「量子世界は表象可能か」実在と観測/確率と情報

 

ケネス・フォード『量子的世界像 101の新知識』  2014年刊

電子には、大きさがない。現在分かっている限りでは内部構造を持たない。陽子の約2000分の一というわずかな質量はあるが大きさがない。電荷があり、スピンがあるのに大きさがない。大きさがないのにどうやって存在していられるのか。ケネス・フォードは、『量子的世界像 101の新知識』の中でそう問う。そして、こう答えるしかないという。量子論のもとでは、数学的な点として存在するものが、様々な物理的特性を持つことが出来るのであると。

考えてみると、そんな数学的な点のようなものの上に私たちの生活が成り立っている。机上の空論やヴァーチャルリアリティといったものではなく、全くの現実である。台風が来て電線が切れれば何日も明かりのない生活が続く。こうしてキーボードをたたいてコンピューターがそれをちゃんと記憶して、ネット上に配信してくれているのだから点と言ったってバカにできない。

量子論では仮想粒子と呼ばれる儚い粒子が絶えず生成されては消滅しているのだという。電子はそれらの儚い存在をお供に一緒に移動している。何人かのお供が加わり、何人かが絶えず抜けているような集団に例えられる。そんな集団として存在しているのだけれど、原子内の電子は原子全体に広がる確率波に支配されてもいる。電子はそこら中に広がっていることになる。それでも点として扱って全くうまくいっているというのだ。これって、不思議じゃないですか?

 

今回はある芸術家のマニフェストをある会で話さなければならなくなり、そのマニフェストと量子論が深く関わっているということから、ついに長らく避けていた量子力学について書くことと相成りました。しかし、書いているとなかなか面白い世界だということが再認識されてくれる。今回は、時に哲学論議も散見される佐藤文隆さんの『量子力学は世界を記述できるか』などの著書をいくつか織り交ぜてご紹介したいと思っている。数式は出てこないので物理嫌いという人もお付き合いください。

佐藤文隆『量子力学は世界を記述できるか』2011年刊

20世紀初頭は、確かに血沸き肉躍るような知的挑戦で幕が上がり、それに対する凱歌が高らかに奏された時代である。その序奏は19世紀末の X線、放射線、原子、電子というミクロの世界の発見であった。19世紀は、産業革命と共に熱、音響、電磁気、化学、光などの実験が積み重ねられ、古典物理学と呼ばれる統一的な力学が確立された時代だった。その渦巻く知的興奮の中から相対論と量子力学という革命が起きたのである。1930年代以降は、この「知的革新」を引っ提げて物質の究極から宇宙の起源までの新しい対象を探求して新世界を発見したが、その成果の多くは、DNAから I T 関連のハードウェアーに至る技術革新に過ぎなかったと佐藤文隆氏は述べる。

相対論と量子力学という二大革命を比較すると量子力学が生み出したものは、はるかに巨大であるという。量子力学は物理や化学の現場で広く具体的な利用が拡大し続けている。しかし、相対論に比較して量子力学への関心はイマ一つだった言える。量子力学には最終的な落としどころが見えないからだ。それに対して相対論は19世紀的難問に対するきれいな答案であったために、ニュートン力学の権威崩壊という歴史的と言ってよい知的衝撃を生み出した。それは、講談調の痛快歴史物語であったという。それに比べて量子力学は、その知的痛快物語がまだ完結していないと言うのである。クォークは、6種類で三世代あるといわれても、そんな極小の世界には不思議なものがあるんだねで終わってしまうのだ。

 


光が波の性質を持つことが19世紀の初頭に発見されて以来、光が波なのか粒子なのかの議論が喧(かまびす)しくなる。物質に光を当てると光電子が飛び出すことから、アインシュタインは粒子としての性質を持つ光子であるとした。光や電波は電磁波の一種でもある。今度は、ド・ブロイが光子のように運動する物質粒子一般に波動現象があると波動説を拡張したのである。やがて、光の粒子を用いた二重スリット実験によって光は波でもあり、粒子でもあるということが検証される。


 

