平川祐弘『アーサー・ウェイリー』源氏物語の翻訳者 part1 物の怪

平川祐弘『アーサー・ウェイリー』

「日本の傑作‥‥驚嘆すべき美しさ‥‥この中に忘れ去られた一文明がありありと蘇る‥‥その完成度を凌駕するのはただ西洋の作家の中でも最大の作家のみであろう‥‥」と「タイムズ」の文芸付録は書評を書いた。また、その訳業はどのようなものであったのか、「イヴ二ング・スタンダード」紙は「美しさという点でも真実らしさという点でもただただ驚くばかり‥‥感情においても技法においても、極めてモダンである‥‥昨日書かれた作品だと言ってもおかしくない‥‥」。このようにして『源氏物語』は一朝にして西洋文芸の檜舞台に駆けあがることになるのである。今回は、その『源氏物語』を翻訳した男、アーサー・ウェイリーについて、平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さんの著作『アーサー・ウェイリー』からご紹介したいと思っている。平川さんの著作は、ラフカディオ・ハーンの『日本瞥見記』でも色々引用させていただいた。素晴らしい学者さんである。源氏物語の英訳は1925年から1933年まで続き、9年かけて6分冊で刊行された。ついには、このような書評まで登場したのである。「源氏物語を知ることは人生への喜びを加える点において、シェイクスピアであるとかジェイン・オースティンであるとかプルーストであるとかを知ることと同様である(レヴェッカ・ウェスト『デイリー・テレグラフ』)」

日本美術を愛し、その保存と宣伝に多大な功績のあったアーネスト・フェノロサ(1853-1908)は、狩野芳崖(かのう ほうがい)を高く評価し、自らも狩野派の絵師に学んだ。能にも興味を持ち、やがて梅若実に謡曲を習うようにもなる。まさに異文化を体得する外国人だった。それが契機となったのか、英文学者で翻訳家であった平田禿木(ひらた とくぼく)の協力を得て謡曲を英訳している。その原稿は、フェノロサ未亡人からエズラ・パウンドに渡され、彼が秘書として働いていたウィリアム・バトラー・イェイツに渡された。パウンドもイェイツも日本に来たことはなく、英訳された文学作品としての能に出会ったのである。

イェイツは、謡曲『錦木』の英訳に刺激されてアイルランドの伝説に取材した『鷹の井』を1915年に書いた。それが日本に逆輸入され、横道万里雄(よこみち まりお)によって謡曲にされ、上演された。イェイツもパウンドも日本語は分からなかった。それで、パウンドは大英博物館に勤務していた20代半ばの英国青年に質問してみたのだが、それが、アーサー・ウェイリーだった。独学で日本語や中国語などの言語をマスターしていた語学の才に長けた人だった。それで、興味を覚えたのかウェイリーは、やがて、吉田東伍編の『世阿弥十六部集』を参考にしながら謡曲の翻訳に取り組み始める。1921年”The Noh Play of Japan”が出版された。西洋に能がもたらされたのは、能の舞台によってではなく謡、つまり、その脚本によってであることは指摘しておきたい。この翻訳がどのようなものであったのか平川祐弘(ひろかわ すけひろ)さんの『謡曲の詩と西洋の詩』にかなり具体的に語られている。

平川祐弘『謡曲の詩と西洋の詩』

ウェイリーは、詩的な才能にも恵まれた繊細な感覚の持ち主だった。それが、翻訳にも反映されている。彼の訳は受け身なものでなく、主体的な創意や芸術的な配慮が加えられていて、その意味で再創造と言えるものであったという。平家に仕えた武将で、盲目となって日向に流された悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)のもとを娘の人丸が訪ねる物語である『景清』は、T.S.エリオットを感嘆させた名訳であり、室町時代の謡曲の原文をこのように美しく、分かりやすく蘇らせたことに感動を覚えたと平川さんは書いている。そして、彼の『能楽脚本集』には複式夢幻能を説明するために17世紀イギリスの劇作家ジョン・ウェブスターの作品を謡曲仕立てにしてみせるということさえやってのけているのである。

