「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part1 国見歌から催馬楽まで

 

忘れられない歌を 突然聞く
誰も知る人のない 遠い町の角で
やっと恨みも嘘も うすれた頃
忘れられない歌が もう一度はやる
愛してる愛してる 今は誰のため
愛してる愛してる 君よ歌う
やっと忘れた歌が もう一度はやる
(中島みゆき『りばいばる』)

思ひ出すとは 忘るるか
思ひ出さずや 忘れねば
(『閑吟集』八五)

真鍋昌弘『中世の歌謡』閑吟集の世界

中島みゆきさんは、僕より少し年上だから学生時代の頃からよく聞いていた。その詞にはジンときたものだった。ほぼ同時代を生きてきたといっていい。おお、青春の1ページ‥‥感傷はやめにしよう。谷川俊太郎さんは、彼女のファンだとか。ご本人に聞いたわけではないけれど噂ではそうらしい。彼女の歌詞と谷川さんの詩に使われる言葉との関係をみてみたら面白いかもしれないけれど、今回は、まず古代からの伝承文学と歌謡の流れなどを追ってみたいと思っている。伝承文学と歌謡とは互いに手を取り合ってきた。真鍋昌弘さんの『中世の歌謡 閑吟集の世界』には、恋やつれに関するこんな興味深いつながりが指摘されている。

一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべくわが身はなりぬ (『万葉集』巻四)

なんぼ恋には身が細る 二重の帯が三重にまわる(『松の葉』三味線組歌裏組/江戸中期歌謡集)

こなた思うたらこれほど痩せた 二重廻りが三重廻る(『山家鳥虫歌』/江戸中期民謡集)

春二重(ふたえ)に巻いた帯
三重に巻いても余る秋
暗(くら)や涯(はて)なや塩屋の岬
見えぬ心を照らしておくれ
ひとりぽっちにしないでおくれ
(美空ひばり 『みだれ髪』より 星野哲郎 作詞)

みだれ髪、憎や、恋しや、辛や、重たやなどの言葉は『閑吟集』にもみられる中世近世小歌ゆかりの語句であるという。作詞者の意識にあったのか、なかったか分からないけれど、小歌の抒情の流れの中に存在するある類型と見ることができるようだ。歌は世につれるだけでなく、世は歌につれるのである。

 


歌謡とは歌われる歌である。当然、上古から歌謡はあった。代表的なものは、万葉集は舒明天皇の「望国歌」につながる国見歌である。国見は歌垣と共に行われた春のはじめの行事であり、山行き、山遊び、花見に連なる春山入りの行事だった。天文暦が取り入れられた推古朝以降、春の国見と秋の新嘗祭に加えて正月の儀礼が加わったと言われる。古代には歌謡は宮廷社会で発達し、平安末以降は民間の芸謡が勃興し、宮廷歌謡は衰退をみた。


 

上代の歌謡 国見と花見・歌垣・宮廷歌謡

土橋寛『古代歌謡の世界』1973年刊

上代の歌謡は、古事記・日本書紀・万葉集にみられる。記紀にある歌謡は、伝承者・作者が作った物語のための歌謡と物語のために取り入れた既に存在した歌謡とに分けることができる。後者は独立歌謡と呼ばれ、酒宴や国見での歌謡、あるいは、当時の民謡・芸謡・童謡(わざうた)などとして知ることができる。芸謡とは専門の歌手によって歌われ、歌い手と聞き手とは完全に分けられる。聴き手の娯楽としての歌謡である。平安末の今様が生まれるまで歌謡の中で大きなシェアを占めることはなかった。これに対して民謡は歌い手が同時に聴き手でもあり、宗教行事であると共に娯楽でもあった。支配者が代わっても時代の思想がどう変化しようと村の民謡の性格は変化しない。個人が泣きたい気持ちを歌いたくてもそれを皆と歌う訳にはいかなかった。その社会的機能が民謡を不変のものにした理由だと日本文学者である土橋寛(つちはし ゆたか)さんは言う(『古代歌謡の世界』)。奈良朝の風土記にある歌垣の歌のような古代民謡と明治以降の盆踊り歌である近代の民謡とは驚くほど似ているというのである。土橋さんのこの著作からご紹介する。

 

1.国見歌と花見歌

古代の国見歌と現在の民謡を比べてみたい。

大和は 国のまほろば
畳なづく 青垣
山ごもれる 大和しうるはし (古事記三十)
千葉の葛野を見れば
百千足(ももちた)る 家庭も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ(古事記四一)
おしてるや 難波の埼よ
出で立ちて わが国見れば
淡島 淤能碁呂島(おのころしま)
檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 佐気都島見ゆ(古事記五三)

