『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモという名の民衆オペラ

 

能の舞を見ていると、それが舞楽から来ているとは思えない。舞楽は、ゆっくりと軽く床を踏むことはある。しかし、能には勿論旋回はあるけれど、インドやジャワの舞踊のように腰を落として床=大地を踏み、その踏み方はとても力強い。コザックのような足の踏み鳴らし方とは異なる。北半球で言えば、南は踏、北は舞と言う人もいる。前者は農耕社会、後者は牧畜社会と関連していると言えるのかもしれない。朝鮮の巫覡の舞を見ていると速く回転する際の動きは、ちょっと日本の神楽を思わせるようなところもある。チベットの踊りも、そんな感じの所はあるのだが、旋回は多い。それはスーフィーのように滑らかに長い時間は連続しない。まさに呼吸のように大らかに、時に速く続く舞なのである。狩人の歌と舞を1分だけ見ていただく。

チベットの演劇は、大きく分けて二つある。一つは寺院で演じられる仮面舞踏チャム。これは、宗教行事であり、前回のロルフ・スタン『チベットの文化』 風の馬は虹を駆けるでご紹介しておいた。そして、もう一つの演劇は、民衆のこの上ない娯楽であったアチェ・ラモである。これは、チベットの神楽というべきものであるかもしれないが、朗々とした歌が中心となっていて、チベットオペラとも言われる点で、神楽とは異なる。

『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』アチェ・ラモ三話 三宅伸一郎、石山奈津子 訳

アチェは「姉」であり、ラモは「女神」を意味する。舞い踊る女優の美しさを言祝いだネーミングだったようだ。野外の平らな場所に大抵は円形の舞台が設えられる。観客は、その周りを取り囲み、観衆が増えれば人々は前へ前へと座り始め、舞台は段々狭くなっていくらしい。そこで、人々は、飲みながら食べながら、語らいながら、時には居眠りしながら歌に聞きほれ、笑い、涙し、労働の心の汗を洗い流したのである。

演目は現在八つが伝わっていて、そのうち六つはインドを舞台としたジャータカなどの仏教説話であり、残りの二つはアジア各地に伝わる伝説であると言う。その中にチベット的な要素、観音信仰やアニミズム的要素、チベットの地名などをふんだんに織り込んでいる。この辺りは日本のように他国の文化を摂取し、上手に改変しているのである。

今回は、このチベットの仮面舞踏劇アッチェ・ラモを扱った著書『天翔ける祈りの舞 チベット歌舞劇』を中心にご紹介する。とても貴重な本だと思う。この歌舞劇の創始者がタントン・ギェルボというチベット仏教の聖人であると言われている関係で、さわりだけだが、チベットの宗派をご紹介したいと思っているが、ただ、その宗教上の中核をなすタントラについては、未だ未消化でもあり今は語れない。もうすこし勉強してからまたの機会があればご紹介しようと思う。ということで、チベット仏教に関しては、デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソンの共著である『チベット文化史』からご紹介したい。これも、なかなか優れた著書です。

 

舞台はどのように展開されるのか


 

このアチェ・ラモという劇は、「序章」ドン、「その日の演目」シュン、「吉祥を意味するフィナーレ」タシーという順に展開される三部構成になっている。三宅伸一郎さんの「解説」からご紹介する。

アチェ・ラモの役者たち 左から狩人、翁、狩人、女神 1932

序章ドンは舞台浄化の意味で7人の狩人 (ゴンパ)、二人の翁 (ギャル)、7人の女神 (ラモ) が登場する。かつては、女優がいない時代があったらしく、かわりに少年が女優役を演じたこともあるという。台詞以上にナムタルと呼ばれる歌唱が重要で、これがチベットオペラと呼ばれる所以でもある。まず、狩人が以下のような祝言を歌唱し、パクチェンと呼ばれるダイナミックな跳躍を披露して舞台浄化が終わる。

シェルトン村の裏山に生えている
ああ、神聖なる松柏。
香しきその香りは
天の神の国に満ちている (三宅伸一郎 訳)

次いで、黄褐色の大きな帽子をかぶった翁が歌唱する。アチェ・ラモの創始者タントン・ギェルボに礼拝の歌唱と踊りを捧げるのだ。

幸せな今日の良き日は
歌と踊りに最適なので
音楽の供養を捧げます。(同上)

最後に五智宝冠を被った女神が、以下の歌唱と踊りを披露して終わる。これら序章が、ほぼ1時間の間に行われ、役者は、役柄を交代しない限りそのまま舞台にとどまっているという。

