イアン・マクリ―二―&ライザ・ウルヴァートン『知は如何にして「再発明」されたか』part2 アリストテレスとインターネット

 

アリストテレス リシッポス作の失われたブロンズ彫刻(1~2世紀)の模刻 古代ローマ

アリストテレスが、著書の中で行おうとした教義の異なる学派の相違点と矛盾の総ざらいは、アレクサンドリアの図書館が多様な書物を収蔵・保存し、それらの比較研究に資するようにというコンセプトのもとに立ち上げられ、引き継がれた。アベラールによってスコラ学の基礎が築かれるとアリストテレスにゾッコンになったトマス・アクィナスによって壮大なスンマのカタログである神学大全が生まれ、網羅主義のスコラ学が中世を席巻する。キケロを遠い祖とする文字の共和国、すなわち人文主義が生まれ、活版印刷が開発されると書物の増産は時空を超えて文字の世界を拡大させた。やがて、新世界の発見は、博物館や驚異の部屋の出現を催し、印刷媒体としての博物誌が生まれれば、百科事典までは、ほんの少しの距離だった。

この知の生きた図書館を目指す総合主義が分断する時期が訪れる。それはイギリスやフランスでもなく、開発途上のドイツだった。講堂での講義の他、セミナー室での濃密な授業は専門分野を産み出し、世界初の専門分野を頂点にした包括的な教育システムが作り出されるとドイツ式の研究大学制度は、今や世界中に広がった。そして、大学の卒業生を雇って学校が出来、次世代への文化のバトンは宗教組織を越えて世俗の世界へも受け渡されるようになる。

こうして、本物の知の大衆市場が成立し、アダム・スミスの予言通り、学問分野は専門化されて行ったが、孤立した象牙の塔の住人となりがちな集団は、自分たちの研究分野が世間で、どう位置付けられるかにはお構いなく、新しい研究を作り出すことを自己目的化していった。

 

専門分野/ディシプリン 18世紀から19世紀


 

百科事典

ドゥニ・ディドロ(1713-1784)
ジャン・ゴーテラン作 19世紀 パリ

西洋では啓蒙運動が進み、文字の共和国による知の共同体から生まれた知を整理して流布する作業に取り掛かり始める。ラテン語ではなく各国の言葉で百科全書が作られ始めた。フランスのものでは、リベラル・アーツ (文法学・修辞学・論理学の三学と算術・幾何学・天文学・音楽) の分野全てと自然科学から工芸といった7万を超える項目の記事に2900近い銅版画が添えられている。地球に散らばったあらゆる知を集めんと編集者の一人ドゥニ・ディドロは意気込んだ。

新聞、雑誌、暦、旅行記といった啓蒙に向けた新たな出版物も盛んに出版されるようになった。しかし、直接顔を突き合わせるエリート集団には張り合えない。立派な百科事典を揃えれば世間に乗り出せるという分けでもなかったからである。長期の学習や努力の末に優秀な成績を収めた者だけが研究を許されるのは現在でも変わらない。

当時、知の若返りを目指す人間が目を向けようとしなかった場所が大学だった。オックスフォードやケンブリッジが国政に参加させるための若者の作法に磨きをかけるだけで、ソルボンヌは国王の寄付で設立されたアカデミーより劣ったし、多数の国家からなる神聖ローマ帝国のドイツでは、職業訓練施設同士が張り合う中で、貴族の子弟は私立の教養学校に吸い上げられ、イェナ大学は、自由主義とナショナリズムによる国民運動の中心となったが、酒を飲んでは暴れ、果ては決闘に及ぶような乱暴な学生が多く、大学の施設を壊し、退屈な講義をする教師に暴力をふるうということもあったという。

こんな大学の教育事情の中で、ドイツが世界を近代的な学問の時代に導いたのは知の歴史上最も驚くべきことだと著者たちは言う。その契機は、1694年プロイセンのハレに、1737年にハノーファー王国のゲッティンゲンに大学のセミナーが開設されたことによってである。

 

