江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟

黒式尉(こくしきじょう)

今回は、新しいシリーズに入るということもあり、お正月でもあるのでおめでたいものをと思って前からご紹介したかった「操り三番叟(さんばそう)」とその三番叟に関連した事柄を取りあげました。能の中で最も格式の高い『翁』は、翁、千歳(せんざい)、三番叟(さんばそう)によって演じられる祝言曲です。それについては、『翁』とはなにかでご紹介しておきました。

しかし、今回ご紹介する「操り三番叟」は楽しい。能の三番叟を操り人形で演じたものを再び人間が真似るという二重のミメーシスとなっているのです。乱拍子で比較的リズミカルに舞う人間の踊りを人形にさせ、それを人の踊りに戻している。乱拍子や能の前身である猿楽の踊りなどについては沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』 踊る大黒に三番叟に書いておきました。糸で繋がれた人形のように人はぶらぶら揺れ、くるくる回転するのだけれど糸が絡まって立ち往生してしまう。それを人形遣いがさも糸があるように身振りで解いていくと言う分けです。舞踊としての美しさもけっして欠けていない。江戸時代の至芸と言ってよいと思います。後で動画を見てくださいね。

能の三番叟は前半は面(おもて)をつけないで演じられ、揉みの段という見せ場がある。後半には鈴の段と呼ばれる農耕儀礼に関係するといわれる舞いがありますが、この時、黒式尉(こくしきじょう)と呼ばれる黒い面を着けて演じられます。これは、神楽で三番叟が演じられる場合も同じです。神事の『翁舞』についてはこちらをご覧ください「折口信夫 神事舞踏の解説としての能/「しゞま」と「ことゝひ」の中のシテとワキ」しばらくして気がついたのですが、この操り三番叟の場合は人が演じていますが、途中で面を着けるということはなく、顔の色はずっと真っ白なままです。文楽の「寿式三番叟」には二体の人形の三番叟が登場するのですが、人形の顔は同じく真っ白です。僕は三番叟の面が何故黒いのかずっと不思議に思ってきた。どうも大黒天と関係しているのではないかというのが今一番有力な答えだと思っている。今回はそれも含めて「操り三番叟」をご紹介したいと思っています。

ともあれ、三番叟はおめでたい演目で、かつては、お正月に木偶(でこ)廻しによる門付けが行われていました。それに、お正月と言えば日本では獅子舞ですが、時期は、ずれるけれども所によっては裸祭りも見られるようです。中国、ヴェトナムには獅子舞だけが残っています。それらは八世紀以前にイランからサマルカンドおよびシナ・トルキスタン経由で、中国に入りました。もともとイランの正月に裸で走る少年たちにに冷水をかけるという変わった祭りがあり、それが獅子舞と共に伝えられたのです。寒さを追い払う祭りなのですが、チベットでは獅子舞も、裸の少年の競技と灌水の風習も共に並んで伝え残されたとフランスの東洋学の泰斗ロルフ・スタンは書いています。あの『盆栽の宇宙誌』の筆者です。西アジアやインドから発したものが行き着く所、それは日本とチベットなのかもしれませんね。

チベットの黒い老人と白い老人

チベットの旅芸人 狩人と姉娘役
photo A.W.Macdonald ロルフ・スタン『チベットの文化』より

スタンがその著書の中で能の「翁」について述べているのでご紹介しておましょう。「翁」で冒頭、謡われる「トウトウ タラリ」はおそらくチベット語ではない。だが、舞台を清め、福を招く白い老人「翁」と黒い老人「三番叟」のそれぞれの面に対応するものとして、チベットには「白い悪魔」の面(白)と狩人の面(黒)がある。また、「千代」という言葉に含まれる長寿の観念もチベットでは、やはり二人の人物によって表される。演劇の神タントゥンゲルポは生まれた時から老子のように老人で色黒であり、今一人は「長寿の人」と呼ばれ、ある種の仮面舞踏に登場する白い老人でした。

