フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流』戦争犯罪における国家と個人

 

フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流』
「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源

話は、法廷弁護士である著者がウクライナのリヴィウで講演を依頼されたことに端を発する。当時、国際刑事裁判所 (ICC) の創設に関わっていて、チリの元大統領ピノチェットに関するジェノサイドと人道に対する罪の案件にも携わっていた。彼の机の上には、ユーゴスラヴィアやルワンダの案件が届けられ、続いて、コンゴ、リビア、アフガニスタン、イラン、シリアといった国からの申し立てが次々届けられるようになる。それは、6百万のユダヤ人を殺害するにいたったナチスの「最終的解決」に対するニュルンベルク裁判の判決が風化していった証拠でもあった。この2010年は、ロシアによるクリミア併合が行われる4年前にあたる。

このノンフィクション作品『ニュルンベルク合流』は、戦争犯罪と人道に対する罪、そして集団殲滅に関する国際法を確立するために戦った二人の法律家が登場する。その一人ラウターパクトは、ウクライナの北西部ジョウクヴァ (ポーランド語名ジュウキエフ) に生まれた、その家は奇しくも著者の曾祖母マルケの実家と同じ東西通りにあった。もう一人の法律家レムキンの両親は、ポーランドのヴァウカヴィスクからトレブリンカ収容所に移送され亡くなったが、そこは祖母マルケがウィーンから移送されて同じく亡くなった場所だったのである。

著者は、国際紛争を法律的に考えるにあたってニュルンベルク裁判を検証していた経緯があり、それに大きく関わった法律家が先ほど述べた二人だった。彼らが法律を学んだ町がウクライナのリヴィウであり、ラウターパクトの両親とその家族が殺害された収容所もそこにあった。同時に、著者の祖父の故郷でもあり、そこで講演を行うことになったのである。それは、驚くべき偶然だった

 

著者のフィリップ・ジョセフ・サンズは1960年、ロンドンに生まれ。ヨーロッパにまたがる法廷弁護士の組織マトリックス・チェンバースのメンバーの一人である。国際法の専門家として、国際司法裁判所、国際海洋法裁判所、欧州司法裁判所、欧州人権裁判所、国際刑事裁判所など多くの国際法廷や裁判所に顧問や弁護人として出廷している。今回のウクライナでの戦争に関する訴訟にも関わっているかもしれない。

また、国際投資紛争解決センター(ICSID)およびスポーツ仲裁裁判所(CAS)の仲裁人でもある。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの国際法廷・裁判センター教授を務めると同時にセンター長として活躍しているという。忙しそうな人だ。 

国際法に関する17冊の著書の内にはアメリカの国際法を無視したイラク戦争計画を扱った無法の世界』があって、やっぱりという感を強くした。他にブッシュが拷問の使用を許可する経緯を書いた『拷問チーム』もある。ノンフィクション作品である本書『ニュルンベルク合流 (原題 East West Street ) ジェノサイドと人道の罪に対する起源』 は、2016年ベイリー・ギフォード賞ノンフィクション部門をはじめ、数々の賞を受賞した。最新作は、ナチスの政治家で弁護士でもあったオットー・ベヒターを扱った『ラットライン ナチスの逃亡者の軌跡、その愛、嘘、正義(2020年)がある。2018年より英国ペンクラブの会長を務めているが、今のところ邦訳は本書のみである。

今回は、ウクライナ西部を中心としたガリツィアとその周辺を舞台に、ニュルンベルク裁判と深い関りを持つ二人の法律家と著者の家族を絡ませた作品をご紹介する。ガリツィアは僕の好きな詩人ゲオルク・トラークルや作家ブルーノ・シュルツに関係する土地だし、その南にはパウル・ツェランの生まれ故郷ブコーヴィナがあった。

 

