柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛

 

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

トマス・アクィナス (1225頃-1274) は、神学・哲学の巨大な総合体系を打ち立てたことであまりに有名だった。そのイメージは、いかにも痩身痩躯の学者肌の人と思われがちだけれど、肥満ぎみで、かなり巨体であったらしい。大きくて重い牛のような人物であったというから不思議だ。悠然としていて、穏やかで物静か、聖なる謙虚とは別に内気で、快活だったが社交的というわけにはいかなかった。時々訪れるけれども秘めていた脱魂・恍惚状態とは関係なくボンヤリしていたという。これに対して聖フランチェスコは、火のような人間で、せかせかし、突然姿を現すと、そこにいた聖職者たちは、皆、彼を狂人だと訝ったという。

トマスは、規則正しく授業に出席したが、とてもノロマだったので、学校の生徒たちは彼のことをうす馬鹿だと考えていたらしい。イギリスの作家であるギルバート・キース・チェスタトン (1874-1936) のトマス伝は、なかでもエピソードに溢れているものらしいけれど、トマスは「歩く酒樽」であって、その食卓は彼が坐れるように半月形に切り抜かれていたという。本書の著者は、こう付け加える。情熱的で詩を愛しながら、書物にあまり信用を置かなかった聖フランチェスコとは対照的に、彼は書物を愛し、書物によって生き、この世の与えるどんな富よりもアリストテレスとその哲学に関する百冊の書物の方を選んだ。神に対して何を感謝するかと問われて、彼はただ、「今まで読んだ書物のすべての頁を理解できたことです」と答えた。著者はこのように紹介するのである。これは、素晴らしい。

『トマス・アクィナス』
ヨース・ファン・ワッセンホフ画 1475

アウグスティヌス以来、長らく貶められていた自然世界の復権>、いいかえれば超自然的秩序から自然的秩序を相対的に自立させることをトマスは図ったと著者は言う。理性的被造物である人間の織りなす社会的、政治的営みが展開される位相とは、まさにこの自然的秩序=自然的世界においてだが、彼は政治や国家についてあるべきイメージをそこに、どう描いたのか、それを考察するのが本書の主題であるという。

今回は、この柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』を二回に分けて、ご紹介したいと思っている。何よりも本書の前半は、トマスの生涯や思想に関して、よく纏められた、極めて充実した内容が紹介されていて、僕には、とてもありがたかったからである。というのも、トマスの著作の多くは、聖職者や信者さんが書いたものが多く、やはり、信仰には<信>というものが前提にあるから、僕のような不信心者には相応しかろうはずもなく、内容も<知恵の探求>や<神の愛といった、いわば宗教的な核心を為すものがほとんで、ハードルが高すぎたということがあった。そういう意味でトマスの政治理念といった、いわば現世の問題を扱う本書は珍しいと言える。

著者の柴田平三郎 (しばた へいざぶろう) さんは、1946年生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科、並びに同大学院法学研究科博士課程を修了された。法学博士で、中世政治思想史の研究で知られる。千葉商科大学や獨協大学で教鞭を執られ、獨協大学名誉教授でいらっしゃる。著書に『アウグスティヌスの政治思想』『中世の春――ソールズベリのジョンの思想世界』がある。この『中世の春』は薔薇物語の所で少しご紹介しておいた。訳書にJ.B.モラル『中世の政治思想』A.P.ダンドレーヴ『政治思想への中世の貢献』R.M.ハッチンス『聖トマス・アクィナスと世界国家』などがある。

 

トマスの生涯 


 

トマスは、1225年頃、ローマとナポリの中間にある都市アクィノ近郊のロッカ・セッカの城塞で生まれている。アクィナスの名前はこのアクィノに由来する。父は、そこの領主で、母はナポリ出身の貴婦人だった。男女合わせて9人とも12人とも言われる兄弟の末っ子だった。当時の貴族は子弟の教育を修道院で受けさせるのが慣習になっていたし、末の子は将来聖職者にと望まれたのであろう。ロッカ・セッカ近郊のモンテ・カッシーノ大修道院に修道志願児童として送られることになる。5歳のときである。このベネディクト会の大修道院の院長は、父の遠縁にあたるランドルフォ・シニバルドだった。

