ブルーノ・シュルツ『肉桂色の店』 父の変身、あるいは変容する家庭内叙事詩

 

松澤宥 (まつざわ ゆたか) さんとの展覧会があり、その後、展覧会に関する色々な記録を作っていましてブログが遅れました。約一月半ぶりとなります。今回は、展覧会中に偶々見ることのできたクエイ兄弟の作品から知ったブルーノ・シュルツの世界をご紹介します。

『ブルーノ・シュルツ全集 1』
創作編・評論編 工藤幸雄 訳 新潮社
1998年刊

「ダークなビジュアル・イメージで世界中の映像ファン、アート・ファンを虜にする、一卵性双生児のアニメーション作家スティーヴンとティモシー、二人のブラザーズ・クエイによる短編作品集」‥‥と銘打たれた映像集を見た。こんなに纏めてみたのは初めてだった。クエイ兄弟のコマ撮りの人形アニメーションについては、クレア・キッソン 『話の話』の話 ユーリー・ノルシュテインと幸福な時代の思い出の中で少し触れておいた。

その中でも今回、ご紹介するブルーノ・シュルツ原作の『大鰐通りは傑作と言っていい。ブンダー・カンマ― (驚異の部屋) をテーマにした『ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋』やシュトックハウゼンが音楽を担当した『不在』よりも、鳥をテーマにした長いタイトルの『ギルガメッシュ叙事詩を大幅に偽装して縮小した、フナー・ラウスの局長のちょっとした歌、またはこの名付け難い小さなほうき』よりもこの『大鰐通り』がいい。この映像は美しいと思う。

錆びた歯車に油を注すように機械仕掛けの装置へ、唾が人によって落とされる。すると、再びのその人形芝居が開始される。埃が積もった床からネジたちが自動回転して捻じれ上がり、床に倒れてゾロゾロと移動し始める。この感覚は、子供の頃、セルロイドの下敷をこすって頭の上に持ってくるとフワ~と髪の毛が逆立っていったあの感じに近いのかもしれない。この作品の不可解なストーリーの流れと特異な映像シーンに心奪われたが、最後のポーランド語と思われるナレーションの響きが如何にも美しかった。シュルツの文章が引用されている。この作品には原作のあることを知ったのだが、本書の訳者である工藤幸雄さんのものでご紹介する。

「人間という材料の安価なこの街では、奔放な本能もなければ異常なほの暗い情熱も入り込む余地はない。大鰐通りは現代のために、また大都会の腐敗のために私たちの街が開いた租界であった。どうやら、私たちの資力はせいぜい紙製の模造品や棚ざらしの去年の古新聞からの切り抜きを貼り合わせたモンタージュ写真しか賄いきれなかったようである。(『肉桂色の店』より「大鰐通り」最終部)」

 

ブルーノ・シュルツは1892年、ポーランドの南東部 (現ウクライナ) ドホロビチにユダヤ人の両親のもとに生まれた。オシップ・マンデリシュタームがワルシャワで生まれた翌年のことだ。服地屋を取り仕切る父ヤコブは、妻のヘンリエッタの名を店の看板に掲げていた。父親が46歳の時の子供で幼児の記憶に残る父は苦行者のようにやせ細り、背中が丸く、白髪交じりの顎ひげを生やし、薄暗い店の奥に白々と見える姿だったという。彼は「哲学者商人」「目立って冗談好きなインテリ」「絵心のある夢想家」として知られていた。その父を偶像のように敬っていた。普通の父親ではなかったことは確かだ。

長兄イズィドルとは11歳離れた末っ子で、それに姉のハンナがいた。一家はユダヤ社会に属してはいても家庭ではポーランド語を使い、先祖伝来のドイツ語に近いイディシュ語は使わなかった。家族の反対から美術学校には進めず、理工科大学の建築学科で学んだが、画家への夢は捨てきれなかった。第一次大戦中、一家は一時、兄の計らいによってかウィーンに避難していたが、1915年にはドホロビチに戻る。その年、ブルーノが23歳の年、彼と同じく病身痩躯で、不安に駆られ神経過敏になりやすく、結核の上に癌を病んでいた父が亡くなった。

