ロルフ・スタン『チベットの文化』 風の馬は虹を駆ける

 

ロルフ・スタン(1911-1999)

チベットのことはよく分からない。これは我々日本人だけでなく、多くの外国人にとっても、そうだ。そこは秘境だからである。インド人にとってヒマラヤを中心とした北の国は、聖なる神秘の国だった。パラハマンサ・ヨガナンダの書いた『あるヨーギの自叙伝』を読めば分かる。この本は異様に面白かった。超常現象のファンタジーなら色々あるけれど、こちらは自叙伝である。ヨーガ行者の修行の話だが、これに魅せられた人は多い。一度お読みになることをお薦めする。

だけど、ロルフ・スタンによればチベット人にとっても北は聖地なのである。不思議なものだ。本書ではチベットの地は、380万平方キロメートル、フランスの面積の7倍にあたるという。どこをチベットと言うかという問題もあるが、現在のチベット自治区に限れば122万平方キロである。ヒマラヤを擁し高度3000~4000メートルの地に平気で村々は存在するし、高度7000~8000メートルの山々が連なる地域もある。だが、崑崙山脈とヒマラヤ山脈に囲まれた寒冷で荒れ果てた土地だけをイメージしてはいけないという。古都ラサの緯度は、ほぼ屋久島に相当する。「5キロごとに空の景色が違う」というほど変化に富んだ土地らしい。生活も牧畜のみ、農耕のみ、牧畜・農耕半々というその地域に応じた営みのようだ。

ロルフ・スタン 『チベットの文化』

ロルフ・スタン『チベットの文化』

ロルフ・スタンは1911年、ポーランドのシュヴィエチェのユダヤ人の家庭に生まれた。1933年にベルリン大学の東洋言語セミナーで中国語を学んだが、ナチスの台頭によってフランスに亡命する。パリ東洋語学校、シナ学高等研究所に学んだ。第二次大戦では、仏領インドシナで通訳者として働き日本軍の捕虜となっている。若い頃は、苦労の多い人だったようだ。大戦後、中国に現地調査に入り、後にパリ大学の高等学術研修院で極東及び内陸アジア比較宗教学の教鞭をとるようになった。この間、ヒマラヤ南麓の調査を行っている。1960年に『チベットにおける叙事詩と吟遊詩人の研究』を提出、博士号を取得する。1966年からコレージュ・ド・フランス教授となった。チベット学、とりわけ宗教学の研究では、他の追随を許さないと言われている。道教の研究においてもとみに有名だ。

僕がこの人のファンになったのは、ひとえに例の『盆栽の宇宙誌』)によるのだけれど、その後、スタンの影響を受けた彌永信美(いやなが  のぶみ)さんの仏教神話学(などを知るに及んで益々敬慕の念は高まったのである。

そこで今回は、彼の『チベットの文化』をご紹介するのであるが、この本、チベットの風土、歴史、社会、宗教、美術と文学を網羅する、いわばチベットの全てなのである。とても全部をコンパクトにご紹介できる能力は僕にはないので、三つのテーマを選んで今回は書いておきたい。何からご紹介するかというと、よくチベットの写真にみられる縄に取り付けられた色とりどりの布や紙でできたタルチョ (タルチョ―) である。そのタルチョに描かれる「風の馬」についてのスタンの深い見識からまずご紹介しよう。

 

1.タルチョ・ボン教・風の馬


 

「ム」の綱とタルチョ

地の神の小塔のある聖山 中央に神の顔が描かれた恐るべき神の小塔がある。氷河は獅子によって象徴され、湖水は「黄金の目」の魚と宝玉によって象徴されている。

地の神の小塔のある聖山 ロルフ・スタン著『チベットの文化』より
中央に神の顔が描かれた恐るべき神の小塔がある。氷河は獅子によって象徴され、湖水は「黄金の目」の魚と宝玉によって象徴されている。

