石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 part1 縁起を導く接続詞

 

不滅にして不生、不断にして不常、不一にして不異、不来にして不去、戯論寂滅にして吉祥なる縁起を御説きになった、説法者中の最高の説法者である仏陀に敬礼いたします(『根本中頌』帰敬偈 桂紹隆、五島清隆 訳)

石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』 2007年刊

この龍樹の八不中道にシビレテ以来、いまだに痺れっぱなしになっている。しかし、シビレタまま動けない。そうこうしている内にこんな本に出合った。ブッダや龍樹の経典を論理学を通して解き明かすものだ。これは新鮮というか大胆というか、全く驚いた。意図はまことに豪胆と言える。批判は、かなりあったのではなかろうか。しかし、こういった文字通りラディカルな説が新たな道を模索するには必要ではなかろうか。どのような内容なのか、順を追ってご紹介していきたい。ブッダや龍樹の独特の言い回しには、構造的な理由があるんじゃないかというのは、何となく感じていたけれど、こんなに闡明にしてくれているのは嬉しい。

最近、言葉に興味を持っている。言葉は構造を持っていてネットワークを作り出すことができる。そこには色々な結合のメカニズムがあるのだ。それらを知ることはとても興味深い。そして、この言葉を通して、私たちは感じたことを明確にし、それがどのように生じ、移ろい、滅していくのかを考え、知ることができる。それは私たちの世界観を大きく支配している。しかし、それらは束縛となることもあるのだ。世界はマーヤである。真理と言葉との間に大いなる懸隔を作り出したのはブッダだった。しかし、それを知らしめるためには、言葉を用いるほかはなかった。

石飛道子(いしとび みちこ)さんは1951年、札幌に生まれている。北海道大学大学院博士課程を単位取得退学。北星学園大学を経て札幌大谷大学で特任教授として教鞭を執っておられる。もともと、インドのニヤーヤ学派を学んでいて、その後、それが中観派の需要な著作『方便心論』の強い影響下にあったことを知るようになった。ニヤーヤ学派は、インド六派哲学のうちの一つだが、論理学を自覚的に説いたのは「ニヤーヤ・スートラ」を嚆矢とする。その『方便心論』が阿含経の表現を真似ていること知った。文に一定の形式があるなら、そこに論理学があり、ブッダが論理学を持っていることを確信するようになったのだという。この流れは香ばしい。著書に『ブッダ論理学五つの難問』『龍樹造「方便心論」の研究』『龍樹――あるように見えても「空」という』『「スッタニパータ」と大乗への道』 『「空」の発見』などがある。本書『ブッダと龍樹の論理学』は、いわば基本編の『ブッダ論理学五つの難問』に龍樹の論理学を組み合わせた応用編となっている。

 

ブッダガヤの金剛座 釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた場所とされる。

前5世紀、ブッダ(釈迦)は苦行の果てに何ものも得られぬことに絶望し、全てを放棄してネーランジャラー川に臨む菩提樹の下に座り光明を得た。7日の禅定の後、十二支縁起を悟り、順観と逆観でこれを唱えたと言われる。ヴァーラーナシーの近郊サールナートで、かつて苦行を共にした5人の沙門に苦楽二辺の中道と八正道、そして四聖諦を説いた。それが初転法輪と呼ばれる。この時、既にブッダは論理学の体系を完成していたと筆者の石飛道子氏は述べる。

12項からなる因果関係を説明する十二支縁起と中道によってブッダの論理学の体系は基本的に説明される。四聖諦によってその活用の仕方が具体的に展開され、八正道によってそれをどのように学ぶかが示されるのである。まずは、言葉に表現できない真理と言葉で教説される真理の別があることが知られている。そのブッダの真理を龍樹が解説している。

第一義諦と世俗諦

第一義諦と世俗諦は、ブッダの論理学独自の論理的、思想的用語である。それが龍樹によって『中論』、正式名称は『根本中頌』だが、そこで解説される。二つの真理にもとづいて、諸々のブッダの法の説示がある。

世俗の真理 (世俗諦) と究極的な意味の真理 (第一義諦)とである (中論24.8)。
これら二つの真理を知らない者は、ブッダの教説の深淵な真実義を知らないのである (中論24.9)。
言語の慣用によらずには、第一義は説き示されない。第一義に到達しなくては、涅槃は獲得されない(中論24.10)。