戸主を失い、戦火で店舗も失ったシュルツ家は、ルブフ(リヴィウ/現ウクライナ)にある石油会社の支配人であった長男に経済的には負うことになるが、ブルーノも1924年、32歳の時、国立ドホロビチ高等中学校の契約教員となり絵画を教え、やがて工作を教えるようになる。宮沢賢治の『春と修羅』、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』、トーマス・マンの『魔の山』などが発表された年である。繊細で控えめなシュルツにとって教職は、執筆との板挟みをともなって、しばしば苦痛となった。長期休暇の申請を繰り返している。しかし、経済的柱であった兄も1935年に心臓病で急死する。ブルーノは母と精神を病んだ姉とその息子、兄の家族の生活を支えなくてはならなくなるのである。

スティーヴン&ティモシー・クエイ作品 『大鰐通り』部分

「父がマネキン人形という言葉を口にしたそのときであった、アデラは腕環についた時計に目をやり、それからポルダに目くばせで合図した。次に彼女は椅子ごと一歩前にせり出すと服の裾を捲 (まく)って、そろそろと足先を現してゆき、黒い絹にぴっちりと包まれた足首を蛇の頭のように伸ばした。‥‥こうして彼女は堅苦しい姿勢を保ったまま、アトロピン(ベラドンナから採れ、瞳孔を広げる作用のある有機化合物)の藍色で深さを増した大きな瞬きする目を据えて、まる一時間ポルダとパウリナに挟まれて坐りつづけた。‥‥霊感に駆られた異端者、めったに熱狂の嵐から逃れ出ることのない父が、とつぜん自分のなかに引っ込み、沈み、たたみ込まれた。‥‥突き出したアデラの片足の靴が小刻みに震え、蛇の舌のようにちらちらとした。父は伏し目のままゆっくりと立ち上がり、機械人形のような一歩を踏み出し、それから跪いた。ランプが静寂のなかでSの音を響かせ、壁紙の茂みのなかには、往きつ戻りつ物いう視線が走り、毒を含んだ舌の囁き、思考のジグザグが飛び交った‥‥(『肉桂色の店』より「マネキン人形論あるいは創世記第二の書」工藤幸雄 訳)」‥‥イメージと隠喩の豪奢で緊密なネットワーク。

クエイ兄弟の作品『大鰐通り』は、15章からなるシュルツの原作『肉桂色の店』のいくつかの場面からインスパイアーされて作られていると言っていいだろう。上にご紹介した動画はこの作品のほんの一部だが、この場面は『肉桂色の店』の第四章「マネキン人形」の方をもとに創られたのではないかと思われる。その原作を端緒としてクエイ兄弟独自のイメージが横溢していく。この「マネキン人形」では、家政婦アデラが見つめる中、お針女のポルダとパウリナたちが衣装を着せるのは、首代わりに黒い木の球をつけた麻屑と布でできた貴婦人のマネキンだったが、クエイ兄弟の作品では壮年とも初老ともとれる服地屋の主人=父親と思える存在がお針女たちに寄ってたかって変身させられている。

 

シュルツにとって父親とは何だったのだろうか。息子は、ある夜、魔物が父の身体に入り込むのを聞いた。ベッドから起き上がると預言者のごとき怒りによって、ひょろ高い長身へと変貌し、割れるような声で機関銃のような言葉を浴びせる父がいた。

発酵の結果生じる内部構造を持たないコロイド類。それらから成る疑似動植物。見かけの上で、脊椎動物、甲殻類、節足動物に似た存在。無定形でありながら一たび形態を付与されれば、それを記憶する存在。物質の模倣性向を顕現するそれらの存在を空想の中で自由に編み出す父。

従兄弟の一人が不治の長患いの末、姿を変え、徐々に一巻きのゴム管になると従姉は冬、いつとも果てない子守唄を歌い続ける。そんなことを語る父に我慢ならない女中のアデラは、近寄るなり指一本たてて、くすぐる意味の仕草をすると、父は、狼狽し沈黙し、恐怖に怯え、彼女の揺り動く指の前からあとずさりし、部屋から逃げ出してゆく。