チベットの神話時代の王たちは天から降りてきた神である。山は「ム」と呼ばれ、一種の綱ないし梯子になぞらえられた。チベットの山々は天に向かって駆けあがっている。その「ム」は天と王とを繋ぐ虹のような綱でもあった。王はその綱を伝って昇り降りしたと伝えられている。だが、ディクム王の時、その綱は切れ、それ以降、王は死すべき存在になった。

すべて聖なる山は「国の神」、「土地の神」と呼ばれる。また、「天の柱」、「地の釘」とも呼ばれた。墓や寺院のそばに建てられた柱や石も同じ役割をしていたようである。王たちと同じように英雄たちも「天の柱」と呼ばれ、英雄の国は「地の臍」と呼ばれた。彼等は自分の中に世界の三つの階層を繋ぎ合わせる。白色の神々(Iha)の住む天、赤あるいは黄色の樹神と岩神が住む地表、青ないし黒色の水神の住む地底である。近代チベットでは神を称えて立てる石(Iha-tho)は世界の三階層の色と関係づけられる。

道のついている峠ならどこでも、石がうず高く積まれている光景に出くわすとスタンはいう。それらは、多くは白い石であり、棒が立てられていて、そこから樹木や岩頭に向かって縄が張られる。縄には呪文、あるいは「風(息)の馬」を書いたタルチョ(祈祷旗)と呼ばれる5色(青・白・赤・緑・黄)の布切れや紙切れが結び付けられ、天 ()・風・火・水・地の五大に結び付けられる。

タルチョ インド・ラダック・レーのナムギャル・ツェモ寺院にて Fotographed by Wotan

タルチョ  インド ラダック・レーのナムギャル・ツェモ寺院にて

その他に原則として木で作った武器の模倣物や矢や槍などが加えられるのが仕来りである。牡羊ないし山羊の角や頭が盛んに供えられるし、通行人が峠を越える度にまだ形のできていない堆積物の上に石が積み重ねられ、石がない時には骨、布きれ、毛布の切れ端、髪の毛などが積まれ、人はこう叫ぶ「神は勝利者、悪魔は敗者、キキ、ソソ。」末尾の叫びは戦いの喚声という。これら石の堆積は道標でもあるが、「戦士の城」あるいは「軍神の城」と呼ばれている。それは、できるだけ山の頂上近くに作られるが、実際の高さより、より上にあるということの方が大切らしい。「頂上の神」、「国の神」、「男の神」、「軍神」は、屋根の上、石積みの祭壇、人間の頭の上、肩の上、兜の上にもましますという。

進化するボン教 

チベット人はもともと世界創造の神話には関心がなかったとスタンはいう。仏教の宇宙論を借りることで済ませた。一方、自分たちの土地に関する創造と祖先の出現に関する伝説は数多くある。これらの起源伝説は、統一されることも組織化されることもなかった。それまで組織化された教会や権威のある僧侶がいなかったことが原因らしい。そのうち、ボン教やラマ教の大宗教に横取りされ、変形されてしまったらしいのである。

中央 ソンツェン・ガンポ王(?649)
チベットに統一王国を築き、仏教を導入した王。
右 唐から嫁した文成公主
左 ネパールから嫁したブリクティ―・デヴィ

チベット仏教は、かつてはラマ教と呼ばれた。特殊な大乗仏教と言っていい。ラマは尊師を意味する。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派と大きく言って四つの宗派があるが、今は書く気がしない。ラマ教以前にチベット人が最初から有していた宗教的な伝統的観念や習俗は存在していた。ヨーロッパの著述家たちは、「人間の宗教」として「神の宗教」とは区別したが、この土着の伝統的な宗教は、ボン教とともに原始の宗教というレッテルを張られがちだった。そして、ラマ教の中での恐怖感をそそるもの、異様なもの、悪魔的なもの、霊媒的なものは全てボン教の要素だと決めつけられていたようだが、タントラの大きな影響を考えればチベット仏教のなかにもそのような要素は濃い。ただ、どれが土着の宗教であるのか、何がボン教のもので、何がラマ教のものであるのかを区別するのは、多くの場合不可能であるとスタンは言っている。

