矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』やさしさの倫理とリヴァースする視線

金子みすゞ(1903-1930/本名 金子テル)
大正12(1923)年5月3日撮影 本書より

昭和二年の夏、西条八十(さいじょう やそ)は所用で九州に向う途中、下関のプラットフォームに降り立った。彼が高く評価していた童謡詩人と会う約束をしていた。プラットフォームには、それらしい人影はなかった。関門海峡を渡る連絡船に乗るためにあまり時間はない。構内を懸命に探した彼は、ほの暗い一隅に人目をはばかるように佇んでいる、一、二歳くらいの我が子を背負った彼女を見出した。二十二・三歳くらいのつくろわぬ蓬髪に普段着姿の彼女は、裏町の小さな商店の内儀のようであったという。手紙では饒舌で十枚近い消息をよこす彼女は、意外にも寡黙だったが、黒曜石のような瞳だけが雄弁に輝いていた。「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言う。彼女と言葉を交わす時間よりも、その子の頭を撫でている時間のほうが長かったようにも思われる。何事も語る暇もなく分かれたが、連絡船に乗り移る時、彼女は群衆の中でしばらく白いハンカチを振っていた。が、間もなく混雑の中に消え去ったという。

彼女の名前は金子テル。大正12年6月、テルは、『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星(金の船から改名)』という四誌に童謡詩を投稿してみた。その頃、童謡・童話の世界は驚異の発展を見せていた。大正7年、鈴木三重吉編集の月刊『赤い鳥』が、子供達のための芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動として発刊される。それに呼応したのは、泉鏡花、徳田秋声、高浜虚子、有島武朗、芥川龍之介、島崎藤村、谷崎潤一郎、佐藤春男、菊池寛、北原白秋、そして西条八十ら、錚々たるメンバーだった。

翌年、斉藤佐次郎によって『金の船』、その翌年にも千葉省三によって『童話』が生まれ、三大童謡・童話雑誌が出揃うこととなる。大正14年にはラジオ放送も始まり、白秋の『からたちの花』『待ちぼうけ』、雨情の『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などがラジオで放送されるようになった。雑誌が文化を牽引した時代だったのである。『赤い鳥』の選者は北原白秋が、『金の船』は野口雨情、『童話』は西条八十が選者だった。彼らは、これらの雑誌に盛んに作品を発表し、自らが投稿欄の選者を務め、その評も書いた。希望に溢れる若い読者がそれに呼応しようとした。大正デモクラシーの良き時代であった。下関の商品館の一角に書店の小さな出店を任されていたテルは、そんな読者の一人だった。

テルは西条八十の詩の世界に惹かれた。この本の著者である矢崎節夫(やざき せつお)は八十とテルの作品世界の共通性を挙げている。

蟻 蟻 寂しかろ
はこべの葉っぱに ついてきた
道権山の 黒蟻を 神田の通りで 放したが
蟻 蟻 寂しかろ 路がわからず さびしかろ (西条八十『蟻』大正9年)

思いだすのは雪の日に 落ちて砕けた窓硝子
あとで あとでと思ってて ひろはなかった窓がらす
びっこの犬をみるたびに もしやあの日の窓下を とほりやせぬかと思っては
忘れられない、雪の日の 雪にひかった窓がらす(金子みすゞ『硝子』)

西条八三(1892-1970)

ここにあるのは、小さな者たちへの眼差しとやさしさゆえに生まれる倫理性というべきものであろうか。テルのペンネームは「みすゞ」という、篠竹のことを指すけれど、もともと「信濃の国」にかかる枕詞である「みすゞ刈る」に由来すると言われる。だが、筆者は、万葉集の「信濃」の国にかかる枕詞は「みこも刈る」であり、この「みこも」を江戸時代に賀茂真淵が「みすゞ」と読み間違えたために普及した言葉だという国文学者の稲岡耕治の説を引いている。アララギ派の詩人は、この「みすゞ」を好んで使っていたというのだ。

