ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part2 象徴学への遠望

今回はツヴェタン・トドロフの『象徴の理論』を取り上げています。本書では、象徴は記号学の視野の中で意味喚起の機能を巡る問題として扱われるのですが、それを前提にお読みください。しかし、この後半で、トドロフは象徴体系の歴史を追いながら、この象徴が古典主義に対抗する美学原理にまで発展していくことを明らかにしていきます。

 

ロマン派の騎手 意外にもモーリッツ


ロマン派の理念は、モーリッツによって確立されていた。そこには、芸術が自然の模倣から逃れ、それとは独立した存在であることが言祝がれ、作品は部分と全体との調和の内に成り立つという古典主義的な美の理論が再確認される。そして、対立物の調和・反対物の融合というもう一つの原理は、ロマン主義美学を特徴づけるものとなった。しかし、ノヴァーリスやシュレーゲルらのロマン派の理論は当時の状況より一歩も二歩も前進していた。そこには、現代にまで通じる積極的な意味が隠されていた。


 

後半はロマン主義的美学理論の萌芽をすべて携えていた人、その人はヘルダーでもルソーでもヴィーコ、シャッフツベリでもない、カール・フィリップ・モーリッツが俎上に上がる。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルはモーリッツが芸術における模倣原理を最も高度に使用したとして激賞したが、惜しくも神秘的迷路に迷い込んだと述べている。一方でシェリングは、モーリッツが一番最初に神話をそれにふさわしい詩的な絶対的性格を含めて表現したと、またもや激賞するが、最終的な完成度に至っていないと述べ、彼にゲーテの影響が濃いことを指摘した。‥‥う~ん、謎の人

しかし、トドロフは、モーリッツの重要な著作『試論』がゲーテと出会う前年には完成していたことを指摘する。いかに、ゲーテが恩着せがましく述べようとモーリッツの功績は霞まないのである。それに、シュレーゲルのモーリッツ評には模倣の概念に関する美学の混乱があるという。当のシュレーゲルが、後の『芸術の理論』では模倣の原理を徹底して批判している。この混乱については、それにまつわる主だった理論をpart1の最後で述べたので繰り返さない。

モーリッツ像 ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティッシュバイン画

モーリッツはこう述べる。「美の性質は、内在的存在が思考の能力の限界を超えて躍り出るところに、自らの生成のなかにある」と。こういった美の非合理的側面と生成の行為に関する関心の偏りは、ロマン主義が表象(再現)と世界の関係ではなく、芸術家と作品の関係、つまり表出の関係を重視してきたことに対応している。彼は美が快楽を与えるという有用性を否定して、美とは無用なものであることを出発点とした。有用ならそれ自体の外側に目的があるが、美は外部の如何なる正当化も必要としない。美の目的はそれ自体の中にある。例えば、歩行には普通それ自体とは別の目的があるが、飛び上がりたい気持ちを押さえられないような喜びは歩行をそれ自体に戻してしまい、それに拍子が取られれば舞踏が生じるという。‥‥手の舞い、足の踏むところを知らず‥‥

芸術の目的が自然の模倣ではなく美の創造であるなら芸術は自然よりも優れているという結論に至る。それに、彼は部分と全体の調和という古典主義的な美の原理も標榜する。それに、もう一つ、美の原理があった。芸術作品を特長づける内部の整合性は、作品の精神的側面と素材的な側面、内容と形式といった相反するものを融合・総合する。ここでモーリッツは「最高の悲劇的美は相反するものの並置によって形成される」とした。神話の進化の頂点にあるギリシア神話のイメージは相いれない反対物を吸収し高める総合能力によって特徴づけられると述べるのだった。

諸芸術の間では美は翻訳されえない。芸術のメッセージはポエジーや絵画などによって表現可能であるが、普通の語が述べる能力、考える力の限界を超えたものを表現する。そこで、あらゆる芸術の特性が唯一の概念、ロマン主義者たちが象徴(シンボル)と呼ぶものに集約されていく。そして、モーリッツにおいては、あるものが美しいと言う限りにおいて、それは何ものをも意味すべきでなく、その外側にあるものについて何も語るべきでない。自己自体によって記号表現となるべきだという。

