彼女が貰い受けて家につれて帰った時だった。「おお可愛想の猫‥‥」と言って、ハーンはぶるぶる震えているびしょ濡れの猫をそのまま自分の懐に入れてやったのだという。「その時、私は大層感心いたしました(『思い出の記』)」と節子は書いている。

マルティニーク島のサン・ピエールという町で熱病にかかったハーンは土地の女性に献身的な看護を受けて一命をとりとめ、困り果てていた彼はその島で友人となったレオポルドにタダで金を貸してもらっていた。「およそ親切な心の鼓動に安物はない、およそ親切な行為に月並みな行為があろうはずはない(『仏領西インド諸島の二年間』平川祐弘 訳)」と書いていた。『日本瞥見記』の中にも「舞妓」という章がある。この本の中でも僕が一番好きな所だ。ある白拍子と絵師との物語である。江戸から京都を目指した若い絵師が山中で一夜の宿を借りる。こんな夜中、男を泊めてやり、自分の寝具まで差し出す女だった。物音に目を覚まして、物陰から見た光景に絵師はすっかり驚いてしまう。灯明の火がともる仏壇の前で、見たこともないようなりっぱな白拍子の衣装を身につけた女が、舞を舞っている。その水ぎわ立った女の美しさが、この世のものならぬ、妖怪めいたものに見えた‥‥。是非この『日本瞥見記』をお読みくださればと思う。

平川祐弘『小泉八雲とカミガミの世界』

平川さんはこう書いている。「なるほど来日第一年の松江時代は日本にすっかり気をとられました。身も心も古き良き日本に奪われました。しかし、第二年以降は様子が変ってきた。教える相手が中学生ではなく、旧制高校生ということもあって英語の授業内容もやや高級になり、それだけにハーンも英語の本を次々に読みだした。松江時代と違って、土地の人とはそれほどつきあわなかったことも手伝って、その余暇に読書を通して西洋を次々と再発見いたします。‥‥自分が日本人になりきれない西洋人であることを自覚していた人、『西洋への回帰』を経験しつつあった人、その当人が日本に帰化することなどあり得たのでしょうか。私はあり得たと思います(『小泉八雲とカミガミの世界』)。」熊本高校での月給200円を捨て、100円の給料の「神戸クロニクル」という英字新聞社に移った。ハーンは出雲時代の友人である西田千太郎にこう書いた。「私は決して日本人にはなりきれない、あるいは全体としての日本人から真実の同情を期待し得ない事実を、認めずにはいられなくなりました。私の孤立感は遂にもう私には耐え難くなったことを言わずにはいられません。‥‥日本人を理解できると信ずる外国人はなんと愚かでしょう。」

しかし、ハーンは自分が完全には同化し得ないことを知りながら帰化の手続きを進めていて、西田にも色々のことを頼んでいる。それは、彼が妻子の将来のことを考えたからだと平川さんは言う。不平等条約当時の日本では、西洋人の日本妻は遺産をもらう権利がなかった。遺産は西洋人の親戚の手にわたることになっていた。ハーンは遺産を間違いなく妻子が受け取れるようにしておきたかったのである。西田への手紙の一年あまり後、ハーンは帰化してついに小泉八雲となった。1896年のことである。その頃までには『東の国より』『心』が完成し、『仏の畑の落穂』『霊の日本』『怪談』『日本―一つの解明』など1904年に54歳で亡くなるまで、10数本に及ぶ著作が毎年のように出版されている。これらの著作は英語で、欧米の読者を想定して書かれていたことは指摘しておかなければならない。

