バルーフ・スピノザ part1 イルミヤフ・ヨベル『スピノザ 異端の系譜』自由としての人間の力

 

スピノザの迷宮、危険な思想家、異端者、唯物論者、無神論者などなど様々なレッテルを貼られてきた思想家。今回は、そのバルーフ・スピノザを取り上げます。

「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示した様々な論考からできている(吉田量彦 訳)」と彼は『神学・政治論』に書いている。何が問題だったんだろうか。まともな正論に思える。生まれたのが早すぎたのか。あるいは、社交辞令を欠いた文章だったのだろうか。世間を怒らせ、騒がせたのは確かだったようだ。

「表現の自由」の代表者「自由の擁護者」とも言えるのだが、それだけの哲学者でなかったことは後世の思想家たちへの影響を考えればわかる。イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご紹介しよう。

●ハイネ「我々の同時代の哲学者たちは皆、おそらくそうと知ることもなく、バルーフ・スピノザが磨いた眼鏡越しに世界を見ている」
●ヘーゲル 「哲学をはじめるにあたっては、人はまずスピノザ主義者であらねばならない。」
●マルクスは、1841年、23歳の時に『カール・ハインリヒ・マルクスによるスピノザの〔神学・政治論〕』を書いたが、すべてスピノザの文章の引用であった。
●ニーチェは、1881年の夏、37歳頃、こう友人への手紙に書いている。「ぼくはすっかり驚きに打たれ、すっかり魅了されている。ぼくには先行者がいたのだ、しかもなんという先行者だろう ! ぼくはこれまでほとんどスピノザを知らなかった。」
●フロイト「私は自分がスピノザの学説に負っていることを喜んで認めます。私がはっきりと彼の名前に言及しなかった理由は、私が私の仮説に思い至ったのが、彼の著作の研究よりも彼が創出した雰囲気からであった、という以外にありません。」(小岸昭、E.ヨリッセン、細見和之 訳)

彼が創出した雰囲気とは何か。今回は、それを追ってみたい。

筆者のイルミヤフ・ヨベルは、1935年、イギリスの統治下にあったパレスチナのハイフアに生まれる。イスラエルの哲学者、思想家として知られる人だ。エルサレムのヘブライ大学で哲学と経済学を学ぶ。ラジオニュースの編集や司会者などをしながら学業を支えたという。ソルボンヌ大学やプリンストン大学で学び、後にそれらの大学の客員教授となっている。1968年にヘブライ大学のネイサン・ローテンストライヒのもとで博士号を取得する。

彼の哲学的な位置は、スピノザのように内在世界を存在する全てのものの源泉とする「内在の哲学」と言われている。イスラエルの政治コラムニストでもあり、文化・政治評論家でもある。イスラエル哲学賞、フランスのパルムアカデミック勲章のオフィシエでもあるらしい。

 

 

マラーノ (豚) とスピノザ


 

ポルトガル-イスラエル・シナゴーグ 内部  アムステルダム 
スペイン系ユダヤ人であるセファルディックユダヤ人によって建てられた、当時、世界最大のシナゴーグ。

スピノザの破門

1656年7月、アムステルダムにいた24歳のスピノザに破門宣言が下され、ユダヤ人のポルトガル共同体から追放される。これは、スピノザ一個人に関わるだけではない複雑な歴史的経緯が介在していた。

16世紀の終わり頃、スペインやポルトガルからユダヤ人たちがアムステルダムにやって来るようになる。いわゆる、セファルディムと呼ばれる人々で、彼らは、まだ、公でその宗教を実践することを許されていなかったが、1639年にアムステルダムのハウトグラフに初めてのシナゴーグ (通称ユダヤ教会) が建設され、後の1675年に大規模なポルトガル – イスラエル・シナゴーグが完成した。

スピノザは、1632年アムステルダムで生まれる。ユダヤ教徒共同体の記録では、「祝福されし(者)」を意味するベントという名前になっているが、公式文書では、そのヘブライ語であるバルーフと記載されているようだ。父親ミカエルは、ポルトガルから渡って来たアムステルダムの共同体行政の理事で、信望の厚い貿易商人だったがスピノザが22歳の時に亡くなる。6歳の時には既に母ハンナを失ってした。

