竹田青嗣『哲学とは何か』「認識・言語・存在、本質」のテーブルマップ

 

竹田青嗣『哲学とは何か』

ゴルギアス (前487‐前376) というシチリア生まれのソフィストがいた。哲学の三つの謎を巡るゴルギアスの定理というのがあるらしい。このようなものだ。

●およそ何ものも存在しえない。あるいは証明されない。
●万一存在があるとしても、決して認識されない。
●万一存在が認識されたとしても、けっして言語によって示し得ない。

それは、普遍的なものへの認識という哲学のテーマを粉砕するほどの破壊力があった。このソフィストの議論は、プラトンやアリストテレスによって否定されるが、完全に論駁されたわけではなかった。ヒュームによって普遍認識の達成が危ぶまれても、カント、ヘーゲルといった正統的な普遍認識派がヨーロッパ哲学の主流をなしてきた。

しかし、最近は雲行きが怪しい。存在と認識との間、認識と言語との間の溝が埋まらなくなっていったのである。このように図式化できる。存在 (現実、対象、客観) ≠ 認識 (主観) ≠ 言語 (哲学説) 。

フッサールが現象学を提唱して存在と認識の隙間を埋めようとした。その最も有望な弟子のハイデッガーは現象学から存在論へとそれてしまい、フッサールの高弟たちもハイデッガーに靡いてしまった。現象学は、フランスに輸入され独断論、主観主義などと批判されたが、サルトルやメルロ=ポンティといった現象学派を生み出すことになる。やがて、相対主義のポストモダンが隆盛となっていった。

一方、認識と言語の一致は可能なのか。現代の言語哲学者、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインからカルナップ、ウィラード、クワイン、クーン、デリダ、ローティ、クリプキ‥‥らによるスッタモンダは、記述理論、言語ゲーム、家族類似ゲーム、物理学主義、確証の全体論、指示の因果説‥‥といった縺れ合った理論を多く生み出しはした。それは、言語の数学化を目指しているように思えるが、何処かに出口があるのだろうか。

今回は、このゴルギアスの定理とヨーロッパ哲学のアポリアとしての存在論を端緒とする竹田青嗣 (たけだ せいじ) さんの著書『哲学とは何か』を取り上げたいと思っている。今年 (2020年) 発刊されたばかりの著作だ。本書では、存在= 言語認識の繋がりではなく、認識 = 言語 = 共通理解という繋がりになる。竹田さんは、1947年大阪生まれ。早稲田大学経済学部をご卒業。明治学院大学国際学部、早稲田大学国際教養学部、大学院大学至善館で教鞭を執られた。早稲田大学名誉教授であられる。難解な哲学のテクストを分かりやすく解説して下さるので定評がある哲学者である。僕のような素人には有難い人だ。著書に『現象学入門』『欲望論 第一・二巻』『ニーチェ入門』『言語的思考』『哲学は資本主義を変えられるか』など多数ある。本書は浩瀚な『欲望論』のダイジェスト版と言ってよい。特に現代の複雑な思想の内に迷子になっている若い人は、一度読んでみられると良いと思う。

 

■ 認識のテーブル


 

カントとユクスキュル

全ての物体、すべての身体にとって、ただ一つの自然、無限に多様に変化しながら、自身もひとつの個体であるような自然、全ての個体やすべての心がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面が披き敷かれる。ひとつの体は無限数の微粒子の運動や静止の関係から成り、他の諸々のものを触発し、逆に触発される。運動的で、力動的な、このように世界に生きることは極めて複雑なことである。ジル・ドゥルーズは、自分でもどうしていいか分からないうちにスピノチストになっていることに人は気づくと述べた(『スピノザ』)。世界は複雑系なのだ。

ユクスキュル、クリサート
『生物から見た世界』

一つの個体としての身体は、どれほどの情動をとりうるのか、触発し触発される力の強さの幅は、どれだけか。この自然の平面の上では、構成する諸々の運動、諸々の情動の組合せは人工物や自然物において無限にある。動物たちの世界が、このような情動の絡み合い、触発し触発される力によって規定されていると指摘したのは、ドイツで活躍した生物学者・哲学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュル (1864-1944) だった。

