武満徹 『音、沈黙と測りあえるほどに』 part1 「生」にツラナル音

『武満徹著作集1』
「音、沈黙と測りあえるほどに」「樹の鏡、草原の鏡」収録

白居易(白楽天)には『琵琶行』という有名な詩があった。それが白と琵琶とを結びつける。彼は828年か829年のいずれかの年に、長安でサマルカンドの氏族の子孫であった曹剛(そうごう)の演奏を聴き感銘を受けた。そして、この楽器の多様な音を褒め称えた。その琵琶演奏者は――戦場のざわめき、水のほとばしり、風の溜息など、――自然の音を写そうと非常に努力した。それに、曹剛は、様々な種類の外国語が話される声音を琵琶で真似することさえできた。(アーサー・ウェイリー『白楽天』)

「私は――言葉に限らず自身の音楽について考えるのだが――concreteな音を手にすることこそ大事だと思う。それは<沈黙>と測りあえるほどに、強い少ない音であるべきなのである。」(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)

武満徹(たけみつ とおる/1930-1996)さんの音楽を理解するための鍵になるとても大切な言葉なのであるが、筑前琵琶の名手、平田旭舟(ひらた きょくしゅう)さんの演奏を契機に書かれた文章であった。自分の声は、義太夫風の低音であるため筑前琵琶の華美なつやをもつ節回しには不向きで、他の人より一層心で唱わなければならない。この平田さんのさりげない言葉、そこに秘められた意味の重さを思い知ったのは演奏を聞いた後だった。武満さんは、発音という言葉に声を出すという生理的な意味を超えた<生>を象徴する記号として用いる場合もあるという。邦楽の因習的とも言える狭い不自由な世界では、撥(ばち)で音を発することだけが自由である。一方、この時の発音とは、古老の芸に時折感ずるような、なまめいたつやをさえ指している。個人的な息から出発しながら、それは自我を超えた<生>の脈絡にツラナル自在さであると書いている。邦楽の厳しい訓練とは、ただ技巧のためだけではなく自分の呼吸を大きな自然の<生>に合致させんがためのそれであるというのだ。だが、この自由さに連なる感動は、白楽天が曹剛(そうごう)の演奏に感動した自然の音や声音を完璧に模倣しうる音楽とは別の種類のものであった。そして、こんな言葉がある。

薩摩琵琶 19世紀
Musical Instrument Museum (MIM)

琵琶の一撥(いちばち)や尺八の一吹きによって起こる出来事は、論理を乗せて運ぶためにはあまりにも複雑すぎる。すでに一音として完結しているからだ。その完結した音は、複雑な音響の質を持つゆえに、ある緊張した無音の形而上的持続を生み出したと武満さんはいう。洗練されたそのような音を聞いた我々の祖先は、この複雑な一音に拮抗するような<間>を認識していた。音は、けっして無音の<間>にたいして優越しているわけではない。<間>を生かすということは、逆に無数の音を生かすことであるという。音は演奏を通して人称を超えた無名の地点へと向かう。武満さんの日本の伝統音楽に対する見方は、このような文章となって、その著作に散見されるのである。それでは、西欧音楽を含めた時に、この<沈黙と測りあえるほどの音>とはどのようなものだと考えればよいのだろうか。

「音を具体的な物質性を具えたものとして捉える。これは至極あたりまえのことのようですが、日本の西洋音楽では未だその固有の貌を顕さない。そして、反対に、伝統的な邦楽の音から固有の質感は失われようとしている。‥‥鳥の啼声を自然の環境の中で聞くときには、人間は他の自然の音(雑音)をも、鳥の声と同じ価値のものとして聞いてしまう。自然の環境のなかでは自然の雑音は聴く行為を妨げるものではない。むしろ、無数の響きあう音たちが聴く行為を助けている。‥‥数多くの聴覚的焦点を設定すること、これは作曲という行為の(客観的な)側面であり、また無数の音たちのなかに一つの声を聴こうとするのは、そのもう一つの側面である。(『ノヴェンバー・ステップス』「作曲中のノートより」)武満さんにとって音は物質性を備えたものでなければならなかった。それは現実に演奏家によって演奏されるconcreteな音という意味も勿論あるだろう。電子的な音を武満さんは好まなかったのもこういうところに原因があると思われる。だが、自然の中にあって無数の雑音と言ってもよいような音に支えられた鳥の声、そのような音こそ洋の東西に関わらず物質性を備えた具体性を持つ音と言ってよいのではないか。

