清少納言『枕草子』 鵺の如き複合体としての日記

 

清少納言の『枕草紙、随分不思議なものだと思ってきた。勿論、彼女の才気を煥発させている文章ではあるのだが、それだけではない。ある種のカタログである。「‥‥花によろこびといかりあり、いねたるとさめたるとあり、暁と夕あり‥‥」と書いたのは、明の時代の袁宏道(『瓶史』)だけれど、こんな表現は、よく似ている。それは、何か画集をめくって眺めていく感覚にも近い。そのことは、ロベルト・カラッソ 『カドモスとハルモニアの結婚』 一貫する差異に書いておいた。展覧会の準備があってブログをしばらくお休みしていましたが、展覧会の間にぽつぽつ書いておりました。今回はこの『枕草子』についていささか考えてみたいと思っている。


源氏物語を翻訳したアーサー・ウェイリーが1928年に『枕草子』を翻訳して出版していたことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。西欧の気鋭な文学者がこの『枕草子』をどのように見ていたのかは、なかなか興味深いものがある。少しご紹介しよう。


 

津島知明『ウェイリーと読む枕草子』
ウェイリーが『枕草子』を抄訳し、その解説を書いた著作の紹介である。

『ピローブック』と訳されたそれは、ウェイリーが最も気に入っている作品だとして、後進のドナルド・キーンやアイヴァン・モリスを驚かせたという。その翻訳には意外にも「春はあけぼの」として知られる初段が切り捨てられていた。断章の集合体である『枕草子』は、「どこを、どの順序で、どう読んだらよいのか」を読者に突き付けてくるとは、『ウェイリーと読む枕草子』の著者である津島知明氏が指摘することである。つまり、読み手によってその価値が大きく異なってくる作品なのである。

ウェイリーの『ピローブック』の章立ては、「十世紀の日本」、「清少納言のピローブック」、「少納言の性格」、「翻訳ノート」の四章に分かれていて、「十世紀の日本」は、ある種の文化批評のようで興味深い。彼にとって当時の日本は、侵略にもコスモポリタニズムとも無縁な揺るぎない幾世期を満喫していた国だった。それは、ひたすら美的で、文芸的な世界だったが、一方で自国の歴史に対する好奇心は皆無で、相応の知的な探求心(ヨーロッパ人のイメージする数学、科学、哲学などに対してではあるが)は伴われなかったという。

この歴史に対する好奇心の差が我々イギリス人と古代日本人を分ける明確な相違点だというのだ。そして、強調すべきは「いまめかし」という当世風なものに対する熱狂的な興味であり、『万葉集』でさえ、清少納言や紫式部によって引用されることは稀で、引用しても「当代の人の目にかなわぬもの」という弁明つきであったという。催馬楽の流行もその「今めかしたるもの」の一端であったのだろうか。当時の日本は、ヨーロッパの言う一般的な知的基盤を持ちえなかった、それ故なのか、どこから見ても優雅で洗練された男女が中世のイギリスの人々の愚かさ以上の「幼稚さ」を見せていることに驚いている。多分、物忌みやまじないなどの迷信の氾濫や、書の上手さが信仰と化しているようなことを指しているのだろうけれど、こうした頼りなさが平安時代の不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出しているというのである。しかし、こうした視点も何故そう見えるのかを問うてみなければならない。

 


清少納言は、中級官僚の子、受領の娘であった。中宮定子に仕えた恐らく40人はいたと言われる四位・五位の家の娘の一人だったが、はじめから「清原元輔の娘」という大きなレッテルを背負っていた。歌の名手、当意即妙の猿楽言を得意とした父の娘である。漢学の素養があったことで知られるようだが、おそらく、清少納言程度の素養を持つ女房は他にもあったらしい。しかし、彼女の特質は定子を中心とした宮中生活を極めて肯定的にエンジョイしていた点にあると言っていいだろう。彼女は、ひたすら「をかし」の明るい世界を演出していた。


 

狩野安信 『三十六歌仙額』から清原元輔
江戸時代

清少納言は966年、三十六歌仙の一人で歌学者としても知られる清原元輔(きよはらのもとすけ/908-990)の娘として生まれた。母については分かっていない。『日本書紀』を編纂した舎人親王を祖とする家系であり、後に清原真人(まひと)姓を賜ることになるのだが、その清原姓を賜った二人のうちの一人が舎人親王の曽孫である清原夏野(きよはらのなつの)であり、『令義解』を編纂した一人である。また、曽祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)は十世紀を代表する宮廷詩人であり、学問と文学とに造詣の深い家柄であったことは間違いない。