投稿してから三ヶ月後、みすゞは逃げ出したいほどの気持を抑えて、9月号の雑誌のページを開いた。『童話』には彼女の作品『お魚』『打ち出の小槌』が、『婦人倶楽部』には『芝居小舎』が、『金の星』には『八百屋のお鳩』が、『婦人画報』には『おとむらい』が入選していた。特にこの『おとむらい』は童謡欄ではなく抒情小曲欄に掲載されていて、後に西条八十編による『現代抒情小曲選集』に選ばれている。みすゞの作品は、優れた童謡詩人のそれとして、このように最初から受け入れられていたのである。

海の魚はかわいそう

お米は人につくられる
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で麩をもらう

けれども海のお魚は
何にも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる

ほんとに魚はかわいそう(金子みすゞ『お魚』)

クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)詩
『とんでいけ海のむこうへ』バーナデット・ワッツ画

この『お魚』ともう一つの『打出の小槌』について西条八十は『童話』誌の選評にこのように書いている。「言葉や調子の扱い方にはずいぶん不満の点があるが、どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じはちょうどあの英国のクリスティーナ・ロセッテイ女史のそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力していただきたいとおもう。」クリスティーナ・ロセッティはあのラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹にあたる。やはり詩人で童謡詩も多い。興味深いので、みすゞの作品と比較してみていただきたい。

 

もしも ネズミが空をとべて
もしも カラスがすいすいおよげて
もしも 魚があるいたり
おはなししたりできるなら
わたしだって
ねずみやカラスや魚になってみたい

ネズミが空をとべたなら
とおくへとんでいってしまいそう
カラスが水の中をおよげたら
灰色にかわってしまいそう
魚があるいたり おはなしできたら
さあ いったいなんていうかしら ? (クリスティーナ・ロセッティ『とんでいけ海のむこうへ』より 高木あきこ訳)

 

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)は速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』)

 

上 海上アルプスと呼ばれる青海島  下 仙崎の街と仙崎港

金子みすゞは、明治36年(1903)山口県長門市仙崎に生まれた。日本海に面した漁師町である。向いには、海上アルプスと異名をとり多くの文人が訪れた風光明媚な青海島(おおみしま)がある。大型の真鰯である大羽鰯の獲れるシーズンには町は祭りのようになったという。土佐の津呂、紀州の太地とならぶ捕鯨基地でもあった。このような漁業を基盤にみすゞの生まれた明治の末から大正にかけて小さな町にもかかわらず芸者が三、四十人もいて、遊郭も七、八件あるような豊かさを誇っていたようだ。

父庄之助、母ミチの長女として生まれた。その父は下関の上山(うえやま)文英堂という叔母フジの嫁ぎ先であった書店の支店長として清国にある営口という町に赴任した。大連の近くだが、折からの反日運動によってこの営口で殺害される。テル(みすゞ)が三歳になろうという時だった。兄弟は、兄の堅助と弟の正祐(まさすけ)がいたが、叔母フジと嫁いだ上山文英堂の店主であった上山松蔵との間には、子供がなく、当時一歳だった正祐が養子に出された。それが悲劇の序章となるのだが、まだ誰も予想だにしなかったことである。

それらの関係もあってのことだろうが、金子文英堂という書籍と文房具を売る近辺の大津郡で唯一の書店を開業することになる。祖母ウメ、兄堅助、母ミチ、そしてみすゞとの四人暮らしだった。母は物静かで賢く美人で鈴を震わせるような声であったという。丁稚にさえ「あなたは本屋さんにきたのだから、本をたくさん読みなさい」と言ったような人で、文学志望する彼に「雲が流れる」という文章には何通りもの書き方があるのだと教えたとも言われている。店には、いつも子供たちの笑いが絶えなかった。

「母さま私は何になる。」
「いまに大きくなるんです。」

杉のこどもは想います
(大きくなったらさうしたら
峠のみちの百合のよな
大きな花を咲かせよし
ふもとの藪のうぐひすの
やさしい唄もおぼえよし‥‥‥。)

「母さま、大きくなりました
そして、私は何になる。」
杉の親木はもうゐない
山が答へていひました
「母さんみたいな杉の木に。」(金子みすゞ『杉の木』「童話」大正14年6月号に掲載)

