柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part2 中世神学と国家理論

 

中世史家であるジョセフ・ストレイヤーは、11世紀までの西欧中世は<長期の冬であり、12世紀に<中世の春>が訪れると言う。それは、「12世紀ルネサンス」と言ってよかった。トマスの生きた13世紀は、その最盛期を極める独自に文化発展した時期であり、<中世の夏>と言われる。その後、14世紀にはヨハン・ホイジンガが著したように『中世の秋が訪れるのだ。

ペトロ・ネメシェギ(1923-2020)上智大学名誉教授

トマス・アクィナスは、南イタリアの侯爵の息子で、5歳の時からベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で育てられ19歳の時にドミニコ会に入会し、それから一生涯大学の教授、及び教皇庁付きの神学顧問であった。彼は肉体労働をした経験もなく、司牧活動を通して庶民に接する機会もなかった。ベルナールのように政治に携わることもなく、ボナヴェントゥラのように修道会の長上になることもなかった。彼は、大きな絵の輪郭を白い紙に黒インクだけで描くように自分が専念した神学上の問題を考え、著述することだけに心を費やしたと、神学者のペトロ・ネメシェギ神父は述べる。トマスの五つの長所を挙げた後、彼には、生活体験と想像力の欠如があるとトマスの短所をこのように述べた。

これに対して著者の柴田平三郎さんは、トマスをこう弁護する。事物の論証を客観的、抽象的に行って生々しい生の感情を持ち込むのを拒否するのは一般に13世紀のスコラ学に特徴的なことであった。中世キリスト教の研究者であるデヴィッド・ノウルズの言うように12世紀は、文法の習得とラテン作家の作品読解に支えられた自己表現力豊かな文芸文化があった。それは、古代の賢者に対する敬意とそうした志向を持ち合わせた人々の友愛関係が培った土壌といえる。その精華が『薔薇物語』だったが、13世紀は論理の時代になるのであると言う。

柴田平三郎『中世の春』
ソールズベリのジョンの思想世界

ネメシェギ神父は、トマスは諸思想の多様性、独自性を消すような収録の仕方をしたとも批判する。トマスの体系に多くの思想家が合流した結果、一つ一つの思想の本来のユニークな価値がニュートラルなものになってしまった。福音書の魅力的な素朴さ、パウロの焔、アウグスティヌスの旋風、ディオニュシオスの神秘的な闇などトマスの書に探しても無駄だというのである。

これに対して柴田さんの弁護はこうである。ローマ・カトリックの神学者であるマリー=ドミニック・シュヌーは、トマスが問題にしている視点は、かつてのギリシアやローマの状況が如何なるものであったかと問うより、13世紀に生まれていたなら彼らはどのような貢献をもたらすのかを問うているのだと述べている。そのように、トマスにとって重要だったのは、過去の知をどう知るかではなく、真理とは何かであったというのである。

結局、トマスが13世紀という時代の中で行おうとしたのは、異質なものの「和解と調和」による「体系の構築」であり、「削除と綜合」を通じての「全体性」の実現であった。しかし、彼の政治理論と教会論を研究すると、まさにその逆であって、誠に独自な魅力を持っているが、首尾一貫していないように思えると柴田さんは言う。今回は柴田平三郎さんの『トマス・アクィナスの政治思想』をご紹介している。前回 part1 ではトマスの『神学大全』を中心にご紹介した。今回 Part2 は、本題のトマスの政治学についてご紹介する。

 

人間は社会的・政治的動物である


 

『トマス・アクィナスの栄光』
ベノッツオ・ゴッツォリ(1420-1497)画

アリストテレス文献の流入

12世紀ルネサンスと呼ばれた時代にアリストテレスの著作群が組織的に紹介され始める。この時代にはギリシア文献だけでなく、それらを独占していたアラブ世界の文献も翻訳された。