量子の波動性と粒子性

トーマス・ヤング(1773-1829)の光の干渉実験

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、微小な物質あるいはエネルギーの単位のことで、そのエネルギーが飛び飛びの整数倍の値しか取れないことからマックス・プランクによって量子と名づけられた。原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表的な量子だ。ニュートリノやクォーク、ミュオン、光子などといった素粒子も量子に含まれる。素粒子とは、それ以上分割できない最小単位の粒子のことである。量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)以下の小さな世界だ。このような世界では、古典的な二ュートン力学や電磁気学などの物理法則は通用しない、それは、量子力学によって支配される不思議な世界となっている。

二重スリット実験
上 電子の波動性によって生じる干渉模様 
下 電子を観測した時のスクリーン上の模様

光が波として振る舞うことは、二重スリットを通過すると背後のスクリーンに干渉縞を作ることでよく知られている。19世紀の初頭にイギリスでトーマス・ヤングが、平行な光が二重スリットを通ると水面の波のような干渉模様ができることを示した。電子や光子あるいはフラーレンといった分子の場合も同様で、電子銃から電子を一個ずつ発射しても波としての性質から干渉縞を作る(上段)。粒子としての電子は、波の全てに重ね合わされた状態で偏在していると考えることもできる。

ところがスリット付近に観測装置を置いてスリットを粒子としての電子がどのように通過するかを観測すると収縮 (後述) が起きて、電子は片方のスリットのみを通り干渉縞はできない。そのことで、スクリーンに電子が跡付けた点がどちらのスリットを通った電子であるかという情報を得たことになる。ここから光子が粒子としての性格と波としての性格の両方をもっていることが確かめられた。ルイ・ド・ブロイは、1924年に既に「波と粒子の二重性」という物質一般の性質として定式化していた。

すると、人間は個体であると同時に波なのかという疑問が起きてくる。量子の世界では速く動くほど波長が短くなる。私たちも波長を持っているが、量子サイズに比較して私たちの運動量は、はるかに大きいためその波長は極端に短く検出できないらしい(ケネス・フォード『量子的世界像 101の新知識』

シュレディンガー方程式/ψ

それまで、物質の位置と運動量は、観測すれば確定していたが、電子や光子などの量子は、位置か運動量、どちらかしか確定できないということが明らかになる。ハイゼンベルグの不確定性原理である。量子の波動状態を記述するシュレディンガー方程式が、オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレディンガーによって1926年に定式化された。それは、状態関数、あるいは波動関数ともよばれるが、ある状況下での量子の状態が確率分布によって表現される。それは、不確定性定理から導き出される。ド・ブロイによって物質が波動として表現されることが明らかにされていたから量子を波動の方程式として表すことは受け入れられやすかった。

この量子の波動状態とそれが時間と共にどのように変化するかが数式化される。このシュレディンガーの方程式は、ギリシア語の Ψ (プサイ) であらわされることからΨは量子力学のアイコン的存在となった。心理学では、超能力を表す記号であるが、それをシュレディンガーが意識していたかどうかは知らない。しかし、古典物理学の範疇からすれば、極めて不可思議なものであったことは確かだ。

量子が波動状態にある時、波のそれぞれの位置に粒子としての量子が同時に存在すると考える。存在の可能性が重ね合わせられた状態にある。それを観測すると変化している波動状態の一端が測定されることになる。その時、同時に存在していた粒子の他の情報は無視され、消去されると言っていい。これが「収縮」である。それでΨをくじ箱に例える物理学者もいる。

佐藤勝彦『量子論を楽しむ本』
2000年刊、非常に分かりやすく解説されているのだが、残念ながら新しい内容に乏しい。

ここからは佐藤勝彦さんの『量子論を楽しむ本』から波動関数についてご紹介する。波動関数ψには複素数が登場するが、虚数と実数を組み合わせた複素数は虚数と同様に想像上の数であり、複素数の波を表現しているψも同様に想像上の波である。次元の異なる波といったほうがよいかもしれない。これを想像したり、図示したりすることは困難である。しかし、シュレディンガー方程式は、水素原子中の電子のエネルギーといったものを実験結果の通りに説明できる。この方程式は実在する何かを表していると考えられているのである。