大黒天の仮面劇と地鎮の儀式

ラマ僧は瞑想によって神々や菩薩を降ろすことができるとされているし、吟遊詩人は忘我状態になって、英雄たちが向う側の世界で活躍している光景を幻視し、それを歌で描写しました。しかし、一般の人には見えるわけではない。それで絵画や仏像、仮面などが在家信者の教化のために用いられました。神の示現を理解しやすくするために仮面舞踏によって大衆の前で演じられるようにもなったのです。この儀式では、神は瞑想によって呼び出されると共に、仮面をつけた俳優が扮してもいるわけです。

どんな神でも仮面に作り得たわけではなく、「仏法の守護神」に限られていました。その仮面は、霊媒と同じく、この種の神が現われるのを容易にすると考えられていたのです。例えば「飛ぶことのできる黒」と名づけられた仮面はインドのある学匠から1000年頃、大訳経者と呼ばれたリンチェンサンポに渡され、彼がラダックに帰った時、その儀式の教えと一緒に他の僧たちに伝えられました。その伝授のとおり舞踏の間中その仮面は着けられていたといいます。その後、仮面はサキャ派の最初の僧院長に1111年頃伝えられ、19世紀まで同じ寺院に保存されていた。この仮面によって表される、グルキグンポと呼ばれるサキャ派の守護神は特別な姿の大黒天(マハーカーラー)でした。これらの仮面劇の中でも、大黒天は主神の役を演じるのが普通であるとロルフ・スタンは指摘しています。生身の人間は飛べませんが、大黒天はインドから飛んでくるに違いありませんね。

Der König von Gotsa, Lhasa
右手に金剛杵を持つGotsaの王 ラサ

この仮面舞踏が、どのようにして、また、いつ始められたかはよくわかりません。古いものは少なくとも10世紀に遡るといいます。あるいは、後期密教に属する8世紀の秘密集会タントラに遡りさえするといわれる。これらの仮面劇は、今一つの重要な要素である「地鎮」あるいは土地の「取得」の予備的な儀式としても行われました。金剛杵/こんごうしょう(あるいは金剛橛/こんごうけつ)によって聖域を区切るのですが、すでに八世紀のタントラの中に確認されています。そこには「金剛杵の踊り」と呼ばれる仮面のない舞踏が含まれていた。ニンマ派の金剛橛の儀式はパドマサンバヴァによってインドから持たらされ、チベット最初の僧院であるサムエ寺建立の際の「地鎮」に用いられました。後には、他の派でも詳細な舞踏の手引きが作られましたが、スタンはこれらの儀式は全てインド起源であるとしています。

密教と土地神との関係は深く、例えば最澄が比叡山延暦寺を開く時に場所を譲り受けたとされる日吉の神である翁、つまり大山咋神(おおやまくいのかみ)は山王権現と呼ばれるようになる。これは中国の天台山国清寺で祀られていた地主神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」に由来します。禅竹の『明宿集』では、宇宙神・守護神としてのもっと壮大な規模の翁が語られるのですが、これは土地神としてのいわれを指し示しているかのようです。それに関連して三番叟の鈴の段は地鎮の儀式を模しているのではないかという説もなくはない。

チベットの追儺の行事

18世紀の中国の書物や当時のイタリア伝道師の記録によると、新年の日、ダライラマはポタラの頂上で宴会を催し、中国人やチベットの役人を集めて戦争の舞踏をみせたようです。ちなみにダライラマのダライは、モンゴルの支配者アルタン・ハーン(1502‐1582)がデプン寺の僧院長を務めたソナムギャムツォに与えた称号で、モンゴル語で「海」を意味します。他の日に行われるのいくつかの催し物の後、30日には、ルゴンゲルポと呼ばれる「身替りの魔王」を追い払う式、つまり、追儺の儀式が行われました。