そのルートは三つあり、①スペイン・ルートでは、12世紀クレモーナのヘラルドによってギリシアやアラブの哲学、科学書がアラビア語からラテン語に訳される。②シチリア・ルートでもプトレマイオス、エウクレイデス、プロクロスの天文学や数学、自然学のラテン語訳がなされた。そして、③北イタリア・ルートでは、ヴェネツィアのヤコブによってアリストテレスの『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』がラテン語訳され、初めてアリストテレスの論理学の全貌が明らかにされるのである。

トマスは、その政治学について同じドメニコ会士で友人であったムールベケのグイレルムスが訳したアリストテレスの『政治学』完全訳を用いたと言われる。

社会的・政治的動物である人間

人間は本性的に社会的動物なのであり、だから無垢の状態における人々もまた社会的な仕方で生きたであろう(『神学大全』第一部 96問題 4項)とトマス・アクィナスは述べた。

「人間は自然的に政治的 (ポリス) 動物である」というアリストテレスの言葉を「社会的動物」と言い換えているのである。社会的交わりの中で人間は、いわば、世界に差し込まれている。トマスは、政治の営みや国家の存在が人間にとって自然的なものであると述べるようになる。それまで、アウグスティヌスや伝統的キリスト教では政治や国家を人間の罪の所産、「罪に対する罰と矯正」と捉えられていたのである。

アウグスティヌスに代表されるキリスト教会の正統的教義では、政治社会や国家は神の望まぬ「人間の人間による支配」、つまり「奴隷制」を指すのであって、自然の秩序ではなかった。これに対して、トマスは原罪以前の政治的権威とは何かを問うた。多数者の社会生活は、共通の善を意図する何者かがこれを統轄するのでないかぎり存在しえないであろう(『神学大全』同上)と述べる。無垢な状態においても人間が人間を支配することはあり得るとしたのである。奴隷制とは別に「自由人の支配」は、原罪と関わりなく存在したと考えた。これは、革新的なことだったのである。

 

アリストテレス像  リシッポス作の失われたブロンズ彫刻の模刻(1~2世紀)

共通善による共同生活

アリストテレスにとって共通善とは、自由人の共同体としてのポリス(国)において、人間が単に生きるだけでなく、善く生きること、すなわち徳に従った善き生活を目指すことを意味していた。共通善を目指して共同生活を営もうとする国民相互間の積極的意思とそれへの適応能力たる徳 (アレテー) なしには、国は存続し得ないと彼は考えた。例え、国民一般の徳と人間の徳とが、さらに治者の徳と被治者の徳とが無条件に同じではないとしてもである。

トマスは、「人々は互いに真理を明示しあう者として、互いに信頼しあうのでなければ相互に共同生活を営むことはできないであろう。したがって、真実という徳は何らかの仕方で負債・義務という側面にかかわるのである(『神学大全』第二の二部 109問題 )」と述べている。マウリッツィオ・ッツァラートなら負債・義務こそ人間を奴隷化するものだと言うだろうが、これは金融資本主義の話だ。

ともあれ、トマスは、社会が存続するためには、真実を明示するという道徳性が不可欠なものと考える。それと同時に、悦び無しにも社会において生きることが出来ない。「苦痛を与える人や快くない人と一日中一緒に付き合える人はいない (アリストテレス『ニコマス論理学』) のだから。つまり、人は自然本性的な道徳的義務によって他の人たちと楽しく共同生活することを義務付けられているというわけである。

 

公的権力の行へ

トマスは、君主たちに対して公的権力が委託されると考える。それは彼らが正義の護持者となるためであり、正義の原則に基づいてのみ暴力や強制力を発揮することが可能なのである。国家は暴力=強制力の正統な独占者・行使者であるが、それは国家が正義を実践する限りにおいてである。私的人格者が暴力によって他者から何らかのものを奪い取るなら、それは強盗であるという。

