イアン・マクリ―二―&ライザ・ウルヴァートン『知は如何にして「再発明」されたか』part1 シンクロする制度と知の変遷

 

イアン・F・マクニーリ―&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発見」されたか』2010年刊

古代ギリシアの知が帝国という新たな制度に飲み込まれた時、図書館は帝国の出先機関となり、地中海世界に広くギリシア文化を浸透させる役割を担うことになる。アウグスティヌスのような教父はギリシアやローマの知の伝統を受け入れ、キリスト教文献の解明や分析に使えるように作り替えた。修道院には、どこにも付設の図書館があり、信仰を深めるための読書や沈黙を守るための場となったが、活発に知を生産する所ではなかった。

12世紀になると大学の原型が現れるようになり、法律家や医師の職業訓練を行うような全く新しい機能を担う機関となっていった。しかし、宗教紛争が知的な分裂を生むようになると人文主義者たちは、典雅な手紙というコミュニケーション手段によって知のネットワークを形成し始め、古代の修辞の再発見を催した。この後、18世紀には、専門分野の学者たちが瀕死になった大学を設計し直し、刷新し始める。フィヒテたちは過去の実践とは全く異なった「研究大学」を出発させるべきだと説いた。

19世紀になると知の歴史の中で、二つの流れ、つまり専門分野と実験室とに分かれる。自然科学や社会学は研究大学における専門分野として確固たる地位を確立するが、一方で実験室は新たな知によって技術を開発していくことで社会生活を向上させ、人々の生活を変えていくことに貢献し始めた。インターネットは情報を氾濫させたが、それは知の破片だった。このように、古い制度を超える新たな制度を生みだすことは、知の歴史を刷新する原動力となってきた。では、今後、何が専門分野や実験室を改革し、新たな知の制度を作り出すのか。本書は知の仕組みが、どのように変遷して来たかを六つの制度から確認していこうというなかなか稀少な視点から考察されている。多くのエピソードを紹介しながらも良くまとめられ、スリリングな興味ある著作となっているのがとても嬉しい。

著者のイアン・マクリ―二―と妻であり同僚でもあるライザ・ウォルヴァートンは、二人ともオレゴン大学の歴史学の研究者である。夫のマクリ―二―はドイツ近代史とヨーロッパ文化史を専攻したが、次第に比較文化に興味が移ってきたようだ。大学のプロフィールには、ルネサンス期のアカデミー、幼稚園の哲学的起源、フンボルト型研究大学の起源に関する研究などもしていて、1970年以降のアメリカの高等教育をテーマにした本を執筆中だとある。著書に、19世紀の医師と政治改革者に関する『壮大なスケールの医学』、ナポレオン侵攻後のドイツ南西部の市民と政治の変革に携わった地方書記者・シュライバーに関する『書くことの解放』があるようだ。

ライザ・ウォルヴァートンは、中世東ヨーロッパの歴史と宗教の研究者で、ザクセン戦争時代のチェコや12世紀のコスマス年代記、オルトニアン時代の中央ヨーロッパの研究に携わっている。著書に『プラハのコスマス―― 物語、古典主義、政治』、『プラハへの急ぎ足―― 中世チェコにおける権力と社会』、訳書に『プラハのコスマス・チェコの年代記』がある。

いずれも邦訳は本書のみである。

それでは、本書『知はいかにして「再発見」されたか』を順を追って要約していきたい。

 

図書館 前3世紀~5世紀


 

アレクサンドロス大王が亡くなり、将軍たちが、ディアドゴイ (後継者) にならんとして、そのギリシア化された領土を分割統治しようとしていた頃、エジプトの地を発展させていたプトレマイオス1世は、リュケイオンの指導者をアレクサンドリアに招聘しようとして断られた。彼は、アリストテレスが招かれたミエザの学園でアレクサンダー大王と共に学んだ人だったのである。次に白羽の矢を立てたのはファレロンのデメトリウス (前360頃-前280) だった。アテネを治めていた彼は、髪をブロンドに染め、人妻や青年と色恋に走り、自分は奢侈に走ったが、アテネ市民には贅沢や娯楽を取り締まり顰蹙を買ってテーベに亡命した人物だったという。

