石井洋二郎『時代を「写した」男 ナダール』肖像/天球からパリのカタコンべまで

 

石井洋二郎『時代を「写した」男ナダール 』2017年

写真家ナダール‥‥若き日のボードレール、死の床にあるユゴー、20歳のサラ・ベルナール、得意絶頂のドラクロア、老いてもなお学究の徒たりえたファーブル、彼の音楽そのものを漂わせるプッチーニ、それに日本の文久遣欧使節団とその通訳だった福沢諭吉、彼らの歴史的肖像写真を手掛けたのはこの男だった。しかし、彼には写真家とは別の知られざる幾多の顔があった。

医学生、ジャーナリスト、批評家、作家、スパイ、カリカチュリスト、写真家、飛行実験家などの経歴は、この人物の好奇心の強度、熱狂的活動力、他人と渡り合う交際能力などのあらわれと言える。今回、ご紹介する時代を「写した」男 ナダール』には、並外れたスケールで時代を駆け抜けたナダールの生涯が、その幾多の著名人との交流と共に描かれ、そのことを通じて、この時代の「肖像」が浮き彫りにされる。著者の石井洋二郎さんは、これまで、「文学史」「思想史」「芸術史」などで個別に語られてきたこの19世紀の文化の担い手たちをナダールという一人の芸術家を蝶番にして相互に結びつけ、彼のレンズから見た当時のフランスの外貌を紹介してみたいとおっしゃる。

石井洋二郎さんは、1951年東京のお生まれ。東京大学法学部、パリ第四大学、東京大学大学院人文科学研究科で学ばれ、京都大学や東京大学で教鞭を執られた。東京大学名誉教授であられる。この人は、地域文学・フランス文学の研究者だけれど、ロートレアモンの研究者と言っていいのかもしれない。『ロートレアモン イシドール・デュカス全集』で日本翻訳出版文化賞を受賞、『ロートレアモン 超越と越境 』という著作で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されている。著書に『差異と欲望――ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む』『科学から空想へ――よみがえるフーリエ』『フランス的思考 野生の思考者たちの系譜』などがある。他の翻訳としてブルデューの『ディスタンクシオン』があり、渋沢・クローデル賞を受賞されている。

 


 

ナダールの生い立ち

ナダール(1820-1910) セルフポートレート 1854

ナダールというのは本名ではない。本名は、ガスパール=フェリックス・トゥルナションという。1838年頃、友人で当時戯作者だったオーギュスト・ルフランが、トゥルナションの語尾をトゥルナダールに変え、それが略されてナダールになったらしい。多分、ふざけ半分だったのだろう。

父親はリヨンで印刷業を営んでいて、そこでは『リヨン・ローヌ県新聞』を発刊していたが、反革命思想を扇動する危険な業者として革命政府から睨まれていたという。面白いのは、この父親が、あの空想社会主義者と呼ばれたシャルル・フーリエと付き合いがあったことだ。

印刷所が倒産した後、父は20歳も年下のテレーズ・マイエという女性とパリに書店を出した。そしてフェリックスは1820年にパリで長男として生まれる。下に弟が一人いた。当時、パレ=ロワイヤルでは華麗なアーケード街が整備されていたけれど、宮殿に面した南側は資金不足のために木造の三列に並ぶ掘立小屋で「ギャラリー・ド・ボウ (木造回廊)」と呼ばれ、書店や雑貨店などが寄せ集まっていて、逆に人気のスポットとなっていた。人間には、小綺麗な所よりこんな場所が必要なんだ。フェリックス少年は、この信じ難く汚らしい悪魔の巣窟と彼が呼んだパラダイスで育まれることになる。これは、「パサージュ」の先駆けだったという。

 

ボヘミアン生活と文筆活動

1832年、コレージュ・ロワイヤル・ブルボンに入学して中等教育を受けることになる。同時代にはデュマ・フィスやゴング―ル兄弟がいた。後にはベルレーヌ、プール―スト、ヴァレリー、コクトーなどが学んでいる名門だ。友人には恵まれたが、学業不振、素行不良といったコースを進んだ。1833年に父の書店が倒産し、家族は彼を残してリヨンへ戻っている。その2年後に父が亡くなり、コレージュを結局卒業しないまま中退となった。