トマスがどのような少年時代を過ごしたかはよく分かっていない。伝記作者グイのベルナルドゥスによれば、無駄なおしゃべりを避け、孤独を好み、周りの子よりも早熟な態度を見せた。口数は少ないが、物思うことの多く、生真面目で黙想に専念していたという。ベネディクト会という観想修道会における濃厚な宗教的雰囲気の中で10年近く過ごしたことは大きな意味があったようだ。それに、この修道院は西ローマ崩壊以降、壊滅状態といってよかった古典の文化遺産を守り抜いていた唯一の場所だといわれている。

しかし、この地はもともと神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世が国王を兼務したナポリ・シチリア王国とローマ教皇領の接する地域で、その対立が激化すると、フリードリッヒ二世は派兵、占領し、他国出身の全ての聖職者を追放した。トマスはというとナポリの大学に入学することになる。1239年、14歳の時のことだったこの大学はフリードリッヒ二世によって設立された官僚養成のための最初の実学的大学といわれている。特筆すべきは、アヴェロエスやアヴィセンナの注釈のついたアリストテレスの著作が、盛んに翻訳されていたことだった。これは、再三に亘ってアリストテレス研究の禁令を受けたパリ大学と対照的だった。

フリードリッヒ二世は、ヤーコプ・ブルクハルトによって「王座に位した最初の近代的人間」と言われた人物で、4歳にしてシチリア王となり、フランス王フィリップ二世の支持によってローマ王となり、26歳頃に皇帝の座についた。中世の教皇庁が出会う最強の敵となった彼は、帝国の中心部をドイツからイタリアに移そうとしていた。古代ローマ礼賛の勢いはシチリアに及び、アラブ文化の愛好は周りの国々には異様に感じられたという。

第6回十字軍の中のフリードリッヒ二世
真中の赤いマントの人物 ドイツ、ヴァルトブルク城内のモザイク壁画

彼が没したのは1250年で、トマスが25歳の時だった。それは、ドイツに皇帝が不在となる大空位時代(1256-1273)をもたらした。この時期がトマスの後半生と重なるのである。教皇と皇帝との二中心の楕円的世界であり、中世が緩慢なカーヴを描いて解体へと向かう時期だった。この二つの権力構造は、イタリアをゲルフ党 (教皇派) とギベリン党 (皇帝派) という二つの勢力に分断する。この軋轢の中で陰謀に巻き込まれるのがダンテ (1265-1321) だった。

この後、19歳でドミニコ会に入会し、ケルン大学での修業時代(1248-52)となる。師アルベルトゥス・マグヌスのもとで本格的な神学の勉強を開始するのである。この時期に学友たちから<黙り牛>のニックネームがつけられた。しかし、師は、こう語ったという。「われわれは、この若者を黙り牛などと呼んでいるが、諸君に言っておく、やがて世界は彼の鳴き声で満たされるだろう。(トッコのグイレルムス『聖トマス・アクィナスの生涯』柴田平三郎 訳)。」

やがてパリ大学で教鞭を執った後、イタリアに戻り、オルヴィエト、ローマ、ヴィテルボなどに滞在し、パリに帰還、再びイタリアに戻ってフィレンツェ、ナポリで過ごし、フランスのリヨンで開かれる公会議に出席する旅の途中、生まれ故郷に近いフォッサノーヴァの修道院で亡くなっている。49歳だった。

 

トマスの時間


フリードリヒ・へ―アは、20世紀のウィーンに生まれ、カトリックの進歩的ジャーナリストだったが、歴史に対する独自の想いがあったという。それが、彼の『ヨーロッパ精神史』だった。オーストリア人であるアドルフ・ヒトラーの手先と闘う中で成長したという彼は、「ヨーロッパとは千年以上にもわたる一つの内乱」であると述べ、「新しい文明は、一切の人種、一切の文明が紛糾する只中で響く和音の中でしか、生きることができない」と述べたという。