実数部分、あるいは虚数部分だけを取り出して図示することは原理的には可能であるという。点線で表した部分、つまり波の振幅にあたる部分が波動関数ψの大きさとなっているが、それぞれの場所での大きさも様々であることが分かる。電子の波は様々な場所に広がっているけれども、雲や霧のようにぼんやり広がっているとイメージするのは間違っている。電子は粒子として観測されるからである。我々が電子を観測すると電子の波は、収縮 してしまうのだが、収縮する前の波のように広がっている電子は「重ね合わせ」の状態にある。電子は、ある場所にいる状態と別の場所にいる状態とが重ね合わされている、あるいは共存している。

波動関数ψとイメージ図
iは虚数、hは素粒子のエネルギーと波長間の比例定数であるプランク定数、ψは波動関数、∂は微分の記号、Hは系全体のエネルギーを表すハミルトニアンをそれぞれ指している。

波動関数ψのイメージ図でいうとAの場所にいる状態、Bの場所にいる状態、Dの場所にいる状態などの様々な場所にいる状態が重なりあっている。ただし、Cの振幅ゼロの場所には電子はいない。電子はA点、B点のどちらにもいるというのではなくてどちらにいるかは確率的にしか言えないのです。振幅の大きいところの方が電子の発見される確率は高い。

この波動方程式は粒子の波を統計的な平均値で記述しているということになるのだろう。シュレディンガー方程式が三次元の空間を扱うのに対して時間を組み込んだディラック方程式が間もなく登場することになる。

 


不確定性とは、選択の自由だとも言える。いくつもの可能性の中から自由に一つが選ばれることだ。測定することによって量子に擾乱が起こり特定の結果が得られたのだという考えは、現在の厳密なハイテクの測定によって否定されることになる。この奇妙な不確定性は、ボーアのコペンハーゲン解釈によって救われた。生まれたばかりの量子力学という赤ん坊を産湯と一緒に流さないためには重要な注釈となったのである。コペンハーゲン解釈をご紹介する。


 

佐藤文隆の『量子力学は世界を記述できるか』から要約してご紹介しよう。Ψをくじ箱と考える。そこから、態度の決まらない量子が取りうる可能性のある幅と強さに関する確率情報を導きだせる。観測するとΨのくじ箱から引いた一つの結果が得られるのだ。くじを引くと多くの可能性が消えて、一つの情報に限定されるのである。これを「収縮」と呼んだ。ニールス・ボーアがシュレディンガー方程式に無理に組み入れた解釈である。一回引くと、くじ箱は一枚のくじ券に変身する。他のくじは消滅するのである。それを、佐藤氏は、やり直し厳禁、再起不能、未練一掃、証拠隠滅、残存物破棄と表現する。「可能性としての現実群が、その中の一つの現実に変身する」ことになる。くじを引く前は、それぞれの可能性足し算された束として「重ね合わせ状態」と表現される。シュレディンガー方程式は、可能性の重なった状態を表すΨが別の重なり方のΨに変動していく様子、つまり重ね合わせの係数の時間変化を記述することが出来る。

ほかのくじは、どうなったかを考え始めるとヒュー・エベレットの多世界解釈なども生まれる。「可能性としての現実群が全部残存するが、観測者が一つの可能性の世界に迷い込む」と考えるが、今は置いておく。

ボーアによる「Ψのコペンハーゲン解釈」を比喩的に解説すると上記のようになる。「収縮」という便法は観測によらないΨの変動の法則としては明らかに異物であった。つまり、Ψそのものが理論的には不整合であるということを認めることになるのだ。Ψの生みの親、シュレディンガーさえ疑問を持っていた。それで後に、有名な猫の思考実験を思いつくのである。ボーアは、量子力学を埋もれさせないために古典と量子の両世界の共存を図った。真実と不明瞭さは相補的であるとし、結局、不思議は不思議として、「深く考えずに慣れる」を提唱したわけである。