エマ・マニ・ペメ・フム
(繰り返し) エマ・マニ・ペメ・フム
むこうの山をごらんなさい。
雲が右向きに渦巻いている
偉大な瞑想者が山に住んでいらっしゃる
吉兆をごらんなさい (同上/エマ・マニ・ペメ・フムは観音菩薩への真言)

こうして、演目が始まるのだが、一つの演目が7~8時間かかると言われる長大な劇だ。多くの場合、座長が人物の紹介や粗筋を語るシュンシェーパと呼ばれるナレーター役を早口で務める。少しでも劇を短くするためらしい。長時間なので、観衆を飽きさせないために、途中で演目毎に決まったコントが入る。場面転換は、役者が舞台を一周することで行われ、歌唱を入れるだけで済ませる場合もあるという。この辺りは何となく能と似てなくもない。能は、一つの演目が約1時間くらいかかるが、かつては一日に何番もの演目を上演したし、その間に狂言が入り、場面転換もシテやワキが舞台を廻って済ますことがある。

最後の吉祥・タシーは、ハッピーエンドの意味で、インドのサンスクリット劇と同じだと筆者の三宅さんは書いている。必ずしもハッピーエンドで終わらない能だが、一日の終りに謡われる能の「祝言」に相当するものだと言う。

演目もどのようなものか気になる所だが、その一つ『成就者ペマ・オンバル パドマサンヴァの生まれ変わりの冒険』を4つのパートに分けて織り込みながら先を続けよう。

成就者ペマ・オンバル 1.

インドのナカムニ国は悪魔マダルムタの化身ロクペー・チョージン王が支配していた。菩薩の化身である商人頭のノルサンは、その国で商売を繁盛させ、王国の富を増大させた。ノルサンに王国を乗っ取られるのではないかと不安を覚えた王は.彼に向かって、妻の命が惜しければ、ナーガの支配する国の女王が持つ如意宝珠を7日の間に取って来るように命じた。途中ノルサンと供の者を乗せた船はナーガによって破壊され、人食い魔女の島に流れ着いた。鉄の城の中では捕らえられた男たちが食べられている。馬の王にノルサンらは助けられるが、途中振り返った供の者らは魔女に喰われ、ノルサンだけは兜卒天に逃れた。王の思惑通り、ノルサンはナカムニ国に戻れなくなるのである。

 

チベット仏教の四大宗派


仮面と衣装の細部がよく分かる映像。約2分30秒

 

デイヴィッド・スネルグローブ、ヒュー・リチャードソン 『チベット文化史』

ソンツェン・ガムポが7世紀の前半にチベットを統一し、吐蕃 (とばん) 王国が打ち立てられ、ほぼ200年にわたって中央アジアに広がる広大な土地を支配したが、9世紀の後半には唐による攻撃と内部分裂によって滅んだ。中央チベットでは、この吐蕃王家の子孫たちが、あちこちで小豪族として生き続ける。一方、ココノールの南から進出したチベット族が同じく王の末裔を迎えて青唐王国を樹立する。中国との国境地帯にはチベット系のタングート族が西夏王国 (1032-1227) を打ち立てた。そして、西に逃れた吐蕃の末裔は、ネパールの北西、北インドに接する地域の谷間にマルユル、グゲ、プランといった小王国を築く。王国の崩壊にも関わらずチベットは、それなりに独立を保っていた。

チベット仏教の発展の歴史は、込み入っている。それはインド、ネパールからかなり抵抗なく全てを受け入れた点と、それらの教えがインドの正統的・非正統的な宗教思想及び哲学思想の数百年分の積み重ねであるからのようだ。正統的な傾向とは規則正しい出家生活に基づく保守的な教義で、非正統的な傾向とは在俗でもあるヨーギたちの体験重視の個人主義的な教義であったと思われる。

8世紀末におそらく王室の招きでチベットを訪れたパドマサンヴァは、蓮華から生まれ出て古代スワートの王室で育ったとされるが、実在の人であったようだ。古派、つまりニンマ派は、このパドマサンヴァを開祖とする。実在の人物とされながら、一方で、密教の主要尊格となり、聖なる化身、密教儀礼での中心的役割を担う存在ともなった。

