エミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part1 不滅の裏側

エミリー・ディキンスン(1830-1886)
16~17歳頃

美がおしよせる 死ぬほどに――
美よ どうぞ ご慈悲を――
しかし今日にも果てるなら
汝を見ながら 死なせてほしい
(古川隆夫 訳)

Beauty crowds me till I die
Beauty mercy have on me
But if I expire today
Let it be in sight of thee —
(1654)

かつては、アメリカ文学史上における突然変異と騒がれたこともあり、30歳を過ぎると隠棲して眼の治療以外に「屋敷」を出ることはなかった深窓の令嬢、生きながら伝説と化した女性詩人である。生前に発表された詩は、わずか7作品であり(現在の研究結果ではもう少し多い)、死後、間もなく出版された第一詩集は16版を重ねたが、批評は賛否両論があった。特にイギリス側からの批判は強かったようだ。好意的なものでは「幻想という点ではブレイク、思想的にはエマソン、それにハイネを思いだす」というのがあり、その逆では、「韻律、押韻、文法、意味、素材の点からもおかしい、ひどい詩」というものがあった。彼女の伝記に関しては、岩田典子(いわた みちこ)さんの『エミリー・ディキンスン』からプロットさせていただきたい。岩田さんは、大阪のお生まれで、立命館大学で英米文学を学ばれ、摂南大学で教鞭を執っておられるようだ。国際エミリー・ディキンスン学会の会員であられる。

その後、2つの詩集が出版されたが、第一詩集と同じく編集者によって、19世紀好みの上品で優雅な詩を装うために勝手に改訂された。そのため、ディキンスンの名を知らしめることにはなったが、功罪相半ばする結果となった。その真の姿が顕わとなって、正当に評価されはじめるのは20世紀半ばを待たなければならなかったのである。1955年にトーマス・H・ジョンソンによって生原稿の写真から読み取られ、ディキンスンによって清書された順に整理番号を振った詩集が出版された。5年に亘る労作だった。ディキンスンの詩につけられた番号は、このジョンソンによるものである。続いて、3年後に書簡集が出版される。ディキンスンの詩は、詩人のエズラ・パウンド、フランスの作家マルグリッド・デュラス、アメリカのアーティストのジョセフ・コーネル、作曲家の武満徹らに影響を与えたという。詩人のパウル・ツェランによってドイツ語に訳され、ハイデッガーに送られたことは、関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇に書いておいた。

“The complete poems of Emily Dickinson”
Edited by Thomas H. Johnson

エミリー・ディキンスンは、1830年アメリカ北東部のニューイングランド、マサチューセッツ州のアマストに生まれた。当時、人口は2,600人余りのこじんまりとした町だったが、彼女の祖父らの努力で彼女の生まれる9年前に大学が設立されていた。そのアマスト大学では「少年よ大志を抱け」という言葉で日本でもよく知られているウィリアム・スミス・クラーク博士が化学を教えたし、同志社大学を設立した新島襄(にいじま じょう)や日本YMCAを設立した神田乃武(かんだ ないぶ)、そして、内村鑑三(うちむら かんぞう)が当時そこで学んでいた。これだけ見ても宗教的雰囲気が色濃い土地柄であったことが分かる。彼らがいたのは、ディキンスンが40歳以降のことで、既に隠棲生活に入っており、彼らに出会うことはなかった。アメリカの精神とは何かと問われれば、ピューリタニズムとフロンティア精神ということになるのだろうが、ピューリタニズムが清貧という肯定的なイメージを持つ反面、頑迷、偏狭、排他といった否定的イメージを持たれることもあるのは確かなようだ。

