クレチヤン・ド・トロワ「アーサー王 円卓の騎士の物語」part1『獅子の騎士イヴァン』

 

アーサー・ラッカム(1867-1939)画
『夫のもとへと騎乗するア―サー王の王妃グ二エーヴル』

血統を誇り、武芸に秀で、宮廷風な雅を備える騎士たるものは、その言葉遣い、振舞い、センスの良い衣装、戦いにおける勇猛と深慮、忠誠心と寛大さと気前の良さを併せ持たねばならなかった。でも、これって、ちょっとハードル高いんじゃないのかな。光源氏の雅と義経の武門の誉を併せ持てといわれれば、どんな男性だって引いてしまうでしょ。

そして、生来の高貴な気高さと秘かな想い、他を抜きんでた類 (たぐ) 稀な魂と肉体の美、これらの資質を有する者が、あらゆる徳を照らす貴婦人・王妃である。清少納言の才知を持てと言われないだけ良いのかもしれない。でも、これが「宮廷風」と呼ばれるものの理想だった。

これに加えて宮廷風の主人公は、恋をしなければならなかった、これは義務だったのである。宮廷風の完成には恋は欠かせなかった。仕えるべき高貴な貴婦人や乙女が必要だった。意中の人を前にし、あるいは彼女を思うだけで宮廷風騎士は高揚した「喜び」に貫かれる。この「純愛」は、中心思想 (サン) となり、中世における最も独創的な創作物となったとジャン・フラピエは語る。例えば、こんな感じです。

「このように彼女がランスロに対して大きな愛を感じていたとすれば、彼のほうもまた、その何倍も深い愛を彼女に対していだいていたのである。‥‥今度こそはランスロは望めるだけのものはすべて手にいれることができた。それというのも王妃は彼が傍にかしずき、愛の奉仕を捧げるのを許し、彼は彼女、彼女は彼を互いに腕にかき抱いたからである。この抱擁はまことに甘美なもので、それは接吻と互いに触れ合う五感から来るものであったが、間違いなく、これほど深い喜びが、かつてあったことも語られたこともないほど深いものであった。しかし、筆にすべきでないことについては、いつまでも沈黙を守るとしよう。(クレチヤン・ド・トロワ『ランスロまたは荷車の騎士』神沢栄三 訳)」

高踏的にならず素朴すぎもせず、中庸な感じの描写が好ましい。これは、確かに甘美な悦楽ではあったが、不倫だった。このクレチヤンの物語は、aa、bbと二行ずつ韻を踏む、中世の詩としては標準的な八音綴平韻の形式で書かれていて13世紀フランスの『薔薇物語』同じ形式だけれど、愛の神がそのまま登場するのとは異なり、擬人化といった寓意の手法は表立ってあらわれてこない。

 

バターシーの盾(BC 350-50)テムズ川、
ロンドン出土 青銅製  筆者撮影

紀元前450年からローマによって征服されるまでの紀元前1世紀、既にヨーロッパは鉄器の時代に入っていたが、チェコからオーストリア、西南ドイツから東フランスまでの地域に栄えたラ・テーヌ文化の主役はケルト族だった。この時代、ブリテン島に渡った彼らは、ローマと闘いながらスコットランドやウェールズ、アイルランドに逃れ、ローマ帝国の支配を拒んだ。

5世紀にゲルマン諸族の中のサクソン族がブリテン島に侵入する。その異敵と12回もの合戦を戦った最高司令官はアルトウスと言った。8~9世紀に歴史家ネンニウスは『ブリトン人史』の短い章にそう書いた。アーサー王のラテン語名である。ある程度ローマ化され、キリスト教化されたケルトの子孫たちは、ゲルマン諸族に追われてブリテン島南部、いわゆる南ブリタニアから再びウェールズやアイルランドに逃れた。ある者たちはブリテン島の南西の端、コンウォールへと、ある者たちはフランスに渡りアルモニアの地、今日のフランス北西部であるブルターニュの地に定着した。

アーサー王物語の端緒は、1136年にジェフリー・オヴ・モンマス (ジェフロワ・ド・モンムート/仏) が書いた『ブリタニア王列伝』と言われている。モンマスは、ウェールズかアルモニア生まれの学僧、つまりローマ教会のスコラで学んだ知識人だった。彼は先行するいくつかの歴史書を史的な価値とは無関係に自由に文学の材料として使った。こんな歴史書たちだ。

