領家高子『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』 一葉舟は見事浮かび‥‥

樋口一葉(1872-1896)

舟は一葉、黄帝の故事は観阿弥の『自然居士』に結ばれ、桐の一葉は達磨の乗った葦の葉となり樋口夏子の本郷丸山福山町の住まい水の上に見事浮かんだ。

と述べても一体何のことやらと思われるでしょう。僕は文学関係の人間ではないし、文を書いて糊口を凌ぐこともできないので、ただ興の赴くままに色々な本のことを書いてきたのですが、極たまにメッセージを頂くことがあって、そのお一人が今回ご紹介する領家高子 (りょうけ たかこ) さんでした。ウィリアム・ブレイクと柳宗悦の関りを書いた時のことです。今回は小説家の領家さんの恐らくライフワークと言ってもよいのではないかと思われる樋口一葉にまつわる著書を縦軸に少し他の文献も交えてご紹介したいと思っています。

領家高子 (りょうけ たかこ) さんは、東京墨田区の向島のお生まれ。お生まれの場所にちなんだ『向島(むこうじま)』という花街の芸者を主人公にした小説は、さわやかなハッピーエンドで終わります。東京外国語大学ドイツ語学科中退、渡米され、アメリカ・ロサンゼルスで生活されたようでが、帰国後、1995年、『夜光盃』で小説家デビュー。舞踊劇の創作などにも携わりながら歴史・時代小説を主として書いてこられた。2001年、『九郎判官』が泉鏡花文学賞候補となります。歌舞伎・遊廓など近世情緒に関心が深いとありますが、とりわけ、樋口一葉には深い愛情を傾けてこられたようです。

 

越境するストーリー

「‥‥人の一生を旅と見て、まだ出立の二あし三あしがほどなる身には、是れのみにも非ざるべし。道のさまたげいと大からんに、心せでは叶はぬ事よ」と思ひ定むる時は、かしこう心定まりて、口惜しき事なく、悲しき事なく、くやむことなく、恋しき事なく、只 (ただ) 本善のぜんに帰りて、一意に、「大切なるは親兄弟、さては家の名なり。これにつけても我が身のなほざりになし難さよ」など思ふ折しもあれ、又さる人に訪 (と) はれなどして、かの人のことふと物がたり出たる(樋口一葉『にっ記』明治25年5月)。

領家高子『八年後のたけくらべ』
『お力のにごりえ』『葬列』『日記』収載

祖父は、甲府の農家の三男で俊敏な頭脳の努力家だったが失意の中で死に、父は、一生を士分に対する憧れと反発の中で揺れて過ごし、結局は偏屈な変わり者として市井に身を捨てることを選んでしまったとお力は語る。それは一葉の『にごりえ』ではなく、領家さんの『お力のにごりえ』にそう書かれている。

一葉の実際の祖父も甲斐の国の長 (おさ) 百姓で学問もあり進取の気性にも富み、父は、幕末に同心株を買い、運良く幕府直参となりました。明治維新後には下級役人として士族の身分を得て明治政府の官となり東京府庁に勤めましたが、明治9年に東京府庁を退官して起業します。しかし、負債を残したまま他界してしまう。一家は窮乏し始めます。兄は早くに結核で亡くなり、姉は他家へ嫁ぎ、次兄は勘当されてのち薩摩金襴 (にしきで) の陶画師になります。一葉は16歳で樋口家の戸主となり家を背負わなければならなくなる。家を存続させる為には婿養子をとらねばならない立場となったのです。