父親の元輔はひょうきんな側面を持つことで知られていた。今昔物語や宇治拾遺には、殿上人の物見車の立ち並ぶ一条大路で賀茂の祭りの使いとして通りかかった時の元輔の様子が描かれていて、冠を飛ばし禿げ頭をさらして落馬しながら、臆面もなく物見車に近づいて面白おかしく弁じたてたという。事実かどうかは別にして、この父親のひょうきんな側面を清少納言も受け継いでいたといわれる。それに定子の父、藤原道隆は軽口を好んだ大らかな性格で定子のサロンも当初そのような明るい雰囲気を持っていた(阿部秋生『清少納言』)。

清少納言の本名は分かっていないが、 981年頃に陸奥守であった橘則光(965-1028)と結婚し、一子、則長を出産するも離婚、後に藤原棟世(むねよ)と再婚し、一条天皇の二人目の皇后である上東門院彰子に仕えたことから上東門院小馬命婦(こまのみょうぶ)と呼ばれる娘を生んだといわれている。棟世が実父であり、元輔の養子になったのではないかという説もある。ともあれ、『万葉集』の講義や『後撰集』の選者として知られる父、元輔は、990年に亡くなり、その翌年、24歳頃に一条帝の最初の中宮(皇后)となった定子のもとに出仕することとなる。推定で定子より10歳くらい上、道長や公任とはほぼ同年と言われている。初めて定子のもとに出仕した時は、コチコチになってしまって涙もこぼれ落ちる寸前だったという。ただ、明かりに照らされた着物の袖からほんの少し見えた桃色の美しい定子の手に素敵な衝撃を受けるのだった。

 


僕が何故、折口信夫の著作を愛しているのかは、くどくど述べないけれど、彼が日本の古代に関する最高のストーリーテラーであったことは確かだと思っている。そんなことを中上健次氏が色々な著作で述べていることに僕はく賛成だ。このことは、宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し書いておいたのでお読みください。次の章では折口信夫の「まくらことば」の絶妙な解説をご紹介する。


 

折口信夫の『枕草子解説』

里の巫女が山の神を迎えるという古来の神事は山の神の使いとしての男とその土地の精霊の代理としての巫女、つまり女とのある種の戦いとなる。外から来る異神との境決めとも関わるからである。この関係は、女が男を迎えるという歌垣という行事の発展とパラレルな側面をみせる。歌垣には、男と女が語らうという面より、争い、かけあい、ひやかし、折り合うという面が強く、物の交換が伴うために歌垣の場所は、市のたつ場所ともなっていった。

問答歌として二首で完結する五・七・七三句形式の片歌が使われたこのかけあい、いわば口争いは、男が女を手に入れようとする口どきを女の側がもどくという技の修練を催すようになる。やがて、片歌の一部が強調されて短歌ともなった。その女の側の修練が、女房文学を宮廷において発展させる端緒となるというのである。奈良朝におけるかけあいは、ある地方の物語が放浪者の持ち来る物語や歌とともに広がり、色々な地方の歌垣で使われるようになるに伴って自由で豊かなものになっていき、文学的にも洗練され、内容も民衆の心に適うものになり、文学として評価しえるようになっていった。平安朝の女房文学の基盤は、そのような経過を経て成立したのである。

折口信夫全集15 「枕草子解説」収載

歌物語と諺物語が、皇子たちの教育に役立てられていたために宮中では物語は重要なものだった。そのような中で短編物語が女房の日記、それ自身の歌から生まれていくこととなった。過去の歌、過去の諺を記録するかわりに自分の主人の為の代作歌をその次第とともに書き添えていく習慣が女房自身の抒情歌、実際に使われる相聞・唱和の歌とその詞書をも発達させた。かつてのみこともちの慣習は平安朝でも継承され、貴人は人を介して言葉をやり取りした。歌の場合も、女房の即席の歌が貴女自身の歌と考えられ、そのようにとっさに優れた歌を作れる女房を抱えることが、とりもなおさず貴女の評判を高めることとなる。女房は主人の意を汲んだ歌を作ったものと考えられ、それは主人の歌そのものとされていたのである。清少納言もそのような女房の一人であった。もっとも歌は苦手だと本人は言っていたらしい。

巻物の時代の後には「そうし」の時代がやってくる。草紙は二つ折りした紙の折り目の部分を糊ないし糸でとじる冊子である。それでは枕とは何かというと、文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句を指すという。「ことのはまくら」「まくらことば」の意味である。必ずしも文頭にくる言葉ではない。「まくらそうし」とは、文章に生命を与える言葉を書き付けるための草紙ということになる。まくら(枕)は魂、特に生魂(いきみたま)を蔵する場所であり、「まくらごと」は魂を込めて長上に献上する「よごと(寿言)」と同じ意味であった。長上に歌詞を奉ることは自分の霊威を奉献することであったからである。「まくら」の第一義は献上する歌詞の全体、第二義は、その歌詞の中の生命を握っている語ということになる。「まくらごと・まくらことば」については色々の説があるが、折口信夫の「霊魂論」の枠組みの中では、この語は確固とした定義と価値づけが与えられ、説得力がある。

