ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1  記号の発生と象徴=交換能力

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)『詩という仕事についてついて』

ボルヘスは、こう述べている。「エマソンがその著作のある個所で書いています。図書館は、死者らで満ち溢れた魔の洞窟である、と。しかも、これらの死者は甦ることが可能なのです(『詩という仕事について』鼓直 訳)。」そして、「バークリー主教についてですが、私の記憶によれば主教は、リンゴの味覚はリンゴそのものには無く、―― リンゴ自体は味を持たない――リンゴを食する者の口の中にも無い、両者の接触が必要である、と書いています。一冊の本、書物の集まり、図書館についても同様です (鼓直 訳)」と。

仮に自分が素晴らしい詩の一節を作り上げたとしても、それらは、自分がしばらく前に読んだものの一節ではないかという思いに駆られるとボルヘスは言う。それが、また再発見にもつながるのだとしている。彼にとって世界は一冊の巨大な本、あるいはとてつもない図書館であったはずである。そこには無尽蔵の言葉があり、それらすべてはまた、何らかの繋がりを持っている。例えば隠喩は、二つの言葉を結び付けて作られる。私たちは信じられない数の隠喩を生み出すことができる。そこで我々は、考えるとボルヘスは言う。一体何故、世界中の詩人たちが、しかもあらゆる時代を通じて同じありあわせの隠喩を使い続けているのか?

今回は、このボルヘスの問いに何らかの回答を得るべくツヴェタン・トドロフの『象徴の理論』を探っていきたいと思っている。言葉が繋がりを持つための重要な要素である象徴の問題を取り上げる。本書は、冒頭において「象徴体系」という事象を考察してきた人々についての研究であると筆者のお断りから始まる。それに、対象とする象徴は言葉ではなく事実であるという。それは記号の特殊なケースであり、象徴の研究は記号の一般理論あるいは記号学(セミオティック)の領域に属するという。

ソシュール以降、記号のうち感覚に訴えるものを記号表現(シニフィアン)、記号に存在するある種の価値体系の空間を記号内容(シニフィエ)、この両者がセットになって意味作用と呼ばれてきた。鍵と鍵穴の関係だと思ってもらえばよい。表現と内容が合体した記号が、概念のカオスからある意味のネットワークの扉を開く。記号の内、最も大きな要素を占めるのは言葉だが、ソシュール以前では、言葉は既にある事物や純粋概念の「表現」でしかなかった。彼以降、言葉は「表現」であると同時に「意味」である。り・ん・ごという言葉が実物のりんごを示すような、記号と現実の対象との間にある指示作用は、この意味作用にとっては部分的なものでしかなく、り・ん・ごという言葉からりんごのイメージを思い浮かべるといった記号の使用者における心象の出現もその言葉の具体性に左右され、やはり限定的なものとなる。りんごの味覚は、リンゴそのものにもそれを食べる人の口の中にもないというわけだ。「愛」という一般的で普遍的な概念が予めあるのではない、もし、そうなら日本人の愛、フランス人の amour、英米人の love といった、全く同じとも、全く異なるとも言い難い言葉たちの意味は、正確に照応したはずである。「愛」という言葉は、広大な価値体系の中から「愛」に関系しないものを排除する。それは、布置とも呼ばれるが、「愛」に関する価値の束が残される。こういう意味で記号内容とは鍵穴なのだ。‥‥ソシュールの記号は三位一体というわけで‥‥やっと腑に落ちる‥‥そういえばパースの記号も三要素だったっけ

ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)
『象徴の理論』

ここで、トドロフにとって重要なのは、記号の持つ交換能力、つまり記号の象徴的な機能なのである。記号は、自らと全く異なる言語的現実を指し示す能力を持ち、その記号を他の言語記号に結び付ける(デュクロ、トドロフ共著『言語理論小辞典』)。象徴作用とは、同一レベルにある二つの記号の間の安定した連合のことを指している。例えば、「焔」はある文学では「愛」を象徴し、「お前は俺の相棒だ」という文は「親しみ」を象徴するといった具合である。もともと、記号における記号表現と記号内容には必然性はない。り・ん・ごという言葉と「りんご」という意味内容との関係は恣意的である。同様に、象徴するものと象徴されるものとの間にも必然性はないが、ある種の動機を持っているといえる。