領家さんは、一葉の足跡をかなり丹念に調べてこられたようです。それらの知識をもとに一葉の作品をご自分の想像力のままに本歌どりされている。あの『たけくらべ』のその後を小説にし『八年後のたけくらべ』を書き、一葉の日記が世に出るまでを妹の邦子が語る『日記』を書いておられる。この『八年後のたけくらべ』では意外にもあの頭もよく愛敬ある高利貸し田中屋の正太郎(正吉)が、成りあがって実業家となり、美登利の姉で廓の火事で大やけどした大巻太夫を身請けするという展開になっている。太夫となった美登利もいずれは救う気でいるのです。その後もの」を書くについては色々なご意見もあるかもしれませんが、領家さんが何を越境したのか、何を重ねたかったのか、これを見ていくことはなかなか面白いのです。

 

文語文の最後の絶叫

「おのれ日々日記を作るに、言文一致なるあり、和 (やまと) めかしきあり、新聞躰 (てい) になるあり。かくては却 (かえ) りて文の為に弊害とのみなりて、利は侍らずやあらむ」とて師の君の異見とひ参らす (樋口一葉『日記』明治25年3月)

井上ひさし氏は、劇団こまつ座の公演紹介も兼ねた雑誌『the座』の創刊号で「樋口一葉に聞く!聞き手・井上ひさし」(1984)を書いていて例によって面白可笑しいのですが、一葉の文章が俗折衷体といわれ、中古の和文と西鶴の俗文を文章の骨組みとしてそこへ中古の雅言と近代の俗言、明治の語彙を加え、その時代の女性感覚を振りかけたものだと一葉女史に語っています。ここは当たっているのではないか。つまり、明治までのわが国の文章を良いとこどりして集約した。それは和文脈による文語文の最後の絶叫だと褒める。

一方で、すぐその後に言文一致体がやって来た時、口語文の文章であなたは傑作を書けただろうかと女史に意見します。女史は軽く「あたり」と言って受け流しますが、勿論これは架空のお話しです。一葉女史がもっと長生きしていたらなどと誘うのはよくある手ですが、これには引っ掛かりません。しかし、一葉女史の文語文は美しい。快進する流れの中に刻まれるきびきびとしたリズム、状況説明から直結される会話、適格な情景描写にからみあう心理描写‥‥ さて、文語の俗文と一葉女史の原文とを比較してみましょう。

さても源左ェ門その日のいでたち如何にと見てあれば、金小実緋縅 (きんこざねひおどし) の伊達鎧に同毛糸 (おなじけいと) 五枚錣 (しころ) の兜は、これぞ俵藤太秀郷 (たわらのとうたひでさと) が瀬田の唐橋にて、竜神より申し受けしと謂われある、先祖伝来の名兜なり 金にて鍬形銀青龍の前立て打ったるを猪首に着なし、腰には伯耆守安綱の陣刀を横たえ 三条子鍛冶宗近の鍛えあげたる大薙刀を小脇にかいこみ、痩せに痩せたる馬なれど大浪と名付けたる名馬にはゆらりがっきと轡 (くつわ) をはませ、向こう春風諸手綱、引き締めまたがり諸鐙 (もろあぶみ)、とおとおと乗り出だす (講談『鉢の木より いざ鎌倉』)

人数は大凡 (おほよそ) 十四五人、ねぢ鉢巻に大万燈ふりたてて、当るがままの乱暴狼藉、土足に踏み込む傍若無人、目ざす敵 (かたき) の正太が見えねば、何処へ隠くした、何処へ逃げた、さあ言はぬか、言はぬか、言はさずに置く物かと三五郎を取こめて撃つやら蹴るやら、美登利くやしく止める人を掻 (か) きのけて、これお前がたは三ちやんに何の咎 (とが) がある、正太さんと喧嘩がしたくば正太さんとしたが宜 (よ) い、逃げもせねば隠くしもしない、正太さんは居ぬでは無いか、此処は私が遊び処、お前がたに指でもささしはせぬ、ゑゑ憎らしい長吉め、三ちやんを何故ぶつ、あれ又引たほした、意趣があらば私をお撃ぶち、相手には私がなる(『たけくらべ』)

 

領家高子『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』
表紙は鏑木清方『たけくらべの美登利』
この清楚で何かを内に秘めた女性像が素晴らしい。日本はこんな女性像を失った。