デメトリウスは、プトレマイオス1世の宮廷に仕え、アレクサンドリアの図書館と博物館の建設を提案し、監督にあたったことで知られる。ここで、著者たちは、図書館を形作ることは、その単調さに耐え、「図書館いのち」というほどの気構えがいると喝破した上で、何と言っても「書く」ことの確信なくして知の組織化は覚つかなかったと強調する。しかし、ソクラテスやプラトンが文章を書くことより議論を好み、ホメロスの叙事詩を聞くことが、とどのつまり教養を高めることで、それらが表現されるのは演劇が一番と考えられていた当時であってみれば、そういった文化的伝統に育まれた人間がギリシア世界初の図書館建設を決定したのは、まさに意外な展開と思われると言うのである。

ファレロンのデメトリウス 美術史美術館 ウィーン

しかし、デメトリウスは、アリストテレスの直系の弟子で、書くことは話すことと同様に重要であり、分析や統合のためには全てを書下ろし、図書館に収めるべきだと考えた。ギリシアのポリス社会に図書館が登場するのは、古代社会がその輝きを失い、ギリシアと古代オリエントが手を携えたヘレニズム世界が生まれてからで、プトレマイオス1世やそれに続く統治者がギリシアの学問を集積しようとしたのは有能な人材を集めるためであり、それによって富を獲得し覇権を確立しようとする野心があったことは想像に難くない。

前6~前5世紀の政治闘争の中からアテネの民主主義は確立されていったが、ポリスのような小規模な地域での政治では弁舌が武器となる。それに必要とされるのは叙事詩や古代詩の教養、中でもホメロスの解釈と弁論術を教えたソフィストと呼ばれる文章家たちの話術である。言語を極端に使いまわし、既存の詩から論拠を引用し、弁舌を弄して悪名を轟かせたが、彼らは書かれた言葉、つまり、文章に依存した者たちだったのである。ソフィストが文章に依存したことについては、アイスキネス前390‐前315)の演説が書き下ろされて後世に残されたといった記述が、ピロストラトスの古期ソフィスト列伝にある。

ピロストラトス、エウナピオス『哲学者・ソフィスト列伝』

ソクラテスの弟子のプラトンは議論を論理的に追った対話篇の文章を書いて、対話を重視したソクラテスと文章に依存したソフィストとの間の均衡を保った。プラトンと弟子たちはソクラテス以前の原子や数や四大といった究極の要素を探求した形而上学的なスタイルと文献重視の姿勢を融合することになる。こうして、日和見主義的なソフィストの個人の利益を優先する姿勢と公共心を持ったフィロ・ソフィアとは対峙さるべく登場することになるのである。

一方、アリストテレスはアカデメイアの学頭になりそこなうと新たにリュケイオンを作って学問は文字に依るべきだと主張し、教義の異なる学派の相違点と矛盾を総ざらいし始める。そのためプラトンのような思想の生きた火花はないが、包括的で百科事典的な細目を統合する力を持っていた。

図書館は、諸説入り乱れた状況を整理して簡潔にしてくれるわけではない。あらゆる学説の居場所を確保し、新たな知識を飲み込んで、それらを比較し、新参者にも学べる環境を整えた。それはアリストテレスが著作によって小規模に行っていたことを大規模に行える施設であったと著者たちは言うのである。アレクサンドリアの図書館では、パピルスに書かれた著作が集められ、照合、編集された稿本が写され、分析され、内容を組み立てなおし、翻訳され、注釈をつける。写本のミスは徹底して取り除かなければならなかった。改ざんを防ぐためにも厳格な正確さが求められたのである。

中国が統一国家の時代になれば、文化が標準化され、皇帝が特定の学問を保護し始め、組織立てられた図書館が生まれている。秦の焚書坑儒は、李斯 (りし) が画策したが、一方で書き言葉の標準化をもたらしたという。その書き言葉のシステムが、中国文明の統一をもたらしたと考えられている。