みすゞは瀬戸崎尋常小学校、大津高等女学校を卒業した。級友たちは異口同音に彼女の優しさ、人の悪口を決して言わない性格の円満さ、笑顔の美しさ、頭の良さを指摘している。一度、先生にあてられて答えに窮していた時、ふと見るとみすゞは居眠りしている。あたらなければよいがと思っていると「金子さんはどうですか」と先生は問う。すると眠っていたはずの彼女は、すっくと立ち上がってすらすらと答え、級友たちをあっと驚かせた。「こっくり正解物語」は、一度ではないらしく下級生にも知れ渡っていたという。

大正7年、叔母のフジが亡くなった。翌年は、みすゞが女学校を卒業した年にあたるが、妻フジを亡くした上山松蔵と母ミチとの再婚が決まった。その後、兄堅助が結婚し、みすゞは、上山文英堂の手伝いをするために母のいる下関に移った。文英堂は、下関の中心部にあり、店員が常時5,6人いる比較的大きな書店で、洋書も扱い中国の営口や大連にも支店を持っていた。日露戦争当時は日本人が多く中国に進出し、日本の書籍に飢えた時期があって、成功を収めた。みすゞはというと、商品館と呼ばれた幅2.5メートルの道の両側にずっと小さな店の並ぶ一角にあった文英堂の支店を一人任されていた。好きな本に囲まれ、好きな時に好きな本が読め、童謡を書く時間も持てる。立ち読みしてもにっこり笑って怒らない、一緒に並んで読ませてくれるお姉さんに子供たちは、すぐになつくようになった。この頃、みすゞが童謡を童謡誌に投稿するようになる時期なのである。

矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』

筆者の矢崎節夫は、1947年東京の生まれ。早稲田大学英文科を卒業。詩人の佐藤義美、まど・みちおに師事した。佐藤義美さんと言えば『犬のおまわりさん』、まどさんと言えば『ぞうさん』という童謡を作詞した人として知られる。日本人なら誰でも知っている童謡である。ちなみに、まどさんは「詩は自分のなかの自分が書き、童謡は自分のなかのみんなが書く」と語った人だ。矢崎さん自身も1975年に『二十七ばん目のはこ』で児童文学学会賞、1982年には『ほしとそらのしたで』で赤い鳥文学賞を受賞している。

矢崎にとって金子みすゞは、10代の終わりからずっと憧れの存在だったという。ずっと時代は遡るけれど、童謡を雑誌に投稿し続けていた彼女は、当時、多くの若い読者たちの憧れの的でもあった。彼は、時という塵に覆われた彼女の作品を1960年代半ばからずっと探し続けていたという。端緒は、大学一年の時に『日本童謡集』の中に収録された『大漁』という詩を読んだとき、自分の中心と思っていた目の位置を逆転させられるほどの激しく、優しい鮮烈さを味わったという。それまで知っていた童謡の作品は全て消え去った。次にもう一つの作品を知ったのは大学のアルバイトで佐藤義美の所に原稿を取りに行った時である。佐藤は、みすゞと同じ時代に童謡誌に投稿していた人だった。しかし、みすゞ探しはいっこうに進展しなかった。1982年のこと、試しにと思い下関の書店のことを知人に調べてもらったのだが、偶然にも実弟上山正祐うえやま まさすけ)氏が東京の劇団若草で働いていることが分かったのである。こうして金子みすゞの生涯と作品が奇跡的に明らかとなる。その生涯を綴ったものが本書であり、それによって矢崎氏は日本児童文学学会賞を、『金子みすゞ全集』を編纂したことによって同特別賞を受賞されている。

 

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。(金子みすゞ『大漁』大正13年)

 

しかし、事態は一歩一歩破局へと進んでいった。上山文英堂に養子に行った正祐には、養子であることは厳重に伏せられていた。したがって、みすゞが実の姉であることは知らずに恋心をいつしかいだくようになる。文学や作曲について話のできる女性、みすゞの兄と共にある種の文化サロンのような集まりもできるようになった。しかし、周囲はあわてはじめた。特に正祐の父親である松蔵は、みすゞの結婚を早めたかったのである。正祐は、「好きな人はいないのか」と詰め寄ったが、みすゞは「仕方がないの」、好きな人は「黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と謎の言葉を漏らすだけだった。結婚相手として白羽の矢がたったのは宮本啓喜という上山文英堂書店の手代格の男だった。父親の松蔵としては息子の正祐が店を継げるようになるまで店を任せられる人間と考えていたようだ。

