「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そして

文机房隆円『文机談』13世紀 宮内庁ホームページ

11世紀になると「今めかしたる」歌が一世を風靡し始める。「今様」である。催馬楽が徐々にその地位を今様に明け渡しはじめるのである。今様は、当時の最新流行のポップスであった。都市という生活環境が発達を見せ、人々が経済的余裕と余暇を持ち始めれば、芸謡を行う人々がそれを生業にしやすい環境が整っていったのである。『新猿楽記』には、熱狂する市井の姿が生き生きと描かれていた。それらの歌を傀儡女(くぐつめ)、遊女、白拍子などが歌ったのだが、その辺りのことは、沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』踊る大黒に三番叟に書いておいた。ちょっと、つけ加えておくと、遊女らは白拍子という素拍子で舞うのだが、もともと男巫(おとこみこ)たちの舞であったから巫女(みこ)の舞とは違って荘重なものであった。従って遊女たちが白拍子で舞えば自ずと男装ということになる。もともと白拍子に男装と神事性は欠かせないという(林屋辰三郎『歌謡と芸能』)。

梁塵秘抄

13世紀、琵琶奏者であった文机房隆円が対話形式で書いた琵琶の歴史物語『文机談』には、「そのころの上下、ちとうめきて頭(かしら)ふらぬ人はなかりけり。上の好む時、下の従わざる道なし。諸道の興廃は、ただ時の静謐なりとぞ申すめる」と書かれていた。この「うめきながら頭を振っていた」人のうちで最も知られた人は後白河院である。もっとも、古代中国の虞公(ぐこう)や韓娥(かんが)のように歌声の響で梁のうえの埃を舞いあがらせていたのかどうかは分からない。父親である鳥羽院も催馬楽を好んで歌っていたというから血筋だろうか。藤原俊成に『千載和歌集』を勅撰させたことでも知られる人だが、俊成の和歌に関する『俊成口伝』にならって『梁塵秘抄口伝集』全十巻を著し、勅撰歌詞集十巻を併せて『梁塵秘抄』二十巻とした。

後白河院『梁塵秘抄口伝』写本 国立国会図書館蔵

後白河院は、嘉応元年(1169)には、出家し、法皇となっている。33度に亘る熊野詣や京都内外の寺社への参詣、東大寺、比叡山での受戒など仏教への傾倒も一通りではなかった。しかし、重要なことは瓦坂法印家寛(かわらざかほういん かかん)に師事して声明にも研鑽を深めていたことである。言霊にも声霊にもシュプラッハ・ゲシュタルトゥング(振動が形態を形成するクラドニ図形と関係している)にも浸かっていたのである。「たとひまた今様うたふとも、などか蓮台の迎へにあづからざらむ」と一音成仏ならぬ一声成仏を確信していた。遊女でさえ一念の発起あれば極楽往生しうるし、法文の歌自体経文の尊い文章から離れたものではない、例え、世俗の文字の業であっても仏法を讃嘆する縁となり仏法を広める因ともなろうというわけである。

仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(仏歌二四首より)

親鸞筆 『三帖和讃』 専修寺蔵

『梁塵秘抄』勅撰歌詞集の現存する巻一と巻二のうち巻二には法文歌220首、四句及び二句の神歌325首が収められている。法文歌には天台教学を軸とした法華経、浄土教、真言密教に関する内容が見られる。もし、今様が単なる流行歌謡でしかなかったのなら、後白河院のような知識人が終生夢中になるほどの意義は担い得なかったかもしれない。熊野参詣の折りの様子が『口伝』に次のように述べられていた‥‥法楽もの、長歌、心の今様、神歌などを歌いすませて、暁方皆人がしずまり、心澄ませて伊地古を歌っていると両所権現の内、西の御前からえもいわれぬ麝香の芳しい香りがしてきた。と、宝殿が鳴動しはじめ、御簾がそれをかかげて人が入ってくるかのように動いた。やがて、御神体の鏡が鳴り合って長い間揺れるという奇瑞があった。今様の歌唱が優れたものならこのような宗教的な奇瑞や霊験が起こることが、後白河院にとって、ともかくも現実であったのだろう。院が亡くなって50年後に親鸞が、日本語による声明の中でも最も秀逸とされる浄土和讃を作り上げる。