ノヴァーリス自筆稿 
『ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン』

ノヴァーリスはこのように述べている。「ポエジーの本質が本来何であるか誰にも定義できないであろう。けれどもそれは無限で単純な整合性である。」ポエジーと音楽と数学との間の無数の同一視が始まる。言葉は観念にとって音楽の楽器であり、フーガは全く論理的、科学的であり、代数はポエジーであったのだ。ここで、全体と部分をどのように解釈するかという問題が起きてきた。内部の整合性は、個別と全体との調和にかかっている。個別は全体の認識を前提とするが、個別的なものは一つずつしか把握することはできず、全体を一度にはとらえられないからである。シュレーゲルの弟子であったアーストは全体の各部分は同時に全体のイメージであり、全体は部分の中に既に与えられるとしたのである。シューレーゲルは循環的方法と呼んでいたようだ。‥‥これがフラクタルの話なら申し分ないけど

さすがにノヴァーリスは詩的にこう述べる。「各瞬間ごとに含まれる普遍的なものは失われない。なぜなら、それは全体の中にあるからだ。どの瞬間にも、どの現象にも全体が働いている。人類という永遠なものは偏在する(断章-1979年まで 48/青木誠之 他訳)。」

カントは、こう述べた。美的観念は任意の概念に連なった想像力の表象であり、その想像力の自由な行使は多様な部分的な表象を結び付ける。そのため一定の概念を示す如何なる表現もこの概念を表すことはできず、言語に絶する多くのものを考えさせる。その感情は認識能力を活性化し、言語の文字に精神を吹き込むと(『判断力批判』)。美的観念は芸術が表現するものであって、いかなる言語もその芸術と同じものを表現できない。しかし、その中心にある言語を絶するものの代わりに周辺的な連想を無限に言いたてることはできる。つまり、美的観念を運ぶ形式は美的属性というわけだ。言語に絶するものは、言葉の過剰を、記号内容による記号表現の氾濫を引き起こす。ここで思い出してほしいのだが、part1で述べたようにアウグスティヌスは、聖書解釈の濫が多様な言葉の置き換えによって起こることを強く警戒していた。ロマン派では、逆にそれが正当化されるのである

一方で、天上的なものは間接的にしか語れないというオリゲネスやアレクサンドレイアのクレメンスに見られる考え方があり、芸術と宗教性との類似があった。ここでは、至高のものは寓意によってしか表現できないと考えられていた。寓意による表現方法と神的な内容を持つメッセージの方法とは相互に連帯し始める。こういう意味で、シュレーゲルにとって寓意は他のロマン派の場合のように象徴とは対立しないものだった。寓意であれ、象徴であれ、それを用いることは、芸術を言葉で表現することの不可能性に根差していた。そこで批評は、モーリッツの言うようにそれ自体をポエジー、音楽、絵画とすることで可能となる。ポエジーはポエジーによってのみ批評され、小説は小説によってのみ批評されうる。こうしてノヴァーリスやシュレーゲルにとって創作は批評活動となるのである。‥‥これは現代にも大きな影を落としていると思います‥‥がノヴァーリスやシュレーゲルらの初期ロマン派と後のロマン派ではかなり様相を異にするので注意

作品が自足する存在であるなら、ポエジーにおける言語の使用は遊びに過ぎなくなる。言語の本質は、言語自体のことしか構わない。そこでは、作家が言語を使用する者ではなく、言語に使用される者となる。ノヴァーリスはこうして未来の美しく純粋な創作をこう述べる。「夢のように、話の筋が支離滅裂であるがさまざまな組み合わせがあるもの。ごく単純に言って完璧に調和のとれた詩編、完全な言葉の美しい詩編、しかしまた首尾一貫せず、いかなる意味もなく、せいぜい二つか三つの分かりやすい詩節からなり――この上なく多様な事物純然たる断章のようなものであるべきである。本物のポエジーはせいぜい大まかな寓意的意味を持ち、音楽などのように間接的効果を生み出しうるのである(断章)。」‥‥これは、ちょっと嫌な予感がする‥‥鴨長明は「言葉にあらはされぬ余情」を追求した結果、朦朧とした歌体になった

