エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和

 

エリック・アリエズ マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』

タイトルは「戦争と平和」ではなくて「戦争と資本」なのだ。何故だろう。戦争と信用こそ、資本主義における戦略的武器であり続けていると筆者たちは言う。ミッシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランスの最初の講義(1970~1971)で、通貨制度は、商業や取引、金儲けを理由に説明できないと述べた。これが、聴講者にとって驚天動地だったのか、青天の霹靂だったのかは分からない。少なくとも本書の著者たちにとって新たな啓示となったであろう。

富と権力の等価性を保証・維持する手段としての出自を持つ通貨は、やがて植民地化と内戦を催す手段となる。本書は、軍隊と戦争が、政治的な権力組織と資本の経済サイクルを統合する構成要素であることを明らかにしようとする。それは「資本の戦争政策としての経済学」なのである。

「真の戦争機械は金融化である」これを理解できなければ、我々は戦争機械の犠牲になるばかりだろうとエリック・アリエズとマウリツィオ・ラッツァラートは述べる。彼らフランスのインテリたちにとって、1968年は特別な意味を持っていた。あの奇妙な5月革命と筆者たちが呼ぶ事件。その後の反革命を分析すること、それが本書が生まれる背景であったかもしれないのである。

「資本主義の新精神」、資本主義のプロセスを推し進めようとする「加速主義」、思考と存在物の相関にしかアクセスできないとする「思弁的実在論」といったものが、「メイドイン68年」の恣意的批判に由来すると彼らは考える。この68年の思想的限界と対決するための彼らの武器が『戦争と資本なのである。しかし、彼らのこの情念は、我々市民革命など経験したことのない国民には理解を超えるものであるかもしれない。

 

マウリツィオ・ラッツァラート(左)とエリック・アリエズ(右) 『戦争と資本』より転載

著者の一人、マウリツィオ・ラッツァラートは、1955年イタリア生まれ。パリで活動してきた社会学者。1970年代にイタリアを中心に起こったアウトノミア運動に参加している。学校・工場・街頭などでの自治権の獲得を目指す左翼運動だった。パリに亡命し、非物質的労働、労働者の分裂、社会運動の研究を行い、非常勤芸能従事者 (フランス政府の保険によって守られた芸能者) 、不安定生活者などの活動に参加した。アントニオ・ネグリらと政治思想誌『マルティテュード』の編集長を務めている。また、ガブリエル・タルド研究の第一人者で『タルド著作集』の編集者の一人である。著書に『出来事のポリティックス』『<借金人間製造工場』がある。

エリック・アリエズは、1957年生まれの哲学者。ジル。ドゥルーズに師事した。パリ第八大学教授、及びキングストン大学 (ロンドン) 客員教授を務めている。国際的に広く知られたドゥルーズ学者と言われている。ウィーン美術アカデミーで教鞭を執ったこともあり『マティスの思想』といった著書もあるようだ。知らなかった。彼もまた、『タルド著作集』の編集者の一人である。邦訳のある著書に『ブックマップ 現代フランス哲学――フーコー、ドゥルーズ、デリダを継ぐ活成層』がある。

ラッツァラートはどちらかと言えば、ガタリの方に、アリエズの方はドゥルーズにより近いと言われるが、二人ともドゥルーズとガタリの研究者で、タルドの思想的な末裔たちと言えるのも面白い。ぼくは、本書に興味を持ったのは、タルドの社会学が、どのように実践されていくのか興味があったからである。

 

通貨と政治権力


ペルシア兵(左)と古代ギリシアの重装歩兵(右) 前5世紀
兜、盾、胴、脛当てで重装備の防御を施した歩兵

通貨の起源

フーコーは通貨制度の歴史的起源、それは古代ギリシア通貨を指しているのだが、それを商取引ではなく、新たな権力とに結び付けた。時の権力は、「重装歩兵」という新型の戦争機械の独占を図る。それは「重装歩兵革命」と言うべきもので、軍事的にも社会的にも大きな影響をもたらすことになった。この戦争機械を担ったのは、都市の防御に必要な小農民たちであって、戦争の英雄像たる貴族戦士ではなかった。行政の最小単位であるデモスに所属する「人民」は、戦士として育成されることによって最大多数が戦闘に参加可能となり、強力な戦闘力を持つようになる。

