ヘルムート・ベッティガー『パウル・ツェラーンの場所』遠ざかる道程としての芸術

 

ヘルムート・ベッティガー『パウル・ツェラーンの場所』1999年刊

絵画は運動の芸術だといったら、たいていの人は頭を捻るだろう。そういった認識を持つキュレーターにも出会ったことがない。少なくともクレーはそう述べている(『造形思考』)。色彩と形態と質感がその運動の中でほぼ完全な調和を生み出すと静謐が生まれる。ゴッホやセザンヌの作品などにあるような静けさだ。じゃあ、映画は何の芸術かと言えば、時間の芸術なのである。タルコフスキーはそう言っている (『映像のポエジア』)。

絵画にはイメージが存在する。そこには情念定型や、象徴とその連鎖があり、多様な世界と結び合わせる役割を持つ。形態による思考活動と呼ばれるものに通じるが、言葉に汚染されていないイメージを探すのは困難な問題である。今ある世界とは、別な所にあるイメージを探さなければならないからだ。そういう時、アルス・コンビナトリアも役にたつことはあるが、けっしてオールマイティじゃない。

では、詩は何の芸術ナンダ ?  勿論、言葉の芸術だけど、ちょっと違う種類の言葉の芸術なのである。それを教えてくれたのは、パウル・ツェランだった。彼は、言葉を踏み台にして、いわば疎ましいものから言葉を解放し、別の世界を提示しうる詩人だった。ギリシア人は、昔、人は死ねば影の世界に生きると信じていた。しかし、逆なのではないか。私たちは影の世界にいるのではないか ?  それは、なかば脳の生み出すイリージョンなのかもしれない。だからこそ、まれな芸術は現実の存在を垣間見せてくれる。

 

ドイツ語圏を旅するとパウル・ツェランは別人になる。彼がフランクフルトの花屋に入って行くと店員がこう言うのが聞こえた。まあ、ご覧、またユダヤ人だわ。1952年、バルト海沿岸のニーンドルフの47年グループの会合で、パウル・ツェランが歌うように自分の詩を朗読した時、グループのメンバーはただ、笑っていただけだった。この47年グループはインゲボルグ・バッハマンなどを世に出した戦後ドイツの新進文学グループとして知られる。

本書ではツェラーンという表記だが、ツェランが一般的な呼び方なのでこちらに統一させていただいた。

やがて、ドイツ文学者たちはツェランの詩を一つの神話に仕立てしまう。高いもの、深い言葉が輝き出す神話だ。しかし、ツェランの詩は実際の体験と社会的状況とから切り離すことが出来ない。70年代のドイツ文壇が、日常生活体験のつまらぬ詩作によって覆われていた時代、つまり言語的空転期を経ると、ツェランはより高いもの表現する文学の救い手として捉えられ、同時に、それを政治から切り離すために利用されたという。

神学的、哲学的、言語神秘主義的な解釈がなされ、近年では、それに構造主義的で言語学的な断片的解釈も付け加わるテクスト内在的、言語解釈的な学問が隆盛したことによってツェランの伝記は視野から消え、80年代のポストモダン的、脱構築主義的な滑走遊戯ともいうべき流れの中に浮かんでいった。その研究成果は、まさにドイツ文学研究における総覧といった感があったという。

ツェランの詩が人口に膾炙したのは『死のフーガ』を嚆矢とするが、その詩が世に出た時、ドイツ文学界は苛立ちと興奮に包まれた。現在はウクライナに帰属するツェランの故郷であるチェルノヴィッツ、その作家たちとの関連が取り沙汰された。『死のフーガ』に登場する有名な言葉「黒いミルク」は、既に、ツェランと交友のあったローゼ・アウスレンダーが1925年に使用していたし、モーゼス・ローゼンクランツには『血のフーガ』があり、他の詩人たちも似た表現を使っていたと言う。ツェランもまた、チェルノヴィッツという土壌から生まれた詩人の一人だった。

ツェランの『死のフーガ』は、印刷物やテレビ画面に強制収容所の写真や映像と共に掲載され、いわば、読まれ過ぎ、押しつぶされたとツェランは感じたのかもしれない。そのことが彼の詩を単なる線形的な読みではなく、多義的で意味疎通を困難に感じさせる作品へと傾斜させたとヘルムート・ベッティガーは述べている。