大正15年(1926)にみすゞは結婚した。夫の宮本啓喜は、1901年に熊本の酒屋と氷の卸業を営む家に生まれたが、母を亡くして後添えが実家に入ると家を飛び出すように博多に出て株屋に奉公した。当時は第一次大戦中の好景気で儲かれば遊郭で遊ぶ青春だった。しかし、大戦が終わると経済破綻と不況の時代がやってくる。結婚の2年前には、博多で遊郭の女性と心中事件も起こしていた。下関に渡って、大正14年に上山文英堂に勤めたのである。商売のうまさを店主の松蔵に買われた。

金子みすず『繭と墓』 壇上春清 編 金子みすゞと同時代の投稿詩人によって編集された初めてのまとまった詩集だった。1970年刊

養子であることの事実を知った弟の正祐は父親の松蔵にいっそう反抗するようになり家を飛び出した。松蔵は家出の原因をみすゞと宮本啓喜との不仲にあると思い、啓喜に当り散らし、夫婦二人は文英堂から出ていくことになる。一旦は松蔵と宮本の仲は修復するが、他の女性問題が浮上して、松蔵はみすゞと宮本を離婚させようとした。しかし、彼女は子供を宿している。この年、西条八十の渡仏に伴って童謡誌への寄稿を控えていたみすゞの詩は、その帰国とともに再び掲載されるようになるが『童話』誌そのものが突然廃刊になってしまう。一方で、大正15年7月には童謡詩人会編の『日本童謡集一九二六年版』に彼女の『大漁』と『お魚』が選ばれるという快挙を果たしている。みすゞが西条八十と下関の駅で会ったのは、この翌年のことだった。こうして、みすゞは「童謡詩人会」の一人として迎えられるのである。与謝野晶子に継ぐ女性会員であった。

 

蚕は繭に
はいります。
きゅうくつそうな
あの繭に。

けれど 蚕は
うれしかろ
蝶々になって
飛べるのよ。

人はお墓へ
はいります。
暗いさみしい
あの墓へ。

そしていい子は
翅が生え
天使になって
飛べるのよ。(金子みすゞ『繭と墓』)

 

一度、夫婦二人は熊本に里帰りした後、下関に戻って駄菓子屋とくじの景品につくおもちゃ卸業を始めた。しかし、夫の花柳病である淋病に感染したみすゞは娘のふさえと一緒に風呂に入ることもはばかる状態となり昭和3年には一時病床に伏せった。夫から童謡を書くことや投稿仲間からの多くの手紙に返事を書くことを止められていた。この頃、正祐は上京して文芸春秋社に就職している。みすゞの手紙が編集長の古川緑波を動かしたようだ。夫の啓喜は遊郭遊びが再燃し、家に金も入れず他に好きな女性をつくっていた。『みんなを好きに』や『私と小鳥と鈴と』は、結婚してからの作品だという。それらの作品とは、うらはらに夫婦仲は険悪になっていった。昭和4年から三冊の自らの童謡集を清書し始める。娘は3歳になり、その片言のおしゃべりを『南京玉』と題して記録するようになった。その年までに遊郭の周辺を4回もの転居を繰り返し、みすゞの体調は悪化していった。

今野勉『金子みすゞ ふたたび』

昭和5年、みすゞは宮本啓喜との離婚を決意し、上山文英堂の近くに別居する。夫は、離婚話に乗ったが娘は引き取りたかった。昭和5年には離婚届が提出された。啓喜は仕事もうまくいかず、娘か金かという要求をつきつけたが、みすゞは拒絶する。やがて、期日をきって3月10日に娘を引き取りに行くという強引な手紙がくる。3月9日、みすゞは、親しかった知人に会い、写真館で自らの写真を撮影してもらった。娘と沢山の童謡を唄ったあと寝付いたの見さだめて、文英堂の二階の奥の部屋に入り、三通の遺書を書いた。夫には「あなたが、ふうちゃん(娘のふさえ)に与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。ふうちゃんは心の豊かな子に育てたいのです」と書いている。もう一通は弟の正祐宛てで、母には、こう書いた。「主人と私は気性が合いませんでした。それで、私は主人を満足させるようなことはできませんでした。主人は私と一緒になっても、他で浮気をしていました。浮気をとがめたりはしません。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかったからでしょう。また、私は妻に値する女ではなかったのでしょう。ただ、一緒にいることは不可能でした。」そして、睡眠薬のカルモチンを飲んだ。芥川龍之介が、それで自殺したことで知られる薬だ。こうして、26歳の彼女は旅立ったのである。