左 竹簡『孫氏兵法』乾隆帝御書 右 熹平石経残石 後漢時代の儒学の経典を刻んだ石経の一部。

漢の時代には中国初の大図書館が作られ、秦が破壊した儒学の復興を目指したが、漢の学者たちが直面した困難はアレクサンドリアの学者たちの比ではなかったという。絹や竹簡は壊れやすかった。孔子が易経を繰り返し読み過ぎて紐が3回も切れた故事は韋編三絶 (いへんさんぜつ) と呼ばれて後世に伝えられたが、竹簡は束ねた糸が朽ちればバラバラの断片になった。パピルスの書籍は3メートルほどの巻物だったから、まだ前後の脈絡は想像しやすかったのだ。漢時代の文書の復元は推測と編集者の主観と国家的な都合によるバイアスがかかった。康有為 (1858-1927) や現代の中国の学者の中には、「この復元が古代の文書の典拠に与えたダメージは秦の時代の焚書を凌ぐ」という人もいるらしい。

漢王朝の図書館はアレクサンドリアのそれに匹敵したが、漢はエジプトなどと同じように知をモニュメントの形にして残そうとした。高さ2メートルを超える石板40~50枚に儒教の教えを刻み洛陽の国立の学問所である太学に設置したのである。漢では聖典の知的伝統の永続性が求められ、それが失われることのないように図書館が作られたのに対し、アレクサンドリアでは「既存の知全体を信頼性のある形で再生産して持ち歩ける」ような形に発展したと著者たちは述べている。

 

修道院 2世紀~11世紀


 

聖ヒエロニムスは (347頃-420)、ヘブライ語やギリシア語の聖書をラテン語へと翻訳する決意をするまで、キリストよりキケロを愛しているのではないかと責められる悪夢を見続けたというし、アウグスティヌス (354-430) は、聖書世界に従属的にではあるが、プラトン主義を据えたというので後世の人々に尊敬されたという。アウグスティヌスの死後、ローマは徐々に解体していき、その200年後に生まれたのは、文盲で口承に頼るしかない文化と人が少なく田舎じみた貧困な生活と兵士が幅をきかせ、絶えずいがみ合っていながら誰もがキリストを信じた社会であったと言えば散々なようだが、イスラム世界に比較していえば真実であったかもしれない。だが、そんな中から修道院が生まれたわけではないという。地中海世界でキリスト教が公認されると、迫害されたり殉教を目にしてきた信者は、生ぬるくなった信仰の地を捨ててエジプトやシリアの砂漠に旅立ち始めていた。

左 登搭者シメオン(390頃-459) プリンスオゼルスキー修道院  右 聖シメオン教会跡 シリア

全ての修道士の父と言われる聖アントニウス (251頃-356) は、知の都アレクサンドリアを捨て、学問の伝統から離れて西方のニトリア砂漠に向かった。聖書を諳んじ、戒律を実際に生きたその姿は、アウグスティヌスたち後に続く修道士たちの鑑となる。砂漠の修行者たちが生活の中心に位置づけた言葉や文章に対する態度は、学者のものとは異質な、後の修道院での生活にも通じる「神へとひたすら心を向け祈りにも似た瞑想的な読み取り、いわゆる『聖なる読書』だった (富永星 訳)」というのである。4世紀末には、エジプト北部の砂漠には5千人もの信者が隠遁者として、あるいは、その共同体のメンバーとなっていたといわれる。その中の一人、登搭者シメオンは、シリアの地に18メートルの搭を建て、その上に小屋を作り37年に亘りそこで祈祷し、人々を教え導いた。

ウィウァリウム バンベルク写本 8世紀 この名称は「養魚池」に因んだが、魚はキリストの象徴でもあった。

シメオンが搭の上で生活していた頃、ヨハネ・カシアヌス (360年頃-433) はマルセイユの近郊に二つの修道院を建て、修道生活の理想とそのための方法を著作に残し広めた。