彼らは、相互扶助、集団の規律などによって、ある種の同質性を持つようになると兵士=市民としての平等を要求し、「階級権力」の維持のために彼らを利用しようとする者たちへ矛先を向ける可能性が生まれてくる。著者たちは、この問題の現代性を強調するのである。

前7世紀から前6世紀にかけてのコリントスにおいて、キュプセロスは重装歩兵団の元兵士たちの支持によって僭主の座につく。彼は、政治的な思惑から軍事力を経済的に統制するために通貨利用を思いついた。負債を持つ農民層である貧民層に、負債を帳消しにすることなく限定的な土地の再配分を行い、富裕層にはその財産の10分の1を天引きにし、その一部は直接、貧民に再分配され、、一部は「巨大建設事業」とそのための職人への前払いに使われる。この経済循環は、貧民に分配された資金を再分配された土地の補償金などとし富裕層の懐へと逆流させ、富裕層には租税を現金で支払わせるというシステムになっている。それは「通貨の流通ないし循環」と「富と兵役の等価性」を保証する制度だった。ひいては、有産階級の所有制度と権力保持を維持するための制度でもあったのだ。

リュディアのエレクトロン硬貨
前7世紀に小アジアのリュディアで製造された世界最古の硬貨。前6世紀にはコリントでも通貨が造られた。

こうして、通貨は政治権力の新たな形態の中から登場する。彼らが「所有制度や負債・返済のメカニズム」に介入し、筆者たちが言う「戦争機械の領土的制度化」=再領土化を保証するものとなるという。

領土化・脱領土化・再領土化

ドゥルーズとガタリは『アンチ・オイディプス』の中で、再領土化などについて述べているので、それをご紹介する。彼らは、国家を「原国家」「専制君主国家」「資本主義国家」に大別する。原始的な国家の身体を土地と表現すれば、これらの国家の社会体 (社会機械の形態として、それぞれ「大地の身体、「専制君主の身体、「貨幣の身体を割り当てることができる。

ジル・ドゥルーズ(1925-1944)& フェリックス・ガタリ(1930-1992)
『アンチ・オイディプス』

原始土地機械が動かなくなれば専制君主機械にとって替わられるが、それが「原国家」から「専制君主国家」への移行である。同様に専制君主国家から、資本主義国家が打ち立てられる。「専制君主の身体が脱領土 (土地) 化されることによって新たに資本主義身体 (機械) が生みだすされるのだ。それは同時に、再領土化を激しく受けることになるので、 脱領土化 (脱コード化)と同時に再領土化 (再コード化) といた二重運動の中に置かれることになる(「第一章 欲望する機械」

従って、領土化とは、「貨幣の身体といった社会的身体=社会機械を形成するということになる。だとすると脱領土化は、身体の解体、再領土化は身体の再生ということになるだろう。しかし、彼らはデカルトかデュシャンの末裔なのか、何でも機械にしてしまうだ、それは、欲望によって、微細に繋がったあらゆる流れの中で連動する生産機械で、コード化される。つまり制度化されるのである。

通貨と権力

フーコーは、通貨の所有が権力を生むのではなく、誰かが権力を握ったからこそ通貨は制度化されたというのである。通貨は、その起源が商業であるといった、単純な経済的「資本」ではない。通貨の役割は、社会における富の再分配であることよりも、権力の座を拡大再生産することにある。通貨こそ、政治以上に、富裕層と貧民との内戦を継続させる要因となる。通貨は万人の在り方を変え、貴族、戦士、職人、賃金労働者といった階級の分断を生みだし、かつ、再生産し、内戦の火種を恒常的に煽るものだったのである。ここが、押さえていてほしい第一の点です。

重装歩兵の共和国という初めての平等主義と通貨による計量単位による支配は同時に生まれ、通貨を通じて権力を奪取し戦争に勝利するという、いわば通貨戦争を行う権力によって経済は初めて政治的なものとなった。都市=ポリスで潜在的につねに戦争状態にあった貧民と富裕層との闘争の時代以来、諸革命の歴史が浮き彫りにするのは「通貨制度」と「新たな権力形態」との関係がもたらす政治の「原風景」なのである。

 

植民地とプロレタリア化


カール・マルクス (1818-1883)  1865

本源的蓄積と脱領土化

マルクスは、資本主義が生み出した脱領土化の二つの力を挙げる。一つは信用・公的債務で、資本の信仰宣言と言うべきものであり、もう一つは、征服戦争、つまり新世界の「処女地」を侵略し領有化する暴力だったという。植民地主義は、資本主義が生み出したという観点です。これが押さえておいてほしい第二の点。