これだけで、この込み入った本を読んでみたいと思ったのだが、なかなか困難な経験じゃなかったかなあ‥‥ 18世紀末、一つの危機の時代が訪れる。象徴についての考察は古典主義からロマン主義への転換点である50年の間に分離が生じたのである。

ツヴェタン・トドロフについては、ミハイル・バフチン 私とあなたの私との対話/結び合う記号のネットワークで少しご紹介しておいたが、ブルガリア生まれの思想家で、ロラン・バルトのもとで記号学を学び、フランスで活躍した。ジュリア・クリステヴァもまたブルガリアの出身でバルトのもとで学んでいたから同門だった。ロシア・フォルマリズムをフランスに紹介したことで知られ、ロマン・ヤコブソンに感化されて、「文学の科学」を目指した。『小説の記号学―文学と意味作用』で構造主義文学批評の嚆矢となり、シクススやジュネットとともに国際詩学研究誌『ポエティック』の編集委員を務める。これは季刊で文学や修辞、物語の構造などに関する文芸理論誌だったようだ。バフチンの影響か、対話批評に向かい、他者問題や異文化問題を主題にした『歴史のモラル』でルソー賞に輝いている。パリ第7大学を経て、フランス国立科学研究センターの芸術・言語研究センターで研究委員を務めた。デュクロとの共著『言語理論小辞典』は素晴らしいと思う。

 

記号学の発生


記号についての考察は、言語哲学、論理学、言語学、意味論、解釈学、修辞学、美学、詩学といった別々の伝統の中で無関係に行われた。記号学はアリストテレスを嚆矢とする。基本的には、音声と事物といった記号が、精神を媒介として意味を生み出すと考えられていた。まずは、記号学の黎明期を概観したい。


 

アリストテレス(前384-前332)
ギリシアの彫刻家リュッポス作のブロンズ像のコピー ローマ時代

「声によって発せられる音は精神の状態の象徴であり、書かれた語は声に出された語の象徴である。これらの表現が直接的な記号 (シーニュ) となっている精神の状態は万人において同一であり、精神の像 (イマージュ) となっている事物もまた同一である(アリストテレス『命題論』/及川馥・一ノ瀬正興 訳)。」

アリストテレスは、語を音声、精神状態、事物という三者の関係から規定した。精神状態は直接的な関係のない音声と事物を媒介する。精神の働きは、一方が他方の像(イマージュ)となるような有縁な関係性によって両者を結合するのである。有縁性と恣意性については巻末に説明しておいた。慣習によって意味作用を持つ音声が名詞となる。何物も自然に名詞となることはないとアリストテレスは考えていた。

言葉は、既にある事物や概念を精神の働きによって結びつける。言葉を記号と捉えたとしても、アリストテレスの言うようなイメージは、普通、今の自分たちが持つイメージに近いんじゃないか‥‥

ストア派の記号論についてはセクトゥス・エンピリクスの『定説家論駁』にその断片が窺える。記号内容 (シニフィアン)、記号表現 (シニフィエ)、対象 (オブジェ) の三つが結びつくとしている。ここでも音声と対象は物体的であるが、意味内容である語られるもの (レクトン) は非物体的なものである。しかし、記号という言葉は何故か使われない。問題にされているのは固有名詞であり、他の種類の象徴は考慮されていない。固有名詞は、指示能力はあっても意味はないからである。ストア派の徹底した唯物論の中でレクトンは例外的に非物体的である。それは、対象を指示するための記号内容の能力である。レクトンは概念やイデアではない。むしろ、レクトンの上で思考が働くという。レクトン‥‥OS

修辞学 間接的意味あるいは転義法

アリストテレスにおいて、隠喩あるいは言葉の転用は特に象徴的な構造ではなく、置き換えられた名詞によって事物を呼ぶこと、ないし、それを置き換えた名前で呼びながらその本来の名を言わないことである。アリストテレス門下のテオフラストスでは弁論術・修辞学は重要な役割を演じるようになる。転用の用語は一挙に増えて、転義比喩と寓意、及びイロニーとフィギュールが登場する。偽ヘラクレイトスでは、あることを述べ、しかも述べられていることとは別のことを意味する文体の文彩は寓意という名で呼ばれる。‥‥文彩は転用の技術だったか

