ドナルド・キーン『文楽』part1 浄瑠璃と山葵は泣きながら誉める

2019年文楽公演解説 生写朝顔話 他

だめだ。目の辺りがうるうるしてきた。涙が瞼の堤防を越えそうだ。あっ~っ、袂(たもと)に河原の石を詰めはじめた。身投げする気だ。しかし、両隣に坐っているおばさんたちは、いっこうに動ずる気配がない。ひょっとして鉄のハートなのか。大の男が一人だけ涙を流している場面はいただけないぞ‥‥なんとかしないと‥‥しかし、おォ~っ、助けがやって来た。関介だ‥‥よくぞ来た、よくぞ来た~~。

「ヤア何、川が止まった。ハゝア悲しや」と張り詰めし力も落ちて伏し転び、前後不覚に泣きけるが、また起き上がって見えぬ目に、空を睨んで「天道様、エゝ聞こえませぬ〳〵〳〵〳〵〳〵聞こえませぬわいなあ。この年月の艱難辛苦も、どうぞ今一度その人に逢わしてたべとも片時も、祈らぬ間とてはないものを、今日に限ってこの大雨。川止めとは〳〵、エゝ何事ぞいの。‥‥焦がれ〳〵たその人に、逢うても知らぬ盲目の、この目はいかなる悪業ぞや。夫の跡を恋ひ慕ひ、石になったる松浦潟、ひれふる山の悲しみも、身に比べては数ならず、三千世界を尋ねても、こんな因果がまたと世にあるべきかは。(生写朝顔話「大井川の段」床本)

儒学師範の駒澤了庵の甥である宮城阿曾次郎(儒学者・熊沢蕃山がモデル)、彼を慕う安芸国岸戸家の家老秋月弓之助の娘、深雪。親の決めた駒澤次郎左衛門(実は叔父の家督を継いだ阿曾次郎)との縁談話から家出し、阿曾次郎の後を追いながら人買いの手に落ち、そこから逃れてもなお、失明の憂き目に会う。それでも夫と心に決めた人の後を追い続けた朝顔こと深雪。この十月久しぶりに文楽を見た。生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)は、文化年間(19世紀初頭)、講釈師の司馬芝叟(しばしそう)が書いた長話(ながばなし)『蕣(あさがお)』が原作で、歌舞伎で上演されていたものを山田案山子が五段の時代物に翻案した人形浄瑠璃である。僕が、最初に義太夫節を聞いたのは『菅原伝授手習鑑』だったけれど、その時は義太夫節に違和感を感じたものの何か引っかかるものがあった。それが無かったなら、また見たいとは思わなかっただろう。こん度は何の障害もなくすっと入ってくる。すっかり嵌ってしまいました。

ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』
能、文楽については、簡潔だが充実した内容を誇っている。歌舞伎については短い紹介に終わっている。今回は『文楽』だけのご紹介となる。

谷崎潤一郎(1886-1965)が、関東大震災で東京を焼け出され、大阪に移って人形浄瑠璃に目覚めたことは『蓼喰う虫』などの作品で窺い知ることができる。淡路島まで人形浄瑠璃を見に行くほど熱くなるのだが、焼失前の文楽座で『法然上人恵月影(めぐみのつきかげ)』を観劇したのが契機だという。その数年前、谷崎は上海に旅行に出かけて、日本橋に住んでいた頃の30年も前の父母の面影を心に浮かべ、日本ではあらかた亡びてしまった懐かしいしきたりを思い出している。西洋崇拝から抜け出て日本回帰に向った時期だったのかもしれない。彼は、この『蓼喰う虫』の中でことさら芸の「型」について述べるのである。

