バルーフ・スピノザ part2「 スピノザとの対話」ヘルダー、ナドラー、カーリー、ドゥルーズ

 

レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
『ユダヤの小さな花嫁』 版画

1640年代にレンブラントが、アムステルダムのブレーストラー通りの贅沢な邸宅に住んでいた頃、身近なユダヤ教徒たちを素描し、銅版画にし、油彩で描いていた。通りの向かいに住んでいたユダヤ教の師、つまりラビのメッセナ・ベン・イスラエルに『べルシャザルの饗宴』に描くアラム語の警句について教えを受けたり、彼の肖像を描いたりもし、ポーランド系のユダヤ人たちが礼拝堂 (シナゴーク) の外に集まっている様子をエッチングで制作した。オランダ人同様、ポルトガル系ユダヤ人もレンブラントのよき蒐集家だった。

そのポルトガル系ユダヤ人であるスピノザの生家は、この裏手の同じ区画にあった。レンブラント工房の徒弟の一人であるレーンデルト・ファン・べイエレンは、スピノザのラテン語教師だったフランシスクス・ファン・デン・エンデンの家に寄宿していたというし、エンデンは、かつては画商だった。レンブラントとスピノザ、果たして実際に遭遇していたのだろうか。フェルメールとの関係を言う人もあり、色々な憶測を呼んでいる。しかし、ただ、ただ、彼は静かに生活していた、と考えられていた。スピノザは、そんなミステリアスな存在であった。

18世紀末から19世紀はじめにかけて「汎神論論争」は、別名「スピノザ論争」といわれ、多くの知識人たちを巻き込んだ。ドイツでは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)によって火が付けられる。その頃、スピノザは「無神論者で汎神論者、やみくもな必然性を説く人物、啓示の敵で、宗教をあざ笑い、国家と市民社会を荒廃させるもの、要するに人類の敵」とさえ思われていた。ヤコービは、超感覚的な対象をスピノザのように理性によって捉えることは出来ないとする立場だった。人間は、何かしら「在る」という存在を感得できるとして、そこに人間の自由を認めようとするのだった。

フリードリヒ・ハインリッヒ・ヤコービ
ヨハン・ペーター・フォン・ランガー画 1801

コトの起こりは、ゴットホルト・エフライム・レッシング (1729-1781) がスピノザ主義者だということを知ったヤコービがユダヤ人であり、あの音楽家の祖父にあたる思想家モーゼス・メンデルスゾーン (1729-1786) に真実かどうかを確かめるための書簡やり取りすることから始まり、それらの写しがハーマンやゲーテ、ヘルダーに送られ、彼らとの間でも議論が交わされるようになったことにある。メンデルスゾーンは、レッシングがスピノザ主義者だということを知らなかったし、積年の友人であった自分よりも面識の浅いヤコービがそのことを知っていることに大変なショックを受けるのである。

メンデルスゾーンは、スピノザに対する偏見はないが、その思想に精通はしていなかった。逆にヤコービは、敵の手の内をよく研究していたのである。徐々に二人の仲は、険悪なものになっていった。メンデルスゾーンは、ヤコービがレッシングのスピノザ主義を発表する前に、その汎神論的主張は純化されたものであるという趣旨の出版物を刊行しようとし、それを知ったヤコービは、メンデルスゾーンの許可なく往復書簡集を出版してしまったのである。メンデルスゾーンは厳寒の夜、ヤコービへの反論である『レッシングの友たちへ』の原稿を出版社に届けたが、胸の痛みを訴えて寝込み、5日後に亡くなってしまう。今回ご紹介する著書の一つ、ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の訳者である吉田達さんによれば、ヤコービがメンデルスゾーンの寿命を縮めたと言われてもしかたない状況だったという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
(1730-1788)アントン・グラフ画 1785

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは1744年、プロイセン王国の東部のモールンゲン、現ポーランド領モロンクに生まれた。父は織物職人で貧しい家庭に育った。7年戦争当時にモールンゲンに駐在していた軍医に見初められケーニヒスベルク大学で医学を学べるようになるが、馴染めず神学部に移り、そこで偶々、カントの講義を聞いたことから、その百科全書的な知識に感化される。それに加えて「北方の博士」とか「北方の魔術師」と呼ばれたヨハン・ゲオルク・ハーマンに深い影響を受けた。ドイツ語圏の各地で教師として、あるいはプロテスタントの聖職者として働きながら、詩作、評論、言語学、哲学、歴史、宗教、教育、自然科学、各国の民謡採集、翻訳など幅広い活動を行った思想家である。