パドマサンバヴァ 18世紀 チベット
金銅合金、真珠、ターコイズ、彩色

11世紀初頭、東チベットでは、インド人学者スムリティによって新たなタントラの翻訳がなされ、「新タントラ」として旧タントラとは区別されることになる。西チベットでは、翻訳官リンチェン・サンポ (958-1055) によって、その指導のもと多数の顕教の聖典とタントラが注釈とともにサンスクリットから翻訳された。この11世紀、チベットの宗教発展を後押ししたインドの最も偉大な教師にアティーシャ (982-1054) がいる。彼は西チベットの仏教王からの招聘に答えて1042年にグゲに到着した。時に60歳だった。彼に対する信頼とその名声はチベット社会全般を仏教が支配する礎をもたらしたと言われる。彼は、僧団の戒律の復興の必要性と弟子の師に対する完全な服従と帰依を要請した。戒律の復興は、タントラの粗野勝手な解釈に対する歯止めであったろうし、弟子の全人的帰依は、僧侶とヨーギの実践を一つにまとめる助力となった。もう一つ、重要なことは、彼が五仏の中尊を大日如来などではなく、観音に置き換えたことである。このアティーシャの法統からカーダム派が生まれる。

中央チベットからインドのナーランダー、ヴィクラマシーラ、ブッダガヤといった大仏教センターを訪れた人々の中にドクミ (993-1074) とマルパ (1012-1097) がいた。後にサキャ派の源流となるドクミは、ヴィクラマシーラで8年もの間大呪術師シャンティ―パの指導を受け『ヘヴァジュラ・タントラ』を伝授され、それが、この派の根本経典となった。

チベットの地図

チベット仏教は全体にタントリックになっていく。インド仏教最後の時期である10~12世紀に、そこで手に入った教えの中でチベット人の心を捉えたのは神秘的、呪術的なもの、恐怖に満ちた荘厳であった。秘蹟重視の儀礼的、実践的な傾向となり、様式化された象徴的名号と印契を持つ諸仏と眷属が神聖な図形の中で密接に結びついた構成単位となる。最終的な真理は一つの神秘となり、果てしない輪廻を繰り返して、全てを解決する知恵と全てを救う慈悲とを得ようと努力する初期の大乗の信徒たちの描いた真理からは、乖離し始めた。適切な師を得、カルマが満ちれば即身成仏が可能とされるのである。

カギュ派の開祖マルパは、最初ドクミに学んだが法外な教授料を敬遠してインドの大呪術師ナーローパに16年もの間師事した。マルパは妻帯して表向きは普通の家長として生活し、彼から灌頂を受けた者のみがサークルの一員となれた。その衣鉢を継いだミラレパがマルパのもとを訪れた時、畑を耕していたという。ミラレパは、チベットのヨーギの中でも名高く、その歌は『ミラレパ十万歌』として知られている。ミラレパの法統はガムポパ (1079-1153) に受け継がれた。

ツォンカパ(1357-1419)17世紀 青銅に金メッキ

1207年、独立を保っていたチベットに突如チンギス・ハーンの使者がやって来る。統一国家の体を為していなかったチベットは、この時、全く抵抗せず服属を受け入れたため、悲惨な虐殺を免れることになるが、この時からチベットと大君主との関係は、政治的な保護の見返りとして宗教的指導を行うという異常な関係に発展し、20世紀まで尾を引くと言われる。チベットと東方の隣国との政治的関係の主要なパターンとなるのである。モンゴルが中国を支配した元の時代にフビライは重要な施主であった。しかし、宗教界では、帝師の地位を巡ってサキャ派と他派との血みどろの争いの時代であったと言う。元が滅亡した後、チベットはチャンチュプ・ギェルツェンが王権を復興することになるが、復古の流れは長く続かなかった。この頃には、翻訳の時代は終わりを告げ、大蔵経の編纂の時代になっていた。

14世紀末までには、仏教はチベット世界全体に浸透し、チベット人の生活の指針となっている。そして、このチベットの複雑な宗教界をもっと複雑にした大立者がツォンカパである。サキャ派のレンダウとカーダム派のウマパから教えを受けた。46歳の時カーダム派のラデン大僧院でアティーシャのヴジョンを得て、彼の神学大全とも言うべき菩提道次第広論/ラムリムチェンモ』を釈説し始める。このツォンカパがゲルク派の開祖となるのである。このニンマ(古)派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派がチベットの四大宗派となった。以上駆け足でした。

成就者ペマ・オンバル 2.