ボン教については、少し触れておかなければならない。チベットの後世の歴史家たちは、仏教導入以前、すなわちソンツェン・ガムポ王以前には「治世は、ボン教徒、物語師、謎歌いたちによって守護されていた」という。本来、土着の宗教に属していたに違いない伝説や神々とボン教とは結びついていた。それらの結びつきを考える時、中国との接境地帯に住む羌(きょう)族の信仰と言語で解釈するとよく説明できるようである。チベットの最初の王、二ャティの治世には「神の宗教」としてのボン教は既に出現していたようだ。その後ディクム王の時代、タジク (イラン)国とアッシャ族 (ココノールのトルコ・モンゴル種族)からボン教徒が招かれたと伝えられている。彼等の専門は「生者のためには神に供養し、死者のためには悪魔を鎮圧する」ことだった。この伝説を信じれば、ボン教の起源の一つはチベットの南西、つまりインドとイランが交わる所ということらしい。アーサー王伝説でも触れたけれど、イラン辺りと言うのは何か文化的にミステリアスだ。

ミボ・シェンラプ ボン教の開祖。ペルシアを指すタジクの出身とされ、チベットの魔神に連れ去られた愛馬を探しに来たと言われる。19世紀 ルービン美術館

ディクム王の後、いわゆる「現われ出たボン教」と呼ばれる時期がくる。悪魔崇拝が特徴とされるような時代でもあったようだ。このような伝説が残されている。12・3才になるロバの耳を持つ少年が悪魔にさらわれ12年の間チベットを連れまわされ、人間界に帰ってくる。平田篤胤(ひらた あつたね)が書き残した『仙境異聞』の仙童寅吉みたいだ。その耳を隠すためにターバンを巻いた。ミダス王のテーマと同じだ。このターバンはボン教徒の徴になっている。悪魔を鎮め、神々を供養し、かまどの汚れを清めたという。それ以後、全てのボン教徒はタンバリンとシンバルを持ち、種々の幻術に熟練し、鹿を空中に浮遊させるだとか太鼓に跨って飛ぶなどということができるようになったという。

ボン教徒の中には、王の直属の祭司などを勤めるようになる者も出てくるが、大きくは次の4種類に分類されるようである。可視界のボン教の巫術師であるシェンは幸運と財貨を招来する儀式を行い、呪術のシェンは種々の色の羊毛の紐で悪魔を捉える。卜占のシェンは紐(Ju-ting)を用いて将来の吉凶を占い、墓のシェンは武器をもって死者と生者の数を数えたという。

後には、ボン教そのものが哲学的に体系化されるようになった。ティソンデツェン王の時、ボン教徒は迫害を受けるが、この時にその宗教用語は仏教のそれに総合的、組織的に同化されていく。習合していくのだ。混淆主義的なボン教が生まれるのである。だが、ボン教徒はどちらかというとシャーマン的性格が強い。馬やタンバリンにまたがり空を飛び、青い着物を着ているというのが一般的イメージらしい。それでも、ボン教はラマ教以前にインド・イラン的要素を自分たちの教義に取り入れて、我々が考える以上にチベットへの仏教導入を促進したらしいのである。

虹を昇る風の馬

風の馬 ラダック インド

ロルフ・スタンはチベット人たちのいう「風の馬」についてこう述べている。タルチョなどによく描かれる馬である。「風の馬」の「風(息)」は、中国人の「気」やインド人の「プラーナ」に類似する生命原理であると。それは呼吸する空気でもあれば、体内を流れる微妙な液体でもある。この「風の馬」の絵には人の誕生日の日付を示す干支と祈願文が添えられる。生命力や健康、権勢、長寿、功徳あるいは名声が増すように神々に祈るのである。

「風の馬」は人の生命力が強まり、高まってゆくあらゆる様相を表す。「高きに向かっての増大」は、あの虹の綱「ムの綱」によってなされる。アレキサンダー大王がモデルとされる英雄ケサルの信仰においても風の馬と同じ要素を持ちながら軍神特有の旗の姿をとるようだ。インド人でも多くのタントラ教徒が「虹の体」を獲得したと伝えられる。しかし、インドには綱のイメージはないようである。だが、虹で天に昇る過程はヨーガのある種の方法と同じだとスタンは指摘している。こう伝えられている。「この世を去る時、彼らは天に向かって足から消えていった。そして、彼らの頭から出ている「神性な綱」という光の道によって彼らは地上を去り、空の虹になった。彼らの死体は神の国でonggon(聖者、先祖、埋葬の丘)となった。」