 

ゲーテ登場 ロマン派の香り


象徴と寓意とは、どう異なるのか。なかなか見極めがたいものがある。それを鮮やかに差異化したのはゲーテだった。それは、図らずもロマン派の価値一式と手を携えることになる。ゲーテは、一部ロマン派だというトドロフの指摘もなるほど頷ける。


 

1790年まで象徴という言葉は、寓意、象形文字、数字、謎といった言葉の類義語でしかなかった。現在一般的に使われている寓意と象徴についての解説をいくつか取り混ぜてご紹介する。

サンドロ・ボッティチェリ 『不屈』
不屈の寓意像、甲冑や剣といったエンブレムが重要な要素となる。

寓意とは、他の物事に仮託して、ある意味をあらわすこと。抽象的な事柄を具体化する表現技法である。狐は狡猾の、天秤は平等の寓意となる。文学作品、造形作品に仮託する場合もある。文学作品の場合、一般的に同系列の隠喩を連続させて,たとえ話のような形式に構成される。たとえ話や寓話より複雑で長く,ある物語の展開が同時に別の事件や思想を組立て,両者の間に明瞭で継続的な関連が認められる場合を言うとある。その基本的手法は擬人法であり,人物が抽象的観念を表わす。これは『薔薇物語』のところでご紹介した。 理想の女性を〈薔薇〉に見立てた隠喩を展開させれば、奥処の薔薇に遭縫することは真理に到達することを意味していた。こうして、人生における真理を得るための戦いが寓意として成立するといった具合である。

象徴はこのように説明されている。一般に直接知覚できない事象を類似性や隣接性にもとづいて具象化したものが象徴である。この事象と何らかの関係を持つ第三者がそれに充てられるが、その対象との間の関係が例えば鳩と平和のように目や耳などで直接知覚できない意味や価値などを物や動物,ある形象など何らかの類似によって具象化したものに置き換える時、象徴と呼ばれる。心理学的には外的事物,事象を代表して表現している心理過程をさす。この意味では、心像ないし観念とほぼ同義である。精神分析においては,特に無意識の欲望などを表わす意識的観念,活動あるいは物体の意味で用いるとある。

象徴と寓意の対比を初めて行ったのはゲーテであった。有名な定式は、詩人が普遍を目指して個別を探すとき寓意が生まれ、特殊な個別の中に普遍的なものを見る時に象徴が生まれるというものだった。ゲーテにとって後者が本来の意味のポエジーであり、これを指摘したのは彼が最初だった。制作過程の違いが闡明にされる。寓意においては意味作用は必然的であり、作品の中のイメージは他動詞的、つまり他者を巻き込むことになる。ゲーテ風に解釈すれば、狡猾を目指して狐が探られる。象徴の中ではそのイメージが別の意味を持つことをそれ自体によって指示されない。平和を目指して鳩が探られるのではなく、鳩から平和等が想起させられる。本来のポエジーは、普遍的な基盤について考えることも指示することもなく個別を述べるが、それを生き生きと捉えることが出来る者には、同時に普遍的なものをそれとは知らずに後になって受け取るのだという。

『ローマ近郊におけるゲーテの肖像』1786~87年
(ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画)

また、後にこうも述べている。寓意は現象を概念に、概念をイメージに変形するが、概念はイメージの中に残り続ける。それゆえ、概念を完全に捉えることができ、それをもってイメージの中に表現できる。象徴体系は、現象を観念に、観念をイメージに変形する。しかも、この観念はイメージの中で常に果てしなく活発で捉え難く、あらゆる言語で表現されるとしてもそれは言語に絶するものとなる。老境のゲーテが指摘したことは、作品は、寓意においても象徴においても個別 → 普遍 → 個別という過程を経るが、普遍という抽象化の段階で、寓意が一つの理性的な概念に結ばれるのに対して象徴の中では観念にまで及ぶのである。つまり、象徴の方が複雑だと言っている。ここに象徴の絶対的優位が宣言される。