ハレとゲッティンゲン

現在のハレ大学 大講堂  正式名称はマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク。

ドイツ連邦の中で発展に意気込むプロシアは、ハレに拠点大学を設立し、それとは別に教師セミナー (セミナリウム・プラエセプトルム) が作られた。それは、セミナーというより一種の神学校で、貧乏な神学生に読み書きを教え、社会で活躍できるようにと考えられたが、ハレ大学の神学教授となるアウグスト・ヘルマン・フランケ(1663-1727)が作った大規模な敬虔主義による伝導施設と結びつき、経済的な支えともなって、大いに発展した。彼は、慈善学校をも開設し、大学の卒業生を雇って読み・書き・算術・信仰の四つを柱にした教育を行った。そこでのシステムは、生徒名簿の作成、出席の義務化、質問時の挙手、教室机の整列といった今日の教育法の基本となるようなものだった。

敬虔主義の牧師たちは、息の詰まるようなルター派の正当信仰からは距離を置き、聖典が感情に及ぼす影響の方を重視していたが、こういった宗教的な権威筋とは相いれない世俗の啓蒙派の合理主義者も存在した。そこに、ヨハン・ダーヴィット・ミヒャエリスが現れて、敬虔主義と文字の共和国とを繋いだ。彼は、ハレ大学でヘブライ語を研究し、そこで私講師をしながらオランダやイギリスで学び、ゲッティンゲン大学に移って、二つの制度を融合する。ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル (1687-1752) が編み出した現代の学問にも不可欠となった手法を用いて聖書を文献学的に探究し始めたのである。

ベンゲルが開発したのは、例えば、ホメロスの同じ間違いを持つ写本をグループ分けして、どのグループがどのグループから写されたのかを突き止める手法だった。こうして二つの文章の内どちらが古く、正当なのかを確認する際の反直観的な法則を導き出した。「読みづらい方が正しい」を標榜したのである。改ざんされるなら文体を簡単にして流れをよくする方向だという分けである。ミヒャエリスは、この手法を用いてゲッティンゲン大学のポストについた。

ゲッティンゲンはハノーファー王国が、ヨーロッパ中の貴族の子弟とその金を集めようとハレの大学に対抗して造り出した国際的な大学で、表現や出版の自由を看板にしたが、学問のための巨大企業体と呼ぶべきもので、教授たちに自分で教科書を書かせ、新聞に講義目録を掲載し、講義名に「応用数学」、「民事訴訟法」といった近代的な響きを持たせ、「非理神論的神学」という講義が堂々と登場した。また、「百科全書」と呼ばれた予備的な講義では、学生たちを啓発するために様々な分野が組み合わされ、ゲッティンゲン大学の講義は生きた百科全書となったというのである。

ヒャエリスは、1750年にゲッティンゲンの哲学の正教授となるが、興味の対象は矛盾の多い四つの福音書より旧約聖書だった。ハレ大学の教授たちでさえ聖書は神の永遠の言葉を一字一句引き写したものでなく、啓示する相手の当時の知的歴史的な限界に合わせて言葉を選んだと考えていた。古代のヘブライ語から近代ヨーロッパ言語に至る様々な文書を比較・検討すれば、記録に残る聖書の言語や文化の表現の特性から、神のメッセージの核となる、救済の起こる時間や場所に関する手がかりが得られるだろうと考えた。その手掛かりを得るために、聖地への国際的な探検隊がデンマーク王の支援を得て南アラビアのイエメンへと送りこまれる契機ともなった。彼は従来の修道院から発展した宗教学の読みと文字の共和国の読みとを見事につないだのである。

 

最初の専門分野 文献学

ゲッティンゲン大学における専門分野の歴史上最も大きな貢献と言われる文献学セミナー (セミナリウム・フィロロジクム) は、大学が出来て間もない1738年に既に作られていた。そのテーマは、聖書ではなく、当時まだ伝統的なカリキュラムの一つだったギリシアローマの古典だった。知と人格を陶冶する学校教師の養成を目的としていた。だが、このセミナーは、神学部ではなく教養部に属している。そこでは、それまでの型にはまった紳士を作り上げるのではなく、古代の異教徒のように思考するという行為を通して得られる内面の啓発を目標にした。これは、新しい感覚だったと言える。