ヘルダーは、シュトラスブールでは若きゲーテに大きな影響を与えることになり親密な関係となる。だが、カントはヘルダーの主著『人類史の哲学の構想』に対して否定的な評価を下し、ヘルダーもカント批判を展開するなどしたし、終生の師と仰いだハーマンにも、もう一つの代表作『言語起源論』を巡って批判を浴びるなど、この肖像画からは窺えない辛辣な性格が災いして、蜜月の関係にあったゲーテとも平穏でなくなっている。訳者の吉田達さんは、ヘルダーには孤独の影が付きまとうという。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
『神 スピノザをめぐる対話』

前回のバルーフ・スピノザ part1 では、スピノザのマノとしての出自と後の詩人や思想家たち、ハイネ、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイトなどへの影響についてご紹介したが、今回 part2 は、柱の一つとしてヨハン・ゴットフリート・ヘルダー著『神 スピノザをめぐる対話』をお送りする。本書はヤコービとメンデルスゾーンとのやり取りの渦中にいたヘルダーのスピノザ論と言っても良いもので、ある種スピノザ論の解説にもなっている。

このヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』と、もう一つの柱としてスティーヴン・ナドラーの『スピノザ ある哲学者の人生』という浩瀚な伝記の内容を併せてご紹介します。スピノザの伝記としては最良のものではないだろうか。筆者のスティーヴン・ナドラーは、ウィスコンシン大学マディソン校の哲学教授である。マルブランシュ、デカルト、ライプニッツ、カント、そしてスピノザの研究者として知られる人で、とりわけスピノザ研究では注目すべき業績を上げていて、その人生と哲学の総合的な研究で世界的な顕学として知られている。

その他に『エチカ』の解読には必須のスピノザ学者、エドゥイン・カーリーの『スピノザ「エチカ」を読む』、そして、ジル・ドゥルーズの『スピノザ』なども交えて盛りだくさんでお送りしたいと思っている。

 

何故、破門だったのか


 

コレギアント派の集会へ

メナッセ・ベン・イスラエル (1604-1657)
レンブラント・ファン・レイン 版画

15歳の頃に、彼は「ユダヤ教徒の最高の知恵者にも解決困難な問題」に遭遇したという。道元が本学思想に身悶えしたのに似ている。しかし、何の問題だったかは、はっきりしていない。満足した解答が得られなかった彼は、商売の関係で得た証券取引所での交友関係に知的な活路を求めるようになる。父親を失った後、商売をしながら「律法の冠」と言われる学塾に通ってラビ・モルテーラに聖書とその注釈などを学び、先ほどのメナッセ・ベン・イスラエルからユダヤ教神秘主義の手ほどきを受けた可能性が大きいと言われるが、それに満足できなかったスピノザは、広い学識と視野を持ち、幼児洗礼に疑問を持つメノー派のようなプロテスタント諸派の人々と付き合いを深めていった。彼らは、コレギアント派と呼ばれる人々で、平等で非権威主義的なクエーカー教徒たちに似ていると言われる。牧師を置かず、信仰は心の奥深くの内的信仰によってのみ獲得され、誠実で率直な態度で信仰を表明することを願う人々の自由と平等を守ろうとした。

ファン・デン・エンデンとデカルトの影響

そのような人々の中でも、先ほど述べたラテン語教師、フランシスクス・ファン・デン・エンデンはスピノザに大きな影響を与えた人だった。イエズス会に入会したが放逐され、医学博士の学位を取得したが画商と書店を経営し、それも上手くいかず、1671年までアムステルダムでラテン語を中心に哲学、科学、数学、物理などを手広く教えていた。その後、パリに学校を移し、フランス王ルイ14世に対する陰謀と共和国形態の国家樹立に加担したとして絞首刑になっている。故国ネーデルランドへの侵攻とそれを突き動かしている大臣たちへの憎しみがあったという。

スティーヴン・ナドラー
『スピノザ ある哲学者の人生』

彼の主張は、宗教的信仰は個人的なことがらであり、いかなる組織、権威によっても統制されるべきでなく、真の敬虔とは神の愛と隣人愛のみにあって、その外向きの愛、つまり公共の宗教的実践における所作は、しばしば迷信的態度と隣合せだとするものだった。後のスピノザの『神学・政治論』を彷彿とさせるが、彼に出会うまでにスピノザは不完全な形ではあったにしてもこれと似た思想を既に培っていたと考えられ、ファン・デン・エンデンの影響は過大視されるべきでないとナドラーは述べている。だが、少なくとも、彼からギリシヤ・ローマの哲学と古典を学び、マキアヴェリ、ホッブス、フロティウス、カルヴァン、トマス・モアなどの16・17世紀の思想に精通することができた。そしてスピノザは、おそらく彼のラテン語教授の助手をするまでになっていた