翻訳されたいくつかは、かなり思い切った編集がなされているものがある。金春禅鳳(こんぱる ぜんほう)作の『初雪』では、白い鶏が白い小鳥に変更され、それに伴って鳥屋(鳥を飼う小屋)から鳥籠に変えられている。全体にメーテルリンクの『青い鳥』のイメージに重ねられていて清新な感覚の作品となっているのである。作者不詳の『谷行(たにこう)』では、師阿闍梨(そつのあじゃり)という山伏の固有名詞が「先生」という普通名詞に変えられて、峰入りの行はハイキングやロック・クライミングに出かけるようなイメージに作りかえられている。日常のなにげない会話から始まった物語は、それに同行した生徒が病気になり、そうなった者は谷底に突き落とすという「宗教の仮借なき要求」によって読者をして戦慄せしめる結末となって終わる。「谷行」というのは石子詰という刑のことなのである。その余韻を深めるためにウェイリーは役(えん)の行者と伎楽鬼神が登場して若者を蘇生させる後半の霊験譚をカットした。そのドイツ語訳からヒントを得て作られたのがブレヒトの『イエスマン』であり、後に改作された『ノーマン』だったのである。

アーサー・ウェイリー(1889-1966)
レイチェル・ストレイチー画

アーサー・デイヴィッド・ウェイリーは1889年、イギリスは、ロンドンの南、タンブリッジウェルズに生まれた。父はユダヤ系の経済学者で、漸進的な社会主義を目指すフェビアン協会の会員でもあった。父方の姓はシュロスだったが、第一次大戦でドイツが敵国となったためにドイツ語のニュアンスの強い姓から、母方のウェイリー姓に改めている。イギリスでは余計な摩擦を防ぐためによくある配慮らしい。ルイス・キャロルやアーサー・ランサムらも学んだ名門パブリックスクールであるラグビー校に進学。ラテン語、ギリシア語、フランス語を学び語学の才を開花させた。ただ、同じコースをたどった兄のシジスモンドと比較されることが辛かったようだ。その兄は、後に大蔵次官となった。ラグビー校最後の一年は奨学金を得てドイツ・フランスに留学している。ケンブリッジ大学でギリシア・ラテンの古典語を学んで、1910年に卒業、その年に左目を失明した。原因がよく分かっていないらしい。スペインに一年遊学し、1912年に大英博物館に就職した。この頃から中国研究に入り、同時に日本人の漢学研究に深い関心を持ち始める。大英博物館では、東洋美術部門で働いていた。残念ながら同博物館の東洋図書目録編纂係として働いていた南方熊楠(みなかた くまぐす)は、1900年頃には帰国していたから二人が出会うことはなかった。出会っていたら、もっと面白いことになっていたかもしれかったのだが。そこでの仕事の必要性もあったのだろう、数年にわたり日中両国の言語を修得したのである。1930年に大英博物館を退職すると毎年最初の三ヵ月をアルプスで過ごし、四月はドイツやパリの学者を訪ね、残りはロンドンで仕事をする生活だった。スキーが趣味で90キロのスピードでアルプスを滑走していたらしい。

ウェイリー(1889-1966)は、日本学や支那学のフランス、ドイツ、英国の先輩の研究をチェックして、自分が東洋学の分野で西洋の学問世界の第一線に立てると自覚したと平川さんはいう。先に触れたようにパウンド(1885-1972)やエリオット(1888-1965)とも交際があったウェイリーの翻訳は、彼らの西洋近代詩の運動にもある種の影響を放った。それは日本で七五調や五七調の詩形を自由口語詩によって乗り越えようとしたように、英詩におけるヴィクトリア朝風の韻律をウェイリーの翻訳による新たな中国詩の韻律が打ち破ろうとしていたというのである。ウェイリーは中国詩を英訳することで英詩に新しいリズムを持ち込むことに成功した。それは森鷗外や上田敏らによって西洋詩が訳されて新体詩という新たな分野を日本人が得たのを連想させるけれど、実は日本人が漢詩に訓点を振ることによって漢詩を日本語詩として読み下した時の新境地と似ていると平川さんはいう。