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし(雑法文歌 五十首より)

後白河院がまだ、帝位にある31歳頃、今様の師として五条の尼とも呼ばれていた乙前(おとまえ)を迎える。現在の岐阜県大垣付近である青墓出身の傀儡女(くぐつめ)であったが、その系譜をたどると目井、四三、なびき、小三、宮姫とだどることができるという。既に高齢であり、数度に及び辞退したが聞き入れられなかった。10数年を費やして専門的な歌曲の習得に励んだという。84歳の重篤の彼女を院が見舞った際、院自ら薬師如来の難病治癒の今様を歌い、乙前を感涙させたのであった。梁塵秘抄の四句神歌(しくのかみうた)のうち雑の歌は、とりわけ庶民の暮らしを彷彿とさせるような面白い歌が多い。巫女は目よりも上で鈴振りせよとか、山田の番小屋の鳴子や砧を打つ音が澄みわたるとか、天魔が八幡神に前世の報いで髪が生えないんでしょとちょっかいを出す歌とか、亀を殺(あや)め鵜の首を絞める鵜飼の後生を心配する歌だとか、恋路は陸奥へ駿河へと思いは千里を走るなどなど‥‥有名な歌をご紹介しておこう。

遊びせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(三五九)

舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 実(まことに)美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(四〇八)

頭(こうべ)に遊ぶ頭虱(かしらじらみ)項(おなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食ふ
櫛の歯より天降る 麻笥(をごけ/曲げわっぱの桶)の蓋にて命終はる(四一〇)

 


宮廷歌謡は、中央や地方の氏族の長またはその代理による天皇に対する寿歌(ほかいうた)と彼らが服属の儀礼として歌った宴会歌謡に大別できる。そのために地方からの風俗(ふぞく)歌が宮廷に集うことになるのであった。神楽歌や東遊(あづまあそび)での歌謡が引き継がれて、そこに唐楽などの外来の音楽が和風化されながら醸成されていったものが催馬楽であった。他にも踏歌、朗詠などもあったが、やがて新たなムーヴメントとしての今様が勃興した。そして、16世紀初頭・室町中期には、小歌(こうた)の時代がやってくるのである。


 

小歌とは何か

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

小歌の歌詞集である閑吟集は、古代中国の歌詞を集めた毛詩三百余編にならって三百十一首よりなり、さながら連歌のごとく関連性を持たせた構成になっている。当時、連歌は最盛期にあったが、それについては、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておいた。この『閑吟集』を誰が編集したか分かっていない。各首には小、大、近などの略符がつけられていて、それぞれの出自を指している。それは、このような種類と数になっていた。小歌231、大和節48、近江節2、田楽節10、吟詩句7、早歌8、放下歌3、狂言小歌2という割合である。小歌とは、陰暦11月、宮廷での五節の帖台の試み、つまり新嘗祭(または大嘗祭)に行われる女楽の儀式であるが、そこで典雅に歌われる大歌に対する歌で、もともと歌曲の名ではなく演ずる楽人である小歌女官のことを指していたという。古くからあるもので、それらの席で歌われた歌謡が、女房たちによって儀式以外の席でも歌われるようになり、それが遊女、傀儡女、白拍子たちによって広く伝搬されていくことになるのである。大和節は大和猿楽、近江節は近江猿楽、田楽節は田楽能、吟詩は杜甫、温庭筠、蘇軾らの詩を取り込んだ漢詩風のもの、早歌は宴曲の一節が、放下歌は散楽系の大道芸などと共に歌われた歌が、狂言小歌は勿論狂言から引用され小歌風にアレンジされた。