ハーンと節子のオシドリ夫婦ぶりは、萩原朔太郎が『小泉八雲の家庭生活』と題された一文を残していることでも知られる。仲の良い二人の成人が子供のような片言で何時間も、笑ったり戯れたりしている風景こそ、フェアリーランド的であろうと書いていた。平川さんの本『小泉八雲とカミガミの世界』から二人の手紙の遣り取りをご紹介しよう。「小・カワイ・ママ・サマ・コンニチ・アサ・ナリタ・サマ・オマモリ・マイリマシタト・パパ・オトキチ・二・ヤリマシタ・ト・タイヘン・ヨロコヒマシタ‥‥ママ・サマ・二・ネガウ・ジュブン・ノ・カラダ・カワガル・イマ・アナタ・イソガシイ・デシヤウ・ネ・ダイク・トカベヤ・ト・タクサン・シゴト・デスカラ・カラダ・ダイジ・スル・オホネガウ‥‥小泉八雲」ハーンは極度の近眼もあって漢字の学習をあきらめていて、英語直訳調のヘルン(ハーン)言葉というこのような言い方をしていた。節子は夫のためにこのヘルン言葉で話し、ヘルン言葉で書いている。「パパサマ、アナタ、シンセツ、ママニ、マイニチ、カワイノ、テガミ、ヤリマス。ナンボ、ヨロコブ、イフ、ムズカシイ、デス。アナタ、カクノエ(絵)、オモシロイ、デスネー。‥‥ママ、セツカラ」

ごちそうさまとしか言いようがないのだが、節子は、このような言葉でハーンのために山陰の昔話や松江の怪談を語り聞かせた。その結果があの『怪談』や多くの再話物語となったのである。優秀なストーリーテラーであり、良き秘書だった。そして、何よりもハーンにとって初めての暖かな家庭のまさに母体であったのである。三男一女をもうけた。彼女の黒い目の中にギリシアの母の茶色の目の色を重ねることができたのかもしれない。節子は後年『思ひ出の記』に夫との思い出を感動的な文章で残している。ハーンは、けっして父親を許さなかった。それは、自分が父のようにけっして妻子を捨てることをしないという決意と直結したであろう。

ハーンは1896年 に 東京帝国大学の英文学講師となる。1903年までここで勤めた。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗ったことは先に述べた。まことに人気の高い先生であったようだ。ティンカーは part1 でご紹介した『ラフカディオ・ハーンのアメリカ時代』にこう書いている。彼の低い声は不思議な、否応なく引きつけられる魅力を発揮して、しだいにその声の及ぶ周りの人たちすべてをひきつけたという。彼の語りは流れるような調和があり、スムースで、極めてメロディアスであり、言葉はカラフルだった。人間の声帯から出るというより、デリケートな楽器から奏でられるようだったと。学生たちの残した言葉も異口同音だった。時として、見える片方の目に虫眼鏡のような一眼鏡を当てて学生たちをすばやく眺めたという。

夏目漱石(1867-1916)

彼の後任は夏目金之助、つまり漱石であった。これは不思議な縁(えにし)と言うほかはないのだが、ハーンの去った一年半後の熊本第五高等学校に着任して四年教え、これもハーンがしばらくいたロンドンに二年留学した。ロンドン留学は気の重いものであったことはよく知られているが、南方熊楠(みなかた くまぐす)のロンドン生活と是非読み比べていただきたいと思う。熊楠は、イギリス人の侮辱的な言葉に、その男の鼻に一発お見舞いして、せっかく勤めていた大英博物館をさっさと出ていったのである。それはともかく、漱石はハーンの後任となった。彼自身、これは貧乏くじを引いたと感じていたらしい。なにせ相手は学生たちがストライキを企てようとしたほど、その留任が望まれた人だったからだ。

