梯 久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』ベールの向こう側の「私」

 

梯久美子『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』

「すぐれた聖職者は、常に自分の祈祷書を携帯しているものだ。これと同じように、芸術家は彼の内に死を携えている」と、ドイツの小説家ハインリッヒ・ベルは述べたと言う。ガーン ! これは痛い所を突かれた。人は、死を携える、おもちゃのようにも鉄鎖のようにも。とりわけ、芸術家には死の匂いを漂わせる者も多い。原民喜 (はら たみき) もまたその一人だった。

どうも周期的に死に対する願望というか憧憬というか畏怖というべきか、やって来る。何かに背中を押されるようにツンのめることがある。もうこんな頭陀袋のような体の中に閉じこめられていたくないという足掻きなのか、故郷に対する郷愁なのかもよくは分からない。年を取れば、その切迫感はいや増して来るのは確かだ。まだ、生きねばならないのかという諦観もある。

日の暑さ死臭に満てる百日紅 民喜(俳号は杞憂)

自分を消したい、消そうとする衝動がある。それが死と繋がっていくものなのか、どうか。原の中学校時代を知る人は、彼が入学してから4年間、その声を聞いたことが無かったと言う。手足も機敏に動かせなかった。回れ右や歩調を取っての行進もできなかった。教練や体操の時間は、あざ笑いとからかいと罵りの対象だったと言う。

魂呆けて川にかがめり月見草 民喜

慶応の文学部予科に進んだ時、同級に山本健吉、瀧口修造、田中千禾夫 (たなか ちかお/後に劇作家)、葦原英了(あしはら えいりょう/後に音楽・舞踏評論家)、庄司総一 (後に小説家・詩人) らがいた。山本健吉にとって俗物には見えなかった学生が原だった。憂鬱そのもののような青白い顔をして打ち解ける者もなかった。同級の瀧口修造にも、三年生からの担当教官だった西脇順三郎にも原の記憶は無かったと言う。

ふるさとの山を怪しむ暗き春 民喜

原民喜 (1905-1951) 慶応義塾大学時代
定本 原民喜全集Ⅱ    青土社に収載 部分

原は郷里の広島で、付属中学の5年生になった時、同人誌に詩を掲載した。同級生熊平武二が思い切って声をかけると慌てて前かがみになり小走りに逃げた。眼に浮かぶようだ。しつこく頼むと「うん」と低い声で言った。初めて原の声を聞いた瞬間だった。彼の文才は校内でも知られていたらしい。彼が、自分の意志で所属したコミュニティーは「三田文学」などほとんどが同人誌であり、文学は原が世界と繋がるための唯一の回路だったと梯 久美子 (かけはし くみこ ) さんは書いている。

今回はノンフィクション作家の梯久美子さんの著作『原 民喜 死と愛と孤独の肖像』をお送りする。丁寧に取材された内容を密度高く編集されている立派な作品だと思う。小説家、詩人として知られる原民喜 (はら たみき) の世界を本書を中心にご紹介したい。

(かけはし) さんは、熊本のお生まれ。北海道大学文学部卒業後、企業に入社して編集者となり、1986年に編集・プロダクション会社を設立。2001年からフリーライターとなる。2005年『散るぞ哀しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で作家デヴュ―。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞された。他の著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』、『昭和の遺書 55人の魂の記憶』、『百年の手紙 日本人が遺した言葉』がある。2017年の『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』は、第68回読売文学賞(評論・伝記賞)、第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞を受賞されている。

 

死と夢


 

お前が凍てついた手で
最後のマッチを擦ったとき
焔はパッと透明な球体をつくり
清らかな優しい死の床が浮かび上った

誰かが死にかかっている
誰かが死にかかっている と、
お前の頬の薔薇は呟いた。
小さなかなしい アンデルセンの娘よ。

僕が死の淵にかがやく星にみいっているとき、
いつも浮かんでくるのはその幻だ

『死について』 原民喜

 

原は広島の惨劇から辛くも逃れて蟋蟀のように痩せ衰え、飢えと寒さで戦きながら農家の二階でアンデルセンの童話を読んだ。人の世に見捨てられて死んでいく少女の最後のイメージは狂おしいほど美しかったという。これから先、生き延びれるのか、真っ暗な田舎道をとぼとぼ歩きながら、暗い地球に覆いかぶさる夜空を見上げた。そこには、ピュタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いていた。