ギルダス『ブリタニアの破壊と征服』6世紀
ベーダ『イギリス国民教会史』731年
ネンニウス『ブリトン人史』8世紀 (9世紀)
ウィリアム・オブ・マームズベリ『イギリス王実録』1125年 など

これらの歴史書からの乏しい情報を巧みにつなぎ合わせ、そこに空想力を存分に働かせて12巻ものラテン語の散文に書き綴った。ことは、トロイが陥落して三世代後の執政官であるあのブルートゥスが大ブリテン島までの航海に出発することから始まりブリタニア独立の終りまでが語られる。ブリタニア版の『アエイス』だった。とりわけ、9巻と10巻にアーサー王の権勢とその栄光が綴られている。

 

ジェフリー・オヴ・モンマス 『ブリタニア王列伝』のアーサー王


 

『キリスト教の英雄タぺストリー』1385年
9人の王位継承者の一人としてのアーサー王

ここからは、ジャン・フラピエ (1900-1974) の『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』から適宜ご紹介していきたい。アーサー王伝説の最良の解説書の一つだ。ソルボンヌの教授を務め、国際アーサー学会を結成した人として知られる。著書によってはクレチアンやクレティアンといった訳語の表記が異なるがクレチヤンに統一させていただいた。

予言者であり魔法使いのメルラン (マーリン/英) の魔法によってコンウォール公に化けたユテル・パンドラゴン (ユーサー・ペンドラゴン/ウェールズ) が、公の夫人イグレーヌと交 (か) わした一夜の愛の契りによってアーサーは生まれるとジェフリーは書いた。『ブリタニア王列伝』のアーサー王の物語は、歴史の埒外に、ロマネスクでケルティックなファンタジーに仕立てられたのだ。

アーサーの武具は、父王パンドラゴンが戦いの印としたドラゴンを頂く金の兜、聖母の描かれたプリドウェンの盾、アヴァロン島で鍛えられた剣カリブルヌス/羅 (エスカリボル/仏、エクスカリバー/英)、そしてロンと呼ばれる槍であり、全てケルト起源の言葉のようだ。15歳で即位し、その武勇と寛大さで貴族を見方につける。サクソン人を破ってブリタニアを奪回、アイルランド、アイスランド、ノルウェーを征服し、ローマの司令官フロロの頭を真っ二つにしてパリに入り、ガリア全土の支配者となる。

アーサー王の王妃は、グエヌエラ (グニエーヴル/仏) と言う名で、ローマ貴族出身の大ブリテン島一の美女という設定となっている。ケルト語の「白い幽霊」、つまり精霊を指す言葉のようだ。アーサーはガリア征服の後、帝国の支配者となり大ブリテン島で戴冠式を挙行するが、ローマから服属せよとの書状を受け、再び、ローマとの対決を決意する。フランス、シャンパーニュのシエジア平原でローマ軍を打ち破ったのも束の間、甥でゴーヴァンの兄弟にあたるモルドレの王位簒奪と王妃グエヌエラ の背信の知らせを受ける。

ブリタニアに戻ったアーサー王は熾烈な戦いを制してモルドレを討ち取った。542年の事とされる。しかし、ゴーヴァンは戦死し、王自身も瀕死の重傷を負った。そして、手当のためにアヴァロン島に運ばれ、話は終わる。このたった二行の余韻が凄まじかった。生きているとも死んだものとも分からない王の消息はここで途絶えるのである。その後のアーサーはどうなったのか ?  この物語は、200もの写本が作られ、瞬く間に俗語に翻訳され、それを契機に『アーサー王物語』のヴァリアント群が形成されていった。こうして、アーサー王は、英・仏にまたがる地域で家臣に囲まれたヤマトタケルになったのである。

 

クレチヤン・ド・トロワ


 

12世紀は中世の春である。人文主義が芽吹く時代だった。この世紀の中葉、北フランスに宮廷文学が出現する。中世の多くの作家たちの生涯は、ほとんどがよく分かっていない。いくつかの詩や『エレックとエニッド』『クリジェス』『ランスロットまたは荷車の騎士』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』や『獅子の騎士イヴァン』といった物語を書いたクレチヤン・ド・トロワもその例外ではなかった。おそらく、シャンパーニュ地方のトロワの出身と考えられている。学僧としての教養は身に着けていて、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (1160頃-1220頃) は、彼を「マイスター・クリスチャン・フォン・トロワ」と呼んだが、司祭にはなっていないようだ。

