ヨハネス・ロッツ『ハイデガーとトマス・アクィナス』神は創造において性起する

 

『ヘラクレイトス』(前540頃-前480年頃)
ホセ・デ・リベラ(1591-1652)画

ヘラクレイトスが、人間の二面性について語っていることを前にご紹介しました。人間は自らの内奥でロゴスと一つでありながら、不可解にもロゴスから離反し、不幸な分裂に陥っている。この分裂が、生涯に亘る人間の行動、すなわちモノとの交わり、他者との交流、自分との交流を特徴づけている。人間は現にありながらも現に存在しないというのです。

ロッツは、このヘラクレイトスの言うロゴスが、ハイデッガーがあらゆるものの根拠としている<存在>に類似していると言います。ここで、ロゴスと<存在>が類似しているのを確認することは、彼の愛した詩人たち、トラークル、リルケ、ヘルダーリンの世界を考える上で非常に重要だと思われますが、今は置いておきましょう。

ハイデッガーの根本問題は<存在>を目指していました。この問題は<存在>の意味、<存在>が最も内的に何を言わんとしているかを目指しています。それが、ハイデッガーにとって究極の根源でした。人間は分離された主観性ではなく、世界と関わっていて、いわば世界にさしこまれています。それ故、人間は<世界内存在>と言えるでしょう。「人間は様々な存在者に囚われているので、存在者において間断なく存在が輝き出ているにもかかわらず、その一なる存在を考慮することなく忘却し、ついに否定してしまう」のです。

ここで、ロッツは問います。<存在>と神とは関係があるのかと。そして、彼は、ハイデッガーの思想が無神論でも有神論でもないと答えます。ただ、思惟の道は存在から聖なるものへ、聖なるものから神性へ、神性から「<神>という語で名づけられるべきもの(『ヒューマニズムに関する書簡』)」へと続いていると述べるのです。道は<存在>からなおも先に示された諸段階を通って、やっと神々へと至る。だから、<存在>を端的に神と同定することはできないとしているのです。

前々回、柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』part1 スンマに殉じた黙り牛で、ハイデッガーの高弟であり、自身も神学者であったヨハネス・ロッツの『ハイデガーとトマス・アクィナス』から「トマスの存在論」を少しだけ書いておきました。その続きをご紹介します。僕は、いつもハイデガーと表記しているので、こちらの名称で統一させて下さい。

ヨハネス・バプティスト・ロッツは1903年にドイツのダムルシュタットに生まれます。新トミズムとカトリック的存在哲学を研究したイエズス会士です。オーストリアのインスブルックで神学を、オランダのファルケンブルクで哲学を学んだ後、ドイツのフライブルクでマルティン・ハイデッガーと、マルティン・ホーネッカーに哲学を学びました。

その後、イエズス会付属のプラハのベルスマンカレッジで、次いでミュンヘンの哲学大学で教鞭を執ります。1952年から1985年まで、ローマのポンティフィシア・グレゴリアン大学でも働いていました。ロッツは、現代哲学とカントの超越論的方法をキリスト教の教義における考え方の中に取り入れようとします。そして、ハイデッガーの思想を基にトマス・アクィナスの伝統を再解釈しようとしました。今回の著作は、その主著と言っていいでしょう。1992年にミュンヘンで亡くなっています。

 

存在と存在者


 

存在忘却、あるいは存在喪失によって人間の危機が訪れている。それは、西洋の宿命だった。このハイデッガーの主張は20世紀の思想に大きな波紋を投げかけました。救いは存在への回帰にあるが、人間は「故郷喪失」の内で「彷徨」している。それ故、この存在への回帰は今日的課題と言えるのです。しかし、そこに至るためには多くの階段を昇ることが必要であり、ハイデッガーが成し得たのは最初の段階だけだと彼自らが述べています。従って、存在へと至る道、更にそこから先の神性へと至る道は遠いと言えるのです。