ネリー・ザックス (1891-1970) 1966年

原が「大地の愛に胸を浸した母性の豊かな想像力」と讃えた作家セルマ・ラーゲルレーヴ、彼女の援助によってナチスの手からスウェーデンに逃れた詩人ネリー・ザックスは、かつて、こう述べていた。「死は私の先生でした。私のメタファーは私の傷です。」そして、こう詠った。

‥‥
子供たちが死ぬときには
つねに
人形の家の鏡たちが
ひとつの息に曇る、
子供の血の繻子を着た
指の*リリパットの踊りを見なくなる―
双眼鏡のなかで
月にうっとりした世界のように
動きのない踊り。

子供たちが死ぬときには
つねに
石と星と
そしてたくさんの夢が
故里を失くすのだ。

(『生き残った者たち』より 網島寿秀 訳)  *リリパット/ガリヴァー旅行記に登場する小人の国

 

童話的な世界を同じように設定しながら、この二人の世界はかくも差を見せる。ザックスの世界は、現実の中に痛みが沈み込む。彼女は恋人をゲシュタポに殺され、ユダヤ人であることによって精神的な傷を負い、精神障害を繰り返しながら生きた作家だった。原の世界はあくまで夢のようなベールがかかっている。彼の踵は大地から浮いて死に接しているともいえる。それが原という作家の天性だったのかもしれない。原はこう書いている。

「嘗て私は死と夢の念想にとらわれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いていた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかったのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂喜の如く熱愛してくれた妻がいた。その後私は妻と死に別れると、やがて広島の惨劇に会った。うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支えてくれたのは、あの妻の記憶であったかもしれない。そのことも私は『忘れがたみとして一冊は書き残したい。そして、私の文学が今後どのように変貌していくにしろ、私の自画像に題する言葉は     死と愛と孤独       恐らくこの三つの言葉になるだろう。‥‥‥十数年も着古した薄いオーバーのポケットに両手を突っ込んで、九段の壕に添う夕暮れの路を私はひとりとぼとぼと歩いている。(『死と愛と孤独』)

 

青春の挫折


 

原民喜 撮影年未詳

梯さんの著書に戻ろう。原は1905年、広島市の幟町に父信吉、母ムメの第八子として生まれたが上の兄二人は早世した。姉が二人、妹が二人いたが、姉二人も原が成人する前に亡くなっている。

ちなみに中原中也は1907年生まれで、父親の転勤で1909年から広島に3年ほど住んでいて、広島女学校附属幼稚園に通っていたというからかなり近い距離に住んでいたことになる。対照的な二人が、幼い頃、街ですれ違っていたと思うと何か不思議だ。

生家の原商店は、軍服、制服、天幕、雨覆いなどの製造・卸を行う陸海軍・官庁用達の繊維商で、1984年、日清戦争が始まり大本営が広島に置かれた年の創業だった。軍都広島の発展が原商店の発展でもあった。工場の他に複数の貸家もあり、かなり豊かな暮らしぶりだったと言う。

しかし、原は生家が戦争成金で、自分は工員たちから搾取した金でのうのうと生きてきたという負い目があった。生家が質屋だった宮澤賢治を思い出させる。

そのこともあってか一時、左翼思想に染まった。昼夜逆転生活がたたって、予科から学部へ進めず、結局5年も予科に在籍していたが、やっと慶応の文学部英文科に進んだ1929年 (24歳頃) から1931年の時期である。マルクス主義文献に触れ始め、読書会であるリーディング・ソサイティと弾圧された革命活動家への救援を目的とする国際組織である赤色救援会 (通称モップル) での活動へと進展していくことになる。所属は日本赤色救援会の東京地方委員会だった。

下宿の部屋を会合に提供していたのは分かるが、驚くべきは広島地区の組織拡充のための勧誘活動を行うというオルグの指示を受けて帰郷していたことだった。後に、これを知った友人一同唖然としたと言う。第一、勧誘と言ってもちゃんと喋れるとは思えなかったのである。原は1931年に検束されたが、短期間で釈放された。これを機に赤色救援会を離脱し、その運動を断念したと言う。