 

2.仮面劇と正月・追儺の行事


 

守護神の仮面劇

ラマ僧など緻密な瞑想によって神々や菩薩を降ろすことのできる人々はいるし、吟遊詩人はある種の失神状態になって、英雄たちが時間の埒外で活動している光景を目撃し、それを歌で描写した。しかし、一般の人には見えるわけではない。それで絵画や仏像、仮面などが在家信者の教化のために用いられた。神の示現を理解しやすくするために仮面舞踏によって大衆の前で演じられるようにもなった。この儀式では、神は瞑想によって呼び出されると共に、仮面をつけた俳優が扮してもいるわけである。

チャム(チベット仏教各宗派で行われる仮面舞踏) 巻末に動画を掲載しておきました。
新年の最後を祝う祭り ラダック インド

ここからは、しばらく前に一度、江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介したことと重なります。どんな神でも仮面に作り得たわけではなく、「仏法の守護神」に限られていた。その仮面は、霊媒と同じく、この種の神の示現を容易にすると考えられていたのである。例えば「飛ぶことのできる黒」と名づけられた仮面はインドのある学匠から1000年頃、大訳経者と呼ばれたリンチェンサンポに渡され、彼がラダックに帰った時、その儀式の教えと一緒に他の僧たちに伝えられた。その伝授のとおり舞踏の間中その仮面は着けられていたという。

マハーカーラ 19世紀 チベット

その後、仮面はサキャ派の最初の僧院長に1111年頃伝えられ、19世紀まで同じ寺院に保存されていた。この仮面によって表されるグルキグンポと呼ばれるサキャ派の守護神は特別な姿の大黒天(マハーカーラ)であるという。この仮面舞踏劇は、一つは仮面の俳優によって、もう一つは祭式司宰僧とその助手たちによって二重に行われるが、僧と助手は仮面を着けない。仮面はある種の守護神を臨済させるのだが、実際に呼び出し臨在させるのは僧たちの仕事である。これらの仮面劇の中でも、大黒天(マハーカーラ)は主神の役を演じるのが普通であるとロルフ・スタンは指摘している。

この見世物は二日間続き、オーケストラが音楽を奏でる。劇のクライマックスで神々が群衆の前を練り歩くようなとき、群衆の感じる畏怖の感情は驚くべきことに道化の巻き起こす笑いによってしばしばそがれる。大衆にこの息抜きを与える道化役者もインドの聖者に似て見えるようにという配慮で仮面を着ける。この聖者は一方で尊敬を受けながら、他方では黒っぽい顔と縮れ毛という見慣れない姿でチベット人を笑わせるようである。彼らは即興的な道化劇を演じたりタントラ祭式の中の儀式動作を、その最も厳粛な仕草まで猿真似してみせるという。まさに「もどいている」のである。

サムエ寺院 チベット自治区の区府ラサ市の南東ヤルルン地方にある寺。下部はチベット風、中央部は中国式、上部はインド式の屋根で作られたと言われている。

サムイェー寺院
チベット自治区の区府ラサ市の南東ヤルルン地方にある寺。下部はチベット風、中央部は中国式、上部はインド式の屋根で作られたと言われている。

これらの仮面舞踏が、どのようにして、また、いつ始められたかはわからない。古いものは少なくとも10世紀に遡るという。あるいは、後期密教に属する8世紀の秘密集会タントラに遡りさえするといわれる。これらの仮面劇は、今一つの重要な要素である「地鎮」あるいは土地の「取得」の予備的な儀式としても行われたようである。金剛杵(あるいは金剛橛/こんごうけつ)の囲いによって聖域を区切るのだが、すでに八世紀のタントラの中に確認されている。そこには「金剛杵の踊り」と呼ばれる仮面のない舞踏が含まれていたようである。ニンマ派の金剛橛の儀式はパドマサンバヴァによってインドから持たらされ、チベット最初の僧院であるサムイェー寺建立の際の「地鎮」に用いられた。後には、他の派でも詳細な舞踏の手引きが作られたようだ。スタンはこれらの儀式は全てインド起源であるとしている。