第一義諦と世俗諦という二つの真理がある。「ブッダの教説の深淵な真実義を知らない」とは、「深淵な」が縁起の理法を形容する時の枕詞のように使われることから、この教説が縁起を指していることが分かる。因果関係の体系のことである。第一義諦は涅槃に関わり、世俗諦は言語習慣に関わる。しかし、言語なくして涅槃を説くことができない。これらは、ブッダの阿含経の中で対応していると思われる個所があるという。 第一義諦→涅槃 世俗諦→ブッダの教説

あるものをその通りのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと (考え) は、虚偽であるから虚妄な法 (モーサ・ダンマ) はしばしのものである(阿含経典757)。
虚妄ならざる法 (アモーサ・ダンマ) は涅槃である。聖者はこれを真実であると知る。彼らは、真実を現観して、無欲となって、涅槃に入っているのである (阿含経典758)。

虚妄な法=しばしのもの、虚妄ならざる法=涅槃

 


ブッダには、ブッダの論理がある。それは、当然西洋の論理とは異なる部分があり、論理というからには共通の部分もある。論理を明らかにするのは、アリストテレス以来の伝統的論理学とそれから発展した命題論理学が知られている。だが、実際に使われる文を当てはめると支障をきたす部分が多々あり、それをフレーゲが「述語論理学」によって、論理学を新たな色に塗り替えた。ここでは、フレーゲ以前の命題論理学が比較の対象となる。『論理学の初歩』から命題論理学の知識も少しご紹介しながら、ブッダの論理学のそれぞれの要素をご紹介する。


『論理学の初歩』大貫義久、白根裕里枝、菅沢龍文、中釜紘一 共著  論理学を非常に分かりやすく解説してくれる著書。これと読み比べると、とても面白い。

ブッダの論理学体系が認める、文と単語とをまとめて法(ダルマ/ダンマ)と呼ぶ。サンスクリット語のダルマ、パーリ語のダンマは多義的な解釈の難しい語で、「保つもの」「自然なありよう」「習慣・習性」「規則・法則」「ものの真のありよう」などの意味があると言われるが、本書のブッダの教説内部に限るなら「論理学体系が認める文と語」と捉えると理解しやすいと言う。

1.単語 

単語はブッダ論理学体系の中で用いられ用語である。それらは、「存在」「存在要素」などの意味と、「性質」「属性」としての意味に大別される。この意味を龍樹は「名」と呼んでいた。例えば前者では、五蘊、十二処、十ハ界、色、受、想、行、識などは存在要素の名である。後者では「およそ何であれ、生ずる性質(サムダヤ・ダンマ)のものは、滅する性質(二ローダ・ダンマ)のものである」といった文の中の「生ずる性質」、「滅する性質」が、属性の名となる。

通常の論理学で言う概念に関する部分だが、概念の意味内容である内包、その対象範囲である外延といった言葉は出てこない。代わりに属性という言葉が登場している。論理学では、概念を定義するにあたって多義的な言葉や比喩は使えない。

2.文

演繹的な推論は、前提から結論が導かれる。前提や結論は、文からなり推論の基本単位となり、命題と呼ばれる。命題は真か偽のいずれかであり、「どちらでもない」は排除される。この真と偽しか認めない論理学を二値論理学という。真と偽は文の値であり真理値と呼ばれる。ブッダの論理学の基礎でもある。法のうちの文であるが、これは「教え」という名が付けられた。勿論、ブッダの教えを述べた文であるが、ブッダによって説かれなかった無記と呼ばれる文も含まれる。主語には条件があり、上記の単語と指示代名詞は主語になるが、注意すべきは形容詞が主語になる場合である。

形容詞が主語となる文

パーリ語経典  南スリランカ地方のシンハラ語が書かれた表紙とヤシの葉のページで作られている。

「永遠である(サッサタ)」「空である(スンニャ)」などの形容詞であるが、永遠なるものは世界であるというような使われ方をする。この場合、主語と述語が一見逆になっているように見える。ブッダは「悪しき語順の文句によって経典を誤解して学んではならない(アングッタラ・ニカーヤ)」と比丘達に警告している。アングッタラ・ニカーヤは、パーリ語経典の経蔵を構成する5部の中の一つで、増支部と呼ばれる。ニカーヤは部を意味する。悪しき語順とはブッダが説いた本来の語順を転倒させることだと石飛氏は述べている。インドの言葉は語順がいつも逆倒していると誤解された。漢訳された経典では語順が転倒されて訳されたものが多いのである。