ハイデッガーのこの存在に対する批判は勿論あります。フランクフルト学派が知られていますが、そのテオドール・アドルノは『否定弁証法』の中で、この存在は単なる幻想であって無意味だと結論付けたと言います。アドルノもまた存在者に向かい、存在忘却を免れてはいないと著者のロッツは言うのです。ハイデッガーは、『存在と時間』の中で「呼び声によって呼びかけられている」のは「世間的自己」であり、自己自身が「己自身に向かって、すなわち自己のもっとも固有な存在可能性に向かって」、「己にもっとも固有な可能性のうちへ」と「呼びたてられる」と述べます。「現存在は良心において自分自身を呼ぶ」と言うのです。

存在は存在者の背後にある

ヨハネス・ロッツ (1903-1992)
『ハイデガーとトマス・アクィナス』

この曰く言い難い<存在>は事物認識の刻一刻の時間化された形態においてのみもたらされます。眼差しは事物に照準が合わされ、この事物は意識の前景のみを形成します。それは、存在が時間を介して現前性として規定されるといいます。時間の系列に従って、見たり、聞いたり、触ったりしたものを存在者として認識し、そこにまた存在もあるということですね。しかし、その<存在>は背景にあって、背景として究明される。存在と存在者は明確に区別されています。しかし、この<存在>は逃げ去り、誤認され、誤解され、ついには拒絶されます。存在は、無という覆いに隠され、ついに存在忘却へと沈むと言うのです。真の存在は隠されているということです。そして、無から存在への転向が起こります。存在の空け開きが起こるのです。これらはハイデッガーの『存在と時間』を貫いている問題でした。

トマスの存在論は、存在への関係は語られるが存在からの根拠付けがないとして存在忘却を超えていないとハイデッガーは考えていました。しかし、ロッツは、トマスの言うエンス (存在者) は、人間にとって最初に把握されるものである。しかし、トマスにおいても存在者はエッセ (存在) の働きに由来し、それ故、存在者は存在を支持すると考えられるとしています。存在—存在者の関係にエッセ-エンスの関係を重ねていることになります。本書の重要な主題の一つはここにあります。

 

トマスのエッセとエンス

では、トマスにおいて存在エッセと存在者エンスとは何だったのでしょうか。トマスは『真理論』の第一項「真理とは何か」の中で、異論・反対異論・主文・異論回答というスコラ学の講義の形式で論を展開しながらエッセとエンスの関係を顕わにしていきます

①異論からの抜粋
<真>は<現体(エンス)>と同じものである。
アウグスティヌスは『独白』の中で「<>とは『現 (あ) るがままのもの (=エッセを有する) ものごと』であると言っているが「現るがままのものごと」とは「現体」に他ならない。したがって>の内容は現体>と全く同一事に帰する。

②反対異論からの抜粋
『原因論』(プロクロスの『神学網要』からの抜粋をまとめた小著) にいうように「被造事象の第一のものは、エッセである」し、‥‥それゆえ<>と現体>とは別のものである。

トマス・アクィナス『真理論』
『真理論』と『ペトルス・ロンバルドゥス命題集注解』からいくつか抜粋を収めた貴重な著書

③主文から抜粋
「実体」の名辞の顕示するのはエッセのある特殊様態であり、換言すれば「独立的<現体>」(per se ens) のことである。
アヴィケンナがその著『形而上学』のなかで、「おのおのの事象の真理はその事象に内蔵されるエッセの特性である」とし、また或る学者が「<真>とは、エッセとそのエッセを容れるものとの統一である」とするのはかかる見地に立つものである。

④異論回答から抜粋
「<真>とはエッセを有するものである」というとき、その「エッセを有する」はエッセの現実機能の意味でいわれているのではなく、結合 (=述定) する知性の標識であり、つまり命題の肯定を意味するとも解釈される。(花井一典訳)」

解説しますと、①異論では真理とはエンス (存在者) であるとされますが、②反対異論では、被造事象の第一のものはエッセであるという反論が紹介され、真とエンスとは別だと言います。③主文で、エッセの特殊状態が現体 (エンス) であり、真とはエッセとその容れ物エンスとの統一であると結論づけられます。そして、④異論回答で①の異論に登場したアウグスティヌスの「エッセを有する」という言葉は「AはBであると言う時のエッセ、つまり、Be動詞のことだと言っているのです。今道友信さんが、いみじくも「ガアル存在」の「デアル化」と呼んでいるものです。