祖父レオン


著者フィリップ・サンズの母方の祖父レオン・ブホルツは、1904年、オーストリア・ハンガリー帝国領であった現ウクライナのリヴィウのユダヤ人の家庭に生まれた。ポーランド語ではルヴフ、ドイツ語でレンベルクと呼ばれる。第一次大戦が始まると、ロシア赤軍の侵攻が始まったが、ドイツ・オーストリア軍が巻き返すという地域で、東部戦線と呼ばれた地域にあたる。幼いレオンは戦禍を避け、一番上の姉を頼ってウィーンに逃れた。大戦後もそのままウィーンに留まり、蒸留酒製造業者として成功する。彼とその家族は、第一次大戦前夜、現在のウクライナ西部とポーランドの南端を含む地域であるガリツィアからウィーンへ移住した数万家族の一つだった。

ガリツィアとウクライナの地図

ゲオルク・トラークルが、「もうこれ以上生きていけない」と叫び、野戦病院がわりの納屋から飛び出した後を戦友たちが追いかけて彼から拳銃を取りあげたのは、そのガリツィアにある町ゴロドク (ドイツ語名グローデク) だった。

1917年のロシア革命の間隙をぬってウクライナはコサック国家としてロシアからの独立を宣言する。人種が判然としない武装農民コサックだが、ウクライナや南ロシアにいた軍事共同体を指していて、独立派と親ロシア派があるらしい。昨今の火種は、既にここにあるんだろう。だが、ドイツが連合国へ降伏したため、1919年から1920年にかけて、ウクライナ人民共和国軍、革命蜂起軍、帝政派の白軍と赤軍に分かれたロシアによって曲折浮沈の混乱した戦いとなるが、それに加えて白軍を支持するフランス、イギリス、ポーランドが拍車をかけた。結局はロシア赤軍が勝利し、1920年冬にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国が成立した

一方、ガリツィアは第一次大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国からポーランドとウクライナに分離し、1918年にリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国を樹立した。しかし、ウクライナ派と都市部に多いポーランド派が対立し、ユダヤ人虐殺もあってユダヤ人たちは自発的な市民軍を組織して三つ巴の戦いとなる。1919年から始まるポーランドとロシア赤軍との戦いでポーランドが勝利し、ガリツィアは1923年までポーランド領となっている

祖父レオン・ブホルツ (1904-1997) 本書より

レオンはウィーンで成長し、蒸留酒製造業者として成功し、妻、つまり筆者の祖母と結婚したのも束の間、ドイツがオーストリアを併合する。ウィーンの警視庁から彼に追放命令が出され、パリに逃れた。幼児の娘 (著者の母) は、エルシー・ティルニーというユダヤ人の福祉に全力を傾けていた福音派のイギリス人宣教活動家によって、レオンに半年遅れでパリに連れてこられたが、彼女は驚くべき勇敢な人だったようだ。妻のリタは2年後にパリに遅れて到着している。その間の事情はよく分からない。あらゆる手が尽くされたが、レオンの母親マルケはパスポートを取得することができなかったためにウィーンからチェコ北部のテレージェンシュタット、さらにワルシャワを越えてトレブリンカ近郊の収容所に輸送用列車で送られ、亡くなっている。列車で一緒だった1985人の中には、フロイトの高齢の妹三人も含まれていたという。パリの占領に終止符が打たれた時、家族がどのような運命をたどったかレオンは知らなかった。彼は、孫の著者に戦時中のことは一切話さなかったという。

ちなみに、ガリツィアに接するウクライナ南東部には、ブコーヴィナ地方があるけれど、その中心都市チェルノウツィー (ドイツ語名チェルノヴィッツ ) は、詩人パウル・ツェラン (1920-1970) の生地で、やはり彼の両親もドイツ軍の絶滅収容所で亡くなっている。

 

ハーシュ・ラウターパクト


 