ベルグソンの高弟であったアルベール・ティボーデ (1874-1936) は、「中世の物語、それは学僧と、その言葉を聞く貴婦人である」と述べたと言うが、当時、在俗司祭や修道会員の他に司祭ではない学僧や落伍した放浪学僧たちがいた。この学僧たちは教養で身を固め宮廷へと入っていった。シャンパーニュ伯妃のマリー・ド・フランス (マリー・ド・シャンパーニュ) といった貴婦人たちが耳を傾けた相手は、このような学僧たちであった。

クレチヤンはウェルギリウスやオウィディウスの影響を受けたが、古典の摂取にとどまることなく、そこから引き継がれた教養を騎士道に結びつけることに腐心した。このような総合が宮廷風人文主義の原理、つまり、一つの文化を理想的な生きた姿にすることを可能にするのである。マルク王と金髪のイズーといったブルターニュの伝説に触発され、南フランスの恋愛の詩歌カンソ、北フランスのシャンソンといった複雑な技術をものにしていたという。それに、アリストテレスの影響が浸透するまでは聖書の解釈から導き出される象徴性は、重要な中世の「知的用具」だったとフラピエ は述べている。別の「知的用具」として、次のような例もある。

フランス中世文学集2 愛と剣
クレチヤン・ド・トロワの『荷車の騎士』、『聖杯物語』及び、マリー・ド・フランス、ジャン・ルナールの著作を収載

「御坊様、とかれは言う、なんと五年もの間、わたしは自分を見失っておりました。神を愛さず、神を信じませんでした。ひたすら悪をのみ為しておりました」

「ああ ! 友よ と立派な人は言った、聞かせていただきたい、何ゆえそのようなことをなされたのかを。そして、神に祈られよ、罪人の魂を憐れみ給うように」

「御坊様、漁夫王の館に一度私は赴き、槍の穂尖が、疑いもなく、血を流すのを見ました。そして、その血の滴が、白銀の刃の尖端に結ぶのを見ながら、何ひとつ質問をしなかったのです。以来、わたしは全く、改悛しませんでした。また、わたしが目にしたグラアルについても、それで誰に食事が供されたかを知らないのです。そんなわけで、以後、わたしは大変に心責(さいな)み、いっそのこと死んでしまいたいと思い、それで神さまのことも忘れたのです。以来、神に御憐れみを乞おうともせず、何ひとつしませんでした、わたしにも御憐れみを受けるに値するとわかっている何も」(クレチヤン・ド・トロワ『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』天沢退二郎 訳)」

このような聖職者や隠者との会話は、ある種、物語の解説の役を担っていて、その展開に、時折重要な役目を果たしている。後の13世紀の作者未詳とされる『聖杯の探索』では、宗教的な要素が、かなり強まっていて、シトー修道会に関わりがあると思われる作者は、この手法を多用しているのである。

 

『マビノギオン』とアーサー王伝説


 

ジャン・フラピエ  1988年刊
『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』

ケルト族が住んでいたアイルランドの口承文化は5世紀にキリスト教が伝えられて、その地の異教とキリスト教の融合したものになっていった。そこは諸々の伝承が媚薬のように混ぜ合わされる島だったとフラピエは述べている。最古のケルト伝承は10世紀から12世紀にかけてのアイルランドの写本に残されていた。

このアイルランドの伝承は交流の絶えなかったウェールズへと伝わり『マビノギオン』という果実を生んだ。短いものはマリー・ド・フランスの『短詩』に、長いものはクレチヤンの物語に似ているという。その成立年代の予測には幅があって11世紀から12世紀が一般的な意見のようだ。

この『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』はクレチヤンの『獅子の騎士イヴァン』に、『エルビンの息子ゲライントの物語』は『エレックとエニッド』によく似ている。一方、『エヴロウグの息子ペレディルの物語』は『聖杯物語』に近いが、長虫退治があったり、コンスタンティノープルの女帝などが登場して多々異なる点がある。最も大きな違いは聖杯=グラアルがあらわれないことである。これらの物語の類似について、おそらくケルトの共通の素材を典拠としたのではないかとフラピエは考えている。とりわけ、『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』は、ウェールズ人によるアーサー王文学の傑作だと彼は言う。