谷崎は、『浄瑠璃人形の思ひ出』で『生写朝顔話』の淡路版である『朝顔日記』の序段「宇治の蛍狩り」の場面で深雪と阿曾次郎が屋形船の中でささやき交わす場面や「明石の船別れの段」で互いに名残を惜しむといった場面のお伽話的光景は俳優の舞台では演出できないと述べる。「浜松小屋」の段も取りあげて、深雪の母の死を乳母の浅香が知らせに深雪を訪ね当てた折りも折り、人買いとの血みどろの戦いになる場面をこう述べる。「二つの人形の顔と足とがカチカチ触れ合って割れそうになるほどの激しい立ち廻り。ああいう光景は生きた俳優同士の力闘ではとてもあれほどの真剣味は出ない」と書いている。人形にしか出せない演出を見出しているのだ。この『浄瑠璃人形の思ひ出』は、ドナルド・キーンの著書『文楽』に対するオマージュだったようだ。

日本への永住を果たして亡くなったドナルド・キーンについては多くを紹介する必要はないと思う。1922年ニューヨーク生まれ。16歳でコロンビア大学文学部に入学したが、そのころ漢字に興味を持ち始める。アーサー・ウェイリーの翻訳した『源氏物語』に感動し、日本語を学び始めた。第二次大戦後、コロンビア大学に復帰し、後にハーヴァード大学に学んだ。ケンブリッジ大学でも学ぶと同時にその講師となった。そこでは、バートランド・ラッセルやウェイリーらと親交を持つ。1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科の博士過程を修了したあと京都大学に学ぶ。1955年からコロンビア大学で教鞭を執った。同大学の名誉教授であられる。三島由紀夫や阿部公房らとも親交があり、朝日新聞の編集委員を務めるなど日本との関係は、極めて濃密だった。2011年に日本国籍を取得。2019年に心不全で亡くなっている。

 


人形浄瑠璃は、およそ300年ほどの歴史を持つと言われる。今日では「文楽」とも呼ばれるけれど、古くは「操り」「操り芝居」と呼ばれ、人形浄瑠璃の呼び名が一般化するのは明治以降のことである。上演する座がいくつかあった中で、この明治の初めに「文楽座」だけが残っていた時期があって「文楽」の名で呼ばれるようにもなった。物語る太夫、伴奏する三味線弾き、演ずる人形遣いの三業からなる演劇である。


この――『文楽』part1 浄瑠璃と山葵は泣きながら誉める――では、ドナルド・キーンの『文楽』を中心に、主に人形浄瑠璃での浄瑠璃の歴史と太夫の芸に関して、三味線のことも少し交えてご紹介し、最後は「型」の問題に踏み込む予定です。

杉村治兵衛『牛若丸と浄瑠璃姫 鳳凰丸舟遊び』
江戸時代 18世紀 東京国立博物館

人形浄瑠璃は「語りもの」の総称である浄瑠璃と人形操りを合わせた芝居ではあるが、本質的には「語り」が生命の芸術といわれる。浄瑠璃とは、伴奏楽器を伴う音楽劇で、歌うというより語るという性格が強かった。その名称は、15世紀に書かれた語りもの『浄瑠璃物語』の主人公浄瑠璃姫の名前からとられている。平家物語は節をつけた偉大語りものとして一世を風靡し、平曲という名で知られ、音楽的には天台系の声明から発したといわれている。この平家物語は後世に大きな影響を及ぼし、幸若舞や説経節といった芸能に盛んに取り入れられる。しかし、15世紀の半ばになると平家物語の文章をそのまま語ることに人気の翳りを見るようになり、同じ登場人物を廻る他の話が語りものとして創作されていった。とりわけ義経のような存在には人気があり、この『浄瑠璃物語』もそのような作品の一つとして創作される。話はこうである。