ゲッティンゲン大学紋章 ハノーファー選帝侯 ゲオルグ・アウグストによって設立された。

特筆すべきは、現在の大学におけるようなセミナーの形式が既に出来上がっていたことである。単語の意味や文章の修辞なら講義で伝えて暗記させることはできるが、自然言語を習得させるような仕方で教授するには、一つのテーブルを囲んで話し合い、意見を述べ合って参加者が全員平等に扱われる形が最良だった。この円卓討論では、学生たちが順繰りに「その日の指導者」となり、新しく独創的な研究成果を発表しようとした。発表のレジメは前もって書かれなければならなかったから、そういった文書は対面型セミナーという新たな学問手法の基本通貨となったというのである。

この新たなシステムは貴族の子弟たちに囲まれた上昇志向の庶民出の学生にとって、妥協を強いられることなく教師となって人にものを教えられ、報酬に基づいて学問を広めることができ、世に出るための登竜門となったし、一方で、怠惰な学生は追放という措置もとられた。それによって、学問探求における専門分野のディシプリン (鍛錬・修養) と研究活動における規律のディシプリン (自己管理) が、このセミナリウム・フィロロジクムではじめて一つになった。

比較文献学という手法を取り入れ、古代文書を精査して再構成するような「下層批評」に留まらず、文書の作られた背景や事情を体系的に調べる「上層批評」を行ったミヒャエリスが、このセミナーに関わったのは1762年から63年の一年間のみで有名な二人の古典学者の間を繋ぐ役だったしかし、彼の研究態度は、このギリシアローマの古典を研究するセミナーに大きな影響を与えた。

ゲッティンゲン大学において、まだ学生だったフリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ は、教養部の学生としてではなく、文献学の学生として登録されたいと言い張って、大学のお偉方の不興を買った。1776年のことである。彼はミヒャエリスの手法を用いて独学に励み、徹底的に文献にこだわった。文書の間違いや矛盾、あるいは時代錯誤にフォーカスすればオリジナルの写本より貴重な何かが得られると考えた。

この年は、奇しくもアダム・スミスが『国富論』を発表した年であり、知識の生産も一種の産業であり、哲学でも他の仕事でも細分化して行えば効率的に行え、質も向上するとした。専門分野は、発想をも売買する市場の流通を促進するための人為的な産物と考えられるようになっていく。

ヴォルフは、地方で教師をしながらギリシア古典の研究を発表し、1783年にハレ大学に招聘された。その著書ホメロスへの序文』で、『イリアス』や『オデュッセイア』は、何百年にもわたる写本が融合したもので我々が復活できるのはアレクサンドリアの図書館での混成版が関の山だとした。彼は1793年に、教育改革者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトとの『イリアス』に関する往復書簡で本来単数だった単語が複数に間違えられたために脇役だったメリオネスが従者を引き連れて敵と戦うことになったりしていることを論じた。この人物が単独で行動するのは他の箇所で格語尾を探偵のように調べるなどして、はじめてホメロスの話し言葉の世界が明らかになると考えた。

言語学者たちは、教育プログラムを改善していく中で、印刷物を頼りに研鑽に励み、文字の共和国に独自の貢献を行えるようになる。聖職者の日常的な読みという習慣は、近代的で世俗的な研究分野での読みへと発展していった。こうして、百科全書派の広範囲だが、所詮は浅くならざるを得ない自学自習の世界は、深い読みによって克服され、文献を精査し比較検討の上、綜合するという学問のスタイルが一般に定着されていく道を開いたのである。

 

インドのパンデットと国家の復興


 

インドは歴史的にパンディットがサンスクリットの知を保存・活用してきた。パンディットとは、学者または教師のことで、特にサンスクリット語とヒンドゥー法、宗教、音楽、または哲学に精通している人を意味し、本来は、ヴェーダの大部分をその発音と歌のリズムと共に記憶しているヒンドゥー教徒を意味するとされる。

多くのパンディットが、自分の学派を率いていて、それは、ほぼセミナーに相当した。政治家への助言、一族の歴史の編纂、祝いの儀式への援助、カーストを巡る規則や制約の研究と言ったことに関わっていた。自発的な寄付だけを得て、個々の事柄に対する対価を受け取らなかったという。