農民が土地から追い出され、賃金で働く労働者が生まれると同時に、この植民地政策、奴隷貿易、公的債務などでの利益が資本に転化される。これが、本源的蓄積呼ばれるものである。それは生産者と生産手段の分離であり、全地球的脱領土化と呼ぶべきもので、グローバリゼーションの中であらゆる存在を支配し、商品化するプロセスを巧みに追及するという。

国内生産を支える村などの共同体の破壊、食料生産の放棄、農園の摂取によって生じた民衆の貧困化は、彼らを賃金生活のための規律訓練へと送り込む。それはエンクロージャー、土地集中、土地所有者の再編を伴っていた。そして、いわば、人間関係のエンクロージャーとして女性の蔑視と魔女裁判が指摘され、より大きなファクターとして専業主婦化が挙げられる。ドイツの社会学者マリア・ミースの言うように男性がプロレタリア化するためには女性を主婦に変える必要があったというのである。

この脱領土化的な破壊は、文明化された貧者たちや、植民地化された国の人々の生活の物質条件のみならず、彼らの宇宙観、神話などの実存的な領域や価値観の世界といった主体的な生活にまで及んだ。それは、国家間の戦争のように敵を「解体する」というより、人々の振舞いや行動の形態を資本の蓄積とその再生産の論理に適応させるという主体性の「転換」となった。

世界市場の継続的破壊/創造

ローザ・ルクセンブルク (1871-1919) 
ポーランドに生まれ、ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家

マルクスの言う本源的蓄積は、一度きりのものではない。最新の生産プロセスによる「取引」を隠れ蓑に征服と接収の現代版が、金融資本主義によって進められているという。それは、金融資本を原動力とした新たな植民地化となった。資本主義にとって帝国主義は、選択の余地のないものになっていったのである。ドイツで活躍したポーランド生まれのマルクス主義政治理論家であったローザ・ルクセンブルクが、本源的蓄積は、同時代的現象であり、20世紀においては帝国主義という形で継続していると既に指摘している。

しかし、現代のグローバル化は、第三世界」からの略奪と同様の形で、暴力、詐欺、弾圧、戦争などの形をとって北の賃金労働者に対しても行使され、資本主義は益々その恩恵に浴すことになる。本源的蓄積は、イギリスの地理学者デヴィッド・ハーヴェイにとって「下層階級に対する暴力」であると同時に、技術革新や組織改革の巨大な潮流へと社会を開く肯定的側面を持っている両刃の剣だった。「資源の所有者」からの剥奪、賃金労働からの搾取、戦争、暴力、略奪と実体経済とが比類のない形で共存しているというわけだ。しかし、筆者たちは、「搾取による蓄積」と「剥奪による蓄積」との区別が回避されているために問題があり、経済の戦争は経済内部の戦争であるという観点が無視されているという。

哲学者ハンナ・アーレントは、マルクス主義者ではなく、それゆえ資本の進歩主義については語ろうとしなかった。その代わり19世紀植民地戦争から20世紀の総力戦までの帝国主義を決算する。1870年あたりから始まる大不況はブルジョアジーに純然たる略奪という原罪を否が応でも意識させた。この原罪こそ本源的蓄積を可能にし将来の蓄積を誘発するものだったという。その突然の死を見たくなければこの先もそれを繰り返さざるを得ない。それは、本質的に自転車操業なのだ。誰しも感ずる資本主義への不安はここに根差しているだろう。資本家生産者たちは、彼らの生産システムの形態と法則は「その初めから全地球規模で計算されていた (ローザ・ルクセンブルク) 」ということを気づいた。

 

拡散する戦争機械


内戦化する戦争

レーニンは、第一次大戦のマトリックスが植民地にあると考えていた。「肥え太った奴隷所有者同志が奴隷制を維持し悪化させるために起こした戦争」と述べたのである。この大戦は、植民地化された人々が帝国主義と資本主義に対する闘争に入る、世界にとって重要なメルクマールであるとも述べるのだった。ロシアは2月革命、10月革命へと突入。ドイツでは、ヴィルヘルム2世を退位させたベルリン革命が起こり、極東でも革命運動に入っていった。