父エドワードは当地の弁護士で織物工業、鉄道事業に関与し、学校設立にも尽力した。仕事上の評判を気にする理性的で感情表出を嫌った頑固一徹の人であったという。エミリーが7歳の時にはウィッグ党(現・共和党)のマサチューセッツ州議会議員に選ばれている。政治家タイプの人だったのである。母はアマストの近くにあるマンソンの名士の娘で、知的で繊細で優雅な人であったが、結婚の翌年実母と兄を立て続けに亡くして精神的な打撃を受け、それがその後も尾を引いたらしい。

9歳から16歳までアマスト学園に通った。その頃の友人への手紙にこのように書いている。「‥‥私って、本当に凄い速さで美しくなっていくみたい ! 17歳になったら、アマストの華になるでしょうね。そのとき私に憧れる多くの男性を侍らしていること間違いなし。彼らに、私が話しかけるのを心待ちにさせるなんて、なんと楽しいことでしょう。それから私が最後の決定を下す間、彼らの不安そうな顔を眺めるの ! くだらない話はこのへんにしましょうね。‥‥(岩田典子訳)」オシャマで想像力たくましい才気煥発な女の子という感じだが、時々男の子をドキッとさせるようなちょっと小悪魔的なところもあったのかもしれない。後年、「きつね火のような人」と彼女を回想する男友達もいたようである。

ジョナサン・エドワード(1703-1758)

1844年、ディキンスンが14歳頃、彼女の生地アマストは信仰復興運動の波に洗われていた。この運動はピューリタン側の運動で、いわば堕落した忌まわしい現在の状況を神の怒りとしての最後の審判や地獄の描写を通して断罪するという激しい説教で知られていた。1740年代からジョナサン・エドワードを中心に繰り広げられ、その説教で語られる地獄の光景はあまりに恐ろしく、人々は泣きわめいて神の赦しを乞うたという。次のようなものだった。「蜘蛛のような忌まわしい昆虫を火で炙るように、あなた方を地獄の上に吊るしている神は、あなた方を忌み嫌い凄まじい怒りを見せている。あなた方に対する神の怒りは火のように燃え上がり、あなた方をその火にくべて燃やす以外の価値のない存在と見做している(「怒りの神の手の中の罪人」渡部利雄『講義アメリカ文学史第一巻』)」一世紀を経ても、その余波は揺蕩(たゆた)っていたのである。

信仰を証すことが村の人間としての市民権を得ることに通じたため、ほとんどの人たちが教会員になった。この頃、親友への手紙に次のように書いている。「私の心には空洞があって痛むのです。それはこの世では決して満たすことのできないものだということは分かっています。決して宗教の問題を考えていないというのではありません。キリストが、娘よ、汝の心を与えよ、と言われているのがたえず聞こえるのです。‥‥永遠ってあなたにとって恐ろしくないかしら。‥‥永久に生きていかなければならない、死ぬことはないと考えると、未知の世界に我々を送り出すために皆がとても恐れている死というものは、エンドレスな命にとっては救いになるのでは、とさえ思えるのです。‥‥どんなにイマジネーションをたくましくしても、私自身の死の光景を想像することはできないの――死んで目を閉じるなんてことが私にはありえないと思うのです。(L-10)岩田典子訳」文脈に分かりにくさはあるのだが、彼女にとって永遠の命というアイデアは恐怖を抱かせるけれど、死とは「新たな生=意識」への旅立ちであって、救いであるということなのだろう。この言葉を踏まえて考えれば後に述べる721番の詩に登場する永遠の意味が、かなりはっきりと分かるのである。

岩田典子『エミリー・ディキンスン』わたしは可能性に住んでいる―

1847年、17歳になった彼女はアメリカで初めての女子専門学校マウント・ホリヨーク女学院に入学し、寄宿生活が始まる。だが、ここでも洗礼を受けていない学生に対する信仰告白を求める説得が続けられる。ついにメアリー・ライアン院長の「クリスチャンになりたい人は起立しなさい」という呼びかけにも彼女は最後まで立たなかった。学園ではラテン語、ドイツ語、英文学、歴史、化学、植物学、幾何学、天文学、自然哲学などを学んだが、結局一年でこの学校を去った。