ボーアが守り通したコペンハーゲン解釈が、レーザーや半導体部品などを経て量子コンピューター、量子暗号・通信、量子計測、量子マテリアルなど、量子を使ったハイテクをもたらそうとしている。量子力学はツール化されていった。シュレディンガー方程式では、可能性の重なり具合は連続的に変動するのだが、量子は外部から制御可能であるという。制御可能であるから量子コンピューターなどを考えることができるのだが、「重なったままの量子状態」をそのまま変動させることが可能になっている。この変動ではAからBへの変化が可能なら、BからAへ戻すこともできる。これをユニタリーな変動と呼ぶ。外部からの量子への介入は制御と観測とがあり、制御には忠実に、観測にはランダムに振る舞うというのである。

制御と観測の違いは何かというと、回数の違いにある。このツール化が現在の繁栄をもたらしたのは、ミクロな過程を統計学的に扱ってきたからだと佐藤文隆氏は言う。一回の観測ではランダムな振る舞いだが、多数回事象の平均値にあたる反応率や平均寿命といったものが分かれば応用技術には十分であったのである。個々の原子や素粒子が観測される場合でも、問題にされるのは多数回事象の統計的なデータであった。

 


量子の振舞いが不確定で確率的であるなら、物理学が培ってきた因果性は否定されることになる。原因のない結果だとも考えることが出来るのである。それは、アインシュタインをひどく動揺させた。彼にとって物理は何故そうなるかを説明できる学問でなければならなかった。どのように因果性が否定されてきたか、その例をご紹介する。


 

ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』 2016年刊  ノン・フィクション風に人間模様が描かれて、量子論を面白く解説してくれている良書。

量子エンタングルメント(もつれ)

物質科学では空間的に離れた要素の間に相関がある場合は、その間に相関を維持している物質があると考える。この遠隔相関に関わる物理学には結構な歴史があるらしい。17世紀、デカルトは重力の遠隔作用は渦が宇宙空間を埋め尽くしていて、その連動で遠方に作用が伝わると考えた。これに対してニュートンは、空っぽの空間を重力作用は時間を要せず伝わるとしたが、なんとなく判然としない論争だった。19世紀になるとマックスウェル達が渦の代わりに空間に瀰漫するエーテルを想定して弾性体のように振る舞うエーテルの力学を方程式化する。20世紀初頭には、アインシュタインの相対性理論が、この「静止系」を連想させるエーテルを否定した。しかし、その後、素粒子における場の量子論ではエネルギーを秘めた一種の相対論的エーテルが復活した。そこでは明確な掟が定められている。「物理作用 (情報) の 伝搬には光速という上限値ある」というものであった。これがないと、原因結果の因果作用を曖昧にしか定義できなくなるのである。

相変わらず観測問題は物理学者を悩ませ続けていた。ヴォルフガング・パウリは「観測者は確認できない効果により新たな状況を生み出す」と考え、この観測者によって作られた状況が量子の「状態」であり、観測者は観測することで実在を作り出すのであるという。ちょっと考えただけではよくわからない解釈だった。観測の過程は形容しがたい法則性のない事象であって、その結果は「いかなる原因もない究極的な事実のようなもの」であるというのである。一方で、観測が唯一実在を保証するもので、それを超えるものは何であれ形而上学であるというのがアインシュタインやシュレディンガーのスタンスだった(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)。

このような思考実験を考えてみる。スピンがゼロの素粒子が崩壊して、二つの電子が生じて、異なる二つの方向に飛んでいくとする。この電子の片方が測定されて、上向きのスピンだと観測されると、同時にもう片方の電子は下向きのスピンであることが確定する。これは運動量の保存則によるもので、この場合は、回転する運動量、つまり角運動量が問題にされる。もとのスピンがゼロであるなら、分離した電子はその1/2の逆向きの等しいスピンでなければならないからだ。このスピンというのは厄介な代物なのだけれど、スピンの単位は光子などが1とされていて、電子やクォークのスピンは1/2とされている。このような離れた場所にある現象が相関する性質を非局所性と呼び、この量子の非局所性をシュレディンガーが量子もつれと呼んだ。量子エンタングルメントなどとも呼ばれる。