『ラ・ボエーム』 ポスター 1896年
アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活情景』が原作。

1837年の秋、フェリックスはリヨンの医学校に入学。興味本位の入学だったらしいが、この頃から短編小説を新聞に発表している。翌年、パリへ帰還、18歳になっていた。どういう伝手を手繰ったのか、すぐに雑誌や週刊誌の出版社に寄稿し始める。翌年には友人たちと週刊誌『リーヴル・ドール』を創刊し、編集長となった。執筆者にはバルザック、デュマ・ペール、ゴーチェ、ネルヴァルなどの錚々たる顔ぶれがいた。ここから、フェリックス、つまりナダールの進撃が始まるのだ。

この頃、ボヘミアンと呼ばれる作家や画家、音楽家を志し、貧しいながら陽気で気儘な生活を送る若者たちがいた。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』で一躍知られるようになる。ナダールもこのような若者たちの一人だったのである。友人ら三人で、ラ・ボエームの原作者にあやかった『ミュルジェール物語り――真のボヘミアン史のために 三人の水飲み仲間による』を後に出版している。

この本に登場するのは、煮る火力がないために母の送ってくれたジャガイモを1週間生でかじっていた若者や、三日三晩飲まず食わず、暖房がないので夜中外を歩き回っていたが疲労と空腹で道に倒れて寒さで目覚めるといった若者たちであった。彼自身もこの物語りを地でいっていた。

 

ナダール、スパイになる

このボヘミアン仲間の救世主はポーランド系の石版画家キャロル・ダネルだった。貧乏なのに、いつも自分の屋根裏部屋に仲間を受け入れ食事や寝床を提供してくれる人で、ナダールが『ラ・ボエームの原作者ミュルジェールと知り合ったのも彼を介してだった。筆者の石井さんは、フーリエの私有制のない社会主義運動の広がりのようなものと、このゆるやかな繋がりのボヘミアン集団とのある種の共通性を指摘している。

1848年、選挙権の不平等とギゾー内閣への不満は二月革命へと発展し、国王ルイ・フィリップは退位し、フランスの王政は終りを告げた。それが、ドイツ、オーストリアへと広がり中欧全体が三月革命へと巻き込まれ、ウィーン体制が崩壊する。この頃、ポーランドは領土の四分の三がロシア皇帝の支配下にあり、独立運動の度にロシアに弾圧されていた。

救世主ダネルの母が経営するレストランはポーランドの亡命貴族や亡命軍人のたまり場で、そこにはコレージュ・ド・フランスで公開講座を開いていた詩人・作家であったアダム・ミツキェヴィチもいた。彼らとナダールとは親しくなり、意気に感じもしたナダールは、弟らと共に祖国解放に燃えるポーランド系移民300名と共和派フランス人民志願兵200名からなる義勇軍に参加、ポーランド遠征に旅立った。しかし、ドイツ東部のマグデブルクで捉えられ、しばらく拘留の後、あえなくフランスへ強制送還となる。彼にとっては、明確な信条に基づく政治的行動というより、自堕落な生活を清算するための契機、少年期のような純粋な熱狂への回帰であったと石井さんは言う。

ナダールがパリに帰って来た頃は、青年労働者たちによる大規模で特異な反乱と呼ばれる「六月蜂起」が発生、行政長官となっていたカヴェニャック将軍により数日のうちに鎮圧されるという事件が起こっている。この頃、編集者のピエール=ジュール・エッツェルがナダールに接近する。後には、ジュール・ベルヌを世に出すことになる人だ。熱心な共和主義者で、二月革命以降は外務大臣ジュール・バスチードのもとで官房長官をしていた。プロイセン領ポーランド国境地帯におけるロシア軍侵攻状況の情報収集をしてくれるように密かにナダールに依頼するのだった。