リヴィウとユダヤ人

二人の法律家の一人、ラウターパクトは、1897年にリヴィウ近郊のジョウクヴァ (ポーランド語名ジュウキエフ) で生まれた。父親は油を販売し製材所を経営する人物で、中流階級に属する教養あるユダヤ人だった。音楽に満ちた暖かい家庭でイディシュ語が話された。ラウターパクトは、1915年から1919年という動乱の時期にリヴィウ (ドイツ語名レンベルク) 大学で法学を学ぶことになる。ちなみに、画家で小説家のブルーノ・シュルツ (1892-1942) が学んだのはリヴィウの理工科大学の方だった。1918年にはユダヤ人が虐殺される事件が起こり、ラウターパクトはガリツィア・シオニスト学会のリーダーとなっている。

ユダヤ人の意見は割れた。かつてのオーストリア・ハンガリー帝国内に独立国家を望む者もあり、独立したポーランド内で自治権を持つべきだと考える人たちもいたし、正統派ユダヤ教徒はポーランド人やウクライナ人との平和な共存を望んだ。このような状況で、法律の問題が政治的な議論の中でクローズアップされていった。それにマイノリティーを保護するための国際法をどうするかという問題があった。国家内の国民の生殺与奪は、その国に握られている。リヴィウに住み、大学でも教えていたマルティン・ブーバーはシオニズムはナショナリズムの一形態で、パレスチナでのユダヤ国家樹立はアラブ系住民の迫害に繋がるとしてラウターパクトに影響を与えていた。

ウィーンと新憲法草案

ハーシュ・ラウターパクト(1897-1960)本書より

大学は、東部ガリツィアの出身のユダヤ人を排除したため、ラウターパクトは卒業試験が受けられなくなり、ウィーンへと向かった。彼が降り立った町は赤いウィーンと呼ばれ、社会民主主義の市長がいて、ガリツィアからの難民で溢れ、インフレと貧困が蔓延していた。戦争に敗れ、領土の大部分を失った屈辱は、ガリツィアからやって来てオストユーデン、すなわち東方ユダヤ人に向けられる。1921年には、ブルク劇場の総監督ホラート・ミレンコヴィッチがユダヤ人の就職を制限せよと反ユダヤ主義同盟の集会を主催し、4万人が参加している。

ラウターパクトはウィーン大学法学部に入学し、フロイトの友人だったハンス・ケルゼンに学んだ。ケルゼンが作成に貢献したオーストリアの革新的な憲法は、その後ヨーロッパ各国がモデルとしたもので、憲法解釈と適用の権限を持つ憲法裁判所を設置するとともに、問題があると思われる法律の合憲性を個人が同裁判所に直接問えるようにするものだった。個人の不可侵の権利は憲法によって規定されていて、その権利ゆえに裁判所への出訴権を持っているという。オーストリアでは個人が法秩序の核心にあったというのである。それにフロイトの個と集団との関係を問う心理学にも関心を持ち、多数の中の個という問題にも興味を持ち始めた。

リヴィウでの生活と法学部での経験によって、彼は国家権力の制御は可能だと考えるようになった。その実現には、文筆家や平和主義者の願望は役に立たず、正義を貫くための国際法の進歩が不可欠であり、気取らず、孤立せず外部の声に耳を貸すべきだとした。まあ、ここは著者も法律家なので、そういうことにしておきしょう。国際法に国内法の基本原則を応用するという彼の博士論文は今日でも重要基本文献となっているという。

音楽学生だったレイチェルと結婚し、王立音楽院で学びたがっていた新婦と共にイギリスに渡った。彼の方は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス (LSE)でアーノルド・マクネアに判例と実務を学ぶが、彼はラウターパクトの生涯の友人となる。LSEで、講師や准教授として教鞭を執る一方で国際法判例集』を出版して序文に「個人の福利こそがすべての法の究極の目的である」と書いた。しかし、自分の自説を曲げず、主張が通らないと相手に尊大になってしまい、周囲と事を構えてしまう彼は一旦弁護士に転身するが、1938年にはケンブリッジ大学国際法学部の教授に就任するのである。

 