ケルト人とフランス人が接触したのはブリテン島のコンウォールとウェールズ及び大陸のノルマンディーやそれに接するアルモニカ (フランスのブルターニュ地方) であった。ブリテン島を大ブリタニア、フランスのブルターニュは小ブリタニアと呼び習わされていた。ちなみにアルモニカはローマ人たちの呼び名である。

11世紀にはノルマンディー公ギヨームが、イングランドに侵攻し、イングランド王ウィリアム1世となった。その後、フランスのアンジュ―伯が王位を継承、英仏海峡にまたがるアンジュ―帝国が形成される。ジェフリー・オヴ・モンマスの『ブリタニア王列伝』のフランス語訳は、いにしえの記憶を保全したいとと考えていたノルマンディー・アンジュ―家のイギリス宮廷のためのものだった。この時代を含めてプランタジネット朝と呼ばれる時代が14世紀まで続いた。

この頃、フランスのノルマンディー地方で使われていたノルマン語がイギリスに流入しアングロ・ノルマン語を形成する。この言葉やフランス語、英語、ブリトン語を話す竪琴弾きや吟遊詩人が、イギリス側や小ブルターニュから、おそらくシャンパーニュに流れ込んで来たと思われる。このようなアングロ・ノルマン語などの言語でアーサーものが書かれた可能性がある。いわゆる「ブルターニュもの」と呼ばれるものだ。彼らのあまり緊密でもなく、心理面でも一貫性のないエピソードを「素材」とし、宮廷風と呼ばれる「主要概念」をもとに「構想」し、天賦の才で「物語」へと統一したのは他でもないクレチヤンなのだとフラピエは言うのだ。そこに、きめ細かな心理描写を挟み込み、ケルティックな幻想の風味を付け加えることも忘れなかった。中世の作家は構成に関して今の我々と同じようには考えていなかったともフラピエは言う。リニア―で単純な平面上に展開される話は、比較的複雑な階層に分かれた構造を探させるように誘うという。

 

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士イヴァン』


 

上 伝説のプロセアンドの森と考えられているフランス、ノルマンディーのパンポンの森
下 その森にあるメルラン (マーリン) の墓

この物語は、伝説のプロセアンドの森が導入の舞台となる。「霧雨が降っている。濡れたブナの幹の下、黄ばんだ葉が、ざらざらしたヒースの深く小さな茂みの上を、くるくる回りながら羊歯に沿って逃げてゆく(『ブルターニュ』菊池淑子 訳)」とこの物語の訳者は冒頭の「はじめに」に記した。

そこに在るのは、冷たい水なのに沸騰しているバラトンの泉で、悪魔の子、魔法使いのメルラン (マーリン) と妖精モルガンの交わした約定によって、その水を美しい松の木の枝に掛けられた黄金の盥 (たらい) に満たし、ほとりの大きな石に注げば、忽ち疾風迅雷の嵐がやって来る。そんなマジカルな森であった。

『獅子の騎士イヴァン』、この物語は『エレックとエニッド』と並んでクレチヤンの傑作の一つといわれている。泉には、エメラルドの巨大な石に一本水路が穿たれ、その底に真っ赤なルビーが四つついている。石に盥から水を灌ぐと伝説のように嵐が襲ってくる。稲妻が轟き、雨と雪と雹が、ごたまぜとなって叩きつけてきた。アーサー王と廷臣たちの前で、騎士キャログルナンは7年前のある不名誉な体験を語った。その話を聞いたイヴァンは、その泉を目指して冒険の旅にでるのである。この物語には、妖精の薬は登場しても妖精自身は登場しない。妖精に近づきすぎてはいけないとフラピエは警告する。

イヴァンは、聞いた通りに、その泉で金の盥で岩に水を灌ぐと、嵐が起こる。それによってなぎ倒され、破壊された領地の損害を償えと憎悪に燃え盛る眼をした騎士に戦いを挑まれた。嵐の度に彼の領地と城はどよめくのだ。その騎士を打ち負かし、自らの城に逃げ込んだ相手を追いかけたイヴァンは、刃のついた落とし戸に前後を阻まれて閉じこめられてしまう。

