エミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part2 幾重にも秘める言葉

『エミリー・ディキンスン詩集』新倉俊一(にいくら としかず)訳編

エミリー・ディキンスン(1830-1886)の詩集を初めて手に取ったのは、新倉俊一(にいくら としかず)さん訳編の『ディキンスン詩集』だった。彼女については、あるアーティストからさんざん聞かされていたので興味があった。その人は、岡隆夫(おか たかお)さんという人の翻訳を絶対的に信頼していたのだが、この詩集にはその岡さんの翻訳が70篇ほどあって僕はとても嬉しかった。岡さんの訳詩はなかなかに素晴らしかったのである。

魂よ ゆっくり お行き――
かれの稀なる訪れを満喫できるように――
急いで お行き――死が追いかけ
馬車を抜いてしまわぬように――
しおらしく お行き――かれの決然たる眼差しが
おまえを見そこなわぬように――
大胆に お行き――おまえはかれの報償をうけ
口接けの贖(あがな)いをうけたのだから――
(岡隆夫訳)

Go slow, my soul, to feed thyself
Upon his rare approach —
Go rapid, lest Competing Death
Prevail upon the Coach —
Go timid, should his final eye
Determine thee amiss —
Go boldly — for thou paid’st his price
Redemption — for a Kiss —
(1297)

1848年、17歳でマウント・ホリヨーク女学院に入学したディキンスンは院長であるメアリー・ライアンの洗礼の勧めを拒否し、学院を辞して、一年間の寄宿生活を終えて故郷のアマストに戻った。そんな傷心の彼女は、父の弁護士事務所の見習い弁護士であったベンジャミン・ニュートンの導きで詩を作り始める。エマスンなどの新しい知的な流れに浸ることになるのである。そのことは part1で述べておいた。彼女が最初に憧れを抱いた人であるらしい。その他、彼女が恋心を、あるいは憧れの感情を抱いた人として、ユニテリアンで「スプリングフィールド・レパブリック」紙の編集長だった4歳年上のサミュエル・ボールズ、この新聞には彼女の詩が改訂されて時たま掲載された。それに、感銘深い説教で知られたフィラデルフィアの牧師、チャールズ・ワズワース、この人とは聴衆の一人として出会ったことも含めて生涯で3度しか会っていない。そして、父親の友人であり、18歳年上のオーティス・フィリップス・ロードなどの名が挙がっているけれど、彼女は遺言で日記、手紙、詩は焼き捨てるように妹に託したので、実際にどのようであったかは確かめようがない。研究者たちは、一様にそのことには深くは触れていないようだ。ただ、詩だけは、救われ、妹によって詩集として出版されることが望まれたのである。カフカのエピソードを思い出させる。

岩田典子『エミリー・ディキンスン』わたしは可能性に住んでいる―

残された詩の中にマスターレターと呼ばれる手紙が挟まれて残っていた。現実の人に宛てたものか架空の人へなのか、あるいは、もう亡くなった人への手紙だったのか分かっていない。28歳の時、1通、31歳の時に2通書かれた。その3通目にこんな言葉がある。「マスター。もし一発の銃弾が一羽の鳥を撃ったのに――その鳥が撃たれてはいないと言ったとしたら――あなたはその鳥の心遣いに涙されるかもしれませんが、そんなはずはないとそのことばを必ずや疑がわれるでしょう。‥‥[先生]マスタ―私は――私自身ではなかったのです。どのようにしてそれがなされたのか、私には分からないのです。神は私の中に心(ハート)を植え付けられました――少しずつ、それが私をしのいで大きくなってきました。――まるで大柄な子供を持った――小柄な母親のように――それを抱えるのに疲れてきました。「救い」と呼ばれる――男や女を安らかにするもの――について聞いたことがあります。それをあなたに求めたことは、ご存じだと思いますが――あなたは他のものをくださったのです。私は救いのことを忘れていましたが、[救われた者のなかに私が――長い間言いませんでしたが、あなたが私を変えられたことは分かっていました――私は]、もう――疲れていません――[この見慣れぬもの(ハート)がとてもいとおしくなってきましたので、その代わりになるものなら、それが私の呼吸であっても――私は笑って投げ捨てたでしょう。](岩田典子訳)」見慣れぬものが彼女を超えて成長し始めていた。それが愛なのか不滅であるのか確かめようはない。あるいは両方であるのかもしれない。今回も自伝に関しては岩田典子(いわた みちこ)さんの『エミリー・ディキンスン』からプロットさせていただいている。