スピノザは、ヘブライ語やタルムード、聖書などを学び、伝統的なユダヤ教育を受け、ユダヤ哲学を学んだ。やがて弟ガブリエルと共同で「ベントならびにガブリエル・デ・スピノザ商会」を設立して果物の輸出入を手掛けるようになる。23歳まではスピノザとユダヤ人共同体との友好な関係は表面的には変化がなく、シナゴークとも問題はなく、税金も納め、寄付も支払っていたという。ここからは、再びイルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』からご案内する。

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』

破門は、アムステルダムのユダヤ人共同体における規律と宗教的権威を行き渡らせるための一般的な措置だったらしい。異端行為や冒涜行為の他、シナゴーグに武器を持ち込む、人を中傷する文書を配る、非公式の集会を開く、納税の拒否などの、いわば、違反行為への訓戒という意味が強かったという。悔い改め、慈善金を寄付するなどすれば破門は解かれた。しかし、スピノザは謝罪せず、破門を受け入れる。

ユダヤ社会からは、完全にオミットされ、存在しないのと同然の扱いを宣言される。しかし、財産を奪われることもなく、迫害の犠牲などでもなく、社会から追放されたのでもなかったという。その生活において必要な孤独ではあったが、世間から疎外されているわけでもなく、社会性を失うことなく、友人にも崇拝者にも恵まれていた。研究を続けていけるような年金で質素な生活を営んでいけたという。

マラーノ

16世紀終わり頃から、スペイン・ポルトガルといったイベリア半島からユダヤ人たちが宗教的に寛容だったオランダに避難し始めていた。異端審問から逃れるためだった。

500年に亘ってスペインは、世界におけるユダヤ人離散地「ディアスポラ」の中心地であった。しかし、1391年に下級聖職者や失意の副司教たちに扇動された暴徒によって「死か洗礼か」をスローガンにユダヤ人虐殺が行われ、生き残ったユダヤ人たちは十字架に屈することになる。1411年には、ユダヤ人改宗化熱が再燃し、その後イベリア半島の一つの社会現象といったものに発展していった。キリスト教側は、キリスト教への改宗者とその子孫を「コンベルソ」と呼び、ユダヤ教徒側は強制改宗者「アヌシム」と呼んだ。しかし、当初から彼らは一緒くたに「マ」、つまり「豚」という蔑称で呼ばれいたが、やがてこの呼び名が定着していった。

改宗者の多くは隠れユダヤ教徒であって日本の隠れキリシタンのように秘密裏に信仰を守り続けた。そのことは当局にとっては、頭痛の種となり、トラブルや迫害を誘引する結果にもなる。そして、改宗クリスチャンのユダヤ人の中には、その商才をふるって新興都市ブルジョワ階級にのし上がり、羨望や嫉妬の的にもなった。ついに、1449年、トレドは最初の深刻なユダヤ人虐殺「ポグロム」の地となった。それは、忌まわしいあの優生思想に基づくものだったのである。ナチスより約500年早い。

イザベル一世(1451-1504)作者未詳

アラゴン王にフェルナンド二世が、カスティリャ王に、その妻イザベル一世が即位し、スペインは近代的統一と世界帝国への基礎を形作るが、彼らはカトリックによる新たな専制君主国家を作り上げるための政策としてローマ教皇庁とは無関係なスペイン独自の異端審問所を設けた。異端者と魔女を一掃するためのこの装置は、スペイン全土に恐怖と疑惑と虚実あいまった密告の嵐をもたらしたのである。

コロンブスがインドに向かって旅立とうとしていた頃、多くのユダヤ人が隣国に逃れていった。しかし、ポルトガル王がマヌエル一世に交代すると、彼はスペインのフェルナンド、イザベル両王の娘との政略結婚を望み、彼らは自国と同様にポルトガルでのユダヤ教徒の一掃を条件にした。はポルトガルでよく組織され、とりわけ国際貿易での活躍は目覚ましかった。しかし、その地で、ほぼ半世紀の間、迫害されずにいたユダヤ教徒にも異端審問の魔の手が伸び始めるのである。1536年に異端審問所がポルトガルでも開設された。