19世紀初頭のアメリカは、ピューリタリズムから、ベンジャミン・フランクリンに代表される人間の善良性と理性に基づく啓蒙主義的な思想、そして、ユニテリアニズムと呼ばれるキリスト教教義から三位一体などの神秘主義的な要素や原罪を取り除いた、合理主義的宗教の時代に移行しようとしていた。ユニテリアニズムは、もともとヨーロッパに端を発する思想である。それらは、物質文明を花開かせるための思想的基盤となったと言ってもよいのではないだろうか。勤勉と探究心を重視したフランクリンの思想はアメリカ型のサクセスストリーを描いてみせたけれど、「時は金なり」といったような実利的な面が強調されるようになることは避けられなかったのだろう。そして、ユニテリアニズムは人々には受け入れやすい宗教であったのだが、その深みを失わせる結果ともなったのである。

アメリカ文学史の研究者である渡辺俊雄さんによれば、20世紀初頭に文芸評論家ヴァン・ワイク・ブルックスが、アメリカ文化をこのように断定したという。18世紀に登場した、あまりに世俗的なベンジャミン・フランクリンの思想、そしてピューリタンの伝統を継承したが極めて観念的だったためにアメリカの現実から遊離してしまったジョナサン・エドワードの思想、アメリカ社会はこの二つの極に分裂したため成熟した文化を生まなかったのだと。独立戦争(1775-1783)後の停滞した社会の中で、こういった思想が個人の内面的な欲求や感情的な内面の真実といったものを満足させることなく、逆に制約する足枷、束縛としか感じられなくなってくる。若い世代の中には妥協を拒み、血気にはやり、反抗的になる者が現われはじめた。こうして、個人の内的可能性や人間の未来に信頼を寄せて既成の社会や社会体制に反逆、挑戦していく「超絶主義」が生まれるのである。神の慈悲にたよることなく、自己の可能性を実現すれば、人類の理想は実現するという楽観的・肯定的なロマンティックな思想であった。それを代表する人物が1830年代にボストンの牧師職を捨てて論陣を張ったエマソンだった。ヨーロッパのロマン派や東洋の神秘主義などの影響を受けて合理的な精神だけでは捉えきれない超越的な世界に憧れた。それは1960年代のアメリカのヒッピー世代に通じるものであるが、このようなエマソンの思想を通じて、あるいは、それを批判的に継承することによってナサニエル・ホーソンやハーマン・メルヴィルといった作家たちが活躍し、1850年代の「アメリカン・ルネサンス」が生まれるのである(『講義アメリカ文学史』第一巻)。それに、エマソンのもとには、バックミンスター・フラーの大叔母であったマーガレット・フラーやヘンリー・ディヴィッド・ソローがいたことも忘れずに付け加えておかなければならない。

ラルフ・ウォルド・エマソンは、若いディキンスンに大きな影響を与えた思想家だった。特に彼女のトレードマークたる「円周(Circumference)」はエマソンの『円』から引用されたのではないかと考えられる。「目は最初の円で、目の作りだす視界が第二の円、そして、自然のなかには、その原初の図形がいたるところで果てしなく繰りかえされている。これこそ世界という暗号文のなかの最高の表象だ(『エマソン論文集』酒本雅之訳)」と述べている。彼はアウグスティヌスの「神の本性は、中心がいたるところにあり円周がどこにもない円」を引用した。また、ゲーテの言葉を引いて「自然のなかの一番小さなものも、それ自体のうちに、完全性を表わす円周を持っている。その相対的な大きさを発見するために、私は、見るべき目を必要とするだけだ。どのように狭くても、この円周の中に、全く純粋な存在が包まれていることを、私は十分に確信している(『エマスン選集1』「自然について」斉藤光訳)」と書いている。エマソンが自然を見る時、ゲーテの眼差しがそこに重なってくるのは間違いないようだ。ただ、エマソンのディキンスンへの影響はかなり限定的なものであったことは指摘しておかなければならない。それは彼女にとっておそらく楽観的過ぎたのだろう。