ディキンスンには身近な小さな世界をクローズアップして優しく描いて見せる、とても女性的な詩が多々ある。その一つをご紹介しておきたい。これを、前回 part1でご紹介したジョナサン・エドワードの次のような説教の一節と比べてみてほしいのである。「蜘蛛のような忌まわしい昆虫を火で炙るように、あなた方を地獄の上に吊るしている神は、あなた方を忌み嫌い凄まじい怒りを見せている。あなた方に対する神の怒りは火のように燃え上がり、あなた方をその火にくべて燃やす以外の価値のない存在と見做している(「怒りの神の手の中の罪人」渡部利雄『講義アメリカ文学史第一巻』)」だが、彼女は、後年、このエドワードの著した『精神についての覚書』にあるような極めて深い精神性に触れるような詩をも書きあげるようになるのである。

蜘蛛は 人目につかぬ手に
銀の玉を持っていて
ひとり静かに踊りながら
真珠の糸を 解きほぐす

稼ぎにならない商売に
無から無へと精を出し
半時と経たぬうちに
壁掛けを掛けかえる

一時もすれば 物の見事に
光の領土を築き上げる
それから自分の国境を忘れ
かみさんの箒にぶら下がる
(古川隆夫訳)

The Spider holds a Silver Ball
In unperceived Hands —
And dancing softly to Himself
His Yarn of Pearl — unwinds —

He plies from Nought to Nought —
In unsubstantial Trade —
Supplants our Tapestries with His —
In half the period —

An Hour to rear supreme
His Continents of Light —
Then dangle from the Housewife’s Broom —
His Boundaries — forgot —
(605)

1861年から1865年までは、南北戦争という重苦しく騒然とした時代だった。詩は書き進めていたが、隠棲生活に入っていた彼女の中では、屋敷の外の新しい読者、新しい批評に出会いたいという欲求が高まっていた。そんな1862年のこと、ディキンスンはトマス・ウェントワース・ヒギンソンの存在を知るようになる。愛読していた「アトランティック・マンスリー」の4月号に「若き投稿者への手紙」という一文を見つけたのである。彼は、エマソン、ホーソン、H.W.ビーチャー、ダニエル・ウェブスターらを文化講演者として迎えていたライシーアムという文化組織のメンバーの一人だった。批評家で自らも詩や小説を書き、女性解放運動にも関心を持つ、当時ユニテリアンの牧師でもあった。自分の書いたものが認められるかどうかといった目先のことではなく、それぞれの目標に向かって書き続けるように励ますのであった。彼女はこんな手紙を書いたのである。「ご多忙の極みとは存じますが、私の詩が生きているかどうかお教え願えませんでしょうか。心が私の詩に近すぎて――はっきりとは、私には分からないのです――それにお尋ねする人もいないのです。もし、私の詩が息をしていると思われるなら――そして私に教えて下さる時間がございましたら、すぐにでも感謝の気持ちをお伝えすべきところです――‥‥先生はきっと私の願いどおりにしてくださると堅く信じております――申すまでもないことですが――名誉が抵当に入っておりますから(L-260)岩田典子訳」こうして、『エミリー・ディキンスン詩集』が最初に出版されるまでの24年間にわたる縁(えにし)の幕が開くのであった。

ヒギンスンは彼女の独創性と詩型に対する大胆な反抗に動転しながらも極めて優れた詩であることを認めていた。全く新しくて独創的な詩の天才という印象は初めて四篇の詩を読んだときも、出会って30年過ぎた今も変っていないが、これほど優れているのに、これほど批評しにくいものを文学史のどこに位置付ければいいか今もって解決できないと語っていた。ヒギンスンはホイットマンの詩集『草の葉』を送り、彼女はそれを絶賛する手紙を書いた。ヒギンスンは彼女の詩が定型詩であったり、そうでなかったり、「発作的」であるとか「抑えがきかない」とかいった特徴を当時の詩の在り方からすれば優雅でなく品格がないと思われるということがよく分かっていた。それでホイットマンのように自由詩を書いたらどうかと勧めたが、彼女は首を縦にふらなかったようだ。彼女は自分の詩が何の変更や改訂も加えられずに出版されることを切に望んでいたけれど、ヒギンスンはそうすることが無謀であるという想いを捨てることが出来なかった。