エンスは存在者と訳されますが、訳者の花井さんによれば、印欧語思想圏にあっては質・量・関係・所有・時・所・配置・行為・受動といった範疇にわたる包括概念だったと指摘しています。「ものごとのあるがまま」を指す言葉だと注意を促しておられる。そして、ens は Be動詞 esse の分詞と言いますからエッセとは「在る」、「存在する」という意味になります。

存在動詞ッセは、トマスの神学においては「エッセンチア (本質) の現実化」を意味していました。本質は、実体の下位概念です。例えば、本があると言う場合、本を現実の個物と考えると「本がない」ということを説明する時、困ったことになります。「~がある」は、それ自体としては可能態にある本のエッセンチアが「現実化している」場面の記述であると考えられているというのです。そして、既に存在が保証されている個体について述定する場合ですが、例えば、石は重いという時、この命題はエッセンチア「重い」とエッセの結合から構成されているのです。エッセによって表現されるものが本質 (エッセンチア) だということができるでしょう。アリストテレスの存在解明は、存在に合わせて言語を明確にすることだと言われますが、それをトマスは引き継ぎ、ロッツはこれを踏まえて<存在>にエッセを当てました。

ハイデッガーの神とトマスの神


 

存在が存在者を問うということ

存在忘却は、存在の本質の見守りへと転回します。存在の空け開けが起こるというのです。空け開きを存在は与え、時間をも与えます。そこで、ロッツは問います。<それが与える存在とは何であるのか、<それが与える時間とは何であるのか。<それが与える>において何が与えられるのかと。ハイデッガーは、思惟を通して存在の存在者からの根拠づけに引き戻ることなく、時空間が開けられると考えます。しかし、この場合、<それ>は存在を指しています。

人間は、この本来的な時間の内に立つことによって存在を受け取ります。現前性が許し与えられるのです。それは、すなわち現前性としての存在を、及び開けたる場所の領域としての時間を、それらの独自的なるところへ差し渡し、譲り渡すこと」だと言います。そのように人を「彼の独自なるところへもたらす」ことが性起なのです。あたかも暗闇に光がさすように存在への一瞥が与えられると言っていいと思いますが、そこに、ある空間と時間が与えられるという分けですね。この存在が自らを様々に証しすることをハイデッガーは歴運と表現しました。この歴運において存在は自らを歴史として展開します。

「時間と存在は性起において性起し、それどころか存在は性起へと消滅する」とハイデッガーは言います。「性起はあるのではなく、それは性起を与える、のでもない」ただ、残っているのは「性起は性起する。」それで「われわれは同じものから同じものへ向かって同じものへと語る」というのですある種、悟りに近いと言っていいと思います。そして、ハイデッガーにとって、神もまた性起するのです。しかし、ハイデッガーの言う神は神々を指しています。「神もまた存在者であり、存在者としての存在と、世界を世界化することから性起する存在の本質において立っている 」と微妙な言い方で述べていますが、性起から由来する神が性起の始元としては見なされていません。トマスは、神は究極的に即自的に性起を凌駕する故に性起の始元と考えていると著者は言います。ここには大きな違いがあります。

ハイデッガーにとって神は肯定的にも否定的にも決定されないものです。「あらかじめ長い準備のうちで存在自身が自らを開け透かす」、それに続いてようやく、「存在の近さ」からのみ神の問題は決定しうるとハイデッガーは考えていました。存在の歴史の終りに神はあるのでしょうか? 彼は、人間が神へと至るのは、人間において世界が「もっとも近しいもの」として「存在の真理」に人間を近づけ、そして人間を「この性起とひとつにする」ことにあると考えていたようです。

著者はこう述べます。トマスは、性起を凌駕した存在者に繋がれない存在、すなわち性起に関して存在そのものを明らかにするように原因づけるものをはじめて可能にし、開くと言うのです。難しい言い方ですが、性起の始原としての存在を開くというのと同じ意味かと思います。この存在にハイデッガーが到達していない限り、存在の最も内的な自己に関しては、彼は究極の忘却を免れないというのです。ハイデッガーはここで反撃されていますね。存在は存在者という形で時間性の中に投げ出され、存在はその段階に留まっていて永遠性を獲得していないからだというのです。