クレチヤン・ド・トロワ『獅子の騎士』
菊池淑子『フランスのアーサー王物語』

窮地に立つイヴァンだったが、かつてアーサー王の宮殿で親切にした王妃の待女リュネットに姿を隠すことのできる指輪を与えられるのである。トールキンの『指輪物語』みたいだ。王妃の夫であった例の負傷した騎士が亡くなり、智慧のまわる待女は、匿ったイヴァンを王妃と結婚させるのに成功する。彼女がこの物語のトリック・スターという分けだ。しかし、彼は、怠惰を戒める友人のゴーヴァンの説得に従って試合遍歴の旅に出る。

だが、王妃ローディーヌとの一年という約束の期限を破ってしまう。約束を踏みにじり、後悔に打ちひしがれていたイヴァンのもとに待女と思われる女性が現れ、彼の不実をなじり、その手から指輪を抜き取って去ってしまった。ここまでが第一部である。

第二部で、話は急展開する。ローディーヌに許されない限り死ぬほかはないと思い詰めたイヴァンは気がふれて獣同然に野原をさまよいはじめる。英雄物の定石通り、一度は落魄に身をさらすことになる。そこに通りがかった奥方のローディーヌと待女はイヴァンを見つけ、昔、妖精のモルグからもらったという狂気を追い出す薬で彼を正気に戻すのである。しかし、記憶を取り戻せないイヴァンは、彼女とは分からないまま、その領地に戦をしかけるアリエ伯爵と闘い、撃退する。そして、領主となることを望まれても、そこを立ち去ってしまうのである。

途中、毒蛇に尾を噛まれたライオンを助け、その猛獣を連れとして旅を続けることになる。それで獅子の騎士と名乗るのである。とある礼拝堂に幽閉された乙女がいた、主君への背信をその家令に咎められた例の待女である。アーサー王の宮廷に助けを求めたが、頼みのゴーヴァンは、連れ去られたアーサーの妃グニエーヴルを探しに旅に出ていたという。ここは『ランスロットまたは荷車の騎士』と話がクロスする箇所となっている。一連のヴァリアントになるように物語同士をつないでいるのだ。明日には火刑にされるその乙女が、例の待女と気づいたイヴァンは、明日助け出すことを約束して近くの城に宿泊する。その城では、王子たちが山のアルパンと呼ばれる巨人の囚われの身となり、王女と引き換えに明日やって来ると言う。イヴァンと獅子はその巨人を討ち果たし王子たちを解放してやる。同一の物語内にも絡み合わせの妙があるとフラピエは指摘する。

待女が、あわや火に投げ込まれようとしたところにイヴァンは駆け付けた。家令とその二人の兄弟に対してイヴァンが立ち向かい、後には獅子も加勢した。三人は倒され、待女のリュネットは無事救い出される。ここまでは、『マビノギオン』の中の『オワインの物語あるいは泉の女伯爵』の物語とほとんど同じストーリーをたどっていて、オワインの物語の方はこの後、イヴァンと奥方とが再び縁を結ぶことになって終わる。クレチヤンの作品の方がボリュームがあって、内容が濃い。この話に続いて、300人の織物や刺繍をする乙女たちを二人の悪魔から救う話、そして亡くなった父王の遺産相続を巡る姉妹の物語へと発展していく。まあ、続きはどうぞこの物語をお読みください。

 

さて、次回 part2 はいよいよクレチヤンの名を後世にとどろかせ、エッシェンバッハ 、トマス・マロリーを経てワーグナーにまで至る聖杯の物語ペルスヴァルをご紹介する予定です。お愉しみに。

 

 

参考文献 及び 引用文献

 

ネンニウス『ブリトン人の歴史』ローマの執政官ブルートゥスに因みブリタニアと命名されたとしている。最古のアーサー王に関する文献。本書の解説では9世紀に書かれたとされる。

ウィリアム・オヴ・レンヌ
『ブリタニア列王の事績』
13世紀に『ブリタニア列王史』を詩的に翻案した作品。

作者未詳『聖杯の探索』13世紀

『マビノギオン』ウェールズの古潭

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