しかし、このような自然の個々のものを複合関係や触発=変様能力の固有の変動・変移として捉えたのはスピノザ(1632-1677)である。彼の言うコナトゥスは、「外的な力に対する自己保存の努力とその個体の力」と最小限定義される(エドゥイン・カーリー)。重要なのは、彼の無限実体としての神という第一原理ではなく、このような第三・第四原理と呼べるようなものだとドゥルーズは考えていた。そこには「生の哲学」があったからである。

ニーチェは、哲学的世界から「神」を抹消した。全知なる神の消去は、「完全な認識」という概念そのものを無効にする。もの自体を認識することは出来ないとするカントの哲学から全知の神を抜き去ると、それぞれの生物が、欲望や能力といった「生の力」に応じて持つ可能で適切な世界という世界観に変る。真に存在するのは個々の生き物にとっての「環世界」つまり「生の世界」だけだと言える。そのような世界は、内的世界と外的世界が作用しあう世界であって、外界だけが客観的に存立する世界ではないのである。

ユクスキュルと息子のトゥーレ 1915
トゥーレは心身医学の創始者として知られる。

ダニは、味覚も視覚もないが、表皮全体に分布する光覚、温い獲物の上に落ちるための温度感覚、哺乳類の皮膚腺から出る酪酸に対する嗅覚、適当な灌木に這い登る機能、ほぼ、それだけで、子孫を残すことを貫徹させようとする。そして、血液を提供してもらえそうな相手をほとんど、仮死状態になって待つことも出来る。ダニは、無数の選択肢から、たった三つの知覚様式と一つの作用様式を選択した。今や、ダニは自分の時間を支配さえしている。

生物の世界は、知覚作用に対する行為の作用が不可避的に結びついていて、作用のトーンと呼ばれる「主体が意味を与える世界」構築するのである。普通、機械は意味を与えない。ユクスキュルの言う環世界とは、生きた主体が空間・時間の中で決定的な役割を演じるカント的世界なのである。

しかし、この章の主題は、ドゥルーズとカントを巡るダニ問題ではない。問題なのは、我々の世界が、自己の内的世界と環境と言った外的世界とが密接に結び合わされた世界であるということなのである。超越的絶対的存在を想定することが「生の哲学」の否定要因となって来たということが、スピノザやニーチェの思想から明らかになっていく。そして、それが、「哲学とは何か」を探る鍵になるのである。

 

ニーチェのエポック

カントの言う「もの自体」、ヘーゲルの「絶対知」、ショーペンハウアのペシミズム、それらの言説は人間への「道徳」への勧めであるとニーチェは言う。この道徳的モチーフは人間の本質的弱さに由来すると考えていた。この混沌とした無秩序と矛盾の世界を直視することなく世界を整理されたものとして眺めたいという一種の弱さからくるのであり、支配された人間が惨めさを打ち消すための思想が禁欲主義的理想であるというのである。ただ、これは道徳の由来を述べているのであって価値をあげつらっているわけではない。この理想主義は、「絶対に正しい認識」と結びついていて、キリスト教に替わる近代哲学においても同様だった。その「絶対に正しい」は相対化される必要があった。このニーチェの思想はポスト・モダ二ズムにおいて再評価される。

マルクス主義思想が巨大な権力国家を作り上げた。「絶対的に正しい認識」という一つの主義やイデオロギーと「倫理的正当性」とが結びつき、独裁的なスターリニズムを呼び起こした。そのような危険性が生じたことが、20世紀における「知」と「権力」の問題を浮上させる。フーコーやデリダ、ドゥルーズといったポストモダニストたちには「知」「認識」「論理」の絶対性に対する強い異議があった。「知」と「権力」が独自のあり方で結びつくことへの不安が存在したのである。ニーチェは、こう述べていた。

「いったい、人間の未来全体にとっての最大の危険は、どういう者たちにあるのか? ‥‥すなわち、『何が善にして義であるかを、われわれはすでに知っており、さらにそれを体得してもいる。このことで今なお探求する者たちに、わざわいあれ ! 』と、口に出し、心に感じている者たちのもとにあるのではないか ? (『ツァラトゥストラ』吉沢伝三郎 訳)」

ニーチェは、従来の哲学は「現実の否定」という動機を隠しているという。それは、「絶対的に正しい思想」への信仰と裏腹に存在した。ポストモダニズムは、この「正しい認識」を焦点に据えて、ヨーロッパ思想の中心的な問題である「真理」や「認識」を解体しはしたが、マルクス主義を超えて新たな道筋を指し示せてはいないと著者は指摘する。ニーチェによって否定されたヨーロッパ思想の人間観は、「力の思想」という新たな根本原理によって刷新されていく。竹田さんが「力の相関性」(欲望‐身体相関)と呼ぶ「生の世界」の原理である。