あの黒い群れの洪水、身の毛もよだつジグザグを描いて床を突っ走る恐慌の野放図な妄想。手に投げ槍を握りしめ、椅子から椅子へと飛び移りながら威嚇の声を上げ、油虫の大群に口の周りを嫌悪の痙攣に歪めながら発狂する父。やがて奇怪な祭儀を思わせる節足動物の複雑な運動をみせて油虫に変身してゆく。(ちなみに、ポーランドに油虫がいるかどうかは僕は知らない。寒さの関係かウィーンにはいなかった)

我が家が経済的に破綻した年、ザリガニかサソリのような甲殻類に変身した父は、あらたな遠近法から家の様子を窺っていた。昼間は家中を歩き回り、ドアの隙間からハサミと脚を差し入れ、無理やり体を平らにしてドアの下をくぐって部屋に入り込むことを覚えた。しかし、それはある種の宿命性ゆえか、やり切れない気持ちをあえて振り払って息子は母に問うた。「まさか‥‥母さんが‥‥」父は皿に載せられて運び込まれてきた (『砂時計サナトリウム』から「父の最後の逃亡」)。

 

フランツ・カフカの『変身』が出版された1915年は、奇しくもシュルツの父が亡くなった年である。カフカが実利的な父親に対して反感しか持てなかったこととは対照的にシュルツの父は『肉桂色の店』(1993年刊) などを書くうえで文学的な極めて重要なファクターとなるほどの磁力とオーラを持っていた。

シュルツは、1936年にカフカの『審判』に関する書評を書いている。このカフカ作品に対する極めて早い反応は、訳者の工藤氏が述べているように、同時代を生きたユダヤ人の血に根差し不条理な世界に新しい創作を求めた両作家の資質と彼らが生きたオーストリア・ハンガリー帝国という文化圏の同一性に伴う共感の故かもしれない。しかし、カフカの『変身とシュルツの『肉桂色の店』に登場する父の変身とは、設定がかなり異なる。

カフカの『変身』一、二章において、一人称で語るグレゴール・ザムザの心理の中にあるものは、一介のサラ―リーマンが不慮の出来事で仕事に遅れるという焦りと仕事を失い、一家の経済を破綻させるのではないかという恐怖だった。南京虫か、甲虫になるという奇想は、身体が不条理という物化を遂げるという設定へ結びつく。三章では三人称の語りとなり、気味悪がりながらおっかなびっくりの愛情をこめて世話していた妹も、気遣いが裏目に出る母も、怪物から家族を守ろうとする父も、お手伝いという第三者の登場によってか、家族のお荷物となるグレゴールの死を安堵をもって迎えると結末になっていく。認知症の身内の死を平和な家庭の回復として受け入れる家族の心情に近いかもしれない。ここには、内面世界と外界世界との衝突によって軋む人間のモラルが浮き彫りにされる。この設定は、現代にも痛烈に響く。

ブルーノ・シュルツ
『砂時計サナトリウム』挿絵

シュルツの父親は、ある叙事詩の重要な登場人物である。その叙事詩には第一次大戦もナチスの胎動もない。シュルツの家庭内叙事詩は、「紙製の模造品や棚ざらしの去年の古新聞からの切り抜きを貼り合わせたモンタージュ写真」のごとき現実から作り替えられた神話だと言えるのではないか。彼は、古新聞の切り抜きのような自分の家庭を題材としながらも、その現実から魔術的変容によって逃れ出ようとするある生命的実体を描いた。シュルツはカフカへの評論でこう述べる。「‥‥これらの認識、観察、究明は、彼の独占する財産ではなく、あらゆる時代と諸民族の神秘思想――それはつねに主観的で偶然的な言葉、ある共同体と秘教的流派の型どおりの言葉で伝えた――の共通の遺産である」と。あらゆる時代と諸民族の神秘思想という言葉が、実はそのまま自身の作品へ妥当してしまうのである。