『武満徹著作集4』
「音・ことば・人間」
川田順造・武満徹 往復書簡集
「オペラをつくる」
大江健三郎との対談

そして、川田順造・武満徹往復書簡『音・言葉・人間』の中で語られたこの言葉に繋げてみよう。音は大気とその広がり、湿度、天候の条件などによって、その様相を変える。音を知覚するのは、音の強さや長さ、また、高低にもよるが、実はそれらのすべてを要因として而もそれだけではない音の性質――「音色」によってであろうと武満さんはいう。この音色という概念を正確に把握するのは大変難しい。物理的に規定するのは容易だが、その風土や時代の中で芳醇化していくその膚ざわりを言葉で表現することができない。日本人は音色に対して豊かな感受性を具えた民族であり、「さわり」というような美的な観念を生み出したのはそういう理由によるというのである。琵琶には、棹に微妙に触れる糸があって、それによって出るざわつくような音のことを指している。音色を感じるのは、音の内部のinner sound に継起する運動を知覚することだと思うという。普通は、音のスペクトルとして物理的な倍音構造で説明されるものである。しかし、音色は、音の移ろいゆく姿を聴くことのうちに立ち顕れるものであって、実は、絵巻物の空間把握と大変近く、そこに、余白、間というものが出現するというのである。

前回の平川祐弘『アーサー・ウェイリー』源氏物語の翻訳者を読んで下さった方にはこの一連の引用が何を意味するか、もう分かっていただけたのではないだろうか。ウェイリーは、『源氏物語』の作者である紫式部の手法を解く鍵は絵巻物にあると感じていた。そして、彼も折口信夫さんもこの『源氏物語』を律文形式の口承文学の流れの中にある音楽性を認識したのである。一度、絵巻物と語りと音との関係について、しっかり考えなければならないと僕は思っている。今回は、問題提起だけに止めておきたい。それはともかく、武満さんのいう私の小さな個性など気にならないような「沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音」とは何か、今回は、それを考えてみたい。それは、武満徹が音楽の中に求めてきた音なのである。

武満さんが琵琶を使って作曲した作品は、NHKの番組『日本の紋様』でのテープ音楽に邦楽器が使われた時に端を発するようだ。この作品はデザインのすぐれた家紋をコマ撮りし、邦楽器から得た音を変形加工した音楽に合わせて動かすというものだった。その琵琶を使った音楽は、1962年制作映画『切腹』(小林正樹監督)の映画音楽としてかなり実験的に使われることになる。やがて武満さんの代表作の一つ『ノヴェンバー・ステップス』へと発展していくのである。尺八と琵琶をオーケストラと共演させるという画期的な曲だった。その曲のニューヨークフィルとの最初のリハーサルでの模様が『遠い呼び声の彼方へ』の中で語られている。

武満 徹『遠い呼び声の彼方へ』

「私は何度かその作曲を断念しようかと思いました。ふたつの異なるものを恰もひとつのもののようにブレンドすることは、私には途方もない企てに思え、また、そのことに幾らかの疑いをもったのです。結局、私はそのふたつのことなるものの特質を際立てるようなやりかたで何とか首尾をつけたのです。‥‥ことに最初のリハーサルで‥‥そのふたりの日本楽器の演奏家たちが演奏しはじめると、その途端にオーケストラの多くの音楽家たちが笑い出して、あるひとはステージを駆け下りて笑いだし、リハーサルは中断しました。実際のところこれは私にはショックで泣き出したいほどでした。私は思いあまってセイジ(小澤征爾)に、この演奏をキャンセルしたいと申し出たのです。」続けて、武満さんはこう述べる。今日では尺八や琵琶の音を聞いて笑う人はいない。それらの演奏をはじめて耳にして笑うことは、かならずしも不真面目なことではないと今では言いうるようになった。というのは、異なる文化の交流としては、私たちの思いを超越するような遭遇のほうが、予期しえぬ深さと拡がりをもつだろうと思うからだという。私たち人類は、バックミンスター・フラーが言ったように現在普遍的な卵(ユニヴァーサル・エッグ)というべきものを生み落とそうとしているのだと思うと結んでいる。(『遠い呼び声の彼方へ』「普遍的な卵」)」フラーについては、またいつか、ご紹介しよう。