高い山から谷底見れば 稲は苗代の花盛り (弘前 盆踊り歌)
八溝山から谷底見れば 瓜や茄子の花盛り (茨城 ヤーハー節)
桜山から瀬戸内見れば 瀬戸の島山真帆片帆(三原 やっさ節)

花盛りを讃めることは豊作の予祝行事であった。「田主さんの山には栗の花が咲いたげな 七重花が八重にさいたげな(山口 田植え歌)」山行は、山菜取り草取りと同時に宗教行事であり、男女の出会いを提供する場でもあった。栗や藤の花房は稲の穂を連想させるという。同じように花讃めに対して国讃めがある。豊作への祝歌が花讃め歌であるなら国讃め歌は郷土の繁栄の祝歌、お国自慢となる。

三諸は 人の守る山
本へは 馬酔木花咲き
末へは 椿花咲く
うら麗し 山ぞ 泣く子守る山 (『万葉集』)

人々が朝夕に眺める山は美しく花々の咲き乱れるたまふりの山。花讃め歌と同時に山讃め歌、国讃め歌ともなっていよう。国見は景色を愛でるのだが、とりわけ雲と煙への言及が注目される。景色の中の微妙な兆しを見るのは、そのような不定形なものに意を注ぐことが肝要にもなるのだろう。

2.歌垣の歌

天飛(あまだ)む 軽嬢子(かるおとめ)
したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(『古事記』)

夏草の あひねの浜の 蠣貝に
足踏ますな 明かして通れ(『古事記』)

歌垣の歌は異性を誘う歌が大胆にも歌われる。上の歌は古事記にある軽太子(かるのひつぎみこ)と母を同じくする実妹の軽大朗女(かるのおおいらつめ)との禁断の恋を描いた話しに登場する歌である。歌の内容が、話の流れとは繋がらないので独立歌謡であろうと言われている。軽は市の開かれた所であることから、上の歌は軽の市の歌垣で男たちが軽の乙女たちにこっそり寝て行きなさいと誘い、下は夜の浜は貝殻で足を傷つけるから明るくなってから帰ってよと男を引きとめる歌である。集団で行われる歌垣では大胆な歌詞が多い。誘う歌ばかりではない。相手を袖にする歌、結婚は早めにしろと忠告する歌、老いては懐旧の情と若者への教訓を歌うものなど特に現在まで残っている民謡には面白いものが多い。

二十過ぐれば奥山つつじ 咲いておれども人が見ん(石川 雑謡)
器量がよいとてけんたいぶり置きやれ、深山奥山その奥山の、岩に咲いたる千里のつつじ、なんぼ器量よく咲いたがとても、人が手出さなきゃ、その身そのままで果てる(岐阜 小大臣)
おらも若い時ゃ山でも寝たけゃ 山で木の蔭 草のかげ(岩手 さんさ踊り)

3.宮廷歌謡

東京楽所『日本古代歌謡の世界』CD 神楽歌、東歌、久米歌、田歌、倭歌など珍しい音源が多様に収録されている。特に一曲目の神楽歌の「縒合(よりあい)」は名曲、名演である。

正月行事が宮廷に取り入れられるようになって、春のはじめの国見の儀礼は次第に行われなくなる。宮廷行事も本質的に呪術行為であり、予祝儀礼であったことは民間と同様であったが、そこには当然政治的な意味合いも帯びていた。寿祝されるのは天皇であり、寿祝するのは中央や地方の氏族の長またはその代理であった。豊明(とよのあかり)などとも呼ばれた酒宴は新嘗会などの重要なファクターであり、主人の繁栄を寿ぐ儀礼的な「宴座」から主客入り乱れる無礼講たる「隠座」へと連続的に行われた。主人側が酒を勧める勧酒歌と客の方からの答礼となる謝酒歌がある。主役の天皇の傍で接待する役は「共食者(アヒタゲビト)」と呼ばれ、親王や一世源氏が勤めた。このような接待役を女性がつとめる場合、宮廷に限らないが、容姿の美しさ、美声が要求され、次第に専門化していった。民間では主人の子女がその役を果たしていたが、やがて接待役の女性が登場し、遊女と呼ばれるようになる。傀儡子(くぐつし)などの芸能者とも関係が深い。彼女たちが後代の今様などを流行させることになるのである。

宮廷儀式の中で最も重要なものは天皇即位に行われる大嘗祭である。それは中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上となる。「臣」姓氏族による勧酒的性格を持つ寿歌と「連」姓の伴造氏族による職制に即した忠誠を誓う戦歌謡に大きく分けることができる。前者には吉野に住む国栖(くず)が大御酒を応神天皇に捧げて歌った国栖の歌、天語(あめがたり)連の伝えた天皇への服属を誓う天語歌などがあり、後者には来目(くめ)部の戦時の酒宴の歌である来目歌がある。