ユダヤ人たちは16世紀から17世紀を通じてベニス、ハンブルク、ロンドンなどへ、とりわけ貿易都市アムステルダムへ逃れていき、中には公然とユダヤ教徒に復帰した人たちも多かったのである。彼らが大切に守り続けていた信仰は、モーゼの律法が最も重要なものだった。しかし、断片的で、歪められてしまっていたのである。モーゼの律法の個々の規律と慣習は徐々に記憶から消えていくが、手に入れられる情報は、ラテン語訳聖書、キリスト教の史料、反ユダヤ教文献でしかなかった。記憶にとどめていた数少ない戒律は、異端審問所に見つかれば命にかかわった。マが保持していたユダヤ教にもキリスト教の影響が入り込んでいった。そういった状況の中にスピノザの両親もいたのである。

 

『神学・政治論』既成観念を切り捨てる


 

このような複雑な宗教的・社会的境遇の中に彼は育った。そして、表面的には平穏なオランダの宗教・政治事情は、内部で軋轢を深めていたのである。オランダは、カトリック教国スペインの支配から脱した独立戦争後、カルヴァン派の流れを汲むプロテスタントが興隆する。この改革派は主流派と幾つかの非主流派に分裂し、訳者の吉田量彦さんの言葉を借りれば育ちすぎて収集のつかなくなった盆栽のようになった。

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』上

それに、政治体制も総督派と議会派が抗争していた。総督はスペイン支配時代の監督責任者で、独立後は独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムの子孫が世襲していた。原則として州ごとの任命だったが、いくつもの州を兼務したである。それに対して総督を排して議会主導を狙うのが議会派だった。改革派の宗教者たちは、それらの政治家たちに取り入ろうとしていたのである。

『神学・政治論』が書かれたのはこのような状況の中だった。著者名なし、出版元はハンブルクのヘンリクス・キュンラート出版だが架空の出版社名でした。実際に出版されたのはアムステルダムでスピノザの友人の出版社だったという。でも、すぐにスピノザが書いたのではないかと噂され始める。

こんな風に書かれていた。「自然的な神の法において、特定の歴史物語を信じるよう求められることはない。神への愛は神を知ることから生じるが、神の知のほうは、それ自体で確実に知られる共有概念から汲み出す必要があるからだ。(吉田量彦 訳)」ここまでは、おおよそ問題などないのだが、次はかなりどぎつい。「だから、わたしたちが最高善をきわめるには〔たとえば聖書という歴史物語を信じることが必ず求められる、などという意見こそ的外れのきわみなのである。(同上)」宗教界にケンカを売っているとしか思えない。

この1670年に出版された本は、当時の新たな政権によって危険視され1674年には禁書処分となった。これで、本書は異端の書とされ、よくて「無神論と紙一重の自然主義」と呼ばれるようになる。ライプニッツの大学時代の教官だったヤーコプ・トマジウス (1622-1684) の言葉だ。だが、この時のスピノザの気持ちを200年後の、フロイトのこの言葉ほどに代弁しているものはないのではないだろうか。

「精神分析を最初に提唱した者が一人のユダヤ人だったということも、おそらくは全く偶然ということはないだろう。こういう新しい理論の形で信念を公言するためには、孤独な野党という位置を受け入れる、ある程度の覚悟が必要だった――そのような状況にユダヤ人ほど親しんでいる者はいないのである(『精神分析への抵抗』小岸昭 他訳)。」

 

エチカ』幾何学的迷宮


 

バルーフ・スピノザ『エチカ』上

本質・属性・様態

スピノザは宗教の本質とは何かを考えようとした。そう考えても不思議でない状況でもあった。それに思想的な背景としてデカルトの機械論的二元論とホッブスの社会契約論の登場があった。彼は、最初、デカルトの顰 (ひそみ) に倣おうとしたが考えを改め、独自な道を歩もうとする。こうしてスピノザの主著『エチカ』は書かれるのだが、結局彼の死後にしか日の目を見なかったのである。

エチカ』の翻訳者畑中尚志さんは、こう纏めておられる。実体 (スブスタンティア) とは自己原因と等置であり、自然と等置である。スピノザは凡ての原因であり自らは何の原因も要しない存在を神としている。この自己原因の神は実体と等しいものとなる。神が自然と等しいとなれば汎神論となると。

スピノザはデカルトよりもアリストテレス派だと言われるが、アリストテレスの強い影響下にあったトマス・アクィナスがエッセ (存在) を神としていることスピノザが、神は実体 (存在) と等しいとしていることには確認しておかなければならない。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、スピノザの「実体」「本質」「属性」「性質/態」といった言葉の使い分けに注目しているので、まず、アリストテレスの実体、本質、属性、性質についての定義を見てみたい。