『トマス・アクィナス』(1225頃-1274)
サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)画

トマスのエッセは神なのか

トマスは『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第一項「真理は事象の本質をなすものであるか」において神とエッセとの関係をこの様に述べていますが、主文の一部だけをご紹介します。

神の (本質) たるエッセは全てのエッセの原因であるとともに、神のなす認識は凡ての認識の原因だからである。それゆえ、神は本原的<現体>(primum ens) であったように、本原的真理 (primum veritas) をなす。右論述から推察されるように「いかなるものもエッセを有する程度に応じて真理 (合致の度合い) を有するからである」(花井一典 訳)。

トマスは、神を現体 (エンス) の本原体であるとしてその本質をエッセと考えていたようです。同じく『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第二項では、こう述べています。

「‥‥いかなる事象も被造的エッセを分有しており、これによってそれ自体の内実としてエッセの述語を得る(formaliter est)。そして、他方、個々の知性も光を分有しており、これによって事象について判断を下す。ただし、ここに言う光は超被造的光を範型に仰いでいる (花井一典 訳)。」

真理の概念を構成するのは、「事象のエッセ」と「認識能力が事象のエッセに適った把握を為すこと」の二点であるとしているのです。知性によって<存在の充溢>が知らしめられる。トマスに於いては、真理の認識に、この両輪が必要とされているのです。付け加えると、トマスは、悟性は媒介、すなわち移行であって、この媒介は感性において始まり理性において終りを告げると考えていました。感覚的なものの最も高次なものが精神であるとして認識の全体性を破壊することなく、時間を通り抜け、永遠なるものへの上昇する。そのことによって<存在の充溢>へ接近を図るというわけです。これは、感性・悟性・理性の三位一体的な浸透と言うことができ、カントの考え方に一石を投じます。

 

存在の階梯を登り切った時


 

ロッツは、トマスが新プラトン主義的な命題をアリストテレスでもって補完し、深めたと言います。新プラトン主義は、超越的なイデアに上位の段階の存在が下位の存在に徐々に不完全性を増しながらも触れていて、その本質を分有する形で存在の大いなる連鎖を形作っていると考えます。存在の大いなる連鎖については、アーサー・O・ラブジョイの同名の立派な著書がありますが、”記号の組み合わせが全知を導く ” part1 ルルスの術 「アルス・コンビナトリア」にも少し書いておきました。この無の淵に至る垂直性に対して個々のものの中に、アリストテレスのいう形相 (個々のものの本質) を見ていることになると思われますが、存在者 (エンス) は存在 (エッセ) の容れものであったことを思い出してください。ここで、プラトンの垂直性とアリストテレスの水平性は、ゴシック建築の如く見事に統合されることになります。

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

新プラトン主義の一者からの流出という問題と存在との関係を考える上で非常に面白い例があります。それは、ジル・ドゥルーズがスピノザの命題と表現を考える場面です (「第11章 表現の内在性と歴史的要素」)。内在性と表現の論理的な結びつきは複雑な伝統を持っているのですが、ドゥルーズは、全てはプラトンの分有から始まるように見えると言います。何が面白いかというと分有する側と分有される側の問題なのです。つまり、存在と存在者との分有の関係です。

流出と分有

プラトンの分有の原理は、とりわけ分有する側から考えられてきました。分有は、分有される側にいわば突発的・暴力的に現れている。つまり、トップダウン型の方向性を持っていて、いわば押し付けられるという分けです。しかし、分有されるものが不完全なものであるなら、分有を賦与されることは、完全なものが模倣されて与えられるということになり、外部に模倣者、つまり芸術家を必要とするとドゥルーズは言うのです。賦与者と賦与されるもの、そして被賦与者の三者がありますが、流出の過程ではそれぞれの被賦与者に対して賦与される内容が異なっているということになるでしょう。

ここで、なぜ第一原因は一者なのかとドゥルーズは問います。分有される側から分有の原因を求める時、分有を超えて、あるいは分有の上にその原理は見出されなければならないからです。第一原因は必然的に有あるいは実体を超えています。つまり、存在者や存在を超えていると考えることもできるわけですね。存在の向こうに別のメタ存在を立て、それを神として考えることもできる。ロッツは、この問題を神の創造という問題の中で取り扱いますが、そのことは、トマスの創造の所で取り上げましょう。