解釈学

解釈学の伝統は著しく困難なほど広範囲・多岐にわたる。それは、直接と間接、明快と晦渋、ロゴスとミュート(話、筋、寓話)といった二つの系統の対立から生まれた。理解と解釈という受容の二つの対立的な様式の一方である。例えば、ホメロスの詩や聖書といったテクストの注解と占術などの多様な形体での予見というものに代表できる。アリストテレスは「隠喩を上手に作るためには(事物の間に)類似を確実に認めることである」と述べる一方で、「夢の最も巧妙な解釈者は夢の類似を認める能力のある人である」と述べている。解釈学の伝統の中に記号学への試みが現れるのは、アレクサンドレイアのクレメンスを待たなければならない。彼は象徴的領域の統一性を極めて明快に述べている。「隠されないものは一つの手段で知覚される‥‥曖昧に表現されたものからは複数の意味を引き出すことができる。」‥‥文彩の技術は多様化をもたらすということか

アウグスティヌスの記号体系

聖アウグスティヌス(354-430)
マルク・アルシス作 1715 ノートルダム大聖堂

アウグスティヌスはある目標に到達しようとする過程で記号の理論を顕わにする。彼は聖書におけるテキストの解釈に身を捧げ、その解釈学が修辞学を吸収した。彼の記号学についての総合的オリジナリティ――あるいはむしろ全世界的教会的性格といった方が良いかもしれないが――は巨大だった。それは西欧思想の歴史上、記号学に値する最初の体系だったのである。

「記号とは、それ自体を感覚に示すものであり、それ自体の外にさらに何かを意識 (エスプリ) に示すものである。話すということは、分節された音声の助けを借りて記号を与えることである」としている。アウグスティヌスによって、言葉が記号であるということが確認された。‥‥これは大きい。そして、記号がもともと感覚しうるものと理解されうるものという二重性を持ち、記号それ自体の中に非同一的な要素があることが明らかにされる。

言葉は、指示と指示作用という記号と事物との関係性を持ち、同時に、話し手と聞き手という関係性も持つ。初めて、コミュニケーションとしての枠組みが主張される。話し手と聞き手とのコミュニケーションの枠組のなかでは言葉 (パロール) の助けが必要である。話し手は意味を抱き、ついで発音し、聞き手はまず音声を把握し、次いで意味を知覚する。これは、ストア派では欠けていたものであり、アリストテレスでは曖昧だったものである。アウグスティヌスにとって言語活動は本来音声的なものが優位にあり、聴覚が視覚よりも優位にあった。

ヴェルブ verbe(言葉)は、それを発音し考える時と、魂の中で認識の対象と共に刻印される時とは別の種類のものと言える。後者の言葉は諸人種の言語に属していない。我々が既に知っているものから発して形成される思考は心の奥で発音されたヴェルブ verbeである。この前言語的な内的ヴェルブというものにも二種類あり、認識の対象によって魂の中に残された痕跡と神を源泉とする内在的認識である。以下に示すこのような流れになっている。‥‥しかし、内的ヴェルブってレクトンのこと?

神の力 → 内在的な知+認識の対象 → 内的ヴェルブ → 思考される外的ヴェルブ → 発話される外的ヴェルブ

アウグスティヌスは『キリスト教教程』の中で記号 (しるし) を細かく分類したが、それらを現実的に調整はしていない。この記号は、言葉だけでは当然ない。記号は、自然的 (無意志的) なものと意図的 (意志的) なものに区別できる。自然的記号とは、煙が火の記号、同様に獣の足跡が獣の記号となり、人の怒ったり悲しんだりしている表情はその人の意図と関係なくその気分を表す記号となる。身振り動作なども或る種の記号となることを指している。それは意図や欲求なしに自発的に、記号そのものとは別の何ものかを指す。