女房たちは、「まくらそうし」を特定の貴族の子女のための手習いの材料として奉った。それは、教育の方便となるのである。ついでに言うと、本歌とりとは、ある歌のまくらを取り込んで新しい歌を作り本歌の持っている霊威を取り込もうとすることである。本歌とりの起こりは替え歌で、本歌の声楽的な霊威を取り込んで完全に移せるものと考えたのである。その時、まくらは必ず入れておかなければならなかった。その名残が、はやし詞であるという。手習いの材料が分量を増し、形を成してくると艶書集となる。恋文の指南書である。こうした艶書に熟達することは、貴公主。貴公子の世才、つまり「やまとだましい(才能・知識)」を殖やす有力な方法であった。

日本古典文学全集『枕草子』小学館 1997年刊

女房たちの書いた日記は、色々な意味を含んでいた。そこに書かれた歌には、女房自身の実感・境遇を詠んだ歌もあれば、代作したものもあり、男女の相聞・問答歌さえ実際の恋愛から生まれたものだけではなく、社交上の辞令で使ったものもあった。平安朝の日記は、教訓書であり、データボックスであり、有職典礼集、言行録、生活記録でありながら物語的な要素もあり、場合によっては家集でもあった。それは、広い意味の随筆であったという。平安後期王朝の女房日記、女房歌集には、このような要素が多く見られるのだけれど、清少納言の場合、「まくらごと」の配列が目に付く。同種類の「まくらそうし」のなかで清少納言の日記に属するものが著名となるに及んでその名をもっぱらにしたのだと折口さんは言う。

閉じおける枕ざうしの上にこそ昔語りの夢は見えけれ(『新選六帖』鎌倉中期の和歌集)

この歌からは「まくらそうし」が備忘録として考えられていたことが分かる。まくらごとを集めることによって自家の誇りや自讃歌を筆にまかせて書き連ねる。このような備忘録としての性格は清少納言の『枕草子』にもあって過去を回想する形の文章となっている。例えば「仰せらるるもをかし」の「をかし」という結びは、ある意味人の動作や目の前の情景を回想する形式にもなっているのではなかろうか。こうしたまくらごとを含んだ日記、総じて随筆的なものは、時間的に整理されたものではなく、書かれた材料にも決まった選択がない。ノートのように書き連ねられていて備忘録のようになる。それも、宮廷や貴族の家で実際に行われた年中行事、あるいは事件を描写する日記に対して、かなり誇張と文飾を加えた、もののあはれの日記とでも言うべきものであったという。フィクションも多分に含まれていた。

『枕草子絵詞』部分 鎌倉時代末
一条帝が石清水八幡への御幸の際に生母詮子に会う場面

一方で、『枕草子』に関して、宮廷生活の日記の部分を絵巻物にした『枕草子絵詞』として知られる作品が存在している。古典的生活を紹介する一種の行事絵巻としての有職絵であるが、そのために文章の一部が改変されている。当世風の『宇治拾遺』『信貴山縁起』その他、漫画的な絵巻にあるような智慧の勝利、をこなる男の失敗、歪んだ世相といったようなテーマはない。この『枕草子絵詞』のような物語日記絵は、かなり古典的な形式のものであり、描かれたのは過去の典型的な生活であったという。そのような生活を描く絵詞は日記のように備忘録としての性格を持っていた。しかし、ページをめくるという新機能を持つ草紙の内容が、絵巻という古い媒体へとフィードバックされている点で面白い。絵巻から草紙というテクノロジーの進化が人間の感覚のある部分を拡張したとするなら、ページをめくりながら絵巻の断簡を眺めいるような感覚だったかもしれないのだが。

当時は文章を書き写すしかコピーの手段はなく、原本も当然そう写した。そうするとしてもいくつかの章を抜粋した写本もあり、人によってその取捨選択は異なった。そのため幾通りかの抄本が存在するようになる。これは『源氏物語』などでも同様である。それに各個人の書き入れが挿入されたものもあり、場合によって書き換えさえあった。それが、作者複数説の所以でもある。完全なコピーを作ろうとする意図で写されない場合も多かったのだ。『枕草子』にもこのような異本があり、大きく分けて四種類の系統があると言われる。既に写す段階で編集および加筆がなされていた。現在、使われている『枕草子』のテキストは、その中でも原典に近いと考えられているものであることは言うまでもないだろう。