分有の変遷

プロティノスは、分有は質量的でも、模倣的でも、ダイモーン的でもなく流出的であると考えていました。やがて、新プラトン学派でアカデメイアの最後の学頭であったダマスキス (480頃-550) は、多が一者の内に集められ、集中され、包括されているが、一者はまた多の中に自らを展開しているとしています。これが、中世からルネサンスにかけて極めて重要になった一対の概念、「包み込む-展開する」であるとドゥルーズは述べています。双方向的ですね。

アウグスティヌス (354-430) は、この流出を神の創造に繋げます。神の内に諸々のイデアがあり、このイデアは範型的な価値、つまり手本としての価値を持つと考えます。イデアは神の無限の有を表しながら、神が意図し、為すことのできるものを表現している。神の内のイデアは範型的な類似であり、神によって無から創造される事物は模倣的な類似と言えるでしょう。分有は一種の模倣ですが、模倣の原理はモデルと模倣されるものの側に見出されるとしました。後に、ボナベントゥラ (1221頃-1274) は、表現は内在的で永遠であり、自らを表現するものとの関連においては多であるとしました。表現する芸術家は神の側にあるということでしょうか。

ちなみに、スピノザは流出や範型といった事柄に関する従属を取り払って、解放してしまいます。「無限の様態的変様に様態化される限りにおいて」神は、常に直接的に産出するとしました。「実体は自己自身のために自らを表現する。」この表現は形相的 か、あるいは質的だとドゥルーズは言います。「実体はあらゆる属性を包括する神の観念において自らを表現する」という分けです。

 

創造とは性起のことなのか


 

ギリシアのポイエーシスとキリスト教の創造

アウグスティヌスは、創造する精神は、時間も空間もなくして自らを動かし、それは創造した精神を時間を介して空間なしに動かし、物質的なものを時間と空間を介して動かすと述べています。これは明らかにアリストテレスの第一動者を思い出させます。ダンテの神曲』天国篇に登場しますね。ロッツは、トマスにとって運動は「創造」であるが、それはハイデッガーの言う性起に近いのか? 性起は「創造」の意味で解釈しうるのか? と問います。

聖アウグスティヌス(354-430)
マルク・アルシス 作 1715

ギリシアにおける創造=ポイエーシスには、キリスト教のように無からの創造という概念がありません。ギリシアのポイエーシスは変化なのです。第一質量の地水火風への変化を考えていただければ良いでしょう。ハイデッガーの言う創造は、ポイエーシスであり、変化であるとロッツは言います。性起から出来する、現前するものを現前化させることは、「アリストテレスにおいてはポイエーシスとして解釈され」、「のちに創造と解され」、最終的には超越論的意識による対象の措定へと流入すると述べているからです。

キリスト教の伝統に立つトマスにとって「創造」は「変化」では、ありませんでした。この「創造」は、個々のものの本質である形相原理がモノにおいて創造されると言うのです。それだけでなく、第一質量をも創造され、モノそのものとそれに付帯するすべてと共に創造されることになります。

創造は性起を思い起こさせる

トマスは『ペトルス・ロンバルドゥス命題集註解』の第一項の中で、「エッセの第一原因は同時にまた真理の第一原因であり、自ら第一の<真>をなしており、それは神である」としています。一方で、『真理論』では、創造された第一のものはエッセ (存在) だと述べています。「自ら第一の」という言葉に注目したいと思います。スピノザは「実体は自己自身のために自らを表現する」と述べましたが、トマスにとって神は自己の原因であり、その自己表現が創造であるといったらよいでしょう。トマスの神は第一原因なのです。ハイデッガーの神々は自己原因の神ではありません。

全ての存在者の存在が問題にされます。存在者 (エンス) は「変化」に留まり、存在 (エッセ) は「創造」に到達しているとロッツは述べています。絶対的な存在から「創造」が起こると言い換えてもよいと思います。存在はそれぞれの存在者をこれこれであると規定する形相の諸規定を含んでいる。つまり、存在者は存在の一部を分有していて、存在が第一のものであるということになり、存在は絶対的であるということになるのです。それはいかなる仕方でも存在者の存在ではなく、自存する存在なのだというのです。神は「創造」によって自らを被造物に伝達し、それと同時に神は自らに留まるという分けです。これはハイデッガーの言う「脱去」に近いと言います。ロッツはこう述べます。