とりわけ、最も大きな影響はデカルトの思想から受けることになる。ルネ・デカルトは1596年にフランスで生まれたが、人生のほとんどをここネーデルランドで過ごした。この国の豊かさ、治安の良さを愛で、彼の得たかった自由と孤独と平穏を得たことを言祝いだのである。宗教者たちから無神論の疑いの目で見られながらもその影響力は翳りを見せることなく、スピノザが1654年から翌年にかけて哲学と自然科学を学ぼうとする熱情に答えたのはデカルトの思想であった。ファン・デン・エンデン自身、デカルト学派としての名声を得ていたのである。

 

破門/へレム

スピノザはユダヤ教との距離をとり始め、徐々にシナゴーク (礼拝堂) から身を遠ざけるようになる。ピエール・ベール は『歴史批評辞典』の中で、有名な事件についてこう書いている。スピノザは「『劇場から立ち去ろうとする彼を刃物で切り付けるという一ユダヤ人による卑劣な襲撃がなされなかったならば少なくともその後のしばらくの間は、おそらく共同体との接触に真に自発的に保つつもりでいた。『その時の傷は浅かったが、暗殺者の意図は彼の殺害だったと彼は確信した』(有木宏二 訳)。」

この頃、棄教を執拗に敵視する風潮があったようだ。この事件によって穴の開いたマントを彼は手放さなかったという。ともあれ、スピノザは魂の不死性を否定し、ユダヤ教の背骨とも言うべきモーセ五書 (トーラー) の神的由来を否定してあっさり破門となった。

ユダヤ教シナゴーグのコミュニティによるポルトガル語のバルーフ・スピノザへの禁令 1656年7月27日

1656年に破門され、ユダヤ教徒の共同体から閉めだされるのである。最大の理由は上記の「異端思想」「邪悪な意見」にある。1660年に執筆され始めた『神、人間及び人間の幸福に関する短論文』やその後の『エチカ』において、人間の精神は身体と共に完全には破壊されず、その中の永遠なるものが残存する(第五部定理23)としているが、それは個物ないしその様態の形相が神にふくまれているように神の無限の観念の中に含まれると考えているからである(第二部定理八)。しかし、人間にとって、その精神は身体の持続する間だけしか持続しないとしている。スピノザにとっては延長も思惟も神の属性だったから人間の精神の一部は神の側にあるとするが、肉体の死はその個人の魂の死でもあるとした。そして、報酬と罰を分かち与える神の概念は、愚かな擬人化に基づくと言い切り、組織的宗教を否定する。人間存在はいかなる重大な意味においても自由であり、彼ら宗教者が自らの救済と福利に貢献すべく「彼ら自身によって」何かを行いうるということを否定するのである。

 

精神と物質の媒介概念


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』からご紹介する。話は、ギリシア語で民衆の友を表すフィロラウスと神に心酔する者を表すテオフロンという二人の人物の会話から成り立つ伝統的な対話形式となっている。第五話からテアノという女性も登場するが、フィロラウスというと古代ギリシアで地動説を唱えた人として知られるし、テオフロンのテオ~というネーミングはよくある。テオは神を意味する言葉だ。

フィロラウスは、テオフロンからスピノザの『知性改善論』を見せられ、形而上学と道徳との心酔者としてのスピノザを発見して驚愕する。厚顔無恥の無神論者という風評に値する言葉など、全く無い、極めて真摯な倫理観を見たのである。そして、それは流布されてきたような汎神論でもないことに気づくのだった。キリスト教では、神は世界に対して超越的な存在であり人格性を備えている。汎神論のように神を世界そのものと見ることは、神の否定であり、無神論と同義となるのである。

スピノザの言う実体は、一切の事物の本質であり、存在の唯一の原因であり、彼はそれを根本に据えたかったのだとテオフロンは言う。普通いう意味の世界の実体的事物は何一つとして実体ではなく様態、つまりライプニッツのいう「実体の現象」である。全てが支え合っていて、最終的な一なるものに支えられている。それこそが自立性そのものであり、唯一で最高の実体だというのである。そして、万物をかつて産出し、いまなお産出して、どの事物にもそれぞれのあり方を分かち与えている力能は、その唯一の自律的なものに結びついているというのである。