ディキンスンが好んで使った詩型と言えば、コモン・メーターつまり、普通律である。彼女は生涯この詩型を愛用したという。意外とオーソドックスなのだが、勿論、これに当てはまらない詩型やわざと崩したものも多い。ここからは、前回と同様に古川隆夫さんの『ディキンスンの詩法の研究』からご紹介してみたい。コモン・メーターは、一般に祈祷書や賛美歌に用いられる詩型であり、それぞれの行の音節が8,6,8,6で韻のない1・3行目と脚韻を踏む2・4行目が織りなす4行詩を一単位とする。彼女は、主にプロテスタントの普通律の他に中世の賛美歌、カトリックの祈祷書と賛美歌、イサック・ワッツ(1674-1748)の賛美歌、マザーグースやナンセンスメーターを取り入れているという。信仰告白をしなかった彼女だが、宗教性を取り払うことは不可能だったようだ。音楽的なリズムとして刷り込まれているのである。バラッド(伝承歌や民謡)もこの詩型に近いのだけれど、より規則が緩く、より会話調であるらしい。この普通律の詩型を使うとこのような書き方になるのである。

I heard a Fly buzz — when I died —
The Stillness in the Room
Was like the Stillness in the Air —
Between the Heaves of Storm

‥‥(465)

驚異の年と言われる1862年には366篇の詩が書かれたが、その約半分は2連、3連、4連の詩で5連が9%、6連が5%となっている。彼女にしては比較的長い詩が多いといわれる。1865年頃になると急に作品数は減少しはじめ、4行詩が急増して2連、3連の詩が大半になるようである。それと、研究者のオースティン・ワレンの説が紹介されていて、彼女の使う言葉が、方言と標準語、具象的言語と抽象的言語、若者の言葉とオーソドックスな説教師たちの宗教上の言葉をないまぜにしたものであって、その用い方は、ほとんどぬかりなく熟考されていて正確だと述べられている。

左 エミリー・ディキンスン 右 友人のケイト・スコット・ターナー 1859年頃 29歳前後

彼女が31歳の時、二通目と三通目のマスターレターが書かれ、ボールズの「スプリングフィールド・レパブリック」紙に自分の詩が掲載され、南北戦争が始まった。その翌年、1862年は、ワズワース牧師がサンフランシスコへ赴任し、「若い投稿者への手紙」でヒギンスンのことを知った。この年が、驚異の年と呼ばれる詩作の年である。この頃には、結婚を諦めて隠遁生活に入っていた。これからご紹介する詩は、その翌年1863年の終わり頃、つまり33歳頃書かれたものであるが、戦争中であったということは考慮にいれてもよいのだと思う。「戦争が始まってから、悲しみは数人の財産ではなく、より一般的になりました。‥‥私にとって大事なことだけに驚くものですから、私の価値判断も怪しいものですが、ロバート・ブラウニング(英国の詩人)がまた詩を書いたのを知り驚きました――そして、私にも、ささやかですが、私自身、納骨堂の階段に立って歌ったことがあったのを思い出しました。日々、人生がより強く、力として持っているものがより大きく感じられます。(L-298)岩田典子訳」と友人への手紙に書いている。

ディキンスンの詩は時に激しく、これは女性の詩なのだろうかとさえ思う時もある。時には、大熊昭信さんが『ウィリアム・ブレイク研究』の中で述べているように、ブレイク(1757-1827)が書いた預言書には、あたかも作者が複数いて、それぞれが同じ話の中で語っているのではないかと思わせる、そのような書き方さえもするのだ。続いて、古川隆夫さんの『ディキンスンの詩法の研究』から、そのような詩についての解説をご紹介したいと思っている。古川さんは、中世やルネサンスの用語を批判したエズラ・パウンドのこの言葉を引用してディキンスンの754番の詩の解説を開始している。「事はレトリックの弛緩した表現の問題ばかりではなく、個々の言葉の弛緩した用法の問題でもある。‥‥爆発を同時に定義するような用語で銃を定義せず、引き金を定義するような用語で爆発を定義していなかった。」