聖アウグスティヌス

これは、アウグスティヌスの有名な国家強盗団説を逆手にとっている。「正義がなくなるとき、王国は大きな強盗団以外のなんであろうか。盗賊団も小さな王国以外の何でもないのである(『神の国』柴田平三郎 訳)。」アウグスティヌスにとって、国家には初めから正義などないのである。彼はアレクサンダー大王と海賊の会話を持ち出す。大王が海賊に「海を荒らすとはどういうつもりか」と聞くと、海賊はこう答える。「陛下が全世界を荒らすのと同じです。私は小さな船なので盗賊と呼ばれ、陛下は艦隊をお持ちなので皇帝と呼ばれるのです」と。

マキアヴェリが、信義を守ること、誠実であることなどの徳性は、君主にとって状況と必要に応じて踏みにじられて然るべきだとしていることを考えるとアウグスティヌスの意見もあながちペシミスティックともいえない。ともあれ、トマスは、アウグスティヌスを権威と仰ぎながら巧妙にその説を換骨奪胎させていると柴田さんは言うのだ。

罪によって人間から理性的であるということが全面的に取り去られるということは不可能である。そうなら罪を犯すことも出来なくなるからだとトマスは言う。そこで、この世の生において持ちうる不完全な幸福は、理性と言う自らの自然本性的なものによって獲得できるものであり、その仕方は、その働きにかかっている徳と異なるものではない。これに対して完全な幸福は、神の本質を見ることにあるというのである。現世の幸福は完全なものではないと釘を刺すことも忘れてはいない。

 

最善の国家制度


 

混合政体論

西欧政治思想の長い歴史の中で、一人の支配たる「君主制」、少数の支配である「貴族政」、多数の支配としての「民主政」、これら三つの支配形態の組合せによる「混合政体」が最善であるとする長い系譜があったと言われる。古代ギリシアのプラトン、アリストテレス、ローマ時代のポリュビオス、キケロ、そして、13世紀中葉にアリストテレスの『政治学』が紹介されるとトマス・アクィナスによって取り上げられるが、本格的な再生はルネサンス期のフィレンツェ、ヴェネツィア、そしてチューダー朝イングランド (1485-1603 ) だとされている。

『チャールズ一世』
アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)画

この政体論は、内戦前夜のイングランドで「我が政体は混合政体」であると述べたチャールズ一世 (1600-1649) に予示されることになる。王権神授説を信奉する王の皮肉だったのだろうか。やがて、名誉革命を成功させるイングランドで「君主政」「貴族政」「民主政」の三要素は、議会における「国王」「上院議員」「下院議員」となり、立憲君主制の統治原理として18世紀のアメリカ合衆国へとつながると言うのが定説となっている。

しかし、この説は、今日の中世立憲思想研究では修正を余儀なくされていると著者は言う。まず、その制度には、次のような前提が必要とされている。統治権は法によって厳しく制限をうけること。正当な統治権の成立には被治者の同意が必用であること。その同意は代表者からなる議会を通じて表明されなければならないこと。これらの事柄は、西欧12世紀に復活したローマ法の法学者らによる世俗統治権に関する理論とそれを教会法に巧緻に取り入れた教会法学者たちによって形成されたことが、明らかにされてきたからである。しかし、ローマ法の影響力は大きい。

トマスもまた、混合政体論を最善としながら、一方でそれを否定するかのような主張もあるという。彼は、一体どちらの立場に立っているのだろうか。

 

君主の統治と混合政体

「私によって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める(『箴言8-15』)」と神が述べられているなら、人民の最善の統治は一人による統治である。明らかに教会の統治は、そのように配慮されているから一人の者を教会全体の長としている。このような理由をもとにトマスは、政治においても君主制擁護論を展開する。その典拠は、『君主の統治について』にある。おそらく、ドミニコ会の庇護者であったフーゴ2世のために書かれたと言われる。