 

フッサール 内的世界と外的世界への新たな視点と竹田現象学

フッサールの現象学は正当に理解されていないと竹田現象学は述べる。ここは、竹田さんの独壇場の感があり、僕はそれを批判できる立場にないが、かなり共感をもってお伝え出来る。主観としての私は、客観的対称としてのりんごを把握可能かと問う。自然科学の方法は「主観‐客観」の一致を前提としているが、人文領域ではカントの「物自体は認識不可能」をはじめとして諸説対立し、学問の普遍性にたいする疑いが生じていた。ウィトゲンシュタインは、私の見ている赤色はあなたの見ている赤色と同じかどうか確かめることができるのかと問う。

「りんごが見えるーりんごが在る」という構図は、人に備わっている自然な了解だ。しかし、これをフッサールは一旦棚上げする。これをエポケーと呼んだ。りんごという客体が在って、私という主観にりんごという認識が生まれるのではなく、りんごが見えるということが、りんごが在るという確信を生み出すと考える。これを「現象学的還元」という。「りんご (原因) → りんごの認識 (結果)」ではなく「りんごの知覚 (主観 ) → りんごが在る (確信)」という図式として考える。経験世界から世界像が生まれるのであって。客観と主観の合一は独断や予見に過ぎないというのである。この世界確信の図式では主観ー客観の二項対立がないためにゴルギアスの定理を回避することができる。この認識=確信は、自分だけの確信の場合、あそこには橋があるといった共同的確信 (間主観的確信)、三角形には三辺あるといった (普遍的確信) 竹田さんは分けている

竹田現象学におけるノエシスとノエマ

主観の確信のもとになる「対象に関わる経験や意味」は、フッサールがノエマと呼んだものだが、様々な解釈を呼んでいるらしい。ノエマは経験する知覚対象それ自身であるという説、対象の意味だという説、経験の対象そのものの部分とする説、同一の対象がもつ多様な相貌の一つとする説があり、解決を見ていない。竹田さんは、意識における具体的な体験の流れ、つまり、りんごで言えば「赤い」「丸い」「つやつや」といった刻々変化する体験流をフッサールの言う「ノエシス」と考え、それらが構成されて対象確信として成立したものが「ノエマ」としている。ここは、竹田現象学の核心部と言えると思う。

 

認識のテーブルにおけるテーマ

デカルトの神は、欺くことのない善なる存在であり、人間の認識は信用のおけるものとされた。カントの認識論はどんな生き物も自分の認識装置を通して対象を認識する。人間には、美味しそうなりんごでも、猫には転がる丸い球で、トンボには円形の形のみが感じられ、アメーバーにとっては、もはや何者でもないと竹田さんは言う。ヘーゲルは、ものとは概念の運動だとした。時間軸の中で経験による様々な概念が豊かに蓄積されていく運動なのである。ヘーゲルの世界は、スピノザの汎神論に近い (非汎神論説もある) に近い有神論だという。

しかし、認識問題の謎は、ニーチェとフッサールによって解明されたと竹田さんは考えている。竹田さんのネーミングで言えば、「本体論の解体」だ。本体とは「世界それ自体」を指している。しかし、それぞれの生き物は、それぞれの欲望、欲求、身体のありように応じて、相関的に最も適切な世界認識を持つ。先に述べたように、真に存在するのは個々の生物にとっての「生の世界」だけだと考えると、「あらゆるものが存在するとは何か」と問う存在論は、その基盤を失う。いわゆる「客観世界」とは、誰にも生きられることのない「想定された世界」に過ぎなくなるからである。このニーチェの認識論の転回は、ポストモダン思想で受け取られている相対主義的転回ではなく、これまでの「存在」の概念を根本から覆す「存在論的転回」だと竹田さんは言う。