今道友信さんの『アリストテレス』によれば、存在には、ギリシア語で on (存在)、ousia (実体)、einai (存在すること) の区別がある。存在については、ヨハネス・ロッツ『ハイデガーとトマス・アクィナス』神は創造において性起するに書いておいた。これらの語は、いずれも、英語で言う to be にあたる einai の文法変化によるものでousia は einai の女性形現在分詞 ousa の変形であるという。実体 (ousia/ウーシア) に関していえば、以下のように区分できる。

(一)第一実体 他の属性として述語とならないもの、究極の主語または主体(基体)、すなわち個体のこと。端的な物体ないし単純物質のことであり、自ら主語であって他の述語とならないもの。特定の人や特定の物を指している。
(二)第二実体 これと指しうる存在であり、かつ離れて存在しうるもの、つまり各々のものの形式 (morphē) と形相 (eidos) である。一般的な人や馬と言った類や種といった普遍的観念的な実体を指している。

今道友信『アリストテレス』

このように実体とは、<形相と質量からなるそれぞれの個体である「個物」と普遍的観念的な実体としての「形相」の二つに分類される。ちなみにスコラ学では個的現実的存在 (ens) と本質 (essentia) に向かう実体とに分けられている。第二実体における形相が本質ということになる。次は、表現である諸属性とは何かと言うことになる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではある。述語になるものを纏めたものとして範疇がよく知られていて、主語的存在者が範疇的存在者を属性として持つと考えられていた。範疇が実体的存在者の属性ということになる。その範疇には、実体 (ousia/羅substantia)、量、質、関係、場所、時間、状態、持前(所持)、能動、受動の10項目が挙げられていて、ものの大きさ、形、色、それが在る場所などの性質、特長を指している。それで、属性とは、本質=形相を構成する性質と考えられる。巻末に存在から範疇へ至る一覧表を掲載しておきます。

しかし、アリストテレスは、個物としての「個の存在」を実体として設定したために、その個物性を普遍者であるカテゴリー(述語)で主張し尽くすことは出来ない。例えば、日々、刻々と変化するものを表現し尽くすことには限界がある。それで、カテゴリーの諸形式による一般的な述語に留まってしまうと今道さんは言う。実体的存在の<存在は底をつかれず残るというのである。そこには、従来の論理学の限界があったのである。

一方、『エチカ』では、実体、属性、様態の定義はこのようになっている。

・定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
・定義四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
・定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在り、かつ他の物によって考えられるもの、と解する。
・定義六 神とは絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
(『エチカ』第一部 「神について」/畠中尚志 訳)

バルーフ・スピノザ『エチカ』下

唯一の実体である神は無限に多くの属性からなり、その属性の各々が、その類において無限であると述べられている。自然の中の一切のものは、属性の変状もしくは、様態であり、これらは個物と言う名で呼ばれる。属性には、現実に人間の認識の対象となる延長 (物体が空間の部分を占めている性質) の属性と思惟の属性が挙げられているが、このようなものが属性、つまり「実体の表現」である。

アリストテレスでは、存在ー実体=個物・形相ー本質ー範疇となっていた階層構造が、スピノザでは、実体―属性ー様態という形に圧縮されている。

デカルトの考えでは、物体という実体の属性延長であり精神の属性思惟であり、それらによって認識が可能になるとして、延長と思惟とを別々の属性の様態として区別した。人間は合成的実体で精神と身体から成り立っている。しかし、延長を持たない精神が、どうやって延長を持つ体を動かせるのか十分な説明ができなくなる。

スピノザにとっては、存在するのは唯一の実体で、完全なものであり、如何なるものも欠くことがない。もし、思索実体と延長実体が存在するとしたら両者は同一の実体でなければならない。『エチカ』第二部の第一定理「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」、同じく第二定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である」を受け入れるなら思惟実体の様態はことごとく延長実体のいずれかの様態と同一でなければならず、その逆も然りということになる。この対応関係を明らかにしているのが定理七「観念の秩序及び連結は物の秩序及び連結と同一である」ということになる。これが、デカルトと決別する心身並行論となるのである。 (エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』)

様態は実体が変化してゆくかりそめの形であり、実体の本質と知性が把握するものである。神は自己原因であり、あらゆる事物の原因であるが、固有の本質を構成する諸々の形相自身のうちに事物を産出し、その本質の観念のうちに自らを理解するままに諸観念を創出するという。それらの産出は、範型といったものを模倣することなく直接に生み出される。そこには、自身が産出し作用する絶対的な力=コナトゥスがあるとドゥルーズはいうのである(『スピノザと表現の問題』)