このあいだ、詩人の豊田和司さんが、僕の職場にやって来て、立花隆(たちばな たかし)さんの『武満徹・音楽創造への旅』をドサッと置いて行った。781ページ、二段組の本である。最近、豊田さんの処女詩集『あんぱん』が刊行された。僕も本のカヴァーデザインをお手伝いさせてもらったのでいささか関わりがある。その豊田さんにとって、立花さんが書くこれら青春の彷徨を描いた作品には特別に興味があったのだろう。大部だが、タイトによくまとめられている。武満さんには多くの著書があり、その中の『音、沈黙と測りあえるほどに』や『樹の鏡、草原の鏡』を中心に、伝記に関わる部分はこの立花さんの本からも適宜引用したいと考えている。

立花隆『武満徹・音楽創造への旅』

武満徹(たけみつ とおる)は、1930年東京に生まれる。その時、父は保険会社に勤めていて満州の大連に赴任中であった。生後一か月で母と共に満州の父のもとに移る。6歳まで大連で育ち、1937年から単身東京に戻り伯父の家に住んだ。内地の小学校に行きたいという本人の希望があったようだ。翌年父親が病死している。父は多趣味の人で、特にデキシーランド・ジャズが好きだった。武満さんも子供のころにその音楽が刷りこまれたらしい。母親は父親が勤めていた会社で働き、一人で子供三人を育てた。自分が音楽をしたいと言ったら、束縛はしなかったが、家を出て自立しなさいと言われたという。

音楽との決定的な出会いは、戦時中、勤労動員に駆り出された埼玉県の飯能(はんのう)で聴いた一枚のレコードだった。武満さんは長らくジョセフィン・ベーカーだと思っていたけれど、リュシェンヌ・ボワイエが歌う『パルレ・モア・ダムール(聞かせてよ愛の言葉を)』というシャンソンだった。見習い士官の一人が夜、こっそり聞かせてくれた歌で、これが最初の感動的な音楽との出会いだった。戦争が終わったら音楽をやろうと心に決めた。14歳だった。1948年、18歳の時に作曲家の清瀬保二(きよせ やすじ)に弟子入りする。その頃は、独自のペンタトニックを使った曲を作りたいと望んでいた。初めからドレミファソラシドの平均律では音楽が書けないと感じていたという。しかし、民族主義的な傾向に馴染めず、4年後には清瀬から離れることになる。そのころ並行して早坂文雄(はやさか ふみお)の所に通っていた。30代半ばの兄貴分のような人だったという。この人は中学生の時に母を亡くし、父は出奔してしまったために二人の弟妹を育てながら独学で音楽を学んだ。道を歩いていてピアノの音が聞こえると、頼み込んで弾かせてもらったという武満さんと同じエピソードを持つ人だった。黒澤映画の音楽を担当していた人で武満さんも映画音楽の仕事を手伝いながらオーケストラの勉強をさせてもらうようになった。特筆すべきは、早坂さんには線の音楽というコンセプトがあって、西洋絵画のようにマッスによって量感を表現するのではなく、日本画のように自然を抽象して音楽を線で表現したいと考えていたという。

武満 徹(1930-1996)