「神は『創造』によって自らを被造物に伝達し、それと同時に神は自らに留まる。あるいは、神は被造物から脱け去る。神の発露において、本質的には、神は覆蔵されたものとしてとどまる。ここから帰結することは、創造』はまたハイデッガーの性起に近く、脱去における出来事であり、それはあまりにも自ら抜け去る根本的な出来事であるがゆえに、『変化』の中に消え去り、それに至る人は多くない。かくして、結局のところ、創造』あるいは性起から出来する存在は存在者のうちに消え去り、そうして通常の眼差しから脱け去り、それどころか否定される。脱去を辿って神まで至ることを排除したようだが、それはあとで本来的に正当化されることが必要とされる (村上喜良 訳)

先に述べたようにハイデッガーにとって、神は性起しますが、「存在者としての存在と、世界を世界化することから性起する存在の本質において立っている 」のでした。神が神であるかどうかは存在の配置から、その配置の内で性起するとしたのです。性起から由来する神が性起の始元としては見なされていません。彼の考え方を、キリスト教でいう創造の在り方に当てはめるのには、無理があるのです。トマスでは「創造」における神は存在者ではなく、神の本質としての存在 (エッセ) としてでした。存在としての無限の超越者は、容易にみて取れないし、無限の内在者は容易に見過ごされるから、性起は無に基づいているとロッツは言います。この無はあらかじめ与えられた材料の無いこと、つまり質料的原因のない無なのだと言います。キリスト教の「創造」は無から始まります。このことから、「創造」は奇しくもハイデッガーの言う性起に近いということが言えるのでしょう。これが、本書の重要なもう一つの主題です。

 

無と自由としての存在


 

存在者と無

スピノザは『エチカ』の第一部の中で「実体の性質には存在することが属している (定理7)」、「全ての実態は必然的に無限である (定理8)」、「神は全てのものの内在的原因であって超越的原因ではない (定理18)」「神の存在とその本質は同一である (定理20)」と述べています。彼の考えでは、諸属性は諸様態の本質を包み込み、そして、それらによって自らを表現します。ドゥルーズは、いくつかの矛盾を指摘していますが、これは神の観念があらゆる諸観念を包括し、それらによって自らを展開するのと同じであると述べています(『スピノザと表現の問題』)。スピノザにあるのは絶対無限の存在である唯一の実体であり、ないのは性起における無なのです。

ロッツはこう述べます。「性起は無から性起する」ここで、知っておいてほしいことは、ハイデッガーが、存在に向かう方向性をオントロギッシュと呼び、存在者に向かう方向をオンティッシュと呼んでいたことです。存在論 ontlogia から来ている言葉ですが、on は存在を logia は論理を表しますロッツはこの無を空虚な深淵としての無ではなく、オンテッシュに原因づけるものは全て排除されることだと言います。つまり、絶対的な存在 (esse absolute) に至ることのないものは全て無から存立すると言うのです。ここで、無が存在の覆いだという意味が分かります。

ヤコブ・ベーメ(1575-1624)もまた、「光り輝く」無を見ました。ベーメの無はあらゆるものから超越した無根拠の無を語っています。その無は、同時にあらゆるものの原因となる「根拠の根拠としての無」でもありました。そこから自己展開像として「よろこびのたわむれ」が起こるのです。調べてみないと断言はできませんが、「根拠の根拠としての無」はロッツの言う無なのかもしれませんね

存在の遊戯と言葉

ヘラクレイトスは、存在にも等しいロゴスの出現は隠れることを好むと言います。この出現はオンテッシュなものを突破することで初めてオントロギッシュな深みにおいて発見されるので、しばしば見過ごされると著者は言います。出現は真理と自由の「生起」であり、ハイデッガーはそれを創作や必然性とは区別しています。性起から現れる様々なエポックは自由な流れの中で如何なる理由も示さず、自らを展開します。それは、ヘラクレイトスの遊動、つまり最も高き遊戯として把握されるべきものだと著者は言います。神遊びということでしょうか。