原の生涯で唯一社会に向かって能動的に働きかけようとした事件だったが、短期で終わってしまった。1932年、27歳で大学を卒業。卒論はワーズワースだった。友人の長光太 (ちょう こうた) の下宿に転がり込み、ダンス教習所の受付の仕事に就くや横浜の開港場のちゃぶ屋の女性と同棲する。相応の金を払った上で身請けしたようだが、半月もしないうちに逃げられている。

何もかも上手くいかなかった。挫折の連続を味わったのである。ひっそりと耐えたが二階の原の様子がおかしいのに気づいて、階段を駆け上がった長は、原の枕元にカルモチンの壜が転がっていたのを見た。芥川龍之介も金子みすゞもこの睡眠薬で死んでいる。しかし、多量に飲んだために吐いてしまっていた。長に揺り起こされた原は、一生、誰にも言わないでくれと低い声で頼んだと言う。

 

最愛の妻の死と家族の死


 

定本 原民喜全集 Ⅰ 1978年刊
「華燭」「昔の店」収載

こんな息子でも身を固めさせれば何とかなるだろうと思うのは親や親戚である。1933年、27歳の時に6歳年下の貞恵と結婚した。広島県、三原の出身だった。梯さんは結婚式の様子を彷彿とさせるような原の作品『華燭』を紹介してくれている。

母は夫から初めて聞かされる言葉は大切だから嫁に言い聞かせてやりなさいという。見合いの席で一言も口をきけなかった相手に何といったものやら思い惑った。大きなテープルを挟んで向かい合ったが、段々気づまりになってくる。早く何とか言わないと一生ものが言えなくなるかもしれない。相手は高島田の首を重そうに縮めている。

思い余って一声を放った。「オイ ! 」 あんまり大声で怒鳴ったものだから、自分の方が喫驚した。もう破れかぶれだった。「君は何と言う名だ ?」 我ながらなんとアホな事を聞いたのだろうと思ったが、もう遅かった。嫁は黙ってこちらを見つめるばかりだった。気が気でない。「オイ !」「なんとか言え ! 何とか !」 花嫁は、やおら赤い唇を開いた。「何ですか ! おたんちん ! 」「おたんちん ?」初めて聞く言葉だった。キョトンとして花嫁の怒れる顔を眺めていた。

ハハハ ! 面白い。この作品は1939年 (昭和14年) に三田文学に発表されている。貞恵は、ものにこだわらない明るい性格で、愛くるしい小柄な丸顔の人だったと言う。夫の才能を信じ、作家になるという夫の夢を自分のものとするような妻だった。ソウルメイトと言ってよかった。彼女と過ごした日々が原にとって最も幸福な時期であり、最も多作な期間だった。生活力のない原と別れて帰ってきたらどうだという実家からの誘いも頑として受け入れなかった。しかし、その妻も結婚して6年後に肺結核を発病し、5年後に亡くなっている。この痛手は想像にあまる。原にとって重大な死別の記憶がその他に二つあった。

定本 原民喜全集Ⅱ 1978年刊
「愛について」収載

一つは次姉の死だった。何気なく語る姉の言葉、死んでいく人の語るこの寓話が少年の微妙な魂の瞬間を捉え、胸に響いて全生涯にわたって木霊した。

画家は王様から天使の絵を描くように依頼され、公園にいた一人の可憐な少年を見つけてモデルにした。その純粋な美しさは評判となりその絵は宮殿に保存された。年月は流れて、今度、王は悪魔の絵を所望した。牢獄を巡り歩いて凶悪な相の男を探し出してモデルとした。その絵は天使の絵にも増して賞賛を得た。画家は、感謝のしるしに王宮にある自分の絵をそのモデルの男にみせた。すると、その囚人は天使の絵を見ながら嗚咽の底からこう呟いた。この絵は私なのだと。(「愛について」)

この21歳の姉を失ったのは小学校高等科1年生の時だった。それより前の小学校5年の時に、父親が51歳で亡くなっている。父の死は、原の精神的支柱と呼ぶべきものの喪失であったかもしれない。梯さんはその頃の様子を原の作品「昔の店」から紹介している。