トドロフは、こうまとめている。寓意は、既成のもの、他動詞的、恣意的で純然たる意味作用であり、理性の表現とされた。象徴は、生産的であり、自動詞的であり、有縁化であり、反対物の融合にまで達し、その内容は理性では捉えられず、言語に絶するものを扱う。ゲーテの言う象徴は、ロマン派が標榜した価値一式に当てはまっていた。‥‥ゲーテは一部ロマン派だという指摘も頷けます

この象徴という語がロマン派の中でどのような位置を占めるかは以下の指摘で明らかになる。A.W.シュレーゲルは、友人のシェリングの「美とは有限な方式によって表象される無限である」という言葉を援用し、その中には崇高美も含まれると断りながら「美は無限の象徴的な表象である」とした。ロマン主義美学を一語に圧縮するとすればシュレーゲルの言うこの「象徴」という一語であるとトドロフは述べている。

 

象徴 メタシンボルか原始心性か


ロマン派以降の象徴の行方が取り扱われる。アウグスティヌスは、本来の記号と転用された記号という枠組みの中で寓意と同時に象徴機能を認めていたが、ゲーテは、寓意より象徴を前面に押し出した。これによって、象徴は修辞の方法の一つから美的原理にステップアップし、ロマン派において強大な力を獲得するのである。しかし、二つの矛盾する態度を生んだ。それは、象徴をメタシンボル化する傾向と原始的心性に押し込めようとする態度である。


 

オスワルド・デュクロ、ツヴェタン・トドロフ『言語理論小辞典』
言語理論の素晴らしい解説書になっている。

ソシュールによって記号と象徴(symbole)とは対立するものとされた。記号における記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)との間には必然性はなく、恣意的であるが、記号表現なくして記号内容はなく、その逆も真であるという意味で必然的なものと言える。り・ん・ごという言葉とりんごの意味内容との関係は恣意的であるが、その二つがセットでなければ意味をなさないという点で必然性を持つ。象徴には象徴するものと象徴されるものがあるが、この二つの間にも必然性はない。鳩と平和という語は本来関係性はない。しかし、そこには何らかの動機がある。こうした動機付けは心理学では類似と隣接というようだ。このような類似と隣接によって象徴連鎖が起こる。言葉によるコミュニケーションは、記号以上とは言わないまでも象徴の使用によっても行われるとトドロフは言う。今や、記号と共に象徴は意味喚起の二大形式の一つとなるのである。

だが、それは二つの矛盾する態度を生んだ。一つは、記号を象徴に変換しようとし、記号ごとに無数の象徴を結び付けようとする態度、そこから象徴のメタシンボル的確信が生まれる。これは説明する必要はないだろう。もう一つは、すべては記号であり、象徴は存在しない、ないし存在すべきでないとする態度であり、理性が言語活動を支配すると考える人たちは、象徴を動物、子供、未開人などの原始心性に特徴的なものだとした。レヴィ=ストロースは、呪術と科学を対立させるかわりに、認識の二つの方式として並列させるべきで、両者が前提とする心的操作の種類に関して違いはないとしたことはよく知られている。また、象徴の起源を原初の言語の残響だとみる態度に対して、トドロフは、自分の仮説は、人々が言語活動や言語的記号の起源とかそれらの初期状態を記述していると思いつつ、実際には現に存在しているそのままのかたちの象徴について暗黙に通用している知識を過去に投影しているのだと述べている。

象徴を原始的心性に押し込めようとする態度については、いくつか、面白い例があるので挙げておく。リュシアン・レヴィ=ブリュールは、原始的心性を提唱した哲学史家だが、象徴はそれが表す存在とか対象に、ある意味で、「なっている」ように感じられると述べた。表象することは、現実に目の前に文字通り出現させることだった。象徴はその存在に帰属しているためにその存在の一部なのである。このように象徴は、それが表している存在なり、対象なりを分有しているというのだ。インディアンは自分の名が単なる名札でなく目や歯のように自分の一部だと感じ、自分の名が悪意によって扱われると身体の傷が痛むのと同じように苦しむという例がある。トドロフは、我々現代人も全員インディアンなのかと問う。