その後、ローマ人のカッシオドルス (485頃-585頃) は、南イタリアにウィウァリウム (ヴィヴァリウムと呼ばれる修道院学校を設立する。東ゴート王国の国王テオドリックに仕えた執政官だった人物だった。その学校は共同修道院とより孤独な生活を行うための隠遁所からなるが、彼は修道士たちに、既にラテン世界にギリシア語を話す人間はいないにもかかわらず、教会の宝である書籍を守って魂を啓蒙するためにギリシア語の写本を残すように命じた。カッシオドルスは修道院が古い知を保存・維持できることを最初に気づいた人だったが、その制度が、知の伝達手段として限界を持つことも明らかになる。生き残ったのは、彼の修道院ではなく、先ほどのカシアヌスの著作をもとにした『綱要』だったからである。

1400年以上に亘り修道院生活の手引きとなったのは、ヌルシアのベネディクトゥス (480頃-547) の戒律だった。ローマ貴族の末裔としてイタリア中部のノルチャに生まれ、ローマに学ぶが、やがて喧騒を離れて郊外のスビアコの地にあるスペコという洞窟で修行するようになる。その周辺に12の修道院を設立したのち、やはりイタリア中部は西寄りの地、モンテカッシーノに修道院を建てた。トマス・アクィナスが幼少から学んだ所だ。彼が設立したベネディクト会「祈りかつ働け」のモットー、それらと共に西方教会の修道院制度を形作ったことで知られる人だった。

サクロ・スぺコ修道院
ベネディクトゥスが修行した洞窟に因む修道院

2~3時間毎に鐘が鳴り、その時間に即して祈り、季節や気候の変化によって日々をどのように過ごすか、いつ何を食べるのか、いつ起きて何を着、いつ眠るのかなど手引書には極め細かく決められていた。とりわけ話す言葉に対する禁忌は注目される。詠唱や音読される文章への傾聴、読書、それも西洋初の黙読が生活の中に織り込まれる。生活サイクルの中で、自然に文字を読むことが重視されるようになるのである。

 

大学 12世紀~15世紀


 

5世紀にローマ帝国が滅亡し、その痛手から7世紀から9世紀かけてドン底だったヨーロッパは、11世紀から12世紀にかけて経済的な発展をみるようになる。交易が盛んになると貨幣経済も進展し、都市が生まれ、官僚制度が整い、人は旅をするようになるのである。商人、巡礼や吟遊詩人、説教師がキリスト教圏内を経巡り、イスラムにとっては理不尽この上ない十字軍の遠征が始まる。社会が流動的になると大学が出来て知の再整理が起こり、学者たちは都市になだれ込むようになると信用状があればキリスト教圏の何処でも教えられるようになった。ドイツの学生はパリで神学を、ポーランドの学生はボローニャで法律を、イングランドの学生はトレドでアラビア経由の科学を学ぼうと足にマメを作った。

著者たちによれば、12~13世紀に出現したパリやボローニャの大学は学生や教師のネットワークのもとに自然発生した集団で意図して作られたものではなかったという。人が集まるには都市に存在しなければならなかったが、驚くべきことに大学の建物は存在しなかったらしい。箱より中身が先だったのだ。universitas (ウニベルシタス) という言葉はギルドと同じように一群の人々を指す言葉で、元々宣誓した個人から成る団体を指す古代ローマ法から来た言葉だったという。

ギルドと同様に、ウニベルシタスは、職業訓練が第一の目的であり、今日のビジネススクールやエンジニアやジャーナリストを養成するための職業訓練校と同様だった。学問の自由とか啓蒙に燃える理想主義や公平無私な研究などといったスローガンは学者が集まった後に出現した予想外の副産物であったというのである。