命題は、「人間は動物である」「人間は植物ではない」といった、ある概念とある概念の一致、不一致を主張する。命題は主語、述語、それに「‥‥は‥‥である「「‥‥は‥‥でない」といった繋辞とで構成される。一般の文は命題の形式になっていないので、命題の形式に直すことを「標準化形式」というらしい。形容詞や動詞を「‥‥もの」「‥‥こと」のように名詞形にしたり、「すべての‥‥」という全称、「ある‥‥」という特称の形に変えたりするなど、書き換えの規則がある。伝統的論理学では、命題相互の比較から真・偽の推理を行うにあたって三段論法など用いられる。

 

3.否定

命題論理学では、「彼は学生である」は要素命題だが、「彼は学生ではない」は「ない」という結合子が付くために複合命題となる。

本書では、否定は二種類挙げられている。一つは、文にかかる否定(プナサジュヤ・プラティシェーダ)、もう一つは語にかかる否定(パリウダーサ・プラティシェーダ)である。「これは、私ではない、これは自己(本体)ではない」が前者の例で、後者は、「恒常」に否定の接頭辞をつけて「無常」、「自己」に対して「自己ならざるもの(無我)」となる。単語の否定は文の否定よりも比較する対象のコントラストを高めて強力な表現力を獲得する。

実に無明のうちにあるものが、莫迦梵天である。無明のうちにあるものが、莫迦梵天である。実に無常であるものそのものを、恒常であるという。実に堅固ならざるものそのものを、堅固であるという。実に永遠ならざるものを、永遠であるという。実に全一ならざるものそのものを、全一であるという(サンユッタ・ニッカ―ヤ/パーリ語経典 相応部、阿含経典)。

このように単語の否定は、独特な語調を伴って、変化する心の中を描写して相対的な世界の巧みな描き手となる。語の否定によって起こる解釈の多義性については、part2の龍樹の中論の中でもっと詳しく説明されることになる。

 

瞑想するブッダ 1世紀
サリ・バロール遺跡出土 パトナ博物館

4.指示代名詞

命題論理学では、P や q は、不特定の命題を示す記号で命題変項と呼ばれる。本書では、この記号の代わりに「こや」「かれ」といった指示代名詞が使われる。これらの語は、阿含経でも多用される特徴的な使い方になっているようだ。最初に「尊師はこれを語った」と述べた後に「これ」の内容が語られる。ブッダの扱う存在とは「生ずる性質のものは滅する性質のものである」と定義される。それは生滅し、認識されるのだ。この生滅する性質を示すために「これ」を使ったのだという。「これ」と言われれば差されたものを見ようとするのが人情である。「これ」は、言われた時限りの生滅する語であり、やがて認識される。このような表現形式からなる文章は、読む人にとって常にその場その場で成り立つ普遍的な内容として理解されることになる。その都度、認識される生滅するものを表現するために考えられた独特の表現なのである。

 

5.接続詞

概念や、主語・述語の判断、判断に基づく推理を扱う伝統的論理学に対して、文、つまり命題を扱うのが命題論理学である。単独の文は命題素と呼ばれ、文同士は接続詞で結びつけられて、複合文となり、結び付けられる各命題の真偽と接続詞の意味とによって、その複合文も、やはり真偽のいずれかに価値づけられる。この複合文を関数と見て特別に「真理関数」と呼ぶ。論理学で用いられる接続詞は「または(選言)」「かつ(連言)」「ならば(含意)」「‥‥は‥‥と等しい(等値)/すると」の4つがある。否定の「でない」は既にみた。

真と偽に塗り分けられ静止した世界は、接続詞によって刻々と真偽を入れ替える動的な世界へと変貌する。そのような時、ブッダの論理学の思索の流れを無視すると混乱に陥るという。複雑で微妙な表現は、関係の多様性にかかっている。それは真理条件の数によるのではなく、一枚の真理表を語り尽くすことが一切知者を決定づけるというのである。ちょっとゾクゾクする感じがするでしょ。