 


このように見ていくと『枕草子』が「まくらごと」を集めた辞書であり、その備忘録、事実やフィクションを織り交ぜた日記、歌物語でもあり、短編小説をも含んだ気ままに書かれた随筆であったことが分かる。それに加えて、写本の段階で多くの編集・加筆が行われていたのである。つまり、清少納言と読者とのコラボ的性格さえも持っていた。


 

私たちが『枕草子』を読む時、ありのままの日記であることを前提として、つまり、清少納言の感想つきの記録として読んでいないだろうか。例えば、286段(古典文学全集/小学館による)の「うちとくまじきもの」には、「船に乗って漕ぎまわる人ほど畏怖を感じさせるものはない」と油断のならない気の許せないものに関する一般論を言っているかと思えば、自分の乗っている船は「きれいに作ってあって‥‥まるで小さな家にでも乗っているようだ」と書いている。先ほどの津島知明さんの指摘にあるが、カタログのように書かれているかと思えばふっと体験談が挿入される。これをウェイリーらが英(仏)訳する場合、必ず誰が何時述べているのかという人称時称は確定されなければならない。そうなると現実の記録としての意味あいは絶対的なものとなる。ある意味これらの訳は現在の私たちの読みに近いものとなるだろう。しかし、原文のいわば、カタログへと一般論化しようとする拡張と現実の記録としての一点への収縮という呼吸のような振幅は失われるのである。

三田村雅子 編 『枕草子 表現と構造』日本文学研究資料新集4
 阿部秋生「清少納言」、三田村雅子「枕草子の笑ひと語り」収載

特に指摘しておきたいのは、道化役に徹した清少納言の中宮定子への愛情である。定子の父・藤原道隆が身罷り、その弟の道長に権力の座が移ると、後ろ盾をなくした定子は、徐々に落魄の憂き目を見ることになる。道隆の中関白家の明るい家風は前にも述べた。道隆在世中は定子を取り巻く中関白家の人々の屈託のない笑いが『枕草子』の中で総動員されているかのようだという。しかし、道隆亡き後、徐々に切迫する定子の周囲は笑うには暗い。その中で笑いを懸命に探そうとする清少納言の姿があった。笑いをとる人物は生昌、方弘、信経、宣方、則光、常陸介などに限定され、決まって最後に笑いを引き受けるのは清少納言自身のある種物狂おしいまでの姿なのである。そこに演出のドラマがあった(三田村雅子『枕草子の笑ひと語り』)。「まくらそうし」が献上することを前提とされていたのなら、定子の落魄を描くはずはない。歴史に対する無感覚を指摘するのは誤りと言えるだろう。定子の兄の伊周(これちか)とその弟の隆家が花山院に矢を射かけた事件、いわゆる長徳の変など書けなかったのである。

清少納言は、決して「我ぼめ」し「吹き語り」するだけの才女ではなさそうなのだ。三田村雅子さんは同じ著作の中でこう述べている。「『清少納言集』などによって知られる涙もろい一面を持ち、拡がりを持った現実の清少納言と、忠実でプライド高い女房役を演じる清少納言と、そのような演技を更に誇張し、切り取り、語り、書く清少納言と、すくなくともこの三層を意識化することなしに今後の枕草子研究はあり得まい」と

このような『枕草子』をヨーロッパの知識階級がどのように見たかはウェイリーの感想を見ていただければよいだろう。彼は『枕草子』を不思議な捉えどころのなさ、二次元的な質感を醸し出す平安後期という時代の貴重なドキュメントとしてのみ見ていた。『枕草子』だけを通してそう思ったのかどうかは分からないけれど、清少納言の「日記」が如何なる性質を持っていたのかを知ることなしには、その時代を正しく理解するのは難しかったのではないだろうか。笑いの散りばめられた日記の背後に透けて見える文章は、ある種、鵺やキマイラの如き複合体なのである。

ことの葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな(清少納言)

 


このところ展覧会の準備ということもあってブログを書いてこなかった。最近は、とみに老眼が進んでメガネなしにモニターをみることができなくなった。ド近眼ならぬ、ド老眼なのである。3、4時間も坐っている腰が痛くなる。残念ながらリクライニングチェアはないので家の床に寝っころがっていると家内に掃除機で吸われそうになったりする。そんなこんなで前のように定期的に書くことは難しいかもしれないけれど、本があれば書くことに事欠くことはないのだから、興にまかせて時々は書きたいと思っている。でも、あまり期待しないでくださいね。