福音書記者の象徴 作者未詳
マタイ=人、マルコ=獅子、ルカ=雄牛、ヨハネ=鷲

意図的記号は、あらゆる生物がその魂の動きを、つまり考えたり感じたりしたことの全てを、自分に可能な範囲で示そうとして、互いに作っている記号である。意図的な記号には、人間の語があり、動物が食物のありかを告げたり、発信者の存在を知らせる叫びなども含まれる。アリストテレスの場合、このような叫びは如何なる約束事も制度も必要としないとして「自然的」とみなされていた。アウグスティヌスにとって意図的記号は、記号として使用するために作られた事物である。学習や制度、約束事を含んでいた。彼にとって意図のあるなしが重要であって、それは、またしてもアリストテレスの「慣習的」記号とも異なるのである。それは、昔から何となくそうなっているものではなかった。この区別はアウグスティヌスに独自のものだったのだ。

聖書解釈においては、少なくとも言葉通りの本来の意味とキリスト教教義における比喩表現としての二つの意味があった。一つの記号は、その記号内容が今度は記号表現となる時、転用となる。「牛」という言葉を聞けば、この名で呼ばれる動物が念頭に浮かぶが、聖書では「牛」は福音書記者の一人、ルカを表す。一般に解釈においては、未知の記号が別の良く知られた記号に置き換えられる必要がある。アウグスティヌスにとって聖書の言葉の多くには、霊的意味が隠されているのであって、それを発見することが困難であればあるほど発見の喜びは大きかった。このような解釈を行う中で、意図的‐非意図的、慣習的‐自然的、といった区分は本来の記号‐転用された記号といった対立関係の中で再び考察されることになる。

『アウグスティヌス著作集』第六巻
 教文館 1988年刊 加藤武 訳
「キリスト教の教え(キリスト教教程)」

しかし、この転用は解釈の増殖を招く。霊的な意味は頂点にあり、次に寓意的意味が来て、言葉通りの字義的、物質的意味になるという階層構造が存在した。意味されるものが予め知られていないとその記号が何か分からない。記号が認知されれば解釈できる。しかし、アウグスティヌスは、何者も記号によっては学ぶことができないという。実在についての知識がなければ記号の解釈ができないからである。実在を教えるのは神でありキリストである。哲学者ルイス・マッキーが『アウグスティヌス〈教師論〉における信仰と理性』で上手に説明してくれている。あらゆる記号は、結局別の記号を意味するという連鎖を果てしなく繰り返し、記号を用いることによって実在の意味を知ることはできないのではないかという懐疑が持ち上がる。言葉は、たらい回しという構造的な危うさを抱えている。ここで、アウグスティヌスは受肉した言葉、つまり記号であると同時に記号の意味 (記号と実体的に同一の意味) であるような言葉を想定するのだと。

トドロフは、記号と象徴の対立関係を基礎づける試みは、ヘーゲルやソシュールによって再開されるが、すでにアウグスティヌスによって乗り越えられていたという。‥‥うーん、記号が福音している、トドロフが前半で言いたかったのは、ここかな

 

古代ローマから18世紀へ・レトリックの推移 


ローマの帝政への移行に伴い、弁論術としてのレトリックは衰退し、美しい修辞技術として脚光を浴び始める。それは、美しいポエジーの術と欺瞞の術という二つの価値観に分離していった。


 

アリストテレスは、レトリック(本書でレトリックという場合は、弁証法と修辞学、両方を含む)が、それぞれの対象について可能と思われる説得手段を見つけるための力としたし、ストア派も弁証法的な「正しく話す」を弁論家的な「うまく話す」から峻別したという。しかしながら、レトリックの技術は古代末期以来、美辞麗句演説の作文学となった。それも前近代では、個性的なるものよりはるかに類型的なもので、その技術を用いるための厳格な規律が不可欠だった。賛辞のための美辞麗句で糊口をしのがねばならなかった後期ソフィストたちにとっては、厳格な規律から言葉の誇張、過剰へと傾斜していったのは世の習いであろう。やがてレトリックに虚構というレッテルが貼られるようになる。

タキトゥスにとって弁論が何か現実に役立つ限り、それは進歩していたのであって、それが可能になるためには言葉が力を持つような自由で民主的な国家でなければならなかった。しかし、ローマは、共和制から帝政へと移行したのである。権力は諸制度に依存するのであって、集会には属していなかった。ビザンツ世界でも同様であって、ハンス・ゲオルク・ベックは『ビザンツ世界の思考構造』の第三章「古代弁論術とビザンツ美術」の中で極めて上手にまとめている。‥‥この本は、美文で訳も抜群だった