これも part1でご紹介した平川祐弘さんの『小泉八雲 西洋脱出の夢』の中にハーンと漱石の怪奇な子供の話が並べて紹介されている。ハーンの話は出雲の持田の浦の話で、貧しさに6人の子を口減らしのために川に捨てた父親が、少し金回りがよくなったので、7番目の子は捨てずに育てた。その五ヶ月の赤ん坊が、ある月夜に大人の言葉つきで「オトッツアン! ワシ ヲ シマイ ニ ステサシタトキモ チョウド コンヤ ノ ヨーナ ツキヨ ダッタネ!(『日本瞥見記』「日本海に沿うて」平井呈一 訳)」と語る話であった。漱石の話は『夢十夜』の「第三夜」で、主題はこれも「子供を捨てる父」である。漱石は両親の晩年の子で歓迎されざる子であったため幼くして養子にだされ、養父母の離婚の後に実家にひきとられたというのである。背中の子供と語り合う夢だった。「御父(おとっ)さん、其の杉の根の処だったね」「うん、そうだな」と思わず答えて仕舞った。「文化五年辰年だろう」なるほど文化五年辰年らしく思われた。「お前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」

ここからは平川さんの『破られた友情』からチェンバレンのハーンに対する非難とその経緯を考えてみたい。ハーンの描いた日本は果たして幻想であったのか、なかったのか。東京帝国大学の同僚で、親しい友人でもあったバジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)は、ジュネーヴに引退後の最晩年、「ハーンは神々の国を発見し、彼の『知られぬ日本の面影(日本瞥見記)』は日本を手放しで絶賛したが、その日本なるものは、実は彼が自分は見たと勝手に思いこんだところの日本にしか過ぎない」と『日本事物誌』の第六版のために新たに書き加えたのである。1934年、亡くなる前年のことだった。第五版までは、「ハーンは誰よりも深く日本を愛するがゆえに、今日の日本を誰よりも深く理解し、また他のいかなる著述家にもまして、読者に日本をより深く理解させる」と書いていた。手の平をかえすような辛辣な言葉を残したのである。実は、この主張にはハーン自身の言葉に裏付けられている部分がある。太田雄三さんは「チェンバレン試論」の中で、ハーンがチェンバレンに宛て、西洋を感じることの喜びと西洋の偉大さを讃える言葉を書いていること、『知られぬ日本の面影(日本瞥見記)』が日本についてよく知らなかった時代に書かれたもので全部間違いではなかったかというハーン自身の反省の言葉があることを指摘している(『世界の中のラフカディオ・ハーン』)。チェンバレンは、ハーンの描く世界が部分においては大変優れているが、体系化しうる視点がないとして彼の近視の片目をあげつらった。

平川祐弘『破られた友情 ハーンとチェバレンの日本理解』 鷗外や藤村、雨森らを扱った「日本回帰の軌跡」を収録。

しかし、作家なら自分の書いたものが全てダメだと思うことはよくある。僕などは自分の絵が全くクズ同然に思うことは、しばしばだし、また、正直言ってその逆の場合もある。ハーン自身の性格にアンビバレントな要素が多々あったことは事実のようだ。それにハーンの書き方自体が部分を寄せ集めて書くような執筆の仕方であったから、元来体系化しようとする意志はなかったろう。ついでに言えば、遠くを見る時、ハーンは筒型の望遠鏡でしげしげと眺めて観察していた。チェンバレンは日本語にも堪能な優れた英国人の研究者であったが、感覚的に優れた学者ではない。なにせ『源氏物語』の良さをアーサー・ウェイリーの英訳が出るまで全く気付いていなかった。紫式部の文章を、退屈な点では、17世紀フランスの長たらしいド・スキュデリーにも劣らないという他者の言葉を引用していたようである。ハーンは日本語にあまり理解がなかったし、英文学史を教えはしても自分が学者だという意識はなかったであろう。思うに、チェンバレンは作家と学者という立場の決定的な違いを際立たせたかったのではないだろうか。しかし、それは彼にもよく分かっていたことで、いまさら強調したのは何故かということになる。