フッサールによる現象学的還元が、認識問題を解く鍵になると考えられる。世界の存在は、認識不可能ではなくて、どこまでも疑いを払拭でないために認識論的に「超越」であり、認識となる条件を欠いている。しかし、客観的認識や普遍認識がありえないということを意味しない。主観的な普遍了解が成立する所では、存在と認識の一致がなくても、普遍認識は存在すると考える。個々の人間は、様々な世界像を持っていて、絶対的に正しい世界像は存在しないが、フッサールは、相互承認と共通了解を可能にする「世界説明」が可能であることを示したのである。

このように、ニーチェの「本体論の解体」とフッサールの「共通了解を可能にする世界説明」が認識のテーブルにおいてマッピングされることになる。

 

■ 言語のテーブル


 

現代論理学は、ゴットロープ・フレーゲが命題論理学と述語論理学を発展させ、アリストテレス以来の論理学を刷新した。これに続いて、ラッセル、ウィトゲンシュタインによる現代言語学あるいは分析哲学が展開していく。これらは言語の本質の探究を数学の論理的基礎づけから行おうとするもので、ローティの「言語論的転回」という言葉が示しているように数学へと傾斜していく。この進展は、コンピュータのプログラム言語の発展と軌を一にしていた。

ウィトゲンシュタイは、初期には一定の規則を使って言語の意味を厳密に規定できると考えていたが、やがて、アウグスティヌスのように言葉を記号として見る態度を疑い始める。子供たちに言葉を教えることは、その言葉と対象のイメージとの結びつきを喚起することなのか?  言葉を理解するとは、その言葉によって、そのイメージが喚起されることなのか ? 言葉を理解し、習い覚えることの意味は何か ?  このような問いは、全て「認識‐言語の一致」、「言語‐意味の一致」に関する疑いだった。

ルドルフ・カルナップ (1891-1970) は、ウィーンで、一切の言語は科学的な標準言語に置き換えられるという厳密論理主義を提唱する。物理学のように物質を基本単位に分け、それらを構成・構造化し、因果関係を確定して厳密な記述体系を作る。言語でもそれと同じような方法で事象と言語の厳密な一致を図ろうとするものだった。一方、ヴィラード・ヴァン・オーマン・クワイン (1908-2000) は、一切の言語は、事象や思考を厳密に表現できないとする立場だった。ある言明の意味は、その文脈の中で決定されるからである。これは、結局、ウィトゲンシュタインの初期の『論理哲学論考』と後の『哲学探究』との対立とパラレルなのである。

もう一つ典型的な例がある。それが固有名論争だ。「アリストテレスは、これこれという人だ」という定義の集合と考えるラッセルのような説とソール・クリプキ (1940-) のようにアリストテレスという最初の命名と「指示の固定性」、つまりそう言い続けられることによってのみ規定されると考える立場に分かれる。このクリプキの理論をジョン・サールやリチャード・ローティといった人たちが批判した。「指示の固定性」という概念は「これは誰それ」だという命題が正しいことを前提としているために、論証が循環的になるというのだ。論理学は名前の意味すら定義できないのであれば、言語の「意味」を厳密に定義することは不可能であると考えられるのである。これって、ほとんど乱理学だ。

言語は真偽が一義的に決定できないために、意味を論理学的に決定できない。ある人が「これは美味しい」と言う時と、別の時に他の人が言う「これは美味しい」が同じ意味とは限らない。論理学者たちは、語り手の「意」と「言葉」の一致を論証しようとするし、相対主義者たちは、この一致が不可能であることを証明しようとする。現象学では「一致」の可能・不可能を前提としない。

語り手は、自分の言いたいことを伝えるために言葉を発する。伝えたいことがまだ不明瞭な場合もあるが、発した言葉が自分の「意」を伝えた、あるいは、いないという内的信憑が生じる。聞き手は「言葉」を受け取り、相手の「意」はこのようなものだろうという内的信憑が、やはり生じる。この内的信憑を「適合信憑」と竹田さんは呼ぶ。会話では、その信憑性を確かめることができるが、テクストではできない。言語行為とは、このような構造で成り立っていると考えられる。

言語ゲームの発話と受語 「意」‐「言葉」‐「了解」

発語と受語の言語ゲームとして図のように示すことができる。言語ゲームの概念はウィトゲンシュタインの発案だった。言葉があれば、そこから、その意を信憑‐了解する。語り手の「意」へと向かわない、つまり信憑志向のない言語ゲームは、まずない。「今日の空はじつに青い」という言葉の「今日」「空」「じつに」「青い」は、それぞれ一般的意味を持っているが、語り手の「意」は、それらをつなぎ合わせた「一般意味」ではないと竹田さんは言う。これは「意」‐「言語」‐「了解」の厳密な一致を前提としない。「言語の本体論の解体」と言える。