未開人は、連続関係と因果関係を混同し、通行中に蛇が木から落ちたことと、その後息子が他所で死んだことを結びつける。この例に対して、ロラン・バルトが物語の原動力は、継起性と因果関係の混同そのものにあり、後からやって来るものが結果として読み取られるとし、それは論理的誤謬の組織的応用だとしたことを紹介している。そして、フロイトは夢が論理的関係を同時的なものとして示すと述べたことも付け加えている。‥‥ユングは好きじゃないらしい

レヴィ=ブリュールは、象徴使用の特徴は体系のないことだと指摘したが、トドロフは E.カイエの『象徴性と原始の魂』の一節を引いて反論している。「赤い月夜の晩に生まれた人々は王になるだろう」。赤が血と、したがって権力と連合させられる。血は権力の象徴表現(換喩による)だが、それは赤の象徴内容(提喩による)となっている。赤は血の象徴表現であり、月の象徴内容であり、正確には月のある時期の象徴内容(別の提喩)となっている。月のこの時期そのものが時間の換喩によってその時期に生まれた人間の象徴内容に変換される。各象徴表現がそれぞれの象徴内容となっていて、この転換は無限に持続する連鎖として展開されるかのようである。王も権力の象徴である。この連鎖は一つの象徴内容である権力の同一性のおかげで実現されるのであり、それは等価関係化と呼ばれる。‥‥おおっ! 象徴学してきた

象徴体系の操作におけるもう一つの特徴は多元決定である。再びカイエの著作が引かれる。「若い一人の原住民は最初の息子を失くしたので、二番目の息子をローライRoalahyと呼んだ。私が理由を訊ねたので、彼は次のように説明した。〈私がローライ (=二+男) と呼んだのは、息子が息子であり、また長男の代わりだからであるし、またその発音が、有名な白人だと思われるローランという名と似ているからである〉」。トドロフはこう付け足す。ジェームス・ジョイスは、したがってこういう手法の創始者ではない。象徴体系のどんな利用者もこういうことをしているのである。連綿と‥‥

 

象徴とフロイト〇 象徴とソシュール× 象徴とヤコブソン□


象徴に関連する問題提起としてフロイトの夢解釈とソシュールの「舌語り」との関わり、そしてヤコブソンの詩学が俎上に上がる。これらは、象徴がどのように彼らの思想と関係したのか、あるいは関係しなかったのかを検証している。フロイトの夢解釈と象徴の関係はすこぶる興味深い。


 

フロイトの象徴による夢解釈

フロイトは、機知や夢の研究を通して無意識に固有の特殊なメカニズムを述べた。夢は無意識の中ですっかり準備された象徴を利用するのであって夢の作業の中に特有な象徴活動というものはないという。そして、夢の作業とヒステリー症候の起源は同じであって、ある正常な思考に対する異常な心的加工は、幼児期に起源を持つ抑圧された無意識的欲望が正常な思考に転移した時のみに起こりうるとした。これは有名なテーゼとなった。だが、トドロフは、著名な言語学者バンヴェニストの論文を引いて、フロイトが確認したのは、伝統的な修辞学における言語学的な象徴体系の諸作用に過ぎない、フロイトはそれと気づかず「転義法の古いカタログ」を再発見したのだという。同時に、この時代の意味論という観点からはフロイトの『機知といった著作は最も重要なものだとも述べている。この著作では、言葉の圧縮、ほのめかし、間接的な表象、多元決定といった言葉遊びなどに関わる問題が考察されている。