ラファエル・レムキン


 

ポーランドとベルラーシの地図

ラファエル・レムキンは、1900年、白ルーシと呼ばれたベルラーシの西の端オゼリスコでユダヤ人の家庭に生まれた。ポーランド人とロシア人との抗争にユダヤ人が板挟みになっていた土地で父親は小作農として生活していた。そこは、ポーランドとの接境地帯で、南にはウクライナも近い。多くの家畜や大型犬や見事な白馬が走り回り、ライムギやクローバーを刈る鎌の音が聞こえる土地だった。10歳の時に勉学のために近くのヴァウカヴィスク (ヴォウコヴィスク) 市にある農場に引っ越している。

1915年にドイツ軍がやって来ると農場を荒らし、1918年の撤退時には母親の蔵書以外は破壊して出て行ったという。語学に驚異的な才能があったレムキンはビャウィストクのギムナジウムに進学するが戦争が終わると、そこはポーランド領になっていた。彼が18歳の時、1915年に起きたアルメニアの大量虐殺事件を知る。120万人のアルメニア人がキリスト教徒だという理由でオスマン帝国によって虐殺された。アメリカのオスマン帝国駐在員は史上最悪の犯罪と呼び、ロシア人はキリスト教と文明に対する罪、フランス人は人道と文明に対する犯罪と呼んだ。

ラファエル・レムキン(1900-1959)本書より

ラウターパクトより少し遅れて1921年から1926年までリヴィウ大学法学部で学び、同じくユリウシュ・マカレヴィッツ教授に刑法を学んでいる。二人の法学者は奇しくも、ほぼ同じ時期に同じ大学で学んでいたことになる。アルメニアの大量虐殺に端を発した事件が大学のクラスで話題になった。アルメニアの青年が両親を虐殺されたことに対する怨念からオスマン帝国の大臣タラート・パシャを殺害したのである。証人となったプロテスタントの牧師はアルメニア人の大量虐殺はトルコ人に責任があると証言して青年は無罪になった。詳しくは、ノーマン・M・ナイマーク『民族浄化のヨーロッパ史』を参照してください。そのことも驚きだったが、罪もないアルメニア人を殺して誰も罰せられないことに驚いたのである。

レムキンは、ある教授との会話を回想している。彼は「一人の男を殺したアルメニアの青年の行為は犯罪として問われても、百万人を殺した男は無罪なんですか」と教授に食い下がった。国家主権の名のもとに百万人を殺したトルコ人を逮捕できる法律は無かった。そうした国際法は、まだ整備されていなかったのである。

大学を卒業後、レムキンは、地方の検察官などを経てワルシャワで控訴裁判所の事務官や検察官としてのキャリアを積んだ。この頃、ポーランドの最高裁判所判事で、ポーランド自由大学を創設したエミール・スタニスワフ・ラバポートの知遇を得ている。レムキンは、マドリッドでの国際会議のために「残虐行為=種族集団の絶滅を防ぐためと「破壊行為=文明や伝統に対する攻撃」を禁じる新たな国際的ルールを作成するための小冊子を書く。これは、元々、ルーマニアの学者ヴェスペイジャン・V・ペラの考えで、重大犯罪の場合、世界各国の法廷がその加害者を裁判に付すことができるべきだとするものだった。しかし、彼のマドリッドへの出席に対して司法大臣から異議が出た。残虐行為を禁じよという彼自身がユダヤ人であり、彼がポーランド代表の一人になるのは、この国の体面に関わると、ある新聞が叩いたからだった。こういった事柄には、常に国家の都合と政治が絡んでいる。

このことがあったからか、レムキンは商法関連の弁護士に転身し、ワルシャワの大通りに事務所を構えて繁盛したようだ。テロリズムが横行する中、虐殺行為といった問題に対する法律改革に耳を澄ませていたレムキンは年に一冊、そういった関係の本を出版することを目標にした。アメリカのデューク大学の教授マルコム・マクダーモットは彼の著作を翻訳するためにワルシャワを訪れ、デューク大学の教員のポストを提案したが、母親の反対もあって断っている。