彼が最初に本を出したのは、第一次大戦中の1916年で、”Chinese Poems”、という16頁の小冊子だった。ロジャー・フライのオメガ工房から出版された。エリオット、パウンド、イェイツ、レナード・ウルフらに贈呈されている。ウェイリーは後に白居易、つまり白楽天の伝記を書くのだが、そこには数多くの詩の英訳が掲載されていた。中国美術史家のマイケル・サリヴァンは病気で寝たきりの妻にその『白楽天』にある詩を朗読した。その時の妻の感想をウェイリーにこう告げた。「原詩よりも英訳の方がいいと思う」と。それに対して彼は、細い気難しい声で「奥さんが言いたかったのは僕の訳は誤訳だということさ」と笑いもせずに答えたという。その『白楽天』から一つご紹介しておこう。ウェイリーの英訳を花房英樹訳でどうぞ。

 

病める眼には世界は夜のように暗い
額にかかる髪は秋に似て枯れたすがた
衣と食――以前に必要だった多くのうち、
私のような者にはこれだけが残されている
君が易経に通じておられるのは知っているが、
もし「運命を見ようか」と問われるなら、
私は「否」と答えよう、君の腕を疑うのではない、
人間の世界には私の求める幸いがないのだ

(ウェイリー/花房英樹 訳『白楽天』より)

 

病眼 昏(くら)くして夜に似たり
衰髪 颯(さつ)として秋の如し
衣食を須(もち)いることを除却(じょきゃく)して
平生 百事休す
知る 君は易を善くする者なるを
我に問う 疑を決するや不(いな)やと
卜(ぼく)せざるは他の故に非ず
人間(じんかん)求る所無し

(白居易)

エズラ・パウンド(1885-1972)
詩人・音楽家

ウェイリーが謡曲の中で特に惹かれたのは『葵の上』だった。生霊の登場する物語である。ポール・クローデルは「劇、それは何事かの到来であり、能、それは何者かの到来である(『朝日の中の黒鳥』)」と指摘したけれど、何者かがやってくる。それが、「もののけ」即ち怨霊であった。折口信夫(おりぐち しのぶ)さんによれば霊魂を意味する「もの」と病気の義の「け」との熟語で「霊の病」のことであり、それを引き起こす凶悪な霊魂の意味となるという(『日本の創意』)。パウンドは、能には日本人の亡霊への心理のようなものが描かれていて素晴らしいと述べた。これはイェイツの神秘主義好みとも軌を一にしている。ウェイリーは『葵の上』を翻訳した時、夕顔が亡くなる時の情景を注にこう書いた。「突然女の姿が寝床の脇に現われて『見つけたわよ!』と叫んだ。『あなたの横で寝ているこの人は一体どこの誰なの? わたしの目の前でよくもぬけぬけとみせびらかしているわね』と言うと、その物の怪は寝床の上に身をかがめ、源氏の脇からその寝ている娘を引っ張っていこうとした。(平川祐弘 訳)」『源氏物語』の「夕顔」から翻訳しているのであるが、まるで最近のサイコドラマと言ってもいいような描かれ方をしている。その謡曲『葵の上』や『野宮(ののみや)』『半蔀(はじとみ)』などを彼は読み、その出典である『源氏物語』に遭遇した。夢中になったのである。こうして、ウェイリーの源氏物語の翻訳が始まった。