真理表 単独文〈p〉,〈q〉のそれぞれの項目が真 (T) あるいは偽 (F) の組み合わせは、2²で8通りあり真理表の左側のようになる。1-16まで数字は、ある接続詞を示していて、その下、縦一列のⅠからⅣの4項目にわたって記されている真(T) あるいは偽 (F) は、二つの命題素p、qを組み合わせた複合命題が、真(T)か偽(F)かを判定している。。それでは、具体的にいくつかの接続詞を見ていきましょう。

 

「または」

「または」という接続詞は、真理表の縦列2と10を示している。2は論理和、10は排他的論理和とよばれるものである。10については、後程、接続詞の別のところで述べる。〈p〉が「雨が降っている」、〈q〉が「風が強い」とすると縦列2の場合は、上からⅠ「雨が降っているか、または風が強い」で真(T)、Ⅱ「雨が降っているか、または風が強くない」で真(T)、Ⅲ「雨が降っていないか、または風が強い」で真(T)、Ⅳ「雨が降っていないか、または風が強くない」で偽(F)とする。集合で表すと上の図のようになるのだが、最後のⅣ「雨が降っていないか、または風が強くない」が真か偽かは悩む。ここで、改めて指摘しておきたいのだけれど、命題論理学は、命題の真偽のみを対象とし命題の内容には立ち入ろうとしなかったために限界を生じていた。それをゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)は「述語論理学」を構築して既にそれを乗り越えていたのである。本書における論理学は、フレーゲやバートランド・ラッセル(1872-1970)以前の命題論理学が使われているので、文の意味との整合性を問題にすると時に不都合が起きる。ブッダの論理のための踏み台と考えていただければよい。

「そして」あるいは「かつ」

真理表の8である。〈p〉が真でかつ〈q〉が真の時はⅠのみが真になり、残りⅡからⅣは偽となる。「そして」は、命題論理学において〈p〉と〈q〉を入れ替えることが可能であるが、現実に当てはめると交換可能な場合と不可能な場合がある。交換可能な場合は、「無門は禅坊主であり、大酒飲みである」という複合文。不可能な場合は、「サミッディは、沐浴して衣を身に着けた」である。命題論理学では時間を上手く扱えないと石飛氏は強調する。

 


ここから、世俗諦に深く関わる接続詞のうち非常に重要な三つの要素が解説される。ブッダや龍樹の文章においてよく使われる接続詞である。縁起に関してよく使われる「~(する)とき‥‥」、原因に関する文に使われる「~が(ある)とき‥‥」及び、対義語・相対語の時に使われる「~が(ある)とき‥‥」という三つである。縁起に端を発して、世俗諦、四聖諦との関係が解説される。


 

[縁起「~(する)とき‥‥」] 真理表3

真理表における縦列3がここでは扱われる。ブッダの論理学で最もよく使われる接続詞は「~(する)とき‥‥」で、これは「時を経る」接続詞だという。この接続詞が表す論理関係は「縁起」に関わる。この縁起からブッダの教説が始まるのだ。「これ」に種をいれ、「かれ」に芽を入れると下のような表になるのだが、種が先で芽が後という時間的な順序が設定される。ここでは一般に知られる西洋の真理表とは別の解釈が起きている。一方で、阿含経のブッダの縁起の表し方に沿ってまとめると真理表3に見られるⅠとⅣが基準となる重要な公式が浮かび上がる。

真理表の3「縁起」 〈これ〉ならば〈かれ〉という含意を表す。

ブッダの公式

1.〈これ〉がある時〈かれ〉がある。
2.〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる。
3.〈これ〉がない時〈かれ〉がない。
4.〈これ〉が滅するから〈かれ〉が滅する(阿含経典12.49.3,5より)。

真理表 3,5,7

1.の「ある」は普通、存在を意味するが、この場合の「ある」は、認識上の「ある」なので絶対に「有る」ということではない。また、1.の「これ」と「かれ」に入る言葉は、2.から分かるように、生じる性質のものでなくてはならない。2.は、1.の解釈となっている。3.の「ない」も同様に認識上の「ない」を指している。4.3.における「これ」「かれ」が滅することを示すから全体を通じて「これ」「かれ」に入るのは「生滅するもの」でなくてはならないことが分かる。4.は、3.の解釈となっている。1.3.が、実際の公式として真理表3・5・7でも使われることになる。