現代分析哲学では、上記の「意味の同一性」と共に「事柄の同一性」も問題になる。人間は赤ちゃん → 子供 → 青年 → 大人 → 老人と変化する。この場合、人間の同一性の根拠は、どこにあるのか ?  あるいは、ジョン・サールの言う素材が全て入れ替わってしまう「テセウスの船」という問題もある。このような場合、内的には主観の観点の相関性だけが「同一性」を決め、外的には他者の承認、つまり「信憑」が決定する。

此処では、論理学者たちの「言葉」「意味」の一致に対する論証、及び、相対主義者たちの言う一致の不可能性に対して、信憑志向の言語ゲームがマッピングされる。

 

■ 存在のテーブル


 

ハイデッガーの言う「なぜ存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」は、根本的な哲学の問いであった。それは、「何故存在があるのか」という問いに集約できる。これに、哲学は、どうアクセスできるのか ? これはゴルギアスの言うように、そもそも原理的に答えようのない問いなのか? この「存在」への問いに対する「形而上学」、つまり世界の根本原理を探求する学が、古代から近代の思想の流れの中に現れる。

まず、洋の東西を問わず、物語= 神話の方法がとられてきた。宗教の創成神話が、そのプロトタイプとなり、アリストテレスの「不動の動者」やヘーゲルの「絶対精神」もこのような形而上学に含まれる。これに対してニーチェの認識論の転回が現れ、一方で、フッサールの「間主観的」な共同確信が登場する。人間は他者と言葉によって自分の「世界」を交換し合っていて、まさに、そのことが「客観世界」の存在を不可疑にする根拠だということが顕わにされた。それが、ハイデッガーの言う、人間は意味のネットワークを掛け替えあって生きているということの意味なのである。

真に存在するのは「生成」としての世界のみであり、「本体」としての世界は何処にも存在しない。しかし、これは「世界は存在しない」というゴルギアスの定理へと帰着しない。世界存在は認識されないというのであって、むしろ、その現実存在は疑い得ないと竹田さんは言う。我々が「生世界」を生きているという現実自体が必然的に世界の存在に対する想定‐信憑を生む。これを竹田さんは、「現存在信憑」と呼ぶ。哲学が問うべきは、「世界の本体」ではなく、「生世界」の本質とは何かという問いであると言うのである。ここに「本質観取」による「本質了解」という課題が浮かび上がるのである。

ハイデッガー以降の「新実在論」であるカンタン・メイヤース、マルクス・ガブリエル、グレハム・ハーマン、レイ・ブランシエ、イアン・ハミルトン・グラントといった人たちの思想が俎上に上がっている。ほぼ、ポストモダン思想への対抗思想と考えられるが、メイヤースとガブリエルが取り上げられていて、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論などを踏まえて批判されている。

この章では、存在の「世界の本体」に対して「生世界」の本質が対置され、我々が、現実に「生世界」を生きているという「現存在信憑」がマッピングされ、人文分野における「本質‐意味‐価値」を問う「本質了解」の世界が明らかにされる

 

■ 本質観取のテーブル


 

これで、ゴルギアスの定理から始まった言語・認識存在のテーブルマップが整ったことになる。ここからは、本質‐意味‐価値という本質観取のテーブルを見ていきたい。

対象的確信、つまりこの現存在信憑が成立する世界は「自然世界」に主に関わる。一方で、道徳、倫理、社会制度といった「人間の世界」に関わる問題がある。この人文分野における、本質・意味・価値を問う問題は、人間の世界においてのみ作り出されると言っていい。このような「本質領域」の世界で、かくあるべきという議論は独断論に陥りやすいのは確かだ。「本質領域」における、かくあるべき「本体」は完全に解体されなければならないと竹田さんは言うのである。そこでの自由で開かれた議が、なによりも重要だからだ。

人間・社会・文化といった人文領域における普遍認識は可能か?  次はこの問題である。事物の領域では、「自然の数学化」による方法が、自然界の客観認識を可能にしてきた。このことによって自然の秩序は、万人に同一の秩序となった。人文分野では、数学に替わる手段としてフッサールの本質学が手段となるのではないかと竹田さんは考えている。本質観取は、知覚や記憶といった心的事象についての広い共通了解を言語化する手段と言っていい。