ピエール・アベラール (1079-1142) は、大学が登場する頃の新たな知的興奮を象徴するような人物だった。エロイーズとの悲恋は有名だが、論理学を武器にけんか腰の討論を煽る学者であり、唯名論学派の創始者となりスコラ学の基礎を築き、神学という言葉を発明した人物として知られる。彼の周囲に集まったのは、定住に頓着なく、生活苦や盗賊の被害にもめげない強者ばかりで、集まっては論争し推論し合った。論理学を通して後の大学で制度化されるような男性的な学問スタイルを作り出したが、このカテドラル学校には女性は入れなかった。子供が出来たエロイーズは、結婚を隠そうとしたアベラールに「生徒と子守女、机とゆりかごを一緒にすることはできない (富永星 訳)」となじったといわれる。彼女は、アベラールによってアルジャントゥイユの修道院に送られ、後に著名な尼僧院長になった。聡明な人だったのである。

フォントネー・シトー会修道院 フランス ブルゴーニュ地方 モンバール
ベルナルドゥスによって設立された現存する修道院建造物。簡素だが美しい。

アベラールは多くの敵を作るが、その中で最も有名な人物がクレアボーのベルナルドゥス (1090-1153) だった。彼が発展させたシトー修道会は、ベネディクトゥスの戒律を順守しようとする、いわば、荒野へ向かった古の修道士たちの精神へ立ち帰ろうとする復古主義だったと言ってよいかもしれない。ベネディクトゥスにとってアベラールは、どうあっても破滅させずにはおれない敵であり、実際サンスの宗教会議での討論でベルナールを打ち負かした。これによりベルナールは異端とされ、クリューニー修道院で匿われる身となる。

ベルナールの先駆者としての受難とも身から出た錆びともいえる事態だったが、かくして、大学が修道院に代わって、宗教的な学問を保存するという役目を担い、神学部の学生がキリスト教の教えを喧伝するという時代が訪れる契機となったのである。しかし、宗教改革の嵐が吹き始めると、知の標準化に益するはずだった神学は、逆にヨーロッパ大陸を分断していったのである。

 

文字の共和国 16世紀~18世紀


 

ヨーロッパがイスラム帝国のように文化的に一枚岩になれないと分かった時、西洋の偉大な思想家を産み出し、育てたのは、この制度だった。そのことは前回の原田安啓『中世イスラムの図書館と西洋』知はブーメランのように帰還するで少し触れておいた。宗教改革や科学革命の時代、大航海時代、絶対王政の時代、啓蒙運動の時代もこの制度の中にあった。ヨーロッパ中を荒れ狂う戦争や疫病や圧政に耐えて生き残り、海外に植民地ができ、布教活動や地球規模の交易が始まるとヨーロッパの外にも広がっていったという。

マルクス・トゥッリウス・キケロ (前106‐前43) グリップトテーク ミュンヘン

手紙から始まり、印刷された書籍や雑誌を媒介することによって国際的な学問の共同体を形成した制度と言える。専制に対抗して共和制を擁護し、アントニウスによって暗殺されたキケロを遠い祖とする。彼は元老院でカエサルに並ぶほどの雄弁をふるったが、田舎の地所で著作に専念し、教養ある友人たちと手紙を交わし、精神的な修養を積み、政治にも関わっていった。

キケロが理想とした文字の共和国 (レスプブリカ・リテラリア) は、14世紀にペトラルカ、ダンテ、ボッチオらが彼の人間性を称揚し、15世紀には、彼の文体がラテン語文の規範とされキケロ主義さえ生まれるに及んで新たな時代に復活を遂げる。それは、一般に人文主義と呼ばれた。この文字の共和国は既存の学問の制度が危機に陥ったり崩壊したからこそ、新たな知を生産する正統な制度となったと著者たちは言う。そして、この文字の国の中には、印刷物を売る店、博物館、学士院といった実際の建物を伴う制度も含まれるようになる。