王の新年と追儺

新年の日付は何世紀もたつうちに変化した。数世紀前から今日に至るまで中国の新年の日付が用いられていた。これは「王の新年」と呼ばれ、太陽暦の2月に相当する。それ以外に、昔からの「百姓の新年」というのがあって、「王の新年」の10番目の月か11番目の月の冬至にほぼ正確に合わされている。

18世紀の中国の書物や当時のイタリア伝道師の記録によると、新年の日、ダライラマはポタラの頂上で宴会を催し、中国人やチベットの役人を集めて戦争の舞踏をみせる。ちなみにダライラマのダライは、モンゴルの支配者アルタン・ハーン(1502‐1582)がデプン寺の僧院長を務めたソナムギャムツォに与えた称号で、モンゴル語で「海」を意味するそうである。他日のいくつかの催し物の後、30日には、ルゴンゲルポと呼ばれる「身替りの魔王」を追い払う式、つまり、追儺の儀式が行われるのである。

ポタラ宮 ラサ チベット

一人のラマがダライラマに扮し、民衆の一人が魔王に扮する。魔王は体の半分を白、半分を黒に塗る。魔王は家々を回ってその家の災禍を引き受け、かわりに寄進を受けて歩く。そして30日になるとダライラマに扮した僧の前に現われ、彼に向かってお前の五蘊はいまだ空ではないとか、お前の「漏」は存在に付着して苦の元になっているとか、宗教的な舌戦を繰り広げた後、クルミ大の骰子を振って勝負を着けるのであるが、魔王の骰子は全て「負」、ダライラマの骰子は全て「勝」に塗ってある。魔王は怖れをなして逃げ出し、その後を大勢の人々が追いかけ、矢を射たり鉄砲や大砲まで撃ったりするらしい。川の対岸の牛魔の山(牛頭山)の頂上のテントまで逃げ込んで、大砲を鳴らされると、さらに遠くへ逃げて一年先にならないとチベットには帰ってこれないのだという。魔王役には気の毒だが、かなり徹底した鬼払いの行事である。

チベットの他の土地では正月には男と女が二手に分かれ世界の創造をテーマに舞踏や歌唱を交し合う。いわゆる歌垣であろうか。この時、その土地に住む種々の階層の神々 (天神・地底神など) が、失神状態で歌っている霊媒に降りるのである。また、同じく世界創造のテーマや幸福祈願に洒落を交えながら歌を歌う専門家がおり、神性でありながら同時にいたずら好きな「白い悪魔」と呼ばれる専門家たちである。顔を半分白、半分黒に塗り分けピエロのような尖った帽子を被ったり、ヤギ皮製の三角の仮面をつけたり、劇団から語り手役の道化師がつける「猟師の仮面」を借りてきたりする。

正月祭りの特徴的性格の大部分は他の祭りにも見出される。大地の創造と先祖の系譜が言祝がれ、二手に分かれての歌の応酬や競技で、とりわけ演劇で土地神を喜ばせる。そうして、この神を守護神とする村に豊かな収穫が約束されるのである。この民衆の儀式で記録に残されたものがラダックにある。色々な舞踏や競技が行われた後の第11月の7日の夜、3人の仮面を着けた人物による舞踏が行われる。3人のうち2人は祖父と祖母と呼ばれるが第3の人物については何であるかわからない。最後に彼らが追放されて舞踏は終わる。人々が村に戻って、そこに宴席をもうける時には、祖父も祖母も護送されて村に戻るが第3番目の仮面の人物がどうなったかは分からないという。