クゥィンティリアヌス(35頃-100頃)
『弁論家の教育』

レトリックの第二期は、1世紀のクゥィンティリアヌスから19世紀初頭のフォンタニエまでとなる。文彩や転義法の効果について考えることは、もはや他人への効果を考えることではなく、表現と思考の関係や内容と形式の関係、つまり言語の内部機能へとシフトしていった。言語の精髄に迫り、文体の秘密を極め、観念や思考と表現の真の関係を知るのである。レトリックは言語の祭典となったが、緩慢な衰退、堕落と窒息へと向かっていく。

ラテン修辞学を確立したクゥィンティリアヌスは、思考は構想に関わり、語については措辞を、思考と語両者については結構を考慮しなければならないと述べたが、彼にとって文飾は道徳的に非難される対象でしかなかった。教示と感動は構想と結構に大きく左右され、感動は措辞としか結びつかないとトドロフは、指摘する。20世紀の言語学者であるビューラーやヤコブソンは「教示」は指示へ、「感動」は受信者へ、「快楽」は発話それ自体に導かれるとした。ここでは、話者の表出的機能が欠如しているが、主体が俎上に上り始めるのは、実はロマン主義以降である。

レトリックが、どのように見られていたか少し、例を挙げておこう。クゥィンティリアヌスは、言説は男性であり、粉飾された言説は男娼だと述べている。ロックは『人間悟性論』の中で、レトリックという誤謬とペテンの道具が公然と教えられていることを非難し、弁論が美しい性 (女性)にも似てその魅力は、はなはだ強力で、それに反論することすら許されず、人々が喜んで欺かれるこうした欺瞞の虚偽をいくら暴き立てても無駄であると書いている。‥‥ケチョン、ケチョンだ

イマヌエル・カント(1724-1804)
生誕250年記念切手 横顔は、かなりイメージと違う

ついでに、カントは『判断力批判』の中で、純粋に形式的美である詩について語る。美しいポエジーは、自分に常に純粋な満足を与えてくれたし、雄弁と典雅な話し方とは芸術に属する。しかし、弁論術となると、人間の弱点を自分の意図のために(その意図が善意によるものであろうとなかろうと)利用する技術であるから少しも尊敬に値するものではないと述べている。

有効な弁論という目的は失なったが、膨大な規則の集大成としてのレトリックは残った。それは、言説の美にのみ関わるが、同時に人々が喜んで欺かれるような技とされ、自己欺瞞に陥った。この第一の危機に続く次の危機がやってくる。万人に共通な基準であった宗教の基盤は揺るぎ始め、貴族階級という既存の特権階級は終焉を迎える。奉仕されるべきものはいなくなり、各人が第一に奉仕されるべきものとなるとレトリックは、読む者のためのものとなったのである。カントやノヴァーリス、シェリングが、美はそれ自体で自足するものと定義するようになる。これが、ロマン主義以降の第二の危機であった。それでは、レトリックは、今度こそ言語の祭典に奉仕するものとなるんだろうか‥‥

 

ロマン派前哨戦 芸術は記号か?


修辞が終わる時、美学が始まる。ロマン派に至るまでには三段階の美学があったが、そのうち二つの原理はよく知られたものだった。一つは模倣(ミメーシス)、もう一つは部分同士・部分と全体の調和という作品内部に築かれる美の原理である。そして三つ目は、新たに有縁化される記号としての美の原理が登場する。


 

イデオロギーのもろさが突然明らかになると、その学問の探求において正しいと認められていた価値基準に根本的な変化が生じる。その変化は、その学問における細部の観察や説明の質をなきものにしてしまう。18世紀における修辞学がそれだった。デュ・マルセやボーゼは文彩や文の一般構造を研究し、コンディヤックもまた文彩の研究を行った。ちょっと面白いのは、デュ・マルセやボーゼが隠喩の中では言葉は本来の意味と比喩的意味の二つを持ち、寓意においては本来の唯一の意味のみを持つとしていることだ。それはともかく、彼らはフランスの修辞学の伝統の中にあって過去数世紀の修辞学に支配されていた。しかし、フランス革命がやってくる。修辞学が終わる時、美学が始まるのである。‥‥パラダイムシフトって言うわけだ