しかし、イギリスの統治を受けるようになると、西洋流に対価を得ようとするパンディットが現れ始める。宣教師たちによって印刷所が開設され、『ラーマーヤナ』や『バカヴァッド・ギーター』が印刷されると、進取の気性に富むパンディットたちは詩や祈祷書を出版し始め、ベンガルの読者に特化した改革派の雑誌を刊行する者も出始めた。英国の文化が役に立つと思うような者が増え始め、法律やセックスや料理といった専門分野を専らにし、特定の顧客だけでなく広く文字を読める人々を対象にして倫理的で政治的な改革運動へと向かう者が現れるようになる。そのような人々が、ガンジーのようにインドのナショナリズムの基盤を形成していったのである

ここには、ドイツにおけるナショナリズムが文献学のセミナーを作り出したのと同じ力学が働いていたが、ヨーロッパは新たな分裂へ向かっていった。何故ならインドで扱われたのは生きた言語であり、それによって世俗の具体的な問題に関わろうとしたのに対して、ギリシア・ローマの古典語は死んだ言葉であり、学者たちは広い世界から切り離され、頭の中のものをさらに難解な形で専門化していったからである。19世紀初頭には、教授たちに純粋な教育者としてのサービスを求める声は消え、大規模教育がそれに代わっていった。

 

フンボルトの教育制度


 

ゲッティンゲン大学で法律と古典を学んだ後ヴォルフと親交を持ったヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、有能な外交官であり、ゲーテやシラーとも熱心に交友した人だったが、ナポレオンにイェナで屈辱的敗退を喫したプロシアは彼を文化・公教育局長に任命して教育改革に着手した。

19世紀だけで3万の小学校が開校、あるいは刷新され、全国一律の義務教育が布かれる。要となったのは、ギムナジウムと呼ばれるエリート高校で、初等教育と高等教育を橋渡しできたことだった。カトリックとプロテスタントに分裂していたドイツにとって包括的な古典学、近代言語、数学や宗教、初等の科学といったカリキュラムは、その亀裂を塞ぐのには有効だった。

ギムナジウムで小規模の文献学のセミナーが設けられ、そのカリキュラムをマスターすれば、ベルリン大学に入学できる条件となったフンボルトによって、新たな文献学が、ゲーテやシラーらの新人文主義の船に乗ってプロシアの新たなエリートの許へと運ばれていった。新人文主義とドイツの大学制度は、もう一つの発展途上国アメリカを魅了し、19世紀にはドイツで学んだアメリカ人は一万人近かったという。

その頃、哲学は大学において網羅的な領域であり、その中で専門の研究が出来た。かつての教養部だったものが哲学部となり、ドクター・オブ・フィロソフィーという学位が高度の専門家である信用状となったのである。物理の教授もロシア文学の教授も哲学博士だった。ゲッティンゲンの文献学者だったグリム兄弟は、ドイツ民話の中にホメロス作品に匹敵するほどの民族固有な特性を見出して民俗学を始めたのである。ギムナジウムで養成された精読を活用して文献学、歴史、哲学、法学、神学、数学が研究された。しかし、セミナーが新たな研究分野を必ず確立できたという分けでもなかったし、初期の自然学セミナーは消滅することもあり、独創性のある研究者ではなく、善き教師を輩出するにとどまることもあった。自然科学の世界では、やがてセミナーだけではなく、実験室 (ラボ) が必要とされる時代が来るのである。

 

進展する科学

ピーター・ブリューゲル『錬金術師』16世紀

実験科学は、最初の家内工業的なシステムから始まり、熟練の技と実験器具を駆使して、自然物を操作し成果を上げる様子は、ハイテク機器に囲まれる錬金術工房さながらだった。閉ざされた扉の後ろに引き籠ってはいても、再現可能な結果が得られ、科学者たちの共同体からの合意が得られれば、その学説は広く受け入れられて大衆からも拍手喝采された。そこには、賢者の石の神秘はないが、黄金に代わる名誉と報酬が得られた。そういう意味でも、これまでの学問とは全く異なる新しい形態だった。女性にも比較的扉が開かれていたことは、キュリー夫人の例でも分る。以下、ざっくりとご紹介する。