虚構と現実

うき世に はかなきものは恋也。さりとて、これのすてがたく、花紅葉のをかしきもこれよりと思ふに、いよいよ世は はかなきもの。等思三人、等思五人、百も千も、人も草木も、いずれか恋しからざらむ。深夜人なし、硯をならして、わがみをかへりみてほゝゑむ事多し。にくからぬ人のみ多し。我れは、さはたれと定めてこひわたるべき(樋口一葉『水の上の日記』明治27年)。

島崎藤村には『一葉舟』という詩集がある。領家さんの『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』には、藤村が上田敏の下宿を訪れた帰り、戸川秋骨、馬場孤蝶、平田禿木 (とくぼく) らと本郷丸山福山町の小さな池が窓下にある暗く風雅な古い屋敷に一葉を訪ねたことが述べられています。藤村、秋骨、孤蝶の三人はキリスト教系の明治学院の同級で禿木を含めていずれも英語が堪能だった。秋骨や孤蝶は早稲田や慶応で教え、禿木はフェノロサのために謡曲を英訳したことでヨーロッパに能が知られる契機を作った。みんな自死した北村透谷が結びつけた「文学界」の同人たちでした。

「ぼくは、ひょつと、透谷君が生きて元気でその場にいたら、と思ったことでした。『雪の日』からずっと、一葉君のことを言っていましたからね。きっと育ててやりたかったんでしょう」と藤村が語る場面が領家さんの『なつ 樋口一葉 奇跡の日々』に書かれている。文芸作品について、安直なモデル問題を論じるのは危険なことだと断りながら、『たけくらべの藤本信如 (のぶゆき) は藤村がモデルではないかと領家さんは言う。この小説に登場する若者たちの実在のモデルはあったようですが、領家さんの言うのは性格的なモデルでしょう。明治26年、1893年に藤村は、元教え子への恋のために勤めていた明治学院を辞め、頭を剃って僧同然の姿で放浪し、自殺未遂するも翌年復職する。同じ年、親友北村透谷の自殺、兄は水道鉄管の不正疑惑に連座した疑いで逮捕されていたのです。

一葉と藤村の出会いを思い、領家さんの想像力は膨らむ。美登利は一葉、美少年正太郎 (正太) は馬場孤蝶、戯け者の二股かけのちびの三五郎は平田禿木 、乱暴者の長吉は、村上浪六と彼と仲のよい星野天知。それは、領家さんに亡くなった北村透谷の詩を連想させます。信如が美登利に贈った花一輪でしょうか。

一輪花の咲けかしと、願ふ心は君の為め。
薄雲月を蔽ふなと、祈るこゝろは君の為め。
吉野の山の奥深く、よろづの花に言伝 (ことづ) て、
君を待ちつゝ且つ咲かせむ。
(北村透谷『古藤庵に遠寄す』)

信如いかにしたるか平常の沈着 (おちつ) きに似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出だし、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬 (やきもち) や見つけて、藤本は坊主のくせに女と話しをして、嬉しさうに禮を言ったは可笑しいでは無いか、大方美登利さんは藤本の女房 (かみさん) になるのであらう、お寺の女房なら大黒さまと言ふのだなどゝ取沙汰しける、信如元來かゝる事を人の上に聞くも嫌ひにて、苦き顏をして横を向く質 (たち) なれば、我が事として我慢のなるべきや、夫 (それ) よりは美登利といふ名を聞くごとに恐しく、又あの事を言ひ出すかと胸の中もやくやして、何とも言はれぬ厭な氣持なり(『たけくらべ』)

 