フロイトにとって潜在夢から顕在夢に変形する作業が夢の加工であり、逆の作業である顕在夢から潜在夢へさかのぼる作業が解釈だった。この解釈において彼は、象徴の解釈法と連想の解釈法とを分けて、連想法という新たな分野を開拓している。連想法は、夢を見た人に夢の内容の様々な要素に関して気づいたこと、夢の断片が生む諸連想を話してもらうことである。自分の夢を自分が語るのである。夢を見る人の連想は、その人の生の特定の時期に固定されているので普遍性を欠いていて、一つの象徴的な表現は無数の象徴表現を湧き立たせる。観念連合は夢の一要素から複数の思考へ、一つの思考から複数の要素へと導かれるという。ここで、トドロフは、フロイトが夢の物語に続いて現れる連想に価値を置いたことを独創的だと評価する。象徴の隣接関係を記号表現による隣接関係と同一視したのである。しかし、フロイトは夢の象徴体系は夢に特有のものではないが、無意識の作用だと明言してはばからなかった。象徴表現は無意識の産物となったのである‥‥うーん、夢解釈を言葉の側から逆照射するとこう見えるのか。フロイトの象徴はロマン主義者のそれとは異なっている。ロマン主義者にとって象徴は翻訳不可能なものだった。ついでに言うとフロイトの解釈学は後に大きな影響を与えた

 

ソシュールと舌語り

ソシュールの「アナグラム」とロマン・ヤコブソンの「音素から詩へ」でご紹介しておいたが、ソシュールがあの華々しい講義の後、中年を過ぎて長い沈黙に陥ったこと、アナグラムや民俗学に傾斜していったことは謎とされている。そして、これもまた、奇妙なことだった。ジュネーヴのとある商店に勤めていたエレーヌ・スミスは入門希望者の何人かに交霊術の「実践上演」をしていた。精霊とのコンタクトで、彼女は、ある日、サンスクリット語を話したかと思うと、翌日は火星語だったりしたのである。だが、その交霊術の場で、その言葉を筆記していたのはフロイトの弟子であり、ジュネーヴ大学の心理学教授であるテオドール・フルールノワだった。彼は、ソシュールに彼女のサンスクリット語もどきや火星語の分析を頼み、ソシュールは実際にその分析をした。トドロフは、そのことがソシュールにとって象徴に接近するための貴重なチャンスだったと考えているが、ついに彼は、言葉の喚起や示唆の関係を体系化することなく袋小路に入り込んだままだったという。‥‥ソシュールにモノ申す‥‥ここが、本書を書く動機の一端になっている

舌語りあるいは、語妄想と呼ばれる現象が宗教から離れて医学や心理学の分野で研究されるようになったのは19世紀も半ばになってからである。トドロフは想像し難いことだがと述べながらソシュールがエレーヌ・スミスの言葉を熱心に研究したことを紹介している。ソシュールは、彼女のサンスクリットもどきはサンスクリットではないが、様々な音節のごた混ぜで、その中に8音節か10音節までの意味を持った文の断片が現れる、それら以外は理解不能だが、サンスクリットの単語一般形態に反したり対立してはいないと結論付けた。フルールノアがエレーヌ・スミス嬢に関する著作を発表した後、今度はヴィクトール・アンリという言語学者が彼女の火星語を研究した。

アンリは、言語活動が意識的なものであるとしても、それが駆使する手段は無意識的なものだと考えていた。彼は自分の考えを正当化するために例の夢の象徴論理を引き合いに出した。発明された意味のない言語は、実は他の語から派生したもので舌語りの言語活動は有縁的な言語活動だという結論に達した。その有縁化は無意識が行う秘密の仕組みの働きだというのである。

実は、舌語りには観察者全員を引き付けた特徴があった。頭韻法とリズムに関係する文彩が多いことである。音の形態の繋がりが問題となる。トドロフは舌語りの言説における象徴体系 (要素の繋がり方) は、通常の言語活動の持つ「意味」をなおざりにして構成要素間の関係を問う広義の統辞法を強めている結果だとみている。 火星語の éréduté は、フランス語の「孤独な/ solitaire 」を意味するが、アンリは éréduté を éréd と ut、そして é に分ける。éréd はドイツ語のErde (地球、大地)だがフランス語の同じ意味 Terre に近接し、ut はソの音階の名solから(実はこれはドの間違い)、é は近接した母音の i に変換されて solitaire となるとしている。アンリはこのように火星語を分析して見せた‥‥ご苦労様

