平川祐弘『アーサー・ウェイリー』源氏物語の翻訳者 part2 紫式部の手法

平川祐弘『アーサー・ウェイリー』

ウェイリーは、『枕草子』を四分の一訳して1928年に出版し、1949年には白居易の伝記『白楽天』を、1950年に『李白』を出版。晩年には清朝の詩人袁枚(えんばい)の詩日記ともいえる『袁枚』を出版している。中国の詩には詳しいと思われていたのは間違いない。彼は毛沢東の詩について感想を求められると、こう答えた。「毛沢東ですか。ヒトラーの絵よりもましですが、チャーチルのよりは出来はよくないようですね。」なるほどイギリス人のウィットである。思想家で外交官であった胡適は、ウェイリーの自宅に招かれた時、正装して行ったら普段着のシャツ姿の彼が小さなガス焜炉で質素な食事を用意してくれたのに驚いたが、会話はいきなり漢訳仏典のとある言葉の出典についてであったという。日本美術史家の矢代幸雄(やしろ ゆきお)は、ウェイリーのことを沈鬱な聴き取りにくい息を吸い込むような話し方をする遁世者のようにとっつきにくい人ではあるが、よく知れば実によい人だったと語っている。

私生活では、ベリル・ド・ゼーテという10歳年上の女性舞踏家をパートナーとしていたが、結婚はしなかった。彼女が40歳くらいの時に知り合っている。才能に恵まれていたが、良かれ悪しかれ常軌を逸した才媛だったらしい。彼女は、スペインの舞姫ラ・アルヘンチーナとも仲が良かった。アルヘンチーナは、『大野一雄 稽古の言葉』 舞踏―手の中の石蹴り遊びで御紹介したように、大野さんに決定的な影響を与えたスペイン舞踏家である。ベリルは、ハープシコードの名手であり大変な美人だったという。ウェイリー自身も非常に音感がすぐれていた。それに、特筆すべきは、ブルームズベリー・グループの周辺にいたことによって文化的な良き知人、友人に恵まれたことだ。オックスフォード街の北部に広がる大英博物館やロンドン大学などのある地区はブルームズベリーと呼ばれた。19世紀後半にアーツ・アンド・クラフツ運動が起こり、20世紀初頭には平和主義と左派自由主義を掲げる文化人サロンであるブルームズベリー・グループの拠点となった場所だという。この文化サークルには、小説家のヴァージニア・ウルフ、その姉で画家のヴァネッサ・ベル、画家で批評家のロジャー・フライ、伝記作家リットン・ストレイチー、経済学で著名なジョン・メイナード・ケインズらがいた。中でも、ヴァージニア・ウルフは『源氏物語』を高く評価していた。ここはとても、面白そうな所なのだけれど、いい本が見つかればいいなと思っている。

アリスン・ウェイリー
『ブルームズベリーの恋』

ハンチントン舞踏病に罹り晩年悲惨な境遇となったべリル・ド・ゼーテが亡くなった後のウェーリーを看取ったのは、彼より12歳年下でニュージ―ランド出身のアリスン・グラント・ロビンソンだった。一生独身だろうと思われていたウェイリーは亡くなる一ヶ月前に彼女と結婚している。このアリスンの著作『ブルームズベリーの恋』にはベリルとウェイリーと彼女の息詰まるような、甘味な、そして呪われた三角関係が描かれている。べリルは行く先々でトラブルを引き起こし、ついにウェイリーの住まいの上の階に移らざるを得なくなる。それは彼にとって地獄のような日々だった。突発的な発作とそれに伴う精神的な異常が起こった。part1でもご紹介したことだが、ウェイリーは謡曲『葵の上』を翻訳した時、その注におどろおどろしい物の怪が寝床の上に身をかがめ、源氏の脇から夕顔を引っ張っていこうとした姿をリアルに描いた。その時、自分の身の上にそのような状況が降りかかるとは想像もしていなかったろう。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が光源氏の恋人や妻に嫉妬し生霊、死霊となって憑りついたように、べリルはウェイリーの新しい恋人に嫉妬し、彼女の病が晩年の彼を困惑させ疲弊させ狼狽させた。べリルが亡くなった4年後の1966年、彼とアリスンは結婚し、その一月後にウェイリーは亡くなったのである。76歳だった。