この中では、擁護の詳細な理由として以下の事柄が挙げられている。それが、神の宇宙支配の理法に適応していること。政治支配者の最大の務めは、民衆の平和的統一を創出することであり、それは複数者よりも一者によって可能であること。心臓が体を統べるように、理性が霊魂を統べるように自然的統治は一者によって成されていること。預言者エレミアが述べたように一人の人間によって統治されていない領国や都市は、分裂に悩まされ、平和を知ることなく分裂すること。

明らかに君主政を支持しているように思える。問題は、トマスがアリストテレスの概念的枠組みと用語法をどのように駆使して自己の混合政体論を作り出したかという事になる。アリストテレスは、国家指導者が一人で君臨する場合は王政支配だが、統治の知識の原則に従って代わるがわる支配者となり被支配者となる場合は国家指導者であり、それは政治支配だというのである。

しかし、ムールベケのグイレルムスは、これをラテン語に置き換える時、アリストテレスの言う代わるがわる、つまり市民が交互に支配者となり服従者となるというヶ所を、一人の者が役割によって支配者となるとともに服従者となるとした。これは、明らかに誤訳だった。翻訳に誤訳はつきものだが、この誤訳は君主政があくまで統治の基本とするトマスの認識を「絶対的」な君主政か「法に従った」君主政かを問う形のもの変えたのである。前者を王政的支配 (regal rule) 、後者を政治的支配 (political rule) とした。しかし、その法は、一人の支配者が決めるものではなく、共同体の成員全ての意思の具現でなければならないとしたのである。

ジェームズ・M.・ブライスの最近の研究によれば、その共同体全体によって確立された法に支配される君主政は、少数の賢者 (貴族政) と全人民の意思によって宥和された、いわば混合政体なのである。これがトマス政体論の曖昧さに繋がっていると見られている。柴田さんは、このプライス説に概ね賛成だという。

トマス・アクィナス『君主の統治について』
君主の「鑑」という形式で統治と君主政について書かれたが、未完で終わっている。

アリストテレスの混合政体では、権力所有者の数と質によって成り立つ六つの政体分類がある。公共のための単独支配である君主政、公共のための少数支配としての貴族政、公共のための多数支配であるポリテイア (政体・国制) という三つの善き統治形態。そして、私事のための単独支配としての僭主政、私事のための少数者支配が寡頭政、私事のための多数支配である民主政の三つの堕落形態である。トマスは、そのうちの僭主政体が最悪だと述べている。それを防ぐための方策として、僭主になることなど考えられない様な人物の人民による選出、即位した君主が僭主に変る機会のないような手だての構築、王の権力も容易に僭主制に転化しないように宥和されるべきことを挙げている。

このように考えるとトマスの混合政体論のニュアンスが掴めてくる。この『君主による統治について』が中断された2年後の1269年に『神学大全』の「第二の一部」が執筆されるのだが、そこで、こう述べている。人定法は政治共同体を統治する者によって制定されるが、それは、政体との相関による。君主政においては君主の勅法であり、貴族政においては法学者の解答と元老院の議決、民主政においては平民会の議決である。「以上述べたものが融合した国制なるものがある、これが最善である(『神学大全』第二の一部 95問題 四項)。」全ての者が統治に何らかの仕方で参与するように配慮されなければならないという。

 

暴君は放伐可能か


 

ソールズベリのジョン『ポリクラティクス』
フランス語訳の序文、画中の人物は、賢明で狡猾といわれたフランスのシャルル5世。

徳を失った天子を天が見放す時、天命が革 (あらた) められる。天子が自らそのことを悟り、位を徳のある他者に譲ることが禅譲であり、天子を武力によって追放することが放伐である。古来、中国では、これを易姓革命と呼んだ。孟子が掲げたことで知られる思想だ。西欧中世思想においても統治権力に対する抵抗の問題は重要だった。それは、古典古代以来の長い系譜を持つといわれる。