「ハーンの愛した日本は今日の西洋化した俗悪な日本ではあり得なかった。彼が愛した日本は西洋化の汚れを知らぬ古代のまま日本、純粋なる日本であったが、そんな完璧な姿の日本は彼の空想以外には存するすべもなかった。日本政府もハーン同様に失望した。というのは日本政府がこの外人を雇ったのは、西洋の世論が日本の近代化の努力を好意的に評価してくれるよう、ハーンが文筆をもって宣伝してくれるだろうと信じたからである。ところがそれとは反対に、ハーンは日本の近代的な変革を罵ってやまなかった。彼が急死した時、事態はこのようなものだったのである。」ここには嘘と真実がないまぜにされている。ハーンが日本の近代化を惜しんで昔日の日本を描こうとしたけれど、少なくとも松江にはそのような世界がまだ豊かにあった。ハーンは日本を宣伝しようとはしたが、確かに西洋に発信したかったのは西洋世界にはない日本の精神性であった。だが、彼が東京帝国大学に招かれたのは、平川さんによれば、当時の文学部長、外山正一によって彼の英文の素晴らしさと海外での人気が認められたからである。招聘前に、すでに『知られぬ日本の面影(日本瞥見記)』は海外で出版されていた。解雇の理由は海外で学んだ日本人に帝大で授業をさせたいという大学側の意向があったからである。それが漱石だった。ハーンは翌年早稲田大学に移っている。

それなら実際にハーンの書いた文章が客観的なものであったか、なかったか。つまり、フィクション過多だったのかノンフィクションに近いものだったのかが問われることになるだろう。こんなハーンの手紙が残っている。「私は物語を勝手に拵えることはしません。私は物語を日本人の生活から拾います――新聞に出たそうしたものから材料を拾うのです。」この手紙からは新聞記者として活躍していたハーンの信条のようなものが読み取れる。この手紙は西田千太郎とともに終生の親友であった雨森信成(あめのもり のぶしげ)に宛てたもので、熊本時代に友人の少ない中で雨森にこのような手紙を書いているのである。「しかし、いまの私は学内政治の大好きな心の狭い書記に使われる下男みたいな立場です。ひどく孤立してしまったものだから、また英国人たちの間に戻りたくなりました。もちろん在日英国人には彼等一流の偏見やしきたりやがあることは承知していますが‥‥」一週27時間授業という重労働もあってハーンは熊本を離れ神戸クロニクルに移った。

ラフカディオ・ハーン
“Glimpses of unfamiliar Japan” 1895
『知られぬ日本の面影(日本瞥見記)』

そして、こうも書いている。「貴君にはもちろんお解りのことと思いますが、神道の社が外国人にどんな印象を与えるかという感じを西洋人読者に伝えることは難しいことです。しかし、その第一の難点にもまして難しい第二の難点がある。それは日本人が神社にお詣りしてどんな感じを受けるかということを伝えることです。」ハーンが『知られぬ日本の面影(日本瞥見記)』を書いている時には極めて肯定的な観点から日本を見ていた、その裏をかえせば、西洋にたいして否定的であったということなのである。我々日本人がその作品を読んだ時、それらの内容が民俗学的な正確さを持って取材されていて日本人にとって違和感がないものであり、日本の心を理解しようとする姿勢に貫かれていたことがよく分かる。いまだにハーンの文章が我々の心を打つ大きな要因になっているのである。彼が、日本の庶民の中にあって、その心を心として書いてみたいと考えていたことがよく分かる。観点に偏りはあるかもしれないが、フィクションと呼ぶべきものではけっしてないであろう。

平川さんの指摘では、ワーグナーの娘エヴァと結婚し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世にも気にいられていた弟、ヒューストン・チェンバレンが第一次大戦の時、敵国のドイツに帰化し、反英活動を起こしてイギリスの反逆者となったことで、イギリスからの自分への手紙も当局から検閲される事態が起こっている。それに弟の著書『十九世紀の基礎』は現代西洋の文明を築き上げたのはアーリア人種でその代表はドイツ人であると吹き上げたのである。これは後に不穏な影響力を持つことになる。チェンバレンは、かなり肩身の狭い思いを強いられようになった。いい気持ちはしていなかっただろう。そして、この1930年代、日本は満州事変によって露骨に大陸進出を目指し、日独防共協定が成立しようとしていた。もうハーンの描いた優しい日本ではなかったし、チェンバレンが懐かしむことのできる日本でもなかった。まだ、多くの友人や佐々木信綱らの教え子たちは日本にいる。その頃、ハーンの著作はフランスを中心に絶大な人気があった。ここからは、僕の推測になるのだけれど、チェンバレンは反日キャンペーンを行うのは心が痛かった。自分とハーンとの違いを暗に示した上で、ハーンのイメージと同時に、ハーンが描き出した日本の良きイメージを貶めたかったのではなかったろうか。