Arthur Waley  “The Noh Plays of Japan “

平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さんの『アーサー・ウェイリー』に戻ろう。ウェイリーは大英博物館に勤めていた頃、その職業柄、鑑定を頼まれることが多かった。中国のものでなく、日本のものとわかると一様にがっかりする英国上流階級の反応と偏見に違和感を覚えたという。平川さんは、その理由として中国人の中華思想と日本の漢学者の中国崇拝に由来する中国中心主義に原因があり、イギリスの支那学者や日本学者がそれを支持していたからだと見ている。ウェイリーは「自分は中国の日本に対する影響を否定するものではないが、それはギリシアのローマに対する影響を否定しないのと同じである」と穏やかに述べたのである。 “The Noh Plays of Japan “で謡曲を訳した時、イントロダクションの結びにこう書いた。日本でなにか文化大変動が起こり、能楽関係者が一掃され、能が上演されなくなっても文学として能楽脚本は必ず生きのびるだろう。そして、もし自分がこれらの謡曲翻訳を芸術作品に作りあげられなかったなら、翻訳が単なる言語学的な仕事で終わったことになるだろうと。これに対して、和歌には比較的冷淡であったという人もいる。

ウェイリー版 源氏物語』を日本語訳した佐復英樹 (さまた ひでき)さんによると、ウェイリーは形式的で技巧的な挨拶として贈呈された歌に芸術的な価値を認めていなかったから歌の詞書は訳しても歌自体をカットすることも多かったという(『訳者から4』)。それに、和歌は原語で読まなければ味わいは分からないと主張するウェイリーであった。そもそも和歌は、折口信夫さんも言うようにどのようにでも解釈できるように出来ていたし、特に物語歌の場合、文章と和歌の成立時期が一致しない場合が多いから尚更解釈しにくいと言う(『物語歌』)。後に結婚したアリスンには印象的な和歌の英訳を送ったりもしているし、和歌の英訳もかなり残してはいる。その一つの例をお読みいただきたいと思う。『万葉集』の『浦島の子』の出だしを掲載しておきたい。ラフカディオ・ハーンが縁側に出て日本語でよくそらんじていた歌だ。原書ではべリル・ド・ゼーテ訳となっているが、それはありえないと平川さんはいう。

One day in spring
Watching upon a tall cliff all alone
I saw the fishing boats rocking and rocking
Down in the misty bay, and to my mind there came
This tale of long ago.

春の日の
霞める空に
住の江の岸に出でゐて
釣り船の通らふ見れば
古(いにしえ)の事ぞ思ほゆる

謡曲の翻訳から『源氏物語』へと興味が移っていったことはpart1で述べたので、ここでは繰り返さない。『源氏物語』をひとたび読み始めると紫式部の天才に魅了された。ロンドンからモントールに着くまで、どのようにドーヴァーの連絡船に乗ったのか、フランスの列車をどのように乗り継いだのか読むことに夢中で、その間の記憶が全くなかったという。

『ウェイリー版 源氏物語』 紫式部 
アーサー・ウェイリー 英語訳
佐復英樹 日本語訳

源氏は自分を取り巻く状況が悪くなる一方であることに不安を覚えて、田舎の須磨へ蟄居することを望んだ。「須磨」の巻の終わりの部分である。うらうらと凪いだ水面を見ながら来しかたを思い、どうなるかもわからない行く末を思い続けていた。自分の無実を八百万の神に訴えるのであるが、 禊(みそぎ)に出た源氏に笠も間に合わないほど急に激しい雨が降り始め、波は激しく立ち上がって、海は光に満ち、雷がとどろき、今にも落ちかかりそうになる。そして、その暁に妙な夢を源氏は見る。正体の知れない者が現れ、「宮に召されているのになぜ参らぬか」という。これは竜王にでも見込まれたかと須磨で暮らすことに恐怖を覚えるようになった。「明石」の巻に入ってもこの雷鳴の描写は続き、ついに落雷によって源氏の仮住まいは焼けてしまう。その夜、亡き父帝が現れてこう語った。これは、ただおまえが受けるちょっとした報いにすぎないのだ。帝に申し上げることがあるので、京へ行くと語って消えるのであった。翌朝、明石の浦から前播磨守(さきのはりまのかみ)入道が船で訪ねて来た。明石の君の父親である。