ヘルムート・ベッティガーは1956年生まれのドイツのジャーナリスト、作家フライブルク大学で旧東独の作家フリッツ・ルドルフ・フリースの研究で博士号を取得した。「フランクフルター・ルントシャウ」誌の編集部で文芸欄を担当して、様々な役職を経た後、2002年からフリーの作家となっている。ジャーナリストとしての素地の上に、丁寧な取材をベースとして一つの文学世界を立ち上げる人だと訳者の鈴木美紀さんは書いている

1993年にドイツサッカーのドラマを描いた『ノー・マン、ノー・シュート、ノーゴール』を発表。サッカーには思い入れが深いようだ。続いて1996年に。邦訳された本書『パウル・ツェラーンの場所』を刊行している。2006年にブターニュの風景とツェランに関する『詩と風景の読み方』を連打した。2012年に『47年グループ』でライプツッヒブックフェア―賞受賞すると翌年、2013年に『インゲボルグ・バッハマン』を刊行している。

以前、関口裕昭さんの『パウル・ツェランとユダヤの傷』をご紹介しているけれども、今回はツェランの周囲について少し膨らみを持たせている本書をご紹介したいと思っている。

 

ルーマニアからパリへ


 

ユダヤ人であるツェランの伝記を語る上で、両親の強制収容所での死は決定的出来事である。自身も強制労働収容所に収容されていた。ソ連軍に解放された1年後、ツェランはソ連の軍用トラックでルーマニアの首都ブカレストに着いた。1945年、25歳だった。若さゆえか、そこでは意外に明るさに溢れていたという。ユーモアは、この詩人の知的構造の有機的要素として、彼の苦痛に満ちた詩の時代にあっても失われることはなかったと友人のペートレ・ソロモンは述べている。それは、彼の詩の悲劇的体系を損なうものでは無く、逆に補うものなのだと言うのだ。

現在のチェルノヴィッツの街並 ウクライナ

ブカレストのシュルレアリストたちと交流を持った後、1947年、ハンガリーのブタペストを経由してウィーンに入った。そこは、故郷よりも何もかも一回り大きかったが、かつてこのオーストリア帝国の一部であったチェルノヴィッツと何か間違いようのない雰囲気を醸し出していた。はるか遠くにあっても到達しなければならない場所ウィーン、しかし、かつてドイツに併合されていたこの街はユダヤ人には居づらかった。期待とは裏腹に、そこは到達不可能な所となったのである。シュルレアリストのエドガー・ジュネと親交を深め、やがて詩人として名を成すインゲボルグ・バッハマンと相思相愛となったが、翌年にはパリに立った。ウィーンはドイツに近すぎた。

ツェランはジュネに関する文章を残していて、シュルレアリスムにたいする理解が深まっていたことを示すものとして興味深い。既に自己の側から輝かしさを見、輝かしさの側からも自己が見られると言う主客同一の視線が表現されている。このような文章だ。

「新しいもの、つまりまた純粋でもあるものは、ではどのようにして生成すべきか。さまざまの言語や形姿、さまざまなイメージや身振りが、最も隔たった遠い精神の各領域から、夢のようなヴェールをかぶって、夢のようにヴェールをぬいで、やって来ることが願わしいのだ。そして、それらが疾駆のうちに出会い、異なるものが最も異なるものと結婚させられたために世にも不思議な火花が誕生するなら、ぼくはその新たな輝かしさの内部をのぞきこみ、そのかがやかしさもぼくをふしぎそうにのぞき込むだろう。 (パウル・ツェラン『エドガー・ジュネと夢のまた夢』飯吉光夫 訳)」

 

花開く石


 

1952年、シュトゥットガルトの出版社から詩集『罌粟 (けし) と記憶』が出版された。それは、狂酔的で、夢から生まれたかのようで、シュルレアリスムとの関連が窺え、少しリルケの影響が残っていたかもしれない。

ベッティガーは、むしろ、ドイツ・ロマン派が発見した中世のドイツ語で書かれた情熱に関係しているという。夜、心、石、秋、髪といったキーワードが見られるが、これらの詩にあって、意味関連は少しずらされ、境界はぼかされ、容易に解きほぐせない新しい結合となっていたというのである。