『浄瑠璃物語』

義経が東国に向う途中、三河の国で一人の美女と出会う。この姫が待女たちと管弦をしている所に義経は笛を合わせた。彼は、笛の美しさに惹かれた姫を口説いて一夜をともにする。義経が吹上の浦まで来ると奇妙な病に罹り生死をさまよう。すると、源氏の氏神である正八幡神が老僧姿で現れ都から人を呼んで看病させるという。そこで、義経は浄瑠璃姫の看護を願った。八幡神のお告げで事の次第を知った姫は、義経のもとにやって来る。海で斎戒沐浴し万の神に祈った。その時の涙が義経の口に入ると彼は蘇生し、十六人の山伏たちの加持によって本復する。姫との再会を約束して平家の滅亡を期し、旅立つという物語になっている。

1531年には盲目の法師がこの浄瑠璃姫の話を既に語っていたことが分かっていて、十六世紀の終わりには、浄瑠璃という名称が法師などがする語りものの総称となっていった。それほど流行っていたということだろう。1614年には後陽成院が『阿弥陀胸割(あみだのむねわり)』や能の高砂、賀茂などを傀儡子である戎舁(うびすかき)に演じさせた。『浄瑠璃物語』を人形芝居でするように発案したのはこの院であると言われている。

『阿弥陀胸割』珍書大観金平全集 倉田喜弘『文楽の歴史』より転載

浄瑠璃は、能で切り捨てられてきた個性と個性の衝突とか、激しいアクションとか、英雄なら英雄ならではの際立った性格を逆に重視したため西欧の劇に近い脚本となって登場人物を小説風に細かく描写することが可能だった。浄瑠璃や仏教的な出自を持つ説経節は、このような劇的要素で民衆に訴えた。『阿弥陀胸割』は、初期の浄瑠璃の有名なものの一つである。これは『浄瑠璃物語』と異なり、最初から人形芝居の脚本として書かれた。

『阿弥陀胸割』

話は天竺に設定されていて、初期浄瑠璃の定石どおり六段からなる。悪魔を祓う剣や若さを取り戻させる松の木などの七つの宝を持つ長者夫婦、七歳の娘と五歳の息子を大切にしている。妻は、他の人は後生を気にかけて善行を積むが、私たちには永遠の若さがあって後生を考える必要はない。それなら悪行を積んでみましょうと夫に持ちかける。それからは寺を焼き、お布施を断り、悪事を重ねた。釈迦は二人を懲らしめようとするが、送り込んだ魔王たちは魔法の剣で追い払われる。そこで、地獄の鬼たちが呼び集められ、彼らは長者の剣を溶かし、召使いたちを殺し、夫婦は鉄を口から流しこまれて死ぬ。残された二人の子は乞食となって彷徨うのだが、両親の七回忌になっても供養できないことを悲しんで隣国に行って自分たちの身を売ろうとするが、売れない。お寺で一心に祈ると、阿弥陀仏が夢に買い手の金持ちが現われることを告げる。

その金持ちには原因の分からない病にかかった十二歳の一人息子がいて、医師によれば、この男のと同じ年の、同じ月、同じ日、同じ刻に生まれた女の子の生胆を食べさせなければ治らないという。十二歳の女の子が集められ、その中に例の姉が含まれていて、この条件にぴたりと当てはまった。金持ちの妻はその子を殺して胆を取ることを懼れた。姉は自分が死んだ後の弟が心配で泣き、金持ち夫婦もそれに同情して泣いた。姉は自分の両親のために寺を建立し、阿弥陀三尊を安置してもらい弟を大切にしてもらえることを条件に承諾する。兵士たちがやってきて約束通り姉の胆を取ろうとして躊躇するのだが、姉は兵士に指図して自分を殺させた。胆の効果は、てきめんで息子はすぐに快癒する。姉の死骸のある寺に行ってみると娘はなんと弟と手をとりあって眠っている。驚いたことに傍らの阿弥陀の胸が裂かれていて、おびただしい血が流れていた。皆、阿弥陀が姉の身代わりとなったことを知るのである。