勿論、手紙は古くから通信手段だったが、文字の共和国では印刷された書籍と支え合う形で発展した経緯があった。人文主義者のはしりとなったペトラルカ (1304-1374) は、故人のキケロやホメロスらに親密なムードの手紙を書き、自分の手紙で撰修を編み、そのまとめとして後世の人に宛てた手紙を書くといった念の入れようだったし、エラスムスも自分の手紙を上手に編集し、著作として発表して、著名知識人となった。当然手紙の修辞は極めて重要になる。それは、ポリスや元老院での演説に使われる修辞ではなく、書き言葉としての修辞だった。丁重さ、上品さ、度量の広さ、博愛や友情を感じさせる言葉は、いわば人間性を表す文字であり、紳士的な会話に代わるものだったのである。修辞については、ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』part1 記号の発生と象徴=交換能力で触れておいた。

グーテンベルグ (1398-1468) によって活版印刷技術が開発されて書籍の数は爆発的に増えた。時空を超えた知の伝達手段としては革命的だったが、知を再編成するための包括的な手段にはならなかったと著者たちは言う。これは意外だったが、典型的な例としてガリレオの場合が挙げられている。

コペルニクスが地動説を説いた『天体の回転』では、序文が何通かの手紙の体裁で書かれていて、この発見を抜け目なく仮説の形で紹介していたし、版元はこれは、仮説にすぎないと強調して教会との摩擦を避けようとした。しかし、ガリレオはこれを事実として発表したために検閲に引っかかり、宗教裁判所によって自宅軟禁される。この検閲は書物にとって最大の脅威となっていたのである。これを救うべく手紙による知のネットワークを活用したのがオリオン大星雲を発見した天文学者・役人であった、二コラ=クロード・ファブリ・ド・ぺーレスク (1580-1637) だった。

二コラ=クロード・ファブリ・ド・ぺーレスク
(1580-1637) 書簡集が残っている。

彼は法王に近い人物たちに次々と書簡を送りガリレオとの仲裁に乗り出したのである。ガリレオはパトロンでもあり友でもあったぺーレスクに「親切と善意の感情が、わが不運をもたらした幸運を、素晴らしいものに思わせてくれています (富永星 訳)」と感謝の手紙を書いている。ガリレオとて自分の発見を守るためには書簡による繋がりを活用するほかないことを知っていたのである。検閲が1500年を境に急拡大して行ったのは、印刷所が正当性より利益優先のための書物を大量生産したからであり、当局が出版元で検閲をかけられるようになったからだという。

印刷技術の発展は知識を広く普及させることを可能にさせ、出版された著作は「学問をどのような流れで捉えればよいのか、新しい発見をどう解釈すればよいのかを既に知っている不特定多数の人々に語りかけた (富永星 訳)。」そういった人々が、新たな知を咀嚼する力を持てるようになったのは、文字の共和国の市民となっていたために他ならず、それは現在とても同じではなかろうか。

16世紀から17世紀にかけて新たな衝動が起こり始める。アレクサンドリアの図書館が手当たり次第に著作を集めたように、珍奇なものなら何でも集める博物館が登場するのである。例え、どんな所であろうともキリストの福音を宣べ伝えようとする海外宣教師たちや帝国主義の版図へ旅立った進取の気性の商人たちが持ち帰るスパイスや工芸品や物珍しい自然の産物がカオスの如く陳列され始める。それは、人々に驚異の念を抱かせたことから「驚異の部屋/ヴンダーカンマー」と呼ばれることもあった。

木版画や銅版画によって本に図版が掲載されることが盛んになると、それらは「印刷されたミュージアム」となる。胚の標本やルーン文字を掲載したデンマークの医師・博物学者であるオーレ・ヴオルム (1588-1654) の『ヴオルムの博物館』やアタナシウス・キルヒャーの『中国図説』が有名なものだが、著者たちによれば、キルヒャーはローマに本拠を置いた世界最大の通信ネットワークと布教活動を行うイエズス会の中央に蜘蛛のように陣取って、ローマ・カレッジ・ミュージアムにヨーロッパでも一、二を争うコレクションを作ったという。言い得て妙だ。