ダーキニー Dakini Vasya-Vajravarahi
15世紀 チベット 銅合金に金メッキ

銅褐色をした壮麗な山に住むグル・ウギェン (パドマサンヴァ) はノルサンの妻、ラセ・ダムセに憐れみを抱き、その胎内に降下する。生まれたペマ・オンバルは、父親のことを知らされずに成長するが、ある日、自分が紡いだ光輝く糸を契機に父のことを知る。だが、またもや王位を幼いペマ・オンバルに奪われるのではないかと不安になったロクペー・チョージン王は、ナーガの国の如意宝珠を手に入れるように命令するのである。

苦悩に押しつぶされそうになる母親だったが、ダーキニーの夢告によって神降搭に参詣する。東から白色、南からは黄色、西からは赤色、北からは緑色、中央からは青色の光が射してくるとダーキニー五部衆が現れ、母に救いの真言を授けた。あわやという危機にこの真言を唱え、オンバルは無事、如意宝珠を手に入れ母のもとに帰ってくる。喜びも束の間、王は今度は、羅刹の国ナムカ・ディンチョに行って金の鍋とヤクの尾の払子をとって来るように命じるのだった。

羅刹の国は鉄のような黒色で、滝は流れ落ちてはスープのように煮えたぎり、狼と狐が遠吠えする不気味な土地だった。そこには、黒い鉄の谷の羅刹女が機織をしていたが、オンバルを見ると、人肉は久しぶりだと、オンバルの体を三回揉むと飲み込んでしまうのだった。

 

歌舞劇の守護聖タントン・ギェルボ


 

タントン・ギェルボ(1361/1385-1464/1485)
東チベット 16世紀 銅に彩色

タントン・ギェルボは、母の胎内に60年間留まったという。お母さんは大変だったろう。それ故、生まれた時から色の黒い老人だった。そして、120歳の長寿を全うしたと言われる。生まれながらの老人は、知恵者のメタファーです。チベット西部ガムリンのオバ・ラツェに生まれた。7歳頃には羊飼いの手伝いを始めるが、幼少から様々な神通力を働かせたという。洞窟に住む修行者のもとで瞑想したいがために、ヤギの数の黒石と羊の数の白石を紐に括りつけ、それらの番を土地神に命じたという伝説が残っている。

1429年から1484年までの56年間にチベットとブータンに48の鉄の吊り橋と18の渡し場、多くの木製の橋を架けた。吉祥多門搭などの111の仏塔、タルパリンといった寂静所としての行場を造った。仏塔の建築ではチュン・リボチェにある吉祥多門仏搭、ブータンのパロにあるドゥムツェック・ラカンなどが知られている。仏塔は、地震などの災害を封じる地鎮のためでもあったらしい。大地に灸をすえる意味があった。こんなのは、現代のアーティストも真似してる。彼は、チベットの偉大なヨーギ、医師、鍛冶屋、建築家、土木技師でさえあった。「平原の空 (くう) の王」という僧としての別名の他に「鉄の橋を架ける者」とも呼ばれた。なんだか空海みたいだが、チベットのダ・ヴィンチと呼ぶ人もいるらしい。衆生のために積極的な社会事業を行ったのである。そのための財政力と大きな組織力があったことが窺える。

ツォンカパも学んだレンダウ (1349-1412) ら多くの学僧に師事した。ニンマ派、カギュ派、サキャ派といった派閥を問わなかったようだ。瞑想修行に励み、「火と風の瞑想」に秀でた。その瞑想の最中にダーキニーたちが現れ、このように称えたという。

偉大な仏の住する平原 (タン) に
空性 (トン) を悟ったヨガ行者
無畏の王 (ギェルボ) のごとくあり。
ゆえにタントン・ギェルボと名付けん。

タクツァン寺  ブータン、パロ
タントン・ギェルボは、ここでヴァジュラキリラヤ (普巴金剛) とヘールカ (教令輪身) のヴィジョンを得たと伝えられる。

これが、彼の名の由来であるが、ミラレパと同じように瘋狂者 (ニョンパ) とも呼ばれた。チベットにも一休や普化、寒山、拾得のような僧がいるのだ。瘋狂僧は、各地を遊行し、時には風刺を込めた宗教歌 (グル) を謡ったために人気を博した。小鳥に説法できたのは聖フランチェスコだったが、タントンはロバに説教できたという。

入滅する時、彼は涅槃に向かって人間界を去ろうとし、光に包まれ瞑想堂の上空に浮き上がった。弟子たちの現世に留まってほしいとの願いを一度は聞き入れて、自分には、死という物質と意識の分離はないと語り、小さな身体となって瞑想堂に戻って来たという。

さて、アチェ・ラモとの関りだが、鉄鎖の橋を架ける作業が難航し、資金も枯渇した折りも折り、閃いたらしい。彼が工事に携わる者から歌の上手な7人の娘を選び、踊りや歌を教えて、自ら太鼓を叩いて人前で演じさせて資金を集めたという。この7人の踊りがアチェ・ラモの起源とされている。

成就者ペマ・オンバル 3.