人間自身の内在意識における「確信構成の構造」を知って、その内的な洞察を「言葉」に置き換え、これを各人の間で吟味し、どういう言葉が誰にも納得できるものとなるかを確証するという手順を踏む。このような各人の体験といったものは、自然科学の実証主義的方法では扱えない問題なのである。ハイデッガーの「不安」に関する洞察が見事なのだけれど、フロイトの例をご紹介する。

近代の実証心理学はグスタフ・フェヒナー、ヴィルヘルム・ヴントの実験心理学からはじまり、アメリカの構成心理学からジョン・ワトソンの行動主義、そしてゲシュタルト心理学へと発展する。フロイトを創始者とする深層心理学は、ユング派、アドラー派へと分裂し、フロイト派も自我心理学、対象心理学、自己心理学などへと分派した。ここでは、フロイトの心理学が現象学から吟味される。

まず、事柄の因果連関をたどれるものを「事物」と呼び、決して因果の連鎖ではたどれない「ブラックボックス」が心的な領域とされる。この領域内での事象の因果性が仮説化されるのであるが、フロイトは此処にエディプス・コンプレックスという仮説を持ち込んだ。この不可視領域に仮説を持ち込む方法は、ユングやアドラー、あるいは多くの実証主義的心理学でも使われている。ここで竹田さんが指摘するのは「どんな療法でも一定の治癒効果を持つ」ということなのである。クロード・レヴィストロースは、シャーマンの呪術による心理治療についてこう述べている。

病原である細菌は体の外にあるが、悪霊は意識的か無意識的かを問わず、精神の内部にある。患者にとって魔物は象徴であり、この魔物は患者によってと象徴されるものとなる。あるいは、言語学的には意味するものと意味されるものとの関係となる。シャーマンは、その患者には言いあらわすことができず、また、他に言い表しようのない諸々の状態を、それによって直ちに表わされるような言葉にして患者に与える。それは、原住民の宇宙観を構成する神話の一部であり、彼らがその神話を信じる社会の一員であるからこそ有効なのである。象徴についてはツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』に書いておいた。

そこでの要点は、おそらく患者、治療者、家族、部族の人間の間で共有されている病や凶事の原因への共同的信憑にあるとレヴィストロースは言う。シャーマンによる「物語」と施術のパフォーマンスは、心理的な病の原因を象徴的に除去するのである。同様に、先ほどの「ブラックボックス」つまり、不可視の X の部分に、何らかの「因果仮説」を置き換える。この因果仮説は「真の原因」に達することはないが、それにもかかわらず効く。それは、治療者、患者、その家族にとって強い「共同確信」となり、患者の内的な「自己了解」を変容させ、大きな「心身相関的効果」をもたらすと考えられるからである。

人文領域の諸学における本質学の可能性

この治癒の本質に対する観取は、「不可視領域」の独断的解釈ではなく、間主観的な確信形成であることが重要となる。みんなが色々言い合って、なるほどと思える落とし所だ。認識の本質的構図は「ノエシス‐ノエマ」構造であり、全ての認識のありように当てはめることができる。

「自由とは何か」「愛とは何か」などの問いを立てるなら、哲学者は、その本質についての「理念」を創り上げ、実証主義的な人文学者は、仮説を立て、様々なデータを収集する。ここで、現象学的な人文学者は経験的素材であるノエシスから理論としてのノエマを取り出すが、この時、仮説に囚われず事態の本質を洞察しようと努める。一方、独断的人文学者は自分の仮説に適合するデータのみを取捨選択して仮説の正しさの証拠としようとするのである。独断的理論は、最初から自分の仮説に適したデータしか集めようとせず、相対主義者は、本質観取に挫折してどんな理論も普遍的理論たりえないとする。竹田さんは、優れた普遍的理論を生み出すには、適切なデータと優れた本質観取が不可欠だというのである。