この『ヨーロッパ精神史の八章には、13世紀の精神史を「トマスの時間」として、こう述べている。「フリードリッヒ二世がつくった最初の学校のあるナポリが、アヴェロエス主義から、次の世紀に『新プラトン主義的汎神論の影響下にあり、シチリア王シャルル・ダンジュールの支配となるまでの間に、トマス・アクィナスの生涯が横たわる。トマスの仕事は次のいくつかのことを前提としている。すなわち、<神聖ローマ帝国の皇帝に対するゲルフ党の教皇権の勝利、『啓蒙主義的な地中海君主の台頭、予言的な精神主義の衰え、乞食修道会同士の争いである。新しくできた大学はイスラム諸侯の宮廷で行われていた論争や対話の習慣を相続して、パリ大学は互いに非常に異なったキリスト教、汎神論、無神論、<自由思想>の学説と人物の対決する場所となった(『ヨーロッパ精神史』小山宙丸、小西邦雄 訳)。」これには、いくつかの解説が必要だ。

 

修辞から論理へ――スコラ主義

ヨハン・ホイジンガは、12世紀の知識人の言語・思想を羽ばたかせていた自由の世界は終り、スコラ学の領域に閉じこめられ、三段論法に縛られ、ドグマ的公式に立つ哲学的見解に押し込められる時代がやって来るという。しかし、まだ初期の頃は、ボナヴェントゥラやトマスの確固たる不動の体系には閉じこめられておらず、世界の姿、生活と精神の形式は、まだゴシック様式の中に結晶してはいなかったという文法重視の古典の味読と言語表現に心を砕く12世紀の人文主義とは決定的に異なる13世紀のスコラ学の精神、それを説明する場合、「三段論法」「ドグマ的公式に成り立つ哲学的見解」「不動の体系」といった言葉で特徴づけられ、マイナスのイメージを漂わせるものが多かった。

一方で、イギリスの中世史家、リチャード・ウイリアム・サザーンは、司教座聖堂付属学校で営まれていた文法と修辞学を柱とする12世紀の古典研究は、13世紀に入って新しい都市文化の中で活動する人々の関心を失い、新しい状況に応じる新たな知の場所である大学での論理と実証に重点を置く論理学研究が時代の主流になっていったという。それは、「修辞から論理へ」という言葉で表現される。アウグスティヌスの修辞学については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1 記号の発生と象徴=交換能力に書いておいた。

イエズス会のクラウス・リーゼンフーバー神父は、人間に対する尊厳、自然の秩序、理性の力といったものに対する価値の高まりを受けて、11世紀の後半以降に古典ラテン語文学の精神的価値が、次いで12世紀後半から13世紀半ばにかけてアリストテレスといった古代哲学の新たな意義が、見いだされるようになり、神学的<権威>と並んで哲学的な<理性>がクローズアップされるようになるという。ここで、神学は、内的な知恵の欲求よりも言葉によって伝達可能で論証上説得力のある知への欲求に駆り立てられようになるというのである。

 

パリ大学

『小鳥に説法する聖フランチェスコ』
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃-1337)画

先ほどのへ―アによれば、西方<自由世界>の教皇、諸侯らによる都市国家間の争いや大学管理者、教授、学生、市民間の中の絶えざる争いの中、大学は宮廷世界や知識階級における討論を引き受ける形で成立する。修道院学校、司教座聖堂学校が寄り集まってパリ大学はできた。人文学部、法学部、医学部、および神学部よりなり、中でもその中枢は<教区>司祭からなる教授団だった。そこは、パリ司教、教会、王侯、教皇庁のパリ機関といった諸力のせめぎ合いの場となる。

宗教的な新たな息吹を求める者は、乞食 (こつじき) 修道会に向かい、世俗的に心を動かす者は、法律研究に向かい、知識人たちは、人文学部に急いだという。1252年、このパリ大学に新たな修道会たる乞食修道会、すなわち、ドミニコ会やフランシスコ会の会士たちがやって来る。この年から乞食修道会と大学とは数十年に亘る争いを続けることになる。

かれら修道会士は、修道会長の命には従うが、大学の決定には従わなかった。つまり、大学という団体には何ら寄与しないまま、在俗教師の職と学生とを奪うことになるのである。このパリ大学にトマスがやって来たのは、この1252年という年だった。すぐ後に大学とパリ市当局の間で、司法権をめぐって争いが起こり、大学側はストライキに入ったが、その最中にトマスは、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の講義を行うといういわば、「スト破り」決行することになるのである。