羅刹女の口の中でオンバルは母から授けられたダーキニのマントラを唱えるとオンバルは吐き出された。羅刹女は、その深遠な真言を授けてくれるように頼むのだった。峠を越えると赤銅色の平原があり、流れる川は血の色をしている。そこには銅の谷の羅刹女がいて、やはり吐き出したオンバルに真言を授けてもらう。三番目の法螺貝の谷、次の金の谷でも同様なことが起き、いよいよ羅刹の女王ペタ・ゴンギのいる羅刹の宮殿に到着した。羅刹の女王は、三つの黄金の塊で出来た暖炉の上に金の器を被せてオンバルを焼いて食べようとするが、真言を唱えるオンバルは無傷のまま器から飛び出して来る。畏敬の念に打たれた女王は、60人の子供たちからオンバルを守るために爪の間や髪に彼を隠すのだった。

羅刹の女王は真言を授けてもらうことを条件に金の鍋とヤクの尾の払子を渡すことを申し出る。真言によって中央仏界のダーキニーとなった女王は、金の鍋にオンバルを乗せて、洗い水を持ってナカムニ国に向かう。途中、鉄のかぎ針と投げ縄を携えた南方宝生界のダーキニーとなった金の谷の羅刹女を、一包みの薬を持った東方金剛界のダーキニーに変身した法螺貝の谷の羅刹女を、皮袋を持った西方蓮華界のダーキニーとなった銅の谷の羅刹女を、最後に怒りの太鼓を持った北方羯磨界のダーキニーとなった鉄の谷の羅刹女を乗せていくのである。

 

音楽と仮面


音楽

歌「ナムタル」は、もともと「よく解脱する」という意味の仏教用語から高僧の解脱への道のりを表す「伝記」を意味する言葉となり、登場人物の「歌」を指す言葉となった。観音信仰のためにタンカ (仏画) を掲げ、マニ (真言) を朗誦しながら絵解きを行うマニパと呼ばれる人々がいて、観衆と一緒に唱和したが、彼らの節回しがアチェ・ラモの歌唱に影響を与えたと言われる。日本で言えば、説教節に近いだろうか。歌唱法は100種類あると言われるが、時間の長さからタリン、タンディン、タトゥンの三種類に大別される。タはメロディーの意味で、リンは長い、ディンは中程、トゥンは短いを表す。これにレンと呼ばれるバックコーラスが入る。場面に関わりない役者が舞台に残るのは、このバックコーラスのためでもある。

伴奏楽器は、かなりシンプルなもので、木の胴に半径50cmほどの皮を張った太鼓とシンバルだけだ。太鼓は胴に付いた長い柄を地面につけて足で挟むか、手で握り、湾曲したバチで叩く。時々酒で湿り気を与えて皮の張りを一定に保つらしい。能の小鼓では時々唾をつける。シンバルは横に打つのではなく縦に打つ。演奏に合わせて皆が踊っているように見えるが、最も上手な踊り手に合わせて演奏するのだという。しかし、舞台の良し悪しは、この太鼓とシンバルの音にかかっているといわれる。

緑ターラ 中央チベット 13世紀

仮面

主役は仮面を着けない。この仮面は板状で世界的に珍しい。面は全て卵型で目と口の部分に穴が開いている。形より色が重要である。

白は柔和を表す。黄色は広大さを表し、良家の出身で物知りであり、努力家、高度な悟りを得て高い徳の人を表す。赤は力の色で、智慧があり、臨機応変で硬軟兼ね備えた人望のある人に用いられる。商人頭ノンサンの面はこの色である。

緑は救いの女神緑ターラの色で、この色の仮面を着ける者はターラの化身であることを示している。半分白、半分黒の仮面は信頼のおけない者であることを表す。そして、黒は不善を示すが笑いを呼び起こし、トリックスターとしての性格を表している。

 

成就者ペマ・オンバル 4.