スピノザは、神という実体から無限というマジックを使いながら「自然」に直結させようとしているかに見える。ドゥルーズは、メルロ=ポンティが17世紀の哲学における最も理解しがたいものとして「無限から出発する無邪気な思惟方法」と呼ぶものを紹介している (『有名な哲学者』) が、ドゥルーズ自身は、積極的な無限の力と現実性とを説明するために、独創的な概念要素を持つあらゆる手段がスピノザには必要であったという。それで 『スピノザと表現の問題』という著作が生まれた。僕は、思うのだけれど、アリストテレスの底をつかれず残る実体的存在の<存在>は、無限によって救われるのかもしれないのだが

スピノザの無限とパースの点

伊藤邦武『パ―スの宇宙論』

自身が絶対無限である実有の神は、各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなる実体であった。自然の中の一切の物は神あるいは属性の変状ないし様態であり、個物と言う名で呼ばれる。神はこれらを自由意志ではなく法則によって必然的に生じせしめる。ここは『エチカ』の最大の謎である。誰でも疑問に思う。絶対無限には、無限の属性があり、無限の様態が生まれる。どうやって?

その糸口を探るのに絶好の著書がある。伊藤邦武さんの『パ―スの宇宙論』である。そこには、基本的でありながら哲学的にも数学的にも極めて厄介な連続性の問題が述べられていた。直線は、点の無数の連続的な繋がりとして考えられるが、その線を切ったときその切り口は点なのか?もし、点と点の間を切り離すことができるのなら隙間がすでに存在することになり、その直線は、有限個の点でできていることになる。ライプニッツも悩ませたこの問題は、深刻な「迷宮」だったのである。

この問題を解決するためにアメリカの論理学者・思想家であるチャールズ・パース(1839-1914)は、アリストテレスの言う線を作る点は「線を連続させるとともに、これを限定区分しもする。点は、長さの部分の始めであるとともに、他の部分の終わりでもある。」という考え方をとる。この考え方からすると、点は自分の分身を作るらしい。なんだか忍者みたいだ。ルール違反のような気もするのだが、線の端っこは、魔法のようにいくつもの点が飛び出すことができ、それらの点は、分裂(破裂)の前には一点であったというのである。一つの点は、0と1の間の存在する無理数のようなものとして考えているのだ(超準解析の無限小の概念を思わせるといわれている)。この考えは、ぼくが『出現と運動』というシリーズを描く時にずっと頭にあったことだけれど、これならスピノザの無限という迷宮を抜け出るためのアリアドネの赤い糸口になるんじゃないのかな。メルロ=ポンティはスピノザの無限を見くびっていたのだと思う。

カントール集合

ちなみに、この問題を数学的に解決したのはドイツの数学者ゲオルク・カントール (1845-1918) だと言われる。集合論から様々な種類の「数の系列について、無限の連鎖の特徴を規定する方法を確立するとともに、様々な無限系列の種類の間に見られる階層的関係を明瞭にする方法を提示した。図のカントール集合は線分を三等分して、その真ん中の三分の一を抜き取る操作を無限に繰り返す。面白いのは、パースが連続体を扱っている時にカントールの方法を見出していることだ。連続と無限。だか、無限には気をつけた方がいい。

 

スピノザの雰囲気


 

イルミヤフ・ヨベルの『スピノザ 異端の系譜』に戻ろう。スピノザは聖書をそれ自体の記述から科学的とも言えるテキスト解釈から出発しようとする。それは聖書以外の間テクスト性を考慮しなければならないことを意味していた。一方で、スピノザの神は絶対的な内在性の神であり、現実の総体と等しいという理性的直観を根幹に据えていた。それをどう見るかは問題となる。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
(1770-1831)シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるレリーフ

ヘーゲルが150年を経てスピノザの観点からより精神性の強い哲学を発展させようとしていた。存在や実体を超える神といった超越の観念を否定するだけでなく、内在の領域を神聖なものとみなした唯一の思想家だとヨベルは言う。弁証法的な過程を通して彼が「絶対知」と呼んだ哲学の最終的な総合形態の体系を現わそうとした。まず、最初にスピノザの立場を本質的で必然的なものと承認し、その後にこの立場それ自身が自らより高次の立場に高まっていくようにさせたスピノザの内在性を踏み台にしようとしたのだ。