part1では、『源氏物語』の心理学的な描写が当時のフロイトなどの学説とあいまって極めて近代的なイメージをその翻訳に与えたことを述べた。ウェイリーは西洋の小説家は登場人物をキャンヴァスの上になんの合図もなく平気で投げ出すという。今から描かれる人物の登場を読者がどう値踏みするかとか、その注意をひき得るかどうかの斟酌と言ったものがない。西洋の読者層は、芸術の楽しみより知識の楽しみの方に興味を持つからそうなったのだと言うのだ。今日の読者は、今まで知らなかった人間生活の断層が示されれば、いかに拙劣に描かれようとおかまいなしであるという。ウェイリーはリアリズム文学を好まないと平川さんは述べている。しかし、それにもかかわらず『源氏物語』が、あのようにリアルなのは何故か。紫式部の作り出したあのリアリティーは一体どのようにして生まれたのか。

ウェイリーは、それに対して『源氏物語』の第二分冊のイントロダクションでこう答えた。近代の小説は細部の観察の蓄積によってリアリティーの感覚を与えようとする。しかし、紫式部は作中人物の性格形成を地道に行った作家ではないという。登場人物の多くは、ある人間の特徴の一面を表現しているに過ぎない。源氏の父親である桐壷帝は安易な人物を、葵の上はプライドの権化を、朧月夜は軽率な女性を、それぞれ体現させているだけだ。平川さんは一つの例を挙げる。一連の事件が起こってもおかしくない話だと読者に感じさせるあの迫真の感覚は、以下のように形成されるのである。

『源氏物語絵巻』(伝 藤原隆能 筆) 「鈴虫」  平安時代 
柱を背に座る源氏と向かい合う冷泉院。
源氏の弟である冷泉院は、源氏と藤壺の宮との間に生まれた不義の子であった。

雨夜の品定めで、頭中将(とうのちゅうじょう)らとの女性問題に関する話の中で、源氏は心のうちに「人ひとりの御有様を心の中に思ひ続け」ている。その女性が比類ないことを思えば「いとゞ心塞(ふた)がる」。このような思いをさせる女性とは誰なのか。そこに、何となく深刻な結果を引き起こすような関係があることが暗示される。そして、「若紫」の巻で父の夫人であった藤壺の宮が「あさましかりしを思(おぼ)し出づるだに」と悔悟の情を述べるに及んで、読者は半ば意識下に生じていた予感を意識させられることになるのである。その時の文章もぐらぐら揺れるのだと平川さんは指摘する。「宮もあさましかりしを思し出づるだに、世と共の御物思ひなるを、さてだにやみなむと深うおぼしたるに、いと心憂(う)くて、いみじき御気色なるものから、懐かしうろうたげに、さりとてうちとげず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの‥‥。」藤壺の宮は、これで終わりにしたいと深く思う。しかし本心は、やはりつらい。だが、そんな姿の宮は優しく、いじらしく、素晴らしい。でも、源氏に馴れ馴れしくはしない‥‥文章はつづら折りの道を降りていくのである。やがて、源氏との道ならぬ恋によって懐妊が告げられ、読者は息を飲む。そのような藤壺の宮の姿が次第に判然としてくる描き方も紫式部の意図的な手法だとウェイリーは観察した。