チベットの旅芸人 狩人と姉娘役
photo A.W.Macdonald 
ロルフ・スタン著『チベットの文化』より

なかなかミステリアスで面白いのだが、寺院での仮面舞踏劇が大黒天(マハーカーラ)を主神として執り行われる事、もどき役がこの祭りには存在する事、身替りの魔王の追儺の儀式、民間レベルの祭りでは土地神へ奉納される演劇が豊作の予祝行事としての性格を持つこと、一部の祭りにおいては祖父母役と謎の人物の3人が登場する事などを考え併せると、日本における追儺や神楽などとの関係を考えてみることは価値があるのではないだろうか。多武峰(とうのみね)などでの修正会の鬼払いや東大寺二月堂の「お水取り」で知られる修二会で、鬼の役割をする摩多羅神や毘那夜迦という存在と大黒天とが関系していることは彌永信美さんの指摘にある。あるいは、土地神や3人の仮面の人物などと能の翁や三番叟などとの関係は興味深いテーマではないだろうか。

実は、スタン自身が本書の「日本語版への序」の中でこのことについて少し触れているのでご紹介しておこう。能の「翁」について、冒頭、謡われる「トウトウ タラリ」はおそらくチベット語ではないと思われる。だが、舞台を清め、福を招くものとして白い老人「翁」の面と黒い老人「三番叟」の面に対応するものとして、チベットには「白い悪魔」の面(白)と狩人の面(黒)がある。また、「千代」という言葉の長寿の観念もチベットでは、やはり二人の人物によって表される。演劇の神タントン・ギェルポは生まれた時から老子のように老人で色黒であり、今一人は「長寿の人」と呼ばれ、ある種の仮面舞踏に登場する白い老人であるそうだ。

最後は、チベットの文学、特に有名なミラレパの詩をとりあげたい。「歌!もしわれ新たに そを歌わざらんか、意味はいかでか心に入らむ。」

 

3.詩聖ミラレパ


 

チベットの語のリズム

歴史的なチベットの領域  チベット動乱は1956年に勃発、1959年にダライラマ14世の亡命

チベット語はその構造、その語彙からいって、ビルマ語や、ヒマラヤとシナ・チベット接境地帯に住む羌 (きょう) 族などの少数民族が話しているチベット・ビルマ語族の言語と関係があり、その語彙の一部は上古中国語にも近いそうである。そのチベット語で書かれた仏教文学は膨大なものであるらしいが、ブッダの言説に関するカンジュールと呼ばれる作品群とその注釈や概論、儀軌、歌などからなるテンジュールと呼ばれる作品群に分けることができる。これらの文献は、ほとんどサンスクリット語から訳されたものなので純粋にチベット的なものはないようである。

重要なものはチベット仏教の大著述家たちの作品であって、彼らは百科全書的な知識を持ち、その著述は歴史、文法、音韻、語彙、天文、医学、卜占、旅行などに及んだが、科学書と呼ぶべきものも少からずあったようだ。特に哲学、宗教、道徳に関するものは多く書かれた。文学に関するもので言えば、歌謡、詩歌、賛歌、韻文祈祷集、演劇作品、小説、叙事詩、物語などがあるが、一見、通俗的文学と見做しうるものも含めて実は宗教家たちの仕事であるとスタンは強調している。それは、編纂が12世紀以前にさかのぼらない現在知られている作品について言えることだ。ただ、11世紀初頭に敦煌の洞窟に収められてそのままになっていた数千の写本については別らしい。

敦煌文書に見出される文献、とりわけ詩歌は急速なりズムや強烈な生命感、擬音語の使用などを特徴としていてリズムと構成だけでその美しさの全てを創っていて、中国の詩経の形式にも似ていると言われる。この魅惑的な詩の表現形式について少しご紹介すると、例えば、キリリ kyi-li-li という言葉は女性の流し目、虹、雷に用いられる。キュルル kyu-ru-ru は笑い声や歌に、異なるキリリ khy-li-li は疾風や高波に、タララ tha-ra-ra は「雲」のように集合した兵士の群れや黒い毒に、メレレ me-re-re は群衆、大洋、星に用いられるという具合である。だが、まだ体系的な研究はないそうである。そして、その様なリズミカルな詩で後の最も注目すべき作品はミラレパの詩である。チベット仏教の四大宗派の一つ、カギュ派の祖マルパの弟子だった。