他に俎上に上がるのは、自然科学と人文科学を調和させた地理学の祖であるヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟アレクサンダーで、自然誌研究に大きな影響を与えた。世界中の観測所に温度や気圧の計測器などを置いて、その情報を植生や気候、高度などと勘案して地図に記入していった。彼は、そのために、ほぼ70年に亘って5万通の手紙を送り、10万通を受け取るという国際的な通信ネットワーク通じて計測してくれるボランティアからそれらの情報を得たのである。

パリの銃器庫に実験室を作り燃素と呼ばれた酸素を発見したラヴォワジエは、化学の命名法を炭酸塩とか硝酸塩といった明晰なものに改革しようとしたが、不可解な式や複雑な装置は、一般の人々に訴えるものではなく、大衆の啓蒙という野望は諦めるしかなかった。

科学肥料や科学染料を開発して有機化学を発展させたリービッヒは、大企業と提携することによってブイヨン・キューブ (マギー・ブイヨンなどの名で知られる) や粉ミルクを商品化することによって化学は有用で国家の経済を発展させるということを証明してみせた。

炭疽菌のワクチンを作ったパスツールは、人々に高価な滅菌装置を買わせ、政府にある種の病気に対する法律を作らせ、衛生環境を変えさせるといった政治・経済的な側面とも関係していくことによって、実験室での方法論を広い世界へと拡張させていったことになる。

しかし、文書に沈潜していく人々と物としての対象に向き合って人々の間には、大きな亀裂が生じ始めた。

 

社会科学の誕生

科学の成功は、技能者の作業場と学部のセミナーでの活動との相乗効果故だったが、やがて、実験室で培われた手法を人々が暮している場に適用しようとする学問が生まれる。それが社会科学だった。工業化された都市に周囲から人々が流れ込むようになると社会的な軋轢が生じ始めていた。経済学、社会学、人類学でマックス・ウェーバー、アダム・スミス、エミール・デュルケームらは文献学的手法を使って追随する者たちに数々のテキストを提供していたが、新たな人文主義者たちは、白衣の化学者を真似て知能テストを実施し、効率的なシステムを作り出し、広く社会を変革しようと乗り出したのである。

アルフレッド・ビネー (1857-1911) フェテシズムという言葉を心理学に導入したことでも知られる。

フランスの心理学者アルフレッド・ビネーの知能検査は、人間を科学的、定量的に研究する強力な技法となりアメリカに渡ってひろく使われるようになった。知能指数という言葉も生まれたが、その検査をアメリカで推し進めたのは実験科学者の衣を脱ぎ捨てた、公の政策に関わろうとする商人と化した御用心理学者だった。

資本主義化した社会に登場した大工場や大規模官僚機構は、社会科学者たちが研究するのに絶好のフィールドとなる。科学マネージメントのグル (導師) と言われたアメリカのフレデリック・ウィンズロー・テイラー (1856-1915) は、人よりシステムが第一だとうそぶいた。彼は、ストップウォッチを片手に工場のあらゆる作業を細かく分けて、一つの作業に時間無駄が最小限になるようなやり方を労働者に押し付けた。

テイラー流のシステムに心理学的なヒューマンファクターを加えたのは、フランクとリリアンのギルブレス夫妻で、工場労働での肉体の動作と精神的な働きを16項目に分け、それらを記録するために写真とストロボライトと立体鏡を使って奥行きのある画像を撮った。予想外だったのは、撮影されることによって労働者の積極的な協力が得られ、新たなベストプラクティスを開発するための意見を提示できるようになったことである。著者たちは、観察された物/人間は振舞いを変えるというハイゼンベルグの不確定性定理の社会版が発見されたと述べている。

これによってアメリカの社会科学の手法が変わることになる。オーストラリア出身のエルンスト・メイヨー (1880-1949) は、労働者の感情が不適応を起す原因をつきとめようと広範なカウンセリングを行ったのである。作業能率をわざと落とすソルジャリングは、労働者たちが管理側の出しゃばりと戦うための調整と言うことができ、作業現場の文化から生み出されるものであることが分かった。