しかし、フィロラウスはスピノザの言う無限に延長する神と言うのが全く理解できないという。それは、デカルトの誤った表現の影響だと指摘するのである。

ルネ・デカルト(1596-1650)
フランス・ハルス(1581-1666)画

テオフロンは、この疑問に対して、スピノザがこういう誤りを持ち出すのは物質から魂を、延長しているものから思考するものを区別する時だという。それは、物質と精神をつなぐ媒介概念を持っていなかったデカルトの二元論に反発したからであったというのだ。そして、「デカルトが物質を延長によって定義したのは間違っていました。延長からは物体の多様性は説明できません‥‥デカルトの自然原理は間違っているだけでなく馬鹿げてさえもいます(『遺稿集』)」というスピノザの言葉を紹介している。

フィロラウスは、属性といった不適切な言葉ではなく、「神はもろもろの無限の力となって無限な仕方で、つまりは有機的におのれを啓示している」と言うべきだと述べる。すべての世界において神は有機的なかたちで、つまり活動する力を通じておのれを啓示するというのである。その力は、どれも我々に一なる無限な能力の様々な属性を知らせてくれる。この力に引力や結合力、溶解力や斥力と言った多様なエルネギーを見るのは、ヘルダーの時代にあっては自然なことだったろう。スピノザが早くに世を去ることなく、これらの科学の巨大な進歩を体験していれば、彼の体系はもっと見事なものになっただろうというのである。

ちなみに、『エチカ』第二部の定理「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。」これなど、唯物主義者の名を冠せられる理由の最たるものなのだろうけれど、その前の定理一では「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。」と述べられている。このことは、心身並行論の所でもう一度取り上げます。

 

アムステルダムの喧騒からレインスブルグへ


 

1650年代前半、アムステルダムの証券取引所で生涯の友となるヤリフ・イェレスゾーンと出会う。コレギアント派の会員で『普遍的キリスト教信仰の告白』を出版した人だ。忠実なスピノザの弟子となるピーター・バリンクはメノ―派の商人だった。そして、同じくメノー派の商人の出で、若くして亡くなった友人のシモン・ヨーステン・デ・フリースは、スピノザが経済的に困窮しないよう、彼の妹と義理の弟に生活費の支払いを約束させていた。ミルトンやホッブスとも親しかったイギリスに住むヘンリー・オルテンブルクやその友人で科学者だったクリティアーン・ホイヘンスとも親しくなっていた。

アドリアン・クールバハは、デカルトに強い影響を受けた思想家でスピノザとは互いに強い影響関係にあったといわれる。彼はスピノザの『神学・政治学』の初期の草稿に目を通していたといわれ、その著書『百花繚乱の花園』が宗教的冒涜を批判され、1669年に獄死したことが、スピノザをして『神学・政治学』を出版するトリガーになったといわれている。ロデウィック・メイエルは、熱心なデカルト派で理性的な聖書解釈を謳った『聖書解釈の哲学』を出版したが、発禁処分となっていて、スピノザが書いたのではないかと誤解する人もあったようだ。このような知的状況下にスピノザはいたのである。

1661~1663年にかけて住んでいたレインスブルグの下宿

1661年8月、スピノザはレインスブルグ (ラインスブルフ) へ移る。ライデンの近郊数キロにある小さな村で、かつて、コレギアント派の本拠地であった所である。化学者で外科医のヘルマン・ホーマンの家に下宿していた。この家の裏手にはスピノザがレンズ研磨のための道具を設置した部屋があった。彼は、望遠鏡や顕微鏡の製作でも知られるような存在になる。ライプニッツは、彼を卓越した光学器械製作者で、すばらしい鏡筒製作者と呼んだ。

スピノザの人間関係は、ファン・デン・エンデンのラテン語教室やコレギアント派の人々、レイデン大学のデカルト派の人脈から生まれたもので、スピノザは彼のサークルでデカルトの講義をしていた時期があった。この地でヨハンネス・カセリアスという弟子がスピノザの家に居つくようになったり、新たな自分のサークルができ始め、レイデンやアムステルダムなどの人々との交際を深めていた。静謐な生活とイメージされがちだが、かなり人的な交流があったようだ。しかし、訪問者には自分の思想を明らかにし過ぎることには慎重だったと言われる。

1663年頃には、生前唯一実名で出版された『デカルトの哲学原理』を完成させている。アムステルダムの友人たちが、デカルトの哲学をスピノザが概説したものを欲していて、知り合いのリューウェルツゾーンが印刷にかけることにスピノザは同意したのである。この頃には、『エチカ』の執筆は始まっていたようだ。