ダーキニー ブロンズに金メッキ 19世紀 チベット

また、形容語の問題がある。タントラのある種の現実を隠すためのベールをかけた謎の言葉、「ダーキニーの秘密の言葉」とも言われるものから影響を受けたと考えられるが、民衆の詩においては主語の前にあってある種の感動を表すものだった。それには2種類あり、一つは翻訳可能なもの、もう一つは隠語とか秘密の言葉で意味の取れないものである。例えば、翻訳可能なものでは、空に対して「青いもの」、大地や座に対して「四角いもの」、若い獅子に対して「三倍の力」などである。

そして、ミラレパにはないが大詩人、叙事詩、演劇に共通してみられる要素に言葉というより旋律を真似て口ずさむことによって歌の導入部とすることがある。例えば、アララとか、ショーニ・ライ・ショーオ・ライ・ショーオとか、ラヨ・ラモ・ラーヨーヤなどである。叙事詩には「歌はタラ・タラ・ラモ・ラリン、それはタラ・ラモ・ララ」というオノマトペがある。先にも述べたが、能の『翁』の冒頭で謡われる「トウトウ タラリ」を想起させるのであるが、これに関しては折口信夫さんがこう述べている。「河口慧海氏は、とうとうたらりは西蔵語だと言うて、翻訳されたが、これは恐らく、笛の調子であろう。」河口慧海は『西蔵旅行記』で知られている日本の僧である。

 

風狂の詩

ミラレパ(1052‐1135) 『ミラレパの生涯』部分

ミラレパはチベット訳されたインドのタントラ教徒の神秘的な歌(doha)の中に自分の韻律法の手本や、自分の歌謡の宗教的題材を見いだした。しかし、彼が最も偉大な詩人となり、かくも人気のある宗教家になったのは、この外国の手本を自国の土着の歌謡に巧みに重ねあわせ融合させたからだとスタンは強調する。彼は民衆の詩を模倣し、悪戯心もあってか、それを強調したのだ。自らを「瘋狂者」と称した。盛んに僧侶を愚弄し、「おんみたちの腹は高慢でふくれあがっているから、げっぷをすれば虚栄心が出、嘔吐をすれば嫉妬が出る。また、おんみたちは侮蔑という屁をひり、嫌味という糞をたれるのである」と述べた。傑僧である。

そこで、擬音的3音節が散りばめられた敦煌文書にも通じるような彼の詩をご紹介してみたい。

上には、南の雲がうずまき(khor-ma khor)、
下には、澄んだ川が波打つ(gya-ma gyu)、
ふたつの間を鷲が舞う(lang-ma-ling)。
千草の草々まじりあい(ban-ma-bun)、
樹々も踊りの仕草する(shigs-se-shigs)。
ミツバチは歌う、コロロ、
花はかぐわし、チリリ、
鳥はさえずる、キュルル。

このチベット語の詩をフランス語に翻訳したロルフ・スタンは意味と語感とを共に損なわずに翻訳するのは不可能だと言っている。叙事詩の中では賛歌の形式にすぐに取って代わられるので散文による説明部は短い。これらの歌は普通掛け合いになっているので主唱者はまず名乗りを上げなければならない。

いざいざ、愛(め)ずべき小童(こわっぱ)よ、
汝知らんむと思えるものよ、いざ、聞け。
わしがいかなる男と知るや。
もしこのわしを知らぬとならば、
グンタンのミラレパなるぞ。

という具合である。そして、おしまいは定型の文句によって閉じられる。

汝この歌を理解せばよし、
この一度(ひとたび)に、
これを得たれ。
汝、理解せざるとも、我は立ち去らんのみ。

チベットの獅子 ポタラ宮 ラサ

最後にミラレパの詩をもう一つご紹介して終わりたい。自然に対し、それを支配するものとして類型的に動物を挙げていくアイデアはミラレパの歌の中に初めて現われ、そのまま現在の民衆の歌の特徴となって残っているらしい。青緑色のたてがみを持った氷河の「白い獅子」、ちなみにチベットにはライオンはいない。この獅子はインド起源と考えられるが、正月の祭りで行われる獅子舞を考えるとイランの影響も考えられるという。それから、岩の上の「鳥の王者」鷲、森の中の「まだらもの」虎、湖の「金の目」である魚、などである。ミラレパが同時に用いた他の文法的な方法も、今日の民衆の歌の特徴となって残っているといわれる。