一葉舟

なみ風のありもあらずも何かせん 一葉のふねのうきよ也けり 樋口一葉

『天狗草子』三井寺巻 部分
自然居士 (最上部に描かれた人物)
東京国立博物館

観阿弥作の『自然居士 (じねんこじ) 』では舟を一葉と呼ぶ。その故事は、黄帝の臣下である貨狄 (かてき) が柳の葉に蜘蛛が乗って汀に至るのを見て舟を公案し、それを使って黄帝の軍が烏江を漕ぎ渡るという内容で謡われています。実在の自然居士は、東福寺の開山である聖一国師・円爾 (えんに) の弟子であった鎌倉時代末の禅僧です。放下の禅師と号して、髪を剃らず烏帽子を着、座禅の床を忘れて南北の巷に簓(ささら)をすり、工夫の窓を出て東西の路に狂言したと『天狗草子』にその名をとどめた。風狂の説教師、勧進聖であり中世芸能の祖であったようです。

この能のストーリーは、自分を人買いに売って小袖を得て、それを自然居士に捧げて父母の追善供養を願う少女を人買いから助け出すというもので、理屈で勝てない人買いは居士に恥をかかせようと、簓 (ささら) や鞨鼓 (かっこ/撥で打つ鼓) を打って舞いをせよと求めた。船上の居士には、簓のようなものはなく、楽器を手ぶり身振りに表現して踊り続け、対岸に到着するや娘を取り戻すという話になっています。人買いから少女を救うストーリーは、領家さんの『八年後のたけくらべ』にある太夫となった美登利を廓から助け出そうと目論む正太郎に通じるものがあります。

能楽の研究者である伊藤正義さんは『謡曲入門』の中で舟を一葉と表現する故事は中国で説くところの輸入だが、かなり早い時期に入って来たと考えられるという。鎌倉前期の和漢朗詠集永済注には既に見られ、梧桐の一葉という表現も「後漢書に云う」と鎌倉中期の『弘安十年古今集歌注』にあると指摘しています。舟は葉とも数えられる。樋口夏子の雅号は一葉です。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であったともいわれますが、一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったといいます。そのことは「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そしてに書いておきました。しかし、これは彼女独特の居直りであったかもしれない。

 

一葉舟を浮かべたのは誰か

半井ぬし扨 (さて) の給ふやう、「種々に御事多かる中を、さぞ出でがたくやおはしけん。実は君が小説のことよ。さまざまに案じもしつるが、到底絵入り新聞などには向き難くや侍らん。さるつてをやうやうに見付けて、尾崎紅葉に君を引き合わせんとす。かれに依りて『読売』などにも筆とられなば、とく多かるべし、又、月々に極めての収入なくは経済のことなどに心配多からんとて、是をもよくよく計らんとす‥‥」(樋口一葉『日記 しのぶぐさ』明治25年6月)

半井桃水(1861-1926)
全集 樋口一葉 3 日記編 小学館 掲載

半井桃水(なからい とうすい)は、対馬に生まれて韓国の釜山で育ちます。明治21年、1888年に東京朝日新聞の記者となり、朝鮮語に堪能であったため釜山に駐在したこともある。やがて、小説家としての地位を確立するようになり、一葉が小説の教えを乞い、恋心を抱いていたことで知られています。領家さんは、一葉舟を浮かべた最大の功労者をこの半井ぬしだと見ている。

キリスト教系の明治女学校校長だった巌本善治は情操教育としての小説に着目し、文学に理想を求めて『女学雑誌』を主宰していました。しかし、中流社会の宗教家・教育者の性モラルを暴いた小説が現れ、女学生醜聞報道もあり、国粋化の影響もあってキリスト教教会なども批判の矢に曝されていた時期でした。一方、桃水は明治25年に後進の育成のために雑誌『武蔵野』を発行して一葉の『闇桜』を掲載している。この年、明治女学校のある教師が一葉の作品を『女学雑誌』へ寄稿してもらえるように桃水に頼みますが、これを断ります。その教師は、おそらくは、星野天知だといわれている (全集 樋口一葉3 日記編 注)。桃水はキリスト教関係には近づかないように一葉に警告していた。これは桃水の目配りだったといいます。