父が健在の頃は、店の雰囲気も従業員たちも彼にとって親密なものだった。営業を終えると店の奥は兄弟の遊び場であり、丁稚と共に王様ごっこや猛獣狩りなどを演じて興じた。店から工場までの道のりは「四五町の距離がワクワクと彼の足許で踊り出す」し、工場の裏手の川が「素晴らしくおもえたのは、そっくり父の影響だったのかも知れなかった」と書いている。しかし、父が亡くなると自分は日向から日陰にうつされたかのようで、そこには味気ない死の影が潜んでいた。学校から帰ると自分の部屋に引き籠り、もう滅多に誰とも口をきかなくなったと書いている。(「昔の店」)

 

夏の花


 

原民喜全詩集

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依る変化ヲゴランナサイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカエル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

(原民喜『原爆小景』)

原は、まるで広島の惨禍に会うために帰郷したようなものだったと述べている。妻の死の翌年、看病のために千葉に来ていた義母も里に帰り、空襲も激しさを増してきたので、1945年2月に原は広島に吸い寄せられるように帰った。39歳の時である。兄の家業を手伝うという名目だった。広島は、空襲にさいなまれていなかった、取っておかれたように

日ノクレ近ク
眼ノ細イ ニンゲンノカオ
ズラリト川岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ顔ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ 細イ眼ニ
翳ッテユク 陽ノイロ
シズカニ オソロシク
トリツクスベモナク

(原民喜『日ノクレ近ク』)

 

以前ご紹介した心理学者のロバート・リフトン博士は、目の象徴的イメージは、はるかな普遍性を持っていて、死者からの凝視は、生存者が自分は生き残ったということを罪悪と感じ、その「非を責める目の所有者」と一体化させてしまう(『ヒロシマを生き抜く』)という。しかし、原の描写はあくまで静かで深い。そのことが、ことさら心に響く。梯さんは、この文体は文学者としての原がこの状況を描写するために選んだ形式であると考えている。それまでの作品とは一線を画しているのは確かだ。

原民喜『戦後全小説』「夏の花」収載

原自身はこう書いている。「原子爆弾の惨劇の中に生き残った私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく引き出された(『死と愛と孤独。」被爆という空前絶後の経験によって原は地面にたたきつけられたと言ってもよいのかもしれない。

そして、被爆後、一つの決意が生まれた。リフトン博士は、過酷な体験を可成りな程度まで克服できると、生存者は自分の過去から生命肯定の要素を呼び出すことが出来、「能動的な緊張」と「はつらつとした現実感覚」を取り戻すことが出来るようになるとしている(『ヒロシマを生き抜く』)。

自分は奇跡的に無傷だった。そのことが、この惨状を伝えよとの天命と感じられた。自分の仕事は多かろうと書いている。原は亡くなった妻が用意してくれていたように簡単な医薬品やオートミール缶の食料、そして手帳と鉛筆の入った雑嚢袋を持って逃げていた。その手帳に原爆の有様をメモしていく。それは、現在、原爆資料館に収蔵されている。

ギラギラノ破片ヤ
灰色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ

(『夏の花』より)

『夏の花』に掲載された唯一の詩である。梯さんがこの著書に掲載した原爆詩は、この作品だけだった。それは、梯さんの見識といって良いとも思うが、ぼくは原爆詩を皆さんに知ってほしいと思ったので『日ノクレ近ク』や『原爆小景』をご紹介した。この「ギラギラの破片‥‥」の詩以外、『夏の花』は、全編、被爆後のドキュメントとなっている。この文章は手帳のメモがかなり正確に使われていて、1945年の秋頃には執筆されはじめ、まとめられた作品は1946年の12月半ば、原の亡くなった妻の実弟である東京の佐々木基一が編集していた『近代文学』への原稿として送られている。

原民喜夫妻  定本 原民喜全集Ⅰに収載

最初のタイトルは『原子爆弾』だった。当時、進駐軍の検閲は事前と事後に分けられていて、時事問題を扱う雑誌である『近代文学』は事前検閲が課せられていたと梯さんは指摘している。日本人の検閲官に内閲してもらったが、とても通らないと言われたと言う。結局、題名を『夏の花』に改め、一部削除して1947年6月に検閲のない「三田文学」に掲載された。