この二つの粒子の内、一方は地球にあり、もう一方をアンドロメダ銀河の恒星に移動したとする。すると、地球での観測で上向きのスピンが観測されたとして、アンドロメダ星雲の恒星にある粒子が下向きのスピンであることが確定される。測定されると、どちらの粒子が上向きか、下向きかが確率によって決まるというわけだ。地球から254万光年かなたにある粒子にこの情報が瞬時に届くには、光速を超える必要がある。光でさえ254万年かかるのだから対粒子のスピン方向が瞬時に変わるのは無理ではないのか。位置と運動量は分からないが、運動量差のようないくつかの条件を加えると局所的な別々の系として互いに片方の粒子に影響与えることなく観測可能になるんじゃないかというのがEPR仮説である。アインシュタイン、ポドルスキ―、ローゼンら物理学者の頭文字をとっている。

この隠れた条件を引き継いで発展させようとしたのはデヴィッド・ボームだった。かつて、1927年のソルヴェイ会議で耳が痛くなるような沈黙で迎えられたというド・ブロイの「パイロット波」を結果的に再解釈しようとするものだった。エーテル状の波の上を小枝のように粒子が流れるというふうに考える。彼は、離れて別々に存在する局所的な実在として粒子を分析しようとする前提を取り払おうとして新たなパイロット波のような存在を想定した。ボームは、結局この隠れた変数説を捨てることになり、後年、全体流動説という新たな渦を展開させていった。僕の大好きな説だ。

粒子のそれぞれの自転方向が観測されるまで二つの回転方向が重ね合わされている状態にある。どちらも表でどちらも裏であるような状態で回転しているコインに例えられるだろう。回転を止めて、床にころがって静止した時点でどちらが表か裏かが分かるという仕掛けに似ている。この判別できない状態から、片方の回転方向が観測された時に、いくら遠距離にあろうとも、もう一方も反対の回転方向に決定される。二つの粒子は一つの系の内部にあることになる。これは、古典的な物理法則とは相いれない事態だった。時間と空間の制約を受けていないことになる。何故かを問う物理学者には我慢のならないことだったのだ。

この量子もつれが、アインシュタインを後々まで悩ませる。彼は、物理量が測定するまで現実の実在性を持たないとするコペンハーゲン解釈の確率的な振る舞いに対して既に異を唱えていた。そして、この有名な言葉を吐露させる。「見ていようが見ていまいが月は確かに夜空にある。 神はサイコロをふってこの世界を創ったわけではない」と。見るというのは測定を含意している。その反論となるニールス・ボーアの回答は「神に向かってあれこれ指図するのはやめなさい 」であった。そのサイコロに、あたかも光速を超えるような情報伝達が加えられたことになるのである。量子にテレパシーでもないかぎり不可能に思えた。

 


観測問題と量子エンタングルメント (もつれ)は、確率と情報という問題に密接に関わってくる。観測問題の好例は、ブラックホールの名を広めたジョン・ホイーラーの思考実験である遅延選択実験である。 この思考実験は、アンドリュー・トラスコットによって実際に確かめられている。量子エンタングルメント(もつれ)の応用としては、量子テレポーテーションがある。アントン・ツァイリンガーがインスブルックの研究所で実現した。これらが現実に実験できるようになったのは、ハイテクの大いなる進歩によるものだ。


 

ジョン・ホイーラーの遅延選択実験 情報としての量子1

実験によってアンドロメダほどではないにしても隔てられた二つの量子のスピンが瞬時に確定することがアラン・アスペによって確かめられる。もっと驚くべきことは、観測すると収縮が起きるのであるが、観測から得られるデータをどちらの観測装置から得られたのか分からないような設定にしておくと収縮を起こさず観測しなかったのと同じ結果があらわれるというのである。1987年にジョン・ホイーラーによって考えられた仮説が、オーストラリアの物理学者アンドリュー・トラスコットの実験によって2015年に確認された。重要なことは、量子系では観測の結果がそこから取り出される情報の扱い如何によって変わってくるということである。

図はホイーラーの思考実験を概略図に示しているけれど、マッハ・ツェンダー干渉計と呼ばれる装置を応用している。やがて、量子消しゴム実験などの複雑な装置が考え出されるようになる。

遅延選択実験 概略図

1.では、光子という一つの量子が半透鏡Aを通ると透過して直進するか、反射されて向きを変えるかは、確率的に半々になる。半透鏡を通過した、あるいは反射された量子は鏡で向きを変え、それぞれ検出されてスクリーンに痕跡を残すが、何個かの量子を送り出せば、その形は点の集積としてのになる。