ドミニコ会

『聖ドメニコ』
ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃-15126)画

乞食 (こつじき) 修道会は別名、托鉢修道会ともいう。13世紀初頭に中世初期からの既成の修道会の世俗化、富裕化に対する批判の中から生まれた。ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスティヌス会、カルメル会が知られている。

トマスはこのドミニコ会に入会するのだが、ベネディクト会の修道院長を親戚に持つ家族は猛反対し、入会を翻意させようとするが果たせず、ついに、最後の手に出る。トマスの部屋に美少女を送り込んで、彼を誘惑させようとするのだが、暖炉の燃えさしを振り回して部屋から彼女を追い出し、その燃えさしで壁に十字を描いたという逸話が残っている。

トマスの師であったアルベルトゥス・マグヌスもドミニコ会士で、アリストテレス受容に積極的であったし、錬金術師としても知られ、自動人形を作ったとされる興味深い人物である。トマスの死後、彼に異端容疑が、かけられた時にはケルンからパリまで出向いて弟子を擁護したという人だった。

上智大学で教鞭を執ったペトロ・ネメシェギ神父は、13世紀がトマスに影響を与えた三つの大きな要素についてこう述べている。12世紀からの経済的発展や生活様式の変化という社会的な要因、アリストテレス主義の流入と受容、そして、福音的信仰の復活の三つである。人々は従来の教会における権威主義的な教職制度に安住しなくなり、俗世から離れた修道者の修道態度にも好意を持たなくなる。そんな時、アッシジの聖フランチェスコや聖ドメニコの貧しい者たちの中で小さな兄弟として共にキリストの福音を生きるという姿は共感をもって迎えられるのである。

 

アリストテレス哲学の受容

イブン・ルシュド(1126-1198/アヴェロエス)
ラファエロの『アテネの学堂』に描かれた中央の人物

アリストテレス哲学の受容という問題に関して、フランシスコ会は頑なに保守的だったが、逆にパリ大学内の人文学部には、ブラバンのシゲリウスやダキアのボエティウスといった過激なアリストテレス主義者たちがいた。いわゆるラテン・アヴェロエス派といわれる人たちだ。彼らは、既存の教会から危険視されていた。

イブン・ルシュド、通称アヴェロエスはアラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの研究者として知られる人だった。このラテン・アヴェロエス派にたいしては度重なる禁令がだされ、ついに、パリ司教からの断罪が行われる。トマスがパリ大学に赴任して2年目のことだった。彼は、アリストテレスの原理を真なるものとして、真なるものであるが故に有用だと考えた。そのため、教会からも不信の目で見られ、一方で、大学内でもフランシスコ会からも危険視されることになる。筆者の柴田さんは、トミズムが13世紀中世におけるカトリック教会の唯一の正統的体系として見るのは誤りだと強調している。

一般に、13世紀後半以降のアリストテレスの影響が思想的な変革をもたらし、中世と近代との分水嶺になったと言われている。この<13世紀アリストテレス革命>は、アリストテレスの『政治学』の再発見にあり、その最大の功労者がトマスであるとされてきた。しかし、実際には12世紀に「もう一つのアリストテレス受容」といったものがあったと著者は言う。それは、キケロの影響による「政治的自然主義」と言うべきもので、相当な素地ができていたのである。ちなみに、悪寓の世界にいたアウグスティヌス(354-430)初めて知の輝きを知ったは、キケロの書によってであった。ゲインズ・ポウストは、『中世法思想の研究』で、12世紀ルネサンスにおいて、復活したローマ法の影響を受けた前期教会法学者デクレティスト、そして、カルキディウ、セネカ、キケロ、ウェルギリウスら古典作家たちの著作を通して、独特の自然理解を示したシャルトル学派のソールズベリのジョンやフランスで活躍したリールのアラヌスの中に「社会的、政治的自然主義」の展開を見出している。

中世史家マルティン・グラープマンは、トマスがアリストテレスを独自に研究し、アウグスティヌスと初期スコラ学によって科学的に叙述されたキリスト教的世界観と有機的に結合し、適度に修正されたアリストテレス哲学の方法と形式を借り、しかも教会的神学的伝統の体系を少しも離れることなく。哲学・思弁的神学の建設に一種のキリスト教的アリストテレス主義を創造したという。