 

神の知性・神の意図


 

ライプニッツに月桂樹の冠を授けるゾフィー・フォン・デア・プファルツ
カール・カンデラッハ(1856-1920)制作 ハノーファー市庁舎 部分

フィロラウスはスピノザの神に知性も意図も無いことに当惑を覚える。スピノザに一目置いていたライプニッツでさえ、『弁神論』で、それについて反対していたものだった。これに対してテオフロンは、神の実在は、スピノザにおいて徹底的に現実だった。それは、いっさいの完全性を最高に完全な仕方で有しているのだから、思考を欠いているはずはない。スピノザはライプニッツより一歩先んじていたという。

神の完全で無限の思考を有限な実在の知性やイメージのあり方から厳しく区別するのは、神における思考が根元的で絶対的であり、種において唯一であって、有限な実在の知性やイメージとは比較にならないからだという。それが、ただ名前において一致しうるのみであって、他のいかなる点においても一致しえないことは、あたかも星座の犬と動物の犬との関係に等しいスピノザは言う。ちなみに大犬座の一等星がシリウスである。

「現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然ではなく所産的自然に数えられなければならない(『エチカ』第一部定理三一)」とスピノザは述べる。能産的自然はいつも同じ自然であり、自然の力とその活動する力は、如何なるところでも同一である。すべてがそれによって生起し、一形態から他の形態へ変化していく自然の諸法則や諸規則は、どこにおいても常に同一だからである。如何なるものであれ、そのものの本性を認識するための根拠は、また、同一でなければならないとスピノザはいう (『エチカ』第三部 序文)。

スピノザ研究者のエドゥイン・カーリーは、『スピノザ「エチカ」を読む』の中でこう述べる。スピノザは人格的創造者としての神を拒否し神の内に刻み込まれている属性としての自然の法則と同一視した。「彼は、神と自然を同一視するが、その際、自然は事物の全体と考えられるものではなく、事物によって例示される、秩序ある最も一般的な法則と考えられている (開龍美・福田喜一郎 訳)。」これに対して、所産的自然は神の本性、あるいは神の属性から生み出される一切のもの。神のうちに在り、かつ神なしには在ることも考えることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすべての様態である。従って、神を能産的自然=法則と同一視するなら、汎神論とは言えないことになるのである。これについては、ヘルダーも既に気づいていたようでフィロラウスも納得する筋になっている。

ベネディクトゥス・デ・スピノザ『エチカ』
ベネディクトゥスはラテン語名

さらに、カーリーは、スピノザの『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の言葉を引用する。「‥‥すべての人が神に帰している多くの『属性を、私は被造物と見なします。これに反して、彼らが先入見にとらわれて被造物とみなしている他のことどもを、私は神の属性とし、彼らの考えに誤解があることを主張します(同上」神が自己自身から、あるいは自己自身によって存在する存在者、万物の原因、全知、全能、永遠、無限‥‥といったものはいずれも被造物であって思惟する存在者の様態にすぎないという。表象や概念は、人間の身体から、あるいは身体を通して生じるのであって、それらを生み出す原因とは異なるのである。これが、犬座と犬の違いである。

『エチカ』第一部 定理一七では「神は本性の法則によってのみ活動する」と述べる。これは言いかえると、自由原因として考えられている神は、自分自身の本性の法則によって神以外の事物を生み出し、それに作用してゆくのであり、神以外のそうした事物はそのような法則から結果するものと理解されなければならないのである。

ここで、スピノザの心身並行論に触れておきたい。まず、「精神と身体とはまったく同一の個体であり、それがある時に思惟の属性のもとで、またある時は延長の属性のもとで考えられる」という『エチカ』第二部 定理二 備考にある言葉が最重要となる。肉体と精神というような二元論から、デカルトは、人間がそのような異なる実体の合体だと考えた。そのことは既に述べた。スピノザでは、精神と肉体は一つにして同じものの二つの異なる表現となる。人間の精神と同じものである人間の身体とは、延長の様態であると考えるのである。

ここで、鍵となるのは、存在するのは唯一の実体であり、その実体が完全性を含み、如何なるものも欠いていないという意味で、思惟実体と延長実体があるとすれば、両者は同一の実体でなければならないということを私たちが納得している限りにおいて、肉体と精神は同じものであるということが言えるのである(エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』。デカルトの私は考えるものであるという主張は、スピノザにおいては、私の精神は思惟の様態であるというふうに言いかえることができる。そして、思惟の様態が存在するのであれば、思惟実体がなければならないし、同様に延長の様態が存在するのであれば、延長実体が存在しなければならない。実体が一つであれば、思惟実体と延長実体は一つのものである。これが心身並行論のスピノザの論拠である。そこには、身体と精神の一対一対応があるだけでなく、同一性が存在しているのである。