アメリカでも一つの変化が生まれる。慈善活動を梃にフィールドワークによる調査・研究活動を公的な改革に繋げようとするものだった。20世紀初頭のアメリカには400を超す隣保館があって、有名なものにソーシャルワークの先駆者と言われるジェーン・アダムスのハルハウスがあった。キリスト教的博愛主義と徳義の義務の意識に支えられた点でフランケがハレに開設した財団とよく似ていた。工場労働者の住居子供のための教育施設、文化施設があり、同時に児童労働や搾取工場などの問題に関する著作が社会学雑誌に投稿され、著作も刊行された。政治的に対立する者たちの意見を交換する場も提供する。地域的で直接参加型で、時には党派的な議論の中にあっても社会科学は人が互いに教え合うものだったと著者たちは言うのである

別の形態の資金援助としては、ロックフェラーやカーネギーといった財界の大物たちが、慈善団体に対する寄付よりも、社会にとって有意義で実りのありそうな集団を探すべく主導権をとったものが挙げられるが、三つの特徴があった。どれほどの成果が上げられるのかの基準を明確にしたうえで補助金を出し、あるいは契約を行ったこと、個人的な研究よりも学際的なチームによるものを選んだこと、純粋な科学的研究よりも実際に結果を出すことを求めたことである。

これらの財団は、南部からシカゴに流入した黒人たちに対する人種間の社会学研究をするにあたり、いかなる異人種間にも応用できるモデルを作り上げたシカゴ大学の研究チームに援助したり、サハラ以南のアフリカや南太平洋でのフィールドワークといった広範囲な学問に資金援助していったのである。こうして公的な科学世界は、その手法を手に実験室からはみ出して、人々が出会う空間全てを研究対象にしていくのだった。付け加えると、この社会学研究も最近では行き詰まりを見せていて、ガブリエル・タルドの社会法則が見直されたりしている。

爆発するシステム科学

原子を崩壊させて原爆を作るマンハッタン計画から30年間の冷戦時代は、ビック・サイエンスの時代と呼ばれる。それを支えたのは、純粋な知性への信仰を捨てたシンクタンクと呼ばれた研究者たちだった。その原型と言われるRAND研究所は、実験的な世界周遊宇宙船を計画し、核戦争のシュミレーションを行い、アラブ社会の階層性を研究したかと思えばソビエト経済省のひな型を作るといった知能指数の高さを誇る集団だった。RANDのシステム分析があってこそ、マクナマラと国防省はベトナム戦争時の費用便益分析や死傷者比率計算を手に入れることができたし、ニューヨーク市は都市再生計画を立てることができたという。

1945年8月14日「WAR ENDS」ノックスビル・ジャーナル紙

イギリスのオペレーション・リサーチから発したシステム分析、システム・エンジニアリング、プロジェクト・マネージメントといった社会工学のツールは、人よりシステムだと豪語したテイラーの科学的マネージメントに由来していた冷戦下では、客観的に鍛え上げられた知性が、先見的なパトロンにお墨付きをもらえばアポロ計画と言った科学的課題や軍事、あるいは社会問題も同様に解決できると信じられていた。

しかし、免疫学、情報技術、月面着陸、人ゲノムの解析といった果てしない開拓とその輝かしい成果は、ハルマゲドンのジレンマと抱き合わせになっている。ソ連崩壊後の一時期、核の脅威は減少したものの、昨今のウクライナ戦争でロシアが核の使用をチラつかせているのをみれば、人間の愚かさにも果てしが無いことが確認される。これに加えて地球温暖化問題が浮上しているのだ。ともあれ、それらのシステム分析によって成功したものもあれば失敗したものもあるが、このビック・サイエンスを構成した制度そのものは20世紀の初頭に開発されたものであり、物理の実験室と社会的な実験とが融合して成立したものだった。著者たちは、基本的な制度は、ほとんど革新されてないというのである。

 

情報時代にあって


 

