ジョージ・ビショプ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』あなたにとってキリストとは誰ですか?

ジョージ・ビショップ 『ペドロ・アルぺ SJ 伝』
緒形隆之訳 アルぺ神父の列福を祈る会刊
SJ はラテン語の Societas Jesu(イエズス会)の略

イエズス会とは何か。と聞かれてもおそらく信者さんで、その教会に関わっている人でなければ良く分からないのではないだろうか。これはドミニコ会やフランシスコ会といったキリスト教会派でも同様であろう。かくいう筆者もイエズス会の経営する学校で長らく教えてきたけれど神父さんに知り合いはいても、どのような活動がなされているのかはボンヤリとしか分からない。もっとも僕がボンヤリしていただけなのかもしれない。今回はかつてのイエズス会総長、つまり最高責任者と言ってよいと思うのだけれど、その人の伝記『ペドロ・アルぺ SJ 伝』を借りることができたのでご紹介したいと思っている。広島と縁の深い人だった。筆者は、ジョージ・ビショップという人ですが、イエズス会の関係者とは思うけれど、この著者について、あまり紹介がないので詳しく分からない。インド生まれで、ロンドンの学校で教鞭を執った後、ローマやジャマイカの大学で教え、ユネスコの派遣でタンザニアやフィジーへ赴いたとある。

イエズス会のイメージ

「私が日本で修練院長をしていた時、若者達がイエズス会に入会しようとやって来たことを思い起こします。岩波という大きな出版社が編集した哲学辞典をよく使ったものですが、それには、イエズス会の古典的な定義として五行が割かれており、それには、ジェズイット(イエズス会士)は偽善者の典型であり、目的を達成するためには手段を選ばない者、常に権力と張り付こうとする者、とあります。これが五行の中にあるすべてです。これを若者達に見せて、尋ねました。『これをどう思うかね ? 』」

今では岩波の辞典にはこのような記載はないだろうけれど、アルぺ神父はイタリアのテレビネットワーク RAI のインタビューで上のように述べている。続けてこう答えた。私たちの与える印象がどうであろうと私達が望んでいることは、人々に「仕える」ことであり、そのために私たちの組織の人的資源を自由に活用しようと試みている。しかし、権力の力に依って活動することなど望んでいない、それは特異なことだと思う。まして、政治的な権力など問題にならないし、大きな影響力を持つために大金を持ちたいという個人的な思いも問題外である。富の所有は、私たちの「清貧の誓い」に反すると語った。

アタナシウス・キルヒャー画『幾何学原本』に描かれたマッテオ・リッチと徐光啓 1667

そして、狡猾さという悪口に対してはこう答えている。せいぜい、それは思慮分別の問題です。時には政治的な便宜主義の行動として解釈されるかもしれないような問題だが、それは思慮分別と人間的な理解力によって進められるもっと大きな人間的、福音的問題と関わっていて慈愛や隣人の必要を知りたいという願望の問題なのだと答えている。

実は、この問題は古くに遡る。例えば、マッテオ・リッチは、中国語を学び、その言葉で著作を書き、儒者の服を着たし、儒教の上帝とキリスト教の神との類似性を指摘し、自らの国が世界の華と自負する官僚やその家族たちの警戒を解こうとした。確かに、鎖国下の明末に、士大夫の伝(つてで宮廷に接近し、華麗なる自鳴鐘(時計)やチェンバロなどを贈って北京に居住の許可と生活費の保証、そして布教の許可を得ている。草の根の布教という観点から言えば非難を受けるかもしれないのだが、独裁体制をしく皇帝神宗の許可なしには、布教を続けることはおろか中国に留まることも困難であり、中国入りを前に倒れたザビエルの遺志を貫くことも叶わなかったろう。結果として、ルネサンスの自然科学を中国にもたらし、中国の文化を西欧に知らしめ、東西の架け橋となったことも確かである。