 

トマスの神学大全


マリー=ドミニック・シュヌー(1895-1990)
フランス生まれのローマ・カトリックの神学者、改革派雑誌『コンシリウム』の創刊者の一人。

大全/スンマの来歴

神学大全とは「スンマ・テオロギアエ」の訳である。<テオロギア>は神学、<スンマ>には、「全 () 体」「要点」「頂上」「最高の地位」などの意味がある。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、「この言葉を創りだした12世紀の学校用語では、<スンマ>は、キリスト教教義の真理を提示することを目的とする<諸命題>(ないし何らかの一群の教義)の、簡単明瞭で総合的で完全なる資料集であるとしている。

しかし、トマス自身は神学という言葉は使わず『聖なる教え sacra doctina』というタイトルをつけている。

シュヌーによれば、サン=ヴィクトルのフーゴ―のものと見なされてきた有名な集成が、この意味における『諸命題のスンマ』であったという。中世フランスの神学者で唯名論の創始者として知られるピエール・アベラール (1079-1142) は、『神学への誘い』の中で、「三つの人間の救済の<要約 sunmma>として信仰、慈愛、秘蹟」を挙げている。12世紀の間に<スンマ>は、単なる語句の集成にすぎない「命題集」「詞華集」ではなくなり、学問の諸領域における主要な著述形式となって13世紀に引き継がれたという。

ススのヘンドリクスの『法のスンマ』、ロバート・グロステストの『哲学のスンマ』、ギョーム・ペローの『諸徳のスンマ』といったように知識や学問諸領域全般にわたって「簡潔明瞭な総合化」が求められるようになる。諸学のカタログ化が始まるのである。13世紀における最初の偉大な作品が、フランシスコ会士アレクサンデル・ハレンシスの『神学のスンマ』である。それはアリストテレス哲学導入以前の神学大全であった。

 

神学大全/聖なる教え

トマスが『神学大全』に着手するのは、一回目のパリ大学神学部における教授活動を終え、イタリア各地で教えていた時期にあたる。これが第一部開始時期である。パリ大学では、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』がテキストとして多く使われたが、無益な問題や論議の重複が多く、学問的な秩序もなく、同じ事柄の反復が多くて学生の倦怠や混乱の基になっていた。それを改めようとしたのである。全体の構造は、(一)神論(二)人間論 (三)キリスト論となっていて、それぞれのテーマは、以下のようになっている。

(一)神論/神自身と神からの万物の発出
(二)人間論/万物の中の理性的被造物としての人間が神へと帰還していく運動
(三)キリスト論/神のもとへと帰還していく道であるキリスト

論の進め方は、幾つかの権威の提示としての ①異論、それに対する他の権威の提示 ②反対異論、両者の調和的解決 ③主文、異論に対する個別的な批判 ④異論解答となっている。これは、スコラ学の講義形式に沿ったものだと著者は指摘している。

神学大全』の第一問題は、以下のように十項からなっているが、今は、論の進め方の例として第一項のみを柴田さんの解説から見てみる。

第一問題(全十項)
聖教について――それはどのような性質のものであるか、またその及ぶところの如何。

一 この教えの必要について
二 それは学であるか
三 それは単一な学か、それとも幾つかの学か
四 それは観照の学であるか、それとも実践の学であるか
五 その他の諸学との比較について
六 それは智慧であるか
七 それの主観はなにか
八 れは論議を行う性質のものか
九 比喩的乃至は象徴的語りかたの可否について
十 この教えの基づく聖書は、幾つかの意味に従って解釈さるべきであるか
(高田三郎訳)

第一項「この教えの必要について」の論の進め方は、このようになっている。

トマス・アクィナス『神学大全』

異論、「汝より高きものを尋ねるな」「真と有とは置換される」‥‥人間は、理性を超える事柄について探求すべきでない。理性に属する事柄は、既に哲学的学問において十分伝えられている。真と有とは置換されるというスコラ的原理に基づき有 (存在するもの) についての教えは哲学的諸学問の中に含まれる。アリストテレスの言うように哲学の一部門として「神学」が既に存在する。