源氏は16歳になったころ、8歳年上である六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)という前皇太子の未亡人と懇(ねんご)ろになるが、その後、賀茂の祭りで正妻の葵の上とその六条御息所との車争いという事件が起こる。葵の上の車とやはりお忍びできていた六条御息所の車が場所とり争いとなって御息所の車が押しのけられ、壊されるという御息所にとって屈辱的な結果となった。こうしてドラマは始まったのである。ここで、その「葵」の巻からウェイリーの訳業を知っていただくために、紫式部の原文と現代語訳として定評のある与謝野晶子訳、そしてウェイリーの英訳を平川さんが和訳した文章を掲載しておきたい。上段は源氏と葵の上との対面の情景であり、下段は葵の上の口を借りて六条御息所が源氏に語る場面である。


「ものも聞こえたまはず泣き給へば、例(れい)はいと煩(わずらは)しうはづかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもり聞こえ給ふに、涙のこぼるゝさまを見給ふは、いかがあはれの浅からむ。(原文)」

「多くものが言われなかった。ただ泣くばかりである。平生は源氏に真正面から見られるととてもきまりわるそうにして、横へそらすその目でじっと良人を見上げているうちに涙がそこから流れて出るのであった。それを見て源氏が深い憐みを覚えたことはいうまでもない。(与謝野晶子 現代語訳)」

「源氏はもうなにもいえなかった。それでも葵の上は自分をじっと見つめている。その表情から、見なれた誇りを傷つけられた女としての侮蔑の色が消え失せていることが、涙を通して源氏に見えた。そこに浮かぶのは優しい辛抱強い思いやりの眼差しである。そして、源氏が泣くのを見るうちに葵の上の目にも涙があふれてきた。(ウェイリー/平川祐弘 訳)」


「いであらずや。身の上のいと苦しきを、暫(しば)し休めたまへと聞えむとてなむ。かく参り来むとも更に思わぬを、物思ふ人のたましひは、実(げ)にあくがるゝものになむありける(原文)」

「そうじゃありません。私は苦しくてなりませんからしばらく法力をゆるめていただきたいとあなたにお願いしようとしたのです。私はこんなふうにしてこちらへ出て来ようなどとは思わないのですが、物思いをする人の魂というものはほんとうに自分から離れて行くものなのです(与謝野晶子 現代語訳)」

「いえ、違うのです。このお祈りを少し止めてください。お祈りが私にはとても苦しくてたまりません。私はあなたがいらっしゃるとは思わなかった。私は私の魂があこがれ燃え尽きるまであなたを待っていました。(ウェイリー/平川祐弘 訳)」


ウェイリーは、主語を丁寧に補い、役職によって変わっていく名に統一を持たせ、間接話法を直接話法に直すなど工夫を重ねた。時に自分の頭の中に浮かび上がった情景を挿入することもあれば、平安貴族の洗練された男女交際の場面をある程度簡略化して英語圏の読者に分かりやすいように配慮することもあった。あるいは、原文に濃い隈取をつけて補足説明し、意味を明確にすることもあった。原作の登場人物の気持ちを損わない程度に、訳者と同じ時代、同じ国に生きる人の気持ちに沿うように訳していると平川さんは指摘している。

『能狂言絵巻』「葵の上」江戸時代 東京国立博物館

御息所の描写について「しばしば彼女は自分の全人格がなにか突然変化してしまったように感じた」とか「あたかも自分自身から隔たってしまったように」というように、人格(personality)とか自己疎外(estrange from oneself)を意味するような英語を用いたことによって『源氏物語』の心理学的な近代性を西洋の文芸評論家に云々させるきっかけを作ったと平川さんはみている。このような言葉の使い方がウェイリー訳の『源氏物語』を今日的なものにしているのである。