 

ドイツ侵攻と国際法


 

1920年におけるポーランド領   ベージュ色の部分

1939年、150万のドイツ陸軍は親衛隊とゲシュタポと共にポーランドに侵攻し、独ソ不可侵条約の秘密条項によってポーランドは二分され、独立は失われる。レムキンはワルシャワを逃れたが、東からのソ連軍にも迫られた。故郷のヴァウカヴィスクを目指して列車に乗るため、戒厳令の布かれた夜は逮捕を避けて駅のトイレで眠る。

故郷に戻ったレムキンは、両親と共にアメリカに渡りたかったが、高齢の両親は、決心がつかず、レムキンだけが父親の兄弟イザドラの住むアメリカに向かうことになった。彼はヴィリニュスからスウェーデンに出るためのビザを得るためにあちこち陳情書を出した。その中で以前に打診のあったアメリカのデューク大学教授マクダーモットから教授ポストの提供とビザ発給の知らせが届いたのである。

1940年の早春にストックホルムに着いた。大西洋航路は不通になり、ソ連経由の鉄道も間もなく短縮されるという噂が広がっていた。彼はモスクワから大陸を横断して日本に渡り、太平洋を横断してアメリカに渡る決心をする。ストックホルム滞在中、例の「残虐行為と「破壊行為」を禁じる新たな国際的ルールを作成するための小冊子が国際連盟の公式出版社であるパリのペドヌ書店から発行された。彼は、ヨーロッパの多くの地域に支店を持つスウェーデンの企業に依頼してナチスの出した公文書を集めて貰うことにした。それらが、ある明示されない隠された目的を持つことを明らかにしようとした。一つ一つの文書を足し合わせるよりも一塊として見て、初めて露呈するものがあるというのである。このカオス理論のような発想からドイツの犯した犯罪「議論の予知を残さない証拠」を確定しようとした。

賀川豊彦(1888-1960)

そこには一定のパターンがある。第一段階は、国籍の剥奪。第二は法律上の権利の剥奪、第三は特定の国民の精神と文化の破壊となる。レムキンは、一連のナチスからの命令がユダヤ人の完全な破壊に向けられていることを見破るのだった。彼は、ウラジオストックから敦賀行きの船に乗り、京都を訪れ、横浜からシアトルへの船に乗った。その船にはキリスト教社会運動家として知られる賀川豊彦がアメリカで反戦講演するために乗船していた。賀川は、その前年、日本の中国人虐待に対する謝罪を罪に問われ逮捕されている。二人は、憂いに満ちて世界の情勢を語り合ったという。

1941年、4月レムキンは、ノースカロ州ダラムに到着し、マクダーモット教授の出迎えを受けた。デューク大学のキャンパスに立った時レムキンは泣きくずれたという、故郷のヴァウカヴィスクを発って1年半が過ぎていた。1941年12月、日本の真珠湾攻撃の後、アメリカは日本に宣戦布告し、続いてドイツはアメリカに宣戦布告した。その頃、レムキンは、ワシントンの戦時局法律顧問となっていた。

 

1941年6月、ヒトラーは、独ソ不可侵条約を勝手に破棄してソ連占領下のポーランドに侵攻し、ジョウクヴァとリヴィウにもドイツ軍が進駐した。いわゆるバルバロッサ作戦である。ラウターパクトの妹の一人娘インカは、当時の様子をこう語っている。私立小学校に通っていた頃は、差別という言葉を知らなかったが、ソ連軍が到着してすべてが変わる。それまでのアパートに残ることはできたが、部屋や台所を他の人とシェアするように強要された。母親は、めちゃくちゃ魅力的な人だったからロシア人から山ほどの招待状を貰ったという。しかし、ドイツが来て、最悪の状態になる。ユダヤ人はゲットーへ立ち退きを命じられた。