彼は、この作者の本質的な特色は一連のコントラストのある効果で語りの全てを繋ぎ合わせる手法そのものにあるという。西洋のフィクションにはこれに似たものがおよそ見当たらないというのだ。僕はここで、清少納言の『枕草子』の語り口を思い出したのだが、それはまたの機会にご紹介するつもりである。紫式部のそれは、西洋では既に絶滅してしまった種類の語りの才能に由来しているのだとウェイリーは考えていた。いささか敷衍して言えば、最も適切な言葉を最も効果的な順に最も適切な場所に配置する能力であり、その全ての要素がやがて一つの焦点を結ぶように関係づけられ、物語の展開によっていくつもの焦点が絵巻のように連続しながら絡み合うのである。そのような語り方なのだ。ウェイリーは、紫式部の文章構成が古典的で、エレガントで釣り合いがとれ、抑制が効いていると述べ。西洋では小説と言うものが昔からゴテゴテしていて徹底的にゴシックであり、ゴシックであり続けたと言うのである。レディー紫が細かく吟味し、取り入れた一連の要素は、さながら音楽のような効果をもたらすという。それは、モーツァルトの交響曲の各楽章さながらであるとウェイリーは言うのである。紫式部とモーツァルト‥‥

折口信夫全集 第15巻 1996年刊
『日本の創意』『人間としての光源氏』を収録

平川さんの『アーサー・ウェイリー』から離れるのであるが、ここで、折口信夫(おりぐち しのぶ)さんの指摘とウェイリーの説とを重ねてみたい。驚くべきことだが、ウェイリー説を補完しているように僕には思えるのである。折口信夫全集の15巻にある『日本の創意』からご紹介してみよう。1944年の文章である。中世では「物の怪」つまり、霊の病があたかも個人に、家族に、ある系統の家筋にと、その人の死に際(ぎわ)の怨念の浅い深いによって、広くも狭くも伝わると信じられていた。それが段々とはなはだしい社会病となるに至って壮大な修法が必要になってくる。その情景が「葵」の巻に書かれていることなのであるという。次の世に武士が登場してしばらくこの病も薄らぐのだが、この憂鬱な社会病が、貴族社会の遺産の如く遺伝し、底どまりするように見えなかった。だから当然大きな興味にもなり、小説の第二・第三の主題にもなったと折口さんは言う。こういう社会病を中心として、一門一族の歴史的系譜を描こうとしたのが、この物語であったいう風にすら見える。もし、そう描いたとしても、立派な作品にはなったであろう。源氏物語は、そう言う多くの背景を持つ社会の上に、個人と家族、そして、それらの偶然の巡り合いが、描かれていると述べているのだ。当時、物の怪の存在は一般に広く信じられていて、その怨念にまつわる道徳的な深い反省があり、それを読む人に催すという点で極めて小説的な素材であった。そして、意識の外側で思わず他人に憑くという不可抗力な運命が人間を動かす、そんな近代小説としての価値も持ち得た。そして、宮廷文学としての『源氏物語』は宮廷生活からほとんど出ていないが、その具象性と現実性の豊かさは民族性であろうと言う。ここまでは、part1 物の怪でご紹介したことに関連している。

光源氏のモデルが藤原道長だったとか源高明(みなもとのたかあきら)だったとか言われるのだが、折口さんは、この物語の真の主題について意外なことを述べる。神の前身が人であり、人間として生を得て、やがて流離・困憊(こんぱい)の極を味わい、あるいは死の解脱によってはじめて転生して神となることができるという古代以来の信仰、そのような例に、貴族の少年が流浪の旅の途中で死ぬ物語、比叡山の山王権現の愛護(あいご)の若の物語がある。その神となる途上において人に見出され扶養されて偉大な力を発揮し、あるいはその手にかかって死ぬ。そうすることによって完全な神性を得るという神出生譚、それが「光る君」である光源氏というイメージの根底にあったというのである。帝の王子として生まれ、青年期の色々の過失の報いとして須磨に謹慎し、風雨や雷や火災に脅かされる苦しみの果てに都に帰還し、栄華を極める。それは、日本小説史の上で数多く現われるテーマの最も顕著な例であるというのだ。そして、紫の上は源氏の理想の女性「かがやく藤壷」に酷似した幼女であり、これを養育して成人に達するのを待って妻とするという類例のない恋が始まるという。神聖な女性を養い、成長して神格の完成を待つという、日本における「神を養う物語」の型の一つであるという。それは、天女の羽衣伝説で知られる丹後風土記の「奈具社(なぐのやしろ)の姫神」や竹取物語の「かぐや姫」の信仰と同じ流れであったという。