『夏の花』は、実は妻の墓参りのシーンから始まる。八月四日、原は黄色い花を買って墓前に供えた。小弁の野趣あふれた、いかにも夏らしい花だったと書いている。夏の黄色い花というとキンレンカか黄色の百日草と言ったところかもしれないが、僕は長らくこの夏の花を夾竹桃だと思い込んでいた。黄色い夾竹桃は無いですよね。妻の墓参りと被爆後の描写との間に何が在るのか、義弟への思いやりだけではなかったろうと思われる。

 

民喜の死


 

梯さんの、この著書は原民喜の自殺のシーンから始まる。鉄道自殺、いわゆる轢死だった。最も恐怖が募る自殺の仕方と言われる。彼の文学は作家の意識の流れを描くような作風に変わっていったようだが、おそらく早すぎたのだろう。理解されないままだった。そして、原は、一瞬で周囲の事物が崩壊するような恐怖を感じないかとある編集者にもらしている。稲妻の光にも椅子から腰跳ね上げるほど体震わせたという。PTSDがあったのは確かなようだった。そのような中でも、若い文学志望者である遠藤周作との心のふれあいを深めていた。祖田祐子という若いタイピストとの出会いにも繋がり、原に心の安らぎを提供していたのである。やがて、遠藤もフランスに立った。

‥‥
すべての別離がさりげなく とりかわされ
すべての悲劇がさりげなく ぬぐわれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えているいるように

私は歩み去ろう 今こそ消え去っていきたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

(原民喜『悲歌』)

 

まるで傷のある手で周囲をまさぐって生きることをよぎなくされた人のようだった。これは心の強さ・弱さといった問題ではなく、心の感度の違いと思っていただきたいが、心であろうと体であろうと痛みは人を衰弱させる。彼にとって、この地上に生きていくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ちていた。日毎、人間の心のなかで行われる惨劇、人間の一人一人に課せられているぎりぎりの苦悩、そういったものが、彼の中で烈しく疼く。それらによく耐え、それらを描いてゆくことが私にできるであろうかと自問を繰り返す(『死と愛と孤独。耐えがたい現実があった。しかし、原の「私」はベールの向こう側にいる。原爆が、ぱっと剥ぎ取ったのは、ヒロシマの街だけでなく、原のこのベールであったかもしれないのである。それでも、その「私」は「現実に向かって傷だらけになる私」とすれ違い続けた。

何もかも整えて去っていった。数か月前から友人を訪ね、それとなくお別れをしていった。友人や家族に宛てた17通の遺書、遠藤には航空便用の封筒に宛名が書かれ切手も貼られていた。ある友人には形見としてのネクタイが置かれてあった。残されていたのは『心願の国』の原稿とタオルが入った風呂敷包み、別の友人への折カバンと黒いトランクくらいだったという。

葬儀の時、柴田錬三郎は「あなたは死によって生きていた作家でした」と語りかけ山本健吉が『夏の花』の一説を朗読し、弔辞を読んだ埴谷雄高は、「原民喜さん 広島でうち倒れて あなたの静謐な諧調正しい鎮魂歌を奏でられた多くの人々の許へ そしてまたあなたが絶えずそこから出て そこへ帰っていった奥さんのもとへ安らかに行ってください」と結んだ。生前刊行されたのは『焔』と『夏の花』の二冊のみだった。

こうして、原民喜はベールの向こう側へ帰っていった。そこは安らぎの場所だったろうか。しかし、一つの疑問が残る。彼が亡き妻へ「忘れがたみ」として書き残したいと述べた一冊とは、どの作品なのだろう。それとも、それは苦しみの死の彼方にあるもう一つの美しい死であったのだろうか。

 

今宵
わたしは角をまがって
暗い裏通りを行きました
するとわたしの影が
わたしの腕にまとわってきました
この擦りきれた衣は
着てもらいたかったのです
そして無の色がわたしに話しかけてきました―
あなたがいるのは向こう岸なのよ !

(ネリー・ザックス『燃え上がる謎』より 網島寿秀 訳)

 

参考図書 及び 引用文献

 

『ネリー・ザックス詩集』 2008年
未知谷 刊  1966年ノーベル文学賞受賞

セルマ・ラーゲルレーヴ『キリスト伝説集』

北川典子『いま一度 原民喜』 まさに様々な見解を紹介しながら原文学を掘り下げている。