マウント・ホリヨーク女学院を去って傷心のディキンスンにエマソンのことを教えたのは父親の法律事務所にいた8歳年上の見習い弁護士、ベンジャミン・ニュートンだった。ブロンテ姉妹などの当時話題の文学者を教えてくれた優しいが威厳のある先生と呼ぶべき人で、「‥‥何を読んだらいいか、どんな作家を称賛すべきか、自然の中で何が最も偉大で美しいのか、そして、あの崇高な教え、目には見えないものを信じるように、そうすれば、人生はより高貴な、より祝福されたものとして信じられることを教えてくれたのです――(L-153)岩田典子訳」と彼女は手紙に書いた。この手紙からエマソンの思想の持っている雰囲気は十分伝わってくる。そして、詩の世界への興味をかきたてられることになるのである。父親は、エミリーに対する影響が大きくなることを恐れてニュートンをアマストから追い出したのではないか。そういう一説を岩田さんは紹介している。そして、ニュートンが32歳の若さでこの世を去った時、ディキンスンは、そのことを手紙にこう書いている。「子供のとき、彼は『不滅』について教えてくれました――しかし、彼はあまりにも不滅に近づきすぎて――二度と帰ってきませんでした。(L-261)岩田典子訳」ここに不滅の問題が登場してくる。これらの手紙にある死と不滅の問題は、ディキンスンの詩を考える上で欠かすことのできない重要なテーマとなっていく。死を通って不滅に至るのか。不滅の裏側には死があり、そして死しかないのだろうか。

こういう例から彼女の感じていたものを想像することもできる。イギリスの詩人・画家であったウィリアム・ブレイク(1757-1827)が息子を亡くした友人に宛てた手紙をご紹介しておきたいのである。「私たちの亡くなった友人たちは、肉眼で見えていた時よりも、もっと私たちの間近にいることを、私は知っています。十三年前、私は弟を亡くしました。しかし、私はいつも精霊となった弟と話しています。‥‥しかしそれが私にとって不死の喜びの源泉でありますので、すべての人と分かち合いたいと願っているのです(ピーター・アクロイド『ブレイク伝』池田雅之監訳)。」これは、単なる比喩ではないことを指摘しておきたい。ちなみに、ディキンスンに興味を持っていたハイデッガーの言葉もご紹介しておこう。彼は、画家のジョルジュ・ブラックを追悼するために友人のルネ・シャールに宛てた手紙の中でこのように述べている。「不在は現在を露わにし 死は近さをもたらす。(『ハイデッガー全集 第13巻「思惟の経験から」』東 専一郎他 訳)」

カスパー・ダヴィット・フリードリッヒ(1774-1840)
『山上の十字架』1805-06

ドイツロマン派の巨匠カスパー・ダヴィット・フリードリッヒのこの絵を見るたびにディキンスンの次の詩が頭に浮かぶ。彼女は現代詩の先駆となる破格の詩人というイメージが先行してしまっていてるけれども、実は、ある種古風な雰囲気を持っているらしいのである。その雰囲気の秘密を古川隆夫さんはその著書『ディキンスンの詩法の研究』で丹念に修辞上の特色を挙げて解説してくださっている。少し、専門的な部分もあるのだが、とてもバランスのよい素晴らしい著書だと思う。ディキンスンについて少し読んでみて、もっと詳しく知りたいと願う人には最適ではないかと考えている。是非、お薦めしたい本の一つである。

私のうしろに 永遠が沈み
私のまえには 不滅が沈む
私は その間の 束の間――
死は 東雲の灰色の漂いにすぎず
西の空が明らむまえに
霧散して 暁となる

死後には 神の国 と人は言うだろう
完璧で途切れることのない王国だと――
その王子は 無の息子
彼自身 時を超えた王朝
彼は 己れ自身を様々に変える
神の生き写しとして――