ルルドの奇跡

ペドロ・アルぺは1907年スペインの北西にあるビルバオに生まれた。父マルセリーノは建築家で、母ドロレスはバスク地方の医師の娘だった。上に4人の姉のいる一番下の長男として中流の家庭に生まれた。幸せな家族に不幸が訪れたのはアルぺが8歳の時で、母が亡くなる。11歳の時に無原罪の聖母マリア修道院に入会し同じバスク人だったフランシスコ・ザビエルに興味を抱くようになった。1922年にマドリード大学の医学部の学生となる。後にDNAやRNAの研究でノーベル医学賞を受賞したセベロ・オチョアと同級だった。この頃、貧困者の援助組織である聖ポール・ビンセント会に友人と二人で参加している。貧しさとはどのようなものかを目の当たりに見た。だが、またもや不幸が襲う、医学部在学中に父親が亡くなったのだ。

1926年、医学部の最終学年だったアルぺはフランスのルルド村に向けて出発した。「奇跡の回復」を医学的に検証する奉仕活動だった。1858年にベルナデッタという名の少女がマッサビエルの洞窟で若い婦人に出会うようになる。その夫人が聖堂を建てるように望んでいると教会関係者に伝えた。そして彼女がその名を尋ねたところ「無原罪の御宿り」と告げる。カトリック教会が聖母マリアが無原罪であると公認したのは、そのたった4年前のことだった。村の娘が知っているようなことではなかったのである。そこでは、見捨てられるような病気の患者が次々と回復していくという奇跡が伝えられている。

アルぺは検証局の正式な医師として、ルルドで回復した脊椎カリエスの修道女を診察し、X線写真でその回復状態を検証した。末期の胃癌だった75歳の老女はルルドの奇跡に一縷の望みを託してやって来たが、三日目にはすでに元気に歩けるようになっていたのである。X線写真で胃が撮影されたが、癌の痕跡は見つからなかった。彼はマドリードに帰ると大学院への進学の準備を始めた。既に最終学年の試験を最優秀の成績で終えていた。しかし、彼は迷った。貧困者の援助活動の中で出会った家族たちやルルドの奇跡が彼の頭を占めるようになっていた。そして、彼はロヨラに行って修練院に入る手はずを整えたのだった。2年の修練期の間にローマの長上たちに日本に行ってザビエルの事業を引き継ぎたいという意思を手紙にして送っている。

ロヨラの聖域  スペイン アスペイティア

山口の牢獄

この著作は、山口でのアルぺ神父の逮捕の場面から始まる。彼は、1938年に神学を学んでいたアメリカから日本にやって来た。東京で18ヶ月、日本語と日本の習を学ぶと1940年に宇部を経て山口に赴任する。そこで彼は憲兵隊にスパイ容疑で逮捕されたのである。既に日本はアメリカに宣戦布告し、運の悪いことに彼はドイツ人ではなくスペイン人であり、おまけにアメリカから来日していた。結局30日以上留置され尋問を受けた後、1942年の1月に開放された。

尋問は23時間ぶっ通しを含めて37時間に及んだこともあった。それは、彼にとって重要な体験であった。尋問に対してどう話せば日本人の心に訴えかけるのか、分かってもらえるにはどう表現するかを腐心していた彼にとって取り調べ官の態度が徐々に軟化していき、モーゼの律法についてさえ尋ねられるようになったことは、ある種の勝利であったろう。一時は死刑の覚悟さえしなければならなかった。そして、一枚の汚い畳と金属の容器があるだけの狭い独房での孤独は「魂に訪れる客」との重要な対話の時となった。彼は、釈放を刑務所長に宣言された時、こう言われた。有罪か無罪かを判断する最良の方法は、日々の様子を細かに観察することだと。この時、アルぺ神父は所長に「ありがとう」と感謝の言葉を述べて彼を狼狽させるのだった。

アルぺ神父と長束修練院  三重の塔の上には十字架がある。
ホアン・カトレット著『アルぺ神父とともに祈る』より

ラサール神父とセルツメント

この年、アルぺ神父は日本のイエズス会の責任者であったラサール神父から修練院長として広島へ来てくれと依頼される。広島には毛利元就の息子・秀兼の援助でセルソ・コンファロニエリ神父によってイエズス会の住居が建設され、秀金も洗礼を受けてシモンと名乗っていた。関ヶ原の戦い後、その住居は失われたが、1604年には福島正則の支援で住居は再開され、二人の司祭が住んでいた。しかし、これも宗教弾圧によって再び閉鎖されるという過去があった。