無事、帰国したオンバルたちだが、母との再会を喜んだのも束の間、王の命で屠殺者によって東の高い山の頂上で殺されてしまう。オンバルの体は焼かれ、灰となり、風に舞って散ってしまうのだった。王の待女となっていたダーキニーたちは、オンバルが死んだ山を訪れる。

鉄の谷のダーキニーは、真言を唱えて怒りの太鼓を打ち鳴らすと天に穴が開いて竜巻が起こり、オンバルの灰を一か所に集めた。ダーキニーたちは同様に真言を唱えるのだが、銅の谷のダーキニーは風を巻き起こし皮袋に灰を集めた。金の谷のダーキニーも鉄のかぎ針と投げ縄を四方に投げると皮袋の中に二つの目が出来上がり外をじっとながめるのだった。今度は法螺貝のダーキニーが薬を皮袋の中に入れるとあの幼き覚者が現れるのだった。最後に女王だったダーキニーも真言を唱えながら瓶の洗い水でオンバルを清めた。

鉄の谷のダーキニーはオンバルと一緒に山頂に残り、他のダーキニーたちは王に金の鍋で空中を飛ぶ遊びに誘う。国の上空をあちこちビュンビュンと飛び回ると、最後に悪大臣と王を乗せ羅刹の国へと飛んでいくのである。羅刹の国ナムカ・ディンチョにつくと女王のダーキニーは「お聞きなさい、ロクペー・チョージン王よ邪悪な大臣たちもお聞きなさい。これを自業自得と言うのです 悪業の報いを受けるとは哀れなことよ (石井奈津子訳)」と言うと鍋をひっくり返した。下で母である女王の呪文によって眠っている子供たちには「母の幼い六十人の息子たちよ インドの東方からお土産を持ってきたよ。新鮮な人肉がどっさりあるよ 息子たちよ寝そべってないで、さあ、起きなさい (同上)」と語った。こうして悪の王は悪の家臣とともに滅び、オンバルがナカムニ国の新たな王に迎えられたのである。

 

民族音楽の豊かさと舞踏


小泉文夫『音のなかの文化』対談集
1983年 青土社

最近は、ワールドミュージックと称して世界中の音楽がメディアに乗り、何時でも楽しめるようになった。とても豊かになったと思う。この文章を書きながら若いころ、NHK-FMの番組「世界の民族音楽」を聴いていた時代のことを思い出した。それは、ひとえに小泉文夫さんの賜物と言える。その頃は、何となく面白くて聞いていたが、後から考えると、西洋音楽一辺倒の価値観に清風を送ってくれていたのだ。やがて、チベット仏教声明に背筋を凍らせ、チベッタンホルンの音にのけぞり、モンゴルのホーミーと一緒に振動し、ガムランと共に脳は渦巻き、スーフィー音楽に乗って耳は旋回し、アイヌのおばあちゃんたちのデュエットに胸ときめかせた。

小泉さんは、作曲家である芥川也寸志さんとの対談で、台湾本土にいる十種類の高砂族 (現在では高山族と呼ばれる) と南の離島のヤミ族 (タオ族) とは外見は同じなのに言葉が全く異なることを指摘している。彼らヤミ族の言葉はフィリピンのバターン諸島からルソン島のイゴロト族までの系統と同じ言語であると言う。台湾からルソン島までの言語は繋がっていたが、強力な権力が現れると分断されてしまうのだと言うのだ  (『音のなかの文化』)。芥川さんの朝鮮と日本でも、境界線のできる前は繋がっていたのかという問いに対して、そうだと言う。南蛮振りの文化はここまで、騎馬民族の文化はここまでという風に人工的に影響力が及ぶのは、そういった権力が作用する後の時代のことだと言うのである。

なるほど、そうなのか。民族音楽に当てはまることは、民族舞踏にも当てはまるのではなかろうか。こうなると民族舞踏の流れはどのように繋がっていて、どのように分断されて独自に発展したのかを考えることは、すこぶる面白いと思う。ご紹介できる機会に巡り合えるとよいのだけれど‥‥

 

5月いっぱいまで休載のお知らせ

お読みいただいてありがとうございます。この四月、五月と僕にとっては大切な展覧会が続きます。それらについては当サイトやフェイスブック等で近々お知らせしますが、その準備のためにブログは五月いっぱいまでお休みさせていただきたいと思います。次回は六月頃になろうかと思いますが、それまでお待ちくださいね。

 

参考映像

アチェ・ラモの師匠と団員たちのドキュメンタリーになっています。約17分

 

 

 

参考図書

小泉文夫『音楽の根源にあるもの』
1977年 青土社