そうなれば 私の前には奇跡
私のうしろには奇跡――
その間に 海の三日月
その北は 真夜中
その南は 真夜中
そして空には 大渦巻――

(古川隆夫 訳)

Behind Me — dips Eternity —
Before Me — Immortality —
Myself — the Term between —
Death but the Drift of Eastern Gray,
Dissolving into Dawn away,
Before the West begin —

‘Tis Kingdoms — afterward — they say —
In perfect — pauseless Monarchy —
Whose Prince — is Son of None —
Himself — His Dateless Dynasty —
Himself — Himself diversify —
In Duplicate divine —

‘Tis Miracle before Me — then —
‘Tis Miracle behind — between —
A Crescent in the Sea —
With Midnight to the North of Her —
And Midnight to the South of Her —
And Maelstrom — in the Sky —

(721)

古川隆夫『エミリー・ディキンスン詩法の研究』

この詩は1863年頃のディキンスンが最も充実していた時期の詩であると古川さんは言う。一般には死後における黙示録的栄光の世界への安らかな旅立ちを歌った作品といわれている。1連と2連のみならそうも言えるのだが、重要なのは1連と3連との対比にあるとして、古川さんはこう解説している。第一連の「私のうしろに 永遠が沈み / 私のまえに 不滅が沈む / 私は その間の 束の間」、その構図は高い山の上に立って地球が雄大な弧を描き、詩人はその頂点に立って、東雲の日の出や、西の入日を眺めているような光景を思い起こさせる。二行目の不滅は、生を象徴する太陽が「没する」ことを意味する。しかし、死に瀕しても太陽は「不滅」であって、再び蘇る。ここには「死に瀕した時の円周」が描かれているというディキンスンの研究者、ザカリアス・サンダイル(Zacharias Thundyil)の指摘が紹介されている。この円周はその極限が無となるような小さな生が死を契機として無限の不滅の生へと、そして、不滅そのものになることではないかと古川さんは考えている。この順次拡大していくイメージが円周なのであり、この作品全体も拡大する円周なのだというのである。円と無を結びつけるものはニコラウス・クザーヌスの思想だが、ディキンスンが彼の思想を知っていたかどうかは不明だけれど、可能性はあるのかもしれない。後半三行は「死は 東雲の灰色の漂いにすぎず / 西の空が明らむまえに / 霧散して 暁となる」となっていて、霧散して暁となるとは「永遠」という相からすれば「死」がmortalなものからimmortalなものに、つまりデッドエンドから不死へと変化することであるという。

第二連における一行目、”‘Tis Kingdoms — afterward — they say —” (’Tis は, It’s の古語)「死後には 神の国 と人は言うだろう」では、王国が訪れる死後のことについての言及とも、神の国と言うだろうと人々が語る後の時代のことともとれ、かなり曖昧な表現であるという。後者の後の時代という意味でとると秩序の変化しつつあった1860年代と考える場合とズバリ病める混沌の20世紀ととる解釈がある。いずれにしても混沌とした時代を指しているようだ。三行目の”Son of None” / 無の息子は、”Son of Man” / 人の子をもじっている。これに禅的な解釈をほどこすことも可能だが、この”None”は、この世から生まれたものでないもの、蘇りに必要な死と解釈すべきだろうと古川さんはいう。この第二連は、 「無の息子」という黙示録的イメージと「死後には 神の国 と人は言うだろう」という混沌とした時代的なイメージを混在させているのではないかと古川さんは考える。第一連の静的で終末的イメージと次に述べる第三連のカオティックなイメージを繋ぐ役割を第二連が担っているのではないかというのである。