11世紀に修道士ラウテンバッハのマネゴルトが、支配者と人民の間の誓約と誠実にもとづく契約に支配者の任免の根拠はあるとして、支配者が暴君と化して、その契約を破るなら進んでこれに抵抗する権利があるとした。そして、イングランドの人文主義者であったソールズベリのジョン (1115?-1180) のこの発言は、有名なものとなった。彼は『ポリクラティクス』の中で「暴君を殺害することは許されているばかりでなく、正当なことであり正義でもある」と述べたのである。

この1世紀後、トマスは、このジョンの思想を『命題集注解』の中で、より一層精緻にしたといわれる。彼は、「権威が獲得される方法」の暴君、これは資格や資質の欠如のことである。そして、「権威の行使の結果」としての暴君とに分ける。この区分は、14、15世紀のイタリアの政治理論の中で発展していった。

トマスによれば、暴君とは「暴力によって権威を奪う者」であり、「正当な権威の確立の目的に反する」命令や、「邪悪な命令」、「権威の権限を越えた命令」を人々に強制する者である。そうした暴君に対して、服従の義務はなく、カエサルの殺害を正当化するキケロを紹介しながら「暴君を殺害することによって、祖国を解放する者は賞賛され、報いられるべきである」とさえ言い切っているのである。しかし、より正しい判断が下せるという理由によって、放伐は、私人ではなく公的な権威によって為されなければならないとしている。この過激な暴君放伐論は、トマスの死後、彼の後継者たちにとって強力な理論武装の支えとなったのである。

16世紀宗教戦争のさなかに刊行された「モナルコマキ(暴君放伐論)」は、正当な資格を持たないのに暴力や邪悪な手段で王国の権力を簒奪した僭主、しかるべき資格によって王国を譲渡されたが暴虐の限りを尽くす僭主に対して、この権利の主張を行う。それは、やがてジョン・ロックの『統治二論』で「天に訴える権利」としての抵抗権が掲げられるのである。トマスに遅れること約4世紀後のことだったという。

 

戦争は許されうるのか


 

フーゴー・グロティウス(1583-1645)
国際法の父と呼ばれるオランダの法学者
ミヒール・ファン・ミーレフェルト 画 1608

トマスの正戦論

トマスがアウグスティヌスの「正戦論」を中世において体系化した思想家であるというのは通説となっていると言われる。戦争には正当な戦争と不正な戦争があるとしたトマスの正戦論には、二段階あり、「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」である。この正戦に関する教説は、カトリックの正統論として継承され16,17世紀のスペインの神学者ビトリアスとスアレスによって展開されて、キリスト教正戦論は一つの画期を迎えたという。この理論を神学から解放して世俗化し、近代主権国家のシステムに対応させた人が、「国際法の父」グロティウスであった。

さて、トマスがこの戦争をどのように考え、どのように分類したのかを探ってみたい。『神学大全 第二の二部 第40問題』は「戦争について」述べられている。

第一 ある戦争は許されうるか。
第二 聖職者が戦争するのは許されうるか。
第三 戦争する者が策略を使うのは許されうるか。
第四 祝日に戦争するのは許されうるか。

第一項は、「戦争は常に罪であるのか」という問題に集約される。戦争が正しいものであるための要点は、三つに絞られる。「その人の命令によって戦争が遂行されるところの、君主の権威」、「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」、「戦争する人々の意図の正しさ」が、正戦であるために必要とされる。因みに「正義にかなった (正当な) 原因 (理由)」に関して、トマスはアウグスティヌスのこの言葉を引いている。「正しい戦争とは不正を罰するところのものと定義されるのが普通である。すなわち、民族や国が、その成員によって不正になされたことを糺すのを怠ったり、不正に横領したものを返却するのを怠ったりして罰せられるべきであるときに、その不正を罰するのである(『問題集/モーセの七書について――ヨシュア記』)。」