われわれの祖先が一つの文化として小説を持ったのは極めて古いことであって、初め、それらは伝承者の語る「小」の「説」であった。そうした伝承を世襲とする職業が二つの方向に分岐していった。一つは律文形式の叙事詩を散文に変えて大衆化していったもの。もう一つは伝承技術の衰退を嘆いて、内容的には原型に近く、しかも近代的な内容を盛り込んでいったものである。伝承技術者から直ちに小説家として飛躍していったと折口さんは述べている。文献としてあらわれる頃の我が国の小説の作者は、後者の流れの中にあると思われるのである。『源氏物語』の作者もそのような系譜の上にいる。

もし、文章の技能があれほど巧みでなく構成があれほど壮大でなければ、この『源氏物語』も伝統の叙事詩を語り手の口から直接記録したものと考えただろうと折口さんは書いている。絵巻物の中に描かれた吹抜屋台のような巨大な構築物の中を律文形式の流麗な語りが滔々と流れていく。だが、その根底には神出生譚の古来からの物語が厳然と横たわっているのであった。『源氏物語』には階層構造があり、同時に口承文学としての音楽性を合わせ持っているのである。「西洋では既に絶滅してしまった種類の語りの才能」とは、このことであろう。ウェイリーのいう「一連のコントラストのある効果で語りの全てを繋ぎ合わせる手法」のベースには日本の叙事詩の語りの伝統が存在していた。「この特殊な文体は、読みなれれば、なれて直に流れ入るようにうなづける気分を持って書かれている」と折口さんは書いている(『伝統・小説・愛情』)。そこにきめ細かな構成と描写を絡めて、光源氏を中心とした人々の「反省の文学」を築き上げていったのである。日本の民俗学、国文学の泰斗の説と慧眼のイギリス人文学者の意見が出会う所、ここに「紫式部の手法」の秘密が存在するのであった。『源氏物語』の作者複数説については今は置いておく。ついでに言えば、物語とは、ただ、話しているだけのものではなくて、何かある霊魂(もの)が人に憑いて一つの節のある文句をあとからあとから語って聞かせていたものだったと折口さんは書いている(『人間としての光源氏』)。

さて、最後になって恐縮だけれど、著者の平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さんをご紹介して終わろう。平川さんは1931年東京で生まれている。東京大学でフランス語を学び、大学院で比較文化学を学んだ。フランスとイタリアに留学。1974年に文学博士となっておられる。東京大学やパリ第七大学などで教鞭を執られた。僕は、比較文学とか比較文化学なるものに、この平川さんの著書で初めて触れたのだけれど、古今東西を縦横無尽に駆け巡る視点は素晴らしいと思う。このところしばらく、知的興奮というものを味あわせていただいたし、眼からうろこを何枚も落としていただいた。平川さんには『和魂洋才の系譜 – 内と外からの明治日本』、『夏目漱石 非西洋の苦闘』』『マッテオ・リッチ伝』『破られた友情 ハーンとチェンバレンの日本理解』などの多数の著書があり、訳書に『ダンテ 神曲 完全版』やヴァザーリの『ルネサンス画人伝』などがある。 もう一国単位のナショナリズムで文学を考えるべきではないと平川さんは書いている。近代日本語芸術作品という大枠で捉えた時、翻訳作品も創作作品と同様に考えるべきだろうと。そうした時に、森鷗外の『即興詩人』や上田敏の『海潮音』が翻訳ではなく、日本語作品としての視野に入ってくるという。同様に、ウェイリーの翻訳が20世紀の英文学の傑作として考えられてもよいのではないだろうか。ともあれ、そのような優れた翻訳によって、私たちは源氏物語のような自国の作品に対して別の角度からの一瞥を与えられるのである。