1942年は、ガリツィアへのポーランド総督府編入の1周年記念として、その総督で、ヒトラーの顧問弁護士であったハンス・フランクがリヴィウを訪れた年だった。この夏、インカの母はドイツ軍に連行され、その後を追った父親も同様の運命となる。このゲットーでの大量検挙の後、ラウターパクトの両親と共に市内のヤノフスカ収容所に送られる。永遠の分かれを直感した。12歳の彼女は、孤児となり、乳母同然だった家庭教師の家に身を寄せたが、彼女の家族のようには見えなかった。その女性の田舎の家族のもとにも行ったが同じ理由でそこを去った。一般にアパートは11時ころには、正面玄関に鍵がかかるため、知人のいないアパートに忍び込み屋根裏部屋の脇の階段で眠った。そういったことが2ヶ月続いたが、結局修道院(どの修道院か定かでない)に行くことを勧められた。しかし、そこにいるためには洗礼を受けざるを得なかったのである。彼女は、命の引き換えに自分の出自を捨てたことへの仮借と70年間折り合いをつけなければならなかったと語る。

ヨーロッパからはドイツによる大量投獄、大量追放、大量処刑、大量虐殺の報告が届きはじめていた。ドイツの戦争犯罪についての調査が始まる。連合国戦争犯罪委員会が立ち上げられた。ラウターパクトが保護したいとする対象は、個人であったが、ユダヤ人がドイツによる犯罪の最大の犠牲者ならば集団としての対応も必要だった。この頃、集団への抹殺行為を指すジェノサイドという言葉が登場する。ラファエル・レムキンがアメリカで出版した著作で発表された概念だった。1944年に出版された『ヨーロッパ占領下における枢軸国の支配』という著作では、第一部の最終である第9章で「残虐行為」と「破壊行為」という言葉を捨ててギリシア語の genos (人種)とラテン語の cide (殺人)を組み合わせてジェノサイドという言葉を作り、それをその章の見出しに使った。

この考えには、レムキンの友人で、アメリカに亡命したオーストリア人レオポルド・コールがレムキン宛に批判的な手紙を寄せている。「スモール・イズ・ビューティフル」の発案者として知られる人だ。彼は自己の主張のために偏った事実を選択的に引用していること、とりわけ責任の所在は個人に求めるべきで集団に求めるべきではないとしている。ある集団を保護施策と国際法から「第一に恩恵を与える集団」にすることは反ユダヤ主義や反ドイツ崇拝主義を招く「生物主義的な考え方」と同等だというのだ。つまり、差別も逆差別も同じコインの裏・表なのである。

 

ニュルンベルク裁判


 

ヤルタ会談 1945年2月 旧ソ連クリミア自治区  前列左からチャーチル首相、ルーズベルト大統領、スターリン書記長

1945年5月、チャーチル、ルーズベルト、スターリンがクリミア半島のヤルタでヨーロッパの分割を話し合った。リヴィウはウクライナに属しはするが、ソ連の支配下となった。懸案だった戦争犯罪の国際法廷が開かれることに決まったが、その方針をめぐってソ連とフランスとは容易ならざる意見の相違があった。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四ヶ国は、裁判の権限が及ぶのは個人であって国ではないこと、被告人が国の権威の陰に隠れることはできないことで妥協する。裁判官は四ヶ国がそれぞれ正判事1名と副判事1名の計8名の判事と検事を1名ずつ出すことに決まった。ルーズベルトの死後、大統領となったトルーマンはドイツの主要戦犯を裁く法廷の検事にラウターパクトと懇意だったロバート・ジャクソンを指名している。