『生写朝顔話』(朝顔日記)本書より
この場面では実際に琴が演奏されるのだけれど太棹の音と混じるとはっとさせられる。

実はこのような不思議譚は、後世繰り返し作られていて、近松の最初の成功作といわれる『出世景清』では景清の身代わりに彼が帰依する観音菩薩の首が切られることになる。生胆、生血の不思議譚は『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』や冒頭の『生写朝顔話』でも登場する。朝顔こと深雪の目のために駒澤次郎衛門こと阿曾次郎が与えた薬は甲子(きのえね)の年に生まれた男子の生血で飲まなければ効果がないとされている。嶋田の宿にある宿屋・戎(えびす)屋の主人徳衛門こそ、その甲子の年の男子で深雪の乳母浅香の父であり、深雪の父秋月には大変な恩義があった。それで、自らに刃をあてて生血を深雪にさし出すのである。こうして深雪は視力を回復して阿曾次郎の後を追う。ここでは、徳衛門が阿弥陀の役をしている。

初期の浄瑠璃が人形芝居の脚本へと傾斜し始めた頃、人形芝居で浄瑠璃が語られる節は能の謡に近いものであった。人形芝居が宮中のような所で行われれば能のような形態に合わせることが必要とされた。浄瑠璃物語の十二段は、初期には六段に、次いで五段ものとなる。一段目は、ことの起こりで、例えば何かの悪事が描かれる。二段目はその悪に対する善の力が胎動しはじめ、三段目では登場人物の犠牲によって善の力が優位となり、四段目は善と悪との相克があって善が勝利する。五段目は最も短く、善の勝利が祝われるといった順序を踏む。この構成の根幹には能における序・破・急という要素があり、その影響は大きいといわれている。

 


16世紀に三味線の原型である三線が琉球から伝わった。胴に蛇の皮が張られていて蛇皮線とも呼ばれたが、強くばちで打つと皮が破れやすかったため猫の皮にかえられて江戸初期には現在の三味線となった。珍しさもあって色々な伴奏に使われたと想像されるが、その高い打楽器に似た音が人形遣いが人形を操る際の拍子とりに最適であった。現在、人形浄瑠璃で使われる三味線は太棹(ふとざお)と呼ばれて音が大きく強いのが特徴である。


 

人形芝居の脚本が、それ自身のための進化を遂げていく中で、その語りを行う人、すなわち太夫の存在は極めて大きなものとなっていった。まず、挙げられるのは薩摩浄雲(1595-1672)で、坂田金時の子、金平(きんぴら)の語りで名を馳せた。鉄の棒を叩いて拍子を取ったと言われる。せっかく江戸に定着しかかっていた人形芝居だったが、明暦の大火で江戸が焼野原になると太夫たちの多くが上方に移り、大阪の地で人形芝居が発展していくこととなる。

倉田喜弘『文楽の歴史』
江戸から平成までの文楽の歴史をまとめている。

宇治嘉太夫(うじかたゆう/1635-1711)は、宮中や公家から拝領する掾号を賜って加賀掾(かがのじょう)を名乗った人だが、芸論集『竹子集』の中で浄瑠璃の芸には手本となる先行芸はないと言いきっている。ただ、謡曲から派生したことを忘れてはいけないと言い、浄瑠璃は太夫の声だけで行うもので三味線を考慮する必要はないとも言う。声の出し方には、祝言、幽玄、恋慕、哀傷の四音あるとしていて、ここには修羅が欠けている。この人の語りは節配り細やかで、よはよはしく、たよたよしく、美しく語り出したので京都では評判が良かった。また、扇拍子でテンポの変化を三味線に伝えるようにと書いている。俗にいうタタキである。一方、井上播磨掾(1632?-1685?)は強い声で節回しもよく、言葉遣いもはっきりしていて、宇治嘉太夫と対照的だったようだ。その芸風は播磨風と呼ばれた。(倉田喜弘『文楽の歴史』)