ナダールはポーランドに入り、バルト海沿岸からダンツッヒ (今日のグダニスク) に滞在、ティルシット、ケーニヒスベルク (今日のカリーニングラード)、ベルリン滞在と2か月に及ぶ隠密行動だったが、ロシア警戒地域には軍隊が終結している様子はなかったと報告している。民衆を弾圧したカヴェニャック政権のために働くナダールは、政治的立場より血沸き肉躍る所ならという生来の活動欲求の方が強かったのではないかとは石井さんの弁である。あるいは、ポーランドのためになるならという気持ちもあったのかもしれない。

 

文士かカリカチュリストか

ナダール ボードレールの肖像 1855

文士生活

時は、少し戻ります。ボヘミアン生活をしていた1843年頃、ナダールはボードレール (1821-1867) と出会う。二人とも20代の前半だった。ナダールは後に出会った時の様子をこの様に回想している。

「エナメルの長靴の上にぴんと伸ばした黒いズボン、皺が新しくこわばった車引き用の青い上っ張り、そして自然にカールした長い黒髪だけが頭を覆い、まったく糊のついていない鮮やかな布地の白い袖口を着け、鼻の下と顎には髭が何本か生えかかり、真新しい薔薇色の手袋をはめている。こんな服装で、帽子もかぶらずに、ボードレールは自分の住む区域や町中を、猫のように少しぎこちない、神経質な、と同時に鈍い足取りで、まるで卵を踏みつぶすのを避けるように、舗石のひとつひとつを選びながら歩き回っていた。(『シャルル=ピエール・ボードレール』フィガロ紙 石井洋二郎 訳)

その後、ナダールは小説を書き始める。『デーイアネイラの衣』はボヘミアン生活をしていた若者が、不幸な結婚をした婦人とある事件を契機に恋愛に向かうという風俗小説で、他に『私が学生だったころ』などがある。後にもいくつか作品は書いているようだ。石井さんによれば、写真家としての名声がなければ、一流小説家にはなれなくても19世紀フランスの文学史の一角に名を残すくらいの小説家にはなれたのではないかという。

 

カリカチュアへ

ナダール ネルヴァル(1808-1855)の肖像画と写真

年の離れた友人であるネルヴァルの紹介で、日刊紙『ジュルナル』の三面記事を担当するようになったナダールは、ジャーナリストして雑文は書き続けたが、創作活動は中止、1844年頃には出版物の表紙に自分の絵を載せるようになり、急速にカリカチュアの世界に目覚めていった。

1847年には、『ジュルナル・デュ・ディマンシュ (日曜新聞)』に文芸家100人の肖像を描く「文芸家たちのギャラリー」を発表。‥‥が、途中廃刊となり59人で終了。この年、シャルル・フィリッポンが主催する、権力の弾圧に屈しないことで著名な風刺新聞『シャリヴァリ』に挿絵が掲載されるようになる。ドーミエやガヴァルニ、ジルらを擁していた新聞だ。そこの画家であることはステータスだった。しかし、器用な男だ。

1848年、二月革命後、ルイ=ナポレオン・ボナパルトが第二共和制大統領に就任。その年から翌年まで『真面目な人々のための滑稽雑誌』にルイ=ナポレン批判の「お笑い皇太子の肖像画大コンクール展」、続いて日和見主義者を揶揄する「レアック氏の公的私生活」などを発表。

1850年には借金が原因で投獄される。ちなみに、翌年の1851年にはクーデターによりルイ=ナポレンがナポレオン3世として即位し、第二帝政が開始される。‥‥で、相変わらずお金はない。それでか、『パンテオン・ナダール』という予約版画を思いつく。74cm×105cmという大判石版画で4枚セットで約3万円の値をつけて予約を取った。登場人物はおよそ1200人。‥‥が、問題は1200人もの人間をどうやってモデルになってもらい、描くかだった。それで主だった文士や友人にこう手紙を出した。

「このギャラリーにあなたも加わっていただきたいのですが、私としてはそのために1200人のお宅を訪問しなければなりませんので、一回分を節約できるように、まことに恐縮ですが、できるだけ早く、ノートル=ダム=ロレット街十八番地の私のアトリエにお立ち寄りいただけないでしょうか。ほんの二分から五分くらいポーズをとっていただければ済むと思いますので(石井洋二郎 訳)」