星野天知は日本橋本町の砂糖問屋「伊勢清」の次男で、『女学雑誌の主筆明治女学校の巌本善治に見込まれ大学中退後、教育界に入って雑誌編集に携わります。島崎と北村らと『文学界を創刊した切れ者でした。この頃、キリスト教女子教育に関わったものにはロマンティックで自由な恋愛を支持するものが多かったといいます。天知も透谷もクリスチャンだったし、藤村も一時期そうでした。そして、三人とも文学に理想を求める明治女学校で教えていた。彼らが女性の文学者を待望していた理由はここにあるのでしょう。平田禿木が初めて一葉を訪れるのは明治26年です一葉の『雪の日』を『文学界』の三号に載せたい旨を告げます。こうして、一葉は「文学界」のメンバーたちと親しくなっていきました。

この明治25年頃は透谷が、尾崎紅葉や幸田露伴の文学を保守反動だとして厳しく批判していた時期に当たります。尾崎紅葉ひきいる硯友社は政治的にノンポリだったし、紅葉は読売新聞に入社していて発表の主要な場もそこだった。それで、桃水は一葉と紅葉を結び付けようとしましたが、結局、一葉は紅葉と会うことをしませんでした。そのことについて、桃水は自分に宛てて手紙を書くように一葉に指示している。彼女と共に後難を避けようとしたためだといいます。しかし、明治28年には硯友社系の博文館支配人大橋乙羽が一葉に寄稿を依頼し、奇跡の14か月と呼ばれる期間に入っていきます。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』が次々と発表され、幸田露伴や森鴎外に高く評価されるようになるのです。それは、自ら水の上に浮かべた一葉舟を桃水が大海に送り出す手配だったと領家さんは言います。一葉という名の黄帝を烏江の向こう岸に渡らせた臣下が、実は半井桃水だったということになるでしょう。

 

水の上と漬物石

全集 樋口一葉3 日記編 小学館

大切なるは親兄弟、さては家の名であり、文学は糊口を凌ぐため為すものにあらずという文学者としての矜持があり、我は人の世に苦痛と失望とを慰めるために生まれた詩の神の子であるという自負があったが、誠に我は女なりけるものをと弱気にもなる。明日は食べるものもないという貧困があり、家族のために借金を乞い小商いまで決意し、胡散臭い人種にも接近した。いかにして明日を過そうかと、願うことは大方はずれて想いの外になり、全て、世の中はをかしきものと放下に似た境涯にも近づく。やがて、結核を患って24歳という若さで亡くなっていった。このような中で一葉文学は生まれました。日記をみればそのことは分かる。かつての宮廷女官の日記はフィクションで彩られたと言いますが、一葉の日記にもある種の空想はあったかもしれない。しかし、水に浮かぼうとする足掻きと憧れへと進もうとする葛藤は真実だったでしょう。日記は、時に飛び飛びに連続するその水跡だったと思われます。

一葉舟は、みごと水の上に浮かびますが、領家さんは、その後の樋口家を『葬列』という小説の中で書いています。姉夏子の葬儀の日、妹の邦子は、姉が紫檀の文机の前に座って眺めていた池の面を仁王立ちになって睨みつけている。そして、台所の漬物石を頭上高くに振り上げ、一息に振り下ろします。水が盛大に跳ね、水しぶきが座敷にまでかかった。邦子はそこに魔物が居たのだというのです。そこには、姉を虐げた宿命という名の魔物がいたのかもしれない。しかし、そうさせずにはおかなかった無理無体な何ものかは、一葉の作品の中で巨大な波紋へと変容し、今に至るまで波動し続けているのです。

 

 

参考文献 並びに 引用文献

領家高子『向島』

伊藤正義『謡曲入門』

全集 樋口一葉 2 小説編 小学館

領家高子『一葉舟』 一葉の伝記的小説