ゲーテの「人は現象の背後に何物をも求めるべきではない。現象それ自体が学説なのである (『散文による箴言』溝井高志 訳 )」という言葉を思い起こさせる。

個人の内面の善・悪の規範の問題、社会的な善・悪の問題である正義・不正義の問題、このような問題に関して現代の倫理学は、人間にとってこれが最も優れた「徳」や「善」であるといった特定の倫理的理念から出発し、それを人々に要請するという構造になっている。竹田さんは、善・悪の問題も本質観取が必要とされ、さらに発生的本質論が必要とされると言う。発生的本質論は、人間の善悪、美醜、真偽の価値の秩序といった価値がどのように発生したかを問う。プラトンでは、善への欲望は人間にとって必然的で本質的なものだと仮説され、この仮説の検証が善の本質学にとって重要な主題となる。「善は為すべき」は道徳の訓育学であって、善の本質学ではないと竹田さんは言うのだ。いかなる条件で善への欲望は人間の内に生き続けるのか。どのような条件を失うとニヒリズムや悪に転ずるのか。この問いへの答えは、価値観の相違によって異なるといった問題ではない。この個人の善悪の問題が社会の善悪への問いと繋がる。

事物の領域での「自然の数学化」による自然科学の方法に対して、人文分野では、数学化に替わる手段としてフッサールの本質学がマッピングされ、本質観取の方法論と発生的本質論が提示される。

 

■ 社会の本質学へ向かって


認識・言語・存在、本質のテーブルがマッピングされて出そろったことになる。これを総括したものが「哲学のテーブル」となるのであるが、本書の最後は社会の問題が取り上げられている。この問題については、気が向いた時にジョン・ロールズの『正義論』について書く時に一緒にご紹介できればと思っている。

現代社会が、どこへ向かおうとしているのか、様々な意見はあるが、現状は切迫していると竹田さんは言う。今、貧富の格差の広がりと金と権力との癒着という資本主義社会の問題が浮上しており、この問題を克服するための展望は全く無い。現在の資本主義が持つ不安要因については、エリック・アリエズ&マウリツィオ・ラッツァラート 『戦争と資本』 境界を失った戦争と平和に書いておいた。竹田さんは、そのために必要な社会理論の構想が、価値理念の多様性と相対主義の思潮によって長らく阻害されてきたと見ている。とりわけ、我々がホッブス、ルソー、ヘーゲル以来の「自由な市民社会」の原理を失えば、世界は再び普遍戦争と絶対支配の状態に回帰することさえありうるという。詳しくは『欲望論 第三巻』に書かれることになるだろう。

本書は竹田現象学から見た存在論・言語学・ポストモダン思想といった近現代の思想を俯瞰して綺麗なマップを形作っている。非常にありがたい著作である。そして、それ以上に重要と思われるのは、著者の「普遍性を求める」思想への希求ではないだろうか。竹田さんはこう問う。哲学や思想の営みが、結局のところ、人々のうちに拡がるあのシニズムの「声」、「あれこれいっても所詮は理屈にすぎず、現実には力がすべてである」という声、それに対抗することができないなら、思想や哲学が「現実への対抗」という本質を持てないなら、哲学や思想にいったい何の意味があるだろう。

 

■ 言葉の外側


本書を読んで、論理的な整合性について感心することしきりだったのだけれど、そこには「言葉で本質観取し、共同確信しうる限りにおいて」という前提が存在すると思う。それ以外のものは哲学で扱えなくなるのではないか。というのも、極めて個人的で強度の確信をもたらすような体験、例えば宗教的なエピファニーや悟りといった体験がこの枠組みからは漏れてしまうのではないかと考えられる。極めて稀な体験であれば、共同確信に至らない場合はあるだろう。似たような体験として美や芸術の場合があるけれど、これらは比較的頻繁な体験であるからか、『欲望論 第二巻』にも俎上に上がっている。言葉に表現できない体験を語る場合、多くは否定神学のように背理的な表現が使われてきたし、通常、意味をなさないような言葉、「薔薇は何故なしに有る、それは咲くが故に咲く (マイスター・エックハルト/上田閑照 訳)」といった言葉は、判然としないながら何かしらの世界を開示している。そのような世界を現象学的にどう扱うのかは、別な課題となるのではないだろうか。独断論として排除し、心理学などに押し込めてしまうのは如何にも惜しいと思うのである。

 

 

参考文献

竹田青嗣『欲望論』第一巻「意味」の原理論

竹田青嗣『欲望論』第二巻「価値」の原理

竹田青嗣『ニーチェ入門』

プラトン『ゴルギアス』
プラトンの比較的初期の著作 内容は弁論術とともに道徳、政治、幸福論などが対話される。