 

ヤコブソンの詩学

ヤコブソンは、常に文学とは何かを考えてきた人である。彼は高校生の時、ノヴァーリスとマラルメを読んだ。‥‥Oh!、Bravo!‥‥  言語と詩を未来の研究対象に決めていた頃である。彼らは、言語に関する深遠な理論家であり偉大な詩人であり、それらが結びついていたことを知った。ちょうどその頃、フレーブニコフらの未来派やロシア・フォルマリスムという学派が誕生していたが、彼らの思想に見えるものは、すでにノヴァーリスの『独白』の中で十分に総合的な形の萌芽を見せていた。そのことが自分を驚かせ、魅了したと回想している。実際、詩の自動詞的性挌を「表現のための表現」と定義したのはノヴァーリスだった。トドロフは、ノヴァーリスの自動言語とフレーブニコフの自律的言語説を隔てる距離はわずかだとしている。ロマン主義における詩の定義はおよそ100年間忘れられていたが、20世紀の初頭以来、前衛的なすべての詩学の流派において、ロマン主義に反対する立場の人々においてさえ、合言葉となったという。‥‥ヤコブソンの原点は、象徴派⥹未来派にあったんだね

彼の研究は二つの方向に向かった。一つは、文学が描く「現実」ではなく「現実が描かれているという印象を与えるテキスト」を用いてその真実らしさを研究することだった。人が現実と呼ぶものは一貫した有縁化、つまり関係性の中から現われると考えた。ここらあたりが、象徴機能と関係するところだろうか。もう一つは、ある詩人の詩学の根本にある諸構造の特徴からその詩人の主題を演繹しようとした。ヤコブソンの興味は個々の文学事象を知ったり記述したりするための基礎をかちとることだった。そこでは、ノヴァーリスのように啓示を述べることも、サルトルのように敵を告発することもなかったとトドロフは指摘している。

ヤコブソンにとって文芸の科学が対象とするものは、文学ではなく文学機能であり、その唯一の主役は技法だった。技法とは言葉を事物あるいは観念の単なる代理としてではなく言葉自体として知覚させるために詩人たちが用いる全ての方法だと定義される。具体的には、文彩 (フィギュール)、時間空間との戯れ、奇妙な語彙、構文、付加形容詞、詩的転用と詩的語源、語呂、類義語と同音異義語、韻、語の分解などである。その中で、彼の注意を引くものは、様々な形の反復と並行性だった。そして、自動詞性を実現するための内的整合性がある。それらによって、詩は特別な固有の時間継起の中に入っていく。こうして、詩を聞く人は現実から引き出され、想像上の時に身をゆだねる。そこでは、言語が純粋な戯れとなり、韻律、テンポ、リズムといった言語内容とは無縁な法則に従うのだという。

トドロフは、言語の自律性を認めず、言語に固有の法則を探求することを拒絶する態度は、既に我々の文化に蔓延しているという。そういう風潮に対して、ヤコブソンの態度、どんな口実が与えられようと決して言語を知覚することをやめず、言語が透明性や「自然さ」の中に消えてしまうのを許さないという態度は、重大な思想的、哲学的意味を持ち、その重要性は市場に流通するあれこれの「思想」などよりずっと重いと断言する。ヤコブソンには、言語学者であると同時に大胆な詩を激しく生きようとする賭けがあるという。彼の言語理論には規範と例外の対立を認めないという特徴があった。もし、ある言語理論が良いものなら、それは無色の役に立つ散文だけでなくフレーブニコフの詩のようなこの上ない野性的な言語創造をも説明できるものでなくてはならなかったのである。‥‥トドロフにとって、ヤコブソンの情熱は導きの星だったか

 