1908年ローマ教皇は日本への大学の設置をイエズス会に要請し、結果として東京に上智大学が開校する。1933年にイエズス会修練院は上智大学と合流したが、1938年に修練院は広島の長束に移された。修練院とは聖職者の養成機関のことだ。ラサール神父は38歳で日本のミッションの地区長に選ばれた人で、それまで上智でドイツ語を教えながら東京の三河島にあった貧民窟にカトリックセルツメントを開いた。寄付を集め、資金を貯め、土地を買い、建物を建てて病人や住居のない貧しい人たちを支援しチャリティー音楽会などの催し物をした。彼は、地区長になると岡山にあった広島地区長館を広島に移してそこに住んだ。日本管区の本部は広島に移されたことになる。それが幟町教会だった。彼は、日本のカトリック教会は、日本文化にもっと親しまれるようにどうしてもインカルチュレーション(受肉)が必要であると考えていた。それで長束に聖堂も畳、修練者の生活の場所も畳という和式の修練院が建てられたのである。(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)

フーゴ・ラサール神父(1898-1990)
1948年に帰化 日本名は愛宮真備

ラサール神父は、戦後日本に帰化するとともに広島に平和記念聖堂を建設しようと奔走した。自らもチェロを演奏する音楽の愛好家でもあった彼はエリザベト音楽大学を構想したといわれる。そして、黙想や観想の世界と禅との共通性を理解し、カトリックに禅の瞑想を取り入れた。瞑想のための座禅会が開かれ、それを世界に広めたのである。同じイエズス会士であるリントネル神父や門脇神父たちがその影響下にあった(クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』)。こうして見てみるとラサール神父の社会に向う行動力と観想的な生活という二つの車輪はペドロ神父にも引き継がれていったと考えてよいのではないかと思う。これが会の本質なのかもしれないが、本書にはアルぺ神父のラサール神父への言及は記されていない。

ピカドンと長束

その朝、アルぺ神父は8時10分に部屋に入り、学びの時間の準備をしていた。やがて目も眩む稲妻のような光が部屋全体を満たした。当時、写真の撮影時に焚いていたマグネシウムによるフラッシュのような閃光だった。しかし、音はなかった。彼は何事かと市内に面した窓を開けた。その瞬間、強大な轟音と熱い爆風に鼓膜を叩かれ、別の部屋まで吹き飛ばされた。反対側の壁にガラス片が突き刺さり、畳の上はガラス片や粉々になった瓦礫が散乱していた。柱時計は8時10分過ぎで停止し、まるで人類初の大量破壊兵器の誕生を記録するかのようだった。

何人かの修練者と司祭がガラスの破片で出血していたが、重症者はいなかった。しかし、広島市内は真っ赤に燃え上がり、巨大なキノコの雲が上空に向けて噴き上がっていた。街は、完全に破壊しつくされ、8万もの命が死を自覚する前に消滅したのである。修練院の司祭たちは、市内から逃げ延びてきた50人ほどの人々を収容したが、ほとんどの人が出血して火傷を負っていた。やがて収容者は増えて、150人を越え、建物に入りきらない人は、庭や畑や道路に横たわるしかなかった。医学を学んできたアルぺ神父はさっそく治療を開始するのであった。

原爆被災後に治療にあたるアルぺ神父 本書より

市内の中心部に近かった幟町の教会堂、修道院は全て焼失し、ラサール院長とシェファー神父は、かなり深い傷を負った。二人は、幟町の近くにあった、かつての浅野家藩庭である現在の縮景園の片隅に横たえられていた。アルぺ神父やクラインゾルゲ神父たちに救出されている。本書で被爆して名前が挙げられているイエズス会の神父は14名で日本人一人を除いて全て外国人、日本人の修道士が1名、日本人を含めたブラザーが2人である。それにメゾシスト会の日本人牧師が一人いる。重症の二名を除く彼等は、被爆地で怪我人の救護を行い、死体を荼毘に付すのを助けていた。ここでは、原爆投下の経緯や原爆投下後の広島の惨状が、かなり詳細に書かれているが、これを書くのは、ちょっと胸が詰まるので控えさせていただくけれど、バランスのとれたとても良い内容だと思うので機会があれば、是非本書を手にとっていただければと思う。