ミュージック・コンクレート

「1948年のある日、混雑した地下鉄の狭い車内で、調律された楽音のなかに騒音をもちこむことを着想した。もう少し正確に書くと、作曲するということは、われわれをとりまく世界を貫いている《音の河》に、いかに意味づける(シニフィエする)か、ということだと気づいた。(『音、沈黙と測りあえるほどに』「ぼくの方法」)」

この年フランスのピエール・シェフェールという音楽家が同じような着想でミュージック・コンクレートという方法を発明している。その音楽は、日常の無数の雑音という具体的な音の中から作曲者が必要によって音を選び出して音楽をつくっていく試みである。そのような武満作品『ルリエフ・スタティク』は、1955年に「八百屋お七」をテーマにしたラジオドラマ『炎』の音楽を再編集したものだった。例えば、風の音という具体音の波形を電気的にいじってどんどん変えてテープに録音していくもので、自然音が効果音のようになり、やがて一種の音楽のようになっていく作品である。しかし、テープを重ねて行く過程でノイズが多くなりすぎて、やがてこの手法は使われなくなる。この作品は海外でも注目され、その音源はコピーされ、武満徹の存在は海外でもかなり知られるようになったという。1956年山葉ホールで実験工房主催の演奏会「ミュージックコンクレート、電子音楽のオーディション」で発表された。実験工房とは、シュルレアリスムの詩人として活躍した瀧口修造(たきぐち しゅうぞう)の下に様々な分野の前衛的なアーティストが集まって結成された芸術グループで、1951年から1957年まで活動した日本の戦後を代表するアーティスト集団の一つだ。瀧口さんは武満さんを養子にしたいと望んでいたらしいが、武満さんは瀧口さんに甘えてしまうことを恐れた。そのため、その希望は叶わなかったのである。

武満さんは、1953年から1954年まで肺結核で入院していた。両方の肺に空洞があり、血痰はしょっちゅうで時に喀血もあったという。よくここまでほっておけたという状態だったらしい。退院後も容体はあまり変化しなかった。結局、劇的に症状が改善するのは新薬が開発されてからの1958年からだったようだ。この作品が作られていた頃は、まだ病気がかなりひどい時期で、映画やドラマ、それに自身の作曲は無理な徹夜を重ねては、しばらく寝込むというようなことが繰り返されていた。貧困と病の二重苦だったのである。その青春は死に付き纏われていた。ちょうどミュージック・コンクレートに没頭していた頃、武満さんの名を高めることになった『弦楽のためのレクイエム』が書かれる。1957年に発表されたこの曲は、亡くなった音楽の師である早坂さんのためのレクイエム(鎮魂歌)であったと同時に、早坂さんと同じ病であった自らへのレクイエムでもあったのである。

武満徹CD『ノヴェンバー・ステップス』『弦楽のためのレクイエム』他
若杉弘指揮 東京都交響楽団

『弦楽のためのレクイエム』

この曲(弦楽のためのレクイエム)では、”拍”に対する観念が西欧のそれとはまったく異なっています。いうなればOne by One(ひとつずつ)のリズムのうえに曲は構成されています。はじまりもおわりもさだかではない。人間とこの世界をつらぬいている音の河の流れの或る部分を偶然にとりだしたものだといったら、この作品の性格を端的にあかしたことになります。(武満徹『曲目解説(1957年日比谷公会堂における初演)』/『武満徹・音楽創造への旅』より)