大阪・天王寺村で生まれた五郎兵衛は、この播磨掾の流れを汲む近所の利兵衛に浄瑠璃を学び、後に京へ出て宇治嘉太夫の一座に入って、清水理太夫(きよみずりだゆう)の名で四条の芝居に出た。高低、声の良く出る、はっきりした言葉で、どんなに大入りでも声が通ったと言う。1684年西国への巡業を終わると道頓堀に竹本座の櫓を上げた。彼こそが竹本義太夫(1651-1714)だったのである。

彼以前の浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれるようになる。それまでの浄瑠璃を総合して新たなスタイルの浄瑠璃を創始したからだ。その後のスタンダードとなったこの浄瑠璃は義太夫節とも呼ばれる。人形芝居のための浄瑠璃の代名詞となり、歌舞伎でも使われることがある。竹本座の最初の出し物が近松門左衛門(1653-1725)の『世継曽我(よつぎそが)』であるが、1685年のことで、それが上演された時が本格的な人形浄瑠璃のはじまりとされている。ここからは、人形浄瑠璃を文楽と呼ばせていただきたい。蛇足ながら浄瑠璃は語りものの総称であるので、義太夫節の他に常磐津、清元、新内などがある。

竹本義太夫(1651-1714)『摂津名所図絵大成』

決定的な作品は『曽根崎心中』だった。それ以来、近松は歌舞伎にも脚本を書いていたのをやめて文楽のみに書きはじめ、住まいも京から大阪に移した。もはや平家物語や太平記に登場する英雄や武勇談は、そこにはなく、超自然の幽霊や龍や狐といったアクションものとも異なった。それは世話物と呼ばれる。醤油屋の手代と遊女の心中という世間を騒がせた実話を描いたのである

キーンは、文楽の歴史を通して写実主義に向かって不断の努力がなされてきたという。この頃、人形そのものにも改良が加えられ細かな動きが可能となった。1705年に上演された『用明天皇職人鑑』では、既に人形遣いが舞台に現われ、太夫も舞台の陰でなく観客の見える所で語っていた。誰にもお馴染みの郭(くるわ)言葉を話す芝居が書かれるようになった時、観衆は人形遣いや太夫が舞台に出て演じるという趣向を喜んでいたという。舞台上では実と虚が対立の度を深めていたようだ。

近松門左衛門(1653-1725)
永井如雲編『国文学名家肖像集』1939年

近松が日本のシェークスピアと呼ばれようと、その作品は後に改悪されていったとキーンは言う。例えば『曽根崎心中』は昭和30年に改作されていて、それまで再演はなかったので新作とかわりなかった(竹本住大夫『文楽のこころを語る』)。この近松作品には、主君のために我が子を殺すと言うような法外な設定が無く、刺激に乏しいと思われたため、原文にない部分が書き加えられたり、誇張された文句が書き連ねられたりした。それに、彼の頃の人形は舞台下から操る現在のものより小さい一人遣いのそれだった。三人遣いの人形では動きが遅くなるために近松の台詞にあわせて操ると浄瑠璃が間のびするほかなく台詞はカットされた。

もっと悪いのは、人形の首(かしら)が、年齢や性別だけでなく善悪による性格分けで表現されるようになり、首そのもので善人の老人か、悪年増かが一目瞭然にされてしまったことだ。近松が登場人物に与えようとした個性を表わすには不向きになるのである。それ故に、例えば『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋の段」で悪役風の松王丸が初めから主人の菅公に忠義だったといった思いがけない展開が逆に可能になった。キーンは、近松が意図したように、ある登場人物を完全に良い人間とも悪い人間ともつかないようにしておくことや、最後までその判断をさせないようにすることが不可能になり、後の改作では、そういう人物が完全な善玉か悪玉かに書き換えられているとしている。近松のいう虚と実の間の薄い被膜は分厚くなっていったのである。