象徴学は飛翔するか


トドロフ、最終章で岐路に立つ。


ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)
『象徴の理論』

ロマン主義が生んだもの、それは、諸現象間の徹底的な差異化であった。唯一の絶対的本質に対する探究の断念だったとトドロフは言う。決定的に重要なのは創作者と創造物との関係となる。自己表現を行う主体が多様であれば、多様な理想がある。多様性が重きをなし始め、歴史は不可逆的で還元不能な展開となる。ヴィーコやヘルダーが先駆けたが、これもロマン派の創案である。各時代は、それぞれ独自の精神、独自の理想を持つと考えられるようになった。言語活動に多数の機能があるように、芸術も同様であり、言語活動、芸術の立ち位置、階層秩序は、異なった時代や文化では同じままではあり得ない。古典主義のように、理想は一つではなくなったのである。

古典主義の理想は、事物と概念の不変で永遠の本質を信じることであり、一つの体系が歴史を支配する。時の経過の中で現れる変化は、予見された変化に過ぎず唯一の枠組みを変えない。ロマン派では、歴史が体系を支配し、唯一の枠組みは放棄される。変化は不可逆で差異は還元不能だという公準を打ち立てなければならない。ここで、トドロフは古典主義とロマン主義という二つの道の間で迷う。そこから何処へ向かうのか。‥‥記号学の問題から完全にはみ出してるぞ !

彼は、第三の道を模索できるのではないかと考える。それは類型的、多機能的、異形論的であろうと言う。それを可能にするのは言語活動の象徴学の構築ではないかと言うのだ。‥‥象徴学を新たな結合術にする道もあったかもしれないのだけれど‥‥この最終章でそれを具体的には述べていない。実は、後の『言語理論小辞典』の中で、象徴学が非言語的体系の記号学を形成する上で欠くべからざるものだと述べて、他の動機を吐露している。バンヴェニストは、音、色、映像に関するいかなる記号学も音、色、映像によって述べられることはないであろうと述べた。パースは、そんな非言語的な記号学を含めた総合的な記号学へ向かって努力したが体系化できなかったし、カッシーラの『シンボル形式の哲学』は、哲学の枠組みであって記号学のそれではなかった。トドロフにおいて、象徴の問題は、解釈学と間テキスト性の問題へと自然に拡大していくのだが、彼の関心は、文学へと引き戻される。『批評の批評』を経て他者との対話へ移っていくのだ。自己とテキストに見られる「他者の自己」との対話である。それが、どのようなものであるかは、ミハイル・バフチンをお読みになればよいと思う。

トドロフは、丁寧に象徴の歴史を追いながら記号や修辞についての知識を与えてくれている。言葉の「表現内容」は意味のネットワークが前提とされているということ。アウグスティヌスの隠喩、寓意、象徴といった「本来の記号ー転用された記号」は、言葉を結び付ける強力な手段であること。象徴に代表される転用作用は、テキスト間の意味喚起にまで及ぶこと。これによって形成される意味連合は豊饒な世界を形成してくれる。私たちが、多彩な意味のネットワークを掛けかえ合えているのはこのような言葉の機能によるということに気づかされるのだ。ボルヘスが、何故詩人たちがあらゆる時代を通じてありあわせの隠喩を使い続けるのかを問うたのもこの問題に結び付けられているだろう。隠喩は、象徴的喚起全てに潜む最も基本的構成関係を示している。そして、僕が思うに、特定の隠喩は意味のネットワークの結節点となりうる。それは巨大なクラスターになっているのだ。この意味のネットワークがテキスト内やテキスト間で勇躍する契機をトドロフは、象徴にみていた。

 

参考図書

ツヴェタン・トドロフ『象徴表現と解釈』
『象徴の理論』の姉妹編

本書では、言語における象徴表現から何故複数の解釈が生まれるのかが考察される。象徴表現と解釈とは切り離すことが出来ない。トドロフのいう象徴は、語・文からだけではなくインターテクストの中から意味を浮かび上がらせるような働きを指すようにもなる。アウグスティヌスの記号学が比較的詳しく、象徴の不確定性を巡るランボーやカフカの例など興味深い例が紹介されている。