四つの悪魔を征服せる父、
翻訳僧マルパに 頂礼す。
我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 氷河の白い獅子の (まこと)その息子、
母の胎にて 全き「三倍の力」で身のつくられてありしこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 巣の戸口を 守り果つ。
一度(ひとたび)成長しとげたる今 氷河の上を歩み、
嵐の中もよろめかず、
底知れぬ穴にも恐れを抱かざり。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 鳥の王者 荒鷲の(まこと)その息子、
卵の中にありて わが翼のすべてひらきてありしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 巣の戸口を 守り果つ。
一度(ひとたび)大鷲となりたる今 天の頂を超え、
果てなき空もよろめかず、
狭き地上に恐るるぞなき。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 大魚「ゆらめく濤(なみ)」の(まこと)その息子、
母の腹にありて わがまろき「金の目」を具えてありしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 巣の中にて寝て過し、
青春期(わかきひ)は 群れの先きを 泳ぎてわたれり。
一度(ひとたび)大魚となりたる今 大海原を廻游(へめぐ)り、
うねりの中もよろめかず、
魚網(さかなあみ)にも恐れを抱かざり。

我が身の上に 語るべきことはなけれど、
われは 正伝の譜をつぐグルの(まこと)その息子、
母の胎にありて わが信仰の生まれたりしよりこのかた
幼児期(おさなきおり)の幾年(いくとせ)を 法にひたりて過しやり、
青春期(わかきひ)は 学僧として 学び果つ。
大瞑想家となりたる今 山の庵に通い、
悪魔に向かうもよろめかず、
あやしき魔術にも恐るるぞなき。

‥‥

 

チベットの文化


ダライラマ13世 (1876-1933) はイギリスに攻められれば、モンゴルに亡命し、中国に攻められればインドに逃れたが、チベットに帰還できた。しかし、14世は、未だチベットに帰れない。スネルグローブとリチャードソンは『チベット文化史』の中で1959年以来、中国人支配者たちは、チベット文明の主な源泉を破壊し尽くしたと言い、宗教的・貴族的社会秩序に続いて農民、牧畜民、商人の物質的、宗教的福利を破壊したのだと述べる。それはイングランドにおけるクロムウェルのアイルランド侵攻を彷彿とさせるものだという。文革での中国の文化破壊を考えれば、これは大げさではないだろう。

今では中国政府も文化の資本価値を再認識しつつあるのかもしれないし、youtubeなどを見ていると、いわゆるチベットオペラと言われるアチェ・ラモなどは劇場用にいささか無理にだが洗練され、わりとupされている。けれど、1959年以前の文化的基盤は二度と取り戻せないだろう。スネルグローブらは、むしろ、チベットに働きに出ていたネパールやブータンの職人たちの技術を伝承することが重要だと言う。とりわけ、ブータンは足早に消えようとしている一つの文明の唯一の代表であり、毅然として自足しているように見えると言うのだ。確かに、ブータンに残っていれば、将来的にチベットでの文化的復興も可能かもしれないのだが‥‥それには、当然ある条件が必要だろう。

 

宗教仮面舞踏チャム 約5分

 

 

 

引用文献 及び 参考文献

 

デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソン 1998年刊
『チベット文化史』 題名通り歴史的な部分にウエイトがある立派な著作。

『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモ三話 三宅伸一郎、石山奈津子 訳
チベットの伝統演劇を収録、レアな著書。特筆すべきは、チベットのこれら民間の歌舞劇の仮面は立体ではなく、板状の平面であることだ。

『チベット ポン教の神々』展カタログ
国立民族博物館編
ボン教は、ここではポン教という名称になっている。