ヘーゲルの新しい体系の中で特権的な地位にあるのは、このスピノザとアリストテレス、カントのみだとヨベルはいう。ヘーゲルにとって絶対的なものは、スピノザの言う「もの」のような実体ではなく、カントの言うような主観の「私は考える」でもなかった。これらを契機としながら、よりいっそう高次の総合的立場で包含しうるような「概念」と呼ばれる絶対者だったのである。ヘーゲルは、スピノザの問題は、あまりに神が多すぎる点にあるという。スピノザの果てしない全体性は、一切の差異を抹消する圧倒的な原理だというのである。

カール・マルクス (1818-1883) 1865

マルクスは、スピノザの『神学・政治論』から社会的・文化的発展の微妙なメカニズムを哲学者として追及するという強い示唆を得る。スピノザは、そのための言語や神話や解釈学のある種の用法を編み出し、それを大衆の意識の次元に役立てようとしたが、それは、いわば上から目線だった。これをマルクスは、大衆自体をプロレタリアートとして変容されること、理論は大衆の意識を彼らが経験している何らかの現実の窮状に対して目覚めさせるようにしなければならないとした。ボトムアップにしようとしたのだ。大衆=マルチチュードへの目線である。マルクスは、未来のための変革は、ユートピア的な夢想ではなく、現実の状況が指し示している事柄に対する科学的な理解を伴っていなければならないとしたが、そのことをスピノザは既に予言していたとヨベルは述べている。

ニーチェは、スピノザの言う神即ち自然が「世界とは結局古くから愛されてきた無限の‥‥神に似たものだ」「何らかの仕方で古き神がなお生きている」と信じたいという「願望」であると語った。ニーチェは、神から至高の善と智恵を取り除き、至高の力に還元してしまう。それは、「運命への愛」と「永劫回帰」によって排除されたものだった。スピノザの考えた「自身が産出し作用する絶対的な力」であるコナトゥスだけが残ったのである。

フロイトは、ニーチェの陶酔的で華麗な思弁的思想を恐れて読むのをやめたという。彼には純然たる経験的な探求が必要だった。それには、ニーチェは濃すぎたのである。スピノザの思考様式こそ、ダ・ヴィンチとの共通する性格を持っていたという。それがフロイトの言う「雰囲気」だった。『レオナルド・ダ・ヴィンチと彼の幼少期の記憶』の中で彼はこう述べた。「その飽くことなき、倦むことなき知への渇望のゆえに、レオナルドはイタリアのファウストと呼ばれてきた。しかし、‥‥レオナルドの発展はスピノザの思考様式に近づいていくという意見を口にしてみることも可能なのかもしれない(小岸昭 他訳)。」

ハイネは、こう述べている。「汎神論はドイツでは公然たる秘密である。実際我々は有神論の段階から抜け出たのである。我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない。我々は成年に達し、父の監視を必要としていない。我々はまた偉大な職人の工作品でもない。有神論は、奴隷と子供、ジュネーブ人たちの宗教、時計職人たちの宗教なのだ(『歴史』小岸昭 他訳)。」

ヘブライ人たちは神を恐るべき専制君主と考え、キリスト教徒たちは慈愛に満ちた父と考える。ルソーとその弟子たち、ジュネーブ学派全体は、神を聡明な技術者と考えるとハイネは述べる。機械主義的世界観はデカルト以来、主流になりつつあった。ハイネは、スピノザの思想をヘーゲルよりに解釈しなおしているとヨベルは言う。神は自然と一体である。しかし、ハイネの場合、そこにはキリスト教の聖なる精神ではなく、「聖なる物質」があった。当世風の唯物的な影響が萌し始めている。しかし、注目すべきは「我々は自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉だろう。「我々は神々の民主主義を創設しつつある」とも言う

 

自由としての人間の力


 

ハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)
シャルル・グレール 画  1851

スピノザの雰囲気とは、結局、ハイネの言う「自由であって、いかなる威圧的な専制君主も欲していない」という言葉につきるのではないかと思われる。それはどのような歴史的な権威よりも、当世を席巻する流行の思想よりも、自らが考え、自らが打ち立ててゆく思考の自由と言うべきものだった。これが、獄中から立候補して国会議員になった思想家アントニオ・ネグリへのスピノザの一撃である。