しかし、それらのあっと驚く雑多な文物を前にミュージアム・コレクターには、ありがちな早とちりの推論や牽強付会な結論は世界の有り様に対する新たな解釈を持ち込み、古い権威との衝突を招いた。どうすれば正しい主張とそうでないものを区別できるのか、雑多な事実をどう均せば、秩序ある理論化が可能なのか、これは今日的課題でもあるけれど、フランシス・ベーコンならずともこの不確かな状況に抵抗せざるを得なかったのである。

このような中で自然を観察し、真に科学の発展を考える人々は、フランス、ドイツ、イタリア、イングランドでアカデミーサエティー、コンファレンスと称して定期的に集まり始めた。その成果は今日の学術雑誌にあたる会報や紀要となって国境を超えて行った。手紙に頼る単独の学者には、できない作業だった。新たな科学実験の報告を受けたアカデミーの人たちは検証を通じて客観的な知識を選り出そうとする。つまり、アカデミーとは創造的な考え方を推し進めるのではなく、新たな知にお墨付きを与える機関なのである。

知の共和国に新たに参入したアカデミーは現実の政治の世界にいる独裁者や絶対王政の支配者たちとは距離を置いて新たな知に関する議論を続けることができた。そうでなければ、国際的な知の共和国の市民だと宣言するアカデミーの会員たちは、政治結社をつくって国家転覆を企む者たちとして引っ括られただろうというのである。

東林書院 北宋末から南宋初の儒者・楊時によって江蘇省の太湖の北にある現在の無錫市に創建され、一時廃止されたが、明の万歴年間に顧賢成によって再建された。左 石碑坊 右 精舎

ちょうどこの頃、イエズス会士・マテオリッチは明のアカデミーをつぶさに観察していた。中国版アカデミーは科挙のための予備校といっていいものだったが、地方の人士を時事問題の講義によって目を開かせ、旅費を工面してやり、儒教の教えに基づいて国家の政策に物申す反体制的なネットワークを形成し、科挙を通じて優秀な卒業生を官僚として送り込んでいたという。だが、宦官の魏忠賢と対立するようになり罪をでっちあげられて1626年には一時閉鎖される。しかし、三年後には、その名も複社として復活し、儒教の思想を政治問題に組み込もうとする全国的な圧力団体となり、複社の出版物を科挙の採点のための事実上の基準とさせ、官僚の人事を牛耳ったという。17世紀の半ばにはヨーロッパの学者集団に匹敵する規模と力を持った学識者の集団が知的基準の管理を自分たちに渡せと政府に要求していたというのである。

中国においてもヨーロッパでも血統や家柄だけでなく学識や振舞いによって人物を評価し、政治や社会での活動を促してきたし、これらの人々は、古代の叡智や人徳を持つ人々を手本にしてきた。どちらの世界にも、そのような文化的土壌を醸成するようなアカデミーが存在したが、政治権力との関係は、全く異なった。中国の識者は儒教の古典に忠実であり続けることで政治的影響力を担保し、ヨーロッパでは自然科学において前例のない発展を遂げたが、学者たちは政治を捨て、架空の文字の共和国を形成したからこそ、かつてない暴力と混乱の中で繁栄し続けることができたというのである。その努力は、ひとえに人格を鍛錬することではなく「客観的」真理を見出し、新たな知を産み出すことに注がれるようになる。

今、前回ご紹介したイブン=ハルドゥーンの歴史序説』もよそ見しているのだけれど、この稀代の歴史学者は、「まえがき」にこう述べているので要約してご紹介する。凡庸な歴史家は、情況の変化が人間関係に、あるいは、人間の習慣に如何なる影響を及ぼすのかを顧みないし、世代の交代の重要性を見逃していると。この世代という言葉を知の制度に置き換えるとまさに本書はイブン=ハルドゥーンが彼の著作で重視している柱の一つに合致していることが分かるのである。

さて次回part2は専門分野と実験室について語られる。お楽しみに。

 

 

参考図書 及び 引用文献

 

マーシャル・マクルーハン(1911-1980)
『グーテンベルクの銀河系』

イブン=ハルドゥーン『歴史序説』1