薬は、ほとんどなかった。手術は麻酔もなく神父の机の上で家庭用の消毒したはさみが使われた。ホウ酸が13キロ余り手に入り、基本的には傷口を洗浄し、ホウ酸の湿布で消毒することが全てになっていった。しかし、修練院で治療した90名のうち亡くなったのは一人だけだった。8月7日は、1733年の教皇クレメンス14世によるイエズス会禁止令から解放された記念日だった。アルぺ神父は、破壊に耐え、負傷者で溢れた長束の聖堂の中でミサを行った時のことをこのように述べている。「私は麻痺したように両腕を広げてそこにじっとしていた。そして、科学や技術の進歩が人類を破壊するために使われたという悲劇をじっと考えていた。彼等は皆、祭壇から何らかの慰めがもたらされるのを待っているかのように、苦痛と絶望の眼差しで私を凝視していた。(緒形隆之訳)」

総長への道

1950年、ローマで開かれた修道会の代表者会議に日本の代表として出席したアルぺ神父は当時の総長から原爆の体験を世界中に伝えるように依頼され、ヨーロッパとアメリカへ14か月の講演旅行に旅立っている。4年後に準管区長になり、翌年には原爆の語り部としてラテンアメリカを含む二度目の講演旅行に旅立つ。この講演は計3回に及んだ。彼は、著作も活発に行い、フランシスコ・ザビエルの一生、イグナチオ・ロヨラの霊躁(霊魂のための観想を中心とした修行法)の解説書、カルメル会神秘主義者・十字架の聖ヨハネに関する著作の翻訳、原爆体験などを著している。1958年には日本管区の管区長となった。

ペドロ・アルぺ『キリストのこころ』
「イエズス会士への訓話」「キリストの心の神学」「司牧的指針」収載
新生社 1988年刊

彼が管区長を務めている間に世界は大きく変わっていった。日本もそうだった。西側諸国の考え方を急速に吸収した結果は、溢れんばかりの物質的豊かさをもたらしたが、日本人に具わっていた慎みと自然な感性は、あらゆるものに浸透する相対主義と無神論へと傾斜していった。世俗化が広がって行きつつあった。イエズス会士の戦いは戦前とは異質なものを要求されるようになる。アルぺ神父の補佐をしていたロバート・ラッシュ神父は、アルぺ神父は若い時から伝統的で型にはまった制度にぶつかり、常にそのような人たちからの無理解にさらされたという。多くの新しいアイデアを持っていて性急に前に突き進みすぎると危惧されるというのだった。しかし、そういう人が必要とされる時代もある。ところで、ラッシュ神父には、僕は大変お世話になったので頭が上がりません。

1965年、第二十七代総長が亡くなり、90か国、3600人のイエズス会士を代表する218人による選挙が行われ、アルぺ神父が第二十八代の総長に選任された。仲間からの祝福を受けるために前に進み出たアルぺ神父は、こう述べた。「ところで、私は何をすればよいのですか ? 」オテーナ神父はこう答えた。「今、あなたは、人生で最後の服従をすればよいのです。」一度、選ばれたら降りることの出来ない職責だった。アルぺ神父はイタリアのテレビ局のインタビューに答えているが、その中で、教皇の回勅にある発展途上国における不正義や不平等と戦うことを強調し、それらの労働者たちが我々に食料を供給してくれている一方で飢餓と栄養失調に苦しんでいる。私たちは正義のために戦うと述べている。これは以後のイエズス会の活動の中で闡明となっていく事柄だった。ちなみにイエズス会出身のフランシスコ教皇(第266代・現教皇)は、この頃(1967年ブエノスアイレスで神学の勉強を本格的に開始していた。

北米における人種間の危機を踏まえて、その地域の会士たちに新総長はこう勧告している。少数者を常に意識し、黒人居住地で活動し、学校における人種差別撤廃を推進し、その居住区に修道院を建てるべきだと。異なる人種間における活動は後のイエズス会のマグナカルタになったと筆者は述べている。ラテンアメリカの司祭たちには、露骨な不正義や暴力の驚異が存在する中で、貧しい人たちに福音を伝えること、弱者や財産を奪われた者たちを守ること、公正な社会に向けて平等な権利と奴隷状態や抑圧からの解放を進展させることを訴えた。しかし、この代償もまた大きなものだった。第三世界で、難民、排除された人々、放浪者たちの権利を守るために戦った20人以上ものイエズス会士が殉教しているのである。アルぺ総長自身がイタリアの極左テロ組織「赤い旅団」のブラックリストに載っていたといわれる。

あなたにとってキリストとは誰ですか ?