第二項、「聖職者が戦争するのは許されうるか」については、こう述べられている。聖職者は、神に関わる諸々の事柄を観照し、神を賛美し、人々のために祈るのが仕事であるという一般的な理由、聖職位は祭壇の務めのために任ぜられるのであって殺すことや血を流出させることは相応しくないという特殊な理由によって、聖職者による戦争の遂行は全面的に許されない。

主に第一項によって「戦争に至る正義(法)」が説明される。すなわち、君主の権威、正当な理由(原因)、意図の正しさが満たされなければ、その戦争は正しくないのである。次は「戦争における正義(法)」という問題に移るが、これは、第三、四項で説明される。

第三項 「戦争する者が策略を使うのは許されうるか。」 策略には①「虚偽の語りと約束の不履行」があるが、これは敵同士の間にあっても守られるべきある種の戦時法規と協力条約があるのだから許されない。②「企みや考えの不開示」は、敵を攻略するための諸々の計画であり、欺瞞でも不正義でもないとしている。

第四項 「祝日に戦争するのは許されうるか。」 国家の安全は、一人の人間の身体のそれよりも一層保全されるべきもので、それによって多くの人の殺害や、地上的、霊的な悪が阻止される。それゆえ信者たちも国家を守るためには、必要なら祝日に正しい戦争をすることは許されるとしている。

ヨハンネス・グラティアヌス
(1100?-1150?)12世紀ボローニャの法学者
『教令集』の中世手写本

「戦争に至る正義(法)」と「戦争における正義(法)」二段階の理論構成は、12世紀の教会法の法典であるグラティアヌスの『教令集』に沿って構想されているといわれる。そして、トマスが、ここで権威として引用する神学者はアウグスティヌスただ一人である。

しかし、例えば「悪人に逆らうな(「マタイによる福音書」)、「愛する者たちよ、汝ら復讐すな、ただ神の怒りに任せよ(「ローマの信徒への手紙」)といった例を引いて、「戦争はつねに罪である」という異論を述べ、その反論として、それは常に心の準備として把持されるべきものであって、時として、共通的な善のためや、戦っている相手の善のためにも、それとは異なった行動をしなくてはならないと述べるのである。ここでも、アリストテレスの影響が見られることを柴田さんは指摘している。

 

異教徒への寛容

もう一つ筆者が指摘していることがある。それは、トマスには聖戦の観念がないことである。彼の時代が。第6回から第8回という三度にわたる十字軍を体験していることを考えると意外だと筆者は言うのだ。「いまだ受け入れていない信仰に反抗する者よりも、受け入れた信仰に反抗する者のほうが、信仰に対してより重い罪を犯すことになる」とトマスはのべるのだった(『神学大全 第二の二部 第10問題』)。彼は、教会がユダヤ人や異教徒たちの祭儀でさえ容認すべきだという立場をとっている。おそらく、これはトマスが、10代の頃にアラブ文化を盛んに取り入れていたナポリの大学で学んだことが影響しているのではないだろうか。彼が広い視野を持っていたことが、このことからも窺える。

 

トマスが置かれていた状況

柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』

彼の生きた13世紀は、近代的で大規模な戦争は勃発してはいなかったが、都市国家間での争い、君主国、公国などでの世俗権力間での紛争、スペイン人の対ムーア人戦争、度重なる十字軍、対モンゴル戦争、そして、神性ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝の崩壊とナポリにおけるシャルル・ダンジューの制覇と言った事柄が続出していた。そして、トマスのアクィノ家はナポリの近郊において、ナポリ・シチリア王国とローマ教皇領との狭間にあって危うい選択を迫られ続けた。長兄も次兄も皇帝フリードリッヒ二世の側についていたが、長兄はキプロス王フーゴの家臣によって捕虜となり、教皇グレゴリウス九世の介入によって解放され、以後、教皇側についた。次兄は、教皇インノケンティウス四世が皇帝を廃位すると教皇側につき、やがて皇帝暗殺の嫌疑をかけられて処刑される。