その結合は、属格 (英語の所有格にあたる) による隠喩や「のような」といった直喩も見られるなど、その時代の表現主義文学の大物である老ゴットフリート・ベンによって時代遅れと断定された詩的要素だった。ツェランは当時支配的だった文学世界の周縁にいたのである。それは、言葉のリズムや色彩が暗示的にとどまった新しい種類の意味の網細工だった。しかし、全体は自ら一つの世界を映し取り、侵されまいとして、独自の魔力をはなっていたとベッティガーは強調する。

 

コロナ

ぼくの手から 秋は葉を食べる ― ぼくたちは友達だ。
ぼくたちは 時を胡桃の殻から剥いて取り出し それに往くことを教える ―
時は殻のなかへ還る。

鏡のなかは日曜日、
夢のなかは眠っている、
口は真実を喋る。

僕の目は 恋人の性器へと下りていく ―
ぼくたちは みつめあう、
ぼくたちは暗黒を語り合う、
ぼくたちは 罌粟と記憶のように愛し合う、
ぼくたちは 貝殻の中の葡萄酒のように眠る、
月の血の光のなかの海のように

ぼくたちは 抱き合ったまま窓のなかに立つ、彼らは ぼくたちを通りから見る
さあ 知る時だ!
石がようやく花開こうとする時だ、
ざわめく心が鼓動する時だ。
時になる時だ。

その時だ。

(パウル・ツェラン『コロナ』今井美恵 訳)

 

訳は、今井美恵さんの『パウル・ツェラン新論』から引用させていただいている。この人のツェラン論は、脱構築的な書き方で賑やかだ。

絶えざる変化に晒される直接的な体験としての時間とそれ自体の中に閉ざされる思い出が対照的に描かれる。それらを仲介し書き記す行為は、世間一般に通じる自明性とは無縁の、独自の形式を探し求める。詩を書く行為は知られざる、いわば、暗い領域で行われる。落葉と胡桃の記憶、往還する時。恋人との時、過ぎ去る記憶。

そこで、花開こうとする時とは何か?  石とは何を意味するのか?  ブルトンの言う聴く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもち、聴く者の知りたがっていることを教えてくれるという太古の会話が花開く時だろうか?

ベッティガーは述べる。詩の形式と内容、具象的なものと抽象的なものが浸透しあい、新しい、煌めく関係の場が生み出されると。

バッハマンとの往還――対話としての詩


 

ツェランがウィーンを去った後、バッハマンは二度パリを訪れている。それは「距離を保った恋愛関係 」と言われた。最初は、1950年の10月から12月で、ウィーン大学でハイデッガーに関する哲学の博士号取得直後のことだ。

 

猶予された時

さらに厳しい日々が来る。
取り消しのときまで猶予された時が
地平線に見えてくる。
‥‥ ‥‥
ルピナスの光はほそぼそと燃えている。
おまえのまなざしは霧の中でシュプールをつける。
取り消しのときまで猶予された時が
地平線に見えてくる。

向こうでおまえの恋人が砂に沈む、
砂は彼女のなびいている髪のぶんだけ高くなる、
砂は彼女に黙るよう命じる、
砂は彼女が死ぬ運命にあり
快く別れを受け入れると思う
一つ一つの
抱擁のうちに

振り返るな。
‥‥ ‥‥
ルピナスを消せ!

さらに厳しい日々が来る。

(インゲボルグ・バッハマン『猶予された時』鈴木美紀 訳) 一部省略している。

 

「取り消しのときまで猶予された時」「おまえの恋人が砂に沈む」「砂は彼女が死ぬ運命にあり」「快く別れを受け入れると思う」「振り返るな」「さらに厳しい日々が来る」‥‥これらの詩句によって バッハマンの『猶予された時』はツェランの『コロナ』に反論するとベッティガーは言う。

バッハマンは、その恋が終焉に近いことを予感している。ツェランの『コロナ』では一体となることが可能な不確かな暗黒の中で語り合い、ぼくが君となることのできる虚構の場所が探し求められる。バッハマンでは、恋人は砂の中に沈み、その場所は砂にうずもれている。彼女には、さらに厳しい日々がやって来るのである。