ブッダの教説から具体的な例を拾ってみましょう。

比丘たちよ、生まれることに縁(よ)って老死があるのは、如来が出る、出ないにかかわらない。その道理(界)は、定まっており、法として確立し、法として確定していて、(それは)「これに縁ること」である(阿含経典12.20.3)。

比丘たちよ、そのままであること、そのまま離れないこと、異ならざることが、「これに縁ること」である。比丘たちよ、これが縁起であると言われる(阿含経典12.20.5)。

生まれることによって老死がある」は、「生まれる」がある時「老死」があると言い換えられる。続いて、「これに縁ること(此縁性/イダパッチャヤタ―)」が法として確立された道理であり、縁起と呼ばれるのである。「生まれること」以外の他の十二支縁起一つ一つについても同様に語られるが、十二支縁起については巻末に紹介しておいた。縁起についての命題の表現は、公式1.の「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」を契機として展開されるのである。そして、「そのままであること」が「これに縁る」ことであることが指摘される。

あるものをそのとおりのものとして考えるとしても、そのものはそれとは異なったようになってくる。それにとって、そのこと(考え)は、虚偽であるから。虚妄な法(モーサ・ダンマ)はしばしのものである(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集)。

虚妄な法は、虚偽なるものである、と尊師は語った。一切の虚妄な法は、諸行(サンスカーラ)である。これによって、これらは虚偽である(中論13.1)

ブッダは「そのとおりのもの」は虚偽であるから虚妄な法であるという。それを、龍樹では、一言「諸行(サンスカーラ)である」と述べられる。行とは一切の能動性のことである。虚妄な法とは一切の能動性によって変化する出来事を指すことになり、縁起をさしていることが分かる。そのとおりのもの=虚妄な法=諸行=縁起となる。

サールナート(鹿野苑)初転法輪の地
ダメーク・ストゥーパ

もし、虚妄な法が虚偽なるものであれば、そこでは、いったい何が虚偽とされるというのか。しかるに、このことは、ブッダによって説かれ、空性を説明するものである(中論13.2)。
空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた(中論13.8前半)。

ここ、中論では、虚妄な法がブッダによって説かれ、空性を説明するものであることが明らかにされる。空性とは見解からの離脱であるから言語表現されない涅槃への道となる。この空性は、第一義諦との関連を指し示すから、虚妄な法とは、もう一つの真理である世俗諦を示すことになるだろう。つまり、ブッダの教説である。世俗諦は、空性を説明するために必要とされる。世俗諦の虚妄な法が諸行であるなら、十二支縁起を順観して老死の苦へと至る。同時にそれが涅槃を説明するものであれば、第一義諦は老死から涅槃へと逆観をたどり、その道筋を示す真理となるのである。

これから、四聖諦によって十二支縁起の活用法が示される。世俗諦=虚妄な法→諸行→十二支縁起の順観、第一義諦=涅槃→空性→十二支縁起の逆観という循環が生まれることになる。おおっ! 痛快だ ! ――

 

四聖諦と十二支縁起

四聖諦
①.〈これ〉が苦である、というのが聖なる教えである。(苦諦)
②.〈これ〉が苦の原因である、というのが聖なる真理である。(集諦)
③.〈これ〉が苦の滅である、というのが聖なる真理である。(滅諦)
④.〈これ〉が苦の滅に向かう道である、というのが聖なる真理である。(道諦

この四つの諦 (真理) は、先ほどのブッダの公式 1.、2. に十二支縁起を組み合わせて作られた。ブッダの公式 1.「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」の〈これ〉には「苦である」と考えられるもの、出生、老、病、死などを挿入できる。2.「〈これ〉が生ずるから〈かれ〉が生じる」の〈これ〉が苦の原因であるという時の〈これ〉についてブッダは、5人の比丘たちに「渇愛」と教える。初転法輪の時のことだ。ブッダは煩悩を滅する智を得た時、このように説いている。

〈これ〉が苦であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の原因であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の滅であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が苦の滅に向かう道であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の原因であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の滅であると、ありのままに証智した。
〈これ〉が煩悩の滅に向かう道であると、ありのままに証智した。
(『マッジマ・ニカーヤ/パーリ語経典 中部』)
これを繰り返すことによって、十二支縁起の無明から老死に至るすべてを滅ぼして解脱へと導かれるのである。