2.は1.と同様の装置だが、光子がスクリーンに到達する前に半透鏡Bが差し込まれる。光子がスクリーンに届くよりも速いスピードで差し込まなければならない。これを実現するためにトラスコットはデュアルレーザービームを使った。問題なのは、これが差し込まれるタイミングなのだ。

半透鏡Aで量子は粒子として収縮したと考えられる。それは、結果としてスクリーンにできた点の塊から分かる。もし、そうでなければ波としての性質によってスクリーンには干渉縞ができるはずである。ところで、半透鏡Aを通過して粒子として振る舞っているはずの光子が通る経路に半透鏡Bを差し込む。すると、粒子が直進するか反射されて方向を変えるかは確率的になる。量子がどの経路を通ったかは確かめることができない。ここでは、スクリーンに干渉縞が現れるようになるのである。

ジョン・ホイーラー(1911-2008) 後列左端  1963

粒子として行動しているはずなのに半透鏡Bによって波に変身したことになる。 これでは、未来の情報によって過去を書き換えたと解釈できることになるのである。これが遅延選択実験の名の由来になっているが、これは肯首しがたい。ここで、重要なのは、半透鏡Aによって透過して直進していた粒子と反射されて向きを変えた粒子の情報は、半透鏡Bによって確率的に振り分けられることによって、かつての進行方向の情報は混ぜ合わされてしまうことだ。すると、観測したのに観測しない場合と同じ干渉模様が生じるという結果になる。重要なのは観測した情報の扱われ方にあるということになる。

「ネイチャー」や「サイエンス」の編集者だったデヴィッド・リンドリ―は、『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』の中で、簡潔にこう述べている。光子が、どの道を通ったかを知りたければ、干渉縞を見ることはできず、干渉縞が見たいと思えば光子が通った道を知ることはできない。それは、この種の実験の配置について述べられる最低限の解釈であると。ここでもボーアの「相補性」に連れ戻されるというわけだ。

 

量子テレポーテーション 情報としての量子2

アントン・ツァイリンガー     Photo by Jacqueline Godany

量子のエンタングルメントを利用すると離れた場所に量子の持つ情報を転送できる。これを量子テレポーテーションと呼ぶ。量子を瞬間的に移動させることでは残念ながらない。ツァイリンガーは、高エネルギーのレーザー光子を結晶に当てることで、低エネルギーのもつれた光子を分離した。こうしてオーストリアのアルプスに囲まれた質素な研究所から毎年、画期的な研究が発表されるようになる。

1997年には「量子テレポーテーション」を実現させた。この量子テレポーテーションに期待されているのは、量子暗号の実現である。ここではツァイリンガーの実験より少し進んだものをご紹介する。

①量子エンタングル状態にある二つの光子Aと光子Bとを生成して長距離に離す。AはAliceの側にBは離れた土地のBobのもとにある。この二つは、互いに直交する偏光を持っていることだけは分かっている。一方が垂直向き↕と測定されると、片方は必ず水平向き↔である。どちらでもよいが、現在のコンピューターで言うビットの状態に合わせて垂直向きを↕ 0、水平向きを↔ 1としておこう。こうしておくと ↔ ↕ ↔ ↕ は、1010を示すことが出来るが今は1ビットのみを考える。それから、別に、ある情報を持つ光子Cを用意する。

量子テレポーテーション  この図は、2光子を用いたローマ大学の実験グループによって実施された実験

②AliceはAとCをベル測定してエンタングル状態を作り出す。情報科学の制御NOT演算に相当するという。方法としては半透鏡にAC二つの粒子を別方向から同時に通過させようとすると、1/2ずつの確率で通過あるいは反射する。結果の状態は大きく分けて二つで、2つの粒子が同じ方向に出るか、別々の方向に分かれるかである。いずれの場合でも同時に入射するので現れ出た粒子がどちらの粒子だったかは分からない。測定結果の情報は混ぜ合わされた状態にある。