付き合いの広さが功を奏したのだ。それにナダールの弟のアドリアンは写真の技術を習得していて、おそらく訪問して来た人の何人かは写真も撮ったのではないか石井さんは推測している。しかし、完成したのは4枚の内1枚だけで、あまり売れなかった。

ナダール 『パンテオン・ナダール』 1854年 
左下の白い胸像はジョルジュ・サンド、その右下はユゴー 『フィガロ』特別贈呈版

 

写真技術と写真芸術

写真技術は、粉塵爆発を応用した内燃機関を開発したことで知られるニセフォース・ニエプスによって開発されたが、露光時間が8時間以上を要した。その後、「見えていたものが見えなくなる」「見えないはずのものが見える」part1 伊藤俊治『見えることのトポロジー』でご紹介したダゲールとが共同で改良に努めるのだが、ニエプスの死によってダゲールがその技術を単独で発表することになる。銀メッキした銅板を感光させるが、最終的に露光時間を2分くらいにまで短縮した。その後、イギリスのタルボットやアーチャーらによって改良され、一つのネガから複数のポジが得られ、露光時間も1,2秒と短くなった。

デイヴィッド・オクタヴィアス・ヒル(1802-1870)
『籠を持つニューヘブンの漁村の女たち』1843-47

驚くべきことだが、ヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』の中で写真の最盛期は、ヒル、キャメロン、ナダールたちが活躍していた最初の10年だったというのである。写真家ヒルが撮影したこの漁村の女の写真には何か新しい特異なことが起こっているという。彼の技量の証しというだけでは割り切れない何かが。そして、現実がその映像の性格をいわば焼き付けるのに利用した一粒の偶然を凝縮した時空を探し求めずにはいられないという。

ここには、芸術としての写真が我々に考えさせる何かがあるのだ。ナダールは、写真理論なら1時間で、撮影方法の初歩なら1日で学べるという。学べないものは「光の感覚」であり、もっと学べないものは自分の主題を精神的に理解するすべであるという。モデルと心を通わせ、相手の性格に応じた習慣に近づき、その考えの中にまで入り込むようにあなたを仕向ける、そのような最も馴染み深く最も好ましい内面的な類似をもたらすのは、あの瞬間的な直感だというのだ。それが写真の心理学的側面だというのである。

ベンヤミンが写真に、撮影者の意図を超えた何かが表現される可能性を見ていたのに対して、ナダールは被写体としての人物の内面への共感が直感されることを重視していた。この差は興味深い。

ナダールと息子ポール撮影  ヴィクトル・ユゴーの死

親友のボードレールは、写真が芸術の代行をするようになれば、芸術の地位を奪うか、完全に堕落させるだろう。群衆の自然な同盟によって、その愚昧は明らかにされるだろう。そして、諸科学や諸芸術の下婢 (はしため) としての義務を果たすべきだ。印刷術や速記術は文学を創り出しもしなければ、その代行も果たせなかったではないかという。なかなか手厳しいが、ナダールには、ちゃんと何枚か写真を撮ってもらっている。

 

 

パリの上と下

オノレ・ドーミエ(1808-1879) 
気球から撮影するナダール

天空世界へ

1828年か29年頃、10歳になる前のことだ、ナダールはパリのシャンゼリゼ通りを両親と歩いていた。すると上空をものすごいスピードで気球と吊り篭にしがみついた人間が、通り過ぎていった。みんな尾を引くような喚声をあげながら、この落下物を追いかけていった。これがナダールの気球初体験だった。

1855年のパリ万博で弾みをつけたナポレオン3世はオスマンによるパリの大規模な都市改造を進行させていた。そのような中、気球製作者で飛行家のウジェーヌ・ゴダールの弟のルイから気球に乗らないかと誘われた。万博の3年後、ナダールは初の気球写真に野心を燃やして、何度もの失敗の後に撮影に成功するのだった。ついに、空まで飛んだのだ。