白樺の生に 横臼を作り
横臼に 醸みして大御酒
甘らに 聞こしもち飲(を)せ まろが親(ち)(『記紀』国栖歌 部分)

 


宮廷における神楽歌・催馬楽・小歌の時代がやってくると外来の楽が日本の楽に融和し、歌詞が地方民謡の鄙びた性格を持ち始める。やがて、従来の宮廷歌謡は下火となり、平安時代末には最新流行の芸謡である今様が一世を風靡するようになる。こうして、中世は風俗的な歌謡の時代になっていくのである。


 

神楽歌

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

宮廷で行われる神楽は大嘗会の琴歌神宴に発したという。この神楽歌は、かがり火を焚き「庭火」の曲を奏する庭火に始まり、神降ろし(採物/とりもの)、神遊び(前張/さいばり)、神上がり(明星・其駒)という構成になっている。これはもともと石清水八幡の神遊びを宮廷に参上して行ったものが、宮廷の行事化されたものであるとは折口信夫の説である。天皇はまれ人神であり、群神を伴う長い旅路を象徴する庭でその経過を再演し、憑代である採物を人長が持ち、神の降臨によって一体化する。神遊び歌(前張)は一種の宴会歌謡であり催馬楽(さいばら)と同じく民間のものを多く取り入れている。このような神遊びの形態は民俗芸能にも多くみられ、笹の葉を先端に残した竹の枝によるサゲ杖を持った音頭取りであるサゲが「田の神おろし」の歌を歌って田の神そのものになっていくという「太田植」の神事などと同じであるという(臼田甚五郎『神楽歌』解説)。「明星」の歌にはじまって神々との別れを惜しみ、神を送る歌が終わると、神宴は御遊へと移り、雅楽、催馬楽の演奏となるのである。神楽歌の中から、もともとは恋の喩え歌であった「前張(さいばり)」と最後の曲である「神上」を掲載しておく。本と末とに分かれて歌われている。さしばりとは獣の害を防ぐために張り巡らした木綿の垂(しで)のことである。

「前張」
本 さしばりに 衣は染めむ 雨降れど
末 雨降れど 移ろひがたし 深く染めてば
本方 あちめ おおおお しししし
末方 あちめ おおおお しししし

「神上(かみあげ)」
本 すべ神は よき日祭りつ 明日よりは 八百万代を 祈るばかりぞ
末 すべ神の 今朝の神上に あふ人は 千歳のいのち ありといふなり

 

催馬楽

平安初期、清和天皇が即位した時の大嘗会が貞観元年(859)に行われた。大極殿の前に設けた悠紀、主基の両殿にて大嘗祭が終わると悠紀の帳で宴(うたげ)が開かれ、悠紀の国の産物が献上された。主基の座に移ると悠紀の国が風俗の歌舞を奏し、この国の献上した衣料を親王以下諸臣に賜った。この夜、天皇は豊楽殿の後房に留り文武百官も侍宿し、親王以下参議以上が御在所に侍り、琴歌神宴に終夜歓楽する。次の日は悠紀、主基の順番が入れ替わって同様の神宴が開かれる。三日目は悠紀・主基の両帳が取り払われ豊楽殿にて天皇が百官のための宴を開き、多治氏が田舞(たまい)、伴・佐伯の両氏による久米舞、阿倍氏の吉志舞(きしまい)、内舎人(うどねり)が倭舞(やまとまい)を、夜には宮人の五節舞が披露されたのである。この時には催馬楽の歌が多く取り上げられ、歌われた。同年に尚侍(ないしのかみ)であった広井女王(ひろいのひめみこ)が八十歳余りで亡くなったと記録に残っている。歌の名手であり催馬楽をも得意とした。諸大夫や少年の好事者が多くその歌を習ったという。この頃には既に催馬楽が宮中で盛んに歌われていたことになるのである。

催馬楽は、特に一条帝(980-1011)の頃が最も盛んであったが中世に入って衰退したといわれる。諸国から貢物を朝廷に運ぶときに歌われた歌というのが一般的な解釈であるが、万葉集にある『我駒(あがこま)』の歌が使われていることから馬を駆り催す歌であることは間違いない。こうしてみると万葉集の影響力は大きいのだ。それから唐楽の「催馬楽(さいばらく)」の拍子にあわせて歌われたという説、神楽歌の前張(さいばり)からサイバラになったなどの説があり、逆に催馬楽が前張に取り入れられ神楽歌になったなどの説があるようだ(臼田甚五郎『催馬楽解説』)。催馬楽は、律と呂という旋律で大別されているのだが、律の冒頭にある『我駒』をご紹介する。真土山(まつちやま)は特定の山というより、どの山にも当てはめることができる山である。

いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山 あはれ 真土山 はれ
真土山 待つらむ人を 行て早(はや) あはれ 行きて早見む

催馬楽に歌われる世界は多様で、国見歌に繋がる在所の名物やお国自慢も多い。それから、歌垣歌に繋がる愛人との別れ、野遊びの求愛場面があり、博打の歌など日常世界にいたるまで広く人間世界を描いている。和琴、箏、琵琶、笛、笙、篳篥(ひちりき)で伴奏され、平安貴族の華麗な御遊(みあそび)と称された。大掛かりな御遊の饗宴だけでなく日常の色々の場面で口ずさまれていたのだろう。民間の歌謡が宮廷に浸透していた結果である。馬を催すとは「客人(まろうど)」が馬でやって来て馬で帰るというイメージが強く、その意味で「まれ人」の来臨と帰還という神楽歌と同じ構造を持つのではないかとは臼田甚五郎氏の説である。

なかなか良くできた催馬楽神楽の動画です。地鎮のために鈴を振りながら舞う神楽が登場しますので是非見てください。江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介しましたが、三番叟を考える上で貴重です。久喜市公式動画チャンネルより(約11分)

 

催馬楽と源氏物語

ちょっと面白いのは源氏物語と催馬楽との関係である。この物語の中で催馬楽の語句、曲名などを含めて使われている例は、延べ56曲、曲数にして23曲にのぼるという。現存する催馬楽が61曲であるから三分の一を超える数である。『源氏物語』54帖のうち催馬楽が登場する巻は29巻に及ぶ。催馬楽は、民謡風な風俗歌を外来の雅楽調で歌った。舶来音楽に影響を受けた和製ポップスといったところだろうか。

「胡蝶」の巻には、冷泉帝が朱雀院に御幸の際、楽人を乗せた船が池を往来する華やかな宴会が催され、呂律の最初の曲『安名尊(あなとうと)』が歌われたとある。これは正式な宴席に歌われる催馬楽であった。

「物の師ども、ことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴ども調べ、いとはなやかにかきたてて、『安名尊』遊びたまふほど、『生けるかひあり』と何のあやめも知らぬ賎の男も、御門のわたり隙なき馬、車の立処にまじりて笑みさかえ聞きたり。(『源氏物語』「胡蝶」)」

あな尊 今日の尊さや 古(いにしへ)も はれ
古も かくやあれけむや 今日の尊さ
あはれ そこよしや 今日の尊さ (『安名尊』)

これに対して笛か扇拍子程度の伴奏で気楽に歌われる場合や鼻歌まじりに口ずさむ場合もある。「花宴」の巻には、ほろ酔いの源氏が「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってくる女をとらえて一夜をともにする。女は名も明かさず、扇だけを交換して別れた。一ヶ月後、右大臣の藤の花の宴で、ここぞと思う几帳の前に立ち止まり「扇をとられてからき目を見る」と催馬楽の『石川』の替え歌を歌ってさぐりをいれた。「高麗人の言い違いですか」という者は事情を知らない者である。そこに、返事をせずに溜息をつく方がいるのである。色好みの源氏には、この種の例は多いという(仲井幸二郎『源氏物語と催馬楽』)。

「そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、 『扇を取られて、からきめを見る』と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。『あやしくも、さま変へける高麗人(こまうど)かな』といらふるは、心知らぬにやあらむ。(『源氏物語』「花宴」)」

石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔いする
いかなる いかなる帯ぞ 縹(はなだ)の帯の 中はたいれなるか
かやるか あやるか 中はたいれたるか(『石川』)

このように源氏物語が書かれた11世紀初頭は、催馬楽が最も盛んな時代であった。催馬楽の歌詞は日常的につかわれるほど宮廷生活に浸透していたことになるのである。

 


今回は「国見歌から閑吟集へ」と題し、その part1 として「国見歌から催馬楽まで」をお送りした。歌は世につれるのだが、その中に見られる強力なファクターは万葉集だったことに今さらながら驚かされる。そして民謡の不変性を教えられた。若い人が民謡から離れていることに危惧を抱く人も多い。農村や町の共同体が失われていく現在では、皆で盆踊りを踊り、歌うということはなかろう。僕は、民謡が芸謡として特化するより、どんな人でもよいから町の盆踊り大会で民謡を小さな子供たちに歌って聞かせる、あるいは一緒に歌うことはできないのかと思っている。それが本来の民謡のあり方なのだから。


次回は、いよいよ今様と小歌をご紹介する予定です。お楽しみに。