歌舞伎では、脚本は芝居の材料であって役者は舞台で即席にセリフが言えた。しかし、文楽では人形と三味線の伴奏は脚本と完全に一致しているために単に一音節それまでより長く引っ張るだけでも相当な変化となる場合がある。二世綱太夫が1822年に『艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の「酒屋」で半兵衛がセリフを言っている時に咳を一つする箇所を付け加えた。これ以降、綱太夫を襲名したものは、それを伝統的に踏襲するようになる。人形遣い、三味線弾き、太夫という三者はきめ細かな共働をしているのであり、かつての宇治嘉太夫のように三味線を軽視してはいられないのである。

『用明天皇職人鑑』の舞台 『今昔操年代記』 人形は突込み式の一人操りである。倉田喜弘『文楽の歴史』収載

ここで、少し三味線の役割に触れておこう。文楽の脚本は太夫によって解釈され、それが三味線弾きに伝えられると、今度は三味線弾きが演出家となって指揮をとる局面がある。彼が合図をださないと太夫は語れず、人形遣いも登場できない。三味線の名手豊沢団平は、ある時、それを弾くと太夫がある叫び声を出す決まりになっている一連の音を立て続けに弾いたものだから、太夫が倒れてしまったことがある。その日の芝居では、それが必要と思ったからそうしたのであり、そんなことのできる三味線弾きは今日ではいないだろうとキーンは述べている。

指揮者でありながら、三味線弾きが太夫の女房役であることは確かで、まれに三味線弾きが観衆の注意を惹きつけることもあるけれど、あくまで伴奏役であるという。綱太夫は二十五年間(この著書は1966年に刊行されている)、竹沢弥七の三味線で語ってきたが、綱太夫が語り始めると、その日の調子がどんなものか察知して、調子が良ければ思い切り語れるように、悪ければ、それを補うように、調子を変えて弾いたと言う。三味線弾きが掛け声を出すのも、太夫の調子が悪ければ助けになるし、良ければかえって邪魔になることもある。ちなみに文楽で作曲してきたのは三味線弾きたちで、ある部分では五・六人で演奏する華麗で快活な曲を作り、道行では当時の歌謡がアレンジされた。余談になるけれど、三島由紀夫が、自作である歌舞伎用の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』を文楽に改作しようとしていた途中で自決してしまった。歌舞伎用の浄瑠璃に曲をつけていたのは三味線弾きの人間国宝鶴澤燕三(つるざわえんざ)だったという。三島は、その太棹の音を愛していた。(桐竹勘十郎『一日、一字学べば…』)。

文楽は脚本に多くの文学上の傑作が書かれた唯一の人形芝居である。人形の仕組みや音楽においても発達を遂げ、写実主義的な傾向を強める一方で、観客には多くが要求されるようになるとキーンは指摘する。写実に一歩進むごとに、その反対の様式化に向って一歩進められた。それは文楽に携わる人間たちが、観衆を写実で食傷させる危険を心得ていたからであるという。脚本が文学的になるにつれ人形遣いのセリフを別の語り手がするようになり、近松のような日常生活に近い情景が設定されるようになると舞台裏にいた語り手は舞台に出て語るようになる。それは、人形が口を利いているといった幻覚を否定することであると共に脚本の言葉を尊重することにつながる。太夫が語る脚本の言葉も普通では使われない言葉遣いで書かれていることが多かったし、幕が上がると黒子が出てきて、いちいち太夫と三味線弾きを紹介する口上を述べるのもその関係であろう。

こういった、ある種写実に傾きながらそれを否定するような設定は、中世フランスの『薔薇物語』における寓意そのままを自らの名前としている登場人物たちを思い起こさせる。そのようなニュートラルな空間が、人形へと感情移入するためには必要ではなかったのだろうか。写実に徹した人形芝居は恐らく不気味なものとなったろう。確かに、今日でも文楽の観衆は、こういった芝居の統一感をわざと乱すような条件を克服しながら、義太夫語りと三味線弾きと人形・人形遣いをかわるがわるに見てそれを楽しむのである。