この社会に対する働きかけ、「他者のための人間であれ」というイエズス会学校卒業生たちへのメッセージ(1973年バレンシアにおけるイエズス会卒業生国際会議)、これらの一方でアルぺ神父が繰り返し強調してきたことは、霊的な生活と清貧だった。アルぺ神父はこのように述べるのである。

「聖イグナチオの霊躁は、抑制された人間を作り出すための形の決まった鋳型ではありません。それは、『人の生き方、いかなる不節制な愛着にも影響されることのないものに整えるために』祈りにより、瞑想により、イエス・キリストの生き方をじっくり味わう単純な方法なのです。イエズス会士にとって、イエス・キリストは最も大切な方です。霊躁は彼の生き方を、彼が自分自身を捧げた事業を理解するための、唯一可能な鍵なのです。(緒形隆之訳)

マザー・テレサと語るアルぺ神父 本書より

「友達や知り合いが一人もいない大都会で、自分がたった一人であることに気づくこと、持ち物や、人との関わりの中から生じる支え合う心や安心感、そんな生きていく上で必要なものを何も持たないこと、言葉によってもそうであるが、貧しいということを自分自身で表現できないこと、常に自分が劣った立場にいるということ、話すことを覚え始めたばかりの子供のように話しても軽蔑され相手にされないこと、自分がいつも貧しい人だと思われていること、憐みや敵意を抱かれていること、そのことに気づいて胸を痛めること、また、そのような目でみられているということ。奪い取られるという根本的な意味において、貧しさとはいったいどういうことなのかを空しく理論分析するよりも、これら全てのことの方が人を真理に導くのだ。(緒形隆之訳)」これは、アルぺ神父自身が、スペインからのイエズス会士追放をうけて一時滞在していたベルギーのマルネッフェで、山口の刑務所で、原爆に被災した広島などで実際に体験したことに基づいている。そして続けてこう述べている。

「貧しい者は、私利私欲と利潤追求で構築された社会では何ら権利を持たない。貧しい者は主張する声を持たない。列の最後尾にいるのである。貧しい者の状態を理解するためには、貧しさを経験する必要がある。その経験が無かったとしたら、抽象的な理論や立派な決意は、ほとんど役に立たない。我々のことが、ほとんど認められていない 非キリスト教国や無神論者の国おいて、我々はそのような社会の中では無駄で危険な要素として、あるいは、解散するよう選別されたものとして見なされていた。この様な環境できちっと生きてきた我々の兄弟達に関して、私がこれまで受けとってきた報告が、如何に深く感動させるものであるかを私はあなたがたに伝えざるを得ない。(緒形隆之訳)

ペドロ・アルぺ『キリストの横顔』
カトリシズムからみた立体的キリスト論
ドン・ボスコ社 2004年刊

アルぺ神父へのインタビューのなかで最も印象的な質問はこういうものだった。「あなたにとってキリストとは誰ですか ?」この質問に僕は虚を突かれた思いがした。それを自分に向けた時、その答えが探せなかったからである。自分がキリストという存在を対象化したことがないからだった。つまり、自分のキリストはいなかったのである。アルぺ神父はこう即答している。「全てです。」自分にとって全てと言えるようなものは何なのか ? 再び考えて見なければならなかった。

1981年世界中を飛び回っていた疲れを知らない総長は、イタリアのフィウミチーノ空港で手荷物を受けとろうとした時、動けなくなった。頸動脈の閉塞が脳卒中を引き起こしていたのだ。飛行機での長旅が原因だろう。2年後に総長を辞職し、長く重い闘病生活の末、1991年に帰天している。83歳だった。

 


アルぺ神父の写真の掲載については、長束修練院のアレックス神父の了承を得ましたが、不都合がありましたら当サイトの問い合わせフォームまでお知らせください。尚、本書は市販されていませんが長束の修練院には何冊か保管されているので、こちらにお問い合わせくださればと思います。http://www.gloriadei.jp/

 

参考図書

ホアン・カトレット『アルぺ神父とともに祈る』

クラウス・ルーメル『愛宮ラサール神父伝』冊子

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』 全三巻
リッチとイエズス会だけでなく比較文化論の観点からも面白い。