③ Aは0or1、Cはまだ情報が分からない状態であるとして、0or1と考える。二つの粒子の重ね合わせの可能性は、古典物理の立場では00,01,10,11の組み合わせとなるが、量子力学ではもっと複雑な式が用いられる。その中の一つが測定されると、CとBは新たに重ね合わせ状態に変化する。この時、A、Cの量子状態は壊れてしまうが、Cの情報はBに瞬時に移されることになる。何故ならAはCと重ね合わされることによって反対の情報を持ち、AとBはエンタングル状態にあったのでAがエンタングルされてCと反対の情報を持てば、即C=Bとなるからである。

ベル測定 大きく分けて1.4.と2.3.とに大別できる。

④べル測定で得られた2ビットの情報を古典的な通信手段でAliceはBobに送ります。べつにAliceとBobでなくてもいいのだけれど、伝統に敬意を表してこうしておく。電話とかネットとか手紙とかなんでもよいのですが、知らせます。Bobはこの時、Bに移った情報が何であるかは、まだ分からない。

⑤古典的な送信手段で送られた情報は、まだ、2ビットなのでこれを1ビットに確定する操作を行い最終的にAliceが送信したかったCの情報をBobは手に入れることになります。(詳しくはツァイリンガー 他『量子情報の物理』)

このような量子エンタングルメントによって得られる情報は、けっして盗み出されることがない。量子の情報を得ようとして測定すれば量子は壊れてしまうし、古典的送信手段による情報を盗んでもそれだけでは解読できない。それで暗号鍵などの通信に使えるというわけである。ベル測定の生みの親ジョン・ベルについては最後にご紹介します。

 


量子論は、量子テレポーテーションのような応用の分野で華やかな発展をみせようとしている。今、最も期待されているのは量子コンピューターだろう。この情報分野と量子の関係については、いずれご紹介する機会があるだろうと思う。この最終章では、まず、スピンとは何かをご紹介する。量子世界が如何に表象しにくいものであるかを実感していただきたい。そして最後に、その表象し難い量子の不思議な関係を児童文学風に紹介してくれている著書をご紹介する。表象できない世界をイメージ化しようとする努力を言祝ぎたいと思う。


 

電荷-eは電流の元であるが、電子は素粒子(これ以上大きさを分けられないもの)で、点であって大きさが無い。従って電荷は何処にあると決められない。しかし、大きさが無いのに自転できるのか。1924年には、オーストリアの物理学者ヴォルフガング・パウリが+1/2、と-1/2という二つの離散的な物理量としてこのスピンを予見していた。

スピンだの回転などとさんざん言っておいて、ここに至ってちゃぶ台の上に並んだ料理をひっくり返すようなことをして恐縮だが、このスピンを地球などの星が地軸を中心に回転運動しているとイメージするのは間違っている。ちょっと面白い実験をご紹介しよう。それは、1916年のアインシュタイン・ドハースの実験のことである。静止した鉄棒をつるして外部から磁場を与えると、鉄棒が回転するというものだ。逆に磁場のかかっていない鉄棒を高速回転すると回転軸に沿って磁気を帯びるバーネット効果が同時期に発見されている。

磁場をかけて鉄を磁石化すると回転、つまりスピンという角運動量が生じる。電子は電荷を持っているので移動すると磁場を形成する。「磁気」の起源は電子の自動運動であることがわっている。この自動運動は回転のことらしいことが、この実験から推測できる。自動運動には原子核の周囲の軌道運動もあるが、この回転運動に比べれば微々たるものらしい。電子も小さな磁石であるのでスピンするというわけであるが、スピンの軸があるので上向きとか下向きとか言われるのである。だが、ここで先ほど述べたようにスピンを地球の自転のように考えてはいけない。位置はあっても大きさはなく、波でも粒子でもあるものが、どのように回転するのか表現できた人はいないのである。そして、これも不思議なことなのだが、電子のようなスピン1/2粒子は回転し始めて2回回転しなければ元にもどれないと言われてきた。ここでも古典的な物質のイメージは踏みにじられるのである。ちなみに光子のスピンはもっと厄介だ。