やがて戦争と生産とは、ない交ぜにされていく。資本は総力戦の第二のマトリックスとなるのだ。この総力戦は戦争のみならず、何よりも諸産業の戦争、労働戦争、科学技術戦争、情報・通信戦争となる。「生産」という視点から見れば、「総力」という語が指示しているのは、資本を再組織化させる戦争経済に社会全体が従属することであるという。敵の打倒という軍事目標は、無制限化し住民とその環境を壊滅させることとなるのである。総力戦という新たな体制は、ついに「平和を軍事化するよう要求する」ものとなるのである。ここも大切な第三の点です。

ドイツの法哲学者カール・シュミット (1888-1985) は、植民地の住民に対する「小戦争」が総力戦の最初の形態であったこと、そして、内戦と植民地戦争という二種類の戦争はパルチザンという観点からは特別重要であり、ある意味類似しているという。ナポレオン占領軍に対するスペイン人民軍の戦いは最初のゲリラ戦と言われる。19世紀、アルジェリア民族運動の父と呼ばれるアブド・アルカーディルのフランスへの抵抗運動は有名なものらしい。シュミットは、西洋の資本主義と東洋のボルシェヴィズムがヨーロッパ国際法による国家間戦争を世界内戦に変容させ、戦争をグローバルな全面的現象にしたという。アルカイダもISISも淵源はここにある。

植民地戦争は、「政府」と名乗る支配的な実体との戦争ではなかった。万人そして各人を相手取る戦争だった。この性格故に植民地戦争は、戦争の進化の歴史的母型となったという。総力戦が「脱文明化」のプロセスと呼ばれるものの中で捨て去った、戦争と平和、正規軍と非正規軍、軍人と民間人の区別は、植民地ではもともと通用していなかったのである。

プロイセンの軍人であり、軍事学者だったカルル・フォン・クラウゼヴィッツ (1780-1831) は、『戦争論』の中で、戦争は他の手段をもってする政治の継続であると述べた。全く政治の道具であり、政治的諸関係の継続であるという。「戦争とは、ペンのかわりに剣をもって行う政治である」というわけだ。マルクスもエンゲルスもすべての戦争を列強政治の延長と考えていたし、階級闘争は戦争の真の原動力となるはずだった。それゆえ、レーニンは階級闘争を絶対化したのである。最初の帝国主義戦争の後、極東は決定的に革命運動に入る。これについて、ハンナ・アーレントは「世界戦争は革命の帰結として、地球全体に広がる、ある種の内戦として登場した」としてシユミツトと説を同じくしている。こうして、世界はグローバルな内戦へとむかうのである。

 

ファシズムと冷戦からグローバル戦争へ

アーレントは、全体主義の研究に生涯を捧げたけれど、ファシズムについて、こう述べている。それは、自身を加速すること以外のゴールを持たない絶対的破壊の運動だと。ドゥルーズも、行先も目標もない総力戦の純粋に破壊的な運動だとアーレントと説を等しくしている。ファシズムの戦争機械が国家装置に対してある種の自立性のようなものを持っていることから、ファシズムは国家装置とは言えないと規定した。この「運動のための運動」と「純粋破壊」は、殺す権利の一般化と強化をもたらした。ナチズムは、もはや破壊のためでしかない国家装置のシュミラークルを道連れに死んだとドゥルーズは言う。戦争に組み込むことが不可能な敵を無制限に破壊しようとしていたのである。

ベアトリス・ホイザー
『クラウゼヴィッツの正しい読み方』
戦略論、安全保障体制の研究者がクラウゼヴィッツの『戦争論』を語る。

戦略論、安全保障体制の研究者であるベアトリス・ホイザーは、クラウゼヴィッツについて述べた著書の中で彼の同僚であった、オーグスト・ルール=フォン・リリエンシュターンのこの言葉を引いてドイツや日本の戦略的誤りを指摘するのである。

戦争初期の一時的な優位や鮮やかな征服などは、もしそれが長期的な優位や征服に繋がらないのであれば、本来なら計算され尽くされ、数世紀に亘って確保すべき「国家の生存」にとってほとんど価値がない。そして、闘っている二国間の関係と同じくらい重要なものは、すべての文明国が多少は持っている政治的つながりやネットワークであり、一時的にせよ中立の立場をとっている他国の利害である(『クラウゼヴィッツの正しい読み方』)。