タキトゥスの時代にレトリック内部で用意されていたあるがままの言語活動の享受は、ノヴァーリスの「もはや我々は普遍的に承認された形式が支配していた時代に生きているのではないのである」という宣言と共に、諸要素間の調和的な結合によって美それ自体を実現することと定義されるようになる。バウムガルテンの最初の美学の試みは、レトリックを手本にしたものだったと言われる。模倣の原理は18世紀が四分の三経過するまで芸術理論を支配していた。トドロフはこの模倣の原理には三段階あるという。

ジョナサン・リチャードソン(1667-1745)
自画像 1729 部分

第一の段階は自然の模倣を唯一の拠り所とするが、模倣は完全であってはならない。卵は一つの卵であって、卵が別の卵を模倣するとは誰も言わないとヨハン・エリアス・シュレーゲル(シュレーゲル兄弟の伯父/劇作家)は述べたが、ある種のバイアスのかかった模倣が求められた。

第二段階は、理想に沿って選ばれ修正された自然、つまり「美しい自然」を目的とする巧みな模倣である。イギリスの画家・批評家であったジョナサン・リチャードソンは、絵画の主要な目的は自然を高め、改良することだと述べている。しかし、「美しい自然」とは何か、誰にも正確に定義されなかった。ディドロは、自然自体がある理想のモデルであり、それを描くことは模倣の模倣だとした。プラトニズムである。

古来、芸術には競合する二つの原理があった。一つは、作品の外にあるものに作品を結び付ける模倣の原理であるが、音楽や抽象絵画は除かれる。もう一つは、作品の内部そのものに確立される美の原理である。これについてはパノフスキーが古典主義的理念として上手に纏めている。‥‥これは、なかなか香しい

「美とは部分相互間の関係及び部分と全体との関係の調和である。この考え方はストア派によって発展させられ、ウィトルウィウスとキケロからルカヌスやガレノスまで躊躇なく受け継がれ、中世スコラ派の中に生き残り、最後にアルベルティによって公理として確立された。彼はそれを〈自然の絶対的第一法則〉と呼ぶにやぶさかではなかった。この考えはギリシア人がシンメトリア、あるいはハルモニアと名づけ、ラテン人がシンメトリア、コンキニタスおよびコンセンスス・パルティウムと呼び‥‥‥ルカヌスを引用するなら、それは〈全体とあらゆる部分の関係の均一性、あるいは調和〉を意味していた(アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー 生涯と芸術』)。」

やがて、模倣と調和は、ほとんど類義語になってしまう。ディドロ曰く「もし模倣の真実が調和の魅力に加わるとすれば、完成に達したに違いない」というわけだ。‥‥折衷されたか

ジャン=バティスト・デュボス
(1670-1742)
『詩と絵画に関する批判的考察』

第三の段階は、諸芸術の記号としての類型学の段階である。絵画や文学、音楽はどの程度まで記号なのかとトドロフは問う。確かにこう考えることは普通ない。というのも記号における言葉のシェアは圧倒的だし、どのような記号も言葉を通して理解されるからに他ならない。‥‥ヴァールブルクの『ムネモシュネ―』は、その反論であるかもしれない

この芸術の記号論的類型学を企てたのはジャン=バティスト・デュボスであった。フランス北東部のレゾンという町にあるノートルダム教会の神父だった。「絵画は文学のように人工的記号を用いないが、多くの自然的記号を用いる」と述べた。彼の場合、視覚的な絵画の優位は動かないし、ポエジーを含めた文学は聴覚の芸術と捉えていた。そして、語は観念を喚起すべきであるとし、次が大事なのだが、語はその観念の恣意的記号に過ぎない、これらの観念は想像力の中で調整され、我々の心を打ち興味をそそるような画面を作らなければならないとした。

レッシングは、『ラオコーン』とその後に見られるように、絵画の記号は空間と自然なものの中にあり、ポエジーの記号は時間と恣意的なものの中にあるとして、いずれも有縁化されるべきだと考えていたようだ。彼によって、ポエジーとは記号が有縁化されている言語だという定義が登場する。ポエジーに奉仕する擬音語、感情の普遍的な表現である間投詞、これらの用法によってポエジーの音楽的表現が生まれ、言葉の自然な繋がりと隠喩 (メタファー)の使用が指摘される。