わたしの命は 弾丸(たま)の入った銃だった
そして部屋の隅に置かれていた――ある日
その持ち主が通りかかり 自分のものと認め
そこからわたしを連れ出した

私たちは今や王領の森を歩きまわる
そして雌鹿を追いかける
わたしが主人の代わりに話しかけると
その都度山々は応えを返す

わたしがほほ笑むと
谷間に熱い炎が燃え上がる
まるで歓喜を迸(はしら)せる
ヴェスヴィオスの顔のよう――

楽しい一日が終わり 夜になると
わたしは主人の顔を見守る
毛綿鴨の深々とした枕を共にするより
その方がずっといい

かれの敵は 断じてわたしの敵
わたしが黄色い眼を見すえ
親指に力を込めると
敵は2度と動かない

わたしは彼より長生きするかも知れないが
彼はわたしより長生きしなければならない
わたしには殺す力しかなく
死ぬ力はないからだ

(古川隆夫訳)

My Life had stood — a Loaded Gun —
In Corners — till a Day
The Owner passed — identified —
And carried Me away —

And now We roam in Sovereign Woods —
And now We hunt the Doe —
And every time I speak for Him —
The Mountains straight reply —

And do I smile, such cordial light
Upon the Valley glow —
It is as a Vesuvian face
Had let its pleasure through —

And when at Night — Our good Day done —
I guard My Master’s Head —
‘Tis better than the Eider-Duck’s
Deep Pillow — to have shared —

To foe of His — I’m deadly foe —
None stir the second time —
On whom I lay a Yellow Eye —
Or an emphatic Thumb —

Though I than He — may longer live
He longer must — than I —
For I have but the power to kill,
Without — the power to die —

(754)

古川隆夫『エミリー・ディキンスン詩法の研究』

この作品は、ディキンスンの人生観、芸術論、哲学等をすべて含み得るという。すっきりしたイメージでありながら、同時に複雑・多様な暗喩を含む幅と深みと奥行のある典型的な重層構造を持った作品であるというのだ。彼女はイマジネーションの世界で恋をし、愛を確かめ、結婚して妻となり、女としての命を燃やし、恍惚の果てを味わっていたという。この頃のおびただしい詩稿がそのことを証かしていて、この詩は、彼女が到達した極点の一つであるというのである。ただ、「分析を寄せ付けない」詩とか、「夢のようなファンタジーで、一体何についてのものだか言明できない」とか、研究者を当惑させ続けている作品でもあるようだ。

古川さんの解説を順を追ってみていこう。一見するとこの詩は、弾の入った銃を持って森の狩猟にむかい、夜の一休みの後、また狩猟に出かける、あるいはその夢を見る。狩猟の後は死ぬほど疲れ切ってしまうという筋に思える。だが、「毛綿鴨の深々とした枕を共にするより その方がずっといい」という語からは男女の交わりが連想される。そうであるなら2・3・5連の狩猟の描写は生々しい性交の臆面もない赤裸々な暗喩とも読める。弾の入った銃は性的な力であり、王領の森は愛のエデンの園、殺される「雌鹿」は歓喜と恍惚というわけなのである。彼女の詩にエクスタシーが万物と照応するようなポルノグラフィックな様相を呈する詩がないわけではない。

「私の小さな暖炉に あの方の火種が入りました / するとわたしの家は赤く燃え上がり / 風に煽られ くらくら揺れて わっと光が溢れました / それこそ日の出でした 大空でした // それは真昼でした‥‥/ いや 自然よ それは尽きない白昼でした」(古川隆夫訳)
“To my small Hearth His fire came —/And all my House aglow/ Did fan and rock, with sudden light —/’Twas Sunrise — ‘twas the Sky —//‥‥
‘Twas Noon‥‥ /Nay, Nature, it was Day —”(638)