閑吟集と謡曲

小歌の曲節、つまり曲調や節回しは、世阿弥の『申楽談義』に見られる「小歌ぶし」の流れを引くと言われる。世阿弥については、能勢朝次『幽玄論』part2 世阿弥に書いておいた。観阿弥以前の猿楽では、優美な旋律と拍節不定の自由なリズムを持つ当時の流行歌である小歌の曲節を軸にしていたが、それに白拍子系統の曲舞(くせまい)の音曲を加味したのが観阿弥だった(徳江元『閑吟集解説』)。新たな謡曲が、曲舞の音曲と小歌とがクロスオーヴァ―することによって生まれたのである。

木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても
なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば
いま幾日(いくか)ありて摘ままし
春立つと いふばかりにやみ吉野の 山も霞て白雪の
消えし跡こそ 路となれ(『閑吟集』四)

この小歌は大和節、つまり大和猿楽から生まれた謡曲『二人静』の一節からとられている。それは、もともと古今集の読人知らずの歌や新古今集の藤原良経らの歌を綴れ織りのように繋ぎ合わせたものだった。以下のような歌ですが、謡が作られていく過程において駆動するこのぞくぞくするような編集力はまさに偉大という他はない。謡曲の合成過程を上手に描いてくれる本がぜひ欲しい。

霞立ち木の芽春雨ふるさとの 吉野の花も今や咲くらん(後鳥羽院)
春日野の飛火(とぶひ)の野守出でて見よ 今幾日(いくか)ありて若菜摘みてん(読人しらず)
春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞て今朝は見ゆらむ(壬生忠岑)
み吉野は山も霞みて白雪の ふりにし里に春は来にけり(藤原良経)

その他に謡曲から引用された作品として『俊寛』『鞍馬天狗』『鵜羽(うのは)』『籠太鼓(ろうだいこ)』『春日神子』などがある。

春過ぎ夏闌(た)けて又 秋暮れ冬来るをも 草木のみただ知らするや
あら恋しの昔や 思い出は何につけても (『閑吟集』二百二十/謡曲『俊寛』)

西楼に月落ちて 花の間も添ひはてぬ 契りぞ薄き灯火の
残りて焦がるる 影恥ずかしきわが身かな (『閑吟集』二九/謡曲『籠太鼓』)

僕の大好きな能楽師である観世喜正さんがシテ役で謡う『二人静』から「菜摘の女」の小歌に引かれたヶ所をお聞きください。この人の謡は、本当に素晴らしい。7:25頃からその場面が始ります。

 

小歌とそれ以後の日本の歌謡

『梁塵秘抄』では巫女、武者、関守、咒師(じゅし)、鵜飼、遊女、海人など職人尽くしさながら歌詞の中にそれと判る人物、その職業、その姿が目に見えていたけれども、『閑吟集』では、そのような人々の具体的な姿、生業の様子などは背後に押しやられて、あたかも個から一般へという抽象化が行われるごとく「男」「女」「世」という枠のなかにそれらが折り畳まれていくとは、秦恒平さんの『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』からのご紹介である。

小歌の八割以上を男女間の抒情的な歌で占める。ほとんどラブソングと言っていい。その愛情の表現の仕方が極めて自由であり、その調律においても極めて細やかであるといわれる。七五七五の定律が最も多いが、七七七五、七五七七、七七七七などがある。小歌は一節切(ひとよぎり)つまり尺八によって伴奏され、比較的自由に口語調に歌われたという。この尺八の伴奏による中世小歌は『隆達節』まで続くが、やがて、踊小歌を経て三味線組歌や女歌舞伎踊り歌などに継承されていく。戦国時代に三味線が日本にもたらされ、江戸時代に入り、この楽器が盛んに伴奏に使われるようになって「小唄」とよばれるようになるものが近世小唄であるが、これは、ある意味中世小歌からの一続きとして考えて良いとは、志田延義さんの説である(『閑吟集』総説)。愛情表現色々をご紹介しておく。

逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜は己が袖枕 枕余りに床広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへに疎むか (『閑吟集』一七一)

余り言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の 速さよ(『閑吟集』二三五)