1955年から56年にかけて作曲されたこの作品は、一日わずか一、二小節を音楽というものをどう書き表すかの術も理解せぬままに、病床から限られた時間をピアノに向かっていたという。その頃は、妻が運ぶ匙から食事を摂るような状況の中で作曲されていた。この時、作曲することはまさに生きることであったのである。1954年に劇団四季の女優であった若山浅香さんと結婚した。この作品は、1955年にその四季の『野生の女』のために書いた作品のモチーフを発展させたものであるという。トランペットのための曲だった。始めと終わりが明確にあって、二つの主題の対立による展開という西欧の伝統的なソナタ形式を意識的に拒否し、中心から波紋のように遠心的に拡大し、痙攣的な形態や水泡が突然あらわれて、絶えずその中心に回帰しようとする、一種の変奏曲のような方法をとったという。拍はめまぐるしく変化して従来の音楽の感覚では拍の破壊に等しいといえるようなものだった。武満さんは、倍音が綺麗にのった明るいストーンと抜けるような西洋音楽のオーケストラの響を嫌った。金管には、わざと鳴りにくい所を吹かせ、弦楽器にはフラジオレットといって弦の途中を軽く押さえて通常の音よりも空ろな高い倍音を出す奏法を指定したりするという。すべて独特の響きを作り出そうとする姿勢から生まれている。この『弦楽のためのレクイエム』でもフラジオレットが多用されているというのである。この曲が1957年に初演された二年後の1959年、ストラヴィンスキーが来日して、この曲を激賞した。そのことによって武満徹の世間的な評価は「愕然とするほどいっぺんに変わった」と言う。

ジョン・ケージ(1912-1992)

ジョン・ケージ ショック

1962年、アメリカからジョン・ケージがやって来る。それは、音楽評論家の吉田秀和が命名したようにジョン・ケージ ショックと呼ぶべきもので、日本の前衛音楽家にとって自身の姿勢を問われる契機になったという。ケージの作品『四分三十三秒』は一音も発しない音楽として、つとに有名であり、楽譜には「何もするな」という意味の言葉が書いてあるだけだった。聴衆が聴くのは外から聞こえてくる音や会場で発せられる声や物音だけだ。「聞くという行為」が音楽と不可分だという意識を闡明にするものだったが、一種のハプニングとも言えるもので、事実、演奏家たちは何も演奏しなかったけれど、何がしかのパフォーマンスは色々なされたらしいのである。このような方向が先鋭化されていくとフルクサスのような運動に繋がって行くのだろう。

ジョン・ケージは、世界を満たしているあらゆる音が素材であるべきだと考え、ありとあらゆるものを楽器とした。あらゆる生活雑音を音楽に導入して芸術と生活の間に横たわる深淵を越えようとしたのである。自分の音楽は必ずしも音楽と呼ばれる必要はない。「主題は無く、ただ音と静寂の動きが感じられるだけでいい」と述べている(『武満徹・音楽創造への旅』「芸術と美を求めて」)。例えば『フォンタナ・ミックス』という作品では、煙草を吸う行為が出す音、灰皿にその灰が落ちる音。マイクロフォンにガラスを叩きつける音、鼻をかむ音などの録音が増幅されて曲の素材として用いられた。武満さんはケージの音楽に触れてこう書いた。当時の現代音楽の動向に対して、どうも違うという気持ちがあった。何とも言えないイライラがずっと積み重なって来た。それが、ものの見事に一発で吹き飛んだという。音に枠をはめることなく、音が本来持っている音のエネルギーを音にちゃんと返してやったという音楽だった。音楽を作るということは、自分が好きなように、自分が思った通りのことをやればいいと一瞬の内に悟ったという。そして、シェフェールのように音響素材を拡大しただけでは新しい音楽を創造したことにはならないという。その点で、自分はケージと意見が一致していた。そして、音そのものの本質をどう見るかとか、音と世界の関係とか、音楽家がなすべきことは音を作り出すことではなく、音を聴きだすことであるということにも互いに共感しあった。二人の違いは武満さんが音楽に美を求める傾向がケージよりはるかに強かったということだった。

このようにして武満さんの音楽的な世界はより開放的になっていくのだが、次回part2は、ジャズの理論である「リディアン・クロマティック・コンセプト」、尺八の海童道祖(わたつみどうそ)や雅楽などとの出会いを通して武満さんが探究していった「沈黙と測りあえるほどの音」とは何かを探っていきたいと思っている。

 

武満さんは、1950年代後半の一時期ミュージック・コンクレート作品を作ることに熱中した。動物の鳴き声なら、その音にリズムをつけることなど無視して、鳴き声の原音自体の持っている特質を生かして使うべきだと考えていたという(『武満徹・音楽創造への旅』)。その代表作『ルリエフ・スタティク』をお聴きください。