ネグリは、スピノザにおける先進的なもの、さらに強力な何かがあるとすれば、それは絶対的に唯物論的な意識であり、生政治的な意識であるとしてこう述べている。「制度的な関係が常によりいっそう構築されるとしたらそれは、常によりいっそう充溢していく自己が生産された結果です。スピノザの汎神論とは――今日もっとも宗教的な哲学者でさえだれもこのことを話さない理由はわかりませんが――愛を共同=<共>でいとなむことを通じて真実を生産するなかに、人間の力を再認することです(『スピノザとわたしたち』信友建志訳)。」

ちなみにノヴァーリスは、スピノザの愛についてこう述べている。「スピノザとツィンツェンドルフは愛の無限のイデーを探求し、花の雄蕊にとまって、愛のために自己を実現しつつ自己のために愛を実現する方法を予感していた(『ゾフィーへの手紙 1796/7/8』中井章子 訳)。」ノヴァーリス、う~ん、香しい。

さて、『エチカ』の最後にスピノザは、このように述べている。「私の示した道はきわめて峻厳であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。また、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら幸福がすぐ手近にあって大した苦労なしに見つかるとしたら、それが、ほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である畠中尚志 訳)。」

Q.E.D.(Quod Erat Demonstrandum)これが示されるべきことであった。

 

付 アリストテレス「存在の一覧表」 今道友信『アリストテレス』より

付帯的存在とは、偶然的な意味で存在と言われるもの。例えば、家を建てた場合に、その家がある人には快適な存在となり、ある人には不便な存在になる。このような偶発的存在は学問の対象にならない。

第一実体とは、それぞれの個物、例えば、植田という名前の人であり、基体と呼ばれる。
第二実体とは、その個物に属する種や類に関する普遍者を指していて、精神の眼で見抜かれるという意味の「見られた形」= エイドスという言葉で呼ばれた。プラトンの言うイデアと同じものである。しかし、アリストテレスの形相は、生物における種概念のように個物に内在する普遍あるいは形式であるために実体と不可分であった。これに対してイデアは価値の理念として必ずしも実体を必要としない場合がある。アリストテレスは、人はイデアの影ではなく、私の私と言う実体の中に人と言う種を内包していると考える。第一、第二を併せて実体とは、個物(基体)と形相を示していることになる。

もし、私が人であるという判断が正しいなら、私の中に私と言う基体と私の本質的属性である人間とが、私において結合しているのを命題として結合させたからだということになる。そのような命題は無数に生み出せる。しかし、このような多様な存在が何故存在するのかを問う時、必然的に第一の存在、あらゆる現象の統括者の存在が想定される。それを探し求める第一の哲学が神の存在を証明する神学となる。

認識されるということは何らかの意味で述語化されることであり、自己において述語とならないものは認識不能ではあるが、個物を原因から分析することはできる。大別すると大理石の柱であれば、材料としての大理石である質量因、内的組織としての規定、型、形態である形相因、柱にするという目的である目的因、大理石が柱になるという転化、つまり物事の静止の第一の起点とそこから動き出すという始動因あるいは起動因に分類される。

その「述語する」という動詞であるカテゴリオからカテゴリー(範疇)という言葉は由来する。どちらかと言えば論理的整理というより文法的整理と言った意味合いが強いという。「ソクラテスは賢い」における「賢い」は形容詞であるし、「その事件はリュケイオンで起こった」と言えば、「リュケイオンで」は場所を表す副詞で「起こった」は動詞である。言辞の数だけカテゴリーがあるが、それを纏めて10に分類したものが有名な範疇である。そのうちの実体というのは紛らわしいけれど以下のような定義になっている。

実体 (ousia/羅substantia)、「なんであるかに応ずるもの」
量 「いかほどに応ずるもの」
質 「どのようにに応ずるもの」
関係「に対してどうあるかに応ずるもの」
場所「どこに応ずるもの」
時間「いつに応ずるもの」
状態(位置)「どう置かれているかに応ずるもの」
持前(所持)「何をそなえているかに応ずるもの」
能動「することに応ずるもの」
受動「されることに応ずるもの」

 

引用文献 及び 参考図書

 

バルーフ・スピノザ『神学・政治論』下

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

 

アントニオ・ネグリ『スピノザとわたしたち』

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』