だが、こうしたイメージの叛乱の中で「私」はいったいどういう立場にあるかが問われると古川さんはいう。銃は「私の命」=「私」となっていて明らかに女性を表現している。4連目の枕を共にせず主人の顔を見守る視点も同様に女性の立場に立っている。フロイト的な解釈はちょっとうんざりなのでオミットするとして、詩人のアドリアン・リッチが、これは女性の中の悪魔的な力を心理学的なジレンマとして描いたものだと言った説あたりから、女性本来の力を大胆かつ率直に表明した画期的作品だとして脚光を浴びるようになったというのである。

もう一つの説は、”My life”=”Loaded Gun”「わたしの命は 弾丸(たま)の入った銃だった」がディキンスンにとって「作詩」を意味するのではないかというものだった。詩的な霊感に見舞われた「主人」が言葉という「銃」を携えて、詩という獲物を狩りに行く。”And every time I speak for Him —”「わたしが主人の代わりに話しかけると」から、そういった解釈も可能なのである。そうすると、「銃」の爆発を「充填された言葉」の爆発と考え、新しい芸術作品を生み出していくことを歌ったともみることができるのである。パウンドの「爆発を同時に定義するような用語で銃を定義」するとはこの説と関係している。エロティシズムではなく、この詩を芸術論と解釈する立場である。あるいは、「銃」を何かの接触がなければ、その本質を失しなってしまうような「死」であるといった解釈をしている研究者もいるのである。銃である「話し手」が実は「死」そのものである。そうすると、その「わたしの生」は「死」=歓喜=永遠であると言えるのではないかというのである。このように考えていくと「言葉」は「限定する力=殺す力」であり「詩」には「死ぬ力=歓喜=永遠となる力」があると見ることも可能になるのではないかと僕は考える。

この作品が実に多くの解釈を可能にするのは、何故なのかを考える時、”My Life”=”Gun”=”I”というこの”I”とは誰であり何なのかという疑問に集約されていくと古川さんは言う。この「私」とは、先ほど述べた生そのもの、高揚した性、人間本来の潜在力、詩そのもの、詩的霊感と言った解釈から、それは男性であり、女性であり、物であり、動物であり、あらゆるものであり、あるいは何ものでもないと言ったところまで研究者の解釈の円周は広がっているという。”My Life”がありとあらゆるものを含むというところまで来たことを思うと、芸術作品の魔力に、その底知れぬ言葉の威力に今さらながら驚かされると古川さんは言うのである。30歳前半にして、これほどの詩を意識的に書いたとすれば、やはり驚くべき才能と言わねばならない。武満徹さんが音の中の重層性を探ったように彼女は言葉の重層性を探究したのである。それは幾重にも秘める言葉であった。

1878年47歳の時、恋愛感情をいだいたことがあるとされるサミュエル・ボールズが亡くなり、1882年には心の支えとなってくれていたワズワース牧師が亡くなり、翌1883年、愛してやまなかった甥っ子のギルバートが亡くなった。この年、ディキンスン自身も発作で倒れている。その翌年には恋愛感情を持ち続けていたロードが亡くなった。そして、1886年二度の重篤な状態から持ち直した彼女も妹のラヴィニアに看取られながら、ついに亡くなったのである。55歳だった。彼女は、こんな素晴らしい詩を残してくれている。訳も最高だと思う。

風が立った
風はしかし いかなる森の
木の葉も揺らさず
鳥の領土を遙かに超えて
ひとり冷たく吹いて行った
別離の想いの高まるような
孤独の歓喜に目覚めた風は
極北を信じ 見えない世界に
帰っていった――
(古川隆夫訳)

A Wind that rose
Though not a Leaf
In any Forest stirred
But with itself did cold engage
Beyond the Realm of Bird —
A Wind that woke a lone Delight
Like Separation’s Swell
Restored in Arctic Confidence
To the Invisible —
(1259)

最後に古川隆夫(ふるかわ たかお)さんのご紹介をしておきたい。1938年倉敷市のお生まれで、広島大学で文学博士号を取得され、長らく岡山大学で教鞭を執られた。岡山大学名誉教授であられる。翻訳に『エミリー・ディキンスン詩集』、『トマス・ハーディー詩集』などがある。ご自身も詩人で、『二億年のイネ』、『バラの花を数えはじめて』、『アマシをくらう』、そして、日本詩人クラブ賞を受賞した『馬あ出せい』などの詩集がある。実は、この人ペンネームを岡隆夫というのである。