 

エチカと神学・政治論の執筆


 

スピノザ『エチカ』草稿 バチカン図書館

1665年、スピノザは、レインスブルグを離れて、デン・ハーグの近郊にあるフォールブルグに移る。画家の親方というダニエル・ティーデマンの自宅に下宿していた。この頃、デン・ハーグで、天文学や物理学などで知られるクリティアーン・ホイヘンスやその弟のコンスタンティンとも親交を深めていた。新たなサークルも出来はじめる。しかし、北ヨーロッパを疫病が襲い、スヒーダムという田舎の農園で過ごすことになる。1664年から1665年にかけて『エチカ(倫理学)』の草稿は、ほぼ完成に近いものになっていた。それは、『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の「神・人間・人間の幸福」という三つの主題に対応する三部構成だったと思われる。しかし、1675年頃まで彼の手元にあり、死後友人たちが出版したものは、「神・人間の精神・感情・感情に対する隷属・知性の力を介しての自由」という五部構成に変更されていた。

オランダにおける田舎暮らしは、平穏であったが、1665年にフォールブルグの地元教会の牧師職を巡る人事で、保守派と自由主義的な抗議派との対立に巻き込まれた。スピノザは、無神論者と決めつけられる。胡散臭く、表面的な議論で、見かけ倒しの無神論を説いていると言われ、あらゆる宗教を否定したという非難に面食らった。この神学者たちの偏見に対して、それを回避すべく書かれたのが『神学・政治論』である。自分たちが考えている事柄を口にする自由と、行き過ぎた権威と牧師たちの利己主義に抑圧されないための対抗手段だった。

ヨハン・デ・ウィット(1625-1672)
アドリアン・ハーマン(1603-1671)画

1666年は千年王国論者たちにとってキリストの再臨と聖者たちの支配が確立される年だった。ユダヤ教のメシアへの希望はサバッタイ・ツェヴィというトルコ出身の東欧系ユダヤ人の手によって実現されるかに見えた。ガザのナターンという弟子によってメシアに祭り上げられたツェヴィに対してユダヤ教徒たちが熱狂し、キリスト教徒たちにも影響を与えるほどになる。ユダヤ教の中心地となっていたアムステルダムは、その坩堝と化したが、結局、ツェヴィはイスラム教への改宗か死かを迫られ、改宗を選択し、ユダヤ教徒の夢は水泡と帰した。これも、宗教の本質とは何かを考えさせる事件の一つだったようだ。

1670年に『神学・政治論』が匿名で、架空の出版社名で出版された。三年半にわたる労作だった。総督の廃止に対する指導的役割を担っていた共和主義者のヨハン・デ・ウィットは、デカルト派による大学紛争時にもある程度の学問の自由を認めた人だったが、そのウィットも『神学・政治論』には寛容ではなかった。その内容を弁護しようとしたスピノザの面会を断っている。著者のナドラーの言葉を借りれば、原理的自由主義者のスピノザと実用的自由者のデ・ウィットとは同じ政治的見解を持つことはなかったのである。ただ、二人ともオランダ改革派教会の宗教的権威と対決する立場にはあった。彼ら二人が接触していたかどうかは分かっていない。

しかし、この著作がもたらした結果は壮絶なものだった。かつて、スピノザの哲学を知りたがったウィレム・ファン・ブライエンベルフでさえ「それは用意周到な憎悪と地獄で鍛錬された思考の堆積に満たされ、それらに対してすべての理性的な人間は、事実すべてのキリスト教徒は、吐き気をもよおす著作である」と述べた。カルヴァン派の支流である抗議派、デカルト派、コレギアント派からさえも反論が相次ぎ、トマス・ホッブスでさえその大胆さに当惑したと言われる。流通差し止めにはなったが、そのような決定を実地に移すかどうかは各市長の判断にゆだねられていた。1670年代前半を通じて書店でその本を買うことは可能だったという。発禁処分になったのは1674年だった。スピノザは、自分が執拗に捜索され逮捕されなかったのは、一般の人たちが読めないラテン語で書いたということを理解していて、オランダ語に翻訳されたものの出版は差し止めたという。