トマス自身は教権と俗権を巡る争いに対して穏健で中庸な態度を取っていたといわれるが、曖昧にしていたのかもしれない。このような家族の状況を見る時、トマスの心情も、また察せられるのである。彼は、これらの両権力にたいして距離を取り、自身は一切の顕職や地位を拒否したと言われる。『神学大全』は、このようなトマスの家族の状況と歴史的な背景の中で書かれた。そこには生々しい心の傷があった。トマスは戦争の問題を、人間存在そのものを根元的に問う倫理的、道徳的問題としていたのであって、けっして正義・不正義の問題を社会的な規範や外面的なルールに求めていた分けではないと柴田さんは言う。この思考の枠組みは近代の法学的発想と方法の基にはなったが、それを目指していた分けではなかったのである

 

黄昏に飛び立つミネルヴァの梟


梟を抱えたミルネヴァ ルーブル美術館
西暦2世紀と18世紀と二度に亘り復元された。

時代が傾く時、知のミネルヴァの愛鳥である梟が飛び立つとヘーゲルは述べた (『法の哲学』序文)。ちょうど、ギリシアのポリス世界が崩壊しようとした黄昏の時期に万学の祖と言われたアリストテレスが登場した。彼にこそ、このヘーゲルの言葉は相応しいと柴田さんは言う。そして、中世世界が徐々に傾斜していく中で、アリストテレスから自然主義的政治学の哲学を学び、それをキリスト教教義と調和させ、この世の自然的秩序の正当化を図ったトマスこそ、アリストテレス以上にこの形容に相応しいのではないかとも言うのである。彼もまた、中世世界の全構造を、思想のゴシック建築と比喩される壮大な『神学大全』の中に網羅しようとしたからである。

柴田さんは、本書の最後のあたりで、このように述べる。それまで、中世の人々の心を呪縛してきたアウグスティヌスのキリスト教的人間観と政治観をアリストテレスの思想を基に克服したのがトマスの思想であった。それは新たな中世のパラダイムだったのだが、その論は、やがて、近代のトマス・ホッブスによって全面的、根底的に否定される。ホッブスの人間とは、一切の歴史的、社会的文脈から切り離された「原子論的個人」であったという。そうした孤立した人間にとって「人間は人間に対して狼」だった。「万人の万人に対する戦い」から脱出するために相互の社会契約を取り交わし、強大な国家の形成を目指すことへと舵を切ったと。

アリストテレスが述べ、トマスが信奉した「より善く生きる」ためのロゴスを媒介とした「共通善」と言ったものが、現在では、もはや画餅と化したかに思える。それでも、「善く生きる」とはどういうことなのか人は問わざるを得ない。ここで、人間が社会的動物であるという前提には、「言葉の理解」があることが思い出されよう。理性の光としての「言葉」こそ「善と悪、正と不正を知覚できる能力である」というアリストテレスの思想をトマスが受け入れたことを考える時、ミネルヴァの梟のもたらす知とは何であったかが想像できる。しかし、さきほどの正戦論の中で著者は、ハンナ・アーレントのこの言葉を思い出すと述べている。

暴力自身は言葉を発する能力を持たないということであって、ただたんに、暴力に立ち向かう言葉は無力であるということだけではない。この言葉を発する能力を持たないという性格ゆえに、政治理論は暴力現象について何もいうことがなく議論をその道の専門家に委ねなければならないのである (『革命について』序章 志水速雄 訳)。

 

前回、ご紹介したヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』の続きは長くなりそうなので、別途、ご紹介する予定です。お楽しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

アリストテレス全集17 政治学 家政学
岩波書店  2018年刊

トマス・アクィナス『神学大全』17
第二の二部 第40問題「戦争について」収載
創文社 1997

ハンナ・アーレント『革命について』
社会主義や共産主義といったイデオロギーは死に絶え、残ったのは戦争と革命であり、その中で人が望むものは暴政に対する自由だという。