反対異論、「聖書は全て神感によるものであって、教え、戒め、矯正し、義に導くために有用である」‥‥神感による書は、人間理性によって発見された哲学的諸学問には属さない。従って、哲学的諸学のほかに別個の学は有用である。

主文、‥‥「人間救済のためには、人間理性をもって探求されるところの哲学的諸学問の他に、なお神の啓示によって知らされることが必要であった」その理由として人間は神を目的として神に向かって秩序づけられている。そして、神についての人間理性によって追求することがらも人間は神の啓示をうける必要があった。

異論解答‥‥異論で述べられた二つの説を再度論じ、「人間の認識能力を超える所での理性の探求は間違っている」「認識の対象を構成する観点が異なれば学の性格も異なる。同じ結論〈地球は丸い〉を論証するにも天文学と自然学では方法が異なる。」‥‥それゆえ、聖教に属する所の「神学」は哲学の一部門とされる所のかの「神学」とは類を異にする。

このような論証のされ方がなされていた。トマスは、理性の能力、その探求と認識の領域を認めながらも、理性を超えた神の啓示を信仰によって認識する神学の必要性をのべている。「哲学は神学の婢女」なのである。『神学大全』全体の構成は巻末に記載しておきます。

 

トマスの構造


パリのノートルダム大聖堂
トマスはパリのシテ島の建築現場を見ていたという。1255年に完成した大聖堂だが、最初に師のマグヌスとパリに来たのは1245年である。

以前にも今道友信さんの『ダンテ神曲講義』の煉獄篇でパノフスキーの著作からご紹介したことがあるけれども、ゴシック建築とスコラ学の間には、構造的に相似性がある。「その構造的特徴とは、その骨格における二つの相反する要素、上下の柱の間の垂直的連続性と内部の壁面の水平的方向性との葛藤と対立が実に見事に調和総合されている点にあり、この調和と総合の構造は盛期スコラ学のスンマ(大全)と対応している」と柴田さんは言う。

中世初期のスコラ学は、実在(念)論と唯名論という二つの説が存在していた。それらについては、ガブリエル・タルド『社会法則/モナド論と社会学』タルドの波動/ドゥルーズとラトゥールに少し触れておいた。実在論は個物を超えた種や類と言った概念がモノとして存在するという説で、唯名論は、実在するのは個々のものだけだと考える。当初は実在論が正統とされていた。その理由の一つはプラトンのイデア論の影響で、それは、ちょうど教会が、個々の信徒の集合ではなく、個々の地方教会の総合体でもなく、それらを大きく超えた普遍的な実在機構であるとの考えと一致していた。それは、個々の被造物が理想としてのイデアの何等かを分有しているという考えとパラレルだった。これは、プラトン的垂直性と言えるだろう。

「普遍的なものが、ただ精神の中にのみ存在するのか、現実の中にも存在するのか、もし、現実として存在するなら、物体としてなのか、非物体としてなのか、さらに非物体としてであるとするなら、それらは個々の物体から切り離された形で存在するのか (プラトン説)、あるいは個々の実体の内に存在する (アリストテレス説) のか」と著者は問う。

これについてトマスは、『神学大全』の中で、「世界の創造性というものは、まず、世界そのものの側から論証をうけとることができない。けだし、論証の出発点はものの『何たるかにある。しかるに、いかなるものも各自の種的特質におけるかぎり『ここ・いまを捨像しているのであって、『普遍はどこにも、また常にある』といわれるのもこうした意味にほかならない。だからして、人間にせよ、石にせよ、それがつねに存在していたものではないということは、論証されることのできない事柄なのである――(柴田平三郎 訳)。」トマスは、個々の事物から知性の抽象化を経て普遍は存在するという立場をとっている。ここで、水平性が垂直性と統合される。

とりあえず前半のpart1スンマに殉じた黙り牛を終了します。後半 part2 は、トマスの政治思想をご紹介する予定です。ここからは、僕がずっと気になっていたトマスの存在論をハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であるヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から少しご紹介しましょう。

 

付 トマスの存在論


ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

ロッツは、ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを紹介する。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのである。

ハイデッガーは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、あらゆるものの根拠としての<存在>に類似しているという。ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していた。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指している。それが、ハイデッガーにとって究極の根源だった。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれている。それ故、人間は<世界内存在>と言える。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のである。