 

「~が(ある)とき‥‥」真理表5

真理表5 (ために)は僕が勝手に挿入しました。

〈これ〉ならば〈かれ〉、P⊃qという含意を表すのが真理表5である。真理表3も含意だが、縁起を表していたのに対して真理表5は原因を見つけるために用いられる。「苦しみがある時 (その原因である) 渇愛がある」を導く。

論理学で「pならばq」と「qならばp」はどちらも含意で形式的にはどちらも承認される。これを相依相関と呼んでよいのかもしれないが、真理表3の接続詞を出発点とした時、「これがある時」という時間が導入された。時間が組み込まれると相依相関はあり得ない。因果関係は、時間を含み原因と結果の不可逆の関係を示している。

苦しみの原因である〈これ〉に入るものを求めていくのが四聖諦におけるの真理である集諦である。「何があるから苦しみがあるのだろうか」と考え、貪るような欲望である「渇愛」を見つける。つまり〈苦しみ〉が頭に浮かんだあと〈苦しみ〉⇒〈渇愛〉という関係が示される。龍樹の言う了因 (知らしめる因)、すなわち理由付けである。そして、その原因として真理表3における「〈これ〉がある時〈かれ〉がある」に、〈渇愛〉⇒〈苦しみ〉を当てはめることができる。それは、生因と呼ばれる。原因から結果への導かれる表現は「〈渇愛〉があるとき〈苦しみ〉がある」となる。このようにして因果関係が明確にされるのである。

命題論理学では、この真理表5は p⊃q (Pならばq) という含意の複合命題であり、条件命題と呼ばれている。pはqの十分条件(内包関係)で、苦しみは渇愛の十分条件となる。qはpの必要条件(外延関係)であり、渇愛は苦しみの必要条件となっている。ついでに言うと「内包」とは、その概念を成立させているいくつかの本質的性質の全てを指し、「外延」とは、その概念が適用される対象の範囲を指している。

 

対義語・相対語の「~が(ある)とき‥‥/すると」真理表7

真理表7 対義語・相対語が使われる時に用いられる。

命題論理学では、等値とよばれる接続詞「すると」が使われるが、この真理表7では、対義語・相対語を使うときの接続詞「~があるとき‥‥」として用いられる。真理表5では、「苦しみがある時 (その原因である) 渇愛がある」とした。まず、〈苦しみ〉が頭に浮かび、その原因である〈渇愛〉が続く。その後、「(原因の)〈渇愛〉がないとき苦しみはどうだろうか」と考える。これが、自然な思考の流れだろう。修辞の問題かもしれないが、言葉の自然な流れから言うとブッダの論理学においては、真理表7の最下段Ⅳは、〈これ〉と〈かれ〉が入れ替えられるという。

〈これ〉があるとき〈かれ〉がある。たとえば、〈長い〉があるとき〈短い〉があるように。さらに〈短い〉がないとき〈長い〉は存在しない。自性ならざるものだからである。(龍樹『宝行王正論』1・48,49)。

 


その他の接続詞として真理表の 8、9、10 が、解説される。接続詞「または」を表す真理表10は、真理表2と同じく論理和であるが、排他的論理和と呼ばれる。真理表8は「そして」という接続詞にあたり、真理表9は「善・不善・無記」というような分類を導く特殊な例として挙げられる。


 

~かつ(または)‥‥ 真理表10

真理表 8 9 10

真理表2で「または」については、既に説明している。「バラモンよ、その乳粥を青草の少ないところに捨てよ、或いは生き物のいない水の中に沈めよ(スッタニパータ/パーリ語経典 小部・経集)」などの文に見られる。真理表10も「または」という接続詞が使われるが、排他的論理和と呼ばれる。P EOR qと記号化されている。真理表2との違いは、Ⅰが偽(F)になっていることだ。

有かつ無である行為者が、有かつ無なるそれ(行為)をなす、ということはない。相互に矛盾している有と無が、どうして一つのものとしてあるだろうか(『中論』8.7)。

排他的論理和の集合

真理表10のⅠは、「有」であり、かつ「無」であるものは「一つのものとしてあり」えないので偽(F)とされる。排他的論理和であるために、Pかつqである部分は除かれるのである。