やはり、イギリスだなと思うのだけれどこんな本が出版されている。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をもじってイメージできないものを一生懸命イメージ化しようとしてくれている。この場面では仮想粒子の振舞いについて面白く紹介してくれていて、アリスは電子に例えられる。

ロバート・ギルモア『量子の国のアリス』
ギルモアは英国の物理学者、英国にはルイス・キャロルの精神が生きていた。

ほとんどの粒子が、衝突時にちょっとだけ仮想粒子になり、また実在粒子に戻ったりする場所にアリスはいる。ある瞬間には時間軸に従って動いているが、次の瞬間には完全に向きを変え過去に戻ったりする。これが反粒子の生成である。この仮想粒子は波動性を持つためにトンネル効果のように障壁を突き抜けることができる。それは時間の障壁も含まれる。

電子の場合なら負の電荷を持っているので、電子が普通に過去から未来に向かって動けば、負の電荷は未来に向かって運ばれる。逆に未来から過去に向かって動いたとしたら、負の電荷も未来から過去へと運ばれるが、それは、正の電荷を過去から未来へと動かすことになる。それを外から見れば陽電子、つまり反電子のように見えるというのである。アリスは空に真っ暗な太陽があり、全てが逆向きに動いていた反転した世界の体験を思いだした。高次元の世界を我々3次元の人間が見たらこんなふうに見えるんだろうか。

電荷保存則によって宇宙の電荷の総量は不変であるとされている。電子のような粒子は、その反粒子と共に生成される。2個の電子の静止質量を創り出すためには一時的なエネルギーが必要になり、こうしたエネルギーは、実は何もないところから作り出されるので、エネルギーの揺らぎのように見えるという。真空は、実際には粒子と反粒子のペアたちの渦巻く空間であるのだ。光子は電荷以外の物には興味がなく、電荷があれば、それを取り巻く仮想光子の雲が必ずある。仮想光子たちは仮想の電子と陽電子のペアを創り、それが消滅すると実在の光子に変わる。仮想の電子と陽電子のペアはわずかの間存在し、光子を創り出し、その光子も電子と陽電子のペアを生成し‥‥それは果てしなく続くのである。

どうです。不思議な世界でしょ。でも、こういうふうに、表象できないと言われる量子の世界をも工夫次第でイメージさせてくれるのありがたい。実はこの表象したいという願望は、何故そうなのかを問うことに繋がっているのではないかと思うようになったのである。この「おかしい何故だ」を突き詰める態度は貴いのではないか。今や、量子力学の研究者で何故かを問う者は、まずいないという。そんな研究で食べていけないらしい。しかし、利潤追求ばかりのツール化は危険じゃないのかな。それだから地球温暖化は一向に鎮静化しない。今や、温暖化に歯止めをかけようとしているのは人間ではなく新型コロナウィルスである。

量子のもつれに疑問を呈したのはアインシュタインやボームだけではない。大切な人をまだ紹介していなかった。ジョン・スチュアート・ベルだ。

彼は、不可能であると立証しようとするのは想像力の欠如だと考える人だった(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)。有名なベルの不等式は、ある装置での観測結果を量子がもつれていると考える場合ともつれていないと考える場合とでとる値を不等式で示したもので、ある値以上ならもつれていないことが立証できるというものだった。ベルの思惑とは逆に、アラン・アスペの実験で実際にもつれていることが確かめられたのは先に述べた。

波動関数が数学的な正確さと物理的なあいまいさをもって言葉による表現を拒絶しようと、ベルは「物理学は事象がどのように起こるかを説明すべきだ」と考えていた。そして、ジュネーヴの欧州合同原子核研究機構CERNで素粒子を研究する傍ら、余暇を見つけては量子力学の「おかしい」を研究していた。すばらしいと思う。やがて、彼の不等式が破られたが、このアイデアは情報論への新たな展開をもたらした。こうして量子論は情報論へと舵を切っていったのである。

 

引用文献と参考文献

デヴィッド・リンドリ―『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』  2014年刊

デヴィッド・ボーム『全体性と内蔵秩序』
全体流動説が紹介されるなかなか刺激的な著書

アントン・ツァイリンガー 他『量子情報の物理』    かなり専門的なので僕のような素人には難しい内容だった。