ソ連は、国際法廷の運営方針として、侵略、侵略時に文民に加えた残虐行為、戦時法違反を挙げ、アメリカはそれに加えて、違法な戦争行為、ナチス親衛隊やゲシュタポ・メンバーの犯罪性を提案している。ラウターパクトはジャクソンに各項目に一般の人に分かりやすい見出しをつけ、「侵略」という言葉を「戦争という犯罪」に置き換え、意見の割れていた「侵略時に文民に加えた残虐行為」を「人道に対する罪」としては、どうかとアドヴァイスした。これは1915年のトルコによるアルメニア人虐殺事件に対して英米が出した非難声明で使われた言葉だった。これによって、人道に対する罪は国際法の一部になるのである。

それにもう一つ新しい言葉が起訴状に付け加えられる。ジェノサイドである。レムキンはジャクソンに自分の著作を読むように勧めていたし、実務的でないという理由で煙たがられながらもロンドンでのニュルンベルク裁判における起訴状を検討する会議を巡って頑張り続けたのである。しかし、この言葉は、北米における先住民やアフリカ系住民、そして、イギリスなどの植民地住民への犯罪行為に対する追求へと発展する問題であり、おまけに戦争前の準備段階における行為に対しても罪の対象になるものであった。

ニュールンベルク裁判  1945-1946
左下から二列目にある被告席 右から5番目が書類を見つめるハンス・フランク

ニュルンベルク裁判が始まった。東京での極東国際軍事裁判のひな型になった裁判だった。被告人たちは全員無罪を主張し、アメリカの検察官ロバート・ジャクソンが冒頭陳述を開始する。彼は、外国人やユダヤ人に対する「平然と行った無数の人間の大量殺戮」と「人道に対する罪」を具体的に語る。それは、1941年と45年にニューヨークでラウターパクトと語り合ったことであり、レムキンが国際法の不在と「法の支配」の必要性を訴えた著書の影響でもあった。ポーランド総督であったハンス・フランクは、1940年に「一年くらいでは、すべてのシラミとユダヤ人を駆逐することはできない」と書き、1944年末になってもユダヤ人は「抹殺されなければならない人種だ」と彼の詳細な日記に書き残しているのである。

ジャクソンの要旨は、こうだった。この裁判は、法の規律を国家指導者に当てはめる取り組みであること、その成果は、新たな国際連合が平和と法の支配への道程を示したように法の不在状態を絶てるかどうかを問うものであること、本当の原告は連合国ではなく、文明そのものであることだった。そして、イギリスの詩人ラドヤード・キプリングの詩古い問題』を引用して「国際法は平和の側に立ってその力を発揮し、善良な男女はあらゆる国において法の保護下、だれの許可も仰ぐことなしに生きることが許される」と述べたのである。

 

ジェノサイドの行へ


 

ラウターパクトは英国検察官の最終論告の原稿を依頼され、国家のために行為した者は何らかの形で刑事責任から免れるといった、もはや通用しない時代遅れの考え方にすがることはできないと被告たちに向けて書いた。しかし、英国検察官のショークロスは最終論告で、そこには無い言葉も繰り返した。ナチスの広範な目的としてのジェノサイド、ジプシー (ロマ) やポーランド知識人やユダヤ人を標的にしたジェノサイド、ユーゴスラヴィア、アルザス=ロレーヌ、オランダ、そしてノルウェーでも、他のグループを標的にしたジェノサイドと。ただ、ショークロスは戦争に関連した事柄だけに限って用いたのである。それから、ラウターパクトの説を前面に押し出す。国家が人道に対する罪を犯した場合、それを助けた個人は責任から逃れることはできない、国家を盾に身を隠すことは許されず「個人は国家に超越する」と。だが、このニュールンベルク裁判でジェノサイドの罪で有罪を宣告された被告はいなかった