彼自身は『源氏物語』をグリムを含むカテゴリーよりはプルーストを含むカテゴリーに属すると確信していたという。紫式部が今日の小説家と同じく、物語中の事件そのものよりもその事件が登場人物の心理に及ぼす影響の方に関心を寄せていたというのである。このような作品こそ小説(novel)と呼ぶにふさわしく、それ以外の作品は(story)とか(romance)とかいう名前をつけるべきだという。そして、この紫式部の作品が「近代的」であることには別な理由があると指摘する。それは中世の仏教に、人間の人格は様々な多重の層から成り、その各層は勝手に動いて相互に衝突するかもしれないという認識や、人間の情念はきわめて強烈に存在しているかもしれないにもかかわらず、その情念が作用している当人はそのことに気づかずにいるとかいう今日のヨーロッパで流行りとなっている心理学上の観念がすでにあったからだというのである。こうした観念は古代の日本ではありふれたものだったと結論付けている。源氏が須磨へ都落ちの後、紫の上が源氏の「ぬぎ捨て給ふ御衣(おんぞ)の薫」に今は故人と果てた人を思うような激しい情感を経験する場面とプルーストの『失われた時を求めて』の第4編第二部の「心の間歇」にある「私」がブーツの紐をはずそうと指が最初のボタンに触れた時、突然湧き起る祖母の回想によって激しく体を震わせ、嗚咽する場面とをウェイリーは重ねていたのではないかと平川さんは考えているようだ。その心理学的な描写の卓抜さが物語の質を等しくしている。

文芸評論家・フランス文学者の寺田透は源氏物語を読むたびに、重要な出来事や登場人物が不意に現れることに戸惑いを覚えると『源氏物語一面』に書いている。例えば、六条の御息所は主要人物の一人だが、彼女でさえ、その紹介のされ方は「夕顔」の巻の始めに「六条わたりの御忍びありきのころ」といういとも簡単なものだった。それが、誰なのか、どんな女性なのか何も書かれていない。およそ、伏線ともいえない書き方だという。このような書き方では作品が構築的にならないのではないかと主張した。哲学者の和辻哲郎もそういう疑問を感じていたらしい(『源氏物語について』)。同じ理由で、この英訳に対して、小説と言うより偶発的な事件をリアリスティックに並列した回想録ではないのかという批評も出たようだ。それに対するウェイリーの反論が興味深い。

翻訳の第二分冊の序で、それは全くの誤解であると反論した。彼に言わせると日本から西洋に巻物が初めてもたらされた時も似たような印象を与えたと言う。さすがに、大英博物館の東洋美術部門で働いていただけある。当初、巻物は一連の物語ではなくて一連の地形的記録(topographical records)が偶然並べられただけのものと思われていた。物語が絵巻中に連続していることが西洋人に分らなかったというのである。ところが、その巻物の技法こそが紫式部の物語の技法を考える鍵になるというのだ。ここで、ちょっとお断りしておくのだが、現存する最古の『源氏物語絵巻』は紫式部がその物語を書いた時代より150年位あとのものなので、絵巻一般と考えていただいたほうがよいだろう。それはともかく、紫式部は、スタイルとテンポの感覚が抜群であり、作品全体を見通すと同時に各部においても始め、中ほど、終わりという構成を心得ており、その細部がそれぞれ独特の性格を持ち、それにふさわしい密度を与えることを承知していたというのである。彼女は、巻の始めやエピソードの頭に極度に彩色豊かで念入りな抒情的描写を入れることがあるが、その一節の重みで先に続く物語を支配してしまおうという意図があるのだというのである。彼女ほど作中人物の登場のさせ方に巧みな作家は世界でも珍しいという。「まず、人物の存在が仄めかされる。われわれの好奇心が高まる。その人物を一瞥する機会が与えられる。そして、さまざまな遣り取りがあった挙句、その人物の完全な登場が見られる」という分けなのである。

この巧みな技能と偉大な構成力は、後に日本の民俗学、国文学の泰斗である折口信夫さんも指摘しているところであるのだが、実はウェイリーと折口さんは、図らずも共通するある重大な特質を『源氏物語』の中に発見している。それは「紫式部の手法」と呼ぶべきものなのである。次回part2ではその「紫式部の手法」に迫りたいと思っている。