隠喩が構成する類似は、イメージや擬音語といった有縁化された記号の類似とは異なる。隠喩は有縁化されない記号を使って作られた有縁化記号であるとレッシングは考えていた。記号内部の機能へと視点が移り始めている。一方、ポエジーと絵画は恣意的であると同時に自然的でありうるとした。要素を自由に結び付ける自己の創作であると同時に、自然の模倣でもありうるということだろう。しかし、レッシングは表象あるいは演出としての新たな模倣とモデルに類似したものの生産という旧来の模倣の間で揺れているとトドロフは、指摘する。彼は、記号(あるいはイメージ)と世界の関係を問題とする模倣の原理という古典主義的精神に引きずられながらも、詩を記号表現と記号内容との関係という、記号内部の関係に導いたことは、詩的言語におけるロマン主義的理論の先駆けとして評価されるべきであるという。彼は、模倣を擁護しようとして心ならずも誰よりも痛烈な一撃を模倣に与えたのだとトドロフは言うのだ。こうして新たな問題が提起された。レッシングの後継者たち、A.W.シューレーゲルからロマン・ヤコブソンに至るまで、言語活動は恣意的であるという事実と文学は有縁化された記号を使うという確信をいかに和解させるのかという問題である。

ふぅー 前半終了‥‥ 恣意性と有縁性について知りたい人はこの後の付録をお読みください

 

 

付録 言語の有縁性と恣意性

「言語とは、部分的あるいは全面的に、事物もしくは思考の自然な秩序によって説明され、正当化されうる」という立場が言語の有縁性を標榜する立場。一方、「言語とは果たして独自で予測しがたい言語外のいかなる現実にも還元されない一つの現実である」というのが言語の恣意性を標榜する立場です。これらをデュクロ、トドロフの『言語理論小辞典』から紹介しますね。

名称とそれが指示する事物の間には自然な関係があるとする考え方がヘラクレイトスの流れを汲む思想にはあった。「名称を知るものは事物をも知る」。有縁性の立場である。いきおい語源の探求に傾いていく。音が一種の自然の真理を持つという考えはストア派にらみられ、ライプニッツは語源学が原始語への接近を可能にし、その原始語は現在の言語よりはるかに音の持つ表現的価値を活かしていただろうと信じていた。この言葉と事物の自然な関係が、模倣(ミメーシス)に関連していくのは想像に難くない。プラトンはどうかというと、真理は言葉の外の本質直観に求められると考えていたから言語の恣意性は認めながらも相対主義の教訓と修辞学を拒んだ。その直感把握が「理想言語」の創造を可能にするのだろうが、それにおいてすら名称は本質の映像ではなく、補助記号にとどまるという。‥‥模倣の模倣ということか

デモクリトスを祖とする「人間が万物の祖である」という相対主義的思想においては、「事物の命名は恣意性によるものであって、法則、制度、契約の問題だとしている。これは勿論、恣意性の立場。ソシュールの流れでは、言語に見られる音に関する因果関係は意味の面を支配する関係とは独立した別のものであるとして言語の恣意性を闡明にした。言語は一つの体系をなし、内部に一つの組織を持つという考えに結びつく。それぞれの記号がその指示対象の模倣であるとすると、個々の記号は他の記号とは独立して説明可能となり、他の記号と切っても切れない関係を持つことはなくなってしまう。だから、古代から類推(アナロジー)と呼ばれる言葉に内在する規則性を追求した文法学者たちは恣意性の側についたという‥‥有縁性と恣意性というのは、だいたいこんな感じ‥‥これを押さえておかないといけません

 

 

参考図書

ハンス・ゲオルク・ベック
『ビザンツ世界の思考構造』

オスワルド・デュクロ、ツヴェタン・トドロフ『言語理論小辞典』
言語理論の素晴らしい解説書になっている。

『アウグスティヌス教師論』知識がいかに伝達されるかを記号学を踏まえて息子アデオダトゥスとの会話の形で述べている。彼の記号学を知るうえで貴重な著書。マッキーの言う受肉した言葉 (記号であると同時に記号の意味であるような言葉 ) という表現は本書には登場していない。