当時のならいとして、女性の立場とは、このようなものであったかもしれないが、童謡詩人として名を馳せようとしていた文学を目指す人間と商売に奔走し遊興に馴染んだ夫とは相いれるはずもなかったのである。そして、みすゞの性格では、結婚を拒否できなかったし、それらのことで人を非難できなかった。それは彼女の精神的な基盤を形成している何かだろう。それなくして、このような詩は生まれなかった。それもやさしさの倫理というべきものであった。刃は自らに向けられたのである。娘の将来を案じてでもあろうが、夫との価値観の相違を訴える手段でもあったろう。それを考える胸が詰まる。

 

流れの岸のみそはぎは、
誰も知らない花でした。
ながれの水のはるばると、
とおくの海へゆきました。

大きな、大きな、大海で、
小さな、小さな、一しずく、
誰も、知らないみそはぎを、
いつもおもって居りました。

それは、さみしいみそはぎの、
花からこぼれた露でした。(金子みすゞ『みそはぎ』)

 

みそはぎ(禊萩の名に由来する)

演出家で脚本家である今野勉(こんの つとむ)氏は、独自に金子みすゞの生涯を追った『金子みすゞ ふたたび』を著しているけれど、そこで、いくつかの疑問点を提起している。ひとつは、当の3月10日に夫の啓喜は東京にいて、みすゞの死の知らせを受け取り弟の正祐と下関へ向かっていることだった。そして、弟の正祐は、自殺の責任が全て夫の啓喜にあるとは思っていなかったという。啓喜自身は、麻雀と芝居好きで、後年の彼を知る人は酒の飲めない温厚な人柄だと語っている。みすゞの父親の命日が2月10日であったことから、その10日を選んだのではないかという推測もあった。その自死については謎がある。娘のふさえは、松蔵が啓喜の父親に懇願の手紙を出し、結局みすゞの母ミチによって育てられることになった。

確かにみすゞの詩は、童謡という枠からはみ出てしまっているようなところがある。『海を歩く母さま』という、こんな逼迫した悪夢を見るようなイメージは、うちの母様はえらいという言葉にまとめあげられているのだが、何かを暗示している。何だろうか。彼女の詩には、虫の目や鳥の目、リヴァースする驚異的な視線があり、スケーリングする輪廻さえある。しかし、詩についてあれこれ述べるのは控えたい。谷川俊太郎さんが、まど・みちおさんの詩について語ったように「その詩について、さかしらに物言えば言うほど、自分がアホに思えてくる」のだから。

 

母さま、いやよ、
そこ、海なのよ。
ほら、ここ、港、
この椅子、お舟、
これから出るの。
お船に乗ってよ。

あら、あら、だァめ、
海んなか歩いちゃ、
あっぷあっぷしてよ。
母さま、ほんと、
笑ってないで、
はよ、はよ、乗ってよ。

とうとう行っちゃった。
でも、でも、いいの、
うちの母さま、えらいの、
海、あるけるの。
えェらいな、えェらいな。(金子みすゞ『海を歩く母さま』)

 

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ『星とたんぽぽ』)

 

今回は久しぶりに本の紹介をしました。前回の歌謡のようにある程度全体を俯瞰するためには色々な材料が必要になるからです。今回は、自分のブログのための栄養補給ということになるでしょうか。機会があれば、またご紹介しますね。

金子みすゞの全集は『童謡詩集シリーズ』と『童謡全集』がある。コンパクトな『豆文庫』などもあるが、かなり色々な分野の人たちがみすゞについて書き、語っている。その中で矢崎氏が聞き手となっている『金子みすゞをめぐって』1,2,3と『あしたのジョー』の作者として知られる漫画家のちば・てつや氏が絵を添えた『わたしの金子みすゞ』をご紹介しておく。

『金子みすゞをめぐって』1,2,3 聞き手 矢崎節夫

ちば・てつや『わたしの金子みすゞ』