バッハマンの詩には、暖かさと冷たさ、光と闇といった対極的な関係があり、その感性的要素とは別に、男性的で支配的なものを拒否する傾向が同時に存在するとベッティガーは考えている。2008年にバッハマンとツェラン往復書簡が公表され、その邦訳が三年後に出版された。ツェランの妻であるジゼルは、いくつかの例外はあるが、長らくプライヴェートな書簡類の公開を禁止していたからである。バッハマンは、後にマックス・フリッシュと同棲するが、ツェランに匹敵する人物ではなかった。当然のように破局が訪れ、互いのスキャンダラスな小説の応酬は文学界を騒然とさせた。

バッハマンは、そんな小説『マリーナ』に関するインタビューの中で、18歳から25歳の間の決定的な数年間について語っていて、女性である自分にとって、人格の破壊が起きた時期だったと述べている。18歳の時には、オーストリアには、まだファシズムがあったし、近親相姦的な父がいた。バッハマンはツェランとの出会いによって解き放たれと感じ、アドルノが言及した「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮である」という発言に抵抗するために詩を書くようになる。そのような召命を受けたのだとベッティガーは言う。しかし、まるで遅延したホロコーストの魔の手によってツェランは自死した。計画された作品集の中で唯一完成した『マリーナ』には、その作品の中に幾つかの死が浮かび上がってくる。ツェランと同様にバッハマンも重い軛を背負っていた。

 

誰のものでもない第三のドイツ語


 

ツェランは1958年(38歳)にブレーメン文学賞を受賞、1960年にドイツにおける最高の文学賞であるビューヒナー賞を受賞し、詩人としての地位を確立し、名声はいや増していた。その頃、イヴァン・ゴルの未亡人によって夫の詩を剽窃したと言う噂がばらまかれ、ドイツ文壇を騒然とさせる事件となった。無実は証明されたものの、ツェランはドイツ人の友人たちとの繋がりを次々に絶っていった。ツェランは、それまで感じていたユダヤ人ゆえの自分に対する差別と迫害に対する思いを一層強めるようになった。

インゲボルグ・バッハマン(1926-1973)
『三十歳』 初めての小説集

ツェランが第二の母と慕った詩人のネリー・ザックスバッハマンと共に手紙のやり取りが多かったのはスイスにいたフランツ・ヴルムである。彼が13歳の時、両親はプラハからイギリスへ彼を逃れさせるために列車の中に押し込んだ。イギリスへのビザはオランダの国境にあるという知らせが来ていた。その時、両親との永訣を予感したと言う。両親も家族の多くもアウシュビッツで亡くなっている。彼は、ジャーナリストとして、教育学の研究所の運営者として、詩人として人生を歩んできた。

ヴルムは、一般に言われるツェランの「迫害妄想」が過敏な感受性によるものだと感じていた。どんな女性でも夜、人通りのない道を歩く時には、たとえ聞こえなくても誰かに50メートル後ろから跡をつけられていないかと思うものだと言うのである。

こんなことがあった。チューリッヒで、ヴルムの知人のチェコの女性とあるサークルで同席となった。ツェランは、しばらく黙って座っていたが、ドアに向かって歩き出すと、彼女に気を付けろ、危険人物だと言い残して出て行った。2年後、その女性はチェコの国家公安局の情報部員であることが分かったと言う。こういった鋭敏な感覚がツェラン自身にも耐えがたいものになっていったとヴルムは言うのである。

ツェランのドイツ語はチェルヴィッツのもので、ドイツともオーストリアのものとも異なるものだった。ヴルムにもスイス・ドイツ語的な要素とともにオーストリア的な抑揚があったと言われる。ツェランは自分の慰めのために詩を書いた作家ではない。彼は自らを告発者、良心の代弁者と感じていた。だから、彼は標準語の、すなわち第三帝国のドイツ語は使えなかった。それとは異なるドイツ語を探した。そのような中で植物学、地質学、鉱物学などの専門用語は、大きな役割を果たしていったのである。

ツェランの言語は母の言語であり、母を殺した者の言語でもある。この二つの言語を区別し、分かつことに彼は力を注いだが、それについての対話は実に苦しいものであったとヴルムは述べている。ツェランの未刊行の詩に『オオカミマメ』と言うタイトルのものがある。それはルピナスのズデーテン・ドイツ語の呼び名だった。ズデーテンはチェコにおけるドイツとの接境地帯で、ツェランの母は少女時代にその言葉をボヘミアから持ち帰った。最も幸福な青春時代の思い出と共に。