なるほど、彼が描いた日本は、急速に近代化されていた当時にあっては過去の日本に属していたかもしれない。しかし、それが幻想だというなら、歴史はすべて幻想になってしまう。彼の見た日本が幻想だったと断定することにはたして意味があったのだろうか。そして、チェンバレンのハーン批判の言葉「ハーンの一生は夢の連続で、それは悪夢に終わった。彼は、情熱のおもむくままに日本に帰化して、小泉八雲と名乗った。しかし、彼は夢から醒めると、間違ったことをしでかしたと悟った。」この言葉に平川さんは義憤を感じたようだ。これは事実無根である。少なくとも、一つだけ確実に幻想でないものがあった。家庭である。日本の女性によって心暖まる「家庭」が初めてもたらされたのである。それはハーンにとって生涯で唯一の家庭と呼べるものであった。これが悪夢であり得るはずはなかったからである。

岡倉天心を教えたアメリカ人、アーネスト・フェノロサは、ハーンとチェンバレン二人の違いをこのように評した。「『日本事物誌』は事実の羅列に過ぎぬ点でハーンの著述とはまさに正反対の場所に位置する。‥‥東洋の生活とその持つあらゆる高度な意味合いに対して冷笑的、無感覚、盲目的であり、異国の水準に対するイギリス人批評に洩れず、底意地が悪く自意識が強い。もし平俗的で分析的な眼に映ずるもののみが真実であるとすれば、詩は悉く虚言となるだろう。ハーンは夢想家であり、取るに足らぬ人生の些事をも愛し、かつ空想を馳せる人である。ハーンの感受性は絶妙なる音楽を楽しむ人のそれであり、その表現も絶妙なる音楽の如く微妙である。彼は霊的な事実を溶解し、沈殿せる実用性のみを見出す頭脳が、すでに生ける頭脳にあらざることに気づいているのだ。(山口静一『フェノロサ』下巻)」チェンバレンのハーン批判は、ものの見事に成功した。だが、幻想が悪夢に終わったのは日本だったのである。日本の評価とともにハーンの海外での評判も地に落ちた。

ここで翻(ひるがえ)って思うのは、何をもって幻想というのか我々自身にも問うてみなければならない問題かもしれないということなのだ。ハーンは「日本人の微笑」という章の中でこのように述べている。「しかし、日本の若い世代の諸君は、今のところ過去の日本を軽蔑している風があるけれども、かならずいつの日にかは自国の過去を、ちょうどわれわれ西洋人が古代ギリシアの文明を回顧するように、回顧する時がくるであろう。簡素な娯しみを楽しむ能力のあることを忘れたこと、人生の純粋な喜びに対する感性を失ったこと、昔ながらの自然との美しい神のような親しみを忘れたこと、それを反映している今は滅びたすばらしい芸術を忘れたこと、――この忘却をいつかは哀惜する日がくるであろう。昔の日本が、今よりもどんなに輝かしい、どんなに美しい世界に見えたかを日本はおもいだすであろう。古風な忍耐や自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情、――日本は嘆き悔やむものがたくさんあるだろう。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。おそらくそのなかで、日本が驚くのは古い神々の顔であろう。なぜなら、その微笑はかつては自分の微笑だったのだから。(『日本瞥見記』平井呈一 訳)」