伝統的論理学では、一般にこの排他的論理和が使われる。例えば、ABが相反するものなのに、「AかBかどちらか」という時「AもBもどちらも」というのは日常的な使い方に反する。一方で、命題論理学では真理表2の論理和の方が使われる。というのも同一命題の選言のケースがあり「雨が降るまたは雨が降る」は「雨が降る」で真になるからである。

 

真理表8は、接続詞「そして」である。この「そして」も真理表2で見たように時間的な縛りがあるので、けっして〈これ〉に入る単語や文と〈かれ〉にはいる単語や文を入れ替えてはいけない。

真理表の9~16は、ほとんど使われることがない知られざる世界であり、名づける接続詞がない。9は用例があるので紹介されている。

 

事態が 起こっている/起こっていない 真理表9

真理表9

真理表9では〈これ〉に楽を入れ、〈かれ〉に苦をいれるが、Ⅰ~Ⅳの順がⅡ~Ⅳのように入れ替えられる。真(T)は、それぞれの事態が起こっている。偽(F)は、それ自体が起こっていない、あるいは、成り立たないを表している。Ⅰのように相反するものが両立されている場合は、成り立ち得ないので、感受について何も述べられない。

このうちアーナンダよ、「感受がわたしの自己である」とこのように述べる者は、彼にとっては、次のようなことが言われなければならない、「友よ、これら三種が感受である、楽である感受、苦である感受、楽でも苦でもない感受である。あなたは、これら三つの感受のうち、自己に対してどれを認めるか」と(ディーガ・ニカーヤ/パーリ語経典 長部)。

真理表9のタイプの文は「世俗諦」には含まれるが「第一義諦」には含まれない。それは、「善であるか、または善であらざるものか、または、そのどちらでもない」という法の説き方のタイプに属するからで、「善・不善・無記」という分類の仕方になっている。これに対して「非善門・非不善門・非無記」を述べるのは、摩訶般若波羅蜜多経であるという。何故なら『大智度論』では、摩訶般若波羅蜜多経は第一義悉檀 (しつだん)、つまり第一義諦の特徴を述べているからであると石飛氏は述べる。

 


「縁起」の接続詞を中心にブッダの論理をご紹介した。その論理学のもとであらゆる事柄を記述できるが、西洋の論理とは異なる部分が当然ある。経典に書いてある通りに知りたいなら言葉を操る「虚妄なる法」である「世俗諦」を知らなければならない。それは、ブッダの公式と十二支縁起から四聖諦という活用の方法論から誕生したのである。ここで、ブッダの最後の言葉を取り上げる。


 

クシナガラの地におけるブッダ最後の言葉

ブッダ終焉の地 クシナガラ インド

滅する性質のものは、諸所の事象である。怠ることなく修行しなさい(ディーガ・ニカーヤ/パーリ語経典 長部)。

ブッダの臨終の言葉をパーリ語の語順で訳すとこうなる。ブッダは、臨終において「滅する性質のもの」を想起する、そして、それを「諸所の事象(行)である」とした。ということは、普通、「滅するものの性質=諸所の事象 (行)」と読む。人は誰でも死ぬものなのだから、嘆き悲しむなとブッダが弟子たちに述べている言葉だと勿論、捉えることができる。しかし、もう一つの別な解釈ができるのだと石飛氏は述べている。十二支縁起では、行とは無明を原因とし、その結果生じる形成・志向作用、すなわち物事がそのようになる力であって、そこから縁起が順に識 → 名色‥‥生 → 老死と展開されていく。

すると、諸所の事象(行)を「形成作用」ないし「志向作用」と読むことが可能となる。「滅するものの性質は、形成・志向作用(行)である」と読める。無明 → 行(形成・志向作用)であるなら、逆に見ると行が滅する時、無明も滅するということになる。すなわち、これは涅槃を意味するという。こうして「涅槃をめざして修行を怠るな」という意味が浮かび上がってくるのである。なるほど臨終を前に弟子たちに残す言葉であることが窺える。

こういう意味の繋がりを考える時、語順を変えてはいけないという著者の主張は、説得力を持つ。ブッダの文は「法」とされる語を主語として、時間の流れに沿った、あるいは、思考の順に従った語順で考えられなければならいというのである。ブッダの一つの文の中には、いくつもの動詞や目的語が並列して語られることがよくある。中村元氏は、詩としての形態からそうなっていると見ているが、それらは、多くが似たような表現であるために繰り返しに見える。しかし、石飛氏は、翻訳時に語順や配置には注意が払われたことはないという。実際には一つ一つに意味があり、ブッダには明確な説明の意図があるというのである。