マルティン・ハイデッガー
『ヘルダーリンの詩作の解明』
「ヘルダーリンと詩作の本性」収載

私たちの思惟の多様な活動は、一なる存在それ自身の遣わしによるとハイデッガーは言いました。その存在自身に呼びとめられて、様々な表象の仕方、経験の仕方、表現の仕方の内でそれらすべてにおいて「歴史的に同じもの」を思惟すると言いうのです。この歴運は、ある流れゆく過程を形成していきます。ここで、人間を存在に根拠付ける言葉は決定的な意義を持ちます。それは、その都度の分与から現れてくるからです。言葉の根拠は、存在の語りかけにあり、人間は自らの語りによってそれに応答するという分けです。ここに対話が生じるのです。ミハイル・バフチンの言う対話に近いと言えるかもしれません。

存在者には存在という根拠がありましたが、ハイデッガーの言うように存在は脱根拠、つまり自身の根拠ではないなら、根拠のないものに絶対的な必然性はあり得ないことになります。ここで、存在はヘラクレイトスの言う最高の遊戯として把握されることになるのです。この遊戯から存在の遣わしや分与が由来し、それらは人間に向かい、人間によって全ての存在者を包括するのです。この遣わしによって何が正確に分与されるかを読み取れるのは、この遣わしが言葉として思惟に関連付けられているからだと考えられています。

ハイデッガーは、『ヒューマニズムについて』のなかでこう述べています。「言葉は存在の家である。言葉という住居の中に人間は住む。思惟しているもの、作詩しているものは、この住居の番人である(小磯仁訳)。」ハイデッガーの愛した詩人のヘルダーリンはこう歌います「‥‥そして、合図は/はるか昔から神々の言葉なのだ」と。根源的な命名力によって名づけられた神々の言葉があったのかもしれません。そのことにより物事の本性が語りだし、それによって初めて事物が輝き始める。そのことによって「人間が現に有ること」が確固とした関わりのなかに引き込まれ、根拠づけられるとハイデッガーは言うのです。存在の開けの時空間の中で言葉が出会う時、詩が生まれます。ハイデッガーの言語論に特殊な感じを僕は持つのですが、トマスのエッセがBe動詞でもあったことが思い出されるのです。そこにはアリストテレスの余韻があります。本書の主題には、もう一つ「時間」の問題があるのですが、僕の興味本位でこちらの方を付け加えさせていただきました。

 

存在の親和性


 

ハイデッガーの言う存在が宗教的な思想に親和性が高いというふうに感じる人は、恐らく僕だけではないでしょう。ヘーゲルが「神は死んだ」という標語を言挙げし、それを地球の核に届けとばかり喧伝したのはニーチェであり、マルキシズムやサルトルもまた「神なき神学」を標榜します。こういう流れの中で神の問題を再び問い直せる思想の鍵は、ハイデッガーの言う存在ではなかったかと思われるのです。

神学者である筆者は、それを中世最大の神学者であるトマス・アクィナスの思想に結び付けようとしました。キリスト教に受け入れられたギリシア哲学が、そこから近世哲学へと旅立っていく結節点ですね。ここで顕わになるのは、この二人の思想家の違いの方だったのかもしれません。しかし、時に頭をよぎるのは、一つの思想を理解しようとする時、異なるパースペクティブからそれを眺めることによって新たな洞察が得られるというミハイル・バフチンの指摘です。少なくとも、ロッツは、神をとおしてハイデッガーの<存在>に新たな光を投げかけてくれていると言えます。そして、トマスと共に神学への新たな地点に立とうとしたと言えるのかもしれないのです。とは言え、トマスのスコラ学の凄みと同時にアリストテレスの復権がヨーロッパという土壌へ「在る」の探求という巨大な楔を打ち込んだ。そのことを実感した次第です。

 

 

参考図書

マルティン・ハイデッガー『存在と時間』上

マルティン・ハイデッガー『存在と時間』下  ハイデッガー選集 16・17

 

 

 

 

マルティン・ハイデッガー『オントロギー 事実性の解釈学』ハイデッガー全集 第63巻 現象学からみた存在論

 

 

アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』