一人のラマがダライラマに扮し、民衆の一人が魔王に扮するのですが魔王は体の半分を白、半分を黒に塗る。魔王は家々を回ってその家の災禍を引き受け、かわりに寄進を受けて歩きます。そして30日になるとダライラマに扮した僧の前に現われ、宗教的な舌戦を繰り広げた後、クルミ大の骰子を振って勝負を着けるのですが、魔王の骰子は全て「負」、ダライラマの骰子は全て「勝」に塗ってある。魔王は怖れをなして逃げ出し、その後を大勢の人々が追いかけ、矢を射たり鉄砲や大砲まで撃ったりするらしいのです。これは凄まじい。川の対岸の牛魔の山(牛頭山)の頂上のテントまで逃げ込んで、大砲を鳴らされると、さらに遠くへ逃げて一年先にならないとチベットには帰ってこれないのだといいますから徹底した鬼払いの行事であるようです。

歌川国貞『あやつり三番叟』
19世紀 メトロポリタン美術館

操り三番叟の来歴

さて、「操り三番叟」の方ですが、どのような来歴なのか見てみることにしましょう。ことの起こりは、嘉永六年(1853)に大阪の歌舞伎役者、二代目嵐璃珏(あらし りかく)が大阪で演じた「初櫓豊歳三番叟/はつやぐら たねまき さんばそう」を江戸のお目見え講演で演じたのが大当たりとなった。初演の時は、題目を『柳糸引御摂/やなぎのいとひくやごひいき』と改め、大阪公演と同じように翁と千歳役はゼンマイ仕掛けの人形振りで演じられ、三番叟は今回ご紹介するような操り人形振りになっていました。この操り人形は、いわゆる文楽でいう木偶(でこ)人形のように人の手で操る人形ではなく、糸で操るものでした。当時は「南京操り」と呼ばれていたようです。

その初演の詞書を篠田瑳助が、曲を四代杵屋(きねや)弥十郎と五代杵屋六三郎が改作しましたが、オリジナルである能の三番叟の音曲は結構耳につく上に上手に編曲されていて一度聞くと耳から離れません。歌舞伎の音楽は、歌ものである長唄と語り物である浄瑠璃に大きく分かれますが、この所作事(舞踏劇)の一つである『操り三番叟』の音楽は長唄です。そして、明治三十二年(1899)には五代目尾上菊五郎が西洋のマリオネットに似せて実際のゴム糸を体に繋ぎ空中に浮いて見せたという記録が残っているようです。三番叟も空中を飛んだのです。

糸あやつり

糸操り、つまりマリオネットのような人形が日本に伝来したのは、戦国時代かその前の室町時代といわれますが、江戸にお目見えしたものとしては、元和(げんな)三年(1617)の文献に今の日本橋に浄瑠璃(語り物)狂言の糸操りが興行されていたという記載があらわれます。徳川家康が亡くなった翌年のことです。寛永(1624-1645)年間に、説教節の歌い手たる太夫であった初代結城孫三郎が興行主となって説教節を糸操りで見せていた。京都の角太夫芝居では奇術的な演出がなされた舞台上の仕掛け物やゼンマイ仕掛けの人形なども加わってくるようです。しかし、江戸時代中期にあたる明和(1764-1772)の頃には上方で糸操りは殆ど絶えてしまいますが、江戸では「さんばそう、さんばそう、南京あやつり」と呼びながら三番叟の糸あやつり人形を行商する姿が山東京伝の『錦の裏』という洒落本に書かれるくらい流行していた。しかし、宝暦(1751-1764)の頃には、義太夫節が手操り人形で演じられるようになり、説経節そのものが廃れていくにつれ江戸の糸操りも少しずつ衰退していったようです。復活するのは明治になって糸操り中興の祖といわれる九代目結城孫三郎によってでした。

日本の正月に行われた三番叟の木偶廻し

チベットの詩聖ミラレパの歌を訳したおおえ まさのりは文楽の頭作りの名人と言われた大江巳之助(おおえ みのすけ)(1907-1997)のご子息にあたります。お父さんが子供の頃には、木偶(でこ)を入れた箱を天秤棒に担ぎ、その箱に竹竿をさして木偶を掛けて、嫁さんが三味線を弾き、おじさんが浄瑠璃語りしながら辻芸をしていたといいます。山東京伝作、北尾重政画による四人詰南片傀儡(よにんづめ なんぺん あやつり)に出てくるような風景が実際に徳島にはまだあった。