1861年、ナダールはキャピュシーヌ大通りに人工照明による撮影も可能な設備を持った四階建ての華麗なアトリエを完成させ、引っ越している。借金は膨大な額だったという。後に気球に関わるさらなる出費のために資金難となったナダールは、別の場所のより小規模なアトリエへと移るのだが、まだ所有権を有していた1874年に、第一回印象派展にこのキャピュシーヌ大通りのアトリエを提供した。美術史の上でも著名な建物となった。

地下世界に潜入

人工照明による撮影は、ナダールに地下世界への興味を湧き立たせた。今度は地下世界へ下降するのだ。パリは周辺地域から採石されて建てられた石の街で、中世には縦横に地下回廊が走っていた。町が周辺に拡大するにつれ、華やかな地上世界とは異質な地下世界を抱えるようになる。そこは、犯罪者の隠れ家、酒税逃れの酒運搬の径路となっていた。18世紀には地下の空洞のために道路の陥没が起きる。一方で、市内の墓地は収容能力の限界を生じはじめたために地下が納骨堂として使われるようになるのである。

ナダール パリのカタコンベ 1861

パリのカタコンベはこうして生まれた。この納骨堂は1810年から11年にかけて整備され、一般に公開されて、怖いもの見たさの大繁盛となった。ナダールは1861年頃、ここに電気照明設備を持ち込んで撮影しているのである。ちなみにカタコンベに電気が通ったのは1983年のことだった。

14世紀にはパリに最初の下水道が作られる。しかし、道路の中央下を走っていた排水溝はすぐに詰まってパリは長く泥と汚水に悩まされた。その後は、遅々として進展しなかったが、ナポレオン1世のもとブリュヌゾーによる調査が行われ、全長25キロの下水道が整備されセーヌ川にそそいだ。その調査の様子は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』に述べられている。

そして、続くオスマンによるパリ改造時に、ウジェーヌ・ベルグランは市内の全域に排水溝を整備するとともに郊外に汚水処理場をつくり、垂れ流していた汚水をそこに引いた。『レ・ミゼラブル』に刺激されていたナダールは、1862年にブリュッセルでの出版記念パーティーで、1851年のルイ=ナポレオンのクーデター以来、国外に逃れていたユゴーと初めて会っている。

ナダール パリの地下道 1864

1864年の秋にベルグランに許可を得たナダールは地下道を撮影しているのだが、ジャン・バルジャンが乗り移ったのではないかと思わせるような言葉で、その時の様子を後にこう語っている。

「円天井は、凍るような雫を間断なくぽたぽた落としながら、ますます低く迫り、両側の壁はいっそう窮屈に狭まっていく。‥‥特に水平に渡された太い柱は、ぬるぬるとして腐食した鉄が錆びの涙を流しているのだ。運搬者たちの長靴は、浸水した歩道の上で、恐ろしい液体につかってびちゃぴちゃ音をたてている。通路は下がる、さらに下がっていく。水位は上がってくる。運搬者たちは膝の上まで水につかり、やがて腰まで沈みながら、なおも走り続ける。周囲ではすべてがあふれ、しぶきをあげ、流れ落ち、したたり、しみ出してくる。完全に悲惨な状態になってしまった。あたりを漂うむっとする瘴気で、ランプの灯は青ざめて力を失い、ほとんど消えかかっている‥‥(石井洋二郎 訳)

 

夢は天空を駆け巡る

1863年ジュール・ヴェルヌが『気球に乗って五週間』を発表した年、元海軍将校で文筆家となっていたギョーム・ジョゼフ・ガブリエル・ド・ラ・ランデルがナダールを訪ね、空中自力飛行についての熱い思いを語った。元ボヘミアンのナダールと元海軍将校では反りが合うはずもないのだが、ナダールは彼の熱意にほだされて協力を請け負った。石井さんはこれを「異床同夢」だと面白がっている。

ナダールは「空気より重い機械装置を用いた空中飛行推進協会」の設立に加わり、自分の写真館で発足記念パーティーを開いた。ポントン・ダメク―ルは小型ヘリコプターのデモンストレーションを行い、ナダールはマニフェストたる「空中自力飛行宣言」を読み上げた。飛行機を実現させるためには資金がいる。そこでナダールは、入場券40万枚を刷って人々を集め巨大な気球を飛ばすことにした。その名も『巨人号』。しかし、1回目は4時間半、わずか40キロの距離で13名を乗せたゴンドラはパリ郊外に不時着した。