ルネ・シャール(1907-1988) 1941

60年代に入るとツェランは益々気難しくなり、人を寄せ付けなくなる。やがて精神に異常をきたすようになった。ヴルムはツェランのために一度ウェーベルンと彼の詩を比較してこう述べた。「この扇のように広げられ、ずらされる音楽 ―― けれども正しく演奏されれば、まさしくシューベルトのメロディーがその間から聞こえてくるのだ (水野美紀訳)」とツェランは、その言葉に感謝したという。

ツェランは躁鬱的な傾向を強め、1965年(45歳)には錯乱状態になり妻のジゼルをナイフで刺そうとした。精神病院への入退院をくり返すようになる。1967年には、パリのゲーテ研究所でイヴァン・ゴルの未亡人と遭遇し、これをきっかけとして、彼の精神状態は極度に悪化した作家のルネ・シャールが精神病院の隔離治療室から彼を引き取った時、彼は狂ってはいない、しかし、ここではそうなってしまうのだとヴルムに語ったと言う。

 

対立の中の存在と不在、あるいはその対話


 

ドイツ文学者ゲルハルト・バウフマン教授のフライブルク大学における講演『パウル・ツェラン 言語に向けての存在』をベッティガーは聴講している。修辞的な型の中で脈打っている対立するものの結合それが絶えず呼び出され、新たな対立へ突き進むための限りなく多くの長い助走があった。それによって、そこに存在する全てが不在の何かを示す。揺れ動く言葉の音楽、これまで聞いたこともない、語られたこともないものの姿が現われる律動をもたらす語りだったという。

ツェランは、フライブルク大学に来校し、朗読を行っている。そこで、バウフマンやハイデッガーとも出会った。対立するものの結合という修辞的な型」、それはツェランの詩にも当てはまるものだった。「黒いミルク」「雨の松明たち」「僕たちは死んでいて息をすることができる」「それは一つの名前を持つ。それは一つの名前を持っていない。」と言った例は枚挙にいとまがない。それは、教授の言うツェランの「説明しがたいものを伝える能力」と結びついたものなのである。同時に、彼は詩の中である示唆を与えても「すぐにそれらを多義的なものへと送り返した」とも言うのである。それは、ウェーベルンの音楽のようであり、マンデリシュタームがベルグソンから学んだものでもある。

だが、それだけではない。彼が一つのキーワードに込める多重の意味は、世界を爆発させると言っていい。何故アドルノがツェランを秘教的文学の重要な代表者だと言うのか (『美の理論・補遺』)。その在り方は魔術的なのである。彼は苦悩を取り上げ、極限的な恐怖と沈黙を通して語ろうとする。それは寄る辺ない人々、そうした人間のもとにある言葉を模している。全ての有機物の下敷きにされた石や星や死の言葉。それを模倣するのだとも言う。この恐怖から沈黙にいたる軌跡を完結した形象でもって再構築する。それは、いわば生命を剥ぎ取られた言葉であり、どのような意味も奪われた死にたいする究極の慰めだと言うのである。

『パウル・ツェラン詩論集』「エドガー・ジュネと夢のまた夢」収載

「詩は‥‥、途上にあるものです――何かを目指しています。何を目指しているのでしょう。何かひらかれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけ得る「君」、語りかけ得る現実を目指しているのです(パウル・ツェラン『ブレーメン文学賞受賞挨拶』飯吉光夫 訳)」 

語りかけえる「君」との対話

感じ取っている者と「君」との、現れ出るものへ眼差しを向けている者と「君」との、現れ出ているものに問いかけ語りかけている者と「君」との‥‥対話。

この対話の空間の中で、はじめて、語りかけるものが形作られる。語りかけ名指す者の周囲に語りかけるものが集まってくる。名指されることによって、いわば「君」となったものが、この現前の中に自分の別の有り様を持ち込むのだ。子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演

ここで、重要なのは「名指されたもの」から「別の有り様」が現れ出ることなのであり、名指す言葉によって別の場所へ運ばれることなのである。そして、一度限りの「いま」「ここ」において、そ「時」を語らせることだとも言う。それ故、扇のように今・此処を開いた時、「どこから」と「どこへ」をも同時に語らせているのである。しかし、それは何処にもない薔薇であった。