第三連では、”Miracle”と”Midnight”が各々の二度づつ繰り返され、永劫と動揺と不安と混沌を象徴する海があり、その上に浮かぶ変化の象徴としての三日月と空の大渦巻がある。静的で安らかな第一連の円周の世界とは、かけ離れた言わば生身の人間がもがく娑婆またはあの世に入る直前の断末魔の苦しみを暗示しているという。第一連の Behind Me — dips Eternity — / Before Me — Immortality —の二行と第三連にある ‘Tis Miracle before Me — then — / ‘Tis Miracle behind — between —のそれぞれ二行の繰り返しに見られる同音の反復は非常に印象的であり、第三連は第一連と似た構造に作られているという。この第三連をめぐっては様々な解釈があるのだが、その一つ、エヴァン・カートンの説では、第三連が第一連を映しだす不吉な鏡になっているとして、その端的なイメージが、大荒れの象徴としての「海」であるというのである。しかし、最後に登場する空中のメエルシュトレエム(大渦)は衝撃的だ。僕は、E.A.ポー(1809-1849)の「メエルシュトレエムに呑まれて」を連想することを申し上げておきたいのだが、この大渦は海にではなく空にある。ともあれこの言葉によってカオティックなイメージはクライマックスを迎えるのである。

古川さんは、この詩を「永遠」への信仰と不信、霊魂の不滅と消滅、平安と不安、調和と混沌といったディキンスンのデュアリズム(二元性)を端的に表す代表的な作品であるというのである。彼女は逆説と対比の構造を手法として用いることが多く、この二元性の使用もそのことと関連している。そこにある種の不可思議さと晦渋さが立ちあがってくるのは、禅の僧がよく用いるパラドックス(逆説)の手法を思いおこさせる。例えば「父母未生以前の自己」と言った表現である。だから、彼女の詩には、そういった東洋的な道教や禅といった雰囲気を濃厚に漂わせるものもある。彼女が禅を知っていたかどうかわからないけれど、(多分知らなかったのではないだろうか)、彼岸の神の国への疑惑と此岸に対する違和感の間に存在する、「ある絶対的な意識」に対する感受性と言ったらいいだろうか、そのようなものがあるのである。いくつかの詩には、禅と本質的に近似なものを窺わせるものがあるのは確かだ。だが、それを同一だとするのは無理があると言わなければならない。

カナダの文芸批評の研究者ノースロップ・フライは『同一性の寓話』の中でエミリー・ディキンスンをとりあげて、彼女が信仰復興運動に対して非協調的であったのは、信仰を拒絶しようとしたのではなくそれと取り組み、それを信じることが出来なかったことを証明しようとしたのではないかという。天使と格闘したヤコブに彼女は魅せられると言うのだ。彼女は、彼女が教え込まれてきた律法的で教義的なキリスト教と釣り合いが取れ、かつ必ずしも矛盾しない別の種類の宗教体験があることを言っているのだと言う。「あなたに逆らって私たちを魅了してしまうこれらの不可思議な精神を与えたまえたことに、ああ父よ、わたしたちはあなたに感謝いたします(駒沢大学N.フライ研究会訳)」と述べている。それが彼女の言う〈周辺〉ではないかとフライは指摘しているのである。

彼女が精神的な死を通過して不滅の世界を垣間見たのか、死すべき世界と不死の世界を行き来していたのかは僕にはよく分からない。彼女は決してリニアーな書き方はしないからである。ともあれ、それらデュアリズムやパラドックスの手法によって彼女の詩は、劇的なクライマックスを迎えては崩壊していく美しいイメージへと連なっていく。それは、フライが言うように律法的な宗教の世界と自らの宗教体験との闘いの結果だったのかもしれないのである。キーワードは円盤と周辺であった。

 

次回 part2 は、彼女の詩が伝統的な由緒ある形式と韻律から成り立っていながら、現代詩にみられるようなエキセントリックで破格な表現を、いかに闡明にするかをご紹介しようと思っている。

 

参考図書

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『同一性の寓話』