僕が何故、石飛さんの著書を大きな感動をもって読んだのかは、次回part2で述べることにしたいのだけれど、このようなアプローチが仏教に対して可能であるということは特筆に値する。西洋論理学との比較に関する点ではかなり無理もある。本書における筆者の意図は、ブッダの論理学を体系化することでも西洋論理学と折衷することでもないようだ。次回は龍樹の『中論 (根本中頌)』を中心に、第一義諦に迫りたい。

 

 

 

順観 無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触(そく) → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死
世俗諦と虚妄な法と十二支縁起の順観は、一つの真理(諦)に名づけられた異なる名である。

 

付録 十二支縁起(桂紹隆、五島清隆 龍樹『根本中頌』より)

1. 無明→行  無明という煩悩に覆われた者は、三種の(善・不善・不動/身・口・意の三業)を行い、それらの業ゆえに天界から地獄界までの次の行き先(趣)に赴く。
2. 行→識→名色   (一切の能動性/業)を縁として (好き嫌いなどの識別作用・認識作用)が生まれ、行き先に定着する。すると名色が活性化する。

3. 名色→六処  名色 (認識の対象一般とその名称)が活性化すると 六処(眼耳鼻舌身意の六つの感受器官)が生まれ、同じく活性化した六処に至って、六処(感覚)とその対象と、(認識)の三者の (対象との接触)が起こる。
4. 例えば、眼根(視覚器官)と色境(視覚対象) と注意集中とを縁として、つまり名色を縁として眼識(視覚による認識)が起こる。

5. 名色+識+六処→触→受  色境(視覚対象)・眼識(視覚的認識)・眼根(視覚器官)三者の出会いがである(他の五つの感受器官においても同様)。そのから(感受)が起こる。
6. 受→愛→取 受を縁として(渇愛)が生まれ、人は、欲取・見取・戒禁取・我語取という四つの(執着)に囚われる。

7. 取→有  取(執着)があると執着する者には(輪廻的生存)が起こる。実に人が執着を持たないなら、その人は解脱し新たなを持たないであろう。
8.9. このとは五蘊(色・受・想・行・識)のことである。から新たなが起こる。老死の苦をはじめとして、愁・悲・憂・悩、これらすべてがから起こる。このようにしてまれることから純粋な苦の集まりが生じるのである。

10. だから、愚者は輪廻の根本である諸行を行う。業をなすものは愚者であり、賢者は業をなさない。賢者は真実を見るからである。
11. 無明が滅すれば、諸は生じない。無明の滅は、まさにこの縁起による知の修習にある。
12. 十二支縁起の先行する要素が滅することにより、後続する要素は生起しない。かくして、純粋な苦の集まりが正しく滅せられるのである。

逆観 無明 ← 行 ← 識 ← 名色 ← 六処 ← 触(そく) ← 受 ← 愛 ← 取 ← 有 ← 生 ← 老死

無明が完全に残りなく離れ滅することによって、志向作用(行)が滅する。志向作用が滅することによって識別作用(識)が滅する。識別作用が滅することによって名称と色形(名色)が滅する。名称と色形が滅することによって六つの感覚があるところ(六入)が滅する。六つの感覚が滅することによって接触(触)が滅する。接触が滅することによって感受作用(受)が滅する。感受作用が滅することによって渇愛(愛)が滅する。渇愛が滅することによって執着(取)が滅する。執着が滅することによって生存(有)が滅する。生存が滅することによって生まれること(生)が滅する。生まれることが滅することによって老いること、死ぬこと(老死)、愁い(愁)、悲しみ(悲)、苦しみ(苦)、憂い(憂)、悩み(悩)が滅する。このように、これらすべての苦しみの集まりの集起がある(サンユッタ・ニカーヤ/パーリ語経典 相応部12.3 石飛道子 訳)。

 

参考図書

石飛道子『ブッダ論理学の五つの難問』2005年刊 ブッダの論理学の基本編

龍樹『根本中頌』を読む 桂紹隆、五島清隆 『中論』のとても良い訳と解説がある。