国際刑事裁判所 オランダ ハーグ

しかし、レムキンのひたむきな努力によって1948年には国連総会でジェノサイド条約が採択される。日本は批准していない。やがて、1998年、150以上の国の採択によって国際刑事裁判所 (ICC) の規定が採択され2002年に発効された。旧ユーゴスラヴィアとルワンダでの残虐行為がトリガーとなった。規定の発効後に起きたジェノサイドと人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪に関して個人を裁く権限を持つ国際裁判所が創設されたのである。著者は、その規定主旨に「国際的な犯罪についての責任を有する者に対して刑事裁判権を行使することが全ての国家の義務である」という簡単な一文を挿入したという。これによって国際法の下で国家はそうした義務を負うことになったのである。ただし、ジェノサイドと人道に対する罪などでの国家犯罪を含めて国家間の紛争を裁くのは国際司法裁判所となっている。

1998年、ルワンダの国際刑事裁判所 (国連の安全保障理事会により現地に設立) は、ジャン=ポール・アカイェスをジェノサイドの罪で初めて有罪とした。1999年には、セルビア大統領ミロシェビィッチが、コソボでの犯罪容疑を理由に人道に対する罪で起訴され、後にジェノサイドの罪も加わった。2000年には、ジョン・モリガンが1942年ウクライナの補助警察のメンバーであった際にユダヤ人の大量検挙に加担したとして人道に対する罪を問われ、アメリカの地方裁判所が彼のアメリカ国籍を剥奪しているさらに2009年には、国際司法裁判所が、セルビアをスレブリニツァで集団殺害を阻止せず、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する保護義務に違反したとしてジェノサイド条約違反国家として糾弾した。

ロシアは、ウクライナ東部でジェノサイドを行うウクライナはネオ・ナチ化しているという主張をしてきたが、ゼレンスキー大統領はユダヤ系で祖父はホロコーストの犠牲になっている人だから、彼をナチというのは異様だ。これは、ウクライナ人のステパーン・バンデーラ (1909-1959) が、第二次大戦でポーランドからウクライナを解放するためにドイツを支持し、1941年にリヴィウでウクライナ国家再生宣言をしたが、逆に用済みとされてドイツに逮捕され、ベルリン近郊の強制収容所に送られることになる。戦後に解放され、ドイツで反ソ連運動したことから、そういった民族主義運動を行うバンデーラ主義者をプーチンはネオ・ナチとしたらしい。

『ハイブリッド戦争の著書で知られる慶応大学の廣瀬陽子教授は、かつての旧ソ連勢力圏であった旧ユーゴでNATOが空爆したことの名目にミロシェヴィッチはナチだというプロバガンダを行ったことに対する報復ではないかと考えられるという (日本記者クラブ講演2022年3月)。

今回のウクライナでの戦争で、ロシア人の戦争犯罪や人道に対する罪が国際刑事裁判所で問われている。日本は加盟しているが、ウクライナもロシアも加盟国でないために国際刑事裁判所の管轄外になる。しかし、事件の起きた国が国際刑事裁判所の管轄権を受託するか、国連の安保理がICCに付託すれば捜査が行われることになる。前者がウクライナの今回のスタンスである。ロシアは、勿論一切協力しないだろうが、時効はない。実は、アメリカも中国もICCの加盟国となっていないのだ。法の世界にも国家の利害や都合が絡んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

ノーマン・M・ナイマーク
『民族浄化のヨーロッパ史』  ロシアがソ連時代にチェチェン人、イングーシ人に続いて、1944年にクリミア・タタール人を中央アジアへ強制移住させることによって民族浄化したことが指摘されている。18万9千人のタタール人の内、強制移送と移住先で45%の人口が失われ、その多くは女性と子供と言われる。

レオポルド・コール『居酒屋の経済学』 肥大化する先進諸国への成長・巨大化の臨界規模を指摘する警鐘の書。1980年刊

中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム』
ウクライナ東部と西部の歴史的な差異、ソ連/ロシアとの親和か独立か、極めて複雑なウクライナのナショナリズムを紐解いている著作。

廣瀬陽子『ハイブリッド戦争』 ウクライナ危機で注目された非線形戦、通常の戦闘だけでなく政治技術者の投入、情報戦、プロパンガンダなどを含めた広範で新たな戦争形態を解説する。