シュルツによれば、現実がある形を装うのは、もっぱら見せかけ、冗談か遊びのためだった。誰かは人間で誰かは油虫だったのだ。それは、かりそめに受け入れられた役割であり、仮面のように脱ぎ捨てられるものだった。すべては己の限界を超えた外へと拡散し、ほんの一瞬、ある形を保つだけで、隙あらばそこから脱出しようとする秘められた生命だったのだ。実体の生命とは無数の仮面の使用によって成立する形の移行であり、そのような実体からある種の汎アイロニーが生まれるという。楽屋に戻った役者は、衣装を脱ぎ捨てて、われと我が役をあざ笑うというのだ(1935年『公開書簡』)。そこにはある種の笑いの原理や復活とユートピアが開示されていく。何故かは、後に述べたい。

「変身 METAMORPHOSIS」(アーサー・ピタ振付/エドワード・ワトソン/ロイヤル・バレエ団) カフカの『変身』をバレー化した作品で面白い企画。

 

シュルツは画家になりたかった。幼い頃、床に座って次々と絵を描いて周りを感嘆させた少年は、28歳になっていた。その1920年頃からガラス陰画と呼ばれる技法で『偶像賛美の書』というシリーズを制作している。ガラスに黒色のゼラチンを塗り、その塗布した膜をニードルで引っ掻いて絵を描き、写真の感光紙を重ねて光を当て、現像するというものらしい。カリカチュアの系譜にあることは間違いない。ゴヤのタッチを彷彿させ、ロップスのポルノグラフィを思わせるものもあるが、ロップスほどには過激ではなさそうだ。同時代の作家ならオットー・ディクスやジョージ・グロスに近いだろうか。同郷の画家ヨアヒム・ワインガルトやクラクフ出身のモイズ・キスリングに対抗心や羨望はあっただろう。パリに伝手を探し求めようとしたこともあった。絵画の教師としてドホロビチ高等中学校にあってもその夢は捨ててなかったようだ。

ブルーノ・シュルツ
左 『偶像賛美の書』から「けだものたち」 ガラス陰画 1920~22年頃
右 『出会い』油彩 1920年

一方、シュルツは文学の方面において注目されはじめていった。41歳、1933年頃『肉桂色の店』が刊行され、4年後の1937年『砂時計サナトリウム』が出版されたのである。ポーランドの批評家エヴァ・クリークルはシュルツの芸術を真に格調高く謳いあげている。ヨーロッパ文学の地下水脈を流れる闇なるもの、外典的なもの、異端的なものを手法として常に専用してきたのは奇矯なアウトサイダー、夢想家といった根源の基盤への復帰と未来への逃亡とに魅せられた人々であり、その中にシュルツも含まれるというのである。ダンテの天国は地獄の滑稽な描写に補完され、シェークスピアでは悲劇のあとに卑猥な冗談が流れ、ダ・ヴィンチの醜怪な男の頭部は聖母像とコントラストを画し、ラファエロはヴァチカンの聖なる空間を異教風のアラベスクで飾り、ジャック・カロは喜劇コメディア・デラルテの風刺画を描いた。それらは共に文明の奥に潜む異常、愚劣、残酷さを暴き出すという。

ジャック・カロ 『茶番劇のヴァイオリニスト』  17世紀

比較的少数のラブレーのような作家やボス、アルチンボルド、ビアズリーのような画家がグロテスクの手法に携わったというクリークルの指摘は鋭い。それは、普通言う意味のグロテスクではなく、ミハイル・バフチンの言うグロテスクである。バフチンは、グロテスクを大衆的な笑いの原理、生活の物質的・肉体的原理、アンビヴァレントな価値を併せ持つ変化の両極性、再生と復活のユートピア性を持つと規定し、宗教の厳格性や学問の抽象性をこととするお堅い文学と対抗させた。

開明的エリート、純粋理性の高みに舞い上がろうとする芸術は、原始的で過去という泥沼に浸り暗黒の洞窟に永遠に閉ざされた芸術と並置されるべきだとクリークルは述べる。そして、自分たちの時代は全体主義の時代だったと喝破する。ファシズム、ナチズム、コミュニズムのイデオロギーは、科学的ないしエセ科学的傾向に、善と悪との宗教的二元論、古色蒼然たるメシアニズムを抱き合わせにした。地球の表面から劣等種族や劣等階級といった人類の一切悪を抹消し、究極の楽園を目指すという新たな黙示録的な「啓示」は、空前の堕落退廃をもたらし、数百万人が隷属に置かれ、油虫のように撲殺されたという。国という国が幼稚園児のキャンプの水準に引きずり落され、新たな暴政はありとあらゆるものの品質を低下させ、人々を幼稚化し、個人間、社会間に野獣性をもたらしたと断言するのである。シュルツの壮年時代は、そんな暗黒に塗りつぶされていったのである。