西洋の歴史において、6度に亘って知は根本から再発明されたと著者たちは言うが、実験室の制度だけが残っているという分けではない。古い制度は、どれも滅んだ分けではなく、新たな使命を与えられ新しい制度に組み込まれるか、置き去りにされるかになる。いまや知の社会の中央に君臨するのは、実験室で生まれ、商業主義の中で民主化されたコンピューターシステムである。それはアメリカの科学政策を牛耳っていたヴァネヴァー・ブッシュ (1890-1974) が記憶の拡張 (メメックス) と名付けたものだった。戦時中、ブッシュから射撃制御装置の開発を命じられたMITの数学者ノーバート・ウィーナーは、戦後、通信理論に関心を寄せ、古代ギリシアの操舵者を意味するサイバネティックスという人間と機械とが交流するためのシステムを定式しようとした。続けて、ジョゼフ・カール・ロブネット・リックライダー(1915-1990)が、今日のインターネットのコンセプトを作り上げる。

インターネットが登場した頃のパイオニアたちには、宗教的な争いの中で、中世のスコラから解き放たれた近代初期の文字の共和国の人たちとひどく似たところがあったという。企業組織化の切り札のようなコンピューターは長髪族の手によって人間同士を繋ぐネットワークと個人の表現を可能にするツールに作り替えられた。『全地球カタログ』の編集で知られるスチュアート・ブランドは、サーバーの脆弱性をチェックするハッカー・カンファレンスを主宰し、一万年図書館を提案している。コンピューターネットワークを社会に浸透させていったのは彼のような現代の情報ユートピア的感覚を持つ人たちだった。

民主化され、商業化されたインターネットは、指一本で自由に情報が収集でき、発信も出来る。それはブッシュやリックライダーが思い描いたものをはるかに超えた。しかし、著者たちは、情報=知識ではないと強調する。Wikiやブログなどの新たな電子コミュニティーによって、従来から信用されてきた文化の番人たちが不要とされる状況になれば、オンラインで信用できる正当な知識を得ることはますます困難になる。確かに本質的で理に適ったエリート主義のデータベースに代わるネットワークフォーラムは稀だ。専門分野における思想、芸術、音楽といった文化に関する解釈には、もはや価値が置かれていないともいう。

 

アリストテレスの総合主義とプラトンの梯子


 

イアン・F・マクニーリ―&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発見」されたか』

古い制度を超える新たな制度を生みだす力学は、実験室の制度を改変、あるいは、そこからの再発明を催すことになるかもしれないし、オンライン・コミュニティーから全く別の知の制度が生まれる可能性もある。それが、どのようなものになるかは分からい。実験室の覇権が、もたらした輝かしい成果とは裏はらに、問題は、ますます混迷の度を深めようとしている。自然に対する科学的な操作と人間の価値を保証するための基準は、衝突し始めた。遺伝暗号が解読されれば、人間の定義が揺らぎ始め、経済学にコンピーターが導入されると、人間に固有とされてきた選択合理性といった属性が再定義される。人文科学の最も古い哲学でさえ、抽象的な数学と化そうとしているというのだ。

本書はアリストテレスの総合主義から発した知の伝統が細分化され、自然への操作へと変化する流れの中で制度としての知がどのように変遷したかを検証している。このアリストテレスの系譜とも言うべき総合的で網羅的な思想の核心部は「ある程度全体を見回せて、はじめて新たな洞察が起きる」と述べたバックミンスター・フラーの言葉に集約できるのではないだろうか。20世紀のレオナルド・ダヴィンチと言われた人だ。

しかし、もう一つの知の柱には触れられていない。それは、プラトンの階梯であり、世界の連続性を探求したライムンドゥス・ルルススピノザライプニッツの結合術の系譜である。近年では、ビジュアルの世界でバーバラ・スタフォードが熱弁をふるっていたようだ。その思想の核は、バラバラな知の破片をどのように繋げるかということだった。充満する宇宙としての不完全さや連続性の跳躍が指摘されたにしても、知とは単に情報ではなく、それらを繋ぎ合わせてひとつの結晶にならなければ役に立たないのは事実である。そこには、西洋の知のもう半分がある。

 

参考図書

 

アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』 プラトンの梯子を巡る名著

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

ヴィルヘルム・フォン・フンベルト『人間形成と言語』 言語のエネルゲイアと自己陶冶について。1989年刊