ナダール 気球『巨人号』1864

失敗にも懲りないナダールは二度目の飛行を試み、ブリュッセルまで飛ぶも、またもや不時着。ナダールも妻のエルネスチーヌも骨折のケガを負った。これは、気球を制作したゴダール兄弟との訴訟事件にまで発展する。直ぐに意気に感じて片棒を担ぐのだが、痛い目にばかり合っている。そうこうしているうちに、1870年、スペイン王位継承問題で普仏戦争が勃発、ナポレン3世は捕虜となり第二帝政はあえなく終焉する。共和制が敷かれ臨時国防政府が発足するもドイツ軍はパリを攻囲した。そこで、共和制のためならとナダールは気球の軍事利用を提案、敵情視察や郵便物などの物資輸送を買って出た。しかし、翌年、フランスの敗北、その後、国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対してプロレタリアート独裁を掲げるパリ・コミューンが成立するも2か月後には鎮圧された。気球による膨大な出費はナダールにとって大きな打撃となり、コミューンの瓦解は深い失望をもたらしたのである。

 

職業の尊厳/ボードレールとナダール そして夢の所有

君も僕と同じく甘味な苦悩を知っているのか。
そして、こんなふうに言われるのか、「やれやれ ! 変ったやつだ ! 」と。
――僕は死ぬところだった。それは恋するわが魂の中で、
おぞましさの混じった欲望であり、特別な苦痛だった。

46歳の若さで亡くなったボードレールは『悪の華』の中の詩、「好奇心の強い男の夢」をナダールに捧げている。一方、ナダールはボードレールに対してこのような言葉を残していた。

「ボードレールの人生は、ジェラール・ド・ネルヴァルのそれとともに、文学者にとっては職業の尊厳を物語る二つの例として残ることだろう。二つの美しい――ただし何の役にも立たない例として。(フィガロ紙 1867)

確かにナダールは「変ったやつ」だった。興味のある事なら何でも飛び込むし、そのスケールも並ではなかった。だが、その職業に対する倫理観はボードレールやネルヴァルのように見上げたものだった。それは、彼の回想録『ナダール 私は写真家である』を読んでいただければわかる。写真の出来が悪いと例え200フランという大金を積まれても写真を渡さなかった。貧しい駆け出しの何もかも足りなかった時でさえも。

ナダール セルフポートレート 1860年頃

スーザン・ソンタグは、その傑出した『写真論』の中で「写真を撮ることは写真に撮られるものを自分のものにすることだ (近藤耕人 訳)」と述べた。写真は近代国家が人口を監視・統制するための有用な道具にもなったという。だが、筆者の石井さんは、撮影者が被写体を撮影する時、撮影者によって切り取られた被写体の姿は、被写体をそのように切り取った撮影者の眼差しでもあるのではないかという。そして、写真を撮られる側も、自らに差し向けられた撮影者の空間的・時間的選択の身振りを捉え写真の中に投射しているという。そこには撮影する側、される側の双方向の所有がある。

彼は自分の夢を所有し続けようとした。それは、自分自身が自分の夢に所有されることであったかもしれないのである。彼はこう述べている。

―― 私が夢を見ているなら、もっと夢を見させてほしい ―― だが、私を目覚めさせることなどできるものか !

 

 

付 ナダールが撮影した肖像写真 僕の好みで

ナダール  アンリ・ファーブル(左)とジュール・ヴェルヌ(右)の肖像写真

 

引用文献 及び 参考文献

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』「写真小史」掲載

小倉孝誠『写真家ナダール 空から地下まで 十九世紀パリを活写した鬼才』 2016年
良くまとめられてナダールが紹介されている著書。図版も充実している。

大野多加志・橋本克己『ナダール』 1990年
ナダールのコメントを紹介しながら写真集の体裁をとった本。コンパクトに良く出来ている。

スーザン・ソンタグ『写真論』1979年
本格的な写真論の一つに挙げられる著書。