 

ブルーノ・シュルツ全集 2
「書簡篇」「解説篇」

戦争がやって来る。ドホロビチはソ連の赤軍によって占領された。かつて同じオーストリア・ハンガリー帝国の東端であったチェルノヴィッツ(現ウクライナ)とまるで判を押したように同じ運命をたどる。そこはパウル・ツェランの故郷だった。次いで1941年、ドホロビチをナチス・ドイツが占領する。シュルツ一家はゲットーへ強制的に立ち退かされた。

翌年、シュルツはドホロビチのユダヤ人評議会の指示でゲシュタポ所属の図書館で働くようになる。イエズス会の蔵書をカタログに残して保存するか廃棄処分にするかを仕分ける作業だった。絵描きとして奉仕させられることもあったようだが、強制労働に比較すれば楽な作業だった。ワルシャワへの脱出の話もあったのに踏み切れず先延ばしにしていた。家族や自分の作品をどうするかを気に病んでいたようだ。同じ図書館で働いていたルボヴィェツキは手紙にシュルツの最後をこう書いている。

それは、1942年の「黒い木曜日」と呼ばれる日だった。私たち二人はたまたま食料の買い出しのためにゲットー内にいた。突然、銃声が鳴り響き、逃げ惑うユダヤ人たちを見た。私たちも急いで逃げたが、体力の弱っていたシュルツはゲシュタポの一人に追いつかれ、頭に二発の弾丸を撃ち込まれた(『ブルーノ・シュルツ全集 2』)。

後の調査によると「黒い木曜日」の大量殺戮は、追い詰められたユダヤ人がゲシュタポの一人に軽い傷を負わせた報復だったようだ。人々は油虫のように殺された。シュルツは、その日汽車でワルシャワへ逃れる予定だったという。その最後の別れのシーンをシュルツの元生徒だったグルスキは、小柄な、いっそう痩せてしまった先生のシルエットが、いかにも心細げにゆっくりとした足取りで遠ざかっていったと回想している。そして、痛々しさと共に身を固くしながら立ち尽くす自分の姿を感じていたという。

 

ブルーノ・シュルツ『自画像』1920~1922年

自分の作品を分散して人に預け、家族を気遣いながらゲットーで非業の死を遂げたシュルツ。彼は、リルケやトーマス・マンの著作を愛していた。とりわけ、マンの作品を智と夢の純乎としたエッセンス、至賢の最的確な言葉で捉えた非合理性(夢)と称えた。そのシュルツの言葉を最後にご紹介してこのブログを終わろうと思う。訳も素晴らしい。

「書物」‥‥‥どこか幼年時代の暁、人生そのものの明け方に、この「書物」の優しい光に地平が明るんだのだった。それは栄光に満ちて父の事務机の上に載っていた。黙ってその本に見入りながら父が、唾をつけた一本指であれらの写し絵の背を丹念にこすりつけているうちに、やがて盲目の紙片は靄 (もや) を帯び、薄くぼやけ始め、甘味な予感によって微光を放ち出し、にわかに薄紙のけばだちが剥げ落ちると、紙は孔雀の羽の玉模様を思わせる睫毛のある片影をわずかに覗かせた、すると視覚は失神しかけながら、神々しい色合いのけがれ知らぬ夜明けのなかへ、純潔の藍色の奇蹟の湿りのなかへ降りていった(『砂時計サナトリウム』から「書物」工藤幸雄 訳)。

 

 

参考文献

J. M. クッツェー『続・世界文学論集』
シュルツやヒメーネスなどあまり馴染みのない作家の文学論も読める。

フランツ・カフカ『変身』   池内紀 訳