歌川国貞(1786-1865/三代目 歌川豊国)
『櫓のお七人形振り』

さて、この現実と非現実との均衡が、長い年月にわたって培われて来たことの結果であることは疑いない。人形遣いについては、次回 part2 で改めて取り上げるけれど、ここで人形の振りと型について触れておきたい。振りは人間が普通にする動作で、焦燥、絶望といった時の仕草、縫い物、演奏などでの日常の動作が様式化されたもので人間が普通にすることだから多数ある。これに対して人形に独特の線の美しさを表現させるのが型である。振りについて言えば、『艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の「酒屋の段」では、半七の妻、お園が女を連れて家出した夫を思って独り言を繰り返しながら無意識に行燈(あんどん)の埃を払うというお園の性格を際立たせる振りがあり、別の振りでは酒屋の入り口まで出てあちこち見回して片手を懐に入れ、悲嘆にくれて立ち尽くすという美しい振りがある。

型は、それほど多くはない。人形は太夫が語る言葉一つ一つをいちいち表現するわけではないから、必ずしも脚本どおりそのままということではない。勿論、登場人物の性格を脚本から正確に解釈した上だが、人形の演技は一連の言葉の中心をなす部分に力点が置かれる。その中で視覚的に美しい表現をすることを求められる場面が多々ある。そこに型が使われるのである。舞台に文楽の独特の魅力が横溢しはじめるのはここなのである。先日見た『生写朝顔話』で深雪が帯振り乱し、嗚咽しながら天を仰げば、日本舞踊を思わせるような後姿が絵に描いたように表現される。日本のパトスフォルメン(情念定型)なのか。観客は、太夫の扇情的な声とこの人形の美しさに恍惚となる。これが文楽にしか出せない演出の秘密なのかもしれない。テレビドラマの『水戸黄門』のように定番とは知りながら、まんまと嵌るのである。それが、型の魅力なのだ。それは、るで面影のように脳裏に焼き付いて増幅しはじめる。現実と非現実の被膜の上に文楽が乗っているなら、非現実を支えていた柱は、実はこの型であったのかもしれない。

文楽は、歌舞伎と同じく庶民の芸であった。「お涙頂戴」は、勿論ある。僕は、けっしてこの「お涙頂戴」を蔑む気になれない。オジチャンもオバチャンも日頃の憂さを忘れて涙し、カタルシスしてきたのだから。しかし、昨今のオバチャンは鉄のハートなのではなかろうか。言っておくが、浄瑠璃と山葵(わさび)は泣きながら誉めるのである。

 

 

惜しくも昨年(2018年)亡くなった人間国宝の七世竹本住大夫さんが太夫をつとめる『心中天網島』「河庄の段」です。近松ものは字余り、字足らずでやりにくいが、この段に出てくる孫右衛門は好きだとおっしゃる。やがて心中する紙屋治兵衛と遊女の小春を治兵衛の兄の孫右衛門が別れさせようとする場面です。孫右衛門は、治兵衛が小春を思い切ったというので喜ぶものの、実は治兵衛の妻おさんからの手紙で小春がおさんへの義理立てに治兵衛にあいそつかしをさせようとしていたのだと知る。治兵衛の手前、「真実のないは女郎の常」と蔑み、そんな者と心中しようとは、「思いまわせば可笑しいやら不憫なやら」と高笑いで手紙の件を紛らわせようとするのですが、小春への感謝と憐憫の情がその笑いのなかに折り畳まれていきます。ここは素晴らしい。

 

参考図書

桐竹勘十郎『一日に一字学べば…』人形遣い三世桐竹勘十郎の修行にまつわる興味深いエッセイ。

『竹本住大夫 文楽のこころを語る』 名大夫が文楽の十九作品の解釈や面白さを語る。