1671年には、光学へ関心を持っていたライプニッツから手紙を受けとっているが、このドイツの顧問官に対して気を許してはいなかったという。スピノザ没後の著作集に触れたライプニッツは『人間知性新論』(こちらは、フィラレートとテオフィルとの対話になっている) の中で、こう述べている。「それらの神学的な教えが、一般的に考えられているほどには実際的な効果を持たないと主張する卓越した善良な人々がいく人かいることを私は知っている。同様に、教義によっては進んで何の価値もないことをするようには、けっして導かれないすばらしい性格の人々も私は知っている。‥‥エピキュロスとスピノザは、模範的な人生を送ったと認めることができる。(有木宏二 訳)」

 

ネーデルランド共和国とスピノザの死


 

デン・ハーグとデ・ウィットの虐殺

1669年の暮か1670年の早くにスピノザはデン・ハーグに引っ越している。最初波止場の裏通りに下宿したが、1年後にヘンドリック・ファン・デル・スパイクという画家の親方の家に移った。ここで亡くなるまでの5年半を過ごすことになる。その部屋には寝台と小さな机、三脚の各卓があり、より小さな机が二つ、レンズ研磨機、約150冊の本、そして、肖像画とチェス盤があるだけだった。彼の生活ぶりは物静かで、遠慮がちだったが、郎らかで、自制心に富み、親切で思いやりがあったとスピノザの伝記作者でルター派の牧師であったコレルスは書いている。

オランダの地図

スピノザは、ファン・デル・スパイク家の信心深さに興味を持ったようで、コレルスの前任者であるコルデスの説教についての内容を家族から聞くと、それを高く評価し、自らもその説教を聞きに行くほどだったという。スピノザは、神の言葉による啓示の受託者としてのキリストを賞賛していた。

英蘭戦争当時に在ってフランスは都合の良い存在だったが、今や敵にまわった。1667年にはスペイン領ネーデルランドに侵攻する。ネーデルラント連邦共和国の政治指導者で、英蘭戦争で共和国を率いたヨハン・デ・ウィットは戦争を回避しようとし、オランダは経済制裁をフランスにかけるようになる。ルイ14世は、スペイン領ネーデルランドの接収のみならず、ネーデルラント連邦共和国を打倒し、ウィレム三世を主権者とする君主政に移行させようとして1672年、共和国に侵攻した。

オランダは大敗し、デ・ウィットと彼の支持層は軍事的に無能力で、公金を着服し、共和国を敵に委ねようとしていると非難される。彼は四人の刺客に襲われ、手傷を負い政務を行えなくなる。その間にウィレム三世は総督として宣せられたが、今度は、デ・ウィットの兄のコルネリウスが総督暗殺の容疑で捕らえられるという事件が起こる。たが、濡れ衣だった。無罪となったが、総督派にたきつけられた群衆は、監獄に押しかけた。デ・ウィットは兄が付き添って監獄から出ることを希望していると信じ込まされ、彼が到着した時には、そこには彼ら二人しかいないという状況だった。こうして、群衆に取り囲まれ虐殺されたのである。これによって、州の自治と寛容な知的環境は一掃され、オランダの真の自由は終わったのである。

1676年、デン・ハーグを通過したライプニッツは、この事件についてスピノザと話していて、彼が「君たちは最悪の野蛮人たちだ」という張り紙をしに現場に行こうとしたところ、大家のファン・デル・スパイクは家の鍵をかけて、それを阻んだと語った。この時、数週間にわたって何度か顔を合わせ、互いの哲学について話し合っている。おそらく『エチカ』の内容についても話題にのぼった。ライプニッツは、「しかし、私は彼が表明し、私に示した証明のいくつかは、必ずしも正確ではないことに気が付いた。形而上学において真の証明を提出することは、人が考えているほどには簡単ではない(『哲学著作集』)」と述べている。

高まってゆく評価とエチカの出版延期

『プファルツ選帝侯カール・フィリップ』
アンソニー・ヴァン・ダイク 画 1637

スピノザの評価は、一部では高まりを見せるようになっていった。1673年には、ゾフィーの兄にあたるプファルツ選帝侯カール・ルートヴィッヒの代理人からハイデルベルク大学の哲学正教授の誘いを受けている。これはデカルト学の造詣の深さを買われたのである。しかし、彼は断った。理由は二つあると著者のナドラーは述べている。まず、教えるための時間が割かれること、そして、公的に確立された宗教を撹乱しないために哲学の自由を制限しなければならないことだった。この判断は適正だった。フランス軍はこの翌年、ハイデルベルクに進軍し、大学は閉鎖され、教授たちは全員追放されたのである。