ついで、米ソの冷戦がやって来る。この冷戦は、「軍備競争」と呼ばれてきた。ローザ・ルクセンブルクは、軍事投資は生産力の発展とそれを吸収する市場能力の格差を調整することによって剰余価値の実体化という矛盾をコントロールし解消するという。ポーランドの経済学者ミハウ・カレツキは「完全雇用」は軍と戦争産業の賃労働者の巨大雇用のおかげで達成され、冷戦にせよ実戦にせよ、戦争なくして完全雇用はないという。そして、戦争への投資は、「科学研究」の発展とコントロールの主要なベクトルでもあった。ビッグ・サイエンスは軍事と産業の結合線でもあるという。

冷戦は、あの時期、あの期間に限定されたものではない。およそ戦争なるものは、直接経済的な戦略機能を果たすもので、冷戦は、そこに社会的なコントロール機能を付け加えただけに過ぎないと著者たちは言う。しかし、新たなパラダイムがやって来る。「住民の中で両陣営が戦う」という事態が起き始めるのである。軍事戦略家たちは、住民の中で生活し、身を隠し、増殖し自由で創造性のある敵と戦うことになるのだが、68年に結晶した反植民地主義、反人種主義、労働者、フェミニスト、エコロジストの闘争から姿をあらわしたグローバル化した内戦の力学から「現実的で過酷、恒常的な紛争の時代」と呼ぶべきものに足を踏み入れたことを認識している。テロ社会である。敵は非正規的であり、介入の唯一の方法は、内部に非正規兵のいる住民が生活している場所をコントロールすることとなる。これが大事な第四の点です。

1999年に中国空軍の二人の大佐、喬良と王湘穂によって『超限戦』という著書が出版されたようだ。その後のインタヴューで彼らは、こう述べている。今日、国家の安全保障を脅かす要因は敵国の一国家の軍事力ではなく「資源の領有、市場の獲得、資本のコントロール、貿易制裁といった経済的要因」であり、これら非軍事的武器の与えるダメージは軍事武器と等しいものになると。まさに、米中経済戦争が、していることが、それだ。一国のレベル、さらには地球規模で不安を生み出させる最も有効な手段は金融なのである。

この数か月で (本書の基になる講演は2014年~2015年に行われた)、輸出商品の外貨表示価格の引き下げを狙って10%もの平価切下げを数回行い、経済危機に瀕したタイとインドネシアの状況は軍事攻撃と経済封鎖の直撃にあったイラクと同じであり、ギリシアと超国家的な金融機関との紛争を「戦争」「植民地戦争」「占領」などと再定義することは単なるメタファーではないと筆者たちは言うのである。マウリツィオ・ラッツァラートの『<借金人間>製造工場』を翻訳した杉村昌昭氏は「訳者あとがき」の中でこう述べている。金融機関は、ギリシア国債を金融市場でおもちゃにしておきながら債務不履行の可能性が現れるとEUに公的資金の投入を働きかけたと。

 

戦争≒平和なのか


本書には、宗教戦争やスターリンの粛清や天安門事件については、取り立てて語られていない。訳者の一人、杉村昌昭氏が指摘するように本書は、「資本とリベラリズムの融合による支配に<敗北>し続けてきた<左翼思想/勢力>としての苦い総括の試み、そこからの脱出の試み」であったのかもしれない。しかし、資本主義とリベラリズムが支配思想として存在する世界への不安を人々が何かしら持っているとするなら、その不安は何処から来るかを鮮やかに教えてくれているのは、本書ではなかろうか。確かに、今、戦争は様々な分化した形態で諸国家の内外に遍在している。もはや、絵に描いたような平和など望むべくもないのかもしれない。そういった時代に、もう一度、戦争と平和とは何か問い直してみることは有益だろう。ハイデッガーはこう述べた。

「平和がいつ戻るのか? という質問に答えることができないのは、戦争の終りを見つけることが出来ないからではなくて、戦争が平和に通じるようなことはもはやないのだから、‥‥。この長期にわたる戦争はゆっくり進行するが、この戦争は昔ながらの平和に向かってではなくて、<戦争が戦争と感じられない、そして<平和がもはや意味も実体も持たないような、ものごとの状態に向かっていくのである。(杉村昌昭+信友健志 訳)」

 

引用文献 及び 参考図書

 

カルル・フォン・クラウゼヴィッツ
『戦争論』 1983年 徳間書店

ハンナ・アーレント『全体主義の起源』
第二巻 帝国主義

マウリツィオ・ラッツァラート
『<借金人間>製造工場』
我々は金融資本主義によって生まれながらに負債者とされる。未来をコントロールする手段としての「負債」を語る著書。