余り見たさに そと隠れて走(は)して来た 先づ放さないなう 放して物を言わさいなう そぞろ愛(いと)ほしうて 何とせうぞなう(『閑吟集』二八二)

 


歌は世につれ世は歌につれ。日本人の心に添うものは、この歌謡のなかに脈々と流れ続けてきたのか、流行の波の上でたゆたってきたのか。おそらく、その両方であったろう。しかし、その中に日本人の心情に喰い込んでくるべきものが見つかるとしたら、それは何だろうか。一言では勿論語れないが、一つの例を挙げてみたい。


和泉恒二郎『日本人の心情』閑吟集を起点として

樋口夏子の雅号は一葉である。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であった。一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったという。和泉恒二郎さんは『日本人の心情』の中でその一葉の雅号への思いは〈まけじだましい〉だったという。しかし、現実の生活が窮迫していくにつれて一種の楽天的現実主義となっていったと指摘している。そして閑吟集のこの歌を彼女の日記の前歌として掲載するのである。

なにともなやなう なにともなやなう うき世は風波の一葉よ(『閑吟集五十)

「人につねの産なければ、常のこころなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも塩噌なくして、天寿を終わるべきものならず。かつや文学は糊口の為に為すべき物ならず。おもひの馳するまま、趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは、昨日の春の夢とわすれて、志賀の都のふりにしことは言わず、さざなみならぬ波銭小銭厘か毛なる利はもとめんとす。‥‥ひまあらば月もみん花もみん。興来らば歌もよまん文もつくらむ。小説もあらはさん。‥‥されど、うき世は、たなのだるま様。ねるもおきるも我が手にはあらず、造化の伯父様どうなとした給へとて、『とにかくにこえるをみまし空せみの よ渡る橋や夢のうきはし』」(樋口一葉『日記』明治26年7月)と、一葉は書いている。

桜かざして遊ぶ大宮人のような短歌仲間の集いもわすれよう。宮廷歌謡が廃れて今様や小歌の時代がやってきて、今は明治となったのだけれど、人のこころを趣くままに描き出す文学の時代が来たと言祝いででもいるかのようだ。一方で、生きていくために小商いまでせざるを得ない身の上と成り果てた。しかし、ここには、あなたまかせの処世、破れかぶれの大らかさがある。それは庶民の歌謡のなかに見られてきたものでもあるだろう。そして、何か自然という名の太母との繋がりに憧れているような感覚があるのだ。さらに一葉は書く。

「春のゆふべ よは花さきぬべしとて人ごころうかるゝ頃、三日四日のかけ斗(ばかり)に成りて一物も家にとゞめず、しづかにふみよむ時の心 いとをかし。はぎはぎの小袖の上に羽織きて何がしくれがしの会に出でつ。もすそふまれて破らじと心づかひする又をかし。身のいやしうて人のあなどる又をかし。折にふれて誰もいふなる一言のおもしろしとて才女などとたゝえられるいよいよをかし。此としの夏は江の嶋も見ん、箱根にもゆかん、名高き月花をなど家には一銭のたくはへもなくていひ居る ことにをかし。いかにして明日を過すらんとおもふに、ねがふこと大方 はづれゆくもをかし。おもひの外になるもをかし。すべて、よの中はをかしき物也。」(樋口一葉『日記』明治28年3月)

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも (中島みゆき『命の別名』より)

一葉は20歳の日記にも、世の中の事業はどんどん進んでいるのに、私たちは昔のままで何一つ成し遂げたこともなくただ歳を取るばかりだと嘆くのである。中島みゆきさんの歌詞にも若い人たちの挫折や焦燥がある。と同時に自然との繋がりを感じさせるのである。家に一物も、一銭もなくても名高き月花を眺めたいという切実な願望は何処からくるのだろうか。結局、これは国見とその歌に通じるものなのか。そして、歌謡ではないけれど谷川俊太郎さんの詩にも生きている自然に抱かれる感覚を感じるのである。

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いま兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ (谷川俊太郎『生きる』より第四連から最終第五連)