歌川国貞(二代豊国/1786-1865)
文楽 相撲人形

木偶廻しの起源は兵庫県は西宮にある戎(えびす)神社の傀儡子(くぐつし)と呼ばれる人形遣いにはじまると言われています。戎神社は不具の子として流された蛭児命(ひるこのみこと)を祀っています。17世紀の終わり頃には、同じく境内に祀られている道君坊百太夫(どうくんぼう ももだゆう)という神を信仰する当社の神人(じにん/神社の雑役係)たちが産所と呼ばれる社の周囲に40軒ほど軒を連ねていました。彼らが福の神のえびす舞いや五穀豊穣を祈願する三番叟の舞い、それに仏の功徳を語り物にした説経節を人形で演じて諸国を回った。こうして全国にえびす信仰を広めていったのです。それは、摂津名所図会などにみられるように一人で手を使って操る人形だったと思われます。

室町末期から江戸初期にかけて成立した『室町物語』のなかには、すでに大黒とえびすが大活躍する「大黒舞(大悦物語/だいえつものがたり)」の話が収録されていますから、すでに大黒、えびすを言祝ぐ環境は整っていたのでしょう。立身出世と福神信仰に由来する祝言物です。因みに文楽興行が開始されたのは竹本義太夫が大阪に竹本座を創設した1684年でした。

飛べ大黒天・踊れ操り三番叟

三番叟の起源を考えるとなかなかミステリアスで面白いのですが、チベットの寺院での仮面舞踏劇が仏法の守護神たる大黒天(マハーカーラー)を主神として執り行われる事、もどき役がこの祭りには存在する事、ポタラでの身替りの魔王の追儺の儀式、おまけに民間レベルの祭りでは土地神へ奉納される演劇が豊作の予祝行事としての性格を持つこと、一部の祭りにおいては祖父母役と謎の人物の3人が登場する事などを考え併せると、三番叟と大黒天との関係を考えてみる価値はおおいにありそうです。猿楽のメッカだった多武峰(とうのみね)寺での修正会の鬼払いや東大寺二月堂の「お水取り」で知られる修二会で、鬼の役割をする摩多羅神(またらじん)や毘那夜迦(びなやか)という存在と大黒天とが関系していることは彌永信美さんの指摘にありました(彌永信美『大黒天変相』仏教神話学Ⅰ)。やはり、大黒天はインドからチベットや日本に飛んできたのかもしれない。地主神としての大黒天と大国主命とは習合しやすかった。そして三番叟との関連を考える時、中世の神仏習合の不可思議さに思いを馳せてしまいます。それが、田楽などともに猿楽(能)に取り入れられ、江戸時代を経て歌舞伎や糸操りなどの人形芝居の中で熟成されていった。

そのような中からこの「操り三番叟」も生まれた。しかし、能の演目を歌舞伎でアレンジし、それをまた能が歌舞伎のように演じたとしても何も面白くはないでしょう。この『操り三番叟』の面白さは操り人形の動きを人間が真似ることにあった。それも元々能の最も重要な作品であると同時に門付芸などで皆が知っていたものだった。能の三番叟を知っていれば、これがめちゃくちゃな三番叟だと分かる。パロディーなのです。折口信夫によれば、『三番叟』も『翁』のもどきだったのです。この二重に捻ったアイデアが素晴らしかった。こういった作品が現代に作れるかというとこれはかなり難しい。というのも、20世紀後半から日本人にとって古い芸術の意味が急激に失なわれていったからです。そういった本質的なものにどうかして繋がっていけないと本当の革新の可能性がない。ともあれ江戸の至芸たる操り三番叟をゆっくりご覧くださいね。

 

全部で18分くらいの動画ですが、残念ながら演者たちに関する記載はありません。しかし、いずれも名手です。