 

ビューヒナー子午線


 

ゲオルク・ビューヒナー(1813-1837)の肖像
アレクシス・マストン 画

詩、それは息の通いを意味した。詩は、往還することによって生まれる。地球を巡る子午線のように。詩も、芸術にとってそうであるような道のりを進む。ツェランは子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演』で、23歳の若さで他界したドイツの革命家、劇作家、自然科学者であったビューヒナーの作品を引用している。

谷沿いの石の上で金髪の髪を結っている乙女とそれを助けているもう一人の乙女の姿。「こんな佇 (たたず) まいを彫刻に変えられるなら、ひとはメドゥーサになってもいいくらいだ(『レンツ』)」とレンツは思う。しかし、やがて、生きているとも死んだとも分からない、引き離された恋人のフリーディケのことを思い煩い狂気に陥っていった。

金髪の乙女たちの仕草のように自然なものを自然なままに把握することが出来るなら人はメドゥーサになってもいいとビューヒナーはレンツに語らせている。ツェランは「人はなってもいい」と言っているのであって「わたしはなってもいい」とは言っていないと強調する。そして、これは人間的なものに対峙している不気味な領域への踏み出しでもあると言うのである。メドゥーサになることの誘惑。

同じくビューヒナー作品『レーオンスとレーナ』では、王子であるレーオンスと他国の王女であるレーナが、お互いに相手が誰とも分からない婚姻を避けるために道化役のヴァレーリオによって身代わりの自動機械に扮して結婚式に登場させられることになる。実は、お互いに身分を知らないながら、式場への途上で二人は魅かれ合うという設定になっている。そこには自動機械の不毛がある。

同じく『ダントンの死の中でカミーユが、世間の連中は芝居小屋や演奏会や展覧会の品目のような味気ない模倣品よりほかに見る眼も聞く耳も持たないのだと言い、関節が五脚の韻でカタカタ鳴るあやつり人形やちっぽけな情念や格言に手足をつけて服を着せ三幕に亘っての悪戦苦闘の上、結婚させるか自殺でもさせれば、これぞ芸術 ! と喚声が上がるような安っぽい模造品芸術を蔑むのだ。カタカタなる操り人形の不気味。

ゲオルク・ビューヒナー全集 1970年刊

芸術は既成の無条件な前提としてあるものではなく、メドゥーサのような気味悪さといったものの内にあるのかもしれない。詩は、この芸術同様に気味の悪い、疎ましいものの場所まで進んで行き自らを解放するのだとツェランは言う。疎ましいものの場所=暗闇。詩を書く行為は知られざる、いわば、暗い領域で行われるのだった。

それは、「詩との出会いのために必要な、どこかしら遠いもの、疎ましいものに由来する ―― おそらく詩自身が投企した ―― 晦渋さなのです(子午線 ゲオルグ・ビューヒナー賞受賞講演』飯吉光夫 訳)」とツェランはいう。疎ましいものの場所は、おのれ自身の周縁にある。

詩との出会いという一瞬にメドゥーサの首は、たじろぎすくみ、あやつり人形はカタカタを止め、婚姻の身代わりの自動機械は停止する。ツェランはふと思う。芸術におけるそれら疎ましいものとそうして解き放たれた「私」と共にもう一つの「別のもの」が自由の身となる。ここで詩は、自己自身となり、自身の上にと還っていく。芸術のない芸術から自由な姿で、これまでとは別の道のりを。しかし、やはり芸術の道のりである道のりを進んでいくとツェランは考えている。一筋に。

 

見知らぬ空の下で
影 薔薇

見知らぬ大地の上で
薔薇と影のあいだで
見知らぬ水のなかで
わたしの影

(インゲボルグ・バッハマン『影の中の影』鈴木美紀 訳)

 

 

 

引用文献 並びに 参考文献

 

今井美恵『パウル・ツェラン新論』

インゲボルグ・バッハマン詩集

高井絹子『インゲボルグ・バッハマンの文学』  バッハマンに対する文芸批評を比較分析するという二次的なアプローチによるバッハマン論。

テオドール・アドルノ『美の理論・補遺』