1672年にはオランダ共和国の大部分がフランス軍の手に落ちた。ユトレヒト市は1673年までの一年半、フランスのコンデ公に支配されることになる。彼は、モリエール、ラシーヌ、フォンテーヌといった作家を支援していた人で、スピノザと話しをしてみたがり、ルイ14世のために、彼の著書を一冊献呈すれば、年金を受け取れるように計らうとまで言った。それで彼をユトレヒトに招いたのである。実際にスピノザがコンデ公に会えたかどうかははっきりしないが、そこで出会った知識人たちとはよい仲間となった。しかし、結局年金の話は断っている。

知名度が増すに従って、彼の一日の大半は訪問客の相手をすることとなり、健康が既に不安なものになっている今、時間は貴重なものになっていった。そんな中でヘブライ語の文法書を手掛け始める。それは、超自然言語ではなく、普通に話せるための文法書で、彼の没後『ヘブライ語文法綱要』と題して出版されている。1675年までには『エチカ』も出版されてもよい状態までになっていた。しかし、またしても改革派の指導者たちによる非難が再発しはじめた。あの『神学・政治論』の筆者が、それを上回る著作を生み出そうとしているというのである。こうして『エチカ』の出版は延期された。

1676年には彼の胸の病気はかなり悪化していた。おそらく、長年、レンズを磨いた時に生じる粉塵を吸い込んできたことが原因にもなったのだろう。この苦しいなか『神学・政治論』の続編である『国家論』が執筆され始める。あらゆる政体の中で民主政が最善であるという主張は、ネーデルランド共和国の政治的状況に密接に関係していた。個人が理性に基づく生活を営む社会を目指し、なんらかの実用的な政治科学が考察される。

終焉が近づきつつあった。瀉血によって何度か静脈を切開していくらかは良くなったが、やせ細り、顔色は悪くなっていった。突然の死だった。死去する前には、深刻な兆候は見られなかったが、死んだら手紙と『エチカ』などの草稿をアムステルダムで出版を手掛けるリューウェルツゾーンに送るように大家に頼んでいた。彼は、自らの死についてあれこれ思い悩むことはなかったという。「自由の人は死の全てを最小に思惟する。そしてその叡智は、死についてではなく、生についての瞑想である」と彼は『エチカ』に書いていた。

 

スピノザ「レンズ磨きは完成するのか」


 

ヘルダーの『神 スピノザをめぐる対話』の中で、テオフロンは影響には二つあると語っている。一方はいたるところに広がり、他方は広がらないが、しっかり根を下ろすと言う。青二才ではなく哲学的で批判的な人物が、いまこの時代にスピノザの『神学・政治論』に注釈をつけて出版してくれたらよいのだがと述べているのである。その後の時代が彼の議論の何を確証し、なにを反駁したかを見るのは有益だろうという。

part1でご紹介したようにスピノザの思想の持つ巨大な力能は、その影響力を現在にまで及ぼし続けている。アントニオ・ネグリやジル・ドゥルーズなどは良い例だと思うが、その核は「思想を表現する自由」と「生の哲学」かと思われる。ドゥルーズの著作『スピノザ』から少し拾ってみたい。

ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

ドゥルーズは、スピノザには、「生の哲学」があるとは言う。私たちを生から切り離し、生に敵対する一切の超越的価値を告発するというのである。善悪、功罪、罪と贖いといった概念に人は毒される。生を毒する物、それは憎しみであり、それが反転して自己に向けられ罪悪感となる。悲しみそれ自体、憎しみ、反撥、嘲り、恐れ、絶望、良心の呵責、憐れみ、敵意、妬み、‥‥を一歩一歩たどっていく。その徹底した分析は、希望の内にさえ、安堵の内にさえ、それを隷属感情とするに足る悲しみを含むというのである。真の国家 (共同社会) は国民に、褒章への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものなのだ。‥‥彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えているような在り方を否定する。生をあげて私たちは、死を礼賛しているにすぎないのだと。

あの一見、冷たい幾何学表現の『エチカ』から、このような温かいものが流れ出していることは、ある意味驚異といえるのではないか。思うにスピノザはレンズを芸術的に研磨する。そのように自己の思想も、けっして長いとは言えない生涯の中で磨き続けてきたのだ。ヘンリ―・ミラーの言うように。

「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしない準備でしかない。いつかレンズは完成されるだろう。そして、その日こそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれるだろう‥‥‥(鈴木雅大 訳)」

 

 

参考図書 並びに 引用文献

 

エドゥイン・カーリー『スピノザ「エチカ」を読む』 デカルト説とスピノザ説を比較しながらスピノザ説が解説されていく名著。