ここで、ロッツは問う。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼はハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答える。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いているという。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしている。

トマスにとって<存在>は人間の生において人間が第一に認識するものであり、それは常に最も知られるものである。人間が把握する全てのものは<存在の了解がいつも含まれている。この「存在の開け」、あるいは人間に分与されている<存在への適合は、人間の生全体を動かしている最も内的な力であるとロッツはいう。この探求への挑戦、これが、稲垣良典さんが『神学大全』を「挑戦の書」と呼ぶ理由である。そして、「神が存在するということの認識は本性的に我々に植えつけられている」とトマスが言う時、ハイデッガーの言う「存在者において間断なく存在が輝き出ている」という言葉をパラレルに思い出させるのである。

しかし、<存在>から神へは、なお隔たりがある。世界との関わりの中で人間は、本来的な自己を失い、他者の支配のもとにある。このことによって<存在>はかき消され、存在者は深淵に向かって転落するという。しかし、ハイデッガーが愛した詩人ヘルダーリンの言うように「されど危険の存するところ、おのずと救うものも生い育つ(『パトモス』村上喜良 訳)」とロッツは言うのである。続きは、またの機会に‥‥

 

 

付 『神学大全』 全構成


第一部
第一冊   第  1-13   問題    神の存在と本質について
第二冊   第 14-26  問題    神の生、認識ならびに意志について
第三冊   第 27-43  問題    三位一体について
第四冊   第 44-64  問題    創造について、天使について
第五冊   第 65-74  問題    物体的被造物の創造について
第六冊   第 75-89  問題    人間の本質と能力について
第七冊   第 90-102問題    人間の創造ならびに人間の最初の状態について
第八冊   第103-119問題   神の世界統宰について

第二の一部
第九冊   第   1-21  問題   人間の目的と行為について
第十冊   第 22-48  問題   情念について
第十一冊  第 49-70  問題   能力態について、徳について
第十二冊  第 71-89  問題   悪徳と罪について
第十三冊  第 90-105問題   法について――旧法について
第十四冊  第106-114問題    新法について、恩寵について
第二の二部
第十五冊  第  1-16   問題   信仰について
第十六冊  第 17-33  問題   希望について、愛について
第十七冊  第 34-56  問題   愛について(続)、思慮について
第十八冊  第 57-79  問題   正義について
第十九冊  第 80-100問題   正義につながる諸徳について
第二十冊  第101-122問題         同
第二十一冊 第123-150問題  勇気について、節制について
第二十二冊 第151-170問題  節制について(続)
第二十三冊 第171-182問題  預言の特別の恩寵について、観照的生活と実践的生活について
第二十四冊 第183-189問題  職務と身分の分化について

第三部
第二十五冊 第  1-15   問題    托身について
第二十六冊 第 16-34  問題  キリスト並びに聖母について
第二十七冊 第 35-45  問題  キリストの生涯について
第二十八冊 第 46-59  問題  キリストの受難ならびに復活と昇天について
第二十九冊 第 60-72  問題  秘蹟について――洗礼と堅信の秘蹟について
第三十冊    第 73-83  問題  聖体の秘蹟について
第三十一冊 第 84-90  問題  改悛の秘蹟について
第三部 補遺 
同 冊       第   1-16 問題        同
第三十二冊 第 17-40 問題  終油と叙階の秘蹟について
第三十三冊 第 41-54 問題  婚姻の秘蹟について
第三十四冊 第 55-68 問題     同
第三十五冊 第 69-87 問題  肉の復活について
第三十六冊 第 88-99 問題  最後の審判について

1273年、聖ニコラウスの日のミサにおける啓示によって『神学大全』の執筆は突然中止され、弟子たちによって完成される。

 

 

参考図書 及び 引用文献

稲垣良典 トマス・アクィナス『神学大全』
『神学大全』の翻訳者の一人が語る知的挑戦としてのトマス学

山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の神学』
生に対するポジティブなヴィジョンとしてのトマス神学

 

エティエンヌ・ジルソン/フィロテウス・ベーナ『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』中世哲学の権威ジルソンとフランシスコ会研究で知られるベーナ